女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

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三話 発色する性

 森の中の湯ノ小屋を出て緑の蒸れるような小路を歩いていると、緩やかな傾斜の坂上にあたる白い館のほうから浴衣姿の二人の女がやってくる。
 その一人は三十代の前半あたりで、やや背が低く、もう一人はいくつか歳上かと思われたのだが、そちらは少し背が高かった。どちらもスリムなシルエット。浴衣の色柄も沙菜のそれより落ち着いていて宿の心遣いがうかがえた。
 若く見えた女のほうは栗毛に染めた長い髪を無造作にひねってまとめ、歳上の女のほうは幾分短めだったがかなり派手なアッシュカラーで、こちらも無造作にまとめてピンで上げる、くだけたスタイル。二人ともに化粧は濃いめで整った顔立ち。並んで歩く姿の印象として生活感がないというのか、沙菜のほうに先入観があったからビアン同士の逢瀬と思えてしまう。
 坂の下から歩み寄る若い沙菜と二人の眸が合い、どちらもちょっと会釈。けれど声をかけ合うこともなくすれ違い、そのときはただそれだけの接点だった。
 片方はごく普通。もしかしたら人妻でバイセクシャル?
 片方はちょっと派手。ツインベルにも慣れていそう。自由に生きていられる、ビアンそのもの。
 しかし沙菜は勝手な想像をやめてしまった。それも身辺に起こる現象のひとつに過ぎず、想像は性行為を連想させていやらしく思えたからだ。

 部屋に戻るまでに出会えたのはその二人だけ。建物の裏手にあたる温泉の側の出入り口からフロントまでには距離があり、誰にも会いたくない気もしたから意識しないよう歩いてきて、そのまま部屋へと逃げ込んだ感じ。窓から見渡す鬱蒼とした緑とせせらぎの水音だけの世界のほうが心地よかった。
 沙菜は浴衣を着たまま窓際に置かれた白いテーブルセットのスチールチェアに一度は腰を降ろしたものの、立ち上がって窓を閉め、エアコンを操作した。温泉で火照った体を冷やすほど森の冷気は鋭くない。
 マイノリティの性は常人より楽しむためのものと語ったレミの言葉が思い出された。LGBTのシンボルが色鮮やかなレインボーフラッグであることは知っていたし、世界的にも認められる性であることも理解していた。同性同士の結婚に対して嫌悪感を覚えたこともない。女装する男性、SやMについてだって嫌悪した覚えもない。しかし沙菜は割り切れない。性のスタイルがどうであろうと自分の性別を確定できていなければ楽しめないし意味がないと考えてしまうから。
 どうして私はこうなのか・・窓を閉めた静かな部屋でぼんやり森を見つめていた。

 夕食。六時になって部屋を出て、食堂に様変わりしたロビーへ出る。三連休の初日だったが夏は過ぎた。子供連れがいない。若すぎない恋人同士もしくは夫婦、女ばかりの三人連れ。男性は四人だけで、そのほかすべてが女性客。
 ロビーに立って見渡すと、先ほどのレミ、そしてルミも黒のスラックスに揃いの白い半袖ブラウス。それぞれエプロンをつけていて、レミは沙菜を見つけると厨房のカウンターからは遠い側の一席を指差して案内した。四人がけのテーブルに一人だけの食事のセット。しかしそのとき、すぐ隣の一席に先ほど外ですれ違った二人の女が座っていた。厨房に近いグループとこちらの二席の間には無人のテーブルが二つ並べられていて仕切られているムード。そのことで部屋が館のどちら側なのかが想像できた。
 沙菜が座るとレミではなくルミがスープを運んでやってくる。レミより幾分大柄で背も高く、髪の毛はレミより派手なブルーアッシュのベリーショート。顔立ちもくっきりした美人。生地の薄い夏のブラウスがベージュのブラを誇らしく透かしていた。胸はルミが大きいようだ。
 ルミは言った。ソフトな声だ。
「北原さんね? はじめましてルミです。レミからちょっと聞かされて」
 そう言って微笑むルミに沙菜はちょっと会釈を返した。
 ルミは言った。
「お夕食はだいたい八時で終わるんですけど、片付けと明日の朝の仕込みもあって一時間ほど。後でノックさせてもらいますね」
 沙菜は無言で微笑み、うなずいて、ルミはスープを置いて去っていく。

 夕食はサイコロステーキとオムレツを合わせたもの。日本的な野菜の煮付けがついてサラダとスープ。デザートにアイスクリームがついてくる。個人のペンションらしく取り合わせも和洋折衷。どれもが美味しく丁寧につくられたものばかりで沙菜はますます気に入った。サラダのキュウリが舌に滑る。包丁が切れるということ。料理の腕はプロはだし。そう思って厨房の中を覗き見てもレミとルミしかいなかった。こういうことのしっかりできる二人ならいいかげんな人じゃない。こうした客商売で白いブラウスに透けるカラーブラはマナー違反。そのへんからも信頼できると沙菜は思った。
 食べはじめて、特に周りを気にしたわけではなかったが、一人だけのテーブルは沙菜の席だけ。間を無人のテーブルで仕切られるように座っていて、すぐそばでさっきの二人がちらちら見ていた。想像のとおりならビアンな二人。自分たちより若い沙菜がたった一人というのが気になっていたようだ。なにげに顔を上げたとき、二人のうちの若いほうと眸が合って、向こうが微笑んで会釈。沙菜もちょっと微笑んだ。浴衣の色柄が明らかに若い沙菜。ツインベルはその世界で知られるペンション。性的な興味を持たれたのかもしれないと沙菜は思ったのだが、と言って心が乱されるようなこともない。

