女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

カテゴリ: 白き剣

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終話 女の貌


 「して、その葛なる女の処遇はどのように?」
 「落飾して仏門に。小石川にございます深宝寺、それに壷郷の屋敷の両方を用いて幸薄き娘らを見守るということで命ばかりはと」
 「そうか、うむ、それでよかろう。江戸にそのような場があるならこれ幸いというもの。ご苦労であったな美神」
  落飾とは、女人がその黒髪を切り、あるいは剃り、俗世を離れて色を断つということである。

  江戸城からもそう遠くない番町の片隅にある、名もなき料理屋、山科の奥座敷。老いてなお矍鑠とした、老中、戸田忠真は、美しき美神と座をともにした。
  柳を葬ったところで事の子細は美神を通じて戸田に伝えられ、それ以降は戸田の手の者どもによって密かに処理された。
  残る相手は品川にある船問屋、船冨士の主、喜十(きとお)と、その兄であり駿府にある船冨士本店の主であるとともに武器を扱うときには武器商人として武尊と名乗る、兄の喜幸(きこう)。そして番頭の清吾(せいご)と言う男であったのだが、船冨士は紀州家御用ということで迂闊には動けない。
  戸田は言った。
 「船冨士はつぶした。されどそれは禿どもの売り買いよる責めのみ。もっか取り調べておるが、そのほかご禁制の品々にも手を出しておったよ。兄とその手下どもは死罪、弟のほうは遠島と相成ろう。紀州尾張の両家に対しても、それとなくそれぞれの端役に匂わせておいた。いずれ両家より何人(なんびと)かの病死の届けが出されるであろうし、それはすでに尾張より壷郷なる者の病死が届けられておってな」
  美神はちょっと微笑み、うなずいた。
  武器の製造売買ともに、いっさいは闇の中。それが表沙汰となれば紀州尾張両家ともに一大事。船冨士はあくまで人身売買にかかわったということでのみ裁かれる。調べが進めば式根島に隠されるという武器一切も押収されるはずである。

  これで一件落着かと思えば、戸田は苦々しい面色で言うのだった。
 「こたびのことにも顔を出したが、このところ阿片が出回っておるようでな、それにも頭を抱えておるのだ」
 「左様でございますか。阿片となれば、またしても女たちが?」
 「そういうことだな。世が弛みきっておる。吉宗様お世継ぎに際しての紀州尾張の騒動も、じつは皆が注視するところ。ましてや政(まつりごと)を改めようとすれば古き中でぬくぬくしておる者どもとすれば面白くはない。阿片は芥子(ケシ)。どこぞで育てられておるのじゃろうが、その相手が譜代であっても、いまは公儀としては手が出しづらい。諸藩ともに財政難。あえいでおるからのう」
  戸田は顔を上げて美神を見つめた。吉宗の世として落ち着くまでは危ういということだ。
 「もっか探索させておるゆえ、事と次第によっては・・ふむ」
  ふむと、戸田はため息をついて眉を上げた。
  美神は言う。
 「かしこまりましてございます。入り用とあらば我らはいつでも」
  戸田はこくりこくりとうなずいて、盃をちびりとやった。

  そして、「さて」と言って戸田は美しき美神の背後に控える若き武士へと目をなげた。
 「そなたのことも聞いておるぞ。葉山の家からは勘当の身ゆえ、もはや一介の素浪人。それでよいのだな?」
  宗志郎は穏やかな面色でうなずいた。老中配下として動くからには一度は会わせておかなければならなかった。
  戸田は言う。
 「そちのお父上とも話したが、たいそう喜んでおられたよ。あのはみ出し者がまさかの働きと申して恐縮しておった。艶辰の皆のこと、しかと頼みおくぞ」
  そのとき時刻は夕の七つ(五時頃)。外に出てみると冬の陽は少し長くなっていて、明るさが残っていた。
  
  美神と二人そぞろ歩き、宗志郎の小さな家。家に着く頃、江戸はすがすがしい闇につつまれていた。今宵は星々が美しく、雲のない空に右半月がくっきり浮き立つ。
  玄関へ入ってみると、今宵は鷹羽と、あのとき壷郷の屋敷で救った小娘が待っていた。禿髪は少し伸びたとは言え、まだ髷を結うには短い。年が明けて娘は十五。地下の檻にいたときはまだ十四だったというわけだ。
  名を律(りつ)と言う。童顔の残る愛らしい娘だったが、それだけに体のそこらじゅうに残る消えない責め痕が痛々しい。焼けた火箸の先を押しつけられた傷もあり鞭打ちで肌を裂かれた傷もある。
  救われてから一月ほどになるのだったが、律は心が壊されて、その歳なりの明るさが失せていた。
  家に入って、美神は律を一目見るなり、どうしたものかと言うようにちょっと眉を上げて鷹羽と見合う。今宵は黒羽紅羽の二人、それに鶴羽鷺羽の二人にも座敷がかかって仕事に出ていた。

  宗志郎の小さな家に美神が来ると、鷹羽は美神とともに艶辰へと帰っていく。残されたのは宗志郎と律。律は、あれからずっと艶辰に暮らしたが、芸者の華やかな姿は律にはむしろ辛いこと。連れ出してやり、宗志郎の家へと来るたびに、ここがいいと言い出した。女の尊厳のすべてを踏みにじられた娘。艶辰の皆の女らしさがかえって辛い。
  さらにまた律は柳のしたことも間近で見ていて、葛のことも受け入れない。律にはもう生き場がなかった。行き場ではなく生きていく場がないのである。
 「宗志郎様」
 「おぅ、どした?」
  ふと見ると、鷹羽が帰って男と二人きりになったからか、律は板床に額をこすって土下座をし、夕餉の支度ができていると告げる。男への恐怖がぬぐえないのか。怖くて怖くてならないのだろうし、下手にやさしくするとかえって律は受け入れない。宗志郎は頭をかかえた。女の中にはいられない男のそばが恐ろしいでは、どうにもならない。

  宗志郎は、足下に平伏す律を見下ろして言う。
 「うむ、きっちりできたいい挨拶だ、おまえは可愛い娘だな」
 「はい主様、ありがとうございます」
 「では夕餉を頼む」
 「はい主様!」
  違う、そうじゃないとは思うのだったが、そうして畜奴のごとく扱ってやると律は落ち着く。そうするのがあたりまえの律の生き様。であるなら、いままで通りに扱ってやろう。宗志郎は内心ため息をついていた。
  茶色に黄色の縞柄の着物。前掛けをさせ、肩より長く伸びはじめた黒髪を横にまとめる。それは愛らしい姿なのだが、これをどうやって女に戻してやれるのかと考える宗志郎。
  丸い卓袱台に夕餉を二人分ととのえさせて、宗志郎は、台の向こうではなく横に座れと律に言った。そしてすぐそばにきっちり正座をする律。
  白い飯に焼き海苔を巻き、ちょっと醤油をつけて、その箸先を律の口許へともっていく。律は目を丸くして箸先を見つめている。
 「おまえに言っておきたいことがある。その前に喰え。おまえはよくやっている。これは褒美だ」
 「はい主様、ありがとうございます」

  小さく口を開けてほおばる律。こういう与え方をすると嬉しそうにするのだからしかたがない。
 「喰いながら聞くんだ」
  こくりと律はうなずいた。
 「本来それは俺だけのことではないのだが、これからは俺のことだけ考えろ。どうすれば褒美がもらえるか、どうすれば叱られなくていいのか。鷹羽もそうだし、黒羽やほかの皆にもそうだが、言われたことには素直に従う。おまえの兄や姉だと思え。女将さんは母様よ。一切何も考えず、ひたすら素直に付き従う。よくできたときには褒美、だめなら仕置き。わかったな」
  一口の飯を噛んで飲み込んだ律は、はいと言ってうなずいたのだが、そのときの律の目がいつになく輝いている。あたしはそういう畜奴。体に教え込まれた律にとっては唯一の喜びなのだろうと宗志郎は思う。
  宗志郎は言った。
 「よし、では俺に喰わせてくれ」
 「えっえっ?」
 「母が子にするように喰わせてくれと言っている。できなければ仕置きだぞ」
 「は、はい主様」

  宗志郎がしたように白い飯を箸先にまとめ、そっと口に運ぶ律。半信半疑、おっかなびっくりといった面色だったのだが、夕餉が進むうちにやさしい眸に変わってくる。
  これだと思った。母の心を呼び覚ます。そうすればいつかきっと女の心を取り戻してくれるだろう。
 「あの主様、汁は?」
 「うむ?」
 「汁は箸ではすくえません」
 「では口移しだ。おまえが含んで俺に飲ませろ」
 「ぁ、はい! ふふふ」
  笑った。笑顔など見せたことのなかった律が笑った。
  律は椀をとって一口をすすると、宗志郎の唇を見つめながら顔を寄せて唇を重ねてくる。
 「うむ、美味いぞ」
 「はい。でもそれは鷹羽の姉様がこしらえたもの」
 「そうか。だったら次にはおまえがつくれ。まずかったら尻叩き。よいな?」
 「はい主様、ふふふ、はい!」

  なぜ笑える? 哀しい。汁の塩味が涙の味のようにも思える宗志郎。

  口移しで汁をもらい、口移しで汁を与える。そうして夕餉をすませる頃には律に笑顔が戻っていた。
 「次は風呂だな」
 「はい主様」
 「律よ」と言って、宗志郎は律の両肩を強くつかんだ。ビクリとする律だったが、あえて強い眸でにらんでやると、律はむしろ穏やかだった。
 「壷郷の親爺と俺は想いは一緒でも考えが違う」
 「はい」
 「律は犬だとしよう。されど同じ犬でも可愛い犬とそうでない犬がいるものだ、わかるな?」
 「はい」
 「だったら可愛い犬になれ。置屋に飼われる律という犬は皆に可愛がられて生きていく。艶辰には美しい女たちがいるが、可愛い犬はおまえだけだぞ。人の女などは羨まず犬の牝を誇って生きろ」
 「はい主様」
 「うんうん、聞き分けのいい、いい子だ律は」
 「はい! ふふふ嬉しいです主様」
  喜んで笑う律を見ていて、宗志郎の二つの眸が潤んでいた。

 「それで風呂?」
 「体を洗わせ、よくできた褒美に洗ってやってな」
 「嬉しいんだろうね、それが」
  後日。宗志郎の小さな家ですべてを脱ぎ去った男と女が抱き合って話していた。末様は、あやめの白い背を撫で、そのあやめは心地よさに末様の胸に甘えつつ、そして言った。
 「・・犬か」
  宗志郎は言う。
 「まずはそこから」
 「わかったよ、じゃあそうしようね、律は犬だ」
 「犬はやがて化身する」
 「そうだね、そうかも知れない」
  艶辰に戻された律は明るくなった。犬としての生き場を見つけた。素直によく働いて皆に可愛がられている。
  宗志郎は言った。
 「打ちのめされる。次々に打ちのめされることを知る。女とは、いずれにしろ神がごとき・・」
  ちょっと笑った黒羽の唇が、強く勃つ末様の男竿にかぶさっていく。

  春、弥生(三月)。

  十八となったお光と十六となったお栗の初座敷は、鷺羽鶴羽鷹羽の座敷の座興として支度されたもの。その場には藤兵衛ほか木香屋の大工と職人衆が呼ばれいていて、月代を剃らずすっかり浪人髷となった宗志郎もともにした。
  姉様三人が横に並び、黒に桜の着物を着たお光、同じく黒に梅の着物を着たお栗が並んで座り、もっとも上座の藤兵衛に向かって三つ指をつく。
  鶴羽が言った。
 「こなた両名、わたくしどもの妹分なれど今宵が初お目見えにて、まだ名がありませぬ。末永くご贔屓にという意味も込めまして、どうぞよい名を皆様にと女将に申しつけられておりますれば」
 「ほほう、我らが名を? それはまたたいへんなお役目だ。下手をつけると呪い殺されてしまうゆえな。はっはっは」
  藤兵衛が笑うと集まった七名のほどの者たち、そして宗志郎がくすりと笑う。
  藤兵衛は大工ならがも粋人。宗志郎は横目に見て、それからお光お栗にちょっと笑った。藤兵衛は腕を組んでちょっと唸って考えて、畳に両手をついたまま顔を上げる二人の妹分に向かって言う。

 「艶辰は羽がつけば姉様格、介がつけば愛らしい。とするならば・・」
  お光もお栗も眸が輝き、それは美しい娘芸者。藤兵衛は言う。
 「お光は光ぞ、光は空に輝く陽であって、ゆえに陽介(ひのすけ)などはどうかと思う。お栗は栗、栗は森になるものということで、森介(しんのすけ)ではどうか」
  妹芸者二人は微笑んで互いを見つめ、鷺羽鶴羽鷹羽の三人も穏やかに笑っている。
  鶴羽が言った。
 「陽介に森介、それぞれにふさわしく、よき名かと存じます。これ陽介に森介、お客様にお礼のほどを」
 「はい姉様」 とお光が応じ、お栗も嬉しそう。
  お光が言った。
 「わたくし光は今宵をもちまして陽介にございます。心の限り務めますれば、どうか皆様ご贔屓に」
  お栗が言った。
 「さすればわたくし栗は森介とお名をいただき、いっそう芸に励みますので皆様どうかご贔屓に」
  二人揃って頭を下げると皆が手を叩いて声を上げた。

  ちょうどその頃、置屋の艶辰。春の陽気に誘われてということなのか今宵は皆が出払って艶辰には美神と律の二人だけ。
 「ここでこうして糸に玉をこしらえて一針入れて糸を切る。その先やってごらん」
 「あ、はい」
  律は針仕事が下手だった。縫い目が右に左によたってしまう。
 「もう不器用だね、おまえって子は」
  美神は笑って縫い手を代わった。
  艶辰で皆が集まる大部屋と言えば、四角い火鉢のある女将の部屋。春とはいっても夜には冷えて火鉢に炭が燃えている。
  風呂の掃除をしていた律の着物にほころびを見つけ、部屋へ呼んで縫い方を教えている。律は十三で売られた娘。禿髪は肩を越してだいぶ伸びたが、まだ結えるほどの長さはなかった。それこそ犬の尻尾のように頭の後ろでまとめただけ。普段着の着物だったが、それは虎介のお下がりで赤い小花柄の愛らしいもの。その袖が、何かに引っかけたようでほころんでいたのだった。

  律は薄い襦袢だけ。正座をすると腿が露わ。しかしそこにも鞭裂けの傷がある。美神が運針、律は顔を寄せて覗き込む。
 「ほらこうして。次からは自分で縫うんだよ」
 「はい、すみません、ありがとうございました」
  美神は微笑み、できなくて小さくなる律を横目にちょっと睨む。
 「あたしにとっちゃ皆が娘。可愛くてならないね。おまえもだよ律。おまえが皆に可愛がられる姿を見ると嬉しくて涙が出そうさ」
 「はい」
 「けどおまえという子はどうやら犬。ふふふ、それでもいいんだ、犬でもいいから駆け回っていてほしい」
 「はい、ありがとうございます女将様」
  美神は、まさに犬のようにまっすぐ見つめる律の眸を見て小首を傾げた。
 「まあいい。風呂でも沸かしな、ともに入ろう。着物ひとつまともに縫えない罰だからね」

  大きな湯船に二人で浸かり、美神はその白く美しい乳房に律を抱いて乳首を吸わせる。
 「はぁぁぁ心地いいよ律。何の因果で犬を産んでしまったのか、ふふふ、まったく一生の不覚だよ」
  乳房の裏から聞こえるような美神の声を、律は眸を閉じて聞いていた。
  湯の中で美神の手が律のふくらむ乳を揉み、そうしながら頭ごと抱き締めて、
 美神は言った。
 「おまえのような娘を減らせるならと願ってあたしらは動いている」
  乳首に吸い付き、口の中で舐めながら、律はこくりとうなずいた。
 「そのあたしらを癒やすのがおまえなのさ。己のためじゃなく、あたしらのために生きてくれる犬がいるなら、それは艶辰の誇り。おまえの一念を皆が受け取り日々を過ごす。受け取った一念は皆の一念を掻き立てて、人数分の想いをおまえは受け取る。犬としてならおまえも胸を張れるだろ?」
  律はこくりと今度は大きくうなずいた。

 「人の世はもう嫌・・考えない犬でいたい」

  美神はうなずき、幼さの残る律の裸身を抱きくるむ。そのときの律の顔。穏やかに微笑んでいて、与えられる抱擁を愉しんでいるようにも思えてしまう。

  この艶辰で誰しも持てない女の貌(かお)だと美神は感じた。


白き剣 完

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二二話 死の匂い


 壷郷の屋敷は決して大きなものではなかったが、武士の住まいとしての格式だけは備えていた。造られてからのほどよい歳月が木を枯れさせ、落ち着きに満ちているのだが、これほどの惨劇の後。邸内には血の匂いが濃く漂う。
  宗志郎も紅羽も黒羽も全身に返り血を浴びていて、さらに寺の側には十人の死骸。そちらは寺の側から放り込めばいいとして、壷郷の屋敷の側からは四人の死骸。家の中を引きずらないと地下へは降ろせない。その道筋に血が流れ、外戸を締め切っていては匂いを逃がせないのだが、冬の深夜に開け放っておけば不自然すぎる。邸内に吐き気をもよおすような死の匂いが満ちていた。

  床の間のある畳の大部屋に夜具をのべ、地下から救い出した三人の女たちを寝かせてやる。そのうち二人は大人の女で体には傷はなく、与える薬もなかったのだが、檻の中で倒れていた禿髪の娘については、全身に傷がひどいのと憔悴しきって命さえも危ういありさま。くノ一は薬を常に持ち歩く。素裸の娘に対して薬に長けた鷹羽がついて手当てをし、精のつく飲み薬も与えてやる。
  城務めの二人については寝かせたときに意識はあって、布団にくるまりあたたかくなったからか、気を失うように眠ってしまう。ところが檻の中にいた娘についてはぐったり気を失ったまま。体に薬を塗ってやり、飲み薬を口移しで飲ませてやってもぴくりとも動かない。顔色が死人の色。そして、歳の近い哀れな娘のそんな様子をお栗が暗く沈んで見守っている。

  家の中を見てきた鶴羽が部屋へとやってきて、呆然としている暗いお栗に言うのだった。
 「厨に米があるよ。握り飯ぐらいならできそうだ。風呂もいま沸かしてるから、すまないけどお栗はあたしと一緒に」
 「はい、あたしやります、姉様も少し休んで」
  鶴羽は相変わらず忍び装束。それは鷹羽もそうで、ここにいては着替えもない。宗志郎には男の着物があり、結い髪を下ろした男姿の紅羽黒羽にも男物の着物はある。こうなればしかたがない。くノ一二人も男姿になるしかない。明日には艶辰から着替えが届けられる。それまでの辛抱だった。

  さらに一人、母の柳を亡くした娘の葛。こちらは藤色の小袖姿。遠慮がちに部屋の隅に座っていて、けれども吹っ切れたようにさばさばした面色で、皆の動きを見守っていた。
  そんな大部屋へ、顔に浴びた返り血を手ぬぐいで落とし、血を浴びた袴を捨てた紅羽と黒羽がやってくる。袴に覆われる下はともかく、腰から上の着物にも返り血が飛び散っていたのだったが、二人ともに普段の面色に戻っていた。
  黒羽は部屋に入るなり、そのときちょうど立とうとしたお栗に微笑み、それから部屋の隅におとなしく座る葛へと目をやった。紅羽は可哀想な禿娘に寄り添ってやり、鷹羽に向かって言う。
 「助かりそうかい?」
  何とも言えないと鷹羽は首を傾げて目を伏せた。
 「薬は与えました。若い力が残っていればいいけれど」
  紅羽はうなずくと鷹羽の肩に手を置いて言う。
 「鷹も鶴も風呂にして。じきに沸くよ」
 「でも宗さんは?」
 「最後でいいって。向こうにいるよ。あたしらが看てるから行っといで。男の着物しか見当たらないけどね」
  横から鶴羽が言った。
 「厨に米があるから、お栗に握り飯でもって言ってたところ」
  部屋を出て行くお栗の背に目をやりながら紅羽が言った。
 「そうかい、あたしも手伝ってやりたいけどね、そこらじゅう血だらけだ」
  そんなやりとりを聞いていて、葛が静かに立ち上がる。
 「なら手伝う」
  紅羽も黒羽も葛を見たが、葛にもはや敵意はなかった。
  黒羽が言う。
 「母者のこと、我らは約束は守るから。死なば仏」
  葛はちょっとうなずいて部屋を出ていく。そのとき鷹羽も鶴羽も葛の思いはよくわかる。葛も風魔の血を受け継ぐ。母の邪視が哀れに思え、それだから付き従った。忍びは命じられて働くもの。好き好んでやったことではない。

