女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

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 人間生活(三話)


  そんなことがあってからわずか数日の後に女たちの想いはまとまった。
  女医である雪村早苗は、月という別の天体にいながら地球人の肉体を診ている女性。ある意味で『人は人』ということをもっとも知り抜いた人物と言えるのかも知れなかった。
  人類にとってのそれまでの宇宙観は想像の世界であり、ごくわずかな者たちだけが宇宙ステーションに滞在し、しかしまた地上に戻れば人としての生活が待っている。月面での暮らしは根本的に違うもの。生き続けることがすべてであり、理性や知性よりも生存本能に支配される原始的きわまりない環境とも言えるのだった。

  月面におよそ三百名いる女たちに雪村は語りかけ、もっとも決定的だったのは雪村自身が『私は女でありたい』と公言し、自ら避妊薬を用いると女たちに告げたこと。三百名の女たちも皆が若い。配偶者のいない若く健康で優秀な者たちだけが選ばれて送られてきている。
  人類のためにという使命を持って働く者たち。しかしそれも月での暮らしが長くなるうち大義名分となってしまい、寂しい、苦しい、せめて女でいられるひとときぐらいは欲しいという人の本能に衝き動かされてしまうのだろう。

  女たちのほぼすべてが避妊薬を歓迎していると雪村に告げられて、海老沢は愕然としたし、それまでの接し方を反省しなければならなくなった。人はマシンではない。電力が止まれば死、水がなくなれば死、呼吸ができなければ死。死と隣り合わせに生きていて、怖くてならず、せめてぬくもりぐらいは欲しいと思う。 ムーンシップ計画のリーダーとして、あまりにも人間を見てこなかった自分に海老沢は打ちのめされていた。論理より感情と言うが、感情よりも生理的な欲求に支配されるのが人というもの。
  これまでは住居モジュールの中に男女のボーダーを設けていたのだったが、雪村の報告を受けて廃止した。セックスのために特別な空間を設けるゆとりは月面にはない。オフタイムには自由意思で互いの部屋を訪れ合う。閉ざされた地下空間そのものがラブホテルの中身になったようなものだった。

  M1-001、海老沢の部屋。跳ね上げて収納できる狭いベッドに、ピンク色の下着姿でジョゼットが座っていたのだが・・。
 「見てよ、この下着、紙なのよ。色気も何もあったものじゃない。お洗濯したくても水さえない。ブラもパンティも紙なんて病院にいるみたい。汚れても燃やすこともできないしそこらに埋めたって腐りもしない。いつか設備が整ったとき汚れた下着さえも資源として再利用されるのよ。ここは違う、地球じゃない。だからね俊、そうやって考え込むことじゃないんだから。進みすぎた文明は本能をいけないことのように追いやってしまったけど、そう考えると不思議な世界ね月面は。文明の最先端に住む原始人とでも言えばいいのか」
  海老沢はため息混じりにちょっとうなずき、そして言った。
 「恥ずかしいのさ俺は。当然のことなのに考えようともしなかった。皆に苦しい思いをさせてきたと思ってね。すまないことをした」
  ジョゼットは、そうじゃないと微笑みながら、淡いブルーの紙で作られたトランクス姿の俊允へと身を委ねた。紙といってももちろんソフトな先端素材であったのだが。

  ちょっと落ち込むような面色の海老沢にジョゼットは言う。
 「女としては嬉しいのよ、あなたは女性を尊重してくれる。ほとんどが男の世界でそれを許すと女は娼婦になってしまう。それに個人的な恋愛ではトラブルの元ともなるでしょう。三百そこそこの女、なのに六千人の男ですからね」
  そう言ってジョゼットは男の胸に頬を寄せ、くすくすと妙な笑いを漏らすのだった。
 「それならそれで女たちは気分いいかもよ」
 「どういうことだ?」
 「性の解放、だけどそれは自由意思。そうなると男たちはやさしくなるわ。嫌われたらおしまいですもの。文明の論理ではない本能のおもむくままの女権復活ってことかしら?」
  そうかも知れないと海老沢は同感できた。女たちにやさしくなれれば角が取れて苛立ちも消えていく。
  海老沢は言った。
 「地球に戻ったとき、プロジェクトリーダーとしておまえはそんなことを許したのかと非難されるのを恐れたのかも知れない」
 「そうよ、そうだと思う。でもだからあなたが好き。まっすぐなあなたが好きよ」
  男女の性にはまったく向かない狭すぎるベッドの上で、紙の下着を脱ぎ去った男女の熱が交錯した。

  地球へは戻れないだろうと覚悟を決めてやってきた。なのに俺は地球の眸色を気にしている。五十年後の旅立ち以降のことを思っても、地球上とは異質の新しい文明が生まれても不思議はない。
  旅立ちといっても現実的に目指せるところは四光年先のプロキシマ・ケンタウリをおいて他にはない。そのハビタブルゾーンに浮いている惑星プロキシマBに移住して第二の地球とできればいいのだが、観測が進むにつれて、どうやらプロキシマBには大気が存在しないらしいとわかってきた。母星たるプロキシマ・ケンタウリからの強烈な放射線によって大気が剥ぎ取られている可能性が高いと言うのだ。
  であるなら人類は月から出られない。このちっぽけな星がすべてとなる。五百万人の人類、そのおよそ八割が女性とすれば、新しい女権の文明が育っていっても自然なことだと考える。

 「ふふふ、女権文化とはまさに言い得た世界だな」
 「あら、どうして?」
  M2-003。モジュール2の3号ルーム。そこは女医である雪村の部屋だった。間取りは海老沢の部屋そのまま。ベッドは小さい。
  デトレフは逞しかった。長身であり鍛え抜かれた軍人の体躯を誇っている。
  そしてその分厚い胸に裸身を委ねて雪村早苗は女らしさを誇っていた。
  デトレフは言う。
 「ムーンシップがどうなるかと想像したのさ」
 「若い女だらけだから?」
 「およそ四百万の女性に対し男は百万そこそこ。旅立った当初は地球の文明をのせていて男どもが差配するだろうが、じきにうまくいかなくなる。いかに優秀な遺伝子を持つとは言え凍結精子による強制受胎など論理の空転。圧倒的多数となった女たちは、女にとって都合のいいルールをつくっていくだろう」

  早苗はちょっと笑い、デトレフの逞しい男性へ手をやって悪戯するように嬲りながら男の面色を見つめている。彫りの深い精悍な顔立ちだった。
  早苗は言う。
 「私はあのとき、死刑台は人類の穢れと言い切ったあなたにキュンとしたわ。抱かれたいと思ったし私は濡れた」
  デトレフの強い腕が早苗を赤子のように組み伏せて、けれどもその眸はやさしかった。
 「それを言うなら俺もそうだ。あのときの早苗は、それなら率先して私が抱かれると言い切った。感動した。ルーナ(月の女神)がいたと感じたものだ」
  女神と言われて早苗ははにかむように唇をちょっと噛み、上目使いの甘い眸をデトレフに向ける。

 「そうなれば私なら男たちを可愛がるでしょうね。最後に残ったたった百万人の男たち。多くの女が悲しまなくていいよう厳しく躾けていくでしょうし、だからよけいに可愛く思える。男女の性は女次第よ。ちょっと拒むフリをするだけで男たちは平伏すでしょうね。でもねデトレフ」
 「うむ?」
 「私は思うの。女の理想は原始の世界なんだろうって。圧倒的な野人に牛耳られ、そのとき泣いても後になって守られて生きていられる安堵を知るのよ。進みすぎた文明の中で女は女になりきれなくなってしまった」
  デトレフは夢見るような面色で言う。
 「HIGHLY、LOWER、さてしかし幸せなのは・・」
 「LOWERでしょう、考えるまでもなく。LOWERならこんなところに来なくていい。HIGHLYゆえに性欲をどうするかなんて悩まなければならないんだから」
  早苗は言い、デトレフの強い肉体に白い裸身を重ねていった。