 食事は一人だけだと会話もないから早くすむ。食べ終えた沙菜は部屋へと引き上げ、着ていて苦しい浴衣を脱いでしまって、着替えに持ち込んだ、ややロングのTシャツだけを着込んで過ごす。テレビがあっても見る気がしない。この部屋の性格をあらわすような大きなベッドがちょっと気になる。レミとルミは夫婦のように暮らしている。絡み合う裸身を想像してしまうのだった。部屋の奥側には埋め込みのドレッサー。少し長いTシャツでもマイクロミニのようなもの。惜しげもなく晒される白い脚線。ちょっと身を屈めればヒップをくるむピンクのパンティ。どこから見ても私は女。なのにどうして・・と、どうどうめぐりで考えてしまうのだ。
 子供は可愛いと思うのに、そこへと至る行為に昂ぶるものがない。恋愛感情が湧いてこない。セックスなんてしなけりゃならないものかしら。相手が女でも同じこと。そんなことをして何になるの。ドレッサーの鏡に映す自分の姿をしごく平静に見ていられる自分に、沙菜は寂しさよりも怖さを感じた。人間らしい感情が欠けている。女を生きる意味がないと、これまで幾度も考えた同じ思考に支配された。アバンチュールは求めていない。でも突然襲う嵐のような性に出会えば何かが変化するかもしれない。そうあってほしいと沙菜は思った。

 ベッドに横たわる静かな時間が過ぎていって、いつの間にか外は暗くなっている。隣室からの明かりが漏れ、温泉への小路にも明かりがあるから漆黒の闇というほど暗くはない。窓のガラスが鏡になって孤独な私を映している。それがどうにも悲しくて沙菜はカーテンを閉ざしてしまう。こういうところで男の腕に絡め取られた経験がないわけではなかった。バージンじゃない。だけどそれで決定的な違和感を覚えた記憶。かすかな性感に震えても幸せだとは思えなかった。
 静かなノック。
 ハッと気づくと、そうした思考は夢の中の脈絡だったようで、沙菜はうたた寝。エアコンの冷えが心地よく、ベッドに横たわったまま知らず知らず眠っていた。起き抜けて浴衣を羽織り、ドアを開ける。今日一日の仕事を終えたルミが、夏らしいブルーのタオル地のミニワンピースを着て立っていた。張り詰めた胸のタオル地に二つの突起。ルミはノーブラ。
 沙菜は言った。
「お疲れですのに、すみません」
 ルミは眉を上げて首を傾げ、微笑んで言った。落ち着いた大人の笑み。なぜかほっとできるニュアンスを含んでいる。
「それが疲れてないんだなぁ、今夜はぜんぜんなのよ、お客様も少なくて。沙菜さん、お風呂は?」
「はい、お食事の前にすませてますけど」
「いまね、お掃除も兼ねてレミが行ってる。よければご一緒にもう一度いかがかなって? いつものことですけど私たちはこれからなのよ」

 息苦しさがまつわりついた。背筋にかすかな震え。試されてると感じた沙菜。 しかし沙菜は今回の旅をきっかけにできなければ一生チャンスはないだろうと考えていた。こんなことを打ち明けられる人は他にない。聞いてくれる人がいると思うだけで心が軽くなるはずで・・そうと決めて来た以上、せっかくの誘いは断れない。
「ルミさん、私・・」
「うん、はぁい?」
 沙菜はちょっと苦笑して、ルミを見つめる視線を外し、そして言った。
「・・お風呂場でお話しします」
「そうね、うん、行きましょう」
 ルミは微笑んでうなずいて、浴衣姿の沙菜の背をそっと押す。
 館を出ると夜の森は静か。道筋にポールが立って明かりがあり、その光芒を外れると闇は落ち込む。心地いい風。闇に潜むように沢のせせらぎがシャラシャラ流れた。空にはちぎれ雲。星空の中に星の隠れる雲の斑。
 並んで歩きながらルミは言った。
「このペンションね、私たちではじめて十年になるのよ」
「そうなんですか、十年・・」
「私にもレミにも・・ほら、私たちってビアンだったし、それなりにいろいろあって苦しくなって、以前のオーナーさんのもとで働いてたの。最初はお客さんだったんだから」
「レミさんと一緒に?」
「そうよ、もちろん。偶然ここを訪ねて、前のオーナーさんによくしてもらい、そのときちょうどオーナーの旦那さんが、まだ若いのに倒れちゃってね。奥さんだけではとてもムリだし、旦那さんのご病気は静養が必要だってことで郷里に帰られてしまってね。北海道。それで、それからここを借りてレミと二人でやって来たってわけ」
「借りてですか?」
「最初のうちはね。それはそうでしょ、そんなお金がどこにありますかってことよ。そうするうちに旦那さんが亡くなられ、残された奥さんもいまさらもう戻りたくないからって私たちに譲ってくださり、毎月いくらかずつ家賃の感覚でお支払いを」
「そうなんですか」
「恩人なのよ、お二人とも」
 そう話している間に湯ノ小屋の前にいた。先ほどとは違う側の岩風呂だったが、戸口を入ると湯溜まりはさらに浅くて広さがあり、こちらは子供連れにちょうどいい造りかと思われた。大人が入ると乳房の下ほどまでしか深さがなく、体を伸ばして浮くように入る風呂。こちらも同じように半分ほどまで屋根があり、鬱蒼とした夜の森に向かって拓かれる岩の湯溜まり。