  鷹羽と鶴羽は、姉様二人にその場を任せて部屋を出た。広い部屋に残ったのは紅羽黒羽に、布団に横たわる三人の女。
  しばらくして、川の字に並んで横たわる奥の一人が目を開けた。しかし紅羽も黒羽も気づかなかった。
  紅羽と黒羽が姉妹で話す。
 「これでともかく止められた」
 「ともかくはね。けどまだ終わっちゃいない」
 「許せない。女を虐げるなど許せない」
  そのときだった。
 「救われたのですね、わたくしたちは」
  紅羽黒羽が揃ってそちらへ目を向けた。
  横たわる女は顔を傾け、言うのだった。
 「わたくしは小夜と申します、大奥に務める下女、宿下がりでお城を出て襲われました。こなたは姜と申し、同じく城に務める下女」

  紅羽黒羽は顔を見合わせる。間にあった。城内で騒ぎとなればもはや抑えがきかなくなる。すんでのところで食い止められた。お栗がいてくれなければ大変なことになっていたと二人は思う。姉妹は揃って小夜のそばに座り直し、黒羽は手を取り、紅羽は頬をそっと撫でる。
  小夜は言う。
 「いかにも不覚。いきなり当て身、気づいたときには裸にされていたのです」
  紅羽が言う。
 「もういい、忘れることだよ。我らは悪を憎む者。とにかくいまは体を休めて」
 「はい、ありがとうございます、救われました」
  そして小夜はちょっと笑い、涙を溜めて、眠る目から涙が頬をつーっと伝う。

  眠ろうと目を閉じて、しかし小夜は毅然として言う。
 「武尊なる者の言葉を聞きました。あとさきよくはわかりませぬが、『弟は生真面目すぎる、このような好機はないというに武器も女も喜ばぬ』 すると壷郷なる者がこう申し『よもやのことがあってはならぬ。わかっておるとは思うが兄弟であっても油断はするな』 とまた武尊がこう申し『番頭に見張らせてありますゆえ間違いはござりませぬ。よもやのときには殺せと言ってあり』・・と」
  船問屋の船冨士だ。船冨士の真の主、つまり兄の方が武尊!
  黒羽が問うた。
 「確かなんだね? それが知れればすべてが片づく」
 「確かでございます、どうか根絶やしに」
 「うむ、わかった。すまぬな小夜さん、我らの力およばす探りきれていなかったこと。その旨確かに伝えるゆえ、くれぐれもこたびのことで己を責めることのないように」
  小夜は応えずただ泣いて、顔を横に向けるのだった。

 「ぅぅ、寒いよ、助けてぇ、もう嫌ぁ」

  かすかに呻く禿髪の娘。
  黒羽はとっさに姉と目を合わせ、さっと立って着物を脱ぐと、桜色の湯文字だけの裸となって娘の横へと滑り込む。助かってほしい。死なずに生きてほしい。
  抱きくるんで温めてやる黒羽。
 「可哀想に・・じきに仇はとってやる・・許さない・・」
  娘を抱いて背を撫で腕を撫で腿を撫で、禿髪の頭ごと顔を乳房に抱いてやる。

  その頃、厨の少し奥の風呂場では鷹羽と鶴羽が湯を浴びて、そこから少し離れた厨に、前掛けをしないお栗と葛が立っていた。
  二人には声もなく、互いに顔を見合わせない。
  化け物だった母親を打ち負かす邪視の持ち主。葛はいまだに信じられない。そしてそんな葛の胸中を察したようにお栗は言う。
 「あたしはジ様と一緒に暮らした、久鬼のジ様さ。親を殺され彷徨っていたらジ様に救われたんだ」
 「それで教えられたか」
 「違う。ジ様は教えてくれなかった。けど一緒に暮らすうち、わかるようになったんだ。江戸で柳が目を使った。ジ様は感じ、やめさせようと無理をして死んでしまった。柳のことが許せない。それでまたそのためにあたしを救ってくれた皆が苦しむ。ますますもって許せない」

  葛は黙って聞いていて、料理の手を止め、夢見るように虚空を見つめた。
 「母者が言ってたよ、この目を持つ者は思うよりも多くいる。気づかぬだけだし、気づいたところで使い方を知らんのだとね。女の一念は恐ろしいというが一念とは念の集束。あたしにはできなかったし、それで苦しみ抜いた母者を見ていて哀れでならない。あたしなんかが言うことじゃないけれど、その目、きっといいことに使っておくれね。さもないと・・」
 「言われるまでもない、わかってる。けどあたしは立つよ。いまはまだ童みたいなもんだけど、いつかきっと皆の力になりたくて」

  そしてまた料理の手を動かす葛。今度こそ何かが吹っ切れたような面色だった。
 「化け物でもあたしにとっちゃ母者なのさ。久鬼の爺様の子の子が母者、あたしはその子。母者を葬り、あたしが死ねば、化け物の血がようやく絶える」
  お栗はチラと横目で見たが、そのとき葛はほんの少し笑っていた。
 「葛だったね? あたしは十五。いくつなのさ?」
 「二十八。母者は十六であたしを産んだ。おまえを産んでやれたことだけがあたしの幸だと言ってくれた」
  お栗はうなずくでもなくただ聞いて、手元の野菜に目をやった。
  ちょうどそのとき風呂場から鷹羽と鶴羽が並んで出てくる。濡れ烏の黒い髪を横に流してまとめた姿。二人ともに男の着物を着込んでいて、それはこの屋敷に暮らした若い侍のものだった。
  くノ一二人は、葛がお栗と並んでいることに驚いたのだが、葛に殺気は感じられない。
  お栗に向かって歩み寄りかけ、そのときお栗が唐突と言う。
 「こやつは嫌いだ、卑怯者だ。死んで血を絶やすと言う。あたしは生きる。生きてこの血を絶やさない」
  己の行き先を見据えるようなお栗の強い目。鶴羽も鷹羽も呆気にとられ、いったい何を話していたのかと二人揃って葛を見つめる。

 「そんなことをお栗が?」
  と、紅羽が目を丸くする。
 「いったい何を話したことやら」
  大部屋へと戻った鶴羽と鷹羽。そのとき黒羽が布団に潜って禿髪の娘を抱いて、紅羽は小夜に寄り添い、布団の上から小夜の胸を撫でてやっている。
  禿髪の娘を抱きながら黒羽が言った。
 「武尊が知れたよ。船冨士の主が武尊。番頭はその手下で、兄に反対する弟を見張ってる」
  これで葛を生かしておく意味がなくなったと、くノ一二人は考えた。だからこそお栗の言葉が重い意味を持ってくる。
 「代わろう姉様、あたしが抱く」
  鷹羽は湯文字さえもしていない。忍び装束の下は男同様ふんどしを穿くもので。鷹羽は素裸。桜色の湯文字を巻いた半裸の黒羽と入れ替わる。
  紅羽黒羽の二人が厨の後ろを通りがかり、お栗が明るい目を向けた。
 「厨にいろいろあったから、ちゃんとしたものができそうです。葛も手伝ってくれてはかどって」
  黒羽は微笑んでうなずくと、お栗のそばで戸惑う素振りの葛に言った。
 「聞いたかい。お栗はおまえを許したんだ。武尊が知れた。もはやおまえに用はない。殺してやりたいぐらいだけどね、お栗が許すならあたしたちだってそうするしかないんだよ。償い方にはいろいろある。死んじまったら楽だからね」
  怒ったように言い捨てて、二人は風呂場へ入って行った。

 「そうだよ葛、ジ様はおまえたちを殺そうとしたわけじゃないんだよ」

  そんなお栗の声は風呂場にまで聞こえている。お栗は変わった。強くなったし大人になった。黒羽も紅羽もそれが嬉しく、互いの背中を流し合う。
  お栗と葛の二人は別に、最後に宗志郎が風呂を済ませ、その頃には外はすっかり明るくなって、つまりは朝餉。大部屋に女三人はぐっすり眠り、死の淵を彷徨った禿髪の娘も顔色がよくなった。
  厨にいろいろあったといっても握り飯と味噌汁にするぐらい。膳を置かず畳の上に盆をならべて皆で囲む。その中には葛も混じる。
 「味噌汁は葛がつくった。美味いよ」
  と、お栗は言い、それだけでもお栗の気持ちは皆に伝わる。
  宗志郎が汁の椀に口をつけ、椀を置きながら部屋を見回し言うのだった。
 「縁の下は柳の墓よ」
  その言葉に葛は宗志郎へと怪訝そうな目を向けた。
 「まあ、てなことにしてはどうかと思ったまで」
  宗志郎は葛を見据えた。
 「母者のしたことなれど、その責めはおまえにもある。突き出せば死罪。されどだよ、これだけの屋敷があれば禿遊びの哀れな娘どもも救えるし、尼寺に預けたままの娘らも多くいる」
  それは、あのときのお光の友もそうだし、天礼寺で救った三人もそうだった。寺に託したままとなっている。その上さらにこの屋敷で救った禿髪の娘もいる。

  皆は宗志郎が決めるならそれでいいと思って聞いていた。
  宗志郎は言う。
 「これだけの家屋敷があれば大勢で暮らせるだろうぜ。どうだい葛、おまえが姉様となって守ってやるならお天道様も許すだろう。この屋敷、誰が返せと言うもんか。騒げば墓穴を掘るだけよ。おい葛」
 「はい?」
  宗志郎に見据えられて葛の声は小さかった。
 「飯がすんだらお栗と二人、湯でも浴びて、お栗の背でも流してやれ」
  皆は微笑んだまま目を伏せて異論はなかった。
  お栗が明るい面色で言う。
 「おまえのために生きるんじゃない。皆のために生きて償う」
  おお! いっぱしのことを言いやがると皆は可笑しく、宗志郎もまた笑って言った。
 「ちぇっ、もはや頭も上がらんな、お栗に睨まれればおしまいだ。はっはっは」

  そう言われてもなお戸惑う素振りの葛に向かって鷹羽が言った。
 「おまえは母者のことばかりを言うけどね、久鬼のジ様は、娘の葛だけは救ってやってほしいと言った。あの子は悪くないと言い残して逝ったんだよ」
  その言葉を追いかけて、またしてもお栗が言う。
 「悪くないわけじゃないけどね。ふふふ」
  混ぜっ返すなコノ馬鹿と言うように、隣りに座る鶴羽に頭を小突かれるお栗であった。

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二一話 生ける妖怪


  深宝寺の内廊下に隠された階段から地下へと降り、人一人が通れるほどの洞(ほら)のごとき穴ぐらを行くと、洞はひろがり、そこは四方を角石で組んだ地下の牢獄。その一方の石壁に×字(ばつじ)に組んだ白木の磔台が二脚据えられ、ふっくらふくらむ乳も美しい女が二人、両手両足を縛られて体を開かれ、磔にされている。
  女たちは一糸まとわぬ素裸。その割り開かれた体の中心に、真下から丸い棒が突き立てられて、女陰を貫かれているのである。女たちはどちらもが歳の頃なら二十代のなかばあたり。とろんと目を開けていたのだが、その目線は定まらず、半開きの唇からだらだら唾を垂らしている。
  女陰を貫く丸い棒は先は太く、つまりは張形。その軸に女陰の汁が流れるように伝っている。おそらくは媚薬が塗られる。悦楽の高みへ追いやる責め。ただ女たちはどちらもが白い体に傷はない。柳の邪視に正気を奪われ、こうやって思考を操られる。その快楽は魔物に魅入られたようなものだろう。繰り返し数日をかけて嬲られ尽くし、人としてのまともな思考を奪われていくのである。

  しかしすんでのところで間に合った。殺せと言われて若い侍が一人地下へと降り、いまにも刺し殺そうとするところ。女はどちらも生きている。宿下がりで江戸城を出た大奥の下女、小夜(さよ)と、表方の下女、姜(きょう)であったのだが、このときの紅羽黒羽にはそこまではわからない。
  地下の惨劇はそれだけではなかった。
  裸で磔にされた二人の傍らに鉄格子のはまった大きな檻が置かれていて、その中に、明らかに十四、五歳かと思われる禿髪の少女が一人、こちらも素裸で閉じ込められる。少女の白い体の全身に縄目の血筋と惨たらしい鞭の痕。下腹の毛も焼かれたように縮れていて、ぐったりとなって倒れている。虐待に虐待を重ねられ、疲れきっているようだ。

  いますぐ助けてやりたい。しかしまだ敵がいる。紅羽黒羽は磔にされた二人の女の真下に突き立つ、淫らな責め棒だけを抜いてやる。
 「あぅぅ、嫌ぁぁ!」
 「静かにしないか、我らは味方」
  張形が抜かれ、そのとき黒々と茂る下腹の飾り毛の奥底からタララと女の汁が流れ落ちた。
 「おまえたち、しっかりおしよ、じきに助けるからね」
  黒羽が言うが返事さえできない。目がとろけ唇を閉ざすこともできないようだ。
  紅羽は檻の中で倒れた禿髪の娘を見つめるが、こちらは眠っているようで身動ぎひとつしない。
  紅羽黒羽は怒りに満ちた目を見合わせ、ギラリと光る剣を手に、壷郷の屋敷の側へ向かって洞を進んだ。石組みの地下の部屋はまたすぼまって穴ぐらとなり、ほどなく行き止まり。寺と同じ隠し階段がつくられて屋敷に出られる。

  紅羽と黒羽がそうして地下へと踏み込んだ頃のこと。
  深宝寺の冠木門から外へ出て、壷郷の屋敷に駆けた宗志郎。しかし土塀につらなる腕木門は閉ざされていて、右の脇戸も内側から閉ざされる。
  塀伝いに少し走り、横に回ってみると、土塀の中ほどに勝手口の門があり、ちょうど宗志郎が表通りから横道への角に立ったとき、勝手口から踏み込む柿茶色の忍び装束の背が見えた。
  鷺羽鶴羽鷹羽だ。少しの違いで艶辰に戻り、急を聞いて駆けつけた。三人はこの場所を天礼寺で聞き出して知っている。
  しかし、いかにくノ一の脚であっても品川から本所深川、その上さらに小石川では身が持たない。宗志郎は白刃を手に駆けた。

  白土塀がそこだけ切られた勝手口。飛び込んでみると、屋敷の裏手に石を配して黒砂利を敷き詰めた枯山水の裏庭。そして土塀の際に、なぜか追い詰められたように突っ立つ鷺羽鶴羽鷹羽。鷺羽は吹き矢、鶴羽は毒鞭、そして鷹羽は両手に鉄の爪をつけ熊が獲物を狙うように両手を上げて構えてはいたのだが、三人ともに様子がおかしい。
 「宗さん、動けない!」
 「何ぃ!」
  屋敷を捨てて柳を逃がそうと勝手口を出ようとしたとき、くノ一三人が駆けつけて塀の中へと押し戻された。
  身動きできずに突っ立つくノ一三人とは少しの間を空け、屋敷の主の壷郷光義、その配下の若い武士が二人、そして女が二人。くノ一三人を相手に互いに見合っていたのだが、女の一人はほんの童で、身の丈四尺五寸(135センチ)ほど。その若い母親は中肉中背。柳はその母親の方である。
  柳の目を見てはいけない。鷺羽も鶴羽も鷹羽も承知のはず。宗志郎もまた母のほうには目を向けず、しかし禿の目を見てしまった。
  禿は童。しかし妙だ。顔を白く塗っていて唇には真っ赤な紅。そんな禿の二つの目に青い炎が揺らぐよう。

  柳は禿! しまった!

  その邪視を見てしまった宗志郎も、足が地べたに埋もれるように動けなくなっている。大きな石でも抱かされたように体が重い。渾身の力で刀を構えようとするのだが、腕がぴくりとも動かない。恐るべき妖怪の眼力。
 「動けまい。ふっふっふ、柳がいてくれれば万人力よ」
  壷郷がほくそ笑み、配下の侍二人がにやりと笑い、母親だと思ったじつは娘の葛が憎しみを込めた目で宗志郎を見つめた。
  柳という風魔の女。邪視を得たゆえなのか身の丈はのびず、娘を産んで、その娘はあたりまえに大人になった。藤色の小袖がよく似合う美しい娘。そして柳は童のごとき体のまま。童らしい赤い着物が愛らしく、しかしその二つの目の底に青い炎が揺らいでいる。
  これぞ邪視!
  宗志郎は渾身の力で声を上げた。
 「柳は禿! 禿が柳だ!」
  そのとき地下で、黒羽は女たちの女陰に突き立つ張形を抜いて、紅羽は檻の中の娘を見ていた。聞こえない!

 「もうよいわ、座興はこれまで。殺れ!」
  壷郷に命じられ、配下の若い侍が二人、抜刀した。
  宗志郎も鷺羽鶴羽鷹羽の三人も身構えようとするのだが、体の骨が錆びついてしまったように自由がきかない。若い二人が剣を振り上げ迫ってくる。

  危ない宗志郎! 危ないくノ一!

  そのときだった。勝手口からお栗が飛び込む。柳が邪視を使った。恐ろしい念を受け取ったお栗が飛び込んだ。
 「柳ぁ! 許さぬぞ、よくもジ様をーっ!」
  逃げろお栗。宗志郎は振り向いて、来るなと首を振ったのだが、お栗の怒りはすさまじい。
  そして次の一瞬。宗志郎も、くノ一三人も、あまりのことに目を見開く。
  お栗の二つの目の底に、真っ赤な炎が燃えている!
  お栗は目覚めた。己の中に潜んでいた邪視に目覚めた。

 「うむむ! おまえは何者かぁ!」
  柳は唸る、そして叫ぶ。
  柳の目の青い炎とお栗の目の赤い炎がぶつかり合った。父親代わりの久鬼を死に追いやった柳への怒り。そしてそのために艶辰の皆は苦しんでいる。
  許さない! 死ね柳! 心の底から噴き上げる怒りの炎!
  さしもの柳も気を集めねば負ける。柳対お栗。女対女の勝負。

  そしてそのとき、宗志郎ほかくノ一三人へ向けられた呪縛が解けた!

  体が動く!
  抜刀して迫り来る二人の敵。宗志郎はくノ一三人との間に立ちはだかり、柳生新陰流の鬼神の構え。鬼神の眼光!
 「死ねぃ! トォリャァーッ!」
  敵の気合い。受けて立つ宗志郎の鬼神の一声!
  キエェェーイ!
  キンキン! キィィーン!
  刃が交錯。すさまじい火花を散らして一閃する正義の剣!
  敵二人の左の一人に斬り抜き胴!
 「ぐわぁぁーっ」
  さらに体をさばいた返す刀の横斬りで右の一人のそっ首がふっ飛ばされて転がった! こちらは悲鳴を上げる間もなく、首のない仁王立ち。血しぶきを噴き上げて朽ち木となって倒れ去る。
  さらに切り返された白刃が、抜き胴に片膝をついて崩れた男の首をも吹っ飛ばす!

  その傍らで、呪縛の解けた鷺羽鶴羽鷹羽。柳は迫り来るくノ一三人にも目を向けねばならず、それではお栗の邪視にとうてい勝てない。
 「柳ぁ! おまえの相手はあたしだぁ!」
  お栗の赤い業火が、生ける妖怪、柳の青い力を焼き尽くす!
 「化け物、覚悟!」
 「ぎゃっ! ぎゃぁぁーっ!」
  横から飛んだ鷹羽の右手の毒爪が柳の右頬をざっくり切り裂き、左手の毒爪が顔を縦に切り裂いた。
  そしてそれと同時に剣を抜いて踏み込んだ鷺羽の切っ先が柳の胸を突き貫いた。妖怪は倒れた!

