女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

カテゴリ: 白き剣

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十三話 陰童子


  ひどく枯れ果て、思わず手を差しのべてやりたくなる老爺は、粗末な綿入れを脱ぐと、下にはやはり綿の入った作務衣のような着物を着ていた。冬の深夜で冷えたのか火鉢の焔に手をかざし、背を丸めて寒そうにしている。その姿はもはや人とは思えない。黄泉国から迷い込んだ亡霊のようでもある。
  鷹羽は茶を淹れて卓袱台に置いてやり、たたまれた夜具の中から掻巻布団を手にすると細く萎びた体にかけてやる。
 「すまぬな。わしなどなぜに生きておるのかわからぬ齢よ」
  独り言のようにそう言って赤い炭火に骨と皮となりはてた手をかざす。この老爺は、はたしていくつほどだろうと鷹羽は思った。八十やそこらではない気がする。人の生気のようなものが感じられない。

 「ふっふっふ、物の怪じゃと思うておろう? そなたごとき小娘の胸内など見透かせるというもの。このわしの中にも陰童子(いんどうし)の血が流れておるゆえな」
  これほどの年寄りでありながら、そばにいて怖気(おぞけ)のする者を見たことがない鷹羽。声も出せず見守っていた。
  老爺は言う。
 「陰童子とはすなわち物の怪。魔界に棲む化け物じゃと思えばよかろう。風間小太郎は兄のようなものじゃった」
 「なんと」・・と鷹羽は呻くように言うと今度こそ声を失って、炭火に照らされて赤い老爺の横顔を見つめていた。
  風間小太郎とはつまり風魔小太郎。百年以上も前に処刑された風魔忍びの総帥である。その小太郎と兄と言うは、すなわちこの老爺の歳が知れる。百十歳をこえているというのだろうか。

 「わしは久鬼(くき)と申してな。小太郎めが怖がって一党から追い払った男じゃよ。されどそのとき、わしの血はすでに風魔の女に注いであって、幾年(いくとせ)世を経て、やがて化け物を産んだということじゃ。にわかには信じられまい、のう伊賀の娘よ」
 「あたしのことをいかにして?」
 「陰童子というもの心などは見透かせる。言わずと知れた伊賀の鷹女(ようじょ)よ。違うかの? ふっふっふ」
  怖い。身の毛がよだつ。この老爺に隠し事は通じない。気が遠のいたほんの一瞬、あたしは丸裸にされてしまった。さしもの鷹羽も老爺の前では赤子も同然。
 「わしにはわかるのじゃ。わしの血を受け継ぐあの者が動いておる。柳(やな)とその娘の葛(かづら)じゃよ」
 「柳と葛?」
 「そうじゃ。母は化け物、されど娘にその力はそうはない。そなたに頼みたいことがある。柳は災いをもたらすだけの者。されどその娘は違う。我が血を絶やさぬよう守ってやってほしいのじゃ。このわしが若ければ立ちもするが、もはやいかん、柳には勝てぬ。柳は化け物、心してかかることじゃな」

 「柳は白き雪の森の淵におり、しかしいまは江戸におる」
 「白き雪の森とは?」
 「この街道の行く先よ。そなたらは散ったゆえに見落とした。この街道の行き先の美しき湖(うみ)が淵。家康が神となりてそこにおるわい」
 「ならば日光?」
  久鬼は骸骨と化した小さな顔を横に向けて鷹羽に微笑む。
  鷹羽は問うた。
 「柳と申す者、いまどこに?」
 「さてな、それはわからぬ。わしが柳を感ずれば柳もまたわしを感ずる。邪視を用いれば念の波動が伝わって知れるというもの。この道筋のどこかで柳の念を感じたゆえ、こうして出て来た。されどそこでぷつりと途絶えた」
  鷹羽はそれでも半信半疑。そのようなことがあるものかと探りの眸色で久鬼を見つめる。
 「して老師、老師ほどのお方が勝てぬ相手に我らはいかにして臨めばいいのかと?」
 「無あるいは止水のごとし。念を跳ね返すもまた念じゃが、念を持たぬもまた力よ。よいか小娘、きっと頼むぞ、娘だけは救ってやってほしいのじゃ」
  それだけを言うと久鬼は疲れたと言って、たたまれた夜具を見た。鷹羽は布団をのべてやって老爺を寝かせ、すぐそばに座って目を閉じた久鬼を見る。
  童のような寝顔。
 「寒くはござらぬか?」
 「少しな」
 「はい」
  鷹羽は布団をめくらないようそっと上げ、添い寝をして横たわる。なぜそうしたのか鷹羽にもわからなかった。百十余年を生きた神のような男だからか?

 「そして逝ったと?」
  美神の問いに鷹羽はちょっとうなずいて顔を伏せた。
  添い寝をして寝てやって、朝には冷たくなっていた。久鬼が逝った。最期の力を振り絞って思いを伝え、そして逝った。
  翌日、鷹羽は鷺羽鶴羽を集め、夕刻前には揃って艶辰に戻っていた。
  鷹羽の報告で今宵の座敷はすべて断り、皆が揃って話を聞いた。男芸者の二人、お艶さんの三人娘とお光はその場にいない。
  鷹羽が言う。
 「なにやらわけもわからぬうちに、あたしは爺様といるような心持ちになれていて心が静められていたんです。穏やかな死に顔でした」
  美神は静かにうなずき、そして皆を見渡した。
 「これで敵が知れたというもの。おそらくはその柳なる者の力を借りて何者かが画策したもの。それについては知れてはいない」
  そのとき宗志郎の右に置かれた青い鞘の真新しい剣に目をやり、品川あたりで東海道を張っていた鶴羽が言った。ハッとしたように剣を見た鶴羽の目に気づいた宗志郎が新しい剣へと目をやった。

 「そう言えば西国の者どもがちょっと」
  それがかかわりのあることなのか、どうなのか、鶴羽の声は大きくはなかった。
 「西国の商人どもの話を聞いたもので。その者らはこう申しておりました。『儲かりますな。なにしろ鉄の採れないところが、にわかな鉄の産地。売れて売れてなりませんなと」
  宗志郎が言う。
 「鉄の採れない鉄の産地と言ったのだな?」
  鶴羽はうなずき、そして応じた。
 「そのときは探るものでもなく聞き流してしまったのですが、おかしな話だと思ったもので」
  宗志郎は黒羽を横目に見、黒羽もまた宗志郎へと目をやった。
  宗志郎が誰にともなく言う。
 「鉄などないのに鉄の産地ということは、諸藩が下げ渡した古い武具がどこかに集まり、この刀のような新しい武具として生まれ変わる。弛んでいるのは外様よりも親藩そして譜代であり、そこから流れた古鉄でつくった優れた武具ができているとすれば、商人どもはどうすると思う?」
 「売り先を探すだろうね」
  黒羽が言って宗志郎はうなずいた。
 「世が乱れれば呑気な徳川方などはさておいて外様どもは武具を揃え直すようになるだろう。鉄がないのに鉄の産地となったところとすれば、売れるなら莫大な財ともなろう」
  美神を襲ったのは明らかにどこぞの藩に仕える武士だった。と言うことは、武器商人とどこぞの藩がつるんだ企て。紀州藩から将軍が迎えられ、尾張としては面白くない。また将軍吉宗の時代はこれからであり、乱すならいま。

 「黒羽、行くぞ」
  ふと出会った一刀が深みに行き着く鍵となるかもしれない。宗志郎は真新しい青鞘の剣を取り、黒羽と二人で立ち上がる。この刻限なら美鈴はまだやっている。話ぐらいは聞けるだろう。
  そしてそれと同時に、美神は鶴羽ら三人のくノ一に言った。
 「いま言ったあたりに絞って探る。鉄の流れと武具の動き。売るのは誰か。得をするのは誰かだよ」
  鶴羽はうなずき、鷹羽と鷺羽に目配せして座を立った。
  斜陽の下を歩きながら宗志郎は言う。
 「さりとて合戦までを望むわけではあるまい。世が乱れる気配でいい。商人どもの企みなら売れればよし。また背後にどこぞの藩が控えておるにせよ、倒幕を企てたと知れれば潰されるは必定」
 「あくまで商い?」
 「そういうことだ。したがって敵は紀州藩そのものには手を出さない。出入りの商人であらば武家に害はさしてなく、世を騒がせることはできるだろう。その柳とやら、隠れ家は日光と言ったな」
  黒羽はハッとする。
 「日光と言えば下野(栃木)、天領でもあり、下野佐倉藩はそれこそ御老中、戸田様の領地」
 「そういうことだ。下野に幕府の目が向けば戸田様を失脚に追い込むこともできるだろう。厳格厳正ゆえ、うとましく思う輩も多いゆえな」

  この剣は備前の刀工の手になるもの。宗志郎は腰の青鞘の刀に手をやって考えた。
  備前岡山と言えば豊臣家五大老の一人、宇喜多秀家からはじまる土地柄。その後、あの小早川秀秋を経て、池田家に受け継がれた外様の領地である。
  いまさら池田が謀反を企てるとも考えにくいが、これで少しは見えてきたと宗志郎は確信した。備前はもともと刀剣の産地であったのだが、太平の世が続いて刀剣の需要が減ったため備前の刀工は減る一方。藩としてもそうした者どもを守らなければ財政が苦しくなる。そこに古鉄を扱う商人どもがつけ入ったということか?
  さらに紀州家から出た八代将軍吉宗は、逼迫する幕府の財政をふまえて倹約へと舵を切る。尾張は違う。御三家筆頭の尾張徳川家。徳川の栄華を示そうと、何かにつけて倹約には異議を唱える考えだ。
  そう思うと、黒幕の背後にさらに黒幕がいるということも。武具までにおよぶ倹約は尾張としてはますます許しがたい。徳川の弱体化につながりかねないからであり、そうした吉宗の目論見を厳格厳正に行う老中の戸田が目障りなのだ。
  すべてに辻褄が合ってくると宗志郎は考えた。

  永代橋を渡って八丁堀の縁にある刀剣そのほか武具の店、美鈴。
  宗志郎と黒羽の二人が歩み寄ると、店じまいの刻限だったが、主が帳簿の書き込みのためか店先に座っていたのだった。
 「これはこれはお武家様、それに奥様も。何か不具合でもございましたか?」
  宗志郎は微笑んでそうじゃないと首を振った。
 「じつは拙者の知り合いに見せたところ、ぜひにも見たいと言うのだが、これと似たようなものはあるのかと思ってな」
  店主は嬉しそうな顔をしたが、いますぐではむずかしいと言う。
 「それほどのものとなりますれば出入りの問屋に探させねばなりませんし、おそらくは新たに打たせることになるものやと」
 「そうか、ならばやむをえまいな。こうしたものはそう多くはできぬものか? その備前の刀工とやらには?」
  主は微笑んでうなずいて言った。
 「まずもって鉄が足りませぬ。古い鉄は大坂あたりの鋼商(こうしょう)どもが集めて回っておるですが、なにぶん質が良いもので、備前だけでなく、京は山城、奈良なら大和、美濃もあれば相州(相模)もあり、そうした方々の刀の産地に買い付けられてしまうのですよ」
 「ふむ、左様か」
 「はい。さらには堺あたりの鉄砲鍛冶もありまするが、大坂あたりは天領でもあり御公儀の目もありますゆえ、そうそう多くは造れませぬ」
  幕府は刀剣ならともかくも鉄砲や大筒を厳しく取り締まっていて、個人での所有を禁じていた。藩として買い付けるには幕府の許しがないと勝手に調達するわけにはいかない。
  さらに店主は言った。
 「また、古鉄もあるときはありまするが、なくなるといつ出るとも知れぬもの。ときとして関ヶ原以来の古い大筒や鉄砲などが多く出回ることがあり、そうしたときには新たな剣も造られるものですが、ともかく古鉄はそう多くはありませぬ。まあ、とは申せ、ぜひにもとおっしゃっていただけるなら手を尽くして探してはみますが、おそらく新たに打たせることになるかと存じます」

  宗志郎は、さも残念という素振りを見せて、それとなく言った。
 「諸藩としても武具をあらいざらい吐き出すわけにもゆくまいしな」
 「左様でございますな。お武家様には失礼ながら、諸藩それぞれ懐具合もございますでしょうし、百出して百揃えるわけにもいかず、せいぜい新たに二十といった有様ゆえ、それではイザというとき足りませぬ。よって古い武具も備えておかねばなりませぬゆえ」
 「うむ、まさに」
  と、そこで店主はこう言った。
 「とは申せ、先ほども申し上げた刃物の産地では古鉄は奪い合い。武具と申しても古くなれば使い物にはなりませぬし、鉄砲など百出して二十を入れてもそれが新式鉄砲となれば話は別。関ヶ原以来の古い火縄銃などもはや鉄屑同然ですゆえな」
 「ほう、そんなものなのか?」
 「そんなものでございますとも。いかに鎖国とは申せ、そこはそれ、新たなものはどこぞから入ってくるもの。南蛮渡来の連発銃にいたっては一丁で古い銃の数丁分の働きをすると申しますし、古い大筒一門分の鉄で多くの新式銃が造れるもので」
 「なるほど。すると鍛冶どもを多く抱える藩にとっては金づるともなる?」
 「いかにも左様にございますが、それらのほとんどは西方の藩かと存じます」
  江戸の周辺、大阪の周辺と尾張の周辺、そこは天領(幕府の直轄統治)、親藩そして譜代で固めておいて、外様の大大名の多くは遠くに配してある。つまり鉄で得をするのは外様ということになるわけだ。
  参勤交代では国元が遠いほど移動に莫大が金がかかる。そうなると外様は苦しい。なりふり構わず財をなそうとするのもうなずける。
  宗志郎は黒羽にちょっと目配せをし、それから店主に言った。
 「よくわかった。急ぐものでもないゆえ折をみてあたっておいてくれればよい。ともかくもう一振りだ」
 「かしこまりましてございます」
  店主は腰を低くして若い侍とその奥方を送り出す。

  歩きながら宗志郎は言う。
 「新式銃か」
 「あり得る話です」
 「まさに。そうしたものを公儀に持たれ我が身が古式では話にならん。武器商人の思うツボ。世を騒がせればますます引き合いも多くなろう」
  仲むつまじき夫婦を気取ってそぞろ歩き、その頃暗くなってきて、二人はその足で宗志郎の小さな家へ向かうのだった。

  八丁堀の縁からそう遠くはない宗志郎の小さな家ではあったが、そぞろ歩いてやってくると闇が濃くなり、夜冷えの風が流れていて、家の中はひっそり冷えて静かであった。
  のべられたままの夜具にくるまり、久鬼と言う枯れきった老爺が穏やかに眠っている。宗志郎は黒羽と並んで掌を合わせ、安心して眠るような久鬼を見つめた。
 「まさに仙人のごとき穏やかな顔だ」
 「心残りを鷹に伝え、最期は鷹に抱かれて逝ってしまった。さぞ安堵したことでしょう」
  それにしても、いまから百十五年も前に死んだ風魔小太郎を兄のようなものと言った、この老爺。それだけの歳月を生きていただけですでに仙人のようなものである。気づいたら死んでいた。たまらなくて抱いてやったと鷹羽は言った。
  身内のような気がしたのだろうと宗志郎は思う。

  とそこへ、その鷹羽と鶴羽鷺羽の二人がやってくる。夜陰に乗じて屍を運び出す。どこぞの寺で葬ってやりたいと考えた。老爺を運び出してより、三人のくノ一には柳を追う役目がある。
  老爺の亡骸を一目見た鷺羽が言った。
 「眠っているよう」
  皆がうなずき、宗志郎は言った。
 「こなたのおかげよ。もやもやとしたものがつながった。我らで弔ってやろうじゃないか。百十余年を生きるとは、なんと見事な男であろうのう」
  三人は一様にうなずいて、やさしい娘の目を向けた。いまを生きるすべての忍びの父のような老爺である。
 「では、あたしらはこれで」・・と鶴羽が言うと、黒羽が応じた。
 「ご老体の念が消えたと悟った柳はいずれ動く。藩として表立ってかかわるわけはなかろうから、出入りの商人をあたることだよ」
  三人はうなずいて、布団にくるんだ久鬼の亡骸を運び出し、荷車に載せて去っていく。

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十二話 鉄のゆくえ


「槍を錆びさせるとは武家も堕ちたものだ」
  宗志郎は小声で言って闇の虚空を見つめていた。
  翌日の艶辰の夜。宗志郎のために支度された部屋に独り。忍び寄る女の気配を感じ、宗志郎はそんな考えを中断した。
  襖がそっと開いて灰鈍色(はいにびいろ)の寝間着姿の黒羽が入ってくる。今宵の黒羽は少し帰りが遅くなり、湯から出たところであった。黒羽は静かな闇の中に横たわる末様の隣りへ音もなく寄り添った。
 「温かい」
 「いま湯から」
 「うむ? そうじゃない、この艶辰のこと。夕べも鷹羽が泣いていた。女将さんに羽をもらったなと言うと、そっと背を向けて泣いているようだった」
 「抱いてやればよかったのに」
 「それでいいのか?」
  そっと抱かれ、背を撫でられて黒羽はちょっと笑うのだった。
 「あたしを気にして?」
  末様は応えない。何かを言えば無粋というもの。

 「しかし」・・と言って宗志郎は、女の柔肌とはまったく逆にある武士の武器を考えた。槍や鉄砲を錆びさせる武士の堕落。太平の世が弛めてしまった武士の心。それは外様よりも親藩や譜代に顕著。徳川の世が定まって外様どもは諦めの境地。そしてそれが徳川方の備えを増して弛めてしまった。
  宗志郎は言う。
 「庭番の世か」
 「忍びなど無用の長物」
 「まあそうだ。鷹羽が言っておったよ、仕えた主家では蔵で槍が錆びていると」
 「今度のことも、そのへんに不満を持つ者どもの仕業かも」
 「あるいはそうかも知れぬ。刀が折れると嘆いておった」
 「刀が折れる? どなたが?」
 「城中の者どもさ」
 「それもまた太平の世の移ろいかと」
  黒羽は抱きすがる末様の背をそっと撫で、その手が降りて引き締まった男の尻をそろそろ撫でる。

  刀というもの、鋼(はがね)でつくる。しかし慶長の頃というから江戸幕府ができる頃にその製法が変わってしまった。製鉄の技術が進み、混じりものの少ない刀の地金ができるようになると、鋼は硬度を増して切れる刃となっていく。
  けれども硬くて切れる分、折れやすくなってしまい、当時の刀鍛冶は粘りのある鋼を抱き合わせるなど工夫を凝らして折れにくい刀をつくったものだ。
  しかるに太平の世が続き、刀を持つ意味がなくなると技能に優れた刀鍛冶も減っていき、未熟な刀工がつくった刀が折れやすくなってしまったのだ。
  慶長以前の古い刀を『古刀』と言い、それ以降を『新刀』と言って区別している。古刀は鋼に不純物が多い分、粘りがあって折れにくく、またその頃は優れた刀工も多くいた。これは鉄すべてに言えること。したがって古い武器や古釘、農具など、古い鉄が高価で取り引きされたものである。