 どちらかと言えば裸になることに臆病な沙菜だったが、このときなぜか躊躇せずに裸になれた。ルミはタオル地のワンピースの下は黒いパンティだけの姿。脱衣に立ったときすでに岩風呂にはレミが白いパンティを穿いただけの裸で立っていて、デッキブラシで岩肌を磨いていたのだった。レミもルミも三十代、背丈はほぼ同じ、乳白の美しい裸身は若々しく、いやらしさのまるでない・・何もかもがこちらの考え過ぎといった、ひどく素直なフルヌード。けれども一点、レミにもルミにも下腹の翳りが処理されて一切なかった。性器のスリットが露わ。そこだけが沙菜とは違った。
 沙菜が脱ぐのを待って、ルミは背を押してレミのいる岩風呂の洗い場へと沙菜を導く。洗い場はタイル張り。レミは穏やかに微笑みながらも沙菜のすべてを見つめていて、手にしたデッキブラシを岩に立てかけ、流れるように歩み寄った。沙菜は二人よりも少し背が低く、胸はBサイズ、濃い栗毛に染めた長い髪を後ろでまとめたポニーテール。下腹のアクセントは処理していないし夏のためにトリミングもしていない。彼と二人のシチュエーションは沙菜にとって縁がなかった。
 そんな全裸の沙菜の姿を、レミもルミも足先から視線を這わせるように見つめていた。
 性の対象として? それでもいいと沙菜は思った。
 レミも脱ぐ。乳房の隠せない浅い湯溜まりに三人で腰を降ろし、そのうちレミとルミが仰向けに寝そべって、間で沙菜が岩を背もたれにして座っている。透き通る湯に浮かぶ二人の白い裸身が眩しいほどだ。
 レミが言った。
「綺麗よね、いいカラダだわ」
 ルミが言った。
「もしかしてバージン?」
 沙菜の歳は宿帳でわかる。二十七歳の沙菜。

 沙菜は言った。
「男の人とは学生時代に何度か。いい人でしたしやさしくしてくれる彼だったので、そういうムードになったとき、あげてもいいかなって。最初はドライブに誘われて、そのままホテルで」
 ルミが言った。
「それで違和感を感じちゃった?」
「違和感て言えばそうなんでしょうけど、もともと恋愛に興味が持てなくて。高校の頃なんて女子はみんな男の子の話ばかりでしょ。早い子だと体験しちゃってるし、ついていけないって言うのか、恋愛しなくちゃダメなのって思ってて」
 レミが言った。
「女の子には?」
 沙菜はかすかに首を振った。
「それもないですね。なんとなくですけど私は女よって気持ちもあって、好きになるなら男性だって思ってて、女の子はちょっと・・。じゃあ性対象は男よねって考えたとき、それも違うなぁって感じで、そのままずるずる来ちゃってて」
 ルミが言った。
「それきりないってことよね、ベッド?」
 沙菜はちょっと苦笑した。
「ありませんでしたね。いい人だなとか尊敬できるなとか、そうは思えてもその先へ心が動きません。私が女なのは体を見ればわかること。そのうち何となく結婚して、いつかママになってくんだとは思ってましたが、恋愛できないままエッチだけして人並みに生きてくって、そんなんでいいのと思ってしまう。体は女だけど心が伴っていないと言うのか、じゃあ男と言われるとますます違う気もします。私は何者って考えたりもしましたが、Aセクシャルというものを知ってからは、私はそうだと感じてましたし、まさにクエスチョニングなんですよ。自分の性を自覚できないから恋もできない、燃えるものが持てないならエッチしたって意味がない。肉体的には健康ですから妊娠だけならできちゃうわけで」

 レミもルミもやさしい面色で沙菜を見つめて聞いていた。それだけで沙菜は癒やされる。沙菜は言った。
「若いうちはよかったんです。二十七になって母からも結婚しないのって言われだし、いよいよ身につまされる歳になると、私ってどうしてこうなんだろって思っちゃって。いつか怖いことになる気もしたし」
 ルミは言った。
「オナニーは? それさえないの?」
「それは少し・・ごくたまにですかね」
 ルミは言った。
「それで感じる?」
「それなりにとしか言えませんけど男性とのエッチよりずっといいの。でも、それにしたって性的な疼きなんかじゃなく、ムシャクシャしたときの気晴らしみたいなものだったり。恋愛できないセックスに興味なし。だったらきっと結婚生活は破綻するわ。なのに子供は好きですから、それならそれでやっていけそうな気もするんですけど・・ほんともう、私は人格破綻者なのかと思ってしまい・・」
 レミは言った。
「思い詰めると危険よ」
 沙菜はうなずく。
「いまはよくても、なんとなくずるずる行って、あるとき闇の正体に気づくんじゃないかと考えたりするんです。それで死んじゃう女の子がいたりしますし」
 レミは言った。
「トラウマになるようなことはなかったの? 子供の頃に虐待されたとか、そういう意味で?」
「ありませんでしたね。両親には感謝しかないんです。ほんと大切に育ててもらいましたし。だからよけいにこんな娘に育ってしまった自分が情けないやら怖いやら」
 ルミは言った。
「多いとは言えないでしょうけど似たような女は少なからずいると思うよ。これが恋なの? これが愛なの? 違和感を覚えつつ肉体的な女を生きて、気づいたときにはママだったみたいな人が。きっぱり決めて動きたい。あなたってそんな人よね?」