  残る敵は壷郷、それに柳の娘の葛。くノ一三人が取り囲み、そのとき地下から紅羽黒羽が駆けつけて、宗志郎は刀を振って血を飛ばし、鞘におさめて、呆然として突っ立っているお栗のそばへと歩み寄る。
  お栗は怖い。血しぶきを上げる首のない男などはじめて見る。
 「よくやった、よくやったぞお栗、久鬼殿の仇をとったな」
 「う、うん、あたし夢中で」
  お栗の目に妖しい光は失せていた。生ける妖怪とやりあった恐ろしい力を秘めた娘。しかしお栗はやさしい娘。宗志郎は抱いてやる。抱き締めてやり、背を撫でてやる。
 「おまえは強い、胸を張って生きろ。その目をきっといいことに使うんだぞ」
 「はい、きっと」
  お栗は宗志郎にすがりついて抱かれていた。

  母親だと思った、じつは娘の葛。くノ一三人に囲まれながら母の柳の小さな体にすがって黒い禿髪を撫でていた。
 「これで眠れる、やっと眠れる、よかったね母様」
  鷺羽鶴羽鷹羽の三人はそれぞれ武器を降ろして見守った。妖怪の力を持ったばかりに狂った女の生き様。それはくノ一の背負う宿命のようなもの。
 「あたしにはどうすることもできなかった。そばにいて守ってやりたい一心で」
  母の髪を撫でつけながら、つぶやくように言う葛。
  鶴羽が言った。
 「知ってること話してくれるね?」
  葛は涙を溜めた目を向けた。
 「見ての通り。言うことなど何もない。母はただ女どもを操るだけ」
  鷹羽が問うた。
 「どうやって操る?」
 「それも念、念ずるのみ」
 「念ずるのみ? 娘らを念で元に戻して帰し、また念を用いて狂わせるのか?」
  葛はうなずく。
 「母は化け物。従っているしかなかったのさ」
 「黒幕はそいつか?」 と鷹羽が壷郷へと目をやると、壷郷は、紅羽と黒羽に刃を突きつけられてへたり込んでしまっている。

  その壷郷。
 「さあ吐け! 武尊と、それに船冨士のこと、黒幕が誰なのか、吐け!」
  黒羽が迫るが、壷郷は黙して語らない。紀州藩士であることも、元は根来忍びであったことも。
  そうなのだ、壷郷は根来忍び!
  屈したように見せかけて油断させ、横に飛んで転がって、先に死んだ配下の侍の剣を取る。紅羽黒羽の二人が構え直して左右を固め、しかし壷郷は、手にした剣を逆さに回して腹に突き立て自刃した。
 「吉宗め・・ぐふっ」
  それだけを言い残し、壷郷は倒れた。
  そしてそんな様子を、母親の小さな骸にすがりながら葛は顔色ひとつ変えずに見つめ、言うのだった。

 「紀州藩、腰物支配が配下、それが壷郷。元は根来」
 「忍びか」 と、鷹羽が崩れ去った壷郷を見つめて吐き捨てるように言い、葛はさらに言う。
 「武器の一部は豆州は式根島。紀州領内に鍛冶どもを囲ってつくらせる。船冨士が運び、その一部は島に隠す」
 「一部とは?」
  鶴羽に問われて葛は横に首を振る。
 「ほかは知らぬよ。いずれかに運ばれて、すでに諸藩の手にあるものと思われる。刀もあるが新式鉄砲が売れると言う。欲しい藩は数多(あまた)あり、もはや追えぬ。武尊なる商人に売りさばかせて得た金は尾張へ回る」

 「尾張だと? そやつは紀州が家臣であろう?」

  お栗の肩を抱きながら宗志郎が歩み寄って問うた。葛は、母親と同じ力を持つ小娘を見つめながら言う。
 「そなたも妖怪か、ふふふ」
  宗志郎の腰にすがるお栗。葛はちょっと眉を上げ、おまえもいずれはたどる道と言いたげだった。
  葛は言う。
 「そこな壷郷は根来の裏切り者。世継ぎ争いに敗れた尾張は、吉宗めが配下に命じて本来世継ぎとなるべき家中の者を殺されたと思っていてね。壷郷は紀州に仕えながら、尾張の誰かに禿どもをあてがって取り入って、かなりな禄(ろく・報酬)を得ていたんだ。ゆえにこの屋敷も寺も持てた。元が忍びの壷郷は母者を知っていて、そのとき目を使わせて娘どもを狂わせた」
 「なるほど、それで思いついた企みだったと?」
 「そうだよ。首尾良く運べば紀州と尾張はにらみ合い、世が乱れれば武器が売れる。太平の世のせいで鍛冶どもはあがったり。刀鍛冶が包丁をつくって食いつなぐありさまなんだよ。堺の鉄砲鍛冶にいたっては衰退の一途。どちらも二つ返事で武器をこしらえ己が腕を見せたがる。よもや露見することがあったとしても、紀州領でつくられ紀州御用の船冨士が運んでいるんだ。尾張とすればどっちに転んでも吉宗を追い詰めることになる」

  葛はまた母親の禿髪を撫でてやり、それから静かに立ち上がった。
 「一つ望みがある。それまでは生かしてほしい」
  宗志郎が問うた。
 「その前に聞いておきたいことがある」
 「武尊だね?」 と葛は言い、宗志郎がうなずいた。
 「五十年配なのだろうが小柄な男でね。ときどきここへもやってくる。どこにいるかなどは知らんし、どうやってつなぎを取るのかも知らん。船冨士についてはなお知らん。顔を見たこともないのでね」
 「武尊なる男は見ればわかるな?」
 「わかる」
  そのとき横から鷹羽が問うた。
 「天礼寺の者どもとのつながりは? 禿どもを躾けていたよ」
  葛はちょっと笑って言うのだった。
 「男などくだらない。どいつもこいつもくだらない。壷郷のやり口を商いにしやがった。壷郷も船冨士も元は紀州。どうやってつながったのか、そこまでは知らないけどね。まさしく禿化けさ。買った娘を禿の姿にしておいて、方々のお大尽に売りさばく。壷郷など責め殺し、次なる禿を持てと指図をするのさ」
  宗志郎は黙って聞いて葛の願いを問い質した。葛は言う。
 「母者の骸を日光に葬ってやりたい」
 「なぜまた日光?」
 「わからぬか。我ら風魔にとって家康は敵ぞ。東照宮のそばに眠り、あの世で取り憑いてやると言っていた。徳川の世を乱せるならおもしろい。ゆえに母者は力を貸した。母者を葬り、あたしは死ぬ」
 「ならばその前に力を貸せ。武尊なる男を見極めてほしい」
 「わかった。その代わりこちらの願いも」
  宗志郎はうなずいた。

  それから紅羽とくノ一三人が地下へと降りて女たちを救う。
  そこらじゅうに散乱する死体と柳の亡骸は、女たちと入れ替えるように地下へと運んだ。
  しかし、その夜のうちに艶辰に戻るわけにはいかなかった。地下に囚われた女三人は疲れ切って動かせない。檻の中の少女は命さえ危ない。鷺羽一人を艶辰へ帰しておき、残りの皆で壷郷の屋敷へ入り込む。

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二十話 修羅場なり


 艶辰のある本所深川から永代橋を渡って、八丁堀、日本橋、内神田、小川町と、お栗はどんどん小石川に近づいていく。お栗は十五と若く、八王子の山の暮らしで脚がよく小走りで通せるのだが、さしもの宗志郎もこれほどの距離は厳しい。何かを嗅ぎつけて犬が駆け、人がそれを追うようなもの。お栗は時折脚を止め目を閉じて両手をひろげ闇を吸うような仕草をする。邪視を使うとき、それは業火のようなものであり、念を発し続けられる時はそう長くない。しかし念を止めてもかなりの間は残り火のような、まさしく残念が漂うという。あの夜のお栗は久鬼の発するそれをたどって宗志郎の家を嗅ぎつけた。
  宗志郎も紅羽も黒羽も相変わらず半信半疑。妖怪の力というしかなかっただろう。

  それにしても小石川と言えば、御三家、水戸屋敷のあるところ。それだけに人の入り組む場所である。
  御三家のひとつ水戸徳川家は、陸奥国は水戸に水戸藩を構えていたが、その当主は江戸定府として江戸に暮らし、全国諸侯の中で唯一参勤交代を免除されていた家柄。御三家筆頭の尾張家は大納言、次なる紀州家も大納言。比べて水戸家は中納言と、三家の中では格下であったのだが、江戸定府ということでじつはもっとも将軍家に近く、尾張家紀州家ともに動向の気になるところ。ゆえにその屋敷のある小石川の周辺には息のかかった者どもを潜ませて目を光らせていたのである。
  そしてそれはそのほか諸藩にとっても同じこと。外様大名よりもむしろ徳川家により近い譜代にとって、徳川家内の力関係は無視できない。譜代や外様やと言ってみても、それは初代家康、二代秀忠、せいぜい三代家光あたりまでのことであり、八代将軍の今日まで長く太平の世が続くと、狸と狐の化かし合いの様相を呈してもいたしかたのないことだった。その間隙を縫うように外様大名が手ぐすね引いているのだから、水戸屋敷の周辺に思惑が混み合うはずなのである。

  そうしたとき探る側にとって格好の擬態となるのが寺社仏閣。とりわけ寺は、戦国の世から武将どもが己の権力の象徴として築いてきたものが多く、その流れで諸藩諸侯の息のかかった寺が江戸狭しと建立された。寺とは名ばかり。反動の士や忍びの根城となるものも多く、また武器など闇取引の温床ともなるものまでが現れる始末。それらを取り締まるために寺社奉行がつくられ、怪しい寺については幕府によって移転させられることも多かった。

  かなりな脚で駆けていたお栗が止まった。小石川と本郷との境、やや北となるあたり。小さな寺が武家屋敷に混ざって点在するそんな場所。闇も深く、町には人の気配がしない。ひたすらこちら方面へ向かうお栗に、もしや水戸様までがと考えていた宗志郎だったのだが、その場所は水戸屋敷からは遠かった。
  冬の深夜、お栗の息が白い。立ち止まって息を静め、お栗はふたたび両手をひろげて闇を吸う。
 「近い。このへんだけど」
  それからさらに北へと向いて、東、南、西と向きを変えて闇を吸う。そしてさらに少し歩き、それほど古くはない小さな寺の角で立ち止まる。
 深宝寺(じんぽうじ)。背丈ほどの白土塀で囲まれて、その門は屋根のない冠木門。三方を武家屋敷に抱かれるように存在する寺。
  お栗は言った。
 「ここだと思う。けど妙なんだ」
  宗志郎が問うた。
 「妙とは?」
 「念がぼやけて・・寺とそして・・」 と言って、またしても闇を吸う。
  そして、「そこ」と、寺の右隣に建つ武家屋敷を指差すお栗。こちらは黒瓦の屋根のある腕木門に右片脇戸。造りの小ぶりな屋敷であった。
 「寺と両方にいるっていうのかい?」
  黒羽が問うたが、お栗は黙って気を一点に集めているよう。
 「念がぼやけて光の繭のよう。けどここだ、違いはないよ」
  深宝寺そして武家屋敷の表札に『壷郷(こごう)』とある。
  しかし宗志郎にとっては知らぬ名。表札を見上げて宗志郎は黒羽に向かって知らないと首を振る。

  そしてそのとき、寺とは地下でつながる壷郷の屋敷の奥の間で夜具を並べて寝ていた二人の女のうちの一人がハッとするように目を開けた。柳である。
 「うむ?」
  ただならぬその気配で隣の布団に横たわる女も目を開ける。娘の葛。
 「どうかなさいましたか?」
 「いや、わからぬ。わからぬが、かすかな念を感じた」
 「久鬼様の?」
 「違う。爺様ならはるかに強い。ごくわずか、かすな念・・」
  そして柳は身を起こし、寝間着の上に長綿入れを羽織って立って、薄明かりを通す明かり障子の前へと歩む。
 「うむ、いる。何者かが迫り来る。どうやら念をたどられた。いかん来る!」
  ところがそのとき宗志郎らが踏み込んだのは寺の側。念を感じたという無体な理由で武家屋敷には踏み込めない。
  寺では曲者の気配を察して寝間着姿の僧どもが二人また二人と数を増し、壷郷の屋敷の側でも柳に急を告げられた武士どもが一斉に起き出した。

 「寺が襲われているようです」
 「敵は? その数は!」
 「わかりませぬが多くはないよう」
 「ううむ」 と唸り声を上げた屋敷の主。紀州藩、腰物支配の配下、壷郷光義(こごうみつよし)であった。壷郷は紀州藩の藩士であったが、それほど年配というわけでもない四十代。腰物支配の配下の中では軽輩ながらも特異な経歴を持つ男。元は根来忍びであり、この屋敷は別邸。本宅を四ッ谷に構える男であった。
  深宝寺とは地下でつながるこの別邸に裏のある者どもを囲っているというわけだ。
 「捨ておくわけにはいかぬ、行け、皆殺しとしてしまえ! よもやの時には柳を逃がせ、よいな!」
 「はっ!」
  寺を探られれば地下道は隠しおおせない。知らぬ存ぜぬでは通らない。
  壷郷の屋敷の備えは、主の光義、そして柳と葛のほか配下が七人。一方の寺には住職以下六人。多勢に無勢!

  寺へと踏み込んだ宗志郎、男姿の紅羽黒羽。お栗は塀の向こうの屋敷の陰に隠してある。
  本堂へと続く数段の踏み段を境として、木綿生成りの単衣の寝間着姿の僧ども六人と対峙する宗志郎。
  宗志郎が男どもの中央にいる住職らしき男に言う。住職といっても若い。こちらもまた四十代かと思われた。男ども六人は明らかに僧ではない隆々とした体つき。皆が長身、目つきが鋭く、六人それぞれ、剣が四人に槍が二人。
  宗志郎は言った。
 「ここに柳がおるはずだ、出せ」
 「柳と? ふふふ、知らぬな」
  宗志郎はにやりと笑う。
 「知らぬなら何ゆえ剣と槍を持つ。それこそが偽坊主の証となろうぞ」
 「さてね。ふっふっふ、そなたらは三人、しかも見受けるに女が二人。いかにも無勢! 殺れぃ!」
 「おおぅ!」
  頭の号令で男どもが外廊下から一斉に飛び降りて三人を囲み、問答無用で斬りかかり、槍の一人が黒羽を狙って身構える。

  背中合わせの陣形で剣を抜く紅羽そして黒羽。一刀流の女剣士。
  そしてついに宗志郎の腰から青鞘の白刃が抜き去られた。月光にギラつく怒りの剣!
 「覚悟せい!」
  左右から斬りかかる剣と剣。宗志郎の白刃がこともなげに振り払い、夜陰のごとく体をさばいた刹那、二人のそっ首が胴から離れて地べたに転がる。噴き上げる血しぶき。そして刹那、中腰中段、切っ先を後ろに構える柳生新陰流の構え。次なる敵の男二人を右斜め左斜めにおいて鬼神の気迫!

  黒羽には槍の一人。突き込みを剣で払うも、飛び退きざまに槍は回され、棒尻へ脚を払い、黒羽が飛ぶと、ふたたび回された槍が中段に構えられ、しかしそれよりわずかに速く、
 「おしまいだよ! 覚悟!」
  くの字に踏み込んだ黒羽の剣が槍を持つ敵の両腕を肘下から吹っ飛ばし、男が断末魔の悲鳴を上げる間もなく、返す刃が心の臓を貫いて背中へと突き抜けた。恐るべし黒羽! 一刀流の女神様!

  紅羽には剣の一人。互いに中段、にらみ合い、焦れた男が一瞬先に刀を振り上げ、突き斬りに踏み込んだ。
  ピィィーン
 横に体をさばきつつ敵の剣の横腹へ打ち込む紅羽。敵の剣が中ほどでぽっきり折れて地べたに刺さり、次の一瞬勝負は決した。
  敵の横から後ろへと回り込みながらの横振りの太刀筋!
  チェストォォーッ!
  くそ坊主の毛のない頭を吹っ飛ばし、石ころのように首が転がる。首のない胴体が血しぶきを噴き上げながら朽ち木のごとくばったり倒れる。
  恐るべき姉、紅羽の一刀流! 妹もろとも、女はやっぱり恐ろしい!

  そのとき宗志郎は二人を相手に身構える。一方は剣、また一方は槍。槍を持つ男が住職、いいや頭であった。
 「強い。その構えは柳生新陰流。名は?」
  しかし宗志郎はほくそ笑む。
 「末様」
 「何ぃ?」
 「ふっふっふ、末っ子ゆえな」
 「しゃらくさい!」
  左から斬りかかる剣を払い、右からの槍の突きを紙一重で交わした宗志郎。槍が回され、それを目くらましとするように剣を持つ一人が踏み込んだ。
  ピキィィーン
 剣と剣が交錯し、敵の剣が大きく欠けるも宗志郎の剣は無傷。そうして二人を相手としながら宗志郎は黒羽に言う。
 「ここは俺が。中を探れ」
  ところがそのとき、寺の側ではなく寺の門を回って武士ども四人が斬り込んでくるのだった。寝込みを襲われて皆が灰色の寝間着の姿。皆が若く、宗志郎の敵ではなかったが、数が多い。さらに次なる敵はいずれも武士。刀ではかなり使うと思われた。

  宗志郎には僧が二人に武士が一人、紅羽と黒羽を残る三人で取り囲む。
  まずい。ここで手間取ると柳に逃げられる。斬り込んだ四人とは別の一人が取って返して報告する。
 「敵は三人なれど尋常ならず! 強い!」
 「柳を逃がす。屋敷を捨てるぞ。それから地下の女どもも斬り捨てろ」
 「はっ、そのように!」
  そんなことは遠く離れた宗志郎には伝わらない。
  交錯する剣と剣が境内狭しと火花を散らし、敵はばたばた倒れていく。残ったのは槍を持つ住職と、武士の二人。宗志郎にたじろいで踏み込んでは退きを繰り返し、一方を深追いすると後ろから襲われる。
  その傍らで三人の武士に囲まれた紅羽黒羽だったのだが、一瞬の間隙をついて黒羽が囲みを破り、同時に紅羽が一人を倒し、黒羽は二人を相手、しかしその片方を後ろからの紅羽の剣が仕留め、そのとき同時に黒羽の剣が残る一人の首を飛ばす。
  これで三対三。宗志郎を囲む陣形が崩れ、その刹那、宗志郎の鬼神の剣が二人を倒す。残るは槍を持つ住職一人。
  宗志郎は言う。
 「二人は中へ。柳の目を見るな」
  紅羽黒羽は顔を見合わせ、互いに剣を振って血を飛ばすと、抜刀したまま踏み段を駆け上がって本堂へとなだれ込む。しかし無人!

  槍を中段に身構えて相手の喉笛へと向ける男。動きが速い。おそらく忍びをと見切った宗志郎。
 「根来か」
 「笑止! 覚悟せい!」
  キエェーイ!
  すさまじい気合い。突き突き、嵐の突き。右に左に顔を振って交わすも、左の頬をかすかにかすって一条の血筋。男は強い。にやりと笑ってふたたび身構え、突き突き、そして槍を回しながら体をさばき、棒尻で頭を狙うと見せかけて踏み込んで蹴り。宗志郎が崩れると見るや、振り上げた槍が地べたを突き!
  宗志郎は横っ飛びに転がりながら、下からの振り上げ剣で脚を狙う。
  セェェーイ!
  闇を裂く男の悲鳴。右足の膝下が消えていた。刹那立った宗志郎の袈裟斬りが男の肩口から切り裂いて勝負は決した。
  宗志郎は刀を振って血を飛ばすと、一瞬寺を見たのだったが、背を向けて門へと走り、すぐ隣の壷郷の屋敷へと回り込む。そしてそのとき、物陰に潜んだままのお栗と目が合う。
  凄い・・お栗は声も出なかった。宗志郎の全身が、顔までも、返り血を浴びて真っ赤! がたがた足の震えるお栗だった。

 「地下だ」
 「うむ!」
  寺の奥の庫裏へと通じる廊下に隠し階段。黒羽が先に続いて紅羽が降りる。しかしそこで二人は怒り狂う光景を目にしてしまう。
 「待てぃ! 許さぬ!」
  とっさに黒羽は腰の小刀を抜いて投げつけておき、投げながら小刀の軌跡を追うように駆け寄ると、
 「串刺しにしてくれる! くそ畜生めが!」
  逃げようと背を向けた若い武士の左の背から心の臓を貫いた!