  しかしこのとき、宗志郎も黒羽も、話の成り行きでそこへいったに過ぎなかった。

  闇の中で抱き合って目を見つめ、唇を重ねていく。末様の手があやめの寝間着に忍び込み、あやめの手が末様の下穿きに忍び込む。
  二人横寝になったまま、あやめはくるりと後ろを向かされ、背越しに抱かれて白い乳房を愛される。
 「ぁぁ末様」
  乳房を愛され、うなじにそっと男の唇が這い、黒羽はふるふる震えだす。
  乳房をくるんだ片手が滑り、鳥肌の騒ぐ素肌を撫で降りて、性の飾り毛を撫でられて指先が女の谷底へと降りていく。
 「く・・」
  声を噛むあやめ。腰を張って尻の谷を強く勃つ末様に押しつけて、黒羽の女体がしなやかに反り返る。
  あやめの花はおびただしく蜜を流し、寝間着の尻がめくられて黒羽は手を噛み声を殺す。熱い熱い強張りが尻の谷越しに性の花を蹂躙し、ぬむりぬむりと黒羽を犯す。
 「んっ・・くぅ」
  どこか遠くへ行ってみたい。淫らな声を吼え散らして達してみたい。
 「あやめ」
 「末様、あぁぁ末様ぁ」 と甘く喘ぎ、そして黒羽は言う。
 「鷹のことも可愛がってやって。あたしとおんなじ。鷹だって末様が好きなんだから」
  馬鹿なことを言うんじゃないと言うような鋭い突き上げが女体の奥底までをも貫いた。
 「ぁむぅ!」
  白い尻が振り立てられて黒羽は夢の空へと羽ばたいた。

  そしてその頃、美神の寝所。
  今宵も座敷でさまざまあったお艶さんの三人娘が、一糸まとわぬ美神の裸身に群がっていた。達しても達しても次々に襲う性の高み。美神は女体のすべてを与え、泣いているかのようにとろんと眸を潤ませているのだった。
  気が遠くなる高みに耐えて己を捧げ、それからも美介彩介恋介の白い腿を開かせきって、それぞれの花蜜を吸い取るように舐めてやる。
  四人の裸身が絡み合い、そのまま眠りに落ちていく。そうして眠って翌朝になると、座敷であったすべてのことが忘れられ、若い三人の女たちは美神によって洗われる己を感じて生娘の心に戻れるのだった。
  艶辰の中でたった一人、お光だけは、美神に尽くすだけで褒美をもらったことがない。お光には男芸者の二人をあてがう。お光の若い花までは犯さないというだけの男女の肌合わせ。お光にはそれがいいと考えた美神であった。
  お光にだけは艶辰の役目を背負わせたくないのだが、そのお光は剣の稽古に励んでいる。心苦しい美神だった。

  翌日もまた冬晴れで江戸の空に雲がない。それなりに寒くても風がなく、陽射しが冬を春へと押しやっているようだ。
  末様とあやめは永代橋を渡って歩き、八丁堀の縁まで来た。そのときそこに黒羽も知らない刀剣の店ができている。いつの間に。
 「こんなところに刀。ここは確か米屋だったと思うのですが」
  刀剣『美鈴(みすず)』という板焼きの刻印のある看板が上がっていて、その店の少し奥に刀や匕首が並べられていたのだった。その中の白木の鞘におさめられた一刀が目についた宗志郎。いい刀は仕込み杖のようにして置かれてあって鞘や柄は刃の保護のため。鞘や鍔は別に好みを選んで刀に仕立てるものである。
 「これはいらっしゃいませ、お武家様、奥様も」
  店の主人らしい四十年配の男が腰を低くして言う。
  奥様と呼ばれた黒羽は恥ずかしい。一歩退いて店の中を見渡していた。
  このとき宗志郎は普段着の着流しだったが一見して凜々しい武士。片やの妻も、あたりまえの姿でも品がある。これは上客と店主は思ったのかもしれなかった。

  刀剣の美鈴はできたばかり。店の中に真新しい木の香りが漂っている。
  宗志郎は白木の鞘におさまった一刀を取り上げた。横一文字に拝み取り、そっと刃を抜いてみる。
 「これは」・・と言ったきり声をなくした宗志郎。そばにいて覗き込む黒羽の目もキラと光る。

  その刃文(はもん)は、鎌倉時代を思わせる華やかな重花丁字(じゅうかちょうじ)と呼ばれるもので、鍛え肌は杢目(もくめ)。鍛え肌とは刀工が鉄を叩いて整形するときにできる地金そのものに浮き立つ模様のことである。
 「ふうむ、見事なものだ」
  店主は腰を低くして笑う。
 「さすがでございますよ、お武家様は。それほどのものは滅多にそこらにございません。それは備前(岡山あたり)の刀工、定晴(さだはる)の手になるもの。歳は若くしてなかなかの腕を持つと評判なのでございますよ」
 「そうか定晴と言うか。うむ、これは見事だ。これほどのものは滅多になかろう」
  鞘を黒羽に預けておいて、宗志郎は剣を構え、その重さの配分もこれよりないというほど素晴らしい。
 「していかほど?」
 「三十と申したいところ、お武家様はお目が高く、お刀にふさわしき主かと。よろしければ二十でいかが? 鞘と鍔、それに小柄(こづか)もともにということで」
  これで二十両は安い。一両の価値はモノによっても変わるものだが、およそ十数万円だと思えばいい。つまり三百万円弱となるわけだ。これほどの刀であれば三十してしかるべき。そこらの武士の刀はせいぜい数両で求められるものであり、それらとは格が違う。

  店主は言った。
 「それは鍛え直しの一振りでして、古鉄(こてつ)の薙刀二柄(なぎなたふたえ)を刀の一振りに鍛え直したもの。ゆえにお安くはできませぬ。まず折れもせず刃こぼれもせず、無名ながら胸を張っておすすめできる名刀かと存じます」
  黒羽もそう感じて刃を見つめた。これは古刀の名刀にも匹敵する見事な一振り。宗志郎様にこそふさわしいと思って見ていた。
  しかし安くても高い。
  宗志郎は言う。つい昨夜考えたばかりのことである。
 「古鉄の薙刀を鍛え直すと?」
 「左様でございますとも。西方のある藩が武具の入れ替えのため下げ渡した薙刀で鍛え直した一振りで。物の価値と申しますが、失礼ながらお武家様方は錆びた古鉄とすぐにそうして見放してしまわれる」
 「ううむ、左様か」
  このとき宗志郎の中にもやもやとした思いがあった。そうやって捨てられる刀剣がどれほどあるのか。そしてそれらが、いまの刀剣よりも優れた刀となって蘇る。それをいったい誰が手にするのだろうと。
  しかしこのときもまだ、ふと思ったまでのこと。
  見事な刃に目を細め、そっと鞘におさめる宗志郎。宗志郎の腰にあるいまの刀も新刀。それはそれで見事なものだが、くらべるとやはり格が違うと黒羽は思った。

  黒羽は言った。
 「ではそれを青い鞘に仕立てておくれ」
 「青でございますか?」
 「青が好きです、空の色」
  宗志郎は黒羽を横目にするのだったが、「それはあたしが」と言うように黒羽はちょっとうなずいた。
  店主は言う。
 「かしこまりましてございます。では十日ほどお暇をいただいて、さっそく名工に委ねましょう」
  鞘や柄(つか)には、それを専門とする職人がいるものだ。
 「今日のところはこれで」と言って、黒羽は手付けの三両を手渡した。
  店を出てから末様が言う。
 「確かにあれは欲しい刀、金は俺が用意する」
 「いえ、それはあたしが」
  末様は微笑んでうなずくと黒羽の肩をそっと抱いた。金は俺が用意する。あやめの心が嬉しかった。

  伊豆から戻って数日また数日。師走となっても暖かな日々が続いている。
  あれから鷺羽鶴羽鷹羽のくノ一三人は艶辰に戻っていない。芸者として以外の出入りが目立つと目をつけられることにもなりかねない。忍びとはそうしたもので、役目が与えられると何かをつかむまでは戻って来ない。
  宗志郎の末様ぶりも板についてきていた。艶辰にいるとき侍言葉が出なくなる。下々という言葉があるが宗志郎はそれを嫌う。そうした末様の人柄が界隈でも話の種になっている。黒羽と出かけることが多く、黒羽のいい人らしいと噂になった。

  朝の稽古。真新しかった木綿の生成りの忍び装束が着慣れてこなれ、お光にはよく似合う。鷺羽鶴羽鷹羽の三人がいなくなって、稽古のほとんどは剣か棒。今朝は紅羽が棒を握って対峙する。長さ五尺ほどの八角棒で、それはちょうど僧が持つ錫杖(しゃくじょう)によく似ていた。
 「もっと腰を沈めてやわらかく」
 「はい!」
  棒を槍のように突き込むが、そんなものは紅羽の敵ではない。あしらわれ、横をすり抜けられて尻を打たれる。ぎゃっと悲鳴を上げてお光は転がり、尻をおさえてのたうっている。

  末様が座って見守り、今朝はその両隣りに黒羽と美神が座っていた。男芸者の二人とお艶さんの三人娘はこれほど激しい稽古はできない。色が売り。体に傷を残すわけにはいかないからだ。
  そんな中で一人だけ、下働きのお光であれば厳しく鍛えていける。お光もまた眸の色が違う。死に物狂いで立ち向かう。
  末様が小声で言った。
 「スジがいい」
  美神が言う。
 「もう少し早けりゃね」
  お光は年が明けると数えで十八。修行をはじめるには少し遅い。それがわかっているからお光は懸命にやっている。
  黒羽は目を細めて見つめている。日々の鍛錬で甘えが消えて、きっといい芸者になると思えたからだ。三味線も踊りも稽古は厳しい。箸ひとつ使うにしてもできなければ話にならない。お光はここへ来たとき箸さえまともに使えなかった娘である。

  お光の気合い。
 「トリャァァーッ!」
  カン、カーン! 乾いた樫の棒が交錯していい音を響かせる。打ち込みが鋭くなった。お光はすばやく体をさばく。猫のようだと黒羽は感じた。
 「まだまだ!」
  バシィィと、したたかに尻を打たれ、棒を取り落として尻を押さえ、跳ね回るお光。
 「もう一本!」
 「よし、かかっておいで!」
  カン、カン、カーン! 突きを跳ねられ、しかし棒を回して地から振り上げ、また回して天から振り降ろす。勘がいい。いっぱしの型になりつつあると末様は微笑んだ。
  しかしまたしても尻を打たれて転がって、逆エビに反り返ってじたばたもがく。
 泣きながらの稽古であった。
 「痛いのはあたりまえ! 棒を放すな! 諦めてどうするか!」
 「はいぃ!」
  地べたを這うようにして棒に取り付き、立ち上がって構えるお光。
 「よし、それまでにしておこう」
  紅羽がやさしい姉様に戻るとき。
 「はい! ありがとうございました!」
 「だいぶいいよ。着替えて姉様たちを手伝うんだ」
 「はい」
  笑って深く一礼するお光を見ていて、美神は震える思いがする。こんな娘を手籠めにする輩が許せない。敵が禿だろうと生かしてはおかない!

  その日、宗志郎は一度は城に登ったものの早々に引き上げて、川向こうの小さな家を覗き、甘い菓子の包みを置いて、艶辰に帰り着く。夜となって冷えてきていた。黒羽も紅羽も、お艶さんの三人娘も今宵はいない。男芸者の二人と美神がいて、それに加えて宗志郎。それからもちろんお光も残る。
  美神は「さてお光」と言って手招きしながら立ち上がり、自らの寝所へ向かう。
  お光に布団をのべさせておき、美神は一糸まとわぬ姿となって横になる。お光は声もなく、あまりに美しい裸身を見つめる。
 「さあ、脱いでおいで」
 「はい女将さん」
  裸になったお光の尻と言わず背と言わず、激しい稽古の青い痣が残っていて、美神は、ふわりとやさしい乳房の谷に抱いてやり、痛いはずの背や尻を撫でてやる。
 「おまえはよくやってるね、いい子になったよ」
 「はい。嬉しい女将さん」
 「うんうん。さ、あたしを可愛がっておくれ」
 「え・・」

  抱かれて口づけ。それから美神はうつぶせに一度寝て、腰を上げ、犬のように這っておいて、すべてを晒した。
 「よく舐めて、あたしが達するところまで」
 「女将さん、あたし嬉しい、ぅぅぅ」
  泣いてしまうお光。
 「ふふふ、しょうがない子、いいわ、おいで」
  美神に手を取られて下に寝かされ、若い乳房を揉まれて乳首を吸われる。
 「あぁん女将さん、震えますぅ」
  膝を立てさせ、濡れる花をひろげておいて、美神は逆さにお光をまたぎ、甘く濡れる美神の花をお光の口許へと押しつけていく。そしてそうしながらお光の花園へと顔を埋めて舐めやる。
 「あぅ、女将さん、そんな」 と喘ぎながら、お光の裸身が反り返ってふるふる震える。けれどもすぐに弾かれたように顔を上げ、突きつけられる美神の花へと舌をのばして吸い付くように顔を埋める。
 「んふぅ! あぁぁ心地いい、お光は可愛い、可愛いんだよ、お光」
 「はい、ありがとうございます。あぁん女将さん、あたしも震える。はぁぁ!」

  お光はその夜、美神の夜具で眠りについた。
  そしてちょうどそんなとき、川向こうの宗志郎の小さな家に柿茶色の忍び装束を着た鷹羽が戻る。探れど探れど、これといったものがない。敵はいまのところ動いていない。次の餌食が出る前に。そうは思ってもどうすることもできなかった。童を連れた母親らしき女などそこらじゅうにいるのだから。
  鷹羽は、美介が聞き込んだ旅籠のある奥州街道沿いを張り、鷺羽は紀州屋敷に近い甲州街道への道筋、鶴羽は日本橋から南にあたる東海道の道筋を。
  そうやって手分けしても、たった三人ではどうにもならない。
  今宵もまた手ぶらで戻り、しかし卓袱台に置かれた菓子の包みに微笑んで、まずは風呂。あがって寝間着に着替えたときだった。そのとき刻限は、暁の九つ(午前零時半)を過ぎていた。

  茶を淹れて卓袱台に置き、菓子の包みに手をかけようとした、そのとき、小さな家の戸口に忍び寄る気配を察し、鷹羽は跳ねて転がって黒鞘の忍び刀に手をかけた。

 「誰か?」
 「開けてみよ、敵ではない」
  ひどく枯れた老爺の声。しかしいま時分、そんな老爺がなぜ?
  刀を手に戸口に潜んで気配を探るが、気配は一人。
 「開けよと申しておるではないか。探りの先にあるものを持って来てやったのじゃぞ」
 「何・・」
  敵ではなさそうだと感じたものの、こちらの探りを見透かされてしまっている。
  相手は老爺。開けてもし敵なら斬る。鷹羽はそう思い、そっと引き戸を開けてやる。
  と、そこに、身の丈五尺(およそ150センチ)そこそこの枯れ木のような老爺が立っている。まっ白な垂髪、干し柿のような顔の中に落ちくぼんだ目が二つ。そしてその手に仙人が持つような螺旋竹の杖を持っている。
  老爺はちょっと微笑むと戸口をくぐって中に入り、後ろ手で引き戸を閉めた。
 「禿を伴う女では探せど探せどあてなきこと」
 「そなたは何者か?」
 「見ての通りの枯れ木じゃよ。このわしが何を言おうと信じまい。邪視とはこうしたものよ」

  老爺が上目使いにキッと目を上げると、どうしたことかその刹那、鷹羽の体から力が抜けて手にした刀を取り落とす。呆然と見つめたまま身じろぎひとつできなくなった。
 「脱ぐがよい」
 「・・・」
  寝間着の帯を解いて肩から落とすと下は素裸。白く美しい女の裸身を隠すでもなく、ただただ呆けたように立つ鷹羽。
 「ふむ!」・・と老爺が気合いを込めて唸ると、またその刹那、鷹羽に正気が戻っていた。
 「ああ! あぁぁそんな・・」
  なぜ素裸になっているのか。鷹羽は白い乳房を掻き抱いて板床にへたり崩れた。ほんの一瞬、心が消えた。そうとしか思えない。
 「どうじゃな、信じようとするか、否か?」
  鷹羽は幾度もうなずいて、乳房を抱いたままで言う。
 「では、あなた様も風魔? もしや悟郎太から?」
 「悟郎太と? ふっふっふ、そのような者は知らぬわ。まあよい、寝間着を着なされ。すまぬことをしたな」
 「あ、はい・・」
  身の毛もよだつ恐ろしい技。剣などではとても勝てないと慄然とする鷹羽。


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十一話 美しき裸身


  美神の姿は神々しいまでに美しい。四十二歳。まさかと思わせる若さに悟郎太の目は吸い寄せられて目を切れない。
 「どうしたんだい、女房がいるからかい?」
 「あれは女房じゃねえ。なもん、いねえさ」

  悟郎太はちょっと笑うと美神の裸身を見つめながら脱いでいく。毛の中にあるような顔。全身毛だらけ。まさしく野獣の体躯を持つ風魔の猛者。美神は、そうした体躯が晒されたとき、すでに勃つ悟郎太の武器に微笑みながら、風が流すように寄り添うと、そっと抱かれ、抱かれながらますますいきり勃つ悟郎太に手をやって撫でるように可愛がる。
  最前の話の合間、「そこの女将のように魂を抜かれる女はいるものさ」と言ってまっすぐ見つめてくれた野獣の目に、かすかな諦めのような心根が透けていた。想ったところで高みの花。そんなような諦めであったのだろう。
  そしてそう感じたとたん、たまらなく可愛く思えてならかなった。あたしの女心が揺れた。揺れた心に嘘はつかない。それは男芸者の二人にも、お艶さんの三人娘にも、ずっとそうして教えてきた人の心。

  冬。裸身では寒く、悟郎太は背を押して湯へと誘う。自然のままの岩風呂はところによって背丈よりも深く、そちらに歩もうとすると手を引かれてとめられる。
  透き通った山の湯が陽光を散らしてきらきら輝く。岩を背にどっかと体を投げ出した悟郎太の上に浮くように、美神は男に抱かれていた。
  しかし悟郎太は抱くだけで手を出さない。それもまた男らしいけじめ。見かけの粗暴とはまるで違う筋の通し方も美神を震わせるものだった。
  抱かれていて目を見つめ合い、唇を求めていったのは美神のほう。そっと触れる静かな口づけが、いっそう美神を熱くする。
  しばし抱かれて男と女の凪を楽しみ、それから美神は湯を立って、すべすべとした岩肌に両手をついて悟郎太に背を向けた。膝の少し上ほどまでが湯に浸かり、白く熟れた二つの甘い桃が晒される。美神は腿を弛めて尻を上げた。「女将の名は?」
 「美神。美しき神と書く」
 「うむ、まさに」
  悟郎太は湯に沈み、美神の尻の下から毛だらけの顔を密やかな美花に寄せていく。

 「ぅん、くう、あぅ」

  女陰を舐め上げ、ますます濡れる花弁を吸い立てて、ザッと湯を乱す気配がし、強くなった悟郎太の切っ先が濡れる花にあてがわれた。美神はさらに尻を差し上げ、白い歯で唇を噛み、背を反らせて犬のように上を向く。
 「悟郎太、いい・・すごくいい・・」
 「参った。もはや頭も上がらぬよ」
  豊かに張って、突き上げのたびに揺れる乳房を揉みしだかれ、美神もまた白き獣と化していく。
  声は噛む。噛みきれなくて喘ぎとなって、声の代わりにぶるぶる震える尻肉を振り立てて、美神は達し、しかしそのときもまた悟郎太は女陰から去っていく。
  美神は振り向き、むしゃぶりつくように顔をくるんで口づけをすると、そのまま湯に落ち込んで、そそり勃つ悟郎太をほおばった。
 「ふふふ参った、はじめて知る女よ美神は」
  大きな男尻を抱きながら、吐き気をこらえて喉へと吸い込む美神。
 「ふぅ、むぅ、むうう!」
  男竿に漲る力が白き精を吐き出した。美神は喉を鳴らして飲み込みながら、それでも萎えない悟郎太をむしゃぶり続けた。