  口づけ。そしてまた早苗は言う。
 「聞いてデトレフ、私はね、五十年後の医師でなくてよかったと思ってるのよ」
 「それはなぜ?」
 「旅をしながら技術は進むわ。だけど酸素や水や食料や必要となる何もかもが無限につくれる時代が来るのかしらね? 人工重力でも生み出して大気をつなぎ止めておけるようになるのかしら? そうでなければそのとき医師は、生きていても機能しなくなった人々を選別しなければならなくなる、次の世代を守るために葬るの。私なら耐えられない、私は死神にはなれないもん」
  デトレフはちょっと眸でうなずくだけで応えなかった。
  軍人として月に送られたデトレフには使命があった。地球に戻りたがる者たちは消せ。そうしないとムーンシップ計画が表沙汰になってしまうし、帰還のための船を用意するゆとりは地球にない。地球は地球で瀬戸際なんだということだ。
  地球には帰せない、おまえたちは月で死ね。そんなことは言えない。海老沢にもジョゼットにも早苗にも言えるはずがない。
  しかし早苗の言葉はそれ以上の衝撃だったし、それ以上の残酷だった。デトレフは人間というものがわからなくなっていた。

  M1-001。海老沢の部屋。
  甘熱を放つ夢のひとときを経てジョゼットは海老沢の裸身に身を寄せて、どこか虚空を見るような男の面色を見つめていた。
 「父も天文学者だった」
 「知ってるわ、海老沢謙吾、知的生命を探し続けた日本人」
 「父は早くから警告していた。父だけじゃなく世界の天文学者が警告していた。太陽がおかしい。どうやら二十世紀の末から小氷河期にあったようだ、黒点が異常なほど観測される、太陽は極大期に突入する、温暖化が一気に進みオゾン層も危ういと」
 「私はその頃フランスの大学で望遠鏡を覗いてた」
 「うむ俺もだよ。宇宙はかくも素晴らしい。だけどそちらは父に任せて俺は宇宙工学に興味を抱いた。当時のロケットでは非力すぎて宇宙の旅など夢物語。SFの世界に登場する宇宙船に近いものを創れないかとね。ところが地球がおかしくなった。何としても新たな船を造らなければならなくなったんだ」
  ジョゼットは静かに聞いていた。男性が夢を話すときの面色が好きだった。夢見る少年。リクツではない女心が騒ぎだす。

 「あの頃の俺は十九か二十歳。異変は突如としてはじまった。当時の海面上昇はそれほどでもなかったが最大風速百メートルを超えるハリケーンが荒れ狂い、高潮が激化して臨海部がやられてしまった。さらに深刻だったのはオゾン層。太陽活動の急激な変化でそれでなくても危うかったオゾン層が消えていく。父はずっと以前から警告していた」
 「私はフランスよ、ヨーロッパ全域がパニックに陥った惨状が焼き付いてる。先進国ではそれでなくても少子化にあえいでいた。真っ先にやられたのは社会の中で取り残された老人だった。親よりも子を守る。見捨てるしかなかったの」
 「そうだね、北半球に集中する先進国は瓦解した。しかもそれは天変地異というよりも人のエゴ。人口のかなりなパーセンテージを占める老人たちが見殺しにされ、加えてなだれ込む難民を食い止めるための世界大戦とも言える殺し合い。最悪だ、なぜこんな時代に生まれたのかと呪ったものだよ」
  それからさらに十年。人類は温暖化物質の除去とオゾン層を修復するための設備を作り上げたのだったが、そのときすでに地球の全人口は三十五億人を割り込んでいた。

  ジョゼットは言う。
 「すんでのところで食い止めたかに見えたのにね、私が恐ろしいものを見つけてしまった。地球どころじゃなく太陽系の終焉よ。どのみち何もかもがおしまいなんだわ、恋をして性に燃え、母となる夢も消えた。ムーンシップ計画が最後の砦。そう思ったとき醜い地球を出たくなったの。せめて人類のために働く人たちの中にいたい。月のことは聞いていたのよ。男ばかりの異常な世界。地球上の法律なんて意味を持たない。早苗じゃないけど、この月でなら、もしかしたら女になれるかもって思ってた。決定的だったのはデトレフの言葉なの」
  海老沢は胸に甘えるジョゼットに微笑んだ。
 「死刑台よりベッドルームがいいか?」
 「そうよ、それだわ。疲れ切った男たちを見ていて抱いてあげたいと女ならそう思う。抱かれたい。夢ぐらいは見せてよお願い。何のために女の体で生まれてきたのって思うのよ。ねえ俊」
 「うむ?」
 「国連が軍を送った意味がわかる?」
 「デトレフは辛いだろうね」
 「うん、そうに違いない。もう地球へは帰れない。月面に軍船が降りたとき、月での死を覚悟したし、ふふふ、それが妙なの、そう思ったとたん性欲が暴走しだした。だったらせめて快楽ぐらいはいいじゃない。早苗の気持ちもそうだと思う。女たちもみんなそう。怖くてならない、誰か抱いてよ・・」
  海老沢は声もなくジョゼットの白く美しい裸身を抱き寄せた。涙ぐむ女に男は唇を重ねていく。

  それからは日に日に女たちの面色や身のこなしがしなやかになっていく。六千いる男たちが女として見てくれる。男たちの荒れた声も少なくなって、海老沢はますます考えさせられた。これこそ人の本質だったと思い知る。もっと早く気づいていれば地球は夢の園にできたはず。暗黒の空に浮く青い地球へ思いをはせる。

  九隻目、十隻目・・十五隻目と、それから二年の間に人員の増強と物資の補給が進み、男性およそ一万名、女性およそ一千名の月面都市となっていく。
  地上部分には新たなメインモジュールが造られて、地下には居住区そのほか必要な設備が整備される。月では引力が弱いために地球上のような剛構造は必要なく、地表を少し掘って建物を造り土をかぶせて半ば埋めればそれだけで完成する。海底で砂から目だけを覗かせる魚を思えばよかっただろう。人員が増えれば作業は進み、居住スペースも拡張されて人間らしく暮らせる空間ができていく。
  月に留まる者たちは、もはや地球人ではなくなっていた。志願する人々は殺伐とした地球世界に別れを告げてやってくる。それも月での暮らしぶりが知られるようになるほど女性の志願者が増えるというのだから、地球上のモラルはどこかが間違っていたと言わざるを得ないだろう。

  そんなとき、三十八歳になっていた海老沢に新たな職務が与えられた。
  新たなメインモジュールには通信設備が組み込まれ、かつてのメインモジュールは月面望遠鏡『ムーンアイ』を中心とする観測設備であるとともに、リラックスのための空間が造られた。最初に月に降り立ったときのことを思えば夢のような世界なのだが、それを提案し進めたのはジョゼットだ。使命だけでは生きていけない。珈琲ぐらいは楽しめるカフェのあるプラネタリューム。プロジェクトを加速させるためにも人間らしくいられる場の確保が先決だとジョゼットは言う。正しい指摘だと誰もが思った。

  そのムーンカフェのカウンター。カウンターの中にいるのはジョゼット、わずか十席ほどのカウンターに海老沢とデトレフ。デトレフが乗り付けた軍船はそのまま月に留まっていて、国連からの秘密の通信はそこで受ける。
  カフェに海老沢を呼びつけたのはデトレフだった。
  地球上では、温暖化したとはいえ緯度が上がれば寒くなる。
  デトレフは言う。
 「まず一つは、寒冷地に放置されたままとなっている恐ろしい数の人や動物の死体の処理。もう一つは、国連が押収した核兵器の処分なのだが」

  死体は燃やせば膨大な二酸化炭素を放出し、かといって腐敗が進めばさらに悪いメタンガスを放出する。核兵器についても数があまりに多すぎてとても処理しきれない。ついてはどちらも宇宙空間に投棄する。そのための船を造るため海老沢に地球に帰還せよと言うのである。
  地球に生まれた同胞の死体が汚物のように捨てられる。核兵器などという人類の汚点が宇宙空間に葬られる。あまりにも身勝手な決定に海老沢はやりきれない。
  太陽の行き先にある中性子星による地球の破滅には、ごくわずかな誤差がある。地球は太陽系の第三惑星であり太陽に近い。もしも太陽が中性子星の引力圏をすり抜けて突破できれば地球が生き残れる可能性がないとは言えず、そのときのためにも地球環境を改善しておきたいということだ。