 沙菜はルミを見つめて言った。
「やっぱりそうなんでしょうか? 自分ではそれほど四角四面なつもりもないんですけど、言われてみれば女らしさを確認できなければ何をしたって意味がないと思ってしまう。私は男ではない気がする。じゃあ何よってなったとき中性としか言えないんですよ。マイノリティという意味ではLでもいいしBでもいい。マゾだとか、そういうことでもいいんです。何でもいいの。私は女なんだと自覚できれば私の色が生まれてくると思ってて」
 レミは言った。
「じゃあ、そこからスタートすれば?」
「そこからって?」
「色よ。いまの沙菜さんは白でもない透明な存在だわ。ウエディングドレスの白よりもっとピュアな存在。予約を受けたあのとき、たった独りで三泊、それも千草さんの手記からウチを知ったお客様。そう考えたとき、これは相当な覚悟を持って来る人だと感じたの。違ったかしら?」
 沙菜は即座にうなずいた。打ち明けたからには逃げたくなかった。
 沙菜は言った。
「怖くなったんです。ずっと独りよ。孤独を感じることももちろんあって、このままだといつかおかしくなってしまうって。いま泣くことになっても後で笑えるならそっちがいいって思いましたし」
 ルミはうなずきならレミに向かって眉を上げ、それから沙菜に対して言った。
「じゃあひとつ約束して。これから三日、ここにいる間は一切何も考えないって」
「わかりました、そうします」
 ルミは言った。
「じつはね、沙菜さんが来るってことでレミがある人に声をかけたの」
「私のためにですか?」
 ルミはうなずく。レミはちょっと微笑んだ。
「もともとウチの常連さんよ。明日にはお見えになりますから、まず会って、その方の意思で生きてみること。強制なんてしませんから沙菜さんが決めればいいわ。お相手は女性です。いま確か四十二歳ですから私たちより少し上かな。その方はビアンですけどM女さんでね」
「M女さん・・」
「パートナーと言うのか五十代だった女王様を病気で亡くされて、それからはS女っぽく転身された。その方って女流カメラマンなのね。後になって見返せる素敵な写真を撮ってくれるわ」

 レミとルミは、間の沙菜越しに眉を上げて微笑み合って、それから二人で沙菜を見つめる。
 後になって見返せる写真・・それがどういう意味なのか。性を見せつける写真ということなのか。沙菜は不安よりも期待した。動いてみてよかったと素直に思える。
 レミは言った。
「ビアンと言っても、そこはそれぞれ。他人をとやかく言えないから私たちのことを言いますけれど、私たちの場合は性対象が女性だったというだけで、そのほか変わったところはないんです。ビアンと言うとベチョベチョしたエッチを連想する人が多いでしょうけど、そういう意味で私たちはいたってノーマル。ルミに寄り添って穏やかに暮らしていたいと思うだけ。結婚なんて形式にもとらわれない。子供はちょっとアレですけど、女同士の夫婦というのか、生涯恋人同士と言ったほうがいいのか、ルミがいないとやりきれないって存在なのね」
 ルミが言った。
「レミがいないと生きる意味が見いだせない。ビアンだから淫乱てことじゃないんだし、相手が女なら誰でもいいってことでもない。だけど沙菜さんの場合は辛いよね。心の所在が不明でははじまらないものがあり・・」
 沙菜はこくりとうなずいて言った。
「だからって、ひどく孤独ってことでもないんですよ。少なくともいまはですけどね。恋愛する喜びがない分、それで苦しむこともない。苦しむことが怖くて踏み出せないわけでもない。体温が低すぎると言うんでしょうか、考えれば考えるほどわからなくなっていく。適齢期に結婚しなくちゃダメなのって母にも言ったりしますが、母の気持ちももちろんわかるし、ああ私はやっぱりダメな女よねって思ってしまって」
 ルミが笑った。
「若い若い。あたしらだって考えた時期はあるの、崖の上でね。沙菜さんはいま跳ぶ覚悟を決めて来た」
 沙菜はうなずく。
「はい、それはきっぱり」
 女三人、全裸で向き合っていながら、そのときは触れ合うこともなかった。鬱積したほんの一部を話せたことで沙菜は、いよいよ崖を跳ぶ覚悟ができた。

 三人揃って湯ノ小屋を出て館に戻り、沙菜の部屋の前でレミとルミは抱き合ってキスをして、レミはそのままプライベートルームへと歩み去る。
 沙菜がキイを使ってドアを開け、ルミが沙菜の背を押して二人で入り、ルミは後ろ手でドアをロック。そのままさらに沙菜の背を押し、ベッドのそばで振り向かせ、ルミはそっと沙菜を抱いた・・。

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二話 素顔の仮面

 沙菜にとってはじめての冒険とも言えるツインベルまで十日あまり。予約を入れてから数日が過ぎていた。
 海が去った九月半ばの伊豆は空いている。夏の海と秋の温泉、その狭間となるからだ。伊豆は学生の頃から何度か訪れた。同性の友人たちと流行の水着を持って来たものだが、沙菜は夏を恋の季節だと思っていない。水着になるなら可愛いものがよかったし、そう言う意味であたりまえの女らしさはあるつもり。なのにそこから先へ踏み出す気分になれないのだ。
 魅力ある男性はもちろんいたし、魅力ある同性も知っている。しかしそれも性的なものではなくて人格の魅力。二人きりになれたとしても進展はそこまでで、性の到達点へたどり着いたことがなかった。

 その日は土曜。朝からベタ雨で出る気がしない。沙菜は新宿から遠くない笹塚のはずれに住んでいた。1DKの賃貸だったが、学生の頃のアパートからここへ越して一年ほど。以前の部屋を出るときに、あってもなくてもいいものを処分して、それから特に何かが増えていたわけではなかった。無機質とまでは思わないが、一度母親が訪ねて来たとき、まああっさりした部屋だことと、まるで色気のない娘のように言われたことを気にしていた。暮らす上で必要なものは揃っていたし、たとえばカーテンの色なんかもあたりまえの女の子らしさはあると思っている。