  くそ畜生とは・・黒羽は美形ぞ。言葉に気をつけねばならぬだろう。

 「なんてことを・・惨い・・」
  遅れて駆け寄った紅羽がその光景を目にし、愕然として吐くようにつぶやいた。

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十九話 お栗の眸


  品川が冬の夜陰にくるまれる刻限。船問屋の船冨士に並はずれた耳を持つ鷺羽が潜み、天礼寺には戦いに長けた鷹羽と鶴羽が潜んでいた。
  そしてちょうどその頃、艶辰の厨にはお光とお栗、そして今宵は紅羽が立って夕餉の支度が進んでいた。しかしお光はしきりにお栗を気にしている。どこか様子がおかしい。落ち込んでいるとかそういうことではなくて、時折ぼーっとすることがある。それはいまにはじまったことではなくて昨日あたりからちょっとおかしく、夜をともに明かす男芸者の情介もそれに気づいていた。黒羽と宗志郎が一つ部屋にともにいて、情介はちょっと覗いて黒羽に微妙な目配せで告げたのだった。
 「うん? どうしたんだい?」
 「ちょっと」
 「ああ、いいよ」
  黒羽は宗志郎に向かって眉を上げると立ち上がり、部屋を出て情介の顔を覗き込む。

 「お栗の様子がおかしい?」
 「そうなんです、あたしが夕べ遅くに戻ったとき、お栗がなんだか怖がってて抱きついてくるんです」
 「怖がって?」
  情介はうなずいた。
 「訊けばジ様が夢に出てくるとか。けど、どうもそれだけじゃないみたいで」
 「と言うと?」
 「ときどきハッとするような顔をして、『気のせいさ』って独り言をぼそっと言う。それであたしが、どうしたっていうのさって訊くと、ううんなんでもないって言うんですけど。抱いてって言ってすがってくるから」
  ちょうどそう話しているとき、厨ではお栗が小皿を二枚重ねて持って、落として割ってしまうのだった。
  お光が笑いながら言った。
 「あれま、やっちまったよ。どうしたのさ? なんだかヘンだよ?」
  若い二人のやりとりを紅羽がチラと横目で見る。
 「何かあるなら言ってごらん。あたしらもう家族なんだよ。悩み事でもあるっていうのかい?」
  その紅羽を声を、それならと様子を見に来た黒羽も聞いた。壁を隔てた陰にいて黒羽は耳をすませていた。

  紅羽に両肩に手をのせられて見つめられ、お栗は元気のない顔を上げるのだった。
 「昨日からヘンなんです」
 「ヘンとは?」
 「ジ様が夢に出てくることと、気のせいだとは思っても、ジ様の念を感じてしまって。ジ様があの眸を使うとわかるんです。ゾゾっと震える感じがして、いま眸を使ったなって」
  このとき、紅羽も黒羽ももしやと思った。お栗にとってのジ様、久鬼なる老爺は柳とは血のつながる関係。柳がその力を使えば、つまりは久鬼と同じ血が騒ぐということ。死んだ久鬼にそのようなことができるはずがない。
  紅羽は問うた。
 「その念は強いのかい?」
  お栗はううんと首を振る。
 「わからない。弱いけどでも確かにあの眸の念なんだ。それを感じるとビクっとするし、ジ様がそばにいるような気がしてならないんだもん」
 「そうかい、うんうん怖いよね」
  紅羽はお栗を抱いて背を撫でる。そしたらお栗が腕の中でつぶやいた。
 「川向こう」
 「え? 川向こう? どこからの念なのか、わかるのかい?」
 「わかる。川向こう」
  八王子の山中から、久鬼の発する念をたどって宗さんの家を探り当てた娘だったと思い直した紅羽。
 「宗さんの家のほうかい?」
 「違う。そのずっと先のほう。・・あっ」
  あっ、と弱く叫んで抱きすがるお栗。
 「いままたゾクっとした。念が強くなってるの。確かに感じる。ジ様は死んだはずなのに」
  
  宗志郎の小さな家の少し先の寺に久鬼の亡骸を葬った。方角はそうでも久鬼は死んだ者。
  お栗は、紅羽に抱かれていながら振り向いて虚空を見つめ、しばらく探るような素振りをすると、紅羽を見つめてそっと胸に抱きすがる。
 「消えた」
 「消えた?」
 「いま消えた。静まったんです、いま」
  そしてそのとき厨へ顔を見せた黒羽に対して紅羽は眸でうなずいた。
  柳だ、そうに違いないと二人は思った。久鬼と同じ血を受け継ぐ柳が力を使うとお栗に伝わる。
  黒羽の背に隠れるように心配そうに顔を出す情介。黒羽は振り向いて情介に微笑むと、お栗を部屋へ連れて行けと小声で言った。
  情介に肩を抱かれて厨を出たお栗。代わって黒羽が厨へ降りる。
 「柳だね」
 「うむ、おそらく。お栗にはわかるんだ。誰に教えられるわけでもなく宗さんの家を探り当てた娘なんだよ」

  柳が邪視を使ったと感じた久鬼は、それをやめさせようとして対決するためやってきて、しかし寒空。無理がたたって死んでしまった。お栗にすれば父親同然。そして艶辰へやってきて事件のことを聞かされて、皆が柳を追っていると知る。柳が憎いという気持ちが生まれ、ゆえに柳を感じることができるようになっている。
  情介に連れられて部屋へと戻ったお栗。そこには虎介もいて、今宵の二人に座敷はかかっていなかった。情介に支えられるようにして部屋へと入り、どすんと尻を落としてへたり込むお栗。情介と虎介の二人が左右に寄り添う。
  お栗が力なく言った。
 「わかるの、柳という化け物の気配がする」
 「うんうん」 と虎介は言って、辛そうなお栗の手をそっと握る。
 「力がどんどん強くなってくる。あたし怖いの。あたしの力が増してるから。ジ様が死んであたしはもう天涯孤独なんだと思ったんだ」
 「うんうん」 と情介が言ってお栗の肩をそっと抱く。お栗は涙を溜めていた。声が泣き声に変わっていく。
 「柳が憎い。よくもジ様を殺してくれた。憎いんだ。憎いと思えば思うほどあたしの力が強くなってく。そんな気がして怖いんだ。姉様方がそれで働いてる。あたしだって仇は許せない。あたしにもっと力があればと思ったけど、そう思うからか、どんどん力が強くなってく」
 「うん、怖いだろうね、うんうん」 と虎介が手を握り、情介が肩をしっかり抱いてやる。
 「あたし嬉しいんだ。もう独りなんだと思ったけど、みんなが娘のように可愛がってくれるだろ・・だからあたし力になりたいって思ったんだ・・そしたらあたしの眸に力が宿ってくるみたいでさ・・怖いんだ」
  泣いてしまうお栗。わずか十五歳の娘、化け物の気配に恐怖を覚える気持ちはよくわかる。

  思ってもみなかったところから柳の所在が知れるやも。
  しかしお栗がそれを感じたということは、柳が邪視を使ったということ。次の事件が迫っているとみて間違いはないだろう。もはや時間がない。
  黒羽、宗志郎、そして美神が顔を合わせた。美神はお栗を呼べと言い、黒羽が立って迎えに行った。そのとき泣いてしまって虎介情介の二人に抱かれていたお栗の手を取り、美神の部屋へと連れてくる。
  宗志郎のそばに座ったお栗。宗志郎はその膝にそっと手を置いた。お栗はちょっとうなずいて、泣き顔を美神へ向けるのだった。
  美神は言った。
 「あたしらみんな死に物狂いで探ったんだよ。鷺も鶴も鷹も、いまこうしてる間にも張り付いてる」
  お栗はもちろんわかっているから、泣きながらうなずいている。
 「おまえを巻き込みたくはないけれど」 と美神が言うと、みなまで聞かずにお栗は言った。
 「逃げませんあたし。柳が憎い。ジ様の代わりにあたしがやる。あたしはこの眸をいいことに使いたい」
  美神は眸を潤ませてお栗を見つめる。お栗は強い子。
 「わかった、そうしな。おまえはあたしらみんなの仲間だからね、あたしらできっと守るから」
 「はい!」
  泣き濡れる眸に、今度こそお栗らしい力が漲る。美神は微笑んでうなずくと、厨を手伝うよう明るく言った。

 「次だね、動くよ」
  柳が次に眸を使ったときが勝負。美神の言葉に皆がうなずく。

  品川の闇はますます濃くなり、船着き場から人影が失せていた。船問屋の船冨士。その屋根裏に鷺羽が潜み、聞き耳を立てていた。
  そしてそこから少し離れた天礼寺には、鷹羽と鶴羽が張り付いている。
 「嫌ぁぁーっ、ああ嫌ぁぁーっ、助けてぇーっ」
  凄惨な陵辱。禿とされた娘が三人、阿片を吸わされて朦朧としたところを犯し抜かれる。鬼畜そのものの男ども。敵は総勢五名ほどだが、粗野というだけで、殺るならいつでも殺れる程度の者どもでしかない。
  屋根下の風抜き穴から見下ろす鷹羽は、怒りを抑えて忍んでいて、もう一人の鶴羽は、寺へといたる道の脇に潜んでいる。鶴羽のほうに動きはない。

  裸の娘三人を手首の縄で梁に吊り、尻を出させて後ろから突き立てる。阿片を吸って、むしろ昂ぶる娘らは、女の悦ぶ声を上げながらも、時折正気に戻ったように泣きわめいて犯されている。
  許せない。殺してやる!
  そうは思っても手出しのできないもどかしさ。鷹羽は忍び装束に忍ばせた鉄の爪に手をやって、歯ぎしりする思いでいた。
 「助けて助けて、けど果てちまう、もっと欲しいか? はっはっは! ほうらいい、もっと尻を振り立てろ!」
 「あぁン、はぁン、あっあっ! もう嫌ぁぁーっ!」
  裸の娘が三人、裸の男どもが四人。そして一人が僧の姿で見張りをする。

  ある娘の尻を犯す男の一人が言った。
 「こうして見るとおめえだな。上玉よ。じきに夢の世界へ行けらぁな。そこは地下でよ、泣いてもわめいても声ひとつ聞こえねえ。縛っていたぶるのが好きな御仁でよ」
  すると、その隣で別の娘を犯す男が言うのだった。
 「小石川のお大尽か。まったく何人死なせば気がすむのか。屋敷があって、そのための地下があり、地下を行けば寺に出る。鉄砲、刀はそれほど儲かるものなのか、ふん、クソ野郎が」
  鷹羽の眸がぎらりと光った。武尊という武器商人の根城なのか? それとも武尊を操る何者かの根城なのか?
  もう待てない。問い質して吐かせてやると思ったとき、一人の男がまたしても口を滑らせた。
 「躾もほどほどに連れて来いってことだ、おめえは明日にでも連れ出してやるからな」
 「怖や怖や。そこには見つめるだけで人を操る妖怪がいるそうだ。躾もくそもねえらしい」
  柳だ! 間違いあるまいと鷹羽は思った。
  ヒュィ!
  忍びの耳に聞こえるわずかな息笛。鶴羽が気づき、鷹羽は屋根から飛んで駆け寄った。
 「鷺をここへ、やるよ!」

  疾風のごとく闇を駆ける鶴羽。ほどなくして鷺羽が駆けつけ、くノ一三人が顔を揃えた。鷹羽が屋根へ、鶴羽鷺羽は板戸に寄り添い、踏み込む陣形が整った。
  柿茶色の忍び装束から鉄の爪を手にした鷹羽。両手の手首にハメ込んで、内側の握りを持つと、先の曲がった鋭い爪が雲間から注ぐ青い月光を浴びてギラリと光る。
  風抜き穴をくぐり抜けた鷹羽は、屋根の裏に組まれた太く四角い梁に取りついて、下への間合いを計り、まさしく鷹となって舞い降りた。
 「許さぬ! 覚悟!」
  男どもは五人いるが、うち四人は素っ裸。見張りの一人が剣を持つ。
  板床に舞降りた伊賀の鷹女(ようじょ)。その目は鬼神。真っ先に、娘を犯す三人の男のうちの二人の背を、両手の爪で切り裂いた。飛び散る血しぶき。爪には恐ろしい毒が塗られている。
 「ぐわぁぁーっ!」
 「ぎゃうーっ!」
  断末魔の悲鳴が重なって、そのときそれを合図に板戸を蹴破り、鶴羽鷺羽がなだれ込む。
  剣を持つ見張り、そして素っ裸で男根を勃てたまま錫杖にとびつく一人。まさに娘の尻に突き立てていた裸の一人が横っ飛びに床を転がり剣を手にする。

  着衣の見張りと対峙する鷹羽の爪。裸で錫杖を持って身構える一人に対峙する鶴羽の手には、巻き上げた革の一本鞭。その先端には鉄のトゲが埋められて、トゲにはやはり毒。さらに鷺羽だ。鷺羽は吹き矢の名手であり、なだれ込むなり、素っ裸の一人に矢を放ち、矢は男の尻に突き立っていた。こちらは気を失う毒矢であり、男は倒れても死にはしない。一人は生かして口を割らせる。
  着衣の見張りに対峙する鷹羽が言った。
 「死にたくなければ吐きな! 小石川のお大尽とは何様さ! おまえら武尊の手下なのか! 吐かねば殺す!」
  そのときすでに、飛び降りざまに背中を裂かれた裸の二人が泡を噴いてのたうち苦しむ。猛毒だ。見張りの男も、鷺羽と鶴羽に睨まれた男どもも、仲間の姿に面色が青くなる。
  しかし見張りの一人が剣を振り上げ、鷹羽へ向かって踏み込んだ。
 「ぬかせ女! 勝負はこれから! セィヤァーッ!」
  敵は侍でもなく忍びでもない。なのに剣はかなり使う。踏み込みざまに突き斬りの剣先が鷹羽を襲うが、鷹羽の鉄の爪が剣を受けきり、手首をひねると爪と爪の間に白刃が捉えられて抜けなくなってしまう。
 「それまでだ、死ねぃ外道!」
  右手の爪で剣を受けて動きを封じ、左手の鉄の爪が剣を持つ腕を切り裂いた。肘下の腕が裂かれて骨が見える。鷹羽の爪、恐怖!
 「ぐわぁぁーっ! 腕がぁぁ!」
  剣を手放し、血の噴き出す腕を押さえて後ろへ吹っ飛ぶ男。またたく間に毒が回り、泡を噴いてのたうちもがく。

  鷺羽の吹き矢は効果が遅い。裸の尻に突き立った吹き矢を引き抜くと、男は剣を中段に構えて、突き突き、突き!
  しかし鷺羽は身が軽く、とんぼを切って宙を舞うと、忍び刀を抜きながら音もなく板床に立って身構える。
 「ふふふ、じきに目が回ってくるさ」
 「何ぃ! てめえ! 覚悟せいやぁ!」
  振り込まれる剣を剣で払い、転がりざまに鷺羽の剣先が、なかば勃ったままで揺れて暴れる男根の頭を吹っ飛ばす。
 「ぎゃぃ!」
 「ふんっ、そんなもの、もはやいらん、汚らしい!」
  剣を取り落とし、先をなくして血を噴く男根を両手で覆って絶叫する男。しかしその声が弱くなる。毒が効きはじめていたからだ。

  その傍らで対峙する鶴羽。相手は裸で、長さのある錫杖を持っていたが、鶴羽の手にある黒革で仕立てた毒鞭のほうが少し長い。錫杖の突き込みに対して横振りに振られた鞭先の鉄のトゲが男の頬をピシリと打って、頬が裂け、猛毒が体を駆け巡る。
  裸の男は錫杖を板床について体を支えるも、毒が回って体が動かなくなっていく。
 「それまでだね、おまえはもう助からないよ。冥土の土産に娘らの裸を見て死んでいけ、犬畜生め!」
  白目を血走らせ、口をぱくぱくやって泡を噴き、そのうち黒目が裏返って白目を剥いて膝から崩れる裸の男。鶴羽の前蹴りを鼻っ柱にまともにくらって後ろへ吹っ飛び、ひくひくと死の震えを繰り返す。

  鷺羽の吹き矢に倒れた男。朦朧とする意識の中、三人のくノ一たちの姿が歪んで見える。
 「さあ吐け! 小石川のお大尽とは何者だ!」
 「あぅぅ、言う、言うから命だけは」
  男は吐いた。しかしすべてが知れたわけではなかった。下っ端が知らなくていいことは知らない。ただひとつ、そこに柳が潜んでいる。それだけ聞けば充分だった。
  屋根下の太い梁に素っ裸で吊られたままの娘らは、突如起こった惨劇に声もない。そんな裸の娘らに鷹羽は言った。
 「よく見ておきな、おまえたちの仇はとったからね」
  黒い鞘から忍び刀を静かに抜くと、朦朧として声も出せなくなった裸の男の胸板へ、鷹羽は顔色ひとつ変えずに鬼の刃を突き立てた。

  鷹羽、恐怖! 鷺羽鶴羽もまた恐怖! 女は恐怖!

  天礼寺で娘らを救い、くノ一三人は艶辰へと走った。しかし品川からではいかにも遠い。
  そしてそれから一刻あまりが過ぎた頃、艶辰では、お栗が念を感じて美神が号令。茄子紺の袴に黒頭巾の黒羽、同じく茄子紺の袴に赤頭巾の紅羽、そして青鞘の刀を佩いた宗志郎が、町娘の姿のままのお栗の手を引く。美神は残って、よもやのときに艶辰を守る。

  くノ一三人は永代橋のそばまで迫っていたが間に合わない。
  柳の発する念をたどってお栗が走り、三人が後を追う。しかしそうして柳にたどりついても寺には抜け穴があって、知らせがなければ逃げられる。
  急げ、くノ一!

  今宵は雲間に美しい三日月が浮いていて、しんしんと冷えていた。

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十八話 終の住処


  商いの規模のわりに羽振りがいいという船問屋の船冨士。そこには武尊なる怪しい武器商人が出入りしている。武尊は西国あたりの武器商人であり、船冨士はその品物を船で運ぶ。船は駿府にあるという船冨士の本店を経て品川へとまわされるのだったが、海路をゆく途中の豆州(伊豆)またはその沖に点在する大島そのほか島々のどこかで荷を降ろし、それらの武器を隠していると思われた。裏金が動くから船冨士は羽振りがいいということだ。
  さらに船冨士は禿遊びのための娘らを運んでいる。売られた娘らを品川へと運び、天礼寺なる寺へと送って遊び女に躾けているわけで、そこでもまた裏金が動くことになるわけだ。
  ・・と、いまのところわかっているのはそこまでで、天礼寺と武尊がつながるのかどうなのかまでは知れていないし、いまはまだ表立っては動けない。敵の黒幕があなどれないことよりも、柳への道が途切れてしまっては元も子もないからだ。

  それにしても、それほど多くの武器と小娘・・どちらも幕府が厳しく禁ずる取り引きであり、露見すれば極刑は免れない重罪だ。なのに商う。そこには抜け道のようなものがあるのではないかと、美神は、一人になった寝所で薄闇の虚空を見つめて考えていた。
  西国ということは紀州あるいは尾張の匂い。紀州家尾張家の荷であれば、よほどの確証がない限り幕府といえども手出しはしにくい。
 「紀州の出の上様、お世継ぎを出せず地団駄を踏む尾張・・上様を失脚させたい・・けれど妙だね」
  紀州家御用の商家の娘を狂わせることにどんな意味があるのか。紀州と尾張を睨み合わせるためとはいってもやり口が愚劣すぎる。紀州家そのもの尾張家そのもの、あるいは城中で似たようなことが起こるならまだしもわかるが。そうした釈然としない思いが美神の眠気を遠ざけていた。
  と、そのとき、寝所の外に歩み寄る気配。
 「庵主様、お休みでしょうか、情介です、ただいま戻りました」

  男芸者の二人は今宵も座敷がかかって戻りが遅かった。刻限はそろそろ夜の四つ(十一時)になろうとする。
 「いいよ、お入り」
  情介は膝をつき、そっと襖を開けて中へと入った。油を燃やす小さな炎が揺れている。情介は座敷帰りの着物姿のままであり、どこから見ても女そのもの。
  美神は穏やかに微笑んで迎え入れた。
 「遅かったね、いいお客だったようじゃないか?」
  情介は、はいと言ってちょっと笑い、しかしすぐに真顔となって言うのだった。
 「戻ったのはあたしだけ。虎の姉様は今宵はお客様と」
 「泊まりってことなんだね?」
 「はい。場所は喜世州にて。それというのもじつは、今宵のお客様が尾張藩の腰物支配の配下のお方で」
  微笑んで聞いていた美神の目がきらりと光った。美神は夜具から体を起こして情介と向き合った。
  腰物支配とは、剣や槍など藩の持つ武器を管轄する役職のことである。幕府では腰物奉行がいて配下の者どもを差配する。諸藩ではこうした幕府の役職を真似て腰物支配なる役職を設けるところが多かった。

  情介が言う。
 「ご年配のお方で、名は中条様。お歳のため年内でお役御免となられ、出入りの刀剣商の方々が」
 「なるほどね、お見送りということで?」
 「そうです。それでその席で刀や槍の話となって、長い間ご贔屓にといったあたりの話から、近頃めぼしいものを武尊なる武器商人に買い漁られて困るという話になったもので」
  武尊と聞いて美神の眸が鋭くなった。
 「そうかい。それでそのお方は何と?」
 「はい、話としては聞いておるが、なにぶん紀州様の息がかりゆえ、いかんともしがたいものだとおっしゃられ」
 「なに? 紀州と言ったか?」
  武尊は紀州につながる武器商人・・しかし話がおかしい。紀州を陥れるために紀州家御用の商家ばかりが狙われたはず。当然敵は尾張と考えてしかるべき。
  ということは、紀州家内の何者かが敵を尾張と見せかけて紀州を乱そうとしているということになるのだが・・。