  宗志郎は脱ぎ去った。そのとき二人がそばにいたが、黒羽でも鷹羽でもなく、虎介そして情介だった。見た目は女。ここの者らも疑ってはいない。しかしそんなことはどうでもよかった。
  虎も情も首から下は男。なのにどちらも勃ててしまって恥ずかしげに手で隠す。
 「なぜ隠す?」
 「嬉しくて。あたしらを蔑まない」
 「蔑む? おまえたちもいい女だよ」
 「ほんと? ほんとのこと?」
  宗志郎は二人を両手に押しやって、湯に身を横たえて、両側から女二人に抱かれていた。いまもし誰かがやってきても、後ろからだとそうとしか思えなかったことだろう。
  歳は情介より下でも艶辰に長い虎介が言った。
 「庵主様もそう。こういう役目がたまにある。姉様たちが人を斬る。そうすると姉様たちに体を開いて抱いてやり、苦しみを吸い取って、けどそれだけじゃないんです」
 「とは?」
 「斬り捨てた相手のために掌を合わせていらっしゃる。あのお方は観音様。だからあたしら庵主様とお呼びする。あたしらだって抱いてくれ、あたしらは庵主様が達するまで導いて差し上げる。あたしらは震えてる。ちょっと触れていただくだけで達してしまうの。庵主様は笑われて、それがすごく楽しそう」
 「そうか、おまえたちも嬉しいな」
  情介が言う。
 「嬉しい。でもそれはあたしらだけじゃないんです。誰かが沈むと庵主様は寝所に呼ばれ、よしよしって抱いてやり」
 「うむ」
  宗志郎は二人の勃つものを両手にくるむと、同じように二人の手がやってくるのを許してやって、三人抱き合ったまま目を閉じた。

 「禿(かむろ)だなんて思いたくはないけれど」
  黒羽の横の夜具に眠る美神が言った。綺麗にされた部屋であっても、悟郎太ら、男の匂いが漂っている。
  禿は童。童を斬れというのか。
 「もしそうなら吉原あたり」
  黒羽が言った。
  遊女となるため修行をする年端もいかない娘らもまた禿。黒髪を結わず、おかっぱ頭にするから禿。そのような者を隠すなら遊郭が好都合なのだが、童が敵となるなら、これは辛い役目となる。
  紅羽はもちろん鷺羽鶴羽鷹羽の三人もそこにいてそんな声を聞いていた。
  美神は言う。
 「鷺鶴鷹は一足先に戻っておくれ。そのへん探ってみるんだね。宗さんの家を使えばいいだろう」
  江戸までまた三日。しかし忍びの脚なら二日で戻れ、しかも宗志郎の家があるから隠れて動ける。

  その頃また別の家で。
  そこは狭く、宗志郎のほか六人が雑魚寝のありさま。ところがお光がいちばん近く、甘えたがって抱きついてくる。眠っていながら抱きついて振り払うのも可哀想。宗志郎はそっと背中を撫でてやる。
  からくりが見えはじめた。そうした手で拐かした娘らを手なずけて家へと戻し、
あるとき何かの合図を送って狂わせる。しかし誰が、何のために?
  紀州より来た吉宗が将軍となって間もないいま、江戸を騒がせ、紀州と尾張をにらみ合わせる。将軍家の権威は失墜し、同時に徳川の家が揺れる。
  そうなると何が起こるか? 得をするのは誰なのか? 宗志郎はそこを考えていたのだった。
 「嫌ぁぁ・・もう嫌ぁぁ・・」
  寝言。すがりつく手。このお光は十七歳。この子と同じような娘が狙われ、捕らわれたとき呆けていたとしても死罪は免れない。怒りがこみ上げてくる。

  そしてまた別の家では、悟郎太そのほか、むさ苦しい雑魚寝となっていた。悟郎太は眠れない。
 「参ったぜ・・ふふふ」
 「どうしやした?」
  隣りにいた手下の一人が目を開けた。男だらけで寝苦しい。
 「あの女将よ」
 「へえ、なんともいい女で」
 「この俺に挑んできやがった」
 「ほう? 刀で?」
 「馬鹿かてめえは・・けっ・・とっとと寝やがれ」
  悟郎太は夢のような美神の裸身が忘れられない。
  あれは女の勝負だと考えた。身を賭した女の勝負。この俺を男と見込んで仕掛けてきた本気の勝負。
  あの者どもは命がけで働く輩。己の想いに嘘はつけない。そうした思いだったのだろうと考える。
 「和尚か・・まだ生きてやがったか化け物め」
 「ほっといていいんですかい、親みてえなもんでしょう」
 「まあな、かれこれ三年会ってねえ」
  悟郎太はいま三十四になろうとした。江戸に見切りをつけてこの地に戻ったのは数年前。それから二度ほど寺を訪ね、その最後が三年ほども前のこと。江戸にいる頃あの寺を出たり入ったり。思えばふらふら生きてきた。
 「それもまた夢のごとく・・か」
 「へっへっへ、フラれやしたか?」
 「てめえ! 絞め殺すぞ、この野郎!」

  伊豆への旅を終えて戻ったとき、艶辰はひっそりと静まって、戻ったというよりも訪ねてきたといった心持ちがした美神だった。鷺羽鶴羽鷹羽の三人はいなかった。ほんの一足、昨日の夜には戻ったはずだが、たった一日でできることは多くない。
  そしてその頃、永代橋のたもとで皆と別れた宗志郎一人だけが小さな家に帰り着く。夕刻前の刻限でじきに暗くなるというとき。そちらにも鷺羽鶴羽鷹羽の姿はなかったのだが。
  夜も更けて、湯船に浸かる頃になり、妙な気配が忍び込む。鷹羽であった。夜陰になじむ柿茶色の忍び装束。頭巾をした姿であったのだが、それは風呂場の外の景色。鷹羽は床下から畳を上げて戻っていた。
 「宗さん、鷹です」
  風呂の板戸越しに声がする。
 「うむ。戸口に気配なし。どっから入った?」
 「ふふふ床下から」
 「ふむ。さらにまた、どうしてこうした頃合いに」
 「ふふふ、黒羽の姉さんに斬られそう」
 「ほかの二人とここにいたのか?」
 「いえ散っており。我らは忍び、固まるヘマはいたしません」

  そして風呂から出てみると鷹羽は着替え、町女の姿だったのだが、黒髪はまとめて横に流していた。たたまれた忍び装束の上に妙なものが置いてある。
 「なるほどな、そうしたものであったのか」
 「え? 何が?」
 「そいつだよ。人吉とか申す口入れ屋が襲われたとき、幾筋もの引っ掻き傷がある屍があったそうだが、これでわかった」
 「ふふふ、だからあたしは鷹と呼ばれる」
  忍び装束の上にあったもの。それは鉄の板の先が三つに分かれた鷹の爪のような武器。両手の手首にはめ込んで握りを持つと、握り込んだ拳の先に三本の鋭い爪が備わるもの。鷹羽は言った。
 「鷹の爪と言ってね、いまは塗ってないけど先に毒を塗ったりもする。敵の剣も受けられれば、ちょいと引っ掻いてやるだけで泡を噴いて死んじまう」
 「なるほど恐ろしい女だってことがわかる代物」
  宗志郎は微笑んで、恐ろしげな鉄の爪へとふたたび目をやる。
  鷹羽は言った。
 「伊賀の中でも我ら一族だけに伝わる武器さ」
  宗志郎は眉を上げて首を竦めた。
 「鶴羽は甲賀で毒鞭を使い、鷺羽は戸隠で吹き矢の名手。それぞれが散り散りとなった哀しいくノ一」
 「まさに哀しい身の上だ。まあ風呂でも入ってくるんだな」

  鷹羽は、いきなり女となって戸惑った。この小さな家の風呂には脱衣がない。
  鷹羽は言う。
 「棟梁に言ってやるんだね」
 「何をだ?」
 「脱ぐとこぐらい造っとけって」
 「ふふふ、わかった言っておく。背中ぐらいは流してやるぞ」
 「ヤだよ、もう! 姉様が羨ましいさ」
  背を向ける宗志郎を気にしながら脱ぎ去って鷹羽は風呂へと入っていった。

  狭いといっても二人ならゆとりもある。夜具の間を空けて敷き、鷹羽は横寝となって宗志郎には背を向けた。黒羽への羨みが微笑みとなって眠れない。
 「眠れぬな」
 「あたしも」
  闇の中で互いに言って、宗志郎は言う。
 「そなたはどうして艶辰に?」
  しばらく声はなかったものの、そうするうちに衣擦れの音がして、鷹羽が逆向きに寝返って宗志郎を見て言った。
 「いまのお光と同じようなものなのさ。危ういところを救われた。そのとき女将さんと紅羽の姉様が一緒でね、相手はゴロツキどもが六人だった。それぞれが脇差しを持っていて」
 「うむ」
 「あたしは危ないと思った。あたしさえ伊賀の鷹女(ようじょ)に戻れば負けない相手」
 「うむ」
 「ところがだよ、そのとき板戸のつっかえ棒を手にした姉様の強いこと強いこと。
あたしでさえが声も出ない。後になって姉様が言うんだよ」
 「うむ?」
 「そのときあたしがその同じ棒を見る目でわかったって。ただの女中じゃないだろうって察したとき、それをあたしにさせてはいけない、だからあたしが手に取ったって」
 「そうか」
 「それで艶辰に連れて行かれ、そのとき紅羽と黒羽の姉様はすでに芸者。女将さんと三人だけの置屋だった。あたしが鷺羽を知っていて、鷺羽が鶴羽を知っていた。おちぶれたくノ一の末路なんて似たようなものだから。あたしらはさる小藩のお抱えでね。だけど蔵にある槍や鉄砲なんて錆び付いてる。太平の世に忍びなどまして無用」
 「そうか」
 「それでさ、艶辰に連れて行かれて、そしたら女将さんが抱いてくれた。毎夜毎夜、素裸で抱いてくださって、あたしを可愛がってくださった。それであたし三味線も踊りの稽古もさせてもらって芸者になった。いまのお光と同じように気張って気張って働いたんだ。だから宗さん、あのときお光を救ってやった宗さんの気持ちが嬉しくてね」

  しばしの無言。
 「かきつばた」
 「何だよ、ややこしく呼ばないで」
  鷹羽は闇の中で微笑んで、その目はキラキラ輝いていた。
 「そなたらに羽をつけたのは女将さんのようだな」

  鷹羽は急に黙り込み、涙を溜めて、ふたたび寝返り、背を向けた。

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十話 伊豆の白湯


 「さて皆々よ、このような雨の折ゆえ、しっぽり濡れる話をしよう。我ら坊主の修行を行(ぎょう)と言うが、そなたら女人には女人業(にょにんぎょう)とも申すべき業(ごう)がある。それはまた性(さが)とも申すもの」

  芝高輪、湧仙寺。
  芝の南から高輪にかけて寺の集まる一帯があり、そこには名のある大きな寺から、この湧泉寺のようなちっぽけな古刹まで数多くの寺がひしめき合って、したがって町中に僧侶の姿をよく見かける。僧を僧としてあなどってはいけない。かつては僧兵ばかりを集めた寺もあり、また忍びの者どもが僧に化けた寺もあったもの。湧泉寺の住職たる妙玄(みょうげん)も、いまでこそ齢八十二と老いていたが、かつてはそうした僧兵としてならした男。
  艶辰のある本所深川から高輪は少し遠い。男の脚でも一刻(二時間)ほどもかかってしまい、小雨の中、着いてみると、狭い本堂にすでに女ばかり十人ほどが集まっていて、何やら法話の最中だった。女は市井の者ばかり。一見してこのあたりの商家の妻ばかりと思われる。

  妙玄は、ふいに訪れた宗志郎に目でうなずきつつも、かまわず言う。
 「業(ごう)とは人の業であり、業を極めることを修行とするなら行(ぎょう)とも言える。さてここからじゃ。皆々、童どもを思えばよい。己が童であった頃、苦しむことと言えば腹が減っただとか、しょんべんちびっただとか、まあそんなようなものじゃった」
  女たちから笑いが漏れる。
 「しかるにいつ頃からか、女として生きねばならぬ、男として生きねばならぬと思い込むようになり、色というものが生まれてくる。色は欲。嫌よ嫌よ、もっとソコということになるわけじゃな」
  隣り合った女同士が顔を見合わせくすくす笑う。
 「それが女人を苦しめる。同じ女が敵ともなって立派な竿を奪い合う。なんて大きく恐ろしく、されど欲しくてたまらぬ男のイチモツ。拙僧などはもういかん、萎びたままじゃ」
  おもしろいと宗志郎は思う。女たちが食い入るように見つめていて、皆の目がキラキラしている。
 「同じ女でありながら意地を張り合い、遠ざけ合って、隣の家では色よき声もするものの、なんでウチには夜がない、などということになって不仲となる。夫婦の不仲は世への不仲に変わっていって、周りの者としてみれば、なんたる嫌なクソ婆、てなことにもなろう」

 「そこがこそ、そなたら一人一人を不幸にする大元ぞ。童に戻るときがあってもよいというもの。女となる前の心を持って女人を抱く。女同士で湯でも浴びて、一つ布団で眠れるならば、心は濡れて、違うところもきっと濡れよう。よいか皆々よ、女の性とは女の業(ごう)。しかるにそれを修行の行(ぎょう)と思うなら女人は解き放たれて羽ばたける」
 「それは女人同士で交われということでしょうや?」
  女の一人が訊いたとき和尚はうなずいて言うのだった。
 「女人はなぜに女でなければならぬのか。女人はなぜに男と交わらねばならぬのか。女人はなぜに女を想うてはいかぬのか。亭主元気で留守がよい。うむ、それはそうじゃろう。されどそれも亭主に飽きて触れられど濡れもせぬゆえ。それではあまりに可哀想というものじゃが、さりとてそこらじゅうの男にあはんうふんもまずかろう。女房殿は皆々そのように考えて、ゆえに寂しゅうなっていく。嫌な女になってしもうた己を憎み、ますますもって鬼婆。よいか皆々、業を行とすることじゃ。想うて欲しくばまず想うこと。童の心に戻れるならば女人は女でなくなって、人として女を想えるようになろうというもの。ここにおる皆々よ、互いに想うて抱き合って、濡れる女人となるがよい。行と思うて業に臨めば、人を想う女の性は満たされる」
  女たちは皆いい顔をしていると宗志郎は感じた。艶辰の女たちの顔そのままの素直な面色ではないか。

 「そこな若武者よ、いかに思う?」
  問いかけられて皆は振り向き、目が集まる。いつの間にか若く凜々しい武士がいる。女たちは一様に、はにかむような笑顔を見せる。
  宗志郎は言う。
 「何を語っておるのやら、クソ坊主め。はっはっは」
  皆が声を上げて笑い、しかし一様に穏やかな顔をする。宗志郎はふと虎介情介の二人を思った。まさに和尚の言う通り。しかしそれはありきたりに身構える者どもにはむずかしいかと考えた。
  妙玄は言う。
 「くノ一は、くノ一同士で交わるという。明日の命も知れぬ身ゆえ、そのとき想うた己の心に素直でありたい。汚れなき人の姿だとは思わぬか」
  と、突然現れた武士の姿になぞられて持ち出した和尚の話に皆はうなずく。  いい法話だと宗志郎は思う。

 「・・ふうむ、そのようなことがあったとはのう。わしも歳じゃな、とんと俗世に疎うなってしもうたわ」
  妙玄はシワ深い目を雨模様の空へとなげて、しばし考え、そして言った。
 「そのようなことがあるとするなら、それは邪視(じゃし)やも知れぬな」
 「邪視ですと?」
 「そうじゃよ邪視じゃ。このわしとて話として知っておるだけじゃし見たこともないのじゃが、そのようなことがあるというぞ。仙人のごとく修行を重ね得られるもの、また魑魅魍魎、妖怪のたぐいに取り憑かれてしまうもの、天狗のせいじゃと申す者もおるらしいが、平安の頃には禿化け(かむろばけ)と称して、妖力を得た女が童に化けて災いを運んだとか。まあ心眼とも言えるのじゃろうが、見つめるだけで心を抜き取り、邪心を送り込んで人を操る。役目を果たして邪心が抜ければ人は抜け殻。心をなくしてしまうからの」
 「・・ふうむ、されどそのようなことが真にできるものなのか」
 「わからぬ。あるいは生まれ持った特異な才やも知れぬし何とも言えぬわ」

  いまから十五年ほど前、その頃、剣の修行に明け暮れていた十五歳の宗志郎は、柳生の剣の師範に連れられ、この寺を覗いていた。
  当時すでに妙玄は六十代の半ばであったのだが、小柄な体でも槍を持たせれば下手な剣では勝てない強さ。宗志郎の師範が学んだ、そのまた師範のような男であった。以来、宗志郎はときどき寺を覗いていた。
 「されど尊師もお達者で」
 「まったくじゃ。どうやらわしも妖怪天狗のたぐいのようで。はっはっは」
  この時代、四十代から人はばたばた死んでいく。八十をこえる齢は、それだけで仙人のようなもの。

  と、ふいに妙玄は手を叩き、宗志郎を見つめるのだった。
 「そうじゃ悟郎太(ごろうた)がおった!」
 「それは何者?」
 「伊豆は天城あたりを根城とする山賊の頭でな、風魔賀次郎(ふうま・がじろう)が末裔よ」
 「なんと? あの風魔の末裔と申されるか?」
 「いかにも。風魔は死なず、そうして生きておるわい。かつてのわしの弟子じゃがな。うむ、そうじゃ風魔じゃ。かつて風魔に特異な才を持って生まれた男児がおってな。七つじゃったか、その歳にして見つめるだけで人を操ったという。風魔の女が妖怪を生んだと恐れられたものらしい。そのへん訊くなら訪ねてみればよかろうぞ」
  風魔と言えば、江戸時代のはじめに盗賊となって江戸市中を荒らし回り、ことごとくが捕らえられて滅亡したと思われていた。それがいま、八代将軍となった世に生きている。ぜひにも会ってみたいと宗志郎は考えた。

 「邪視」
  と言ったきり、美神にしばし声はなかった。虎介が聞き込んだ話と符合する。
 「さらにまた風魔とは」
  くノ一である鷹羽もまた声をなくし、同じくくノ一の鷺羽鶴羽と目を合わせる。
  美神が言った。
 「じつを言うと虎がそれと似たような話を聞いたとか」
  美神が子細を話すと皆の目が厳しくなった。そうした才を持つ者がいるとすればすべてがうなずける。とりわけ禿化けという言葉がひっかかる。まさかとは思っても虎介が持ち込んだ話そのままではないか。
  美神は言った。
 「その悟郎太とやらに会いに行こう。皆で行く」
 「皆で?」
  と黒羽が訊いて、美神は深くうなずいた。
 「さっそく明日にでも出よう。お光にも支度させるんだ」