 ツインベルに予約を入れて、かすかな後悔を感じていた。出会える人はどうせ他人で、そんな人に会えたところで自分の中で変わるものもないだろう。アバンチュールを求めていない。ビアンだとも思っていない。強いて言うなら広い意味でのトランスジェンダー。肉体は女。心も女のつもりでいるのに私はどうして性欲が生まれないのか。調べてみると、おそらくそれはクエスチョニングという範疇。性別が自分の中で確定できない。だから恋愛感情を抱くことなく性欲を覚えることもない。結果としてのA(えー)セクシャル=ア・セクシャル。
 親にせっつかれても結婚へ心が動かない。肉体的には健康だからセックスがあれば妊娠できる。子供を見ていて可愛いと思えても、そうした女の生き方を自分の人生に組み込めるかと考えると、まるで実感できるものがない。結婚したってDINKS。子供を持たない夫婦のカタチ。それならそれでいいとして、けれどもそこには夫への愛がなければ意味がない。
 そうして論理的に思考するうち、私は愛と性が結びつかない女なんだと思い至る。たとえばランジェリーショップで、それを着た自分は想像できても脱がされるときのことが浮かばない。ただそれだけの些細な違い。肉親への情愛は持てていたし動物だって可愛いと思う。接点を拒むだけの冷たい女ではないと思っていた。

 オフィスにいても、高校の頃からそうだったように同性の恋愛に興味が湧かない。ビアンを疑われ、それでいて、いつの間にかビアンぽい子たちからも疎遠になってる。孤独は感じる。同世代の友だちがいないわけではないにしろ積極的に付き合う気持ちになれない。付き合えば話題が必ずそちらへ傾く。気楽でいられるのは極端に歳の違う同性との付き合いなのだが、それでは話が合わなくなって、いつまで経っても独りのまま。ぬくもりのないベッド。でもだから自分らしくいられたし、ごくたまにオナニーもして女の肉体を確かめられた。不感症ではないつもり。他人に対する性欲を覚えないというだけで自慰では濡れる。
 仮面の女のように言われるのが辛いし悲しい。あたりまえの同性たちよりはるかに素顔のつもりでも他人から見ればそうじゃない。S女かM女か勘ぐられ、変人扱いされることにも慣れてしまった。
 このままでは危険。心を病んでしまうと思いはじめたのが数か月前に起きた女性タレントの自殺であった。
 性欲を覚えないノンセクシャル。恋愛してもセックスしないと公言していた彼女は私に似ていると感じていた。けれど恋愛できるだけ彼女のほうが人間らしい。このまま生きて、あるとき闇の本質に気づいたら私だってどうなることか。発作的に馬鹿なことをしかねない。
 ツインベルへのかすかな後悔も、そうして思考が空転し、起点に戻ると、一度くらいハメをはずしたっていいはずよ・・と思い直せるようになってくる。組み伏せられて納得させてくれる何かを求めている。沙菜は意識して自分を奮い立たせようとした。

 九月のなかば。夏から秋へのうつろいは安定しない空模様にあらわれた。三連休に一日足した三泊四日だったのだが、初日は曇り、明日から数日ぐずつくだろうと予想された。東京を発つとき薄曇り。東名沼津に近づくにつれておよそ百キロの距離の差からか、いくぶん青い空になる。夏が去ったといってもまだまだ暑い。ジーパンTシャツ。クルマのエアコン。それでも雲が切れて直射を浴びると汗ばむほどだ。
 東名高速、沼津インター。高速を降りてからは国道136号、414号と伊豆半島の背骨を行くイメージだ。ツインベルは天城峠を越えたさらに先。国道のトンネルを抜けてすぐ、センターラインのない山道に分岐して、そこからは樹海の只中で一本道。あのとき電話で山道もありと言われたところは、アップダウンも激しくて崖もあり、カーブのたびにカーブミラーを頼りにしないと行く先が見通せない。ビアンのカップルがそこにいると考えると、まさに俗世と隔絶された世界へ好き好んで踏み込んでいくような気さえした。

 そして道沿いに見えた白い洋館。舗装された道に沿って横長な建物があり、その前と横が駐車スペース。館は逆L字に裏手へ向かってのびていて、そちらは平屋。道沿いの部分だけが二階建てとなっていた。
 裏が平屋とは言え、そのすぐ背後が浅い崖になっていて、実質的には三階相当の高さ。表側の二階部分は四階相当の高さがあった。全15室、加えてオーナー二人のプライベートルーム。樹海に埋もれるような館としては大きな建物だと沙菜は思った。建物自体は基礎部分がコンクリートの木造で、写真で見るより年季が入って、むしろ好ましいムード。外壁の白いペンキがところどころ剥げていて、そういうところも出来過ぎたホテルと違って身近に思える。玄関はガラスのオートドア。そこだけが現代で、そのほかすべてがタイムスリップ。そんな造作。