  美神は言った。
 「それで虎が残って?」
  情介はうなずきながらも、それは虎介の心だと美神に告げた。探りのためだけではなくということだ。
 「その中条様というお方は、すでに六十年配なのですが、じつに矍鑠となさり、清廉潔白を物語るようなお方でして、年内でお役御免の身ゆえ、終の住処(ついのすみか)に戻る前に一夜をともに話したいと申されて」
 「終の住処ね、ふむ。 それで虎が残ったというわけかい?」
  情介は微笑んでうなずいた。
 「あのお方は律儀であり忠義の者。やましきところは毛ほどもないかと。このような老いぼれの話を聞いてくれるかと申されたもので、虎の姉様は快く」
 「そうかい、うん、そうかいわかったよ、おまえも今宵は休みなさい」
  情介はうなずいて女将の寝所を後にした。
  終の住処に戻る前にとは、どういうことか?
  人生の最期を過ごす地に戻る前に夢を見たいというならば、中条なる男は男色ということになり、それを知る商人どものはからいで虎介情介が座敷に呼ばれた・・。

  その頃、艶辰からは少し離れた料理屋、喜世州。料理屋とはお上をごまかす仮の姿で、言うならば上格な出合い茶屋。ラブホテルのようなものだった。
  座敷はもちろんもぬけの殻。商人どもはとっくに引き上げ、夜具をのべた奥の間に、中条なる人物と虎介が二人でいる。中条は浴衣に着替え、虎介も黒に雪花の着物を脱いで桜色の襦袢の姿。中条があぐらで座り、虎介が寄り添うようにそばにいて酒の酌をする。大きな火鉢が熱を配り、寒くはなかった。
  中条が言った。
 「わしの先祖は家康様の頃までは伊達家の家臣だったのだが、そのうち徳川に迎えられて江戸に暮らすようになる」
 「はい」
 「とは申せ、軽輩もいいところ。わしとて若かった頃は金がのうて苦しんだもの。それで江戸に暮らすうち、あるとき市ヶ谷あたりの川縁で、いまにも自刃なされそうな御仁に出会ってな」
  市ヶ谷と言えば尾張藩の上屋敷があるところ。
  中条は言った。
 「訊けば家中でハメられ失脚したとか。濡れ衣なのだ、この上は腹を斬って死んでやると申されて、もはや信ずるに足りる者はこの世におらぬと自棄となっておられてな」
 「はい」
 「わしは妙な男でな。若い頃からなぜに男に生まれたのか、裸となって我が身を見たとき呪ったものだ。もしも女の身なら、どんなことをしてもお助けしたい。そのお方はそれは立派なお方であった」
 「はい」

  中条は盃をちびりとやると、ちょっと笑って先を言う。
 「わしは申した。死ぬのなら冥土の土産に一度だけ抱いてほしいと。そのお方は眸を丸くなされ、しかしそなたは男ではないかと申された。そのときのわしは当然ながら着物姿も男であったゆえ、なおさらな。しかしわしは言った。男でも心はあなた様のおそばにおる者。私のことさえ信じられぬと思われるなら、しかたがないとも申したものだ」
 「はい、よくわかります、わたくしもそうですので」
  中条は微笑んで虎介の膝に手を置いた。
 「うんうん、そうだろうと思うたわ、見せかけだけの男芸者であるはずがないと感じたよ。わしも歳だ、その頃のことは夢のまた夢。 して、その後、そのお方が尾張の家中でご出世なされた折、ぜひにもとわしを呼んでくれたということで。そなたがおらなんだら死んでおったと言われてな」
 「はい。真の人の心はきっと通じるものでございます」
 「我が身を賭してもお救いしたい。口惜しい思いに涙されるそのお方は、まぎれもなく美しき心の武士。わしが十七、そのお方が四十少しの歳であったか」
 「はい。少しお待ちを」
  虎介はそばを離れて立ち上がると、中条に見つめられながら、穏やかに微笑んで襦袢を脱ぎ、桜色の湯文字までも脱ぎ去った。濃いとは言えない下腹の飾り毛の中から、いまはまだ静かに垂れる男の道具が揺れている。
  一糸まとわぬ裸となった虎介は、中条の膝に甘えて抱かれると、浴衣の下の褌に手を差し入れて、白髪のまじる毛の中で萎えている中条に口づけをし、頬を添えてほおずりした。
  心が通い、中条の手に尻を撫でられて、虎介の若い男竿がむくむくと勃ち上がる。

  中条は言う。
 「もうよいのだ、何もかも。終の住処で人として余生を過ごしていたいもの。今宵のことは最期の夢。懐かしき我が身をおまえの体に見るようだ」
 「はい、どうぞ可愛がってやってくださいまし。このように大きくなってお情けを求めておりまする」
  中条はますます漲る若い虎介をしっかり握り、そうしながら萎えた老い竿を虎介の口に含まれる。
  中条は夢見るような面色で言う。
 「はぁぁ心地よいぞ、あたたかい。同じことをわしもした。心の限りわしは甘え、ほとばしる熱きものを飲んで差し上げ、そのお方に抱かれて涙した。『わかった死なぬ、何としても生きてやる』 と申されてな」
  虎介はおだやかに勃つものをほおばりながらうなずいた。
 「それからも時折わしは抱かれておったよ。そのお方を尻に迎え、わしは達し、しごいてくださりさらに達する。わしは生涯妻は持たぬ。そのお方が亡くなられ、以来わしは孤独にもがいた」
 「はい、お可哀想な中条様」
 「江戸はもうよい、我が古里、陸奥へと戻る。地獄の鬼が迎えに来るまで生きねばならぬであろうがのう」
 「地獄の鬼でございますか?」

 「それで中条様は、嫌なことがたくさんあったが、何をおいても苦しんだのは試し斬りだとおっしゃられ」
  宗志郎は眸を伏せた。その意味には察しがつく。
  翌朝、朝餉を終えた遅い刻限となって艶辰に戻った虎介。美神、それに紅羽黒羽、宗志郎もその場にいた。虎介は涙を溜めて言う。
 「いかに罪人とは申せ、商人どもの持ち込む刀で斬ってみる、槍であらば突いてみる。そのときわしは鬼畜であり、しかしまた嬉々として、その切れ味を上役に報告し、商人どもにもっとつくれと促すのだと、泣きながら申されて」
  そのときそばで聞いていた情介が、涙する虎介の肩を抱く。この場にお艶さんの三人娘とお光お栗は呼ばれなかった。
  腰物支配の役職には調達した武具を試す役回りもついてくる。死罪と決まった罪人を引き出しては斬り捨てる。とうてい人がする所業でないことをしなければならない役回りの恐ろしさ。これまで誰にも言えなかった苦悩を中条は虎介を相手に吐き出して江戸を去って行ったのだった。

  虎介は頬を涙で濡らしながら、しかし肝心なことはしっかり聞いて、皆に伝えた。
 「こうおっしゃいました。やがてよからぬことが起きはしまいか。堺あたりの鉄砲鍛冶、方々の刀鍛冶が消えておると聞く。思うに、どこぞに集められ、武器をつくっておるのではないか・・とです」
  美神は、宗志郎に眸をやってわずかに眉を上げるのだった。
  虎介はなおも言う。
 「中条様はあのこともご存じでした。何者かが紀州と尾張を睨み合わせようとしておる。そうなれば仲裁に水戸様も動くであろうし、御三家が乱れて落ち着かない。そしてそうした不穏の気配が諸国に伝わり、武器は引く手あまたで売れるであろう。いまの刀は折れやすい。古鉄でなした刀は値が跳ね上がることだろうし、鉄砲など、あればあるだけ言い値で売れる、と申されて」
  宗志郎が空手で顔を洗うようにして、吐き捨てるように言った。
 「なんてこった、そのためか。武器を売りさばいて稼ぐため」
  したがって紀州家をじかに脅かすような真似はしない。世が乱れる気配を醸せばいいということ。ゆえに出入りの商家が襲われたということだ。
  宗志郎は言う。
 「うなずける話だ。上様は近く大倹約令を出されるだろう。そうなれば年貢そのほか取り立ても厳しくなり荒い金も使いにくくなる。紀州も尾張も、御三家であっても苦しくなって宗家の支配に甘んじなければならなくなる。金だ。どんな手を使っても蓄えておきたい。世に不穏がひろがれば幕府はそれを鎮めねばならなくなり、その懐はますます苦しい。そのときに金で宗家を牛耳る算段」

  紅羽が言った。
 「船問屋も武器商人も紀州の息がかり、ゆえに露見せずにやってこれた。鉄砲鍛冶や刀鍛冶を紀州領に集めてつくらせる。幕府といえども手は出せない。古鉄もまた商人どもに集めさせ・・」
  美神が言った。
 「虎も情もお手柄だったよ、これで知れた。けどそこで、では紀州のいったい誰がという問いが残る。まさか紀州公がじきじきにとは考えにくい。家臣の誰かがお家の内情を忖度したと見ていいだろう」
  それきり声が途絶えていた。
  からくりが知れたところで、八代将軍を送り出したばかりの紀州が相手。柳を見つけ出して葬り、武尊そして船冨士をこらしめる。そうすれば事の露見を恐れる黒幕は手を引くだろう。

  品川。海より引き込まれる水路に面した船問屋の船冨士。しかし水路を挟んだ両側に同業の船問屋が並んでいて、年の瀬のいま昼日中は人出が多すぎて見張りにならない。水路を挟んだ向かい側では遮るものがないから素通しになってしまうし、小さな蕎麦屋が一軒あるだけで、旅籠は少し離れている。
  闇にまぎれる忍びであればいざ知らず、まして女姿のくノ一では目立ってしまって動きが取れない。
  同じことが、船冨士からは少し離れた天礼寺にも言えた。町中から離れている分人通りもほとんどなく、昼日中では目立ってしまう。町女の姿で潜める場所などほとんどない。船冨士と天礼寺。どちらを張るにせよ夜を待たなければならなかった。
  それにしても天礼寺の僧どもは何者なのかと、鷹羽は思った。武士というわけでもなさそうだし、忍びなら、同じ忍びの匂いがするはず。僧どもは皆が若く体つきが逞しい。年端もいかない娘らを犯しつくす非道を平然とやってのけ、粗暴そのもの。
  とそう考えたとき、船問屋の船冨士とのつながりを考える。もしや海賊どもではあるまいか。豆州あたりには離島も多く、いまだに海賊が出るという。そうした者どもを味方とするなら武器の隠し場所にも困らぬはず。

  いずれにせよ、一刻も早く柳へつながる手がかりがほしい。娘らの悲鳴が心に刻まれる鷹羽であった。

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十七話 禿遊び


 品川。

  江戸へと至る東海道の要衝として、品川宿は東海道の中でももっとも栄えた宿場町であったと言えるだろう。西国から流れ込む人々や、逆に西国へと下る人々が必ず通る道すがら。それだけに親藩、譜代、外様を問わず、ほぼすべての藩が配下の者を住まわせて様子を探り、また、それぞれ息のかかった寺を置く土地柄ともなっていた。
  そうした寺は、寺とは名ばかり。つまりは藩士の立ち寄り処。江戸へと向かうとき国元からの密書などを携えていると露見したとき騒ぎとなる。息のかかった寺へと持ち込み、手ぶらとなって江戸へ入る。密書のようなものがあるのなら寺を経た別の道筋で届けられるというわけだ。そのほか、寺には僧兵を集めた不穏の集団の隠れ家となるところもある。
  こうした寺もどきを取り締まるために三代将軍家光の頃につくられたのが寺社奉行であったのだが、長く続く太平の世で監視もゆるみきっていた。

  さらに海に面した品川は物流の一大拠点ともなっていた。船によって北から南から荷が集まり、江戸へと運ばれていくのだったが、そうした荷の中でもじかに江戸に持ち込むことをはばかられるようなものは、この品川界隈の船着き場で降ろされると言ってもよかっただろう。とりわけ南からの船は豆州(ずしゅう・伊豆)の海を通り、伊豆には大島はじめいくつもの島があって、豆州がいかに天領であっても隅々までは目が届かない。駿府(静岡あたり)の船問屋と武器商人が結託するなら荷の隠し場所はいくらでもあるということになる。小舟に荷分けをすれば海岸線の入り組んだ伊豆のどこであっても陸揚げできるし、それら離島もあるということだ。

  その品川宿から少し離れたの南のはずれ。海に近く、海までの水路のある場所に、船問屋の船冨士は、真新しい大きな店を構えていた。つまりは海運業であり、さまざまある商人たちは船問屋を通さなければ商いにならない。探るには時節がよくない。年の瀬であり、荷受けにはしる仲買・小売りの商人たちでごったがえしていたし、幕府の目が厳しくなるそうした時節に裏のある武器商人などが動くはずもないのである。
  鷺羽鶴羽鷹羽の三人は、明るいうち、船冨士の船着き場、商人どもの店への出入りを探ったのだが武器に結びつくような気配は皆無。ただ、そうした荷船に混じって三人の禿が降ろされたことを見逃さなかった。
  禿は小娘。粗末な着物を着せられて人足どもの子であることを偽った姿。鷺羽ら三人はそのぐらいのことを見抜けないくノ一ではなかった。

  禿とは年端もいなかいほんの小娘であり、黒髪を結わずおかっぱ頭にしている。身の丈なら四尺五寸(135センチ)ほどと三人ともが同じようなもの。その身の丈なら歳の頃なら十二、十三ということになるのだが、顔つきが少し大人と言うべきか、十五あたりから十八あたりではないかと思われた。
  したがってなおさら妙だ。童らしくない童。その歳でなぜ禿姿をさせられているのか。禿たちがどこぞへ連れ去られれば鷺羽がついて行き先を確かめる手筈。

  そしてその夜。船着き場を見渡せる川向こうの商家の屋根下の闇に、柿茶色の忍び装束を着た鶴羽が忍び、船冨士の屋根裏には同じ姿の鷹羽が忍ぶ。
  夜となって店の表戸を閉めても、中では奉公人たちが帳簿と荷のつきあわせに追われていて、店の外にある荷置き場との間で右往左往。つまりは船問屋としての本業が忙しすぎて秘め事などを話す暇もないといったありさまなのだ。
  このまま潜んでもろくな話は聞けないだろうと鷹羽は思った。
 「そんなことを逐一言うんじゃないよ! おまえも手代のうちなんだよ、そのぐらい己の裁量でやらなくてどうするんだい!」
  争う声が響いてくる。どうやら荷を間違えて出してしまったということで若い手代が番頭に怒鳴られている。
 「どうしたんだい騒がしい。番頭さん、忙しいのはそうだけど穏やかに運ばないといけないよ」

  それが主の弟らしい。船冨士は、主とその弟の二人主で切り盛りしている船問屋らしいのだが、店にいるのは弟のほう。兄はいま駿府にあるという本店にいるらしい。西国あたりから集まる荷は駿府でまとめられて品川へと運ばれる。
  弟は名を喜十(きとお)と言い、兄は喜幸(きこう)と言って、二人ともに五十年配の末であるらしい。本名にしてはめずらしい名。それに兄弟は生き写しだと聞き込んだ。兄を見なければ何とも言えないが、もしや双子ではないかと考えた鷹羽であった。
  弟の喜十は思いのほか穏やかな気質であるらしく、手代を怒鳴った番頭を諫めている。これまで探った限りでは、船冨士とはそう悪い者どもとも思えない。
  と、そのときは思った鷹羽だったが、叱られた手代が去って、喜十と番頭が二人だけになったとき。

 「まったくしょうがないね、手代になったばかりなんだよ、しくじることだってあるというもの」
 「へい、すみません、つい怒鳴ってしまいました」
 「まあいいさ、年の瀬だからね、苛々するのはわかるよ。それで番頭さん、あっちのほうは?」
 「へい、そろそろ寺へ出そうかと」
 「そうかい。まったく兄者にも困ったもんだよ。店を大きくしたいって心根はわかるけどさ、よりによって禿遊びとは」
 「とは申せ、それがご縁でつながる仲もございますし」
 「まあね。それはそうでも・・」
  それきり声がしなくなる。

  禿遊び・・先ほどの娘三人がそうなのか。髪を結っていい年頃の若い娘をあえて禿としておいて遊ぶということは、遊びの質がおおよそ知れる。番頭は寺と言った。このあたりに寺は多い。鷺羽が何かをつかんでくるはず。鷹羽は天井裏を出ようとしたが、そのときある不自然が眸にとまる。

  海沿いをゆく東海道の品川あたり。江戸から見て右側に寺の集まるところがあって、行きすぎると武家屋敷が居並んで、さらに田畑が続き、その先にふたたぶ寺の集まる一帯がある。
  その中間、田畑の中の細道を行くと起伏が織りなす丘があり、その緑の中に小さく、しかしできてから間のない新しい小寺があったのだ。
  天礼寺(てんれいじ)。住職はじめ僧は皆がまだ若く、宗派の定かでない寺であったが、三人の禿を追った鷺羽には、このときそこまではわからなかった。
  刻限は夜の五つ(九時頃)。冬のいま、めっきり人通りが減っている。
  三人の娘らは船冨士から四十年配の手代一人に連れられて店を出て、ほどなくして、この寺へと至る小路に分け入ったところで若い僧侶が二人現れ、囲まれて歩かされた。江戸を白くした雪も消え、寺は濃い冬葉をつける杉の林に囲まれている。表街道からの距離もあり、夜ともなると人通りも絶えてしまってひっそり静か。
  しかし妙だ。そう若くもない手代が一人に娘が三人。二人の僧侶に出会うまでに逃げようと思えば逃げられたはず。娘らが金で売られたことを物語る。逃げれば金を受け取った側もただではすまない。おそらくは食い詰めた親だろうと鷺羽は思った。

  三人の娘らは寺に連れ込まれるなり無造作に裸にされて、一人ずつ台に寝かされ、僧侶姿の男によって女陰を改められた後、下の毛を剃られてしまう。三人ともに無毛の童。しかし乳房や尻の張りから見ても禿という齢ではない。誰もが女らしい綺麗な体をしていた。娘らは泣いてしまい、しかし抗えずに身を丸くしてしゃがみ込む。
  寺の本堂は広くはない。大きな火鉢が三つ入る板床の本堂で、素裸の娘らは太い磨き丸太の一本柱を背抱きにして三人まとめて縛られた。三つある火鉢の中の娘らに近いひとつに、鉄でできた黒い鉄瓶のようなものが置かれ、ほどなくして注ぎ口から白い煙を上げはじめる。
  寺には天井などというものはなく、鷺羽は屋根の上のわずかな風抜き穴から一部始終を見下ろした。白い湯気というのか煙と湯気の間のような白い風が流れ出てくる。
 「・・これは阿片(あへん)」
  煙を吸わないよう手をあてて覗いていると、娘らの首ががっくり折れて力が失せたようになる。

 「ふっふっふ、愛らしい娘どもよ」
  若い僧が数人やってきて、目の高さほどの板壁にある小窓を開け放って風を抜き、娘らの縄を解き、それから男どもはよってたかって娘らの裸身にかぶさっていく。大きくひろげさせた女の白い腿の間に男どもの尻が割り込んでいくのである。男どもは僧にして僧にあらず。と言って武士でも忍びでもなさそうだ。僧兵の集まりではないか。僧侶にして戦いを知る者どもだ。
 「あっあっ! あっ、ああーっ!」
  激しい突き込みに白い乳房が暴れて揺れる。しかしそれも妙な話。娘らが未通女(おぼこ)でないことを物語っているからだ。未通女のままなら高く売れる。
 「はぁぁ! あぁン、心地いい! 狂いますぅ! あぁンあン!」
  見ていられない。下の毛を失った娘らは禿頭で、さながら幼子を寄ってたかって犯すようなもの。阿片で朦朧とする中、逆に研ぎ澄まされる性の悦び。娘らは達しても達しても際限なく犯されて性の快楽を植え付けられていくのだろう。
  いますぐ躍り出て斬り捨ててやりたい。
  娘らを犯しながら男の一人が言った。
 「悦びを女陰に刻め。案ずることはないのだ。禿遊びのお相手は御大身ばかりぞ。身請けでもされてみろ、果てしない責め苦に狂う日々が待っておる、ふっふっふ」
  鷺羽は刀に手をかけながらも唇を噛んで耐え、屋根を折りて寺を去った。

  翌朝早く、鷺羽一人が町女の姿に戻って何食わぬ顔で艶辰に戻っていた。 本所深川あたりは夜の町だが、深夜から外が白む頃まではほとんど人を見かけない。それだけに夜動くとかえって目立つ。町に人が出はじめる刻限に合わせて戻った鷺羽だった。
  そのときちょうど艶辰の中庭では、お光とお栗の二人が五尺棒で打ち合う稽古の最中。硬い樫の木がぶつかり合ういい音が響いていた。
  久しぶりに戻った鷺羽は懐かしいものを見るような心持ち。裏の洗い場では今朝もまた虎介情介の二人が洗い物。さらに、しばらく見ない間にお光もお栗もいっぱしに棒を使うようになっている。
  裏口の木戸から入った鷺羽。皆が一斉に眸を向けて、お光とお栗が稽古の手を止め、笑って迎えた。
  鷺羽は微笑む。
 「なかなかだよ二人とも。お栗のほうがちょっと上か」
 「はい、あたしと違ってスジがいいから」
  お光は明るく言って笑うのだった。