  海老沢は言った。
 「嫌だね、地球へは戻らない」
  デトレフは言う。
 「そう言うと思ったよ。しかし海老沢」
 「わかってるさ、命令ならばしかたあるまい。ではこうしようじゃないか、どちらも船の設計はやってやる。ソーラーセイルを動力とする使い捨ての巨大船でいいんだろ?」
 「まあ、そういうことだが」
  ソーラーセイルとは宇宙の帆船。宇宙空間で帆をひろげ太陽風を動力源として飛行できる宇宙船を可能とする技術である。
  海老沢はジョゼットへ眸をやって言うのだった。
 「俺は月で死ぬ」
 「私もそうよ、地球はまっぴら」
  ジョゼットが即座に応じた。
  海老沢は言う。
 「それを条件に最高の船を設計してやるさ。外殻などゴムかプラスチックで充分だ。しかしデトレフよ」
  デトレフは、海老沢が何を言うかなど見透かしていたし、デトレフ自身が憤っていた。デトレフは言う。
 「ふざけるなと言いたいね。ムーンシップは残された希望だが、この宇宙にはたして人類を解き放っていいものかと感じるよ。わかった、そう伝える。その条件をのませてやる。俺ももう嫌気がさした、クソ喰らえといった気分だよ」

  このとき海老沢は、そのどちらの船も着地点は木星もしくは土星だろう考えていた。ソーラーセイルは太陽から遠ざかるにつれて太陽風が弱くなり推力がダウンする。巨星の引力に捕らえられれば都合がいいからである。
  そしてこのとき、とんでもないことを言い出したのはデトレフだった。ジョゼットの淹れた珈琲に口をつけながらデトレフは言う。
 「しかしアレだな、核については惜しい気がする」
  何を言い出すのか。二人はデトレフをうかがった。
 「すべてを南極で爆発させてやりたい気分だよ。じつは俺もそうだが我々の中には核の専門家がいるんでね。膨大な熱を放てば南極はおしまいだ。海面が一気に上がってHIGHLYどもの居住区は壊滅するだろう。LOWERたちは痩せた高地に封じ込められているから多数が救われる。こざかしい知恵を振り回さない連中に地球を再建させてやりたいものだ」
  三人揃って押し黙ったまま。もちろんジョークだ。

 「ねえ二人とも」
  カウンターの向こうにいてカフェのママのように微笑むジョゼット。シルバーメタリックに輝くスペーススーツの胸が張り詰めて美しい。海老沢とデトレフは揃って眸を向けた。
 「それなら気になるものをお見せするわ。いまは昼間よ、四日したら夜になるからムーンアイで」
  意味ありげに微笑むジョゼット。デトレフは微妙に眉を上げて首をすくめた。

  月は地球との相対関係の中で常に同じ面を地球に向けている。しかし自転していないわけではない。月はおよそ二十八日周期で地球の周りを公転しているのだが、その公転周期と自転の速度がまったく同期しているために地球からの見た目が変わらないというだけなのだ。
  つまり月の一日はおよそ二十八日。いまは昼間にあたるから太陽光が邪魔で観測できない。四日すれば夜がやってくるということだった。

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デトレフ中佐(二話)


  月面に一千万都市を築くという当初のプランから人数を半減させる『ムーンシップ計画』への変更は、プランの縮小などではなく、まさに壮大な拡充を目指す根本からの見直しであった。
  太陽系からの脱出。すなわち母星である地球からの補給を前提としない月への永住であり、食料はもちろん工業そのほか必要となるもののすべてを月にいながら完結させられる人工都市でなければならない。月を地球に改造するプロジェクトと言ってもよかっただろう。
  電力ひとつを取り上げても、太陽のない暗黒空間を旅するときソーラー発電など使い物にならないとわかっていても、太陽系に留まるいま、まずはそこから拡充しなければならなかった。月面ではすべての設備が電力で保たれる。原発設備を建設するためにも、まず目先の電力確保が欠かせないということだ。

  地球上で営々と築き上げてきたものをわずか五十年でフルコピーする。どう考えても無理な計画。しかし躊躇している時間はなかった。
  まず必要となるものをリストアップ。地球からの補給を待って作業にかかる。七隻目八隻目の超大型貨物宇宙船が到着し、物資を降ろすなり今度は中身を住居に改造して月面に埋めていく。一隻あたりのキャパシティは限られているから物資を増やせば人が減る。海老沢がジョゼットと出会ってからすでに数か月。八隻目が到着した時点で、それでも総勢わずか六千二百名。その程度の人員でどう急げというのか。プロジェクトリーダーである海老沢は苦しかった。月面での作業は宇宙服に頼らなければならないし地球上での作業よりもはるかに過酷。一人一日数時間が限界の作業ではいっこうに進まない。

 「とても足りない。物資はひとまずいいとして次は人員のみの補給だろう」

  月面に最初に着陸して地上に据えられた半球形のメインモジュール。屋外での作業から戻った海老沢は疲れ切った面色でジョゼットの肩に手を置いた。
  あれからメインモジュールの一部が改造されて口径五メートルの反射望遠鏡が据えられた。呼び名はムーンアイ。まさに月の目。大気の揺らぎのない月面からの観測は地球の終焉をより確実に予言した。太陽の突き進む先に浮く中性子星の引力圏に捕らえられるまで、残された時間は七十二年と確定したのだ。
  ジョゼットは言う。
 「このところ思うのよ、私たちの世代には無関係なことなんだとね。人間なんてエゴの塊なんだなと思ってしまって。地球の終焉が避けられないとわかってもまるで他人事のようなんですもの」
 「まったくだ、こんなところで何をやっているのかと思うことが時々あるよ。どうせ無関係なのなら人生の最期ぐらい地球でのほほんとしていたいと。皆が疲れ切って苛立ってきている。この上何を指示するのかと思うと苦しくてね」

  と、そう話しているところへ、八隻目の貨物船とは別の小型の宇宙船でやってきた一人の男が海老沢を訪ね来て歩み寄る。
  背が高く鍛えられた肉体がシルバーメタリックに輝く全身フィットのスペーススーツに漲っている。
  ここは望遠鏡に付属する観測室。望遠鏡そのものは屋外に設置され、そのコントロールルームであった。天文学者のジョゼット、海老沢、そして訪ねて来た長身の白人男性の三人きり。その男は腰に高エネルギーレーザー銃を携えている。明らかに軍人だ。歳は海老沢よりも少し上の三十代の末あたりかと思われた。

 「プロジェクトリーダーの海老沢さんとは?」
  ドイツ語。オートマチックトランスレーターで会話が成り立つ。
 「私ですが、あなたは?」
  しかし男は、すぐそばにいる得体の知れない女へと探りの眸を向けた。内密な話のようだ。
  海老沢は言った。
 「こちらの女性なら問題ありません。国連から派遣された天文学者のジョゼットです。私たちは同志ですのでお気づかいは無用かと」
 「そうですか。では早速」
  男はうなずくと、なぜか面色を暗くして言うのだった。

 「私はデトレフ・フランツ国連軍中佐、百名の部下とともにやってきました。まあ志願してやってきたクチですがね」
 「志願してとは?」
 「地球に失望したといったところです」
  海老沢とジョゼットは顔を見合わせ、傍らの椅子に座ろうとするデトレフを見つめた。
  デトレフが海老沢を見つめて言う。
 「人員が足りないということで平時はあなた方の指示に従い、しかし有事には・・つまり我々は月面での警察だと思っていただいてかまわない。トラブルそれに人員を地球へ帰還させる際の判定と言えばいいのか」
  おおよそ理解できた。トップシークレットのプロジェクトであるから地球へ戻って喋られては困るということだ。
  ジョゼットが問うた。
 「私たちを監視するために?」
  デトレフはちょっとうなずき、たまりませんよとでも言うように首をわずかに左右に振った。
  そして言う。