  そして三日後の夕刻前、伊豆は天城山。冬晴れの青空に一片の雲もなく、山の緑も美しかった。
  宗志郎、美神、そして紅羽に黒羽、そのほかくノ一三人だけならともかくも、若いお艶さんの三人衆、男芸者の二人に加えてお光までが一緒だと、途中で二泊しないと歩き切れない。艶辰はじめての皆での旅。物見遊山の気分で楽しめていたのだが、いよいよ山が迫ってくると気を引き締める。
  宗志郎は大小を腰に差した着流しだったが、紅羽黒羽の二人は黒髪を後ろでまとめ袴を穿いて腰に大小を差した男姿。そのほか皆は女の旅姿であったのだが、美神、鷹羽、鷺羽、鶴羽の四人は白木の仕込み杖を持っている。
  海を見渡す表街道を逸れて山へと踏み込むと、いきなり人の気配が絶えて道も細く、右に左にうねっている。
  そろそろ出るか、山賊ども。

 「待ちな! これはこれはぞろぞろと」
  いかにも山賊といった風体のゴツイ男ばかりが八人ほど、森を縫う道筋の前と後ろから現れて挟み打ちというわけだ。粗末な着物にウサギの毛皮でつくったチョッキを重ね、腰には刀、髪の毛などは獣のごとく。
  しかし前に向かって宗志郎と紅羽黒羽、後ろには間に皆を挟んで鷹羽鶴羽鷺羽が陣取り、こちらにも隙はない。皆が仕込み杖に手をかけて寄らば斬るの面色だった。
  宗志郎が男どもに笑って言う。
 「よせよせ、てめらじゃ勝てないぜ」
 「何をしゃらくせえ!」
  男の一人がすごんで声を上げたが、宗志郎は穏やかに言う。
 「悟郎太に会いに来た」
  頭の名を呼ばれて山賊どもは一斉にある一人の男へ目をやった。背が高く胸板が厚く、毛の中に顔があるといったような男。まさに大猿。しかしその腰には剣はなく、代わりに、よく手入れされて光り輝く黒い槍を持っている。

 「俺がそうだが」
  宗志郎はちょっと笑って眉を上げた。
 「妙玄和尚に聞かされて参った者」
 「ほう和尚に?」
 「拙者は葉山宗志郎」
 「なに・・」
  柳生新陰流の若き鬼神とまで言われた男。悟郎太も和尚から聞かされて名ぐらいは知っている。悟郎太は手をかざして手下どもに退けと合図をする。
  しかし悟郎太は宗志郎の背後へ目をやって言うのだった。
 「で、ぞろぞろとか?」
 「皆々が江戸の置屋の芸者でな」
 「ほほう、芸者とはまた。男姿で剣を持ち、仕込みを持つ者もいる。恐ろしい芸者どもよ」
  悟郎太は宗志郎に歩み寄り、「こっちが兄弟子だぜ」と小声で言って笑い、そして手下どもに言い放つ。
 「おいみんな、こいつはよ、弟弟子のくせしやがって俺なんぞよりはるかに強ぇえや。てめえらなんぞ刺身にされるぞ、あっはっは」

  悟郎太は、はるばる訪ねてきた弟弟子と並んで歩く。
 「で、どうしたって?」
 「かつて風魔に邪視を持って生まれた子がいたと聞いた」
  悟郎太は眉を上げて目を見開く。
 「なるほど、わかった。まあ根城に来いや。湯も湧くし、なかなかいいぜ」
  鬱蒼とした樹海の中に、そこだけ森が拓かれて、いまにも朽ち果てそうな小屋がいくつか並び、粗末な姿の若い女も三人いて、さながら山窩(さんか・山の民)の根城のようにされている。雲のない天空から陽射しが注ぎ、森が風を遮るのか、そこだけ春のように暖かかった。
 「まあ気楽にやってくれと言いたいところなんだがよ、なにせ家がちっぽけだ。ごろ寝ってことになる。森の奥に湯もあるし、そこだけは極楽よ」

  五軒ある家の中で少し大きな一軒が頭とその女の家なのだが、とても皆は入りきれない。美神と紅羽黒羽、それに鷹羽が家に入り、鶴羽鷹羽は皆と一緒にほかの家に散っていた。
  訪ねて来た皆を家に上げ、毛皮の敷かれた囲炉裏の周りに座らせておき、悟郎太は、一応は上座にあたるところに敷かれた大きな鹿の毛皮の上にどっかと座った。悟郎太の女らしき者が茶を淹れて配っている。大柄な女であったが笑顔がやさしい。
  話の支度が整うと宗志郎が悟郎太に言う。
 「そちらが江戸の置屋の女将さんでな、こなた男姿の二人も芸者なんだが、ともに武家の出。そこの一人も芸者だが、じつはくノ一」
 「なるほど。まあ、ただの置屋ではあるまいが訊かぬ」
  悟郎太は賢い男。宗志郎はうなずいて、さらに言った。
 「風魔の女が妖怪を産んだとか」
  悟郎太はうなずいた。
 「俺も聞いた話だが我らでは語り継がれる話でな。七つばっかのこわっぱに見つめられ、人は腑抜けとなってしまうのさ。生まれながらの化け物だった」

 「禿として使ったのでは?」
  と美神が訊いて、悟郎太はあまりにも美しい美神を見つめる。
 「そこの女将のように魂を抜かれる女はいるものさ。まあ、そんなようなもの。あまりに恐ろしいこわっぱゆえ、その頃の頭も困り果てた。よもや敵とならば一族は滅ぶ。そこでこわっぱのうちに放り出した。その母とともにな。生きていける金を握らせ、どこぞで好きに暮らせというわけさ」
  宗志郎が問う。
 「それきりなのか?」
 「それきりだ。ああしたものは血だ。こわっぱを産んだ女に妖怪でも取り憑いたかということで、母もろとも放り出す。悪さでもして叱ろうものなら、七つのこわっぱに見つめられておかしくなる。そうなりゃ放り出すしかあるめえよ」
 「そうかい、それきり行き方知れずってことなんだね?」
  美神を見つめながら悟郎太は話し、だから美神がそう言った。
  江戸で妙な事件が起こっていると宗志郎が告げると、悟郎太はまたうなずいて言うのだった。
 「だとすりゃあ血よ。こわっぱの血かも知れねえし、その頃まだ若かった母者がまた別の子を成したとも考えられる。剣では勝てねえ、ともかく目を見ねえことだ。言えるのはそれだけよ」

  黒羽が問うた。
 「そうした者が確かにいると言うんだね?」
  悟郎太は、こちらもまた美しい黒羽を目に入れて、それから宗志郎に向かうのだった。
 「いる。偽り話を伝えてどうする。心を抜き取り、どうにでも操る。そうしたやり口であるなら決まり事をつくっておくのさ。犬猫の声でもいいし記号(しるし)のようなものでもよかろう。見る聞く触れる、何でもよいのだ。そのとたん人が変わってしまう。話に聞く陰陽師のようなものもそのうちだろうが、呪いだと思えばよかろうな。呪いを持って産まれた化け物。もはや人ではあるまいに」
  そして鷹羽が問うた。
 「ずっとここに隠れ住んできたのかい?」
  それには悟郎太は笑う。
 「風魔は北条、北条は相模、相模は海よ。ここらはもともと我らが土地でな」
  鷹羽は黙ってうなずき、それから口を開かなかった。忍びは皆同じ。主家が滅ぶと戻る場所をなくしてしまう。

 「さて皆々、今宵はどうするつもりよ。冬のいまなら、じきに陽が暮れよう。旅籠といっても遠いぞ」
  と悟郎太は言い、女将の美神をじっと見つめた。
  そしてそのとき宗志郎が袂から封を切らない二十五両の包みを取り出して悟郎太の前にそっと置いた。
 「これで頼む、今宵一晩」
 「ふふん、ずいぶんと張り込んだものだ、つまらねえ話を聞くためによ。わかった、どうにかしたいがどうにもならん。ここが広いゆえ、ここを空ける。まあ湯にでも浸かって来いや」
  と、そこで美神が言った。
 「じゃあ、あたし一人が先に行く。お頭と一緒にね」
  悟郎太は目を丸くする。美神が言った。
 「銭で買ったと思われてはあたしの名折れ。気持ちだということをわかって欲しい」
  悟郎太は呆気にとられて宗志郎を見つめた。
 「ふっふっふ、気に入った・・気に入ったぞ、はっはっは」
  悟郎太は立ち上がり、美神の手を取って引き抜くように立たせていた。並んで立つと悟郎太は大きい。

  そして森に抱かれるようにある湯へと向かう。
  山肌が岩に変わったすぐのところ。周りは鬱蒼とした緑また緑。十人ほども入れそうな大きな岩風呂。脱衣などというものはなく、悟郎太は湯の縁まで美神をそっと押しやると、岩に座り込んで背を向ける。
 「どうしたんだい、入らないのかい?」
 「気持ちはもらった、ありがとよ姐さん。されど、ならば俺にも気持ちはある。ここらには腹を空かせた犬が出るゆえ」
  美神は歩み寄って悟郎太の前に回り、目を見つめ、そのままそっと抱かれていった。

 「嬉しいよ悟郎太、いいから入ろ」
  野獣のような男にまともに見られていながら一糸まとわぬ裸身となった美神であった。

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九話 一筋の光


 「拙者の・・」と言いかけて、宗志郎はチラと女将の美神へ目をやった。芸者を束ねる置屋の艶辰が、しかるべき者の命によって密かに働く者どもの集まりと知り、その頭が美神ということで、どうしても武士の言葉になってしまう。
  夕餉を終え、今宵座敷に呼ばれた鶴羽と鷺羽が戻るのを待って、紅羽黒羽の姉妹と鷹羽も加えた七人で、美神の寝所に輪を描いて座っている。夜具をのべると狭くなる部屋であっても座って話すぐらいならちょうどいい。その場にお光は呼ばれなかった。お光は厨で夕餉の片付けをしている。
  このとき宗志郎は平袴などは脱いでしまい、それでも登城のための堅苦しい着物姿。それもあってついつい武士言葉になってしまうのだった。
  芸だけを見せる鶴羽鷺羽と違って、お艶さんと呼ばれる三人の若い芸者と男芸者の二人は色を売るだけに帰りが遅く、またこうした話に入ることも少なかった。女将の部屋で静かに話す。
 「ううむ、いけませぬな、武士が抜けない」
  美神はちょっと微笑んで、素でいいからと言う。

 「まあ花畑でもあり・・うん、少しはよく見せたくもあり」
  皆が笑う。黒羽はちょっとうつむいて隣りに座る姉の紅羽と目を合わせてくすくす笑う。すべてはお光。あのときあの子がいてくれなければこうはなっていなかった。人の縁とは奇妙なものだと、そう思っても可笑しくなる。
 「じゃあこうしましょう」と黒羽が言った。
 「ここでは宗志郎様ではありません、お名は末様。気楽というもの」
  末様はちょっと首を傾げて眉を上げ、しかし微笑みはすっと失せて真顔となった。
 「剣の友に同心がおり、そやつももちろんお奉行から言われておる。されど目を光らせよと言われても雲をつかむような話であって、さらにどうやって娘どもを操るのか皆目見当もつかぬと申すわけで。妖しき術か、はたまた薬か、それにしてもわずか数日で人をそれほど変えられるものなのか。あるいは忍びの仕業かもと申しておって」
  美神は、鷹羽にちょっと目をやって眉を上げた。
 「あたしらもそう話したものです。鷹羽と、それに鶴羽、鷺羽もくノ一」
  ほう・・と驚くように末様は鷹羽を見つめ、鶴羽鷺羽と順に見た。
 「そんな術は聞いたこともないし、薬であるならわずかな間ではできないね」
  と鶴羽が言って、末様はうなずいた。

  黒羽と紅羽が武家の出、美神もそう。残る三人はくノ一。どうりで隙がないはずだ。なるほどとうなずける陣容だった。
  末様が言う。
 「されど、最前のことを思うても敵にはかなりな黒幕が控えておろう。捕らえられるなら自刃して果てるなど尋常ではない。紀州と尾張がにらみ合って得をする者と申しても、それもまたそこらじゅうにいる話。さらにまたそのへん目星がつこうとも、つまるところ、どうやってという問いが解けねば逃げられる」
  そのとき美神は言うのだった。
 「黒幕を追い詰めるつもりなどないのです。娘らを使う手口が許せない。手を下した者どもを許せない。さるお方も申されておりました。深入りしすぎても世を乱す。そうしたことが起こらねばよい話と」
 「うむ、いかにも」
  末様の声に続いて黒羽が言った。
 「我らは苦しむ女や童を救うことのみ。男のお役人では入り込めないところがある。そのために我らがつくられた」
  末様は、うんと深くうなずいて、それから美神に言うのだった。
 「その探索の大元が見張られている。よって尾けられ、あのようなこととなる、気がかりなのはここ艶辰。いずれ嗅ぎつけられるときがくる。剣において上には上があるということをわきまえられよ」

  美神は眉を上げて首を傾げる素振りをする。そういう意味でも宗志郎が味方となってくれるなら、これほど心強いことはない。
  それはそうでも指図によって動く立場。了解を得ずに引き込むわけにもいかなかった。美神は言う。
 「近いうちにつなぎを取ってよろしいですか? 我らを動かすは御老中、戸田様です。あなた様にもお立場はあろうかと?」
  これには皆も美神を見つめる。そんなことだろうと思っていても、皆々、美神に従うだけであり、それこそ深みには立ち入らない。
  美神は皆を見渡した。
 「この際、皆にも言っておきます。わたくしは、その戸田様の縁者にあたる者の娘。隠していたわけでもないけどね」
  そんなことだろうと、それもまた推察していたこと。
  末様は言う。
 「もとよりそのつもり。花畑の虫を追うは男の本望」
  女たち皆がそれぞれに目を合わせて微笑んだ。いちいち粋なことを言う。
  美神が問うた。
 「末様の剣はどのような? 柳生新陰流とお見受けしますが、ちょっと違う気がしたもので」

  さすがだと末様は思う。剣を知るから剣がわかる。
 「推察の通り、柳生新陰流。なれど先ほども申した剣の友というのが示現流でしてな、真似ておるうち妙な癖がついてしまった」
  ちょっと頭を掻く末様。示現流と言えば強いことで恐れられる薩摩武士の剣。敵の剣をものともせずに突き進み、渾身の一刀で斬り捨てる剛剣として知られた流派であり、昨今、江戸にも入り込んできている剣だ。
  このとき黒羽もまた、どうりで剣さばきが剛なはずと考えていた。
  それはともかく、正座で囲む女が七人、その中で一人だけあぐらをかいた末様。末様が両膝をぽんとやって黒羽にちょっと横目をやった。
 「このようなことになるとは思わず、あのときはあやめ殿に会いたい一心、あの場に越してよかったよかった。ここと二か所の場ができる。粋な棟梁のはからいで湯船も大きく造ってあるゆえ・・」
  眉を上げて黒目を回すあの仕草で黒羽を見つめる。
  これには美神よりも姉の紅羽が声を上げて笑った。隣りに座る妹がどんどん小さくなって、うつむいていくからだ。
  美神が言った。
 「空き部屋もあり、今宵はお泊まりでよろしいでしょう。黒羽もすでに赤羽のようで今宵はどうぞご一緒に・・ふふふ」
  あの黒羽が赤くなる。皆が笑った。美神も粋な言い回しをするものだ。

  さてお開き、というときになって美神はお光を呼ぶよう鷹羽に告げた。皆が出て入れ替わりにお光が来る。濃い茶色に黄色格子の着物を着た愛らしい姿。黒髪も乱れなく結われていて見違える。
  美神を上座において末様とお光が向かいって座る。お光はすでに泣きそうだった。
 「おまえの名は光だったのだな」
 「はい」
 「剣の修行をしておるとか。昔の我が身を斬り捨てたいとか」
 「はい」
 「うんうん、もはや言うこととてない、よかったなお光」
 「はい・・ありがとうございます」
  涙を溜めてうつむくお光。
 「芸者の修行もしたいらしくて」・・と美神が言うと、末様は微笑んで、目の前で正座をし膝に両手を置いて拳をつくるお光の手に、そっと手を置く。
 「さぞ美しい芸者となろう。よく立ち直った、立派だぞ」
 「はぃ、ぅぅぅ・・うぅぅーっ」
  泣いてしまうお光。そのとき末様の目も潤んでいると美神は思い、艶辰にとっても新しい風となると確信した。

  艶辰でそのようなことがあった少し前の刻限だったが、お艶さんと呼ばれる若い芸者の三人娘が、あの喜世州の座敷にいた。
  今宵の客は奥州街道へといたる浅草から蔵前あたりの旅籠の主衆が五人であった。歳の頃なら四十代の末から、上では六十を過ぎていて、その中の二人が三人娘にとってはご贔屓さん。あの夜の男芸者の二人のような拾い紙などはせず、一人が座って三味線を弾き、二人が踊り、お客に「はい」と言われたときにぴたりと止まる。踊り手がふらつけばその者が一枚脱いで、三味線が先に走れば座る女が脱いでいく。
  結局のところ三人ともに白い乳房も露わな湯文字だけの姿となる。もちろん座敷のさらに裏に布団が敷かれ、ただし客の側から無理強いできないという決まり。今宵のお客は決まりを守る上客だったし、歳が歳で、そういうことより見て楽しむ者ばかり。
  踊る二人はすでに桜色の湯文字だけ。若く張った乳房を揺らして踊り、三味線の一人だけが肌襦袢の姿。
  遊び慣れた二人はよくても、こういう席がはじめてだった三人の客たちは目を輝かせて笑っている。

  老いた一人が笑って言った。
 「ううむ残念、三味線の一人が残ってしまった、はっはっは」
  こういう席がはじめての一人が言う。
 「ほほう、脱いでも湯文字までということですか?」
 「辱めては可哀想というものです。これより脱がせてみたいなら心しかありませぬな」
 「ふふふ、なるほど。いずれ愛らしい娘たち。さあ皆々、もういいよ、こっちに来ておくれ」
 「はぁい」
  そうして三人ともに客の間に割って入り、酒の相手をするのだが、このとき湯文字だけの美介と恋介、一人残った肌襦袢の彩介。そのうちの彩介が口惜しがる老いた男の手を取って襦袢の上から乳房に添えた。
 「あぁぁ旦那さん、心地いい」
 「うんうん、よくやったよ彩介、いい子だねいい子だね」
  しなりと崩れて肩を寄せる彩介。男の老いた手が蠢いて乳房を嬲る。
  老いた男が周りに言った。
 「ほらごらん、こちらの心をちゃんとくんで、こうしてくれる。可愛いね彩介は」
 「はぁい、あぁん旦那さぁん」
 「しっぽり濡れたか?」
 「はぁい・・嬉しゅうございます旦那さぁん」

  そんな様子を笑って見ながら、美介も恋介も若く張った乳房を見せつけるようにお客の顔に寄せていき、恋介が、こうした席がはじめただった三人の中では若い一人に乳首を差し出し、男がそっと口づけた。
 「ぁ・・うふぅ・・心地いい、これからもどうぞご贔屓に」
 「うんうん、なんと愛らしい娘だろうね」
  とまあ、そうした席だったのだが、また別の老いた一人が、美介の乳房を肩越しに回した手で揉みながら言うのだった。