 三連休初日の土曜日。チェックインは午後三時。けれども沙菜が着いたとき、季節の狭間だからか客のクルマは見当たらず、明らかに整備されない建物横の空き地のところに年代物の四駆のワンボックスワゴンが停められてある。沙菜のクルマは赤いポロ。クルマのない客用のスペースに停めて降りると、エントランスのオートドアがするする開いて、ショートヘアーの美女が一人顔を出す。
 ホームページで見た覚えのある女性。しかし宣伝用のドレススタイルではない、ホワイトジーンズにピンクのTシャツといった姿。髪の毛はベリーショートで、ややブルーがかったグレーアッシュ。三十代のはじめ。背丈は百六十センチちょっとで沙菜とそれほど違わなかった。
 それがレミなのかルミなのか一見しただけでは一致しない。穏やかに微笑んで歩み寄るオーナー。
「北原沙菜さんですね?」
「そうです、お世話になります」
「いいえ、こちらこそはじめまして。私はレミです。ルミはいま所用で出かけて留守なんですよ。じきに戻ると思いますけど」
 沙菜の荷物は小ぶりのスポーツバッグ。お持ちしますと手を出されたが、重いものでもなかったから沙菜は自分で持ち込んだ。ペンションにはパジャマまでが揃っていたから、ちょっとした着替え程度しか入れてこなかった。

 両側スライドのオートドアをくぐり、そこがフロントと広いロビーで、ロビーは食堂を兼ねている。奥の厨房へのカウンターがある明るい空間にテーブルセットが並んでいたが、がらんと無人。しかし綺麗に整理されていた。白い板壁に囲まれていて、あちこちに花瓶やタペストリー。テーブルには白いレースのクロスが敷かれ、いかにも女性オーナーのペンションらしい。
 フロントでチェックイン。そのときにレミは、ちょっと横目に微妙に笑って言うのだった。
「千草さんのエッセイでということでしたが・・」
「そうです。私にもいろいろありますから注目していて」
「そうですか、でしたらこれを」
 と言ってレミは、館内の案合図をカウンターにひろげた。道路側の二階建て部分に十部屋。裏手にのびる平屋部分が山の緩やかな傾斜に合わせて下りのスロープ状に造られて、そちらに五部屋とオーナーのプライベートルームが並ぶ。

 ツインベルは妖しいペンションではなかったが、一般客は主に道路側に案内し、そうでなければ平屋の側に入れると言う。千草マリアのエッセイを知っているということは、ペンションのオーナー二人が『L』だと承知でやって来たということで。レミは言った。
「そちらのほうが私たちのお部屋に近くて、ちょっと覗いてお話しするのに都合がいいからなんですよ。どちらでもかまいませんからお選びくださいね」
 沙菜は素直にうなずいた。妙に緊張したわけでなく、妙な体裁にこだわるつもりもない。
 レミは、自身二人のプライベートルームに近い裏手の平屋へ沙菜を通した。そちらの棟が後からできたのか11号室から15号室までが平屋の側に、1号室から10号室までが表側の二階部分に。そしてその双方をつなぐ建物の中央部分にプライベートルームは位置している。フロントやキッチンに近く、泊まり客に対応しやすいからだろう。
 裏手の平屋部分は山の傾斜に沿って廊下を進めば緩やかな下り坂。オーナー二人の部屋から間を空けた12号室に案内された。
 部屋の広さはそれほどでもなかったが、窓という窓から森の緑が見渡せて、すぐ崖下を流れる沢の音がシャラシャラ聞こえた。鬱蒼とした森だから陽射しを遮り、山清水が流れる沢の冷気もあってエアコンがなくても涼しい。ベッドはかなり大きなダブルサイズ。窓際には二脚のチェアで挟まれた白い丸テーブルのセット置かれる。白い板壁の一部がクローゼットになっていて内風呂はついていなかった。岩風呂は裏に出て傾斜を下ったすぐ先にあるらしい。

 今日は他に客がなかったからか、沙菜を通すと、レミは、テーブルセットにあらかじめ置いてあったポットを使って紅茶を淹れる。ここへ通すつもりでいた。でなければ客のない部屋に湯を置くはずがないからだ。
 紅茶を淹れながらレミは言った。
「遠いところをおいでくださり嬉しいですわ。今日は他に七組おいでで北原さんが最初のお客様。いまが空いてる時期なんです。お茶です、どうぞ」
 ティーポットで淹れた紅茶。差し出された花柄のカップに眸をやりながら沙菜は言った。
「私は、お恥ずかしいんですが、いまさらながら自分探しで・・」
 レミは穏やかな眸で沙菜を見つめてうなずいた。こうして差し向かいで話していると、ひどく歳の違う女の大先輩のようにも思えてしまう。薄化粧ですっきりした美人。沙菜はなぜか肩の力が抜けていた。打ち明けない限り何もはじまらないと思えたからだ。
 沙菜は言った。
「二十七になったばかりなんですね。親からも結婚しろと言われますけど、私って『T』かもって思ってて」
「トランスジェンダー?」
 沙菜は眸だけでうなずく。
「でもそういうことってよくわからないので、自分ではA(エイ)セクシャルかなって思ってるんです。女のつもりなのにそうじゃない部分があると言うのか、クエスチョニングの範疇なのかもしれませんが、自分の性を確定できなくて、だから燃えないというのか」
「そうですか、それはちょっと辛いわね。私もルミも、ご存じのようにビアンです。ウチにはG(ゲイ)男性はまず来ませんが、そのほかL(レズビアン)とB(バイセクシャル)の人たちが多いんですよ。ですけどT(トランスジェンダー)の方は少ないかと。クエスチョニングゆえAセクシャルとおっしゃるなら、さぞ辛いだろうなって思います。ですけどね・・」
 と言いかけたとき、外でクルマの音がした。
「あら、お客様みたい。このお話、後でゆっくり。私だけじゃなくルミももうすぐ戻りますから、お食事の後にでも」
「わかりました、どうぞもうお仕事なさってください。面倒なお客ですみません」
「とんでもありませんわ。LGBTいずれであっても命を燃やして楽しまないとね。マイノリティの性って、人より楽しむためにあるものですから。では後ほどまた。お食事は六時から。フロント前のロビーへどうぞ」