 「月にいてご存じないかとは思いますが、地球ではいま人類史上かつてない愚行が行われようとしています」
  ジョゼットが海老沢を見つめ、私は知らないと言うように目配せで告げるのだった。ジョゼットは国連配下。しかしそんなことは聞かされてはいなかった。
  デトレフが言う。
 「赤道あたりを境にノースランドとサウスランドを分けようとしている」
  海老沢が問うた。
 「何ですかそれは? ノースランドとサウスランド?」
  デトレフはすまなそうにうなずいた。
 「それで我々は志願して月へとやってきたというわけです。一定の知的レベルを備えた者たちをHIGHLY=ハイリーと称して北に集め、それ以外をLOWER=ローアーと称して南に集める。北は白人および知的階級。南はそれ以外ということになるわけですが」
  海老沢は呆れ果てた。
 「くだらない。まさしく愚行だ。人類の存続が危ぶまれるときに、それでもまだ肌の色で差別しようというのですか」
 「まったくです、やりきれない。しかし私は軍人ですし下っ端ですから反論の声を持ちません。オゾン層の破壊で北半球がやられてしまった。紫外線に対して白い肌はもっとも弱い。ヨーロッパのほぼ全域、ロシアの全域それにカナダの全域。つまり白人が多いところが壊滅状態になってしまったということで。国連などもはや形だけ。白人に支配されてしまっている。世界人口に占める白人の比率は十五パーセントを割り込んだ。恥も外聞もなく生き残りを図っている。ムーンシップ計画で月に乗り込める五百万人の比率がどうなるかについても、もはや見えていると言えるでしょうね」

  世界人口が七十五億だった当時で白人の比率はおよそ三十パーセント。アジア系がもっとも多く、次いで白人、次いでそれ以外ということになるのだった。
  デトレフは言う。
 「知的階層では人種は問わないと、名目上はそうなっているのですが本音は違う。最期のとき五百万人を選別するため、イザというときになって戦争はしたくない。そこでいますでに選り分けておくということです。五百万人はHIGHLYの中からさらに選りすぐる。LOWERに未来はない。しかし海老沢さん、どのみち救えるのは五百万人だけ。あなたならどうやって選別しますか?」
  やりきれない思いはあっても、それを言われると返答できない。優秀かつ完全なる者だけにチャンスが与えられる。リクツでは確かにそうでも、いま地球上で選り分けておくことなのか?
  デトレフは言う。
 「地球上では太陽系の終焉を知らされてはいないのです。それでもなお生き残りに必死。必然的に弱い者は虐げられ、そうなると暴動がエスカレートしかねない。現実にいま争いだらけだ。LOWERから武器を取り上げ居住区を分けておかないと五十年後など明日のようなものですからね」

  重苦しい沈黙。デトレフはさらに言う。
 「私はいま三十九歳です。七十年先の末路など無関係なことなのでしょうが、人生のいちばんいい時期に地球は狂ってしまった。結婚もできず生きてきて、さらにいま軍人として人々を選別する役を負う。耐えられない。だから月へ行きたいと志願した。地球のことなど忘れてしまって、ここで未来を築いていたい。あなたがたの使命こそが残された希望なのです」
  デトレフの苦悩は海老沢にもジョゼットにも理解できた。海老沢もジョゼットも生涯独身、地球上での幸せを諦めている。子孫を残したところで未来はあまりに残酷だった。
  デトレフは言う。
 「我々はこちらで人員を監視するのが使命ですが、それは有事の際のみ。人類のために働いて死にたいと皆そう思ってやってきたんだ」
  海老沢はうなずいて手を差しのべ、デトレフと握手を交わし、そして言った。
 「であるなら女性の警護をお願いしたい。いま女性の総数およそ三百。過酷な作業で疲れ切った男たちが狙っている」
  デトレフは「哀しいことだ」と小声で言うと、うなずいた。
  自由恋愛というわけにはいかない。圧倒的に男が多く、それを許すとほとんどの者があぶれてしまう。性への欲求をどうするかも月面での課題であった。同性愛以外にないのだから。

  いまからおよそ五十年後、幸運にも月に乗り込めた五百万人のうちの八割が若い女性。凍結精子による強制受胎という非人間的な宿命に生きなければならなくなる。
  人類もまた地球に生まれた獣の一種。このとき三人はそうした同じ想いにとらわれていた。
 「もういいわ、よしましょう、そんな話」
  ジョゼットが言い、男二人は曖昧に笑ってうなずいているしかなかった。

  そしてその翌日。
  メインモジュールに各作業の現場監督クラス三十数名が集められた。監督クラスといっても皆が若く、女性も二人混じっている。それぞれの作業の進捗状況を報告し合うことが主たる目的。加えてデトレフ以下、送られてきた国連軍の役割についても話されたのだが、そのときに女性たちへの不穏な動きのあることが告げられた。
  集められた中に、現場のスタッフとは別に女医の雪村早苗が同席した。
  月面での医療にあたる若き名医。もちろん旧日本国籍の女性である。シルバーメタリックのスペーススーツがよく似合う、三十歳の女医であった。
  女性への性的暴行が危惧されるとして海老沢が語った後のこと、雪村が手を挙げた。
 「異議ありとまでは申しませんが、それで軍に処罰させるのは残酷過ぎると思いますよ」
  集まった皆が雪村を見つめ、海老沢が問うた。
 「どういうことだね? じゃあ君は自由恋愛でいいと言うのか?」
  雪村は皆を見渡し静かな声で言うのだった。
 「そうしたモラルはかえって人を苦しめます。ここは月面、皆が命を賭して働いている中で、個人的な愛ではなくて人間愛が生まれてもおかしくはありません。極限の世界なんですよ。生存できるぎりぎりに生きていて、せめて女の悦びぐらいは感じていたいと、そう思う女がいても、それこそ人というものではありませんか。せめてぬくもりぐらいは欲しいと思う。苦労する男性のために何かをしてあげたいと思うのは女だからなんですよ。男性だって苦しむ女性を可愛がってやりたいと思うでしょうし」

  海老沢もジョセットも、デトレフも、その場に居合わせる女たちも。皆がハッとするような面色となっている。
  雪村は穏やかに問いかけた。
 「いかに人類のためとはいっても、それは五十年後の話です。犠牲になるだけの人生ではあまりに惨いとは思われませんか」
  海老沢は言う。
 「しかし、それはそうでも個人的な愛でないなら、すなわち公娼を意味するのだよ。それをいま許可しろと言うのか?」
  雪村は言う。
 「ですからそうしたモラルは開かれた文明社会でのこと。かつてはどの国にもあったはずの公娼が禁じられ人権が尊重された。なるほど正しい。けれどいまこの状況で作業に疲れ苛立った者たちが、せめてもの救いとして女性に迫ることがあったとして、それをどう処罰するのでしょう? 見せしめの死刑でしょうか? そちらの方が非人間的だと思われませんか。満たされない生活では作業能率も低下するに決まっているし、女性の側にだって、せめて夢ぐらいはと思う人はいるはずです。もちろん強制したりはいたしません。それでもいいと思う者だけ。避妊は私の職務として行えばいいことで。月面にいる皆は若いのですよ海老沢さん」
  ジョゼットが言った。
 「では雪村さんはそれでいいと? 自ら抱かれる覚悟はおあり?」

  雪村はちょっと笑ってうなずいた。
 「寂しいの。それが私の本心です。何をするにも意欲も失せる。同性愛か自慰以外に許されない女の人生は苦しいものよ。ええ、私は許します。せめていまこのときを生の実感とともにありたいから」
  ジョゼットは雪村に微笑んで海老沢に向かう。
 「リーダーは海老沢さんです。私も幸村さんに同感するわ。私は何のために女となって生まれてきたの。寂しいという彼女の気持ちはよくわかる」
  ジョゼットにまでそう言われ、しかしそれでも海老沢は即断できない。最先端プロジェクトのリーダーに人間の性生活までを決めろというのか。
  デトレフがはじめて口を開いたのはそのときだった。
 「人類の穢れのないこの月に死刑台をつくるぐらいならベッドルームの方がはるかにいい」