 「ここのところ、あんまりですかな。新しい上様が倹約家ということで、お役人様たちも泊まらず過ぎ去るようになってしまった」
 「ウチもですよ、以前はお出かけついでに泊まっていかれたものですが」
 「そうそう、そう言えばちょっと前に不思議なお客様がいましてね」
 「ほう? それはどんな?」
 「いえね、お泊まりの中にお武家様が三人おいでで、酔ってしまって妙なことになりかけたんです。相手はまだ若いどこぞのお内儀さんだったのですが、あれはそう七つか八つの子連れでして」
 「うむ、それで?」
 「その御内儀さんが廊下ですれ違ったときに酌をしろと言われたようで、嫌だとはねつけるとお武家様が怒ってしまい」
 「ほうほう。そうした方もおいでですからな」
 「ところがですよ、その連れのお嬢ちゃんが、にっこり笑って見つめると、どうしたことかお武家様方が呆けたように・・と申しますか、いきなり酔いが醒めたようにと申しますか、これはすまぬことをしたと謝って、その場がおさまってしまったんです」
 「なんとまあ、それはまたおかしな話で。すると何ですかな、その子に見つめられて人が変わった?」
 「そうなんですよ、まさにそんなふうでして。この美介に見つめられて、あたしなど狂ってしまう、そんなようなものでしょうかね、はっはっは」

  その夜のこと。艶辰に戻ったお艶さん。
 「そうかい、そんなことをお客が言ったか?」
 「そうなんですよ。夕べのお座敷がはじめてだった蔵前の旅籠の旦那さんなんですけどね。それだけのことなんですが気になったものだから」
 「うん、わかった、お手柄だったね。おいで美介・・」
  美神は両手をひろげて夜具の中に美介を誘い、帯を解いて白い裸身を抱いてやる。
 「あぁぁ庵主様ぁ・・ぁ・・あっ・・」
 「ほうらいい・・心地いいね・・ほうら濡れる・・しっとり濡れる」
 「はぁい・・あ、あ、あぁん」
 「さあ美介・・可愛がってやっておくれ」
  寝間着を着たまま膝を立てて腿を割る美神の奥底へ、美介は吸い込まれるように唇を寄せていく。

  さて、その同じ頃、別棟の空き部屋で末様と黒羽・・さすがにそこまでのことはなく、薄闇の中で宗志郎独りが横になり、ぼんやりと虚空を見つめていたのだった。
  どのようにして娘を操るのか。そこさえ知れれば敵もまた知れるやも・・と考えて、あの方ならもしやと思う。高輪にある湧仙寺(ゆうせんじ)という古くからの寺の住職であったのだが、齢はすでに八十をこえていて多くのことを知っている。
 明日にでも早速訪ねてみようと考えた。
  老中の戸田と言えば厳格厳正で知られた堅物。そんな男が色街の置屋に手の者を隠しているなど思いもよらない。
  知らぬことが多すぎると宗志郎は考えた。若くして家に背を向け、ろくに世を見なかった。なのにその一方で、女たちが命がけで動いている。恥ずかしい思いがして、だから眠れそうにもない。

 「眠れないの嬉しくて」
 「うむ、さあおいで、抱いてあげる」
  夜具を川の字にのべた虎介情介そしてお光。立ち直るきっかけをくれた宗志郎の剣が脳裏をよぎり、半裸とされて燃えるように恥ずかしかった己の姿を思い描く。
  夜具を抜け出し、寝間着を脱いで裸身となって虎介の布団へと潜り込む。お光の肌には尻にも背にも二の腕にも剣の稽古で青痣が浮いていたが、そこをそっと撫でられて、そしたら背中を情介にも抱いてもらえ、お光はそっと二人の萎えたものへと手をやった。
 「ふふふ、可愛い・・やわらかい」
  今宵の姉様たちは女のお客を相手した。どういうことがあったのだろうと考えると二人が哀れにも思えたし、逆に嬉しいかったんだろうとも思える。
 「ねえ姉様方」
 「うん、どうしたね?」
 「女のお客さんて、どうなんだろと思ってしまって」
  背中から抱く情介が耳許でささやくように言う。
 「あたしらの姿に震えるように抱いてくれ、しゃぶってくれて、奥の間に引き込まれることもある。抱いてといって脱いでくれると嬉しくてあたしらが泣いてしまうのさ」
 「抱いてって言う?」
 「言うよ。お体に尽くしてあげて、それからは手でやさしくされる。あたしらが出してしまうまで」
 「えー出すの? 心地よくて?」
 「もちろんじゃないか」
 「・・うん、わかった、姉様たちって女だもんね」
 「そういうことさ。だからお光と心は一緒。抱いてやってお光が濡れるとあたしらだって達していくよ」
 「・・うん・・そうだと嬉しい・・」
  それでお光は安心したのか、二人のものを握ったまま静かになって眠ってしまう。

  そして翌日、ぱらつく小雨の中を宗志郎は高輪に向かって歩いていた。

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八話 危うし美神


  墨田の流れにかかる橋を海の側から眺めると、河口に近く渡れば本所深川という永代橋、浜町から南本所へと渡る新大橋、両国から川を越える両国橋と順に川を遡上して、置屋の艶辰は永代橋を渡って左の新大橋寄り、宗志郎の小さな家は川のこちらを北へと歩き両国橋から渡った先ということになる。

  黒羽が宗志郎との一夜を過ごした二日後のこと。江戸城へ登城して普請場を見た宗志郎は、大工の棟梁である藤兵衛とともに城を出て、両国にあって藤兵衛が営む材木商の木香屋に向けて二人並んで歩いていた。
  夕刻には少し早い刻限ではあったのだが空には斑に黒い暗雲が垂れ込めていて、いまにも降りそう。陽が傾いて暗くなるより暗雲が夜を連れてくるといった様相だった。このとき宗志郎は、登城の後ということで濃い青の着物に灰色の平袴(ひらばかま)を穿いていたが、務めが木くず舞う普請場回りということで肩衣(かたぎぬ)までは身につけない。この上下で裃(かみしも)と言い、登城の際の正装ではあったのだが。

 「お察しするに懐具合がよろしくないようですな」
 「うむ、それもまた世のたるみ。されどこたびの上様はそのへんしかと見定めておられるゆえな」
 「左様でございますな。どのみち使えない忍びならば、お庭番なる者どもに見張らせようということで」
 「庭番はもとより紀州の身内。紀州の出の上様ゆえ、よって無駄な金もかからぬというわけさ」
  この頃幕府の財政は苦しかった。八代将軍吉宗は将軍となってすぐ、その立て直しに尽力した。使えない忍びに金を使わず紀州藩の身内であるお庭番を配そうと、城内の要所にそうした者どもの張り番所を置く。その普請を宗志郎が取り仕切るというわけだった。

  江戸城から日本橋北を抜けて両国へ。あと少しで川べりにある木香屋に着くというところで、藤兵衛は少し前をゆく女の背姿に目をやった。一見して若くはなさそう。とりわけどうということもない町女の着物に冬物の長羽織。しかし結い上げた黒髪は乱れなく美しく、遠目に見る立ち背の姿でさぞ美形と思える女はそうはいない。
  藤兵衛は言った。
 「あれは女将」
 「うむ女将? 艶辰のか?」
 「もちろん左様で。長く見知っておりますゆえ見まがうはずもなく」
 「ほう、あの者がのう」
  これから木香屋に顔を出し、早々に用件を済ませて今宵こそ行ってみようと思っていたところ。
  しかし藤兵衛は言う。
 「両国橋をのう・・ふうむ、はてさてどちらへ行かれたのやら」
 「どういうことだ?」
 「本所深川なら永代橋、ここらに用があったとしても帰りはまず新大橋があたりまえ」
  宗志郎はいっとき目を細めて見ていたがハッとする。
  その女将を追うように、少し離れて町屋の軒先に隠れながら歩む二人の影を見逃さなかった。
 「藤兵衛殿、ちと気になることがあるゆえ、すまぬが話は明日ということで」
 「はいはい、急ぐものでもありませぬし」
  藤兵衛は気づいていないようだった。

  尾けられている。女将はそれに気づいていて、だからあえて遠回りをしたに違いない。両国橋を渡れば南本所の雑踏。巻くこともできるだろう。
  藤兵衛と別れ、後を追って歩きつつ、宗志郎は、尾ける二人の町人は武士に違いないと考えた。どちらもが長い羽織りを着込んでいて片手を着物の内に隠しているから、おそらく刀を握って身に寄せていると思われた。
  そして両国橋。川中へ向かって高くなる傾斜を登って向こう側へと降りるのだが、傾斜の向こうへ消えて行く女将の足が速くなる。それにつられて男二人の追い足も増していく。
  そうやって橋を渡り切り、女将は左へと向きを変えた。本所深川とは逆向きにである。小走りに細道を行き、川に向かって向きを変えると、背丈ほどもある枯れススキの川原。草陰で巻くつもりなのだろうか。
  相手は男。女の足で逃げ切れるものではない。追っ手の二人も気づかれたと知って勢い込んで走り、捕らえるのか斬ろうとするのか、いずれにせよ尋常ではない様相。ススキ川原にはススキが刈られて人が歩ける道筋があちこちにはしっている。川で漁をするため、童どもが遊ぶため。

  あと少しで川に出るという背丈ほどのススキ群(むら)の中、女は懐から懐剣を抜き取って右手に持ち、柄を逆手に握って中腰に身を沈めた。この女もまたできる。構えに隙がなく、ふわりと膝を折ってしなやかに身構える。
  艶辰の女将もまた武家筋か、さもなくばくノ一。そうは思うのだったが、振り向いてキリとした眼差しを向けるその姿が、なんと美しいことだろう。宗志郎は息をのんだ。
  女は言う。
 「先刻ご承知なんだよ、このあたしに何の用だい!」
  追いすがった二人の男が長羽織の前をはだけ、思った通り、黒鞘の刀。反りのある武士の刀。案の定、町人に化けた武士である。二人ともに二十代の末あたりの若侍。それなりに使うと宗志郎は見切っていた。
 「聞きたいことがある、我らを甘く見るではないぞ、ともに来てもらおう」
 「しゃらくさいね、べらぼうめ。寄らば斬るは、あたしの台詞さ」
  おお怖っ・・男勝りな物言いが美しい見目形にそぐわない。
 「ならばやむなし、力ずくで取り押さえるまで」
  男二人が抜刀し、しかし刃を返した峰打ち剣。左右に散って囲みを絞る。
 「セェェーイ!」
  女一人を相手とする男の気合いもわざとらしい。声で脅す。相手を見くびった対峙のありよう。
  峰打ちで斬り込むも、女は胴を狙って横に流れる太刀筋を見事に見切って懐剣で敵の剣を跳ね、踏み込んで斬りつけるも、敵もまた瞬時に交わし、待ち構えるもう一人が斬り込んでいく。
  しかしそれも交わしきり、女は一歩後ろへ飛んで身構え直す。

 「ふむ・・やるな」
  少し手前のススキ群の草陰でちょっと笑った宗志郎。そしてそのとき女が言った。
 「あたしを狙ったからには生きて帰すわけにはいかないんだよ! 峰打ちとは笑止! ふんどし締め直してかかっておいで!」
  むぅ、すごい・・。
  さらに笑った宗志郎だったが、敵もいよいよ気を入れて身構える。
 「惜しい女よ、おとなしくすればよいものを」
  男二人が刃を返し、今度こその人斬り剣。追っ手を帰せばこちらの素性が知れるということ。女の言葉はそう受け取れると宗志郎は考えた。
  左右から二人が踏み込み、突きが腕を狙い、下からの斬り上げが脚を狙う。殺さず捕らえてお持ち帰りということか。
 「待てぃ!」
  ススキ群から剣に手を掛け、抜刀しながら駆け寄る宗志郎。男二人が振り向いた。
 「退いておられよ!」
  女にそう言うと、宗志郎のギラと光る白刃が、左右の斜め前から襲いかかる敵の剣をこともなげに振り払い、それでも身を立て直して襲いかかる左の男の剣と剣がぶつかって火花を上げた。
  キィィーン!
  敵の一刀を跳ね上げておき、その刹那、切り替えされた宗志郎の抜き胴が一刀のもと一人の敵を葬った。

  美神は目を細めて見守った。こやつは強い。鬼神の剣であり、そのしなやかな身のこなしと太刀筋は柳生新陰流・・いいや少し違うと感じていた。斬り込みが剛な剣さばき。
  残る敵は一人。敵は中段、こちらは剣の切っ先を後ろへ回す腰留めの構え。その構えはまさしく柳生新陰流。
 「いざぁ!」
 「おおぅ!」
 「トリャァァーッ!」
  キン、キィィーン!
  刃が二度交わって、宗志郎はあえて浅く一人の肩口を斬り抜いて、敵は剣を取り落として膝から崩れ、しかしもんどり打って背後へ転がり、腰から小刀を抜き去った。とても歯の立つ相手ではない。捕らえられれば詰問されるは必定。
 「我らを甘く見るでない! 不覚!」
  男は小刀を己の首にあてがって筋引きの自刃剣。血が飛び散り、男は目をカッと見開いて崩れ去った。
  敵の黒幕はよほどの者であったのだろう。たどられるぐらいなら死を選ぶ。それもまた武士らしいと宗志郎は哀しくなる。

  宗志郎は倒れた敵の着物で剣の血を拭い、回すでもなく、静かに鞘におさめていた。
 「大事ござらぬな?」
 「はい。どなたかは存じませぬが危ういところをお助けいただき・・」
  鈴の女声。美神もまた懐剣を懐にしまい、膝を浅く折って頭を下げた。
  なんと凜々しい若侍。鬼神のごとき剣も見事。美神はもしやと直感した。
 「私は葉山宗志郎、あやめ・・いや黒羽様とはなさぬ仲となり申し」
 「ふっ・・ふふふ」
  やっぱり。しかも身分違いの芸者ふぜいに様をつけて呼ぶとは、なんと男らしいお人なのか。あの黒羽がイカレる想いがよくわかる。
  しかしこれで艶辰の素性が知れると美神は思った。
  穏やかに微笑む美神のそばへ宗志郎は歩み寄る。見上げてしまう背の高さも男らしい。

 「いましがた藤兵衛殿と別れたばかり。今宵こそは艶辰へと思うておりました」
 「お光に次いであたしまで。不思議な縁でございますこと」
  宗志郎はちょっと笑ってうなずいて、そして言った。
 「あやめ・・いや黒羽より聞いております。あの折の小娘が立ち直ろうとしておるとか。それもまた女将殿へのご恩かと」
 「いいえ、それは黒羽そして鷹羽のお手柄。あなた様もね。ところで」
 「は?」
 「黒羽を、なぜにあやめと?」
  宗志郎は眉を上げた。あやめと呼ぶのが口癖になっている。
 「それはあの折、お二人をお見かけし、いずれあやめか、かきつばた。ゆえに鷹羽殿はかきつばた」
  美神は声を上げて笑った。

  それから歩みはじめた二人だったが、美神は、旗本の身分でありながらあべこべに半歩退いて寄り添ってくれる宗志郎を背に感じ、これほどの若侍には味方でいて欲しいと思っていた。
 「葉山様のようなお方に出会えた黒羽は幸せ者です」
 「いやいや、それを申さば藤兵衛殿の粋なはからい」
 「藤兵衛さんの? それは?」
 「ちょいと散歩のすぐそこに小さな家を目利きしてもらっており、その湯船、ちょいと大きく造っておいたと背を叩かれて、それならばと早速試しに二人でちゃっぷん」
 「ぅくくっ、そうですの? あっはっは!」
  たまらない。なんと粋なお人だろうと美神は笑える。このあたしを高笑いさせてくれた男は少ないと美神は思った。

  板塀に囲まれた艶辰が見えてきた。
  と、その板塀の切れ間の奥の引き戸が開いて、それぞれに美しい芸者衆が次々に顔を出す。いまにも雨になりそうで手に手に閉じた蛇の目傘を持っている。美しい女ばかりの黒羽織の艶姿は、ここがそういう町であることをうかがわせた。
  もうそんな刻限なのかと美神は思う。遠回りをしていて一刻半(三時間)ほども遅くなってしまった。
  戻って来る女将と、寄り添う若侍を見つけると、芸者衆はよそ行きの言葉を使い、それぞれに腰を折って頭を下げる。
 「女将さん、行ってまいります」
 「うんうん、すまなかったね、遅くなっちまった」
  男芸者の虎介情介、お艶さんの三人衆、それから鶴羽と鷺羽の二人であった。美神は問うた。
 「紅と黒は? 鷹もいないようだけど?」
 「はい今宵はお呼びがかからず」
  女たちの中ではもっとも姉様格の鷺羽が、女将の少し後ろに控える若侍の素性を察しながら言うのだった。歳では鶴羽のほうが三つ上でも芸者としては鷺羽が長い。
 「そうかい、ご苦労だね、行っといで」
  それぞれに頭を下げるも、皆が宗志郎に目をやってほくそ笑む。黒羽の姉様の色男。そう察していたのだった。

  七人の芸者たちは、それぞれのお座敷に向かって薄闇の中へと消えていく。
そしてその七人を見送ろうとしたらしく、すっかり元気になったお光がちょっと顔を出す。
 「おぅ、お光じゃねえか!」
 「え・・うわっ! あのときのお侍様!」
 「これお光、うわとはなんたる言いざまか」
  美神が笑う。小娘らしい驚き方だ。
  お光は宗志郎に向かいかけるも、家の中を振り向いてどうしようかと迷ったあげく、家の中へと駆け込んでいく。
 「姉様姉様っ! 葉山様がぁ!」
  宗志郎はちょっと頭を掻き、美神は小声で言うのだった。
 「ったく、どうしようもない・・あれでもあの子、剣を修行する身なんですよ」
 「ほう剣を?」
 「己の昔を斬り捨てたいって」
 「うむ、よかった。愛らしい娘ではありませぬか」
  二人でうなずき合って戸口をぐぐると、上がり框の際まで黒羽が迎えに立って
 やってきた。
  なぜか女将が連れて来た末様。黒羽は目を丸くして、間に立ったお光は双方を見比べるようにくすくす笑う。
 「ちょいとそこでバッタリだよ。夕餉の支度をね」
 「はい、それは・・」
  折り目の通った袴を穿く末様。黒羽は上目がちの目を送り、ちょっと笑う。惚れ惚れする若侍。

  末様は女将の目をものともせずに黒羽めがけて歩み寄り、そっと手を取る。
 「会いたかったぞ、あやめ」
 「ぁ・・はい」
  黒羽の黒目が大きく黒く輝いて、美神とお光が目を合わせ、お光が照れてちょっと首をすくめて舌を出す。
 「馬鹿だね、この子は。おまえが照れてどうすんだよ。ふっふっふ」
  とそこへ黒羽の肩越しに姉の紅羽が歩み寄る。宗志郎は黒羽の手を放してやって、歩み寄るうりふたつの姉に微笑みかけた。紅羽もまた穏やかに微笑んでちょっと腰を折って出迎える。
  姉が言う。
 「いらっしゃいまし。妹がたいそう愛でていただいておりますようで」
  宗志郎は見とれるように紅羽を見つめて言う。
 「いえいえ、それはこちらこそ。あやめ二輪の美しさ。女将さんは白き薔薇、そこな娘は花待ち蕾」
  と言いながら宗志郎は黒目を回して横目にお光にちょっと笑う。
  美神は、花待ち蕾と言われて嬉しそうにはにかむお光の背を叩いて言う。
 「はいはい、おまえは夕餉の支度にかかるんだよ」
 「はぁい」
  と、お光を奥へと追いやっておきながら、美神は、残った紅羽黒羽の姉妹に小声で言う。