 レミは出て行く。
 一人になると森は静か。流れる沢の水音だけが時を流し、緑は静かに時間を留める。
 風呂は岩風呂。男女が別になった大きな浴場と、別に貸し切りの小さなものが二つあると、部屋にもあった案内図に書いてある。貸し切りの方は見た目が板張りの小屋で、入り口の扉に使用中の札を提げておけばいい。
 レミが出て行き、沙菜は、レミほどの美女であっても香りを残していないことに気がついた。香水を使わない。調理する仕事では当然のことでも、だからなおさら近しく感じ、同時に、だからなおさら妖しく思えた。無臭の女が香るとき、どれほど淫らに乱れるのだろうと想像する。
 ここへ来てよかったと沙菜は思う。これほど素直に自分を言えたことがない。親にさえ言えないことをすんなり言えて、もっと聞いてほしいと思っている。ここへ来てよかったと沙菜はほっと息をつき、着てきたものを脱ぎ去って下着姿でベッドに沈んだ。窓越しに揺れる緑の背景で白い雲が覆い尽くす中、ほんのわずかに青い空が流れていく。
 私のほかに七組。組ということは二人として十四人。食事の支度もあるだろうし、しばらくは会えないと考えた。

 用意された浴衣を着込み温泉へと降りてみる。電話の様子から若いと思われたらしく用意された浴衣も鮮やかな色柄。女性らしい細やかな心遣いを感じる対応が心地よかった。
 貸し切りの岩風呂を選んで戸口の板戸に使用中の札を提げ、内側にはもちろんスチールフックの鍵がある。館に向いて小屋のように見えたものも入ってみると屋根があるのは半分ほどで、森の中の露天風呂。今日は曇りがちで直射が少ない。山の風がすがすがしく、岩を乗り出してみると浅い崖下の沢が見渡せた。対岸は山から落ち込む急傾斜の山肌で鬱蒼とした緑が覆う。綺麗。ここは大人が集まる穴場だと沙菜は感じた。
 小屋の半分が森に向かって解放される岩風呂は掛け流し。温泉は常に湧き出して、いびつに丸い湯溜まりからあふれ出す。少し熱い。湯を出て岩の縁に座ると、油彩で描かれる森の裸婦になれた気分。もしも森に妖精がいたなら全裸を見られていると、ふと笑う。
 考え直してみれば裸になることに臆病だった気がする。水着もワンピースばかりだったし、ごくたまにTバックビキニの女の子を見かけると、ドキリとするより呆れて観ていた。目立ちたいのは何のためと思ってしまい、性にのめり込んでいけない自分と対比して、自分がひどくつまらない女のようで嫌になった。

 岩風呂の縁から立って、樹海の中に潜むかも知れない眸に向かって裸身を晒す。Bカップの乳房だってあたりまえに綺麗だし、くびれて張るフォルムだって女そのもの。下腹にデルタのアクセントがある白い裸身。森の中に眸があると思い込んで乳房に触れると全身に鳥肌がざわめいて乳嘴がツンと尖ってくる。
 だけど笑う。愚かな私の行いに、私を笑う私がいると可笑しくなった。

t520
一話(序章) 無色の沙菜


「いいわよパーフェクト。それぞれ担当の段階でこのぐらいすっきり書いてほしいものだわ、レベルが違う」

 清書されたテキストを刷り出したA4ペーパーを、ひらひら周囲に見せつけるようにして、次長の田崎有希恵(たさき・ゆきえ)は言うのだった。
 それは沙菜にとって嬉しくない褒め言葉。北原沙菜(きたはら・さな)は大卒入社から五年目で、つい先日二十七歳になったばかり。女の多いオフィスでのその歳はポジショニングが難しく、下からは疎まれて上からは牽制される無言の圧力がのしかかってくるもので。同期であっても五年もすれば差が生まれ、それでいて役職としては大差なしといった時期だけに、こうしたあからさまな褒め言葉は敵を増やすだけとなる。

 品川。
 高層ビルの十八階から二十二階までを本社とする、業界では中堅の化粧品メーカー。その広報部に沙菜は勤めていた。部長は男性。しかしその下の次長というのが田崎であって、社内でも一目置かれるやり手の女性。沙菜にとっては直属の上司であり、皆が敬遠しがちな人物から、こうもあからさまに褒められてはたまったものではない。
 広報部では商品全般を売り込むときのアナウンスシートなどをまとめている。商品ごとに担当者はいるのだったが、論理的に考える技術者が集まる開発部から回されるコンセプトシートに書かれた専門用語満載の原文をデパートなどの取引先へ案内するとき、咀嚼して書き直すことができず、つまりは清書が沙菜のところにまわってくるというわけだった。

 沙菜は大学で文学部。それ以上に、高校の頃からポエムやエッセイと言葉で表現することが好きで書きためてきていた。難しいことをさらりと書くのが文章の力。難しいままでは原文の複写に過ぎず、それでは田崎は納得しない。
 さらにまた、広報部の部長、牧原洋介(まきはら・ようすけ)という人物は、バランス感覚に優れて人の扱いも巧みだったが、田崎に対して声を上げない男であった。田崎は女盛りの三十五歳で美しく、離婚経験があっていまは独身ということで、社の重役、専務である吉住遼子(よしずみ・りょうこ)との愛情関係が噂されていたからだ。
 専務と言っても急成長する企業の幹部は皆が若く、吉住は四十歳。スリムで長身、五つ六つは若く見え、元は大手メーカーの美容部員でヘッドハントで招かれていたからルックスも美しい。