  そしてそのときその場にいた紅羽黒羽の姉妹に眸をやって、鷺羽はちょっとうなずく素振りをし、さらに宗志郎へと眸をなげた。奥へ。目配せで伝える鷺羽。
 「よし、今朝はもういいだろう」 と黒羽が言って、鷺羽をともない部屋へと入る。

  深みにある女将の部屋。
 「禿遊びとはいかにも卑劣、許せないね」
  美神の眸が涼しく光る。
  宗志郎が問うた。
 「されど、それがつなぐ縁もあると番頭が言ったんだろう?」
  鷺羽はうなずいた。
 「およそ知れたことだけど、そうして娘を好き者どもにあてがってやり、その見返りにということで」
  宗志郎がため息まじりに言う。
 「だろうな。身売りなどお上が厳しく禁ずること。まして小娘。それだけでも始末してやりたいものだが」
  肝心の武器商人は現れない。年の瀬で無駄口をたたく暇もないありさまだと鷺羽は告げた。
 「鷹と鶴が張ってますが、さて、といったところでしょうか」
  鷺羽はちょっと眉を上げ小首を傾げ、なおも言う。
 「駿府の方へは? そちらに主がおるらしく」
  しかし美神は応じた。
 「あたしらはあくまで江戸さ。散っていては見落とすものもあるからね。行ったところで大差はないよ、どのみち年の瀬、送り側も右往左往してるだろうし」

  いまは聞き耳を立てることぐらいしか手が打てない。力ずくでこちらが動けば悟られて尻尾を切られる。柳(やな)に結びつく何かが得られない限りどうしようもないのである。武尊という武器商人の方も一網打尽としない限り確証を消されてしまうだろうし、そこにこそ黒幕がいるはずだ。下手に近づいて敵に忍びの者でもいようものなら扉は閉ざされ、こちらの身も危うくなる。
  であるなら、ともかくその生臭さ寺の先にある淫らなところを探ってみるか。美神は言った。
 「船冨士とやらに一人を残し、二人は禿どもの行き先を。ご苦労だけどね。どのみち数日すれば動けないさ。それぞれに正月もあることだし」
  黒幕に立場があればあるほど年の変わり目には立場なりの仕事もあり、目立った動きはしづらいもの。鷺羽はうなずき、鷹羽からの言葉を伝えた。
 「ほう? 天井裏に別の足跡が?」
  美神はとっさに黒羽へ眸をやり、黒羽がうなずいて言う。
 「だとすると用心だね、我らの他に探る者がいる証」
 「鷹羽もそう言ってました、一度退いて様子を見るかと」
  美神が言う。
 「ならなおのこと、いまはまだ深入りしない、禿たちを先に」
  鷺羽はうなずき座を離れた。

 「禿遊びとは恐れいったよ、下衆どもめ」
  育ちのいい宗志郎にはその意味を思うだけではっきりとはわからない。何だと問うように眉を上げた宗志郎に美神は言った。
 「かつてはこのへんでもあったんだよ。年端もいかない小娘を金で買い、禿姿にしておいて売り払う。泣き叫ぶ童に昂ぶる愚か者がいるわけさ。いまでは取り締まりが厳しくなってなくなったと聞いてるけど、ほら、お光を囲ったやくざ者がいただろう、そんなような輩がのさばっているわけさ」
  柳の件さえなければすぐにもたたき斬ってやるところ。美神は、やるせない思いと怒りを表すように唇を真一文字に結んでいた。

  しかし・・その日の昼下がりの刻限だった。
  暮れから正月を迎えるということで城勤めの下女たちが宿下がりで次々に城を出る。その中には大奥に働く者もいる。
  大奥の下女、小夜(さよ)と、もう一人、表方の雑用をこなす姜(きょう)と言う女が、城を出たまま姿を消したことなど知る由もない艶辰の皆々だった。

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十六話 年の瀬


  また三日、焦れるような日々が続く。鷺羽鶴羽鷹羽の三人はいまだ戻らず、それは敵の奥深さを物語るようなもの。くノ一たった三人でできることは知れていたし、疑いを持っても確証をつかむには頃合いというものがある、敵が動く気配がなければやみくもに探っても感づかれるだけ。いつの間にか師走となって年の瀬が迫ってきていた。とりわけ今日は朝から牡丹雪が舞っている。

  そのときは女将の美神が座を離れた大きな火鉢の前で、お光が炭を加えて火を整えていたのだった。なにげに部屋を通りがかった紅羽。
 「冷えるね、寒い寒い」
 「あ、はい姉様、そう思って火をちょっとふくらまそうかと」
  お光の様子がおかしいと感じた。昨日あたりから、それまでのお光とはどこかが違う。元気がないというのか、眸を合わせてもお光のほうでそらせてしまう。
  紅羽は、そばにしゃがんでお光の顔を覗き込むが、お光はちょっと笑ってやっぱり眸をそむけてしまう。紅羽にはだいたいの見当がついていた。
 「どうしたんだい、元気ないね?」
 「えっえっ? そうですか? そんなことはないけれど」
  なんだか哀しそうだと紅羽は感じ、ちょっとおいでと己の部屋へ連れていく。黒羽と二人の部屋であったが、黒羽は宗志郎と出かけていた。

 「ちょいとお座り」
 「はい」
  ちょっとため息をつくように、お光はそっと正座をする。紅羽は艶辰でもっとも歳上の格であり、お光もちょっと意識している。紅羽という女、妹の黒羽より物腰がしなやかな分、さばけたところに少し欠ける。まさに女。美神を除いて女らしさの頂点にいる女。見目形は双子のようでも紅羽は心根がやさしく、そのぶん剣では黒羽が上か。
 「隠さず言ってごらん、どうかしたかい?」
  お光は黙ってちょっとうつむいていたが、意を決したように顔を上げた。
 「お栗が来て・・」
  やっぱりそうか。朝の稽古で薄々感じていたことだった。
  お光は言う。
 「あの子はできる。まだほんの数日なのに、あたしとはスジが違う。棒を振っても鋭いし動きも速い。あたしじゃできない」
 「そんなこと気にしてたのかい馬鹿だね」
 「けど、あたし・・」
 「ほらほら、また黙る、聞く耳はあるんだから言えばいい」
  お光はちょっとうなずいた。
 「あたし、ここの人たちに助けられた。姉様たちには別な役目があると知って、ならあたしもそうなりたいって思ったんです。悪者をこらしめる。姉様たちのお役に立ちたい。そう思って稽古をしても、お栗ほどの才がない」

  紅羽はちょっと笑ったが、お光はますますしょんぼりする。人には分というものがあるのだが、お光の気持ちはもちろんわかるし、こういうときにうわべの慰めではダメ。紅羽は言った。
 「あたしら姉妹は早くに女将さんと出会ってね、艶辰の最初からここにいる」
 「はい」
 「あたしも黒も、剣こそできても三味線はだめ踊りはだめ。それで剣の舞を思いつき、二人で稽古してお座敷芸にしたんだよ。いまでこそ三味線も弾けるし踊れるけどね、その頃はまるでだめ。芸者なんてとてもとても、身のほど知らずだって思ったんだ」
 「はい」
 「確かに剣ではお栗が上かも知れないね。持って生まれた才がある。だったらお光は、お栗にできないことをすればいい。おまえだけの何かを探す」
 「あたしだけの何か?」
 「鷹羽は伊賀者で毒の名手だ」
 「毒?」
  光は眸を丸くする。
 「そうさ毒だよ。おまえはお艶さんとなってもいいし」
  お艶さん・・身を売るってことなのかとお光は思い、そのときはがっかりしたのだったが、紅羽がそんなことを勧めるはずもない。

 「色仕掛けで取り入って毒を盛る。くノ一では女陰働き(ほとばたらき)と言われていて、くノ一仲間からも一目置かれる役回り。くノ一の誉れなんだよ」
  お光は呆然として声をなくした。
 「剣では斬れない敵に対しておまえは戦う。いまいるお艶さんの三人のようにね」
 「え・・」
 「鷹羽がつくった毒を持って敵に近づき、殺すまでいかずともこらしめることができるじゃないか」
  お光は言った。
 「じゃあ、お艶さんの三人は・・?」
  紅羽が微笑んでうなずいた。
 「美介と彩介はそれをした。恋介はまだだけど。虎もそれをしたんだよ」
 「えぇぇ、虎介の姉様も?」
 「幼い男の子をたぶらかしては手籠めにする奴がいてね。虎はそいつに抱かれて毒を盛った。泡を噴いて死んだそうだよ」
 「そうなんだ、あたしはまた・・」
 「ただの色売り芸者だと思ったかい? ところが違う。女将さんはあたしらみんなにそんなことをさせて苦しませるから、いつもああして仏に祈る。だから庵主様と呼ばれてる。何かがあれば身を開いて吸い取ってくださるだろう?」
 「はい。あたし、知らなかった」

  剣の稽古をほとんどしないあの五人は、じつはそうだったのかと思ったとき、艶辰では剣を使える者が上だし、あの五人は格下だと考えた自分が浅はかだったと、お光は思う。
  とそこへ美神が戻り、何やら話し込む紅羽を見て眉を上げた。お光の悩みを紅羽が告げると美神は笑い飛ばし、紅羽が座を離れ、代わって美神が座ったのだった。
 「そんなことだろうと思ったよ、妙に元気がなかったもんね」
  お光は唇を噛んでちょっと笑う。
 「でもね、お栗はちょっと暗い。愛想がない。あれでは芸者には向かないね。まだ十五でもあるし色気づくには早いんだけど、それにしても男っぽすぎるんだ。おまえはやさしい。それぞれ働く場があるんだから、おまえらしいことをすればいいのさ」
 「はい女将さん」
  美神はちょっと叱るような強い目を向けたのだったが、すぐまた笑った。
 「あたしは城中にいた女。大奥だよ」
  呆然として見つめるお光。
  大奥といえば、それは娘らにとっては女の夢を集めたようなところ。思い描くだけの憧れの存在だった。

 「上様のお手がつくならまだしもいいが、よりにもよって嫌な男に言い寄られた。それで願い出てお城を下がり、逃げたってことなんだ。あたしは薙刀でね」
 「薙刀?」
 「剣も少しは使うけど薙刀、それから槍ではそこそこで、警護の者どもに教えていた。けど薙刀なんて町中で使うものじゃないだろう」
 「はい」
 「それぞれにそれを使う場というものがあるんだよ。若いおまえにとってあたしらは憧れなのかも知れないけれど、所詮は殺し屋。どう繕っても殺し屋であることに違いはない」
  お光はそうじゃないと言うように首を振って言った。
 「それは人を生かすため。あたしもお役に立ちたくて」
  お光やお栗にそんなことをさせるつもりもなかった美神だったのだが。
 「まあ心根はわかったよ。おまえらしく気張ることだね。お栗は厨のことがまるでだめ。細かなことに気がきかない。そうなると女中はできない。おまえはできる。敵に潜り込んで耳を使うのがくノ一というものさ。おまえらしい役目があるじゃないか」
 「はい!」
  眸の色がいつものお光に戻っている。十七らしい若さだと美神は思う。
  そしてまたそんなとき、お栗が前掛けをした姿で現れた。

 「姉様、ちょっと」
 「あ、うんっ、いま行く」
  昼餉の支度にかかったまではよかったが、頼りのお光が戻って来ない。美神は、ほらねと言うように眉を上げて微笑んだ。
  厨に入って前掛けをしたお光。お栗と並ぶとまるで姉妹のようだった。お栗はお栗で、艶辰へやってきて数日のうちに次々に流れ込んでくる新しいものをさばききれない。とりわけお栗だけが男を知らない生娘。お光に対してだって肩身の狭い思いをしていた。
  お栗は包丁の使い方からしてお光を横目に習っている。久鬼と二人、喰えればよかった田舎料理と、江戸にいて料亭に出入りする者たちが食べるものとは質が違う。
  厨に二人。若い芸者衆は踊りや三味線の稽古に出ていて、戻ってすぐ昼餉。段取りよくしないと間に合わない。お光が手際よく支度にかかると、お栗はそれを横から見ていた。
 「ねえ姉様」
  まな板に向かいながら横を看ると、お栗が妙に沈んでいる。
 「うん? 何だい何だい、どうしたって?」
 「虎と情の姉様とさ」
  なるほど。一つ部屋で眠っているお栗。

  お栗が言った。
 「風呂もそうなんだけど、あたしどんどんヘンになってく」
 「ヘンて?」
 「姉様たちが抱いて寝てくれ、やさしくされて、あたしよりずっと女じゃないかと思ったとき、男を知らないのはあたしだけだって」
 「十五だからね、これからだよ」
 「それはそうだけど、姉様たちは男だろ。やさしくされると震えるし、そうされてもいいと思うのにしてくれないしさ」
 「それはね、姉様たちは置屋の姉様なんだからしかたがないよ」
 「わかってるよ。けど姉様を見てても思うんだ」
 「あたしを?」
 「そうだよもちろん。あたしが手で、その、してやると、そしたら姉様たちが甘い声で出すじゃないか。それが腹に入れば子ができると言う。そんなことさえ知らなかったあたしって何だったんだろって思うんだ。あたしならいいんだよって言っても、そこまではしてくれない」
  それが美神が与えた、女へと化身していく階段だった。お光は言う。
 「はじめは痛いもんなんだ」
 「痛い?」
 「狭いんだよ。太いアレが入るとひろがって、そんとき血が出たりする。だからちっともよくないんだ」
 「はぁ、そういうもんなんだ?」
  何だ、お栗はお栗で悩んでいた。そう思うと力が湧いてくるお光であった。

  お光が言う。
 「あたしは悪い奴らに犯された。代わる代わるに犯されて、けどそのうち男が可愛く思えてきた。だんだん良くなって達していけるようにもなっていく」
 「う、うん。達するって心地よくてか?」
 「そうだよ。ふわふわ雲に浮いてるようで、あぁんあぁんて声をあげて男の体にしがみつくんだ」
 「うん。はぁぁぁ、そうなんだ? 虎の姉様も情の姉様も、あぁんて言って、可愛いって思ってると出すだろ」
  お栗の息づかいがおかしくなっている。
 「ふふふ、そうだね、あの二人は心が女なんだよ。男に生まれたことが間違ってる。あたしにもそうだった。哀れなあたしのことを抱いてやりたい。やさしくしてくれ、舐めてくれて、あたしは達した。舐めてくれたかい?」
 「え・・うん、舐めてくれた。恥ずかしくて、けど心地よくなってきて、はぁぁぁ」
 「あっはっは、そればっか考えてるんだ?」
 「考えてる。入れていいよって思うんだ。あたしちっとも女じゃなかった。知ってみたい。風呂も一緒だし、男の体を見てるとね、あたしがやさしくしてやると、よっぽど嬉しいんだろなって思うしさ。アレのところが大きくなって」

  可笑しい。お光は剣のことで落ち込んでいた自分が可笑しくなった。
 「あたしいまお艶さんの姉様方と一緒だろ」
 「うん?」
 「毎夜だよ、それが。舐めてくれるし、あたしだって舐めてやるし」
 「そうなんだ女同士で?」
 「人と人。女将さんがいつも言うこと。虎と情の姉様なんて、女将さんに叱られて尻を叩かれると勃てるんだって。それがまた赤ベコみたいなんだって」
 「へぇぇ、えへへへ」
  思い浮かべて笑うお栗。
 「悪かったって思ってるんだろうねって睨みつけて、ナニの先を叩いてやると出しちゃうんだよって女将さん笑ってた。何かがあってしょげてると、よしよしって口でしてやる」
 「口で! 舐めるのアレを!」
 「あ、馬鹿、声がデカい」
  ちょっと首をすくめるお栗。
 「そうそう。そしたら二人とも、いっぺんに元気になるんだって。飲んでやると嬉しくて泣くんだって。すごく可愛いって言ってたんだよ」
 「飲むんだソレを。はぁぁぁ、だめだ、気がおかしくなってきた」
  声を上げて笑い、尻をひっぱたいてやるお光。そういう意味で知りはじめた新しいことがお栗には別の世界そのもので。
  あたしはあたし。お光はきっぱり己を見定めることができていた。

  しかしちょうどその頃。水戸屋敷にもほど近い小川町のあるところで。
  黒砂利を敷き詰めた枯山水の庭。明かり障子を閉め切って冷気を遮り、明るさだけを採り入れる板の間の部屋。囲炉裏がパチパチ爆ぜて熱を配る。
  女が言った。
 「爺の念が失せた」
 「ほう? さては去りましたかな?」
  と男が応じ、女が言った。
 「いや、おそらくは逝ったのだ。生きておるなら残り火ぐらいは感ずるはず。百十余年を生きるとは、なんたる化け物」
  おかっぱ頭の禿を連れた、まだ若い女と、女が二人。そして商家の主らしき五十年配の男。
  男が言う。
 「じきに正月。宿下がりの下女を狙えということで。商家ばかりを狙ってまいり探索の手はそちらへ向かう。次はまさか城中でとは思いますまい。御前様も早うせいと焦れておいでです」
 「わかった。いよいよ世が騒ぐ。じつに愉快」
 「柳(やな)様におかれましても、いよいよもって風魔の再興」
 「ふんっ、そのようなことは考えておらぬわ。徳川にひと泡吹かせてやればそれでよいし、女どもの狂う様も見物というもの。そなたらの目論見が愉快ゆえ力を貸したまでのこと」
 「ではわたくしはこれにて」
  男が腰を低く部屋を出て、柳は障子を開けよと娘の葛に言う。少し明けると牡丹雪が舞っている。
 「美しきかな。されど冷える。ふふふ」
  江戸城に仕える下女、大奥もそのうちだが、盆や正月に休みをもらって城を出ることが許される。これを宿下がりと言う。

  それからしばらくの刻を置いて、宗志郎の小さな家に鷹羽が戻り、追って鶴羽鷺羽の二人が戻ってくる。皆がありきたりの町女の姿。顔を合わせて鷹羽鷺羽は言うことなしと言うように首を振ったが、鶴羽はあることをつかんでいた。
  三人は火鉢に顔を寄せ合った。鶴羽が言う。
 「いまのところは聞き込んだ話だが、品川にある船冨士(ふなふじ)という船問屋に、武尊(ぶそん)なる武器商人が出入りしている。冨士屋はもともと駿府が商人なのだが、ここのところ羽振りがよく、と言って商いがそう盛んというわけでもないらしい。どこぞから動く金があるということ。方々の刀・・」
  と言いかけたとき、戸口に気配。鷺羽が仕込み杖を手にして立つと、宗志郎と黒羽。

 「・・というわけで、刀鍛冶やら鉄砲鍛冶より武器を買い付けているそうですが、どこに隠してあるのかまではいまのところ皆目。妙な武家の出入りもありませんしね。されど商人どもの間では、よほどの金づるをつかんだのではと評判になっており」
  鷹羽が応じた。
 「匂うね。三人で張り付くか」
  宗志郎が応じた。
 「我らも刀の店を覗いて回ったが、方々に古鉄を用いた刀が出回っている。訊けばそれらは西国から仕入れたものらしい。船問屋ならあり得る話だし、刀の出所が西国の何者なのかも確かめておきたいところ。ご苦労だがもうしばらく」
  くノ一の三人はうなずいて、黒羽が封を切らない二十五両の包みを鷺羽に手渡した。
  黒羽が言う。
 「お栗はよくやってるよ。皆も元旦ぐらいは戻っておいで」
  三人はうなずいて微笑むと、「では、あたしらは」と言って鷹羽が黒羽の肩にそっと手を置き、家を出た。
  鷹羽が最初、間を置いて一人また一人と出て行って、一度散ってどこかで落ち合う手筈だろう。

  はらはらと雪は舞い続け、江戸が白くなっていく。


白き剣 第二部。続いて三部へ。

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十五話 力ない眸


  そのお栗がお光に連れられて女将の寝所へやって来たのは、その夜、さて寝ようとしたところ。美神はすでに夜具に身を横たえて、けれどまだ火鉢には火があって、油を燃やす小さな明かりも灯っていた。
 「女将さん、よろしいでしょうか、お光です」
 「いいよ、お入り」
  ここへ来て間がないというのにお光は女らしく、また大人の女の言葉を言えるようになったと思う。下働きでもよくやっている。芸者として躾けていっていいのではと、このとき美神は考えた。
  そっと襖が開くと、そこにお光が片膝で据わり、少し後ろにお栗が正座をして座っている。二人ともに、まだ寝間着に着替えてはいなかった。お栗は紅羽に髪を結ってもらい見違えるような娘となっている。幼な顔の残るお栗だったが、こうして見ると愛らしい。