 「不覚にも尾けられて襲われた。葉山様が救ってくださり・・というわけさ」
  これには紅羽黒羽がキリとした目を合わせ、二人して宗志郎に目をやって、かたじけないと言うようにわずかに目で礼を言ったのだったが、このとき紅羽はこれでこちらの素性が知れると考えていた。
  しかし美神はあっけらかんと明かしてしまう。
 「さるお方にお会いしてきた。ようとして知れぬばかりか、放った間者も戻って来ぬ始末。そなたらも気をつけろと言われた矢先」
  これには姉妹二人が唖然とし、宗志郎もまた美神の横顔をうかがう素振り。
  宗志郎ほどの使い手ならば、ぜひとも味方としておきたい。美神はそう思ったに違いなかった。
  美神は宗志郎へと澄んだ目を向けるのだった。
  宗志郎とて見抜いている。美神の目に対し、ちょっと目でうなずいて宗志郎は言う。
 「そなたら、もしやあの一件を? 紀州出入りの商家での・・?」
  美神はうなずき、言うのだった。
 「娘らを貶めるなど許せませぬ。わたくしは御老中、戸田・・」と美神が言いかけたとき、宗志郎は言い放つ。
 「それまで。皆まで申されずともよい話。言わずもがな拙者はお味方ゆえ」
  美神は安堵の笑みを浮かべてうなずいた。

  それにしても御老中とは・・指図元はかなりな御仁と察していたが老中じきじきの指図であったのかと、紅羽も黒羽も、あらためて美神を見つめた。


  白き剣 第一部。 続いて二部へ。


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七話 小さな家


 「そうか、あのときの小娘が転がり込んだか」
 「そろそろ十日になりますけどね、よくやってるし皆も新しい風だねって言ってるんです。鷹羽はほら、あのときのことも知ってるから、末様が連れてきたのかも知れないねって」
 「そんなことになろうとは思ってもみなかったが・・」

  まずは四日かなと冗談交じりに言った宗志郎の家。間に立った藤兵衛が営む材木商、両国の木香屋はもちろん木場に出入りしていて木場と深川は隣り合わせ。藤兵衛は置屋の艶辰をよく知っていて、昼日中にちょいと覗き、ちょいちょいと黒羽を手招きしたというわけだった。
  女将の美神も、お光とのきっかけとなった出来事は鷹羽を通じて聞かされていて、それならすぐに行って来いと背中を押された。こうしたとき越した祝いを手に持つものだが宗志郎は酒を一切やらない。立ち直ろうともがくお光の話が手土産のようなもの。宵となって男女が会うとき酒がないというのは芸者稼業の黒羽には嬉しいことだった。紅羽黒羽は艶辰の看板芸者。上客のほかやすやすとは出さないもので今宵の黒羽は体が空いた。

  宗志郎の小さな家は、両国橋を渡って広小路、そこから川伝いに少し行くと和泉橋という橋があるのだが、そのすぐ近く。艶辰からも遠くなく、あのときお光を救った場所からも遠くない。お座敷で出会った宗志郎がお光を連れてやってきた。そんな気がしてならない黒羽であった。
  話の合間に、宗志郎はふいに名を呼んだ。
 「あやめ殿」
 「ふふふ、はい。妙な気分だけど嬉しい。あたしにも名はあれど、あたしもまたその名は捨てたい女ゆえ」
 「うむ、俺もしかりで、末様さ」
 「ですね、うふふ」

  小さな家の畳の間で向き合っている。二つ置かれた大きな行灯だったがぼんやり明るい闇の中。こうして男と二人きりになったのはいつ以来のことだろうと思うと可笑しくもあり、黒羽はそちらへ気をやって笑っていたいと思っていた。
  あたしはどうしてしまったのか。小娘だった昔に戻ったようで胸が苦しくてたまらない。
 「あやめ殿」
 「はい末様? 何でしょね?」
  ふざけてごまかし、偽って、笑おうとしているのに、そんなに見ないで。名を呼んで見つめないで。黒羽ははっきり震え出す女心に戸惑った。
  言わないで。惚れたとか、どうだとか、そんな言葉はいらないから抱き寄せて組み敷いて。汚れのない女の扱いでは怖くなる。どんどん弱くなっていく己の心が怖くなる。

  手を取られ、ちょっと引かれて肩を寄せ、そのまま抱かれて崩れていく。
  顔を上げて見つめたとき、女の目は据わり、いきなり濡れ出す女陰(ほと)を感じて目を閉じる。
  
  口づけ。浅くはじまり一度離れて目を見つめ、ふたたび触れ合って口づけは深くなる。やさしい末様。けどあたしが最初に欲しいのはそうじゃない。
  裾を割って忍び込む男の手。腿を撫で、そっと這って這い回り、女の震えなどに臆することなく来てほしい。壊してほしい。
 「はぅ・・んっ・・末様、ああ濡れる末様・・」
  さざ波に産毛が逆立ち、肌を掃くように撫でられるとゾクゾクとした震え。男らしい強い指が密生する草むらを掻き分けて、性の谷へと落ちていく。
 「ぁん末様、ねえ末様・・あたしおかしい・・ああ末様ぁ」
  帯を解こう。着物も襦袢も湯文字も脱ごう。けどもうダメ、間に合わない。畳に手をつき犬のよう尻を突き上げて、着物をまくられ襦袢も湯文字も剥き上げられて尻さえ開き、淫らのすべてを見せつける。
 「あぅ! ぁ、ぁ、はぁぁ!」
  熱い舌。淫蜜をほしがって舐める舌。尻の穴まで開けひろげ、腰を振り尻を振って喘いでいる。
 「あやめ」
 「はい、はい末様・・あ! きゃぅぅ!」
  熱く硬く太い男が濡れビラを掻き分けてぬむりぬむりとめり込んで来る。
  肩も首も、吼えるように上を向く顔も頭も、がたがた震える。
 「ふぅぅふっふっ、ふぅぅ、ふぅう・・ああ末様、達します、達してしまいますぅ!」

  こんなことがあっただろうか。あまりにすごい喜びに愕然とするように黒羽の白い尻肉がぶるぶる震えた。突き抜かれるたび肉が揺れて波紋を伝え、その揺れがさらにすごい波濤のような喜びを連れてくる。
  そのままで腹の奥底を打つような迸りが欲しい。けれどダメ。狂うほどの喜びの中にいて、突き抜かれて去っていく末様。黒羽は振り向き、淫らにぬらめく強いものにむしゃぶりつくと、喉の奥へと突き立てて男の情を待ちわびた。
 「あやめ・・むぅう!」
  そのとき黒羽は目を見開いた。喉の奥を焼くような熱いもの。男が嫌い侍が嫌いと心して己を偽った真っ赤な嘘を思い知る。男が好き、もっともっと壊してほしい。脈打ってとめどなく襲う精の迸り。無我夢中で飲み込んだ。そしたらそのとき女の頂が見えてくる。夢のような喜びだった。夢のような高みにある性の頂点。そんなふうに思える女心があたしにあった。嬉しくてならない黒羽だった。

  情を放って穏やかに萎えていく末様を、あやめは涙目で見つめていた。
  一糸まとわぬ白き黒羽となれたこと。
  一糸まとわぬ強き男に抱かれていること。

 「夢のよう」
  末様は何も言わず抱きくるんでくださる。惚れた女に向かうとき言葉を失う男が好き。あやめの手が萎えた末様を握り込んで放さない。
  強く張る胸板越しに声がした。
 「数日前のことだがな、俺の剣の友に北町の同心がおるのだが、そいつに聞いた話よ」
 「はい」
 「市ヶ谷あたりの口入れ屋が何者かに襲われた。そこは表向きこそ口入れ屋なんだが裏ではかなりな悪だということ。奉行所として探ろうとはするのだが、どういうわけか差し止められる。上の上の息がかかるということらしい」
 「はい」
 「人吉とか申すその場には十人ほどの悪がいて、そのことごとくが消されてしまった。中には用心棒もいたらしく、しかしそやつも、ものの一刀、そっ首を吹っ飛ばされて倒れていた」
 「はい」
 「中には幾条もの斬り筋のできる妙な武器で殺られた者もいれば、何やら鞭のようなもので打たれて死んだ者もいる。こうしたものは忍びの武器よ。しかしそやつは言うておった、一刀で首を飛ばされた浪人者の屍があまりに見事と。襲った者どもの中にそれほどの剣の使い手がいたということさ」
 「はい」
 「そのような者どもがいてくれる江戸は心強いと思ったものだ。裁けぬところにこそ悪は潜むものゆえな」
 「はい」
 「そのときふと、俺はあの夜の黒羽の剣を思い出した。乱れなき一刀流の太刀筋。黒羽という芸者、武家の出ではないか。あれほどの剣を女が身につけるということは、さぞかし何ぞあったのだろうと」
 「はい」

  あやめの裸身が少し反り、仰向けに寝る末様を見つめて言った。
 「その黒羽と申す者、恐ろしい女です」
  しかし末様は虚空を見上げ、そっと手を回してあやめを引き寄せ、抱き締めた。
 「娘どもが売られるらしい。可哀想に土左衛門となって浮くらしい。そのようなことあらば俺などさらに鬼神となろう。斬り捨てるが人のため」
 「ふふふ、はい。ねえ末様」
 「うむ?」
 「女将さんがいっぺん連れて来いって言ってます。男嫌いでならした艶辰の黒羽が惚れた男が見てみたいと」
 「お光もいるしな」
 「それにしたって末様が救った娘。あたしのことも救ってくださり・・ふふふ」
 「あやめには惚れたが、黒羽という女には・・」

  しばしの沈黙。黒羽は男の胸板に頬を委ね、目を閉じて微笑んで、そして言った。
 「・・黒羽という女には?」
 「この俺に惚れてほしいと願うのみ」
 「ぅくっ・・ふふふ、末様らしい物を言う・・」
  見抜かれている。しかし、それならそれでいいと思う。
  黒羽の透けるように白い裸身は男の肌を這い降りて、憎らしいそこのところを指先でちょっと弾いて口に含んだ。
  そして黒羽は末様を口に含んだまま、裸身をずらして男の胸をまたぎ、いまだぬらぬらと淫らに咲いているはずの女の素性を見せつける。
 「どう末様? 惚れた惚れたと泣いてませぬか?」
  何も言わず口づけが花弁にちょっと触れ、けれど黒羽は腰を振って逃げて笑った。

  ちょうどその頃、艶辰で、お光は美神の寝所に呼ばれていた。眠る刻限ではない。美神も着物、お光も着物。正座をして背を正すお光を見つめて美神は言った。
 「虎介に聞いたよ、おまえ剣を習いたいそうだけど、何のために?」
 「はい。朝のお稽古を見ていて思ったんです。ここに置いてくださって夢のような暮らしの中で生きていられる。習えるものがたくさんあって、ならばできる限りのことをしてみたい。あたしはあたしの弱さと向き合っていたいから」
  この子は賢いと美神は思うが、しかしそれも悲しいこと。十七歳は悟りに遠いところに立つから輝くもの。
 「おまえ十四で男に犯されたのかい?」
 「そうです」
 「どうだったか言ってごらんよ。おまえの言葉でおまえの思いを」
  お光は、はいと言ってうなずいて、目を輝かせて言うのだった。

 「おなかが空いてお蕎麦を食べたんです。けどお金は持ってなく、逃げようとしたときに、たまたまそこにいた親分さんに捕まった。組に連れていかれ丸裸にされて男たちに嬲られた。次から次に犯されて、あたし未通女(おぼこ)だったから血だらけにされたんです。来る日も来る日も犯されて、そうするうちに良くなって声を上げて達していけるようになっていた。そのときあたしは十五でした。逆らえば怖いけど、あたしから身を開けば男たちはやさしくなると思い知ったんです。お乳に甘えるみたいにしてくれて、いつかそれが嬉しくなった。せめてそのときぐらいは幸せでいたいと思ったし。盗みを働き首尾良くいくと男たちが褒めてくれる。褒めてくれて次々に抱いてくれ、あたしはもっと達していける」
 「自ら体を開いたんだね? 嬉しくて?」
 「そうです、はい。いつの間にかあたしは甘え、そうすれば生きていけると思ったから。どんどん狡くなっていく。それでここのみんなの剣の稽古を見せられて思ったんです。あたしはあたしを斬り捨てたい。昔を斬って今度こそ胸を張って立ちたいと思ったんです」
 「芸者衆を見ていてどう思う?」
 「下働きからいろいろ覚えていきたい思いです。芸者さんなんて夢。まさかと思った遠い夢。夢に向かってあたしは己を責めていきたい。皆様が許してくださるまで責めていたいと思うんです」

  そのへんのことについては鷹羽に聞かされていた。罰がほしい、そうでないと苦しいと。この子なりに考えたことだろうと美神は思う。
 「いっぱしの口をきくんなら、そうなれるまでにくじけると許さないよ。痣だらけになる覚悟があるのなら紅か黒に言うことだね」
 「はい、そうします!」
  笑顔で美神の部屋を出たお光は、そのまま紅羽黒羽の部屋へと向かったのだが、もぬけの殻。壁の陰で聞いていた紅羽がお光と入れ替わるように美神の元へとやってくる。
 「聞いたかい、しょうのない小娘だよ」
 「振り払おうと懸命なんですよ」
  そう話し合って二人で笑い、紅羽が言った。
 「虎や情が戻ると、あの子ったら平伏して迎えるそうなんです」
 「知ってるよ聞いた聞いた。着替えでも堂々と裸になるし風呂まで一緒。一つ夜具で抱き合って寝てるって言うじゃないか。どうぞあたしを抱いて寝てくださいって、あやつめ裸で寝るそうだ」
 「ええ、あたしも聞いてます。色を売る辛さを身に染みて知っている。いい子じゃありませんか」
 「ふふふ、さてどうだか。じゃあ紅、明日から早速しごいてやりな」
  紅羽がうなずくと美神はちょっと眉を上げて首を傾げ、そして言った。
 「ときに黒は?」
  紅羽は目でうなずき、ちょっと笑った。
 「今宵は戻らないかも知れないって出て行きました。よかったと思ってますよ、あの子を組み敷ける男なんていないって思ってましたから」
 「会ってみたいもんだねぇ、お光にしたって元はと言えばそうなんだし、あの鷹までがイカレちまってるって話じゃないか」
  いまごろ妹は抱かれて喘いでいるだろうと姉は思い、胸があたたまる思いでいた。

  そしてまた同じ頃、宗志郎の小さな家の風呂場では。
  新調された真新しい湯船に浸かり、黒羽は末様の胸に頬を委ねて抱かれていた。
 「ふふふ可笑しい」
 「うむ? なぜ笑う?」
 「小さな家なのに湯船が大きい」
 「うむ、そうなんだ、棟梁のはからいさ。ちょいと大きくしときましたって笑ってやがった」
 「・・粋な棟梁」
  ちょっと笑って触れる口づけを交わし、それからまた末様の胸に頬を委ねる。
  黒羽はこのとき、察していながら踏み込まない末様を思い、それと同じように察するだけの美神という女の謎を考えていた。
  美神はときとして朝出かけ、夕刻までは戻らない。そしてそのたび何らかの動きを指図する。美神も武家の出。そのぐらいのことはわかりきった話だったし、出かけるたびに誰かに会って指図を受ける。それもまたわかりきった話だったが、ならばその相手はと考えると、深く入りすぎてはいけないと思うのだった。

  奉行所でも手に負えない一件をさばくとすれば相手はかなりな御仁だろう。だからこそ深くは入らないし知りたいとも思わない。
  さらに、お光もそうだ。そういったいきさつで連れて来られ、どうやら組は仕置きされたと感づいているだろう。芸者の置屋でありながら二日に一度は剣の稽古。この人たちは何者だろうと考えないはずはない。
  そう思うと可笑しくなる。人にはそれぞれ立ち入らない方がいい深みがあるもので。
  そしてまたそう思うと、末様ほどのお方を見抜けなかった女ばかりじゃないだろうとも思えてくる。どういった女を抱いて来たのだろうと気にすることは、それだけあたしが女となった証のようなもの。
  考えることがさまざまあって、だから可笑しくなって笑えてしまう。人の世は妙なものだと黒羽は思う。

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六話 お光の震え


 その深夜。雨も小降りとなっていて音のない静かな夜。
  鷺羽鶴羽鷹羽の三人が戻ったのは暁の九つ(午前零時)を過ぎた頃。そのときもちろんそれぞれが寝所で眠り、今宵ばかりは一人で寝所にこもっていた美神の元へ、戻って寝間着に着替えた鷹羽がそっと忍び込むようにやってくる。
 「ただいま戻りました」
  囁くような小声。しかしもちろん美神は気配に気づいている。
 「ご苦労だったね、娘らはどうだった?」
 「お光同様かなりな折檻を受けていて、けど皆が元気。尼寺へ預けてまいりました」
 「快く引き取ってくれたろう?」
 「はい、それはもう。庵主様というお方は、それは穏やかな老尼でいらして、うんうん、そういうことならわかったよって」
  美神は静かに微笑むと、両手をひろげて寝間着姿の鷹羽を夜具の中へと誘い入れ、母が娘を抱くようにそっと抱きくるんでやったのだった。
 「冷えたろう・・冷たい」
 「はい庵主様、心地いい」
  寝間着越しに鷹羽の背を撫で、美神は言った。
 「このあたしが面倒をかけた庵主様でね。もうずいぶん昔のことだけど」
  美神の静かな声をやはり寝間着越しの乳房のふくらみの裏に聞き、鷹羽は目を閉じてすがりついて甘えている。

 「それで組のほうは?」
  話にならない、まるで相手にならなかったと鷹羽は笑う。
 「組長というのが五十前の里という、でっぷり肥えた女。手下どもも見事に若造ばかりであたしらの相手じゃありません」
 「うむ」
 「何でも五年前に組長を亡くし、組の主だった者どもがよそへ鞍替えしてしまったとかで若造しか残らなかった」
 「うむ」
 「脇差しで手向かう連中をあたしらがあしらうと、里という女は、手下どもは許してほしい、斬るならあたしをと言い、それならばと里に剣を向けると今度は手下どもが泣いて許してやってと言う始末」
 「ほう・・思ったよりもいい奴らか」
 「そんなことでお光が言ったことも少しはうなずけ、かといって懲らしめておかないとと思ったもので、皆を丸裸に剥いて縛り上げ、里の耳でもいいし乳首ぐらいは削いでやろうとしたのですが、手下どもが泣いて泣いて、どうか許してとすがるもので」
 「親と子なんだね」
 「そのようでした。裸の里を縛り上げて柱に逆さに吊っておき、手下どもはひとまとめに縛り上げ、明日になったら叫べばいいと言い残して去ってきた」
 「なるほど赤っ恥というわけかい。うむ、それでいい。思うほど悪い組でもなさそうだ。身に染みればよしとして」
 「そうであってくれればいいけど・・ぁ・・庵主様ぁ・・」
  美神の手が鷹羽の寝間着の帯を解き、鷹羽は震えて抱かれていった。