  海老沢は、そんな言葉をたどるようにデトレフへと眸を向けた。地球でいま何が行われているのか。HIGHLYとLOWER。時代を逆行する蛮行が横行しようとしている。
  海老沢は言った。
 「わかった、雪村君にお任せしよう。女性たちとよく話し合って決めてくれ。哀しい。ただただ哀しい」
  それは地球上での差別も含めて湧き上がる感情だった。
  確かにこのままでは危うい。男たちが殺気立ってきている。しかし海老沢にとって女性もそうだとは思えなかった。性欲は愛の根源。リクツではない切羽詰まった欲情が渦巻いているのである。
  ミーティングが終わってジョゼットは望遠鏡に向かい、少し遅れて海老沢がやってくる。

 「雪村君には頭が下がるよ。女性は女神だ。それができるなら万事うまくいくだろう」
 「そうだと思うわ。私はあなたが好きよ。抱かれたい。地球上ではポーズぐらいはするでしょうけど、ここでは違う。死と隣り合わせ。セックスも今日を生きる意味なんだから」
 「そうだね。まさかの解決法に愕然としたよ。しかしそれは公娼とは違う。断じて違う。そのとき相手を愛して抱くんだ」
 「そうよ、その通り。それを問題とするのなら旅立つ月は人間牧場。誰のものとも知れない精子を受け取って、でもね、女にとってそれでも産まれてくるのは可愛い子供なんですもん」
  海老沢は、椅子に座って機器に向かうジョゼットの肩に手を置いて、そのとき振り向いて涙をためるジョゼットが愛おしく、はじめて唇を重ねたのだった。

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2054年のジョゼット(一話)


  月面に都市を築くという人類の夢は古くからあったのだが、そのためにはまず地球の周回軌道上に大規模宇宙ステーションを整備して、地球上との間の中継点を完成させなければならなかった。地上からじかに月を目指そうとするとロケットに頼らざるを得なくなり、それでは運べる人員や物資に限りがあるからだ。
  海老沢俊允が生まれた2018年当時、形になりはじめていた宇宙ステーションだったのだが、その頃は規模も小さく、地球からいちいちロケットを打ち上げてわずかな資材とわずかな人員を送り込むのが精一杯。月進出以前にまず千人単位の人員が常駐できる宇宙へのターミナルを整備しなければならなかった。
  そのときまでは誰一人、よもや地球が大異変に見舞われようとは思ってもいなく、宇宙開発は未来への想像、科学という学問の延長線でよかったわけだ。

  ところが2036年からのわずかな間に状況は一変した。突如として狂いはじめた太陽の大異変によって平均気温の上昇とオゾン層の急激な減衰が止められない。夢見心地で語り合った火星への移住を急がなければ、このままでは人類が滅亡しかねない。
  そしてそのためのシュミレーションとして月面都市の実現が急務となったのだが、そのときもっとも問題となったのは宇宙空間への資材と人の運搬手段。これまでのような小さなロケットに頼っているわけにはいかない。地上から航空機のように飛び立てて宇宙ステーションとの間を行き来できる大型貨物宇宙船の開発。このとき二十八歳となっていた海老沢俊允は、その開発プロジェクトを進めたスタッフの一人であった。

  かつてのスペースシャトルの数倍のキャパを持つ超大型貨物宇宙船は、航空機そのままにジェット推進で浮き上がり、高度を上げて成層圏に達すると、ブースターロケットにパワーを切り替えて大気圏を脱出する。宇宙空間に出てしまえば重力がないから船のサイズは問題にならない。宇宙ステーションに資材と人を送り届け、ふたたび航空機として地上の飛行場に戻ってくるというものであったのだが、大量の資材を宇宙に届けられるようになったことで、そのとき同時に宇宙ステーションでは、月への移動手段としての究極の宇宙船が計画されていたのである。
  そのとき若干三十歳であった海老沢は、そのアイデアで注目された人材だった。

  人工物など一切ない月面進出の初期段階で、いったいどうやって人が常駐できる施設を創っていくのか。
  海老沢は月を港に見立てようと言う。宇宙ステーションで建造される大型貨物宇宙船をそのまま月面に着陸させてアンカーで固定。居住のためのモジュールとし、同型の宇宙船を次々に送り込んで人が行き来できるスリーブ(トンネル状の通路)でつなぐ。例えて言うなら潜水艦を並べてつなぐようなもの。建物ごとそっくり持ち込んで並べてしまえと言うのである。

  月には大気がほとんどなく有害な宇宙放射線が直射する。太陽光にさらされる日中の地表温度はおよそ110℃、夜間にはおよそマイナス170℃という過酷な環境から、居住するには地下がいいと考えられていたのだが、海老沢はそれにもいとも簡単に答えを出した。
 「低地である平坦なクレーター上に船を並べておいて埋めてしまえばいいのです。まず必要となる地表部分の施設を先に造り、本格的な地下都市の建設はそれからでしょう」
  これに対する反論もあったのだが。
 「しかし、いかに重力が六分の一とは言え、それほどの巨大な船をどうやって月面上に降ろすのか。逆噴射となれば地表が吹っ飛ぶほどのパワーがいるぞ?」
 「反力としての磁力ポートをこしらえるというのはどうでしょう? 先に送り込む船でまずはそこからかかり、追って次を送り込むということです」
  磁石の同極同士がはねつけ合う反発力を着陸時の制動に利用するということだ。それができるなら逆噴射は姿勢制御のためだけの限定的なものでいいだろう。


  そして、2054年。
  月面には、最初に着陸した半球形のドームを持つ船を地上に残してメインモジュールとし、それを取り巻くように五隻の超大型宇宙船が地下に埋められ、総員四千七百名が居住する月面ベースができていた。しかしそれも月面都市建設のための基礎にすぎず、一千万人もの人々を許容する地下都市の建設はこれからだった。
  そうする間にも地球上の環境は厳しさを増していて、七十五億人いた世界人口も三十五億人を割り込んだ。月面都市を一刻も早く。六隻目となる超大型宇宙船が送り込まれ、さらに七隻目が完成間近。計画からわずか数年で月面に総員四千七百名プラス新たに九百名。総勢五千六百名ほどのベースは完成したが、それでもペースは遅かった。

  その六隻目の船に、まだ若く美しいフランス人女性が乗っていたのだが、そのときモジュール5、つまり五隻目に着陸した宇宙船の内部なのだが、そこに造られたトレーニングジムでスクワットをしていた海老沢にはうかがい知らないこと。
  居住スペースであるモジュール内では一気圧が保たれて呼吸も普通にできたのだったが重力だけは六分の一のまま。肉体に負荷をかけるトレーニングをしていないと地球に戻れなくなってしまう。重さ六十キロのバーベルがわずか十キロ。このとき海老沢は地球上でなら百八十キロ、つまり三十キロのバーベルを肩にかつぎ、スクワットで体に負荷をかけていた。

 「海老沢さんですね?」
 「そうですが、あなたは?」

  声をかけた女性はブロンドのショートヘヤー。フランス語。宇宙の旅のために用意された全身ボディフィットのシルバースーツを着込んでいて、知的で美しい女性であった。対する海老沢はトレーニングスウェット。明らかに目的を持って歩み寄る女性に向けて海老沢はちょっと微笑み、オートマチックトランスレーター(自動翻訳装置)のイヤホンを耳にした。月面のベースではこのマシンで言語の別なく会話ができる。