 「どうしたんだい二人揃って?」
  お光は、まるで実の姉となったようにやさしい目でお栗を見つめて言うのだった。
 「お栗がちょっとお訊きしたいことがあるからって」
  ちょうどいい。美神としても邪視という不可思議な力のことを尋ねてみたいと思っていたし、そのことで言っておきたいこともある。
 「かまわないよ、いいからお入り」
 「はい」 と言って、お光はお栗の背をそっと押し、お栗一人を押しやって己は下がって行ったのだった。
  二人きりとなり、すでに寝間着の美神は、布団の上に座り直して綿入れを肩に羽織った。
 「寝間着になっちまったから、このままでいいだろ?」
 「はい、女将さん」
  お栗は布団の際で正座をしている。両手を膝に置いているのだが、どうにも身が定まらないといった様子。綺麗な着物を着せられて髪もちゃんと結ってもらうという暮らしに戸惑っているようだった。
 「何を訊きたいんだい?」
 「女って何だろ?」

 「え?」
 「この艶辰って、どういうところ? それから、あたしが棲んでいいのかって?」
  それきり黙り込んでしまったお栗を見つめ、美神は、この子なりに懸命に考えていると感じていた。
 「どうしてそう思ったんだい?」
 「朝の湯で、虎介の姉様と情介の姉様と湯に入り、けど二人は姉様じゃない。心は女だって言った。あたしより女っぽい。じゃああたしは何なのって思ってしまった。紅羽黒羽の姉様は恐ろしく強いのに、でもやさしくて。お艶さんて呼ばれてる三人もそうだし虎介情介の姉様だって、裸で芸もすれば、その・・抱かれたりもすると言う」
 「それで何が何だかわからなくなっちまったって?」
  お栗はちょっとうなずいて、なおも言った。
 「それもあるし、そんなみんなには役目もあるだろ。鷺羽鶴羽鷹羽の姉様はくノ一なんだし、ここはどういうところって思ってしまった。あたしなんて山猿なのにいていいのかって思ったし、それに・・」

  言いたいことはそこからだと美神は感じた。
 「思うことを吐き出しちまいな、言えばいいから」
 「はい。あたしは黒いし」
 「え? 黒いとは?」
 「ジ様に言われた。おまえの中には恨みの念が燃えているって。それは黒い焔(ほむら)のごとくで恐ろしいことだぞって」
 「うむ、そうだね、そう思うよ」
 「それであたし剣を習った。懸命にやれば強くなれる。けどそうなったときのあたしが怖い。悪人を許せなくなり平気で人を斬るようになるだろう。そのときあたしはきっと鬼。なのにまた女に戻れるものだろうかって」
  案じていたことをお栗自身がわかっている。宗志郎の言葉が思い出される。やがて気づくときが来る。美神はちょっとほっとした。
 「それにあたし・・」
 「まだあるのかい?」
 「あたしの目も怖いんだ。ジ様に言われた。おまえの中にも陰童子が眠っている。陰童子が黒い心を持つと化け物だって。怖くてならない。宗志郎様にも言われた」
 「宗さん、何て?」
 「黒に向かえば己の白に気づくだろうって」
  目をそむけず己を見つめよということだ。
  いきなり棲む世界が違ってしまい、奔流となって流れ込むすべてのものをさばききれない。

  お栗は顔を上げて美神をまっすぐ見つめて言った。
 「けどそれは、あたしが己を律していくこと。わかってるけど自信がない。だからあたし、このままここにいていいのかと思ってしまった。朝の風呂で・・」
  そしてまたうつむくお栗。心が激しく揺れていると美神は思う。
 「朝の風呂でどうしたって?」
 「あの二人は男。知らずに脱いだあたしを囲んで抱いてくれ、あったかくて、あたし震えた。お光の姉様は平気で抱かれ、その・・男のモノを可愛がってやっている。そしたらそれは大きくなって、なのにそれでもお光の姉様は笑ってる。あたしはまだ男を知らない。もう何が何だかわからなくなってしまった。あたしもいつか男を知るのか? そのときあたしは女になれるのかって? あたしの中には妖怪がいるんだよ。それでも女でいられるのかって。片方で人を斬り、なのにもう片方で女でいられるものかって思うんだ」
  うつむくお栗の二つの目が涙で揺れて美神を見つめた。

  美神は言った。
 「あたしがもし、おまえの親を殺した者どもに出会ったとする」
 「はい?」
 「鬼となって八つ裂きにするだろう。返り血を浴びて地獄の鬼のごとき姿となるが、振り向いて、鬼はおまえを抱いてやる。刹那、母のやさしさをもってだよ」
 「はい」
 「けどそれはおまえの恨みを晴らすというより、二度とおまえのような娘を出さないため。だってそうだろ、あたしは母ではないのだから、おまえにとっては慰めに過ぎないもの」
 「はい」
 「けど母の心を向けてやりたい。苦しみを吸い取ってやりたい。おまえの中にいるという妖怪の頭までも撫でてやりたい。おまえのままのおまえを守ってやりたいとそう思う」

 「はい」 と応えたその声が涙に揺れた。
 「男芸者はそんな心を客に向け、お艶さんはそんな心を客に向ける。そしてさまざま何かを背負って戻ってくる。いいことよりも口惜しいこと腹の立つことのほうが多いだろう」
 「はい、それはきっと。そう思います」
 「うむ。そしてそれをお光は吸い取ってやっている。それが嬉しくて男は勃てるし、勃ててくれて嬉しいからお光はそれを可愛がる。あたしもそうだよ。この身を投げだし、どうか癒えてほしいと抱いてやる。心と心が響き合うのに男女の別などありはしない」
 「はい、それもそう思います」
 「ならばお栗」
 「はい?」
 「おまえの中の妖怪を、なぜおまえは抱いてやらない? 怖がって遠ざけようとするから妖怪は哀しくなって暴れだす。人が人を抱くとき、じつは己を抱いているんだと思えばいい。川は一筋の流れからはじまって、流れ込む濁流に削られて、やがてゆったり流れる大河となる。削られれば川だって痛いはず。だけど川は逃げたりしない。流れを包み込んでじっと耐える。それが人。ゆえに人は他人の痛みがよくわかる」
 「はい」
 「おまえはいていいのかと言ったけど、皆はいてほしいと思うだろうし、けどあたしはそこがちょっと皆とは違う」
 「違う?」
 「ここにいろと叱ってやりたい。『俺』などと言おうものなら頬を叩いて叱ってやりたい。剣のできないおまえの尻を黒羽がどういう思いで叩いて叱るか、そこをよく考えてみることだね」

  お栗は涙の伝う顔を上げて美神を見つめた。
 「じゃあ、あたし・・」
 「あたしのそばにいてちょうだい。剣で黒羽に勝てるまで」
  うぅぅっ・・襖の向こうでお光の嗚咽。
 「ほらね、お光はね、おまえのことが大好きなんだ。そんなお光を捨て去って、おまえは出て行くって言うのかい?」
 「はい、嬉しいです、はい!」
  美神はお栗の肩越しに襖に言った。
 「お光、入っておいで」
 「はい、すみません、盗み聞きしてしまいました」
  襖を開けたお光。お栗よりずっと泣いてしまっている。

 「やれやれ、あたしまで泣けてくるよ」
  と笑って言うと、美神は二人の目の前で寝間着を脱ぎ去り、白い裸身となって両手をひろげた。
 「おいで二人とも、今宵はあたしを抱いて寝ておくれ」
  涙を溜めたお光に促され、涙を溜めたお栗も脱いで、娘二人が母のような美神の乳房に甘えていった。
  二人の娘を乳房に抱いて美神は言った。
 「明日からお光はお艶さんの部屋へ行く。芸者修行をはじめるよ」
 「はい」 と言ってお光は美神の左の乳房に頬を寄せた。
 「お栗は虎と情の部屋へ行く。思うままに過ごすがいい」
 「はい」 と言ってお栗は右の乳房に頬を寄せ、泣き濡れる目を閉じた。

  そしてその意味をお栗が悟るのは翌朝の剣の稽古の後だった。朝湯。芸者修行をはじめたお光の風呂はお艶さんの三人娘と一緒。お栗だけが虎介情介の二人と一緒。お光のいない場で女が一人。男二人の目のある中で裸になってお栗は赤くなっている。
  情介が言う。
 「お栗は未通女(おぼこ)なんだってね」
 「あ、はい」
  虎介が言う。
 「女らしい綺麗な体、羨ましいよ」
 「はい」
  どんどん声が小さくなってうつむくと、右と左に大きくなった男のそこのところが目に入る。
  かーっと燃えるような女の想いに戸惑うお栗。生唾をごまかして笑おうとするのだが、稽古で痣だらけにされた尻を撫でられ、背を撫でられて抱かれると、女の奥底が疼くような妙な感じに震えがくる。
 「あたしらで遊べばいいさ」 と虎に言われ、お栗はちょっと左右に首を振る。

 「嬉しいんです、あたし。夢のようだし。夕べだって女将さんが裸で抱いてくださって」
  情介が言う。
 「うんうん、よかったね。あたしらもそうなのさ、女将さんが抱いてくれ」
  その後を虎介が言う。
 「嬉しくて勃ててしまうと、そっと握って可愛がってくれるんだよ」
 「えぇー、そうなの?」
  虎が言う。
 「心地よくてあたしは喘ぎ」
  その後を情介が言う。
 「あたしも喘ぐ。女将さんは女陰を晒し、そしたらとろりと濡れていて」
  その後を虎介が言う。
 「あたしらで舐めて舐めて」
 「えぇー」 え? という言葉の言葉尻がのびていき息の声に変わっていく。信じられないというように、お栗は左右の姉様の顔を交互に見た。
  情介が言う。
 「お乳にも甘えてね、女将さんの体が震えてしなって達していくと、あたしらは嬉しくなって出してしまう」

  耳を塞ぎたい言葉。よくも言えたものだと思いながら、言葉だけで濡れはじめる己を感じてたまらない。
  虎介が言う。
 「ここへ来たとき、あたしらは役立たずにもほどがあり、女将さんに叱られて物差しでお尻をぶたれ、でもそうするうちにたまらなくなって勃ててしまう」
  その後を情介が言う。
 「勃ったものを笑われて、手でパシパシぶたれるとビクンビクン、それだけで出してしまうんだ。嬉しくて嬉しくて、このお方のためなら何でもできると思うようになっていき」
  その後を虎介が言う。
 「心がどんどん童に戻っていくんだよ。赤子に戻って、それでも小さくなっていくと人は女陰の中へと戻るだろ」
 「う、うん」
  息が乱れる。はっきり己で感ずるほどに濡れてくる。お栗はそっと左右で勃つものへと手をのばし、そっと触れてみて、握ってみる。
 「熱い。硬い。あたしといて嬉しいから?」
 「そうさ嬉しいから。お栗のこと大好きだよ」
 「うん。はぁぁ、ん、はぁぁ」
  女はこうなるものなのか。吐息が燃えるようだし生唾が湧いてきてたまらない。胸がドキドキ。寒気のような波に襲われ裸身が震える。女将さんはひどいと思った。こんなことが続いていくと、あたしはどんどん女になる。

  虎介が言う。
 「お光の女陰を可愛がってやるだろう」
 「は、はい?」
  情介が言う。
 「お光は濡れて愛らしい女となって」
 「はい、んっ、はぁぁ」
  虎介が言う。
 「お光が手でしてくれて、あたしらだって濡れてくる。心がさ」
 「はい、あぁん嫌ぁ、あたしヘン」
  虎が言う。
 「濡れたかい?」
 「う、うん。はぁぁ、泣きそう」
  笑われて抱かれながら、お栗は二人の勃つものを両手に握って嬉しかった。
  お栗の中に女としての小さな自信が生まれていたのかもしれなかった。

  その手を二人に取られて動かすことを教えてもらう。そうするものか。ドキドキしながらしごいていると、二人の息が熱くなり、虎介も情介もうっとり目を閉じ甘い声を漏らしだす。
 「はぁぁ、お栗」
 「いいよぉ、お栗」
 「あたしは女? ねえそうなの?」
 「いい女さ」
 「ほんとよ、お栗はやさしい女」
 「うん」 と小声で言いながら、熱い息を吐く姉様二人を交互に見る。
  虎介が少し早く、遅れて情介が、
 「あぅ!」
 「むぅ!」
  勃つものの先から白い粘りを弾かせた。お栗は目を丸くする。
 「これが出るってこと? 心地よくて出すってこと?」
  虎介が言った。
 「そうだよ、ああ嬉しい。これが女の中に入ると子ができるのさ」
 「えぇぇ、そうなの? 子ができるの?」
  何も知らない生娘。男女の意味をはじめて知って、あたしがそこへ導いてやれたことが嬉しくなる。お栗は十五。生娘のまま嫁にいくのがあたりまえの時代のこと。

  朝湯を終えて出て来たお栗を一目見て、宗志郎は、見違えるほど女らしい目をしていると感じていた。
 「おまえら、何かしたか?」
  二人揃って居並ぶ、まさしく女の虎介情介に耳打ちした宗志郎。
 「んふふ、それは内緒ぉ、んふふ」 と、しんねり色目の虎介。

  ゾワとする。訊くんじゃなかった宗志郎。

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十四話 惑う小娘


  久鬼の亡骸を運び出し、くノ一の三人が去ってほどなくして、宗志郎と黒羽の二人は火鉢の燃え炭に灰をかけて消し、小さな家を出ようとした。
  玄関先に忍び寄る気配を感じたのはそんなとき。そのときたまたま戸口のきわにいた黒羽が気づく。黒羽はとっさに「静かに」と言うように指を立てて唇を閉ざしながら宗志郎へと目配せし、宗志郎は刀を手に息を潜めた。
 「開けろ。いるのはわかっている」
  小声。若い女の声だった。若いどころかまだ幼いと思えるような娘の声。黒羽は宗志郎を振り向いて小首を傾げながら板戸を開けた。そしたらそこに、ひどく粗末な長綿入れを着込んだ小柄な娘が立っている。一見して十五、六か。丸い目をした愛らしい顔立ちだったが、ひどく暗く、黒羽と宗志郎を睨みつけている。黒髪は結っていたがほつれ毛が目立ち、なおのこと娘を貧相に見せていた。

 「ジ様は死んだのか?」
  ぼそとした無遠慮な物言い。人を呪うような響きがある。黒羽はまた宗志郎を振り向いて、宗志郎が言う。
 「まあ入れ、寒いだろうに」
  小娘はそっと戸口に一歩入り、長綿入れの前に手を入れて、白木の握りの匕首を手にすると、鞘から抜いて右逆手に構えて身構えた。敵意に満ちた眸の色だ。
  黒羽は一歩二歩と静かに後ずさり、代わって宗志郎が一歩出た。

 「応えろ。ジ様は死んだのか?」
  宗志郎はうなずいて言う。
 「たったいま寺へ運び出したところ」
 「知っている。見届けて戻ってきた。応えろ、おまえたちが殺したのか?」
 「違う。昨夜遅くに訪ねて来て、そのときここにいた我らの一人に、あることを告げてそのまま眠った。朝になって冷たくなっていたそうだ」
 「それに違いないな? きっとだな?」
  宗志郎はうなずいて、物騒なものをしまえと言った。
  小娘の目から殺気が失せて、がっくりと肩を落とすように、匕首を鞘におさめて胸元にしまう。
 「わかった。すまなかった」
  力なくそれだけを言い残し小娘は家を出ようとする。宗志郎が言った。
 「おい待て。ご老体とおまえのつながりは?」
 「一緒に暮らした」
 「どういうことだ?」
 「八王子の山ん中。去年のいまごろ峠で山賊に襲われた。おっ父もおっ母も殺された。俺は山向こうの百姓だった。そんときジ様が助けてくれた」
  娘なのに俺と言う。
 「それから一緒に暮らしたと? 八王子の山の中で?」
 「そうだ。けどもうジ様はいない。帰る」
 「どこへ?」
 「山へ」
 「おいおい、いいから待て、いま何刻だと思ってる」
 「それでもいい、帰る」

  ぶっきらぼうな言い方をする娘。ひどく暗いと二人は感じた。
  宗志郎が言う。
 「帰るのはかまわんが、いっぺん上がれ。少し話を訊かせてほしい」
 「何だ? 言えば応える」
 「ジ様は何ゆえ山を出て、おまえはそれをどうやって知った? ジ様がここにいることを?」
 「わかるんだ。ジ様は夕べ、あの目を使った。そんとき俺は家にいたが、わかったんだ。それで出て後を追った」
 「じゃ何か、夕べ老爺がここにいるのをおまえはわかったと言うのか? 八王子の山にいて?」
 「そうだ。俺にはわかる」
  夕べ遅くにそれを知って、それから家を出て歩いて来たというのだろうか。八王子といっても山の奥からでは恐ろしく遠い。
  そしてまた夕べのうちに老爺は死んだ。なのにどうしてこの家だとわかったのか。それを問うと小娘は言う。
 「死んだってしばらくは念が残る」

  黒羽は呆然として宗志郎を見つめ、それから「一晩歩いてきたって言うのかい」と娘に訪ね、娘はそうだと目でうなずいた。
  宗志郎は言う。
 「わかった。まあともかく上がれ。茶でも飲んであったまれ」
 「いいのか?」
 「かまわん。おまえ寝てもいないだろう」
  小娘は唇をむっと噛んで黙りこくり、部屋へと上がった。ワラで編んだ深い履き物を履いている。宗志郎は黒羽に風呂の支度をさせながら、無造作に座り込む小娘のそばに座った。

 「ご老体とは二人で暮らしたか?」
 「そうだ」
 「では帰るとことてなかろうに? 金はあるのか? 食い物はどうする?」
 「俺はもう山猿。どうしたって生きてやる」
 「そうか。俺は宗志郎、それから黒羽。おまえの名は?」
 「栗」
 「うん? くり?」
 「山になる栗だ、イガイガの」
 「ああ、なるほど、お栗か。歳はいくつだ?」
 「明けて十六」
  いまは数えで十五。お光より二つも下の娘である。
 「さっきの問いが先だが、いいのか?」
 「何?」
 「ジ様は、ときどき感じる念に恐ろしいことが起こると言った。わしが止めねばえらいことになると言って家を出た」
  なるほど確かにそっちの問いが先だったと宗志郎は考えた。栗は賢い娘のようだったが、それよりも、この娘もまた念を感じる不思議な力を備えている。

 「お栗は、柳と葛を知っているか?」
 「知っているが知らん。話に聞くだけで見たこともない。どうせこうも訊くだろうから言っておく。ジ様は柳の念を感じると言うが、俺が感じるのはジ様の念だけ。一緒にいるうちにわかるようになったんだ。ジ様は言った。人を想えば通じるものだと」
  この栗にも同じ力が備わっているのだろうが、栗はその使い方を知らない。生まれ持った力も修練を積まなければ、その力は弱いのかもしれない。
  そのとき黒羽が戻ってきてそばに座った。
 「じきに沸くよ風呂」
  栗は無言でちょっと頭を下げる素振りをする。小娘を相手におかしな言葉だが、木訥(ぼくとつ)とした娘と言えばよかっただろうか。
 「なら俺も訊いていいか?」・・と、栗は二人を順に見た。
 「いいぞ、何だ?」
 「ジ様はなぜここに来た? 誰に何を言いに来た?」
  宗志郎はちょっと笑うと、隠さず言った。

 「夕べはここに鷹羽という女がいてな。この黒羽もそうだが、さっきおまえが尾けた荷車の三人ともが芸者でな」
 「嘘だ。あの者らはくノ一」
  宗志郎はそれにもうなずく。
 「そうだがしかし芸者なのさ。江戸で惨い事件が起きている。柳の念が娘らを狂わせる。それでご老体は止めようとしてここへ来た。我らとしてもそれを探っていたところ。娘らを地獄に堕とす者どもが許せない。しかし手がかりがまるでなかった。日頃は芸者の鷹羽と申すくノ一がこのあたりを探っていて、久鬼殿はそうと知って鷹羽に柳と葛のことを伝えに来た。疲れたと言って横になり、そのまま死んでしまったんだ」
  黙って聞いていた栗だったが、その言葉の真意を探るように黒羽へと目をやって、黒羽が深くうなずくと、栗が言った。
 「ではジ様が役に立ったんだな?」
  宗志郎は強くうなずき、そして言った。
 「お栗にもしも似たような力があるのなら我らに貸してはくれまいか? そのような力を持たぬ我らでは探りようがないからな。こうしている間にも次の事件が起こるやも知れぬ。そうなればまた若い娘が泣くことになる。おまえと同じような若い娘がだ。柳はきっと俺が斬る」