  それから何刻かが過ぎた朝のこと。お光は虎介情介の寝所に移され、若くて愛らしい二つの寝顔に挟まれて目を開けた。夜具を三組、川の字にのべると部屋は狭い。目覚めたとき女の中にいると思い、香木のかすかな香りもあって安堵したお光だったのだが・・。
 「目が覚めたかい?」
  それにしては声がなんとなく違う気がした。声をかけたのは情介で、お光よりも六つ歳上。そしてその声で虎介までもが目を開けて、体を横寝に左右からお光を見つめる。一夜明け、鼻血はもちろん止まっていたが左目の周りが青くなって張れている。結っていた町娘の髷も解かれ、素裸に一枚だけ寝間着を着せられていたのだった。お光は己の体をまさぐってハッとする。けれど女同士の中にいる・・と考えたのだったが。
 「傷まないかい?」
 「あ、いいえ、もう」
  虎介の声のほうが違って聞こえる。情介よりも三つ下で二十歳の虎介のほうが声が低い。
  なのにどちらもが女の黒髪。それにここは芸者の置屋のはず。お光は何が何だかわからない。
 「そろそろ起きる刻限だよ。あたしらと一緒にやることがあるからね」
 「はい。あの・・」
 「なんだい?」
 「あたしほんとにいていいの? 盗人なのに?」
 「いいんだよ、おまえ次第だって女将さんに言われたろ。さあ起きよう」
 「はい」

  狭い部屋で揃って起きて、しかしすぐに着替え。お光の着物は綺麗にたたまれて置かれてあった。小柄なお光には鷹羽の着物がちょうどいい。
  夜具を離れて立ってみると、虎介情介の二人がはるかに背が高く、薄い単衣に透ける腰の線が固いと感じる。
  まさか。
  その上さらに二人が寝間着を脱ぐと桜色の湯文字を腰に巻き、なのにどちらにも乳房がない。愕然と見つめるお光に二人は顔を見合わせて微笑むのだった。
 「驚いたかい? あたしら男なんだよ」
 「えっえっ・・」
  それきり絶句するお光。
 「いろいろあって女将さんに拾われたのさ。あたしらも芸者のはしくれでね、お客が女でも男でも、あたしらは女としてお座敷に出てるから」
  と虎介が言い、情介は着替えろと言う。
  棲む世界の違う男・・いいや女・・どっちだろう?
  あたしは脱げば下穿きさえ身につけてはいない。恥ずかしさがこみ上げて頬が真っ赤になっていく。
  だけど脱がなければならない。お光は背を向けて震えながら寝間着を脱ぎ去り、そしたら両方の背後からそっと二人が抱いてくれる。ゾクゾクとする妙な心地にお光は身を固くした。
 「綺麗だよ、お光は」
 「うん、愛らしい姿じゃないか。誰にだって昔はある。あたしらと一緒に生きようね」
 「はい」

  生娘でゴロツキどもしか知らなかったお光にとって、はじめての男のやさしさ。
それに言葉も仕草も、何もかもが女よりも女らしい。あたしじゃ勝てない。女のはずのあたしなのに男の二人にとても勝てない。そう思うと、不思議なことに、この二人には甘えていいと思ってしまう。
 「愛らしいよ、お光」
  そう言って肌を撫でてくれる二人の男・・ほんとに男?
 「これから毎夜抱いて寝てあげる。あたしらの胸で泣けばいいからね」
 「はい、あたし気張ります、死んだ気で気張りますから」
  涙があふれてならなかった。素裸で立っていて、湯文字だけの情介に前から抱かれ、湯文字だけの虎介に後ろから抱きくるまれる。二人の肌は熱かった。
  衝き上げるお光の嗚咽が鳴き声となって響いていた。
  真新しい赤い湯文字、襦袢を着せられ、それまで見たこともないような浅い藤色の花模様の着物を着込み、キラキラ光る黒い帯。
  それから座って、虎介に黒髪を結い上げてもらうのだったが、それもそれまでのいいかげんな髷ではなくて、格上だと思っていた女の艶に満ちたもの。それで最後に情介が持っていた鼈甲(べっこう)のかんざしまでも。

  そんな姿で外に出て、前掛けをさせられて、女たちの洗い物から一日がはじまった。お光の心はふわふわしていた。
  ぽんと背中を叩かれて、それは黒羽。まだ髪も結ってなく、着物もあたりまえの姿なのだが、今朝になって見つめてみるとうっとりするほど美しい。
 「似合うじゃないか」
 「あ、はい、けど・・」
 「びっくりするのも無理はないよ。その着物、鷹羽の姉様のだからね、ちゃんと礼を言うんだよ。あたしは黒羽、よろしくね」
  そう言いながら、今度こそ女の黒羽が抱いてくれる。夢のような心持ち。
  お光を抱いてやりながら、黒羽はそばにいて見守る二人に笑いながら言うのだった。
 「こんなことだろうと思ったよ、かんざしまでしてやってさ。愛らしくし過ぎじゃないのかい。ふふふ、可愛い可愛い妹分てことだろうけど」
  そこは流し。洗い物もすれな顔も洗うそんな場所。夜具を起き抜けた女たちが次々にやってきて、見違える姿にされたお光のことを次々に抱いていく。
 「おやまぁ愛らしい。目の周りがちょっとだけど。ふっふっふ」
 「はい、恥ずかしくてあたし」
 「あたしは鷹羽、よろしくね」
 「あ、このお着物、姉様の・・あたし嬉しくて」
 「わかったわかった、泣かない泣かない。せいぜい気張りな、ここでだめならおしまいだよ」

  それで最後に女将の美神。とりわけどうという着物でもなく化粧もしてはいなかった。なのにそれでも声も出ない美しさ。お光は女の格というものをはじめて見た思いだった。
 「お光」
 「はいっ」
 「虎と情、二人の心にどう応えるかがおまえを決めるんだ。ここは夜の女の住処だよ。うわべの繕いなども一切いらぬ。思うがままに応えてやりな。女の命に胸を張るんだ、わかったね」
 「はいっ!」
  美神に尻をこれでもかと叩かれて、お光は泣きながらも白い歯を見せて笑うのだった。

  夕べの今朝。起き抜けていきなり違う世界にいたお光。そしてその日の夜、虎介情介の二人が戻ったのは遅かった。二人はそれから湯に浸かり、そっと忍ぶように寝所へと入って来る。
  夜具が三組、きっちりと整えられていて、その真ん中にお光はいる。お光は寝間着を着た姿。自分の布団の上で三つ指をつき、戻って来た二人を迎えるのだった。
 「虎介の姉様、情介の姉様、遅くまでご苦労様です」
 「うんうん、先に寝てればよかったものを。遅くなってすまなかったね」
  二人が左右に分かれて横になり、お光はささやくように言う。
 「今宵のお客様は女の方で?」
  虎介が寝返ってお光を見つめた。
 「いいや男のお客さ」
 「男の・・」
 「そうだよ。あたしらにはご贔屓さんでね」
  そしたら横から情介が言う。拾い紙という遊びがあって、負けた方が脱いでいく。恥ずかしくてならないけれど、それでお客さんは楽しんでくれるのだと。
 「それはその・・男同士でということに?」
  虎介が言う。
 「そうなるときもあるし、お客が女であれば女同士ってこともある。ほら、あたしらって女だろ」
 「ああ・・はい」
 「今宵はお相手が男だったというだけであたしらはいつも女。それは楽しそうにしていただいて、抱かれて可愛がられると、ほら、男って勃つからね、それはお客さんもだけど」
 「お相手の方々も?」
 「もちろんそうさ、あたしらの心に応えてくださる。それが嬉しくてあたしらだって応えて差し上げる。硬いものをしゃぶって差し上げ、導いて差し上げる。そうすると向こうだって同じようにしてくださり、あたしらは女の声を上げて達していくんだ」

  頬が燃えるような話であった。男色などあたりまえの時代であっても、下々ではそうではない。男同士が抱き合う姿を思い描くと、身震いするような人の深さを思い知る。愛という世界を知らないうちに性だけをたたき込まれたお光には、それは遠い世界のように思えてならない。たった一日のことでお光はむくむくと何かが育ち枝葉をひろげていく己を感じた。
 「美介の姉様ともお話しましたが」
  それには情介が応じた。
 「お艶さんと呼ばれていてね、三人ともに」
 「はい、少しお話ししてくれて」
 「脱いでも湯文字まで。同じような遊びがあって脱がされていくんだけど、姉様方は姉様方で、笑っていただけ抱いていただけ、本気で濡れるって言ってるんだよ」
 「・・はい」
 「人はそんなものなのさ。心はきっと通じるもの。それだけのために生きるのがあたしらなんだし」

  それで一度は声も絶えて目を閉じたお光だったが、ふいに虎介が言う。
 「なぜだかわかるかい?」
 「え?」
 「あたしらがなぜそうするのかってことじゃないか」
  お光には答えようがなかった。
  しばらく待って虎介が言う。
 「命はいつ消えるとも知れないもの。そのときの想いに素直でいたい」
  お光はそれでも声が出ない。それは組にいてゴロツキどもに抱かれていてもそうだった。あたしなんてクズ。けれどクズなりにいまの喜びに浸っていたい。虎介の言葉のそこだけは素直に飲み込めるお光だった。
  そして同時にお光はこうも考えた。夕べの女将さんのあの言葉・・『殺すまでのことはない、痛めつけてやるんだね』・・ここの人たちは芸者というだけではないのではないか? 命がけで何かをする人たちではないか?
  それゆえそう思えるのではないかと。

 「あたし・・」

  そう言って黙り込むお光に、二人は左右から目をなげた。闇の中にキッと目を開けて虚空を見つめるお光の姿が見てとれる。
  情介が問うた。
 「言いな。なんだい?」
 「あたし力が湧いてきた。けどあたし、罰もなく許されるのは嫌。怖いんです。これまでのあたしを叱ってくれないと怖いんです」
  この子はもがいていると二人は思う。それはかつて己でも嫌というほど苦しんだのと同じ思い。しかし罰とは己で見つけて己を裁くもの。ただの甘えだと気づくにはお光は若すぎると、このとき二人は考えていた。

 「お光」
 「はい姉様?」
 「あたしがおまえを抱いたとする。それでおまえが達してくれて眠れるなら嬉しくなれる」
 「はい」
 「あたしがおまえを責めたとする。おまえは泣いて苦しむだろうし、そんなおまえを見ているあたしはもっと苦しい」
 「・・はい」
 「ならば、おまえが己でおまえを責めたとすればどうか。あたしらはどう思うか、そこをよく考えるんだね」
  虎介から夕べの話を聞かされて、鷹羽はお光を叱っていた。

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五話 黒羽の震え


 ついいましがた茶屋で休んだ二人だったが、宗志郎と出会ったことでふたたび茶屋での時を過ごす。茶屋と言っても表の道筋からは少し逸れ、客がまとまれば出合茶屋でもないのに小さな部屋ごと貸してくれる、そんな店。しかし安普請。外の道筋にあふれかえる騒がしさは忍び込む。
  ともかくも落ち着ける小部屋で宗志郎と黒羽鷺羽は向き合った。穏やかな声で宗志郎が言った。
 「じつを申さば、こたびの役目と言えど、俺にははじめての役目なのだが、俺はつくづく城務めには向かんと思った。それで今日、このへんにどっかないかと思ってな。で、そなたらとバッタリというわけさ」
  鷺羽が問うた。
 「どっかないかとは?」
 「長屋でもいいし空き家でもあらばそれもよし」
  黒羽が言った。
 「では、お家を出て?」
 「恥ずかしながらそういうことだ。親父殿のしかめっ面も見なければならぬし、あれやこれやと言いつけられそうでたまらんのだ」
  黒羽はちょっと息苦しい。このあたりであるならいつでも会えるし、会いたくなって抑えられなくなるだろう。

 「そんなことでよろしいので?」
  鷹羽が問うと、宗志郎は浅く笑ってうなずいた。
 「四男坊などそんなものよ。兄が三人、しかもその兄たちとは母者が違う身の上ゆえな」
  後添えの子・・それでは居づらいだろうと黒羽は思う。
 「こたびの役目も棟梁に任せておけば大事ない。夕べもそうだが黒・・いや、あやめ殿に末様と呼ばれたとき、まさに末を思って考えてしまってな。旗本などとふんぞり返る暮らしが性に合わんのだ。棟梁を見ていても、あやめ殿や、こなたかきつばた殿を見ていても、町の暮らしがいいと思う。ま、どう繕っても逃げではあるが俺には城務めは向かんのだ」
  鷹羽が言った。
 「では、すぐにでも?」
 「そうだ、すぐにでも。じつはすでに小さな家を見て来てな。それならと棟梁が探してくれた。あやめ殿のそばにもいたいだろうしと言われてな」
  澄んだ目でまっすぐ見つめられる黒羽。

  黒羽は震えるような想いを、ちょっとうつむき噛み締めていた。これほど素直に想いを告げてくれるなどとは思いもしない。
  片や鷹羽も女。そうした黒羽の想いを察した上でほくそ笑み、黒羽の肩をちょっと突いた。
 「それで、どのへんで?」
  と、そう言う黒羽の声がか細くなったと鷹羽は思う。
 「この少し先なんだが、ほんに小さな家でな、いまは古くて汚いが気に入るようなら手を入れてやると棟梁が言ってくれ、手直しぐらいでいいのなら、まずは三日ということだった。いまのままでは厨と風呂が使えぬ」
 「あ、はい、左様で」
  風呂・・ああ、たまらない。黒羽は己の中にこれほどの女の情が眠っていたのかと驚くほど、身震いするような想いを感じていた。つい夕べお座敷で会ったばかり。しかもこちらは売り物の芸者であった。あたしはもう三十路。どうかしてると思っても胸が詰まる苦しさは何なのか。
  宗志郎は言う。
 「さすれば胸内(むなうち)に紅差すお方ともども遊びに来られるではないか」
 「え・・」
  黒羽は驚きの面色で宗志郎を見つめていた。胸内に紅差すお方・・あのときお座敷で赤襟を返していた姉の胸の内までをもくんでくれるお人。そうした物言いが嬉しかったし、なんと粋なお人だろうと思うしかない。

  そしてそんな想いが黒羽を女へと化身させる。腰のどこか奥底が疼くような、いまにも乱れだす性への予感。
  片やの鷹羽。剣を持たせればとても勝てない姉様なのに、その姉様をこれほど見事に変えられる男がいるというのか。そばにいて横目に見るうち、嬉しくなってならない鷹羽であった。
 「では三日でそちらに?」
  もう声もなくした黒羽の代わりに鷹羽は問うた。
  宗志郎は鷹羽に微笑み、それからまっすぐ黒羽を見つめた。目と目が合って黒羽はとてもそらせない。
 「三日というのはそれだけ手直しにかかるということでな。ううむ、四日かな? はっはっは」
  黒目を回すあのときの仕草が童のよう。鷹羽は笑い、黒羽はますます頬が火照ってたまらない。

  宗志郎はふいに言った。いいや、言いかけた。
 「それしても、あやめ殿のあの太刀筋、あれは一刀・・」
  一刀流と言いかけたそのとき茶屋のすぐ表で騒ぎが起きた。男どもの怒鳴り声と若い女の悲鳴が響いてくる。
  宗志郎は傍らに置いた剣を取ると、涼しい面色で座を離れ、黒羽鷺羽の二人がそれに続く。
  外に出てみると、どこぞの藩のご立派な若侍が三人。地べたに崩れた一人の町娘を囲んでいた。娘はまだ十代であったろう。赤い格子の着物を着て、胸を抱くようにへたり込んでしまっている。
  スリだった。ちょっとぶつかり懐から財布を抜き取る。しかし相手が悪すぎる。三人で歩いていて、そのうちの一人が二人と別れて歩き出し、娘はその一人のほうを狙ったようだ。
  男たちは泣いて震える娘を三方から囲んでいて、斬り捨てると言って息巻いている。宗志郎は割って入った。

 「まあまあ、そう責めずとも」
 「何者だ貴様は!」
 「いやいや、この茶屋でしっぽり。それだけの男でござるよ。見ればまだ小娘ではないか。盗られたものも戻ったようだし、このように泣いておる。許してやってはくれまいか」
  穏やかに話す宗志郎だったが侍三人はおさまらない。三人は三人ともに二十代の若侍。それだけに血気盛んで頭に血が上っている。
  宗志郎に対していまにも剣を抜きそうな身構え。取り囲んで見守る多くの町人たち。なのに宗志郎は、しごく平然と三人を見渡して言うのだった。
 「そなたらが許せぬ気持ちはよくわかる。ではこうしよう」
  とそう言うと、宗志郎は地べたに崩れた娘の手を取って立たせ、泣き顔を覗き込んで言う。
 「盗みをしたのはおまえだな?」
 「はい」
 「悔いておるな?」
 「はい」
 「うんうん、ではそこに立っておれ。動くでないぞ」

  刹那、宗志郎の腰から抜き放たれた白刃が目にもとまらぬ速さでツバメが飛ぶごとくキラキラと宙を舞い、立たされた娘の着物をボロ布に変えていく。
  突っ立って見つめる三人の若侍は一歩また一歩と退いていき声もない。三人がかりで手向かっても、とても勝てる相手ではないと見定めた。
  帯を断たれ、袖を切られ、裾を切られ、娘はそのたび露わとなっていく赤い湯文字と若い肌に呆然としながら、泣いて泣いて涙を流す。
  娘の着物をボロ布としておきながら肌には傷ひとつ残さない剣さばき。半裸となった娘が胸を抱いてくずおれて、宗志郎は白刃をくるりと回して鞘におさめ、三人の若侍に向かうのだった。
 「これでどうか? この娘はこうして町中で恥もかき心底悔いておるはずだ。拙者に免じて許してはもらえぬだろうか」
  若侍三人は、宗志郎のあまりの剣に声もないまま、うなずいて去って行く。そして黒羽がすっと歩み寄り、羽織っていた薄い綿入れを脱いで娘の肩に掛けてやる。
  町人たちからやんややんやの拍手が起こり、宗志郎は、泣く娘の肩に手を置いた。
 「二度とやるなよ、よいな、わかったな」
 「はい、ありがとうございました」
 「うむ、もうよい去れ」
  娘は幾度も頭を下げて逃げるように駆け去った。

  末様の太刀筋は柳生新陰流・・いいや少し違うと黒羽は思い、鷹羽は恐ろしく強いと愕然としていた。新陰流にもいくつもの流派があって、柳生の剣とは太刀筋が違うもの。
  宗志郎が、ふむ、と息にのせて、語調を変えて言う。
 「さて。あーあ、なぜにこうなるのやら。しっぽりどころかあんぐりであったろう。みっともないところを見せてしまったな。うむ四日だ。四日したらまた会おう。雲行きも怪しいゆえ今日のところはさらばだ、むふふ」
  ふざけるように笑って歩み去る宗志郎の背を見つめ、黒羽は、末様の女になると確信できた。そしてふと空を見上げ、いつの間にかひろがりだした黒い雲を見回した。

  その夜、艶辰に女将の美神が戻ったのは、夕刻前よりかなり遅い暮れの六つ(七時頃)。時につれて本降りとなった雨に道がぬかるみ、そうそう早くは歩けない。美神は戻ってすぐ、そのとき迎えに立った鶴羽に言った。
 「おや、いたのかい?」
 「はい。お呼びはかかったのですが、この雨でまたにすると」
 「だろうね、外はびしゃびしゃだよ。他は?」
 「お艶さん三人だけ。他はおります」
  お艶さんとは美介彩介恋介の三人衆。色を求める客には雨などさしたることでもないようだ。美神は笑い、紅羽そのほか四人を集めるようにと言った。
  紅羽黒羽の姉妹に、鷺羽と鷹羽、それに鶴羽が顔を揃えて大きな火鉢を取り囲む。
  美神が言った。
 「ようやくつかんだ、市ヶ谷に『人吉(ひとよし)』って口入れ屋があるんだが、そこが根っこよ」
  鷺羽が言う。
 「人吉か。まさしく人を喰った名だこと」
  それに美神は笑ってうなずき、さらに言う。
 「表向きはちゃんとした口入れ屋なんだが裏ではあこぎなことをやってやがる」