  女性は言った。
 「ジョゼット・バイルと申します。天文学者なのですが、じつは緊急なお話があって参りました」
 「緊急な?」
 「はい。これは国連の決定です」
  国連からの使者? 海老沢はちょっと眉を上げてうなずくと、訪ねて来たジョゼットをチェアの置かれるレストスルームに待たせておいて、シャワーを済ませ、同じくシルバーカラーの男性用のボディスーツに着替えてからルームを覗いた。月への私物の持ち込みは制限される。仮住まいともいえる居住モジュールの部屋は狭い。
  月面で水は循環濾過して繰り返し使われる。シャワーはもちろん人の尿などもそのうちですべてが資源なのである。
 「お待たせしました」
 「いいえ。ですがここではちょっと」
  ジョゼットはそれとなく周囲を見渡す素振り。そのときジムのあるモジュールと同じモジュール5に造られたレストルーム(休息室)には、男女合わせてかなりの人員が体を休めていた。

 「でしたら私の部屋でよろしいでしょうか?」
  ジョゼットはうなずいて立ち上がる。背の高いスリムな女性。立ち上がると173センチある男の海老沢と背丈がそう違わない。
  居住区は地下に埋められたモジュール1~5まで、ほぼ均等に割り振られていた。そうでないと事故でもあれば全滅ということになりかねないからである。
  海老沢の部屋は地下にあるモジュール1の1号室。この月面プロジェクトに関わる人員の中でもリーダー格の人物が居住する部屋なのだが、それでも畳にすれば三畳ほどのスペースしかない。格下の者たちのそれは一人二畳。カプセルホテルに毛が生えた程度のスペースしかないのである。
  M1-001。それが海老沢のルームナンバー。モジュール1には917までルームが並ぶ。

  中へ入ると、シングルベッドよりも狭い跳ね上げ収納式のベッドがあり、小さな白い丸テーブルの向こうとこちらにチェアが二脚。室内に水回りは一切なくトイレさえも共同。食事らしい食事は日に一度、それに固形フーズが一食。この頃までの月面ベースは生存できるぎりぎりの条件だったのだ。
 「どうぞおかけください」
  海老沢は日本語。トランスレーターが訳してくれる。
  ジョゼットはひどく狭い空間を見渡して言った。
 「綺麗になさっておいでですね」
  海老沢は微笑んだ。
 「綺麗も何も余分な物がないだけです。地球の豊かさを思い知りますよ。さて、緊急なお話とは?」
  穏やかだったジョゼットの面色が真顔となった。キリリとして冷たいほどに美しい来訪者。ジョゼットは言う。
 「これはもちろん国連の決定であるのですが、この月面都市の設計変更をお願いしたいということです」
  怪訝な面色でジョゼットを見つめる海老沢だった。
 「それはどういった? どう変えろと言うのです?」
 「ムーンシップ計画と申しますが、この月そのものをSS(スペースシップ=宇宙船)として太陽系を脱出したいという計画があるのです」

  海老沢は言葉を探せない。呆然とする。この人は正気なのか?
  ジョゼットは悲しげな面色で言うのだった。
 「いまからおよそ七十年後になるかと想像しますが、私たちの太陽系はスパイラルアームに接近します。発見したのは私です。いまから二年ほど前のことになりますでしょうか。観測と計算で私がはじき出した結論は・・」
  これは真実です信じてください・・と言うようなジョゼットの面色。
 「私たちの銀河の中で太陽は、地球が太陽の周りを公転するように秒速217キロというスピードで移動しているのはご存じかと思います。太陽がこのまま突き進むといずれスパイラルアームに突入しますが、そのはるか手前の空間に砕け散った星の残骸がリングをつくる中性子星が浮いているのです。その直径およそ二十五kmほどの小さな星だと思われますが」
 「では衝突すると?」
 「かどうかまでは、いまのところ計算の誤差の範囲ですけれど、少なくとも強大な引力圏に捕らえられてしまうでしょう。惑星軌道が掻き乱されて太陽系全体が崩壊する。地球の余命は残りわずか。そこで人類五百万人をこの月にのせて種の存続を図ろうということなのです」

  互いに沈黙し合ったまま。それだけ聞けばジョゼットの言うことはよくわかる。
  海老沢は言った。
 「なるほど。太陽系そのものが終わるとなれば火星へ移住しても意味がない。月を宇宙船として旅立つ。次なる親星のハビタブルゾーン(生存可能領域)に浮かべてやるだけで自動的に小さな地球となれるわけだ」
  ジョゼットは微笑んでうなずいて、しかしその面色はすっきりしない。
 「人類の生き残りを図る一大プロジェクトなのですが、これはトップシークレット。それには理由があります」
 「生き残る五百万人をどうやって選ぶのか。ほとんどは見殺しだ」
 「そうです。すでに壊滅的な地球にそれでも残った三十数億人のうちのたった五百万人ですからね。しかもその八十パーセントは若い女性となるでしょう。あらゆる人種から採取した凍結精子を積み込んだ、いわば宇宙牧場です。そうしなければ近親交配が進んで種は滅びる。月ほどのサイズで宇宙を旅するとなれば気の遠くなる時間がかかり、食料そのほか自前で調達しないとなりません。月のサイズをふまえ、それらを計算し尽くした結果のその人数。大きな宇宙船を建造しようというプランもあったのですが、その場合乗り込めるのはせいぜい二、三十万人が限度であり、それでは目指す場所まで行き着けるかどうかが不安なのです」

  海老沢は混乱する意識の中で正気でいようと努力した。
 「しかしその分リスクは高いと言えるでしょう。大きくても船ならともかく、月ほどのサイズとなると太陽系を二重三重に取り巻く小惑星帯を突破できるのか。地球サイズでも直径十キロの隕石で壊滅するというのに月などひとたまりもないからね」
 「迎撃用の核ミサイルと高エネルギーレーザー砲を装備します。いずれにしろ賭けですからね。賭けに勝つか絶滅するかの道しかない」
  それはそうだろう、そうするしかないのだから。
 「おっしゃることはわかりますが、これほど巨大なものをどうやって推進させるのか?」
 「それはいま地上の専門家たちが知恵を絞っておりますが、海老沢さんならおおよその見当はつくかと」
 「燃料のことまで考慮すると現在の技術レベルでは核爆発推進以外には考えられない」
  ジョゼットはきっぱりとうなずいた。
 「おそらくそうなると思われます。したがって月面都市の計画変更が必要となるわけです」

  核爆発推進とは、巨大なパラボラアンテナのような応力の受け皿を用意しておき、その間際で数秒に一度の割合で連続して核爆弾を爆発させ、その膨大なエネルギーで加速しようというもの。宇宙を旅する究極のエンジンと言われている。オイルなどとは違って燃料はつまり核爆弾であり多くの数が積み込めるからである。
  だがそれにしても月は大きい。水爆レベルの爆弾がどれほどいるのか見当もつかないほど。まさにSFの世界だと海老沢は考えたのだが、それは地球にいる科学者たちが結論を出してくれること。
  太陽系を捨てるということは母星からの物資の補給が一切ない旅を意味する。 五百万人もの人間がその先ずっと生き続けられる水と食料、人間生活に必要なものの一切を許容する壮大な設備がいる。
  海老沢は問うた。
 「タイムリミットは?」
 「旅立ちまでおよそ六十年とみていいでしょう。先ほど言った七十年というのは中性子星の引力の影響が出はじめるタイミングであって、その十年前には旅立ちたい。人と物資の積み込みに数年はかかるでしょうし、スイングバイにさら数年。そう考えるといまから五十年後がリミットかと」
 「五十年でやれと言うのか、たったそれだけの間に?」

  ジョゼットは言った。
 「そのための方策をいま考えているところなのですが、こちらはこちらで想定して進めておかないと時間がない。動物性タンパクは繁殖力の強い鶏や齧歯類(ねずみなど)、食用ガエル、ゴキブリなどの昆虫、ミミズなどもそのうちでしょうけれど、それらの飼育施設が必要です。植物も育てなければなりませんし、それらを加工する工場も必要です」
 「酸素も水もすべてそうだ」
  ジョゼットはうなずいて言う。
 「小さな地球と言えばいいのでしょうけど、同時に地上にも必要な設備はすべて整備しなければなりません。追って相応の人員が送られてくるでしょうが、いまから五十年の間にできる限りのことをする。それからのことは旅立った後の課題です。住みよい環境を創りながらの長い長い旅となる」
  地球にもっとも近い恒星であるプロキシマ・ケンタウリまででも、秒速三十万キロの光の速度でおよそ四年。速度が百分の一なら四百年、千分の一なら・・と考えると途方もない話である。