 けれど沙菜にとって、そんなオフィス周りの痴話などどうでもいいことだった。関わると煩わしい。定時退社を心がけ、夜の席からも極力距離を置くようガードする。常識的な恋愛結婚からはじまって、上司との不倫、誰と誰がビアンであるとか、嫌な話が飛び交う職場に愛想が尽きて、そろそろいいかと転職を考え出していたところ。とりわけいまは、それどころじゃない事情もあった。

 あれは数か月前のこと、性的な共通項を感じて注目してた若いタレントが命を絶った。LGBTそのほか性的マイノリティとされる『ノンセク』であるとカミングアウトして話題となった美女だったが、赤坂の自宅マンションで首を吊って自殺した。動機など詳しいことは伏せられたまま。二十七歳。ちょうど沙菜と同い年で、それだけにショックだったし、自分のことのようで怖くもなった。

 ノンセク=ノンセクシャルとは、非性愛とも言われるもので、相手に対して恋愛感情を抱くことはあっても性欲を感じない人のことを言う。
 沙菜は自らを、A(エイ)セクシャル=ア・セクシャルだと自認していた。こちらは無性愛者とも言われていて、他人に対して恋愛感情さえ抱かず、性欲も覚えない者のこと。

 若い頃は気にしなかった。恋してくっつき破綻する同性を見ていても、無関係な現象というだけで割り切れた。二十七歳は微妙な年齢。これから恋愛して結婚しなければならないと考えるとタイムリミットのはじまりだと感じてしまう。沙菜にその意思がなくても親からせっつかれる歳となって、沙菜は、自分がいったい何者なのかを確かめてみたいと思うようになっていた。
 恋愛しない、エッチしたいと思わない、そんな結婚に意味はあるのか?
 肉体は正常な女だし、性意識として女であっても、異性を求める気持ちになれない。レズビアンも違う気がする。セックスに興味なし。
 ただ人間嫌いなだけかしら?
 社会に適合できない女?

 だったら生きる意味なんてないじゃない!

 共感を抱いていたタレントの自殺は、沙菜に究極の問いを突きつけた。
 このままでは何かが狂う。そう感じた沙菜は、ともかくネットをあたってみようとしたのだが、その中で、また別の若い女優が綴ったエッセイにめぐりあう。
 映画女優の千草(ちぐさ)マリア、いま三十三歳。若い頃から清純派のイメージでありながら、M女などのきわどい性シーンを演じられる女優として知られた人だが、いまから数年前に私はBよ=バイセクシャルとカミングアウトして非難を浴びた時期があった。
 そしてその文中で、カミングアウトに至るまで裸の自分を見つめる時間をくれた中伊豆のペンションについて触れていて、そこでの出会いが私を導いてくれたと語っている。

 中伊豆の山の中・・白い洋館・・ビアンカップルがオーナー。

 それだけわかれば調べようはあったし、検索しだしてあっさり見つけることができていた。性的マイノリティを自認する人々が口コミで広めていて、そちらからあたればカンタンにヒットしたということで。

 ペンション、『ツインベル』

 もちろん健全な宿泊施設で一般客も多いのだったが、口コミで広まりだしてからは特に性的少数派が集まるペンションでもあるらしい。
 そうした情報はネット上の個人の言葉で、ペンションそのものの公式ホームページでは触れられていないこと。写真で見るツインベルは古典的な洋館をイメージした一部二階建てのペンションで、フロント周りのロビーも、全室バルコニー付きの部屋も、露天の岩温泉も、陰湿なムードはどこにもなくて、すっきり明るい。おとぎの国の館のようだ。
 沙菜は一目で気に入った。周囲は伊豆の自然林。ペンション裏手が岩場で浅い崖となり、綺麗な小川が流れている。宝石の翡翠を名にあてるカワセミが多くいて、枝葉が陽射しを散らす見事な景色に目を奪われる。

 レミとルミ。

 ペンションのオーナー二人も隠れず姿を見せていて、その意味でも安心できた。写真だからかどちらも小柄で、ヘアースタイルも揃ってアッシュカラーのベリーショート。表向きかも知れないが揃って花柄のロングドレスを着込んでいて、どちらも若く美しい。一見して三十代前半の美女二人。揃ってビアンかと思えば、それらしくも感じられた。

 迷わなかった。とにかく動いてみなければ。

 予約は九月半ば。三連休に一日足した土日月火の三泊四日。予約は電話でと考えたのだが、さすがに最初はホームページの予約フォーム。
 そしてそのコメント欄に、『女優の千草マリアさんのエッセイで知りました』と補足を書いて送信した。その一言で通じるものがあると思う。
 そしたら即座に確認の電話。携帯電話がフルートの音色を奏でるような女声であった。
「北原沙菜さん、お一人で、九月十四日から十七日までの三泊でよろしいですね?」
 聞き惚れる甘い声。ぼーっとする。沙菜は息さえ苦しくなった。
「あ、はい、それで結構です、よろしくお願いします」
「うふふ、これはご丁寧にどうも。素敵なお方のようで嬉しいですわよ。かしこまりました、ご予約は承りましたので当日はどうぞお気をつけられて。山道もございますのでね」
「わかりました、ありがとうございます。では当日・・」

 電話を切って、そのとたんに胸が高鳴る。
 素敵なお方のようでというくだりに、あなたを想像しています・・といったニュアンスを感じた沙菜。自分のことよりむしろ素敵な同性の愛のカタチがどういうものか、そのことへの興味が息を乱してゾクゾクしていた。

 こんな気持ちははじめてよ・・体が反応しだしてる・・。
 私は無色だったはず・・沙菜は戸惑う。

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