  それが美介を遊郭に売り飛ばした輩である。女衒(ぜげん・人買い)の出入りする口入れ屋であり、仕入れたモノによって、遊郭に売り飛ばしたり、美形であれば色狂いの武家の家へ法外な値をふっかけて売り飛ばす。そうした娘らの中から川に浮く土左衛門が出るに至って、放っておくわけにはいかなくなったということだ。
 「相手は総勢十人ほどだが用心棒のような痩せ侍もいるってことだから、心してかかるんだよ。明日にでも早速始末しておしまい」
  置屋の艶辰はときとして休みとなる。そういう事情があったからだ。

  ところがそんなとき、慌ただしく戸を叩く音がする。
  皆で顔を見つめ合い、そのときは鷹羽が立って戸口へ向かった。
 「ああ、いたいた、鷹ちゃん大変なんだよ、すぐ来ておくれ」
  浅草寺そばの馴染みの蕎麦屋の女房だった。
 「いますぐ?」
 「すぐにだよ。ほら昼間のあの小娘がさ」
  昼間、宗志郎が救った小娘が着の身着のまま、あの茶屋に飛び込んで来たという。娘は顔を手ひどく殴られていて、目の周りが青ざめていて、飛び込んで来るなりばったり倒れてしまったらしい。
  どうやらあの騒ぎを取り囲んだ町人たちの中に鷹羽を知る者がいたらしい。茶屋と蕎麦屋はすぐ近所。それで蕎麦屋の女房が駆けつけたということだ。
  戸口で大きな声を張り上げるものだから、美神そのほか皆が出て来て、黒羽が昼間にあった事の子細を美神に告げた。
  盗みにしくじって折檻されたのだろう。
 「わかった、行っておやり。ここに連れて来るんだよ」
  美神に言われて黒羽と鷹羽、それに鷺羽の三人が雨具を着込んで飛び出した。

  あのときの小娘は、名をお光(みつ)と言って、まだ十七歳の娘であった。顔をこれでもかと殴られていて、鼻血がひどく、全身濡れねずみ。泥だらけの着物は蕎麦屋で着替えさせてもらっていたが、裸足で走った足は泥だらけ。町娘の結い髪など乱れに乱れた姿であった。
  美神の見守る前でお光は裸にさせて体を拭かれ、寝間着を与えられて横になる。若い裸身に傷はなく、皆はちょっとほっとした。
  お光の姿を黒羽も鷹羽も覚えていたが、お光はそれどころではなかった。見ず知らずの女ばかりに囲まれて怯えきっているようだ。
  手当てをされて晒し布を鼻にあてられ、お光は息も絶え絶えだった。
  青ざめた面色で横たわる床のそばに美神は座り、怯えのせいか冷えたせいか震える頬にそっと手を置く。
 「お光と言ったね? 十七だとか?」
 「はい光です、歳も、はい」
 「うむ。おまえスリを働いたって? それが生業かい?」
 「はい、あたしら皆、見張られて働いて・・スリもだし置き引きとかも」
 「しくじって折檻された?」
 「そうです、はい。あたしら、しくじるといつもそう」

  美神はなんてことかと首を振って皆を見渡す。
 「それで逃げて来たんだね? どっからだい?」
 「下谷」
  下谷なら近い。
 「下谷? 下谷のどこさ?」
 「神田との境のへんに『我門(がもん)』て言う組があり・・あの、ここはどこ?」
  星のない雨の夜。裸足で死に物狂いに走り、それから黒羽らに両脇を抱えられてやっとの思いでここまで来た。両国橋を渡ったことさえ覚えていないようだった。
  鷹羽が言う。
 「本所深川だよ」
 「なら近い。下谷広小路の通りから一本向こうの路地に入り、少し行くと左に小さなお稲荷さんの赤い鳥居。その角を左に入ってすぐのところ」
  あのとき騒ぎのあった場所からも遠くない。
  美神が問うた。
 「やくざ者なんだね?」
 「はい。親分は女の人で、名は里(さと)って言う恐ろしい女。そこであたしら見張られて暮らしてて」
 「手下の数は?」
 「五人です、皆が若く、はみだし者ばかり」
 「おまえはどうしてそんなことになったんだい? いつから盗みを働いてる?」
 「あたしは下野(しもつけ)の山里の出で、妹たちが二人いて喰えなくて、それで売られそうになったから逃げたんです。十四のとき。それで彷徨ううちに江戸にいて、けどやっぱり喰えなくて親分さんに拾われた」
 「じゃあ十四のときからずっと盗みを?」
 「はいずっと。けどあたしらの中には十三の子もいて」
 「十三・・それで娘らはどれほどいるんだい?」
 「あたしのほか四人です。上でも十八。一人がしくじると皆が叩かれ、だから逃げられなくなるんです。あたしら仲がいいから」
 「男どもに体は?」
 「それは、あの・・」
  お光は唇を噛んで声もない。
 「だろうね」
 「だからあの、それもあって逃げられなくて」
 「どういうことだい?」
 「はみ出し者でも、あたしらみんな生娘だったし、甘えられたりして可愛いところもあるんだし・・」
  これには皆が声をなくした。最初の男を想ってしまう娘心が可愛いし、哀れでもある。それにしても十三歳の童にまで・・。

  美神はため息をつきながら、わずかに首を横に振った。
 「なんてこった、あっちでもこっちでも」
  たったいま、それとよく似た別の件を話したばかり。美神は呆れ果て、しかしその刹那、怒りに満ちた眸の色で皆を見渡した。
  しかしこうしたとき、組をつぶすのはたやすくても、それでは結局、娘らが路頭に迷うことになる。美神はちょっと考える素振りをすると鷹羽に言った。
 「不忍池の向こうに妙香院(みょうこういん)て尼寺がある。下谷広小路ならすぐそこさ。このあたしが言ったって言やぁ娘らの面倒をみてくれる。鷹、鷺、それに鶴、ご苦労だけどすぐにかかりな。殺るまでのことはないよ、こっぴどく痛い目みさせてやりゃあいいだろう」
  三人は互いに顔を見合わせてさっと立ち、奥へと消えて、そのまま艶辰から姿を消した。

  怖くてならないお光。すぐそばで恐ろしいことを言い放った、あまりにも美しい美神を見上げて言うのだった。
 「あの、女将様」
 「なんだい?」
 「ここはどういったところ? あたしのこと番屋へ?」
  美神は微笑み、冬の雨に冷え切ったお光の額をそっと撫でて言うのだった。
 「しばらくはここにいな。それからのことはおまえ次第さ。ウチは置屋だよ」
 「置屋? 芸者さんの?」
 「そうさ芸者の置屋。あたしはその女将ってこと。おまえなんぞ突き出したって寝覚めが悪くなるだけよ。死の者狂いでやるなら置いてやる。ただし下働きからだよ」
  お光は目を丸くする。
 「置いてくれるんですか? あたし盗人なのに・・」
 「もういい言うな、今宵は寝ろ、ひでぇ面だぞ」
  男っぽい物言いでも頬を撫でてくれる手がすべやかで温かい。お光はそれでようやく力が抜けて、抜けたとたんに眠ってしまう。疲れ果てているのだろう。

 「この雨の中を裸足でさ・・可哀想に・・」
  額や頬を撫で続ける美神。よかったと黒羽は思う。
  あのとき末様に救われて、逃げようとしたときにとっさにあの場所を思ったのだろうと考えた。人の情をはじめて知ったあの場所を。
  そしてそんなとき、別棟にいた男芸者の二人が顔を出す。姉様たちが慌ただしく出て行く気配に、何かあったと気づいたのだろう。美神は二人の顔を見るとちょっと考える素振りをして言うのだった。
 「この子はお光、まだ十七だよ。おまえたちの部屋で面倒をみてやるようにね」
  二人はきょとんとして顔を見合わせていた。黒羽には、そうした美神の想いはわかる気がした。

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四話 朝の艶辰


  芸者衆十名を女将の美神が束ねる置屋の艶辰は、それまで墨田あたりの川から海までの一帯で漁をする網元の住まいであった。江戸が栄え花街としての色が濃くなって一帯に料理屋や出合茶屋などができていき、そのとき網元だった男が老いて家を手放す。かつての広大な敷地を三つに割って売り払った、そのうちのひとつであった。三代将軍家光の頃であったと言われている。

  そう古くもない艶辰の建物は平屋の棟が申し訳程度の中庭をはさむ、ちょうど『』このような造りとされていて、通り側を除く三方に目の高さよりも高い板塀が造られて目隠しとなっている。二人いる男芸者も女形であり、襦袢や湯文字など洗ったものを干すにせよ、建物の造りと板塀が人の目を遠ざけた。
  芸者衆は夜に生きる。朝は遅いほうであったが、冬のいま、それでも明けの六つ(六時半頃)、明るくなる頃には皆が起き出し、歳の若い虎介情介が皆の洗い物をする。女将の美神は男芸者二人に女として生きるよう躾けていた。虎介も情介も小柄で華奢。すらりと背の高い紅羽黒羽の姉妹と身の丈が変わらない。ゆえに女形がよく似合い、またどちらも気が弱くてやさしい若者。とりわけ芸者となって半年ほどの情介に対しては、華やかな芸者姿の裏にある湯文字までを洗わせて女の素性を教えていこうと考えている。

  そんな男芸者二人をよそに、同じく若い艶芸者の美介彩介恋介の三名に対しては、逆に強くなれと教えていた。朝起きると真っ先に匕首や剣、それに空手の稽古をさせるのだ。板塀の外に墨田の流れ(隅田川)。浅草川とも呼ばれた大河との間には草原の河川敷がひろがっていて、板塀の内側の稽古の気合いを吸い取ってくれている。美介彩介恋介ともに、忍びが鍛錬で用いる生成りの木綿の忍び装束。そして今朝、この三名に教えるは姉様芸者の鷹羽であった。
  鷹羽もまた生成りの忍び装束。鷹羽は二十七歳。中背の美しい女であったのだが、いまはもう崩壊して散り散りとなった伊賀のくノ一。上で二十二、下で十九という若い美介彩介恋介にとっては恐ろしく強い姉様だった。
 「もっと腰を沈めるんだ。拳をやわらかく握り、当たるそのとき握り込む。突きは肩からだよ。肩が出て腰が入り、拳が伸びてく感じだね。いいね! わかったら左右で百本、はじめ!」
 「はいっ!」
  三人の妹分は皆一様に厳しい眼差し。セイセイと気合いを吐いて打ち込むのだが、まだまだ甘い。三年ほど前までの艶辰には美介一人がいただけで、ましてや若い恋介など鍛錬しだして一年と経ってはいない。

 「こら恋(れん)! 猫が引っ掻いてんじゃねえんだよ!」
 「あぅっ!」
  鷹羽の左回し蹴りをまともに尻にくらって吹っ飛ぶ恋介。この三人は艶芸者であり、もっと厳しくしたいところだったが体に傷を残すわけにはいかなかった。
 「なんだい、どいつもこいつも! こうだ見てな!」
  腿を割って腰を沈め、右足を一足分前に出して構える鷹羽。右左右と忍び装束の手首の生地がビシっと鳴るほどすさまじい打ち込み。若い三人が憧れるような目を向ける。
  くノ一は、生まれて物心つく頃から体中を痣だらけにされるほどの鍛錬を積んでいる。にわか鍛錬でできるものではない。技よりも強い心。そのための鍛錬だった。
  そんな様子を微笑んでしばらく見ていた黒羽。
 「さて、あたしらも軽く」
 「はい姉様」

  黒羽は、やはり生成りの木綿の単衣。結い上げる前の黒髪を後ろでまとめて垂らしている。化粧もしない。それでも黒羽は美しかった。
  黒羽は木刀。その黒羽に促されて左右に立つのは鶴羽と鷺羽。鶴羽鷺羽の二人も黒羽と同じく黒髪を垂らしてまとめ、生成りの木綿の単衣を着込む。
  黒羽は三十歳。対する鶴羽は一つ上の三十一、鷺羽は二つ下の二十八。この鶴羽鷺羽の二人は背格好が同じようなもの。黒羽より少し背が低く、しかしどちらも鍛えられた肢体を持つ。鶴羽は鷹羽同様に崩壊した甲賀のくノ一。鷺羽は甲斐一帯にいまも残る戸隠流のくノ一だった。二人ともにもちろん手練れ。鷹羽に劣らぬ技を使う。
  そんな二人を右と左の前に置き、木刀を中段に構える黒羽。剣を持つときの黒羽は、立ち姿から妖気のようなものさえ立ち昇る。そばで見ている若い三人にはそう見えたに違いなかった。
 「打ち込んでおいで」
 「はいっ!」
  鶴羽鷺羽ともに、一瞬の間を置いてほぼ同時に打ち込むのだが、黒羽の木刀がカンカンと乾いた音を響かせて左右の剣をこともなげに払い、二人は一歩後ろへ飛んでふたたび腰を沈めて身構える。
 「セェェーイ」
 「ハァァーイ」
  二人の気合いが重なって、木刀対木刀、すさまじい打ち合いになるのだったが、黒羽はその中にいて、どちらの剣をも蹴散らして、ごく軽い抜き胴を二人交互に浴びせていく。

 「すごい・・」
  ぼーっと見ていた、まだ十九の恋介が思わず言った。
 「参りました」
  鶴羽鷺羽のどちらもが片膝をついて頭を下げる。しかし黒羽はそんな二人の肩にそっと手を置き、言うのだった。
 「剣ではね。けど忍びの技ではとても及ばぬ。おまえたちもいい太刀筋になってきたよ」
  鶴羽鷺羽の二人はちょっと笑ってこくりと首を折るのだった。
  それにしても黒羽の剣。それぞれ手練れのくノ一を相手に、まるで寄せ付けない強さ。それに気品。立ち姿の品格とでも言えばいいのか、これには鷹羽も含めたくノ一三人は憧れる。
  そしてさらにその場に姉の紅羽。歳こそ黒羽より二つ上だが剣では黒羽。同じような立ち姿で木刀を構えて向き合う姉妹を囲んで六人が見つめている。
 「いくよ、セェェィヤァ!」
 「なんの! ハァァーイ!」
  カンカン! カーン! カンカーン!
  腰を沈めて打ち合ううちに互いに単衣の裾が乱れて白い腿まで露わとなる。木刀も折れるのではと思うほどのすさまじい打ち合い。まるで互角。しかし黒羽の剣がやや上か。押し込まれて退いて行くのは紅羽のほう。
  この姉妹はいったい何者。太平の世にあって武家の女どもでもこれほどの使い手はまずいない。
 「それまで!」
  黒羽が制して、二人ともに剣を降ろす。

  そして黒羽は、美介彩介恋介の若い三人に歩み寄り、それぞれに頬を撫でてやり、それぞれを抱いてやり、それぞれに口づけをしてやった。
 「おまえたちの辛さはよくわかるよ、強くなって前を向いて」
 「はい姉様、嬉しい」
  それぞれにうなずいて涙を溜める。美介は一度は遊郭へ売られた身。彩介と恋介はいずれも奉公先で嬲られ尽くして逃げてきた娘たち。恋介など体中に淫らな責めの痕があり、追っ手となったゴロツキどもを紅羽黒羽の姉妹の剣が蹴散らした。そのときのことをいまでもはっきり覚えていた。

  そうした女たちの洗い物を干しながら、稽古の様子を横目に見る男芸者の二人の肩に女将の美神はそっと手を置き、言うのだった。虎介情介ともに長い黒髪をまとめて垂らし、やはり生成りの木綿の単衣を着込んでいる。
  なのに美神一人が髪も結い上げ、薄く化粧も整えた出かける姿。落ち着いた江戸小紋の着物がよく似合い、そばにいるだけで二人の男竿は疼きだす。
 「おまえたちはダメだよ、とことん弱くおなり。男は強くなろうとすると見えなくなるものがあるからね」
 「はい庵主様」
  美神の両手がそれぞれ若い二人の股間に寄せられて、それぞれが男竿をふくらませる。
 「ふふふ可愛い、もう大きくしてるんだから」
  虎介情介ともに白い頬が紅潮し、甘い息を漏らしていた。
  そんな二人の尻を叩いて歩み出た美神。振り向く皆を見渡して誰とはなしに言う。
 「あたしゃ、ちょいと出てくるから。そうさねぇ夕刻前かな」
  戻るのは夕刻。皆がうなずき、美神は穏やかに微笑むと背を向けた。

  芸者は夜に花咲くもの。美神が出て、それから皆で朝餉を済ませ、今日は紅羽を置いて黒羽が出た。最前剣を交えなかった鷹羽を連れて。鷹羽もまたどこにでもいる町女の姿。お天道様のあるうちは芸者の身を忘れていたい。
  永代橋を渡り、なじみの小間物屋、なじみの茶屋で甘い物でもほおばって姉妹のように歩いている。夜の女は深川限り。その外では二人ともただの女でいたいと思う。
  墨田の流れに沿って歩き、ひとつ川上の両国橋。その広小路の表通りに出たときだった。
  黒羽は、待ちわびたような面色を一瞬見せたが、昨日の今日の話。
  葉山宗志郎。濃くかすれた青地の着物。黒鞘の大小を腰に差した凜々しい姿。袴などは穿いておらず、今日の登城はないようだった。
  芸者姿の黒羽ではない、くだけたそこらの女のいでたち。はたして気づいてくれるのだろうか・・と思うよりも先に、宗志郎は微笑んで、そっと歩み寄って来るのだった。

  微笑んでちょっと頭を下げたのだったが、そのとき黒羽は、どう呼んでくれるのだろうと考えた。
 「これは黒・・いや・・ううむ」
 「ふふふ」
  困ってる困ってる。昼日中の呼び名に困るやさしさが嬉しかった。
 「あやめ殿、このようなところでお会いできようとは」
 「あやめですの? このあたしが?」
 「うむ、さすればお隣りは、かきつばた」
  これには鷹羽もくすりと笑う。
 「ゆうべのお座敷で」と、黒羽は小声で鷹羽に告げた。
  黒羽が言った。
 「末様こそ、なぜに?」
 「さてね、浅草寺でも見てみようかと。あやめ殿とのことを願掛けに」
  そう言って黒目を回す仕草。粋な人だと鷹羽も思う。
 「妹のような、かきつばたでございます」
  そう言って黒羽は鷹羽を引き合わせる。
 「鷹羽と申します、どうぞご贔屓に」
 「うむ、俺のほうこそ。されどあれですな」
  と宗志郎は黒羽を見つめる。
 「はい?」
 「皆々、名に羽がつくようで?」
  黒羽は笑ってうなずくと、末様と呼んだ宗志郎の耳許で言うのだった。
 「女が空高く舞えるようにと女将さんが」
 「ほう、これはまた粋な」

  親しげな二人の様子に、鷹羽は先に戻ると言ったのだったが、宗志郎が引き留めた。
 「いやいや、それでは無粋というもの。空高く舞うものは舞ってこその命。見上げて想うぐらいがせいぜいの男ゆえ。ふっふっふ、茶でもいかがか?」
  鷹羽の面色が女の色に満ちていると、このとき黒羽は可笑しくなった。鷹羽は男を寄せ付けない。そんな女のはずなのに。

  この末様に、あたしは抱かれる。

  黒羽は燃えるような想いが衝き上げてくる女体の気配を感じていた。
  この出会いが置屋の艶辰を変えていこうとは、このとき二人は思ってもみなかった。

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