  ジョゼットは言った。
 「私はいま三十六。そのときまで生きていらられば八十六歳です。そうやって努力をしても旅立ちのときに老人は無用。私はもう二度と地球には戻りません。五百万人の人々のために月で死ぬと決めてきました」
  その言葉を聞かされて海老沢はあらためてジョゼットは狂っていないと確信できた。
 「わかりました、もはや逃げ場はないのですから」
 「月へ行ったら海老沢俊允を訪ねろと言われてきました。あなたがリーダー。どうか海老沢さん、人類のためにやりましょう」
  ごつごつとした海老沢の手をジョゼットの白い手がしっかり握った。

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辞世の一文(序章)



 月面都市から美しい星を見つめて書いている。
 人生の最期にふさわしい、私自身の生き様を皮肉るような言葉。
 これは遺書ではない。そんなものを残したところで
 読んでくれる人類がいるのだろうか。
 そうだ、これはエッセイなのだ。エッセイと言うにふさわしい、
 私の生きた時代を回想する宇宙への書き置きだ。
 記憶媒体ではない紙に書く。進みすぎた文明への反逆のように
 手書きの一文を書き残し、ほどなく私は消えるだろう。
 青い球体に取り残された人類とともに・・さようなら。
 海老沢俊允(えびさわ・としのぶ)。


  2018年。そう今年だ。私は今年の七月に東京で誕生する。
  いまはまだ誕生以前。私は胎児。生まれてはいないのだが母の胎内に確かに宿り、外界への放出を心待ちにして育っている。
  父の名は海老沢謙吾(けんご)、天文学者。その一生を地球外生命、それも知的生命体の発見に捧げた男。変人を生きた父であった。母親は常識的な女性であり、私が十歳のときにたまりかねて離婚した。そのとき父はハワイに移住。私は父に連れられてハワイ島マウナケア山の天文台で育ったようなものだった。

  父という人は、子供だった私の目から見ても狂っていた。
  UFOは地球を訪れていて、我々をはるかに超える知性を持つ宇宙人は存在する。これっぽっちも疑わず来る日も来る日も夜空を見渡し、何やら奇妙な儀式をやって彼らとの交信を試みていたものだ。
  母が愛想を尽かすのもうなずける。人間嫌いでほとんどまともに口を開かず絵空事を追いかける。狂っていたとしか言えなかっただろう。

  だが、そのときはまだ子供だった私は、そんな父を尊敬した。SFの世界にのめりこむ子供じみた父のことが、むしろ私を夢へと誘う。フォーマット人間はつまらない。父は違った。
  私は天文学を志すも、やがて宇宙工学の若き権威と呼ばれるようになるのだが、その原点は毎夜毎夜の父との観測。子供だった私は眸の色を変えて望遠鏡にへばりついていたものだった。
  ところが、そんな私が十八歳から二十歳にかけてのわずか二年の間に、それらは突然やってきた。地球規模の大異変が二つ重なる。

  ひとつは温暖化。
  南極の氷床がついに崩落をはじめ、たった二年の間に海面水位が五メートルほども上昇した。
  なぜそうなるのか。それまでもわずかずつ水位はあがっていたのだったが、いったいどうしたことなのか一気に五メートルほども水位が上昇。地球全体の臨海部は海にのまれ、水位の上昇は止まらない。もしも南極の氷がすべて溶ければ水位は六十メートル以上も上昇すると言われている。世界の都市部は壊滅すると言ってもよかっただろう。

  そしてそれより恐ろしかったのは、オゾン層の急激な破壊であった。
  北緯南緯ともにおよそ50度というから、日本であれば北海道のわずか北から北極にかけて。南半球でも南米大陸の突端あたりから南極にかけて。オゾン層が極端に薄くなり、あるいは消滅してしまう。
  科学者は緊急警告を発したのだが人々は信じなかったし、またその規模では逃れようとしても逃れきれない。
  ヨーロッパであれば、フランス中部より北に位置するドイツ、イギリス、ポーランドそのほか。ロシアは国土のほぼすべて。アメリカ大陸ならアメリカ合衆国北部から北、カナダ全域。南半球に目を移せばニュージーランドの南端、南アメリカ大陸の南端あたりから南極にかけてのエリアが有毒な紫外線に対してまったく無防備。
  たった二年の間におよそ七十五億人だった世界人口が、その段階で五十億人ほどまでに激減した。このまま地球は終わるのか。世界はパニックに陥った。
  生き残った人々は国連の誘導で赤道を挟む安全域に大移動をはじめたのだが、そうなると国家という概念が成り立たなくなってしまう。オゾン層の破壊は目に見えない。見慣れた青空の下、突如として押し寄せる何億人もの避難民は侵略者でしかなく、地球全域の争いとなっていき紛争でさらに数億の人命が失われた。

  このままでは破滅する。そのときになって人類はようやく気づき、すべての国が国境を廃して国家を解体。地球人としての生き残りを図ることに視点が移る。
  遅まきながらも核兵器の全廃が決議され、しかしその処分を核を持つ当事者任せでは危ういということで国連軍が動き強制没収。すべての核弾頭は国連の管理下に置かれることとなる。
  そのときの私は若干三十歳。しかしそれが十八歳からのたった十二年間に起こった、この惑星の破滅的とも言える変化だったのだ。

  すべての元凶は太陽の大異変。
  私が産まれた2018年当時、人類は温暖化を危惧したが、後になってわかったことだが、じつはその頃の地球は小氷河期にあったという。太陽活動が弱まっていて本来冷えてよかったものが温暖化で穏やかな気候が保たれていた。それなのに人類は温暖化対策の成果だと考えて以降の施策が手ぬるくなってしまった。
  そしてその二十年後、私が十八歳から二十歳までの二年の間に、太陽が突如として極大期を超える猛烈な活動をはじめることとなる。降り注ぐ熱量が激増し、大気中に潜んでいた温暖化物質が牙を剥いて温暖化が一気に進む。
  さらにその一方、強烈な太陽光線がかろうじて残っていたオゾン層を一気に減衰させてしまったのだ。オゾンは太陽の紫外線によって生成されるが、また紫外線によって分解される不安定さを秘めている。

  世界の頭脳がようやく本気になって温暖化物質の除去装置とオゾン層回復のためのオゾン供給装置の開発に取り組んだ。しかし遅い。研究と開発、さらにその設備の建設に時間を要し、それらがはじめて稼働したのは、それからさらに十年後。急激に上昇する海水温は深海部のメタンハイドレートを崩壊させて、二酸化炭素よりさらに悪いメタンガスを大量に放出した。海面上昇は二十メートルを超え、オゾン層の破壊も北緯南緯それぞれ40度のラインにまで進んでいた。
  北海道の全域が住めなくなった。人々はますます安全域に圧縮されて世界人口も三十五億人を割り込んだ。

  それとは多少前後するが、三十四歳になっていた私は宇宙工学ならびにロケット工学の専門家として月面都市の建設に参画していた。
  月で人が暮らせる都市を創ろう。それはやがてくる火星への移住のためのステップでもあったのだが、そのためにはまず大量の資材を地球でこしらえ、月へ運び込まなければならなくなる。計画当初は月面基地の大きなものというコンセプトだったのだが、地球の危機を受けてできるだけ多くの人々を移住させられるものにしなければならなくなった。

  月には大気がほとんどなく有害な紫外線も宇宙線も素通しで降り注ぐ。重力は地球の六分の一、もちろん水はないに等しい。
  飲料水をどうするか食料をどうするか。それぞれ月で調達しないと逐一地球からは運べないし、地球上と同様に人間生活のすべてを許容できる設備が必要となる。大量の資材を運べる巨大貨物宇宙船の建造が先決であり、私たちがその先頭に立ったということだ。
  私たちは懸命だった。人類が危うい。温暖化物質の除去とオゾン層の修復がなるまで何としても持ち応えなければならない。月面都市に一千万人は移住させておきたいという壮大なプランに向けて奮い立つ作業が続く。

  女性のことなど考えている余裕はなかった。そのときの私はいつの間にか三十六歳になっていて、いまだ独身。月面都市の建設現場で出会いがあった。
  フランス人天文学者のジョゼット・バイル、同い年の三十六歳。彼女もまた月面天文台の建設に携わるブレーンの一人だったのだが、彼女は国連よりの密命をおびて月へと送られた女性であった。

 「何だって? 月そのものをSS(スペースシップ)にできないか? 正気なのか君は?」

  私は声を失った。ムーンシップ計画。月をまるごと宇宙船とし五百万人の人類とともに太陽系を脱出するプランがあると言うのである。もちろんトップシークレットのプロジェクト。
  彼女は言った。
 「いまからおよそ七十年後、太陽系はスパイラルアームに接近します。観測と計算で私がはじき出した結論は・・」
  悲しげな面色で語尾が弱い。

  スパイラルアームとは、私たちの渦巻き銀河の中で螺旋を描いて見えるひときわ星々の集まる領域。星の密度が高いのである。
  私たちの太陽系は、そのアームとアームの間の比較的星の少ない領域を移動するからこれまで安泰でいられたということで。
  彼女は言った。
 「発見したのは私です、いまから二年ほど前だったでしょうか。太陽がこのまま突き進むといずれスパイラルアームに突入しますが、そのはるか手前の空間に砕け散った星の残骸がリングをつくる中性子星が浮いています。直径およそ二十五kmほどの小さな星だと思われますが」
 「では衝突すると?」
 「かどうかまでは、いまのところ計算の誤差の範囲ですけどね、少なくとも強大な引力圏に捕らえられてしまうでしょう。惑星軌道が掻き乱されて太陽系全体が崩壊する。地球の余命は残りわずか」
  私は実感が伴わず、ただただ気が遠のいていくようだった。
  地球上でも月面でも人類のためにと死に物狂いでやってきたのに、これまでの努力は何だったと言うのだろう。

  中性子星は、超新星爆発によって生まれるブラックホールになりきれなかった小天体であり、直径わずか二十キロほどのちっぽけな星に太陽をまるごと一個押し込めてしまったような馬鹿げた質量を持っている。角砂糖一個の重さが数億トンの世界を想像してほしい。その引力は悪魔的と言わざるを得ない。

 「なるほど、それで月そのものを宇宙船にしてしまうというわけか。次なる親星のハビタブルゾーンを周回させるだけで小さな地球となれるわけだ」

  彼女は微笑んでうなずいた。私だってもともとは天文学を志した男。そのぐらいのことは知っている。増してや私の父は地球外生命を探すことに人生を捧げた天文学者。
  人類が太陽系を離れて新たな惑星へ移住しようとすれば、中心星となる恒星のハビタブルゾーン=生命居住可能領域に位置する惑星を探さなければならなくなる。中心星に近いと炎の球、遠いと氷の球となり生命の星とはなり得ない。地球外生命を探すネックがそこにある。
  ある恒星のハビタブルゾーンに月を浮かべて周回軌道にのせられれば地球そのものの温暖な気候が自動的に得られるわけだ。これまでのように生存に適した惑星を探すこともなくなって適当なサイズの恒星ならどこでもいいということになる。

  ジョゼットはきっぱりとした意思のある眸色で言った。
 「トップシークレットには理由があります」
 「五百万人をどうやって選ぶのか。ほとんどは見殺しだ」
 「そうです。すでに壊滅的な地球にそれでも残った三十数億人のうちの五百万人ですからね。しかもその八十パーセントは若い女性となるでしょう。あらゆる人種から採取した凍結精子を積み込んだ、いわば宇宙牧場です。そうしなければ近親交配が進んで種は滅びる。月ほどのサイズで宇宙を旅するとなれば気の遠くなる時間がかかり、食料そのほか自前で調達しないとなりません。月のサイズをふまえ、それらを計算し尽くした結果のその人数。大きな宇宙船を建造しようというプランもあったのですが、その場合乗り込めるのはせいぜい二、三十万人が限度であり、それでは目指す場所まで生き抜けるかどうかが不安です」

  ジョゼットの言うことは理解できた。しかしこの人は本気で言っているのだろうかとまたしても呆然としながら、私は問うた。
 「しかしその分リスクが高い。大きくても船ならともかく、月ほどの巨大サイズともなると太陽系を取り巻く小惑星帯を突破できるのか。地球サイズでも直径十キロの隕石で壊滅するというのに月などひとたまりもない」
 「迎撃用の水爆ミサイルと高エネルギーレーザー砲を装備します。いずれにしろ賭けですからね。賭けに勝つか絶滅するかの道しかない」

  太陽系には、火星と木星の間にアステロイドベルト、天王星近辺にカイパーベルト、さらにその外側にオールトの雲と、危険な小惑星帯に二重三重に取り囲まれていて、月ほどのサイズともなるとかなりな引力があるから巨大隕石を引き寄せてしまうリスクが伴う。大気のない月。小さな石であっても燃え尽きずにそのまま落下するだろう。

  私は、さらに問いかけた。
 「タイムリミットは?」
 「旅立ちまでおよそ六十年とみていいでしょう。先ほど言った七十年というのは引力の影響が出はじめるタイミングであって、その十年前には旅立ちたい。人と物資の積み込みに数年はかかるでしょうし、スイングバイにさら数年。そう考えるといまから五十年後がリミットかと」
  スイングバイとは、地球の引力圏を脱出するため月の周回軌道を利用して加速していき、その遠心力とロケット推進を合わせた力で地球の引力を振り切るということである。


  さて。

  そのとき私とジョゼットは美味しい珈琲を飲みながら地球を見つめていた。
  厚さ十五センチの特殊アクリル樹脂で造られた月面ドームから見渡すと、闇のかなたに青く美しい故郷が浮いている。

 「宇宙の宝石が消えていく。そんなことがあっていいのか」
 「そうね。でも私は地球に生まれた最期の幸せは謳歌できたわ。あなたとの愛もですけどね」

  ムーンカフェのカウンター。穏やかにジョゼットが笑い、私も微笑んで見つめ合う。私もジョゼットも六十六歳になっていて、どちらもが現役ではなくなった。
  あれから三十年、私たち二人は一度たりと地球へ戻ってはいなかった。
  私たちは宇宙へ旅立つ以前の月で死に、月面の荒野に晒されてミイラとなって存在する。宇宙に生きた人生に宇宙で死ぬことで幕を引きたい。それを条件にあることを引き受けた私とジョゼットだったから。

  もういい終わらせよう、愚かな人類に未来などあってはならない。

  ジョゼットと出会ったちょうどその頃からはじまった地球上での暴挙の数かず。
  それらに加えてなお国連から命じられた二つの職務が私たちを失望させた。
  人類とはどうしてこうも愚劣なのか。ジョゼットと出会ったとき、月そのものを宇宙船として宇宙で生きるという一筋の希望があったのだが、それもついえた。

  職務の一つは、核放棄で押収し国連が管理していた核兵器のすべてを宇宙空間へ投棄する。二つ目は、火葬とすれば膨大な二酸化炭素を排出し、といって腐敗すればさらに深刻なメタンガスを放出するということで、地球上に放置されたままだった累々たる人や動物の死骸を宇宙へ捨てる。
  この二つのプランを告げられて、そのための運搬船の建造を任されてから、人類に対する私たちの思いは定まった。

  この美しい宇宙からくだらない生命体を消し去って次の世代の銀河へと手渡したい。私たちは愛し合い、けれども私たちは孤独だった。

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