  栗は、まっすぐに宗志郎を見つめて言った。
 「わかった。ジ様もきっと喜ぶだろうし」
  黒羽が言った。
 「さ、湯へ行っといで。温まってくるんだよ」
 「うん」
  そして立ったまではよかったが、この家には脱衣がない。栗が戸惑う。
 「どこで脱ぐ?」
  黒羽はハッとし、声を上げて笑った。
 「ほら、だから言ったじゃないのさ、棟梁に言っとけって」
 「うむ、忘れてた」
  黒羽に背中をひっぱたかれる二人の姿に、栗ははじめてちょっと笑い、臆することなくさっさと脱いだ。山の暮らしで着物から出るところは日焼けしていたのだが、白く乳房もふくらんで女らしい体をしている。
  栗が風呂場へ消えると宗志郎が言う。
 「黒羽、先に艶辰へ。お栗は俺が連れていく」
  黒羽は先に家を出た。艶辰には紅羽と美神がいたのだったが、それにしても手薄。栗が風呂を出るのを待って、宗志郎は栗の背を押して外に出た。

  そのときそこそこいい刻限。艶辰では今宵、男芸者の二人がいないだけで女たちは皆顔を揃えていた。鷺羽鶴羽鷹羽の三人を除いて。
  お栗のことは一足先に戻った黒羽が伝え、美神は待ち構えていた。
 「ここはね、艶辰と言って芸者衆の置屋だよ。あたしが女将で美神と言う」
  お栗は目を見開いて美神を見つめる。なんと美しい女将だろうと。
  若いお艶さんの三人衆、それにお光は目をキラキラさせている。
  美神は言った。
 「おまえは最初からここのことを知って来た。出たって行き場がないのなら、あたしらと暮らせばいい。そこの宗さんと、ほかに二人、妙な男がいるけれど、そのほかみんな女なんだ」
  そうは言われてもいきなりではお栗は面食らう。
 「けど俺」
  美神は眉を上げて皆を見渡し、笑った。
 「俺と言うか? ふっふっふ、気に入った、娘のくせに俺とは傑作だ。けどね、お栗」
 「うん?」

 「うんじゃない、はいって応える!」

 「あ、はい?」
  キツく言われて驚くような丸い目が愛らしい。美神は笑って小首を傾げ、それからまたお栗に言った。
 「まあ、今日のところはいいけどね。これからはあたしって言うように。皆のことは姉様だよ、わかったね。おまえはいちばん歳下なんだ」
 「はい」・・とおそるおそる応えるお栗。
  黒羽が思いついたように言った。
 「あ、ところでおまえ夕餉は?」
  食べていないと首を振る。
 「喰ってないだって? そりゃいけない、お光!」
 「はい! いますぐ!」
  同じような年頃、同じような境遇の娘が来てくれてお光は嬉しくてならない。すっとんで厨に走り、残り物でどうにかして持ってくるだろう。

  美神が立って奥へと歩むと、後を追うように黒羽も立って、美神の背に歩み寄る。
 「すみません女将さん、勝手なことをしてしまって」
  そこで美神はちょっと笑い、そして言った。
 「艶辰を変える娘が増えただけ、いろんな意味でね」
  片手で黒羽をそっと抱き、頬にちょっと口づけをして、美神は奥へと去って行った。

  腹を空かした山猿が喰うように、お栗は握り飯と焼いたメザシに喰らいつく。そのときには皆が散り、火鉢の前にお光とお栗。お光はガツガツ喰らうお栗を見ていて、あの頃の自分を思い出す。
 「あたしスリだったんだ」
  握り飯を喰いながら、お栗は目だけでお光を見つめた。急に何を言い出すかと。
 「宗志郎様に救われたんだ。あのときはね」・・と夢見るように言うお光。
 「裸にされた? そりゃ見物だ、あっはっは」
  お栗は笑い方も図太かった。しかし、ひとしきり笑った後でお栗はちょっと哀しげな顔をする。
 「ジ様が死んだ。俺は独りになっちまった」
 「独りじゃないよ、ここのみんながいるじゃないか」
 「いていいのか、ほんとに?」
 「いいに決まってる。みんなも嬉しい。みんないろいろあった人たちばっかりなんだし、あたしだってそうだった。盗人なんだよあたし。それでもみんなが守ってくれる」
 「でもよ、俺にはちょいとって感じかな。女っぽいのってだめなんだ俺」
 「ふふふ、いまにわかる。明日になればわかるから。黒羽の姉様なんて、そこらのサンピンじゃ勝てないよ」
 「剣か?」
 「あたしいま教わってる」
  とそう言って、お光は着物をまくって尻を見せた。青痣だらけ。
  そしてそれを見たお栗が、あたしもやってみたいと眸の色を変えて言う。二親を山賊に殺された恨みを忘れない。強くなってたたき斬ってやりたい。

 「わかった。よろしくな、お光の姉様」
  黒目の底光るギラギラとした眼差しに、恐ろしいほど強い生気があふれているとお光は感じた。
  まずは食べ、それからお栗は、風呂上がりで結いを解いて流した髪をお光にちゃんと梳いてもらい、寝間着を与えられて横になる。男芸者の虎介情介の部屋を出て、はじめてもらった二人の部屋。夜具をのべ、横になったお栗に付き添うように、お光は己の布団に座って見つめていた。
 「眠い」
 「寝てないのかい?」
 「ジ様を探してな」
 「うん、いいから寝な」
 「おまえは・・じゃない、姉様は寝ないのか?」
 「あたしはまだ早い。やることあるし」
 「そうか」
  そして目を閉じたお栗だったが、その刹那寝息に変わって、動かなくなっている。妹ができたようなもの。髪を梳いて寝間着に着替えさせると歳なりの愛らしさ。
 「ぐっすり寝るんだよ、あたしと生きていこうね」
  そうささやいて、頬にちょっと手を当てて、お光はそっと部屋を出た。

  翌朝のお栗は、なにやら硬い木がぶつかり合う音で目を覚ます。そう言えばお光が剣を習っていると言っていた。見てみたい。飛び起きたお栗は寝間着を着替えようとしたのだったが、枕元にはきっちりたたまれた柿色の着物が置いてある。赤を少し渋くした若い娘が好む色。
  おそるおそる着てみるお栗。お光の着物だろうと思うのだが、己に似合うか気になった。これほど綺麗な着物を着たことがない。長い髪をまとめて縛り、ともかく庭を覗いてみようとしたときに、裏口あたりに男芸者の虎介情介の二人がいて女たちの洗い物を干していた。桜色の湯文字や襦袢。
 「おはよう」
  声をかけたのは虎介だったが、お栗は二人をまだ知らないし、まさか男だとも思っていない。ちょっと頭を下げただけで通り過ぎたお栗。着物が違うことで何となくだが恥ずかしい気がしてならない。
  そして外を覗いてみると空が青い。何もかもが輝いているとお栗は思った。

 「トォォーッ!」
  カンカーン!
  今朝の相手は黒羽。黒羽は木刀、お光は五尺棒。中腰に身を沈め、中段に構えた棒で突き込んで、払う敵の剣の力を受け流して棒を回し、踏み込みながら打ち込むお光。しかし黒羽の剣の敵ではなく、交わされて横へ回られ、またしても尻をバシンと打たれる。
 「ぎゃう! うむむ!」
  尻を押さえて転がって、のたうち回り、それでも立って棒を構える。お栗は目を丸くした。お光は強いと思えたからだ。
 「おぅ、お栗、眠れたか?」
 「はい、よく寝た」
 「うむ、よかった」
  宗志郎の声で黒羽もお光もお栗に気づき、黒羽がそれまでと言ってお光を止めた。
 「おまえ、剣をやってみたいとか?

 「え、あ、はい!」
  黒羽のあまりの強さに膝が震えるような感じがする。黒羽はお光に言いつけてお栗を着替えさせ、木綿生成りの忍び装束の姿となったお栗に、お光が持った五尺棒を持たせたのだ。黒羽は剣を持っていない。まずは構え方から。
  棒の中ほどを体の軸に合わせ、その前後に両手を分けて握り、中段に、ほぼ水平に構えるのが基本。棒先をやや上げて敵の胸を狙う感じ。
 「胸や腹が的が大きい。そこを狙って突き込むことだ」
  こうだよと言うように黒羽が構えを見せてやり、その棒をお栗に持たせて構えさせる。
 「足は斜め前と斜め後ろ。開きすぎず、膝を閉めて内股になる感じ」
 「はい」
 「もっと腰を落とすんだ。棒はやわらかく握り、当たるときに握り込む」
 「はい」
 「よし突け。敵がいると思って本気で突け」
 「はい!」

  そのときだった。何を思ったのか宗志郎が木刀を持ってお栗の前に立ちはだかった。
 「俺が敵だ、しくじると斬られると思ってかかってこい」
 「はい!」
  トォォーッ!
 「浅い! もっと深く突き込むんだ!」
 「はい!」
  トォォーッ!
 「続けて二度突く!」
 「はい!」
  トオォォーッ! トオォォーッ!

  徐々に気合いがのってくる。お栗の踏み込みに合わせて宗志郎は棒先を木刀で払いながら二歩引いて、一度元に押し戻し、ふたたび二度続けての突き。そのとき宗志郎は中段に構えた木刀で、二度目の突きを叩き落とす。
  セイヤァァーッ!
  宗志郎の気合い。カーンと鋭い音が響き、お栗の棒先が地べたを打つが、そのときガラ空きになった上体にこれではいけないと思ったのか、お栗は棒を握ったまま横にふっ飛んで転がって、立ちざまに宗志郎の胸をめがけて棒を構え、打ち込みの頃合いをはかるように棒先を細かく振るのだった。

  これには黒羽も紅羽も驚いた。天性の勘。動きも速く、なにより体が力んでいない。猫が転がり背を丸くして身構えるようなもの。宗志郎は「それまで」と言って木刀を降ろし、黒羽と横目を合わせて眉を上げた。
 「まさに猫よ、参ったぜ、はっはっは」
  たったいま棒の構えを習ったばかり。しかるにもう危うさを察して身を守る動きができている。野生の本能と言うしかないだろう。
  そのとき家の中の廊下に立って美神もまた目を細めて見つめていた。いい目をしている。ただしかし野獣の目だと美神は思う。憎しみのこもる二つの目。親を殺された恨みの炎が揺らいでいる。

 「恨みだ。しかしいまはそれでいい」
 「それでいい?」
 「それでいい。強くなろうと苦しみもがき、いつか虚しさに気づくだろう。恨みの剣の脆さを知って、ゆえに人は強くなる」
  お栗を黒羽に委ねて家へと上がり、宗志郎は美神の肩にそっと手を置き、奥へと消えた。
  トォォーッ!
 「何の! ハァァーイ!」
  突けど突けどかすりもしない。数度に一度は木刀で尻を打たれ、悲鳴を上げて転がるものの、その度、目つきが変わってくる。黒光りする深い眼差し。それは黒い炎が揺らめいているようで。
  すさまじい恨みだと黒羽も思う。
 「くそぉーっ! トォォーッ! トォォーッ!」
  泣きながらかかってくるお栗に、黒羽は末恐ろしいものを感じていた。お栗は強くなる。ゆえに黒羽は手加減しない。
 「交わされたときにガラ空きなんだ。交わされたと思ったら、そのまま前へ一歩飛べ。剣が届かぬ間合いを取って、それから振り向き構え直す」
 「はい!」
 「よし、そこまで」
 「はい! ありがとうございました!」

  お光は嬉しい。いつかあたしより強くなる。そう思えるから嬉しくてならないのだ。稽古がすんで肩を抱き、お光とお栗は並んで歩く。強くなるという決意ができたからか、お栗はすでに夕べのお栗ではなかった。
  稽古の後は汗を流す。冬であっても激しい稽古で汗びっしょり。艶辰の風呂場は広く、女四人が一緒に入れる。しかし紅羽黒羽の順序が先。今朝は鷺羽鶴羽鷹羽がいない。二人を先に、続いてお艶さんの三人娘、それから四人が一緒に入る。これから朝餉。下働きにはのんびりしている暇はない。
  虎介情介、それにお光とお栗なのだが、そのときになってお栗は目を丸くした。
 「驚いたかい。あたしら男なんだよ」
  そうとは知らずさっさと脱いでしまったお栗は恥ずかしい。なのにお光は平気でいて、それどころか裸同士で抱かれて笑っているのである。
 「さ、お栗もおいで、一緒に入ろ」
 「あ、え・・」 と声さえなくし、どうしていいかわからないお栗を見て三人が一緒になって笑っている。虎介情介の二人がそっと歩み寄り、耳許で言う。
 「体は男、けど心は女。女のお客さんでも男のお客さんでも、あたしらは女のまま。さ、おいで」
  そう言って前と後ろから抱かれたお栗。頬を赤くしてうつむいてしまっている。
 「あたし、あの・・」 と思わず言って、お栗は『俺』とは言えなくなっている己を感じた。

 「綺麗な乳だね」
 「綺麗な尻なのに痣だらけ」

  妙な二人に撫で回されて、お光がくすくす笑っていて、お栗はなぜか涙が溜まってしかたがなかった。
 「どうして泣く?」
 「ほんとよ、どうして?」
  前と後ろから抱き締められて、お栗は力が抜けて膝が震えた。お栗は男を知らない娘であった。

  男を知らない体でも人の心はよくわかる。抱かれるぬくもりにお栗は震えた。


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十三話 陰童子


  ひどく枯れ果て、思わず手を差しのべてやりたくなる老爺は、粗末な綿入れを脱ぐと、下にはやはり綿の入った作務衣のような着物を着ていた。冬の深夜で冷えたのか火鉢の焔に手をかざし、背を丸めて寒そうにしている。その姿はもはや人とは思えない。黄泉国から迷い込んだ亡霊のようでもある。
  鷹羽は茶を淹れて卓袱台に置いてやり、たたまれた夜具の中から掻巻布団を手にすると細く萎びた体にかけてやる。
 「すまぬな。わしなどなぜに生きておるのかわからぬ齢よ」
  独り言のようにそう言って赤い炭火に骨と皮となりはてた手をかざす。この老爺は、はたしていくつほどだろうと鷹羽は思った。八十やそこらではない気がする。人の生気のようなものが感じられない。

 「ふっふっふ、物の怪じゃと思うておろう? そなたごとき小娘の胸内など見透かせるというもの。このわしの中にも陰童子(いんどうし)の血が流れておるゆえな」
  これほどの年寄りでありながら、そばにいて怖気(おぞけ)のする者を見たことがない鷹羽。声も出せず見守っていた。
  老爺は言う。
 「陰童子とはすなわち物の怪。魔界に棲む化け物じゃと思えばよかろう。風間小太郎は兄のようなものじゃった」
 「なんと」・・と鷹羽は呻くように言うと今度こそ声を失って、炭火に照らされて赤い老爺の横顔を見つめていた。
  風間小太郎とはつまり風魔小太郎。百年以上も前に処刑された風魔忍びの総帥である。その小太郎と兄と言うは、すなわちこの老爺の歳が知れる。百十歳をこえているというのだろうか。

 「わしは久鬼(くき)と申してな。小太郎めが怖がって一党から追い払った男じゃよ。されどそのとき、わしの血はすでに風魔の女に注いであって、幾年(いくとせ)世を経て、やがて化け物を産んだということじゃ。にわかには信じられまい、のう伊賀の娘よ」
 「あたしのことをいかにして?」
 「陰童子というもの心などは見透かせる。言わずと知れた伊賀の鷹女(ようじょ)よ。違うかの? ふっふっふ」
  怖い。身の毛がよだつ。この老爺に隠し事は通じない。気が遠のいたほんの一瞬、あたしは丸裸にされてしまった。さしもの鷹羽も老爺の前では赤子も同然。
 「わしにはわかるのじゃ。わしの血を受け継ぐあの者が動いておる。柳(やな)とその娘の葛(かづら)じゃよ」
 「柳と葛?」
 「そうじゃ。母は化け物、されど娘にその力はそうはない。そなたに頼みたいことがある。柳は災いをもたらすだけの者。されどその娘は違う。我が血を絶やさぬよう守ってやってほしいのじゃ。このわしが若ければ立ちもするが、もはやいかん、柳には勝てぬ。柳は化け物、心してかかることじゃな」

 「柳は白き雪の森の淵におり、しかしいまは江戸におる」
 「白き雪の森とは?」
 「この街道の行く先よ。そなたらは散ったゆえに見落とした。この街道の行き先の美しき湖(うみ)が淵。家康が神となりてそこにおるわい」
 「ならば日光?」
  久鬼は骸骨と化した小さな顔を横に向けて鷹羽に微笑む。
  鷹羽は問うた。
 「柳と申す者、いまどこに?」
 「さてな、それはわからぬ。わしが柳を感ずれば柳もまたわしを感ずる。邪視を用いれば念の波動が伝わって知れるというもの。この道筋のどこかで柳の念を感じたゆえ、こうして出て来た。されどそこでぷつりと途絶えた」
  鷹羽はそれでも半信半疑。そのようなことがあるものかと探りの眸色で久鬼を見つめる。
 「して老師、老師ほどのお方が勝てぬ相手に我らはいかにして臨めばいいのかと?」
 「無あるいは止水のごとし。念を跳ね返すもまた念じゃが、念を持たぬもまた力よ。よいか小娘、きっと頼むぞ、娘だけは救ってやってほしいのじゃ」
  それだけを言うと久鬼は疲れたと言って、たたまれた夜具を見た。鷹羽は布団をのべてやって老爺を寝かせ、すぐそばに座って目を閉じた久鬼を見る。
  童のような寝顔。
 「寒くはござらぬか?」
 「少しな」
 「はい」
  鷹羽は布団をめくらないようそっと上げ、添い寝をして横たわる。なぜそうしたのか鷹羽にもわからなかった。百十余年を生きた神のような男だからか?

 「そして逝ったと?」
  美神の問いに鷹羽はちょっとうなずいて顔を伏せた。
  添い寝をして寝てやって、朝には冷たくなっていた。久鬼が逝った。最期の力を振り絞って思いを伝え、そして逝った。
  翌日、鷹羽は鷺羽鶴羽を集め、夕刻前には揃って艶辰に戻っていた。
  鷹羽の報告で今宵の座敷はすべて断り、皆が揃って話を聞いた。男芸者の二人、お艶さんの三人娘とお光はその場にいない。
  鷹羽が言う。
 「なにやらわけもわからぬうちに、あたしは爺様といるような心持ちになれていて心が静められていたんです。穏やかな死に顔でした」
  美神は静かにうなずき、そして皆を見渡した。
 「これで敵が知れたというもの。おそらくはその柳なる者の力を借りて何者かが画策したもの。それについては知れてはいない」
  そのとき宗志郎の右に置かれた青い鞘の真新しい剣に目をやり、品川あたりで東海道を張っていた鶴羽が言った。ハッとしたように剣を見た鶴羽の目に気づいた宗志郎が新しい剣へと目をやった。

 「そう言えば西国の者どもがちょっと」
  それがかかわりのあることなのか、どうなのか、鶴羽の声は大きくはなかった。
 「西国の商人どもの話を聞いたもので。その者らはこう申しておりました。『儲かりますな。なにしろ鉄の採れないところが、にわかな鉄の産地。売れて売れてなりませんなと」
  宗志郎が言う。
 「鉄の採れない鉄の産地と言ったのだな?」
  鶴羽はうなずき、そして応じた。
 「そのときは探るものでもなく聞き流してしまったのですが、おかしな話だと思ったもので」
  宗志郎は黒羽を横目に見、黒羽もまた宗志郎へと目をやった。
  宗志郎が誰にともなく言う。
 「鉄などないのに鉄の産地ということは、諸藩が下げ渡した古い武具がどこかに集まり、この刀のような新しい武具として生まれ変わる。弛んでいるのは外様よりも親藩そして譜代であり、そこから流れた古鉄でつくった優れた武具ができているとすれば、商人どもはどうすると思う?」
 「売り先を探すだろうね」
  黒羽が言って宗志郎はうなずいた。
 「世が乱れれば呑気な徳川方などはさておいて外様どもは武具を揃え直すようになるだろう。鉄がないのに鉄の産地となったところとすれば、売れるなら莫大な財ともなろう」
  美神を襲ったのは明らかにどこぞの藩に仕える武士だった。と言うことは、武器商人とどこぞの藩がつるんだ企て。紀州藩から将軍が迎えられ、尾張としては面白くない。また将軍吉宗の時代はこれからであり、乱すならいま。

 「黒羽、行くぞ」
  ふと出会った一刀が深みに行き着く鍵となるかもしれない。宗志郎は真新しい青鞘の剣を取り、黒羽と二人で立ち上がる。この刻限なら美鈴はまだやっている。話ぐらいは聞けるだろう。
  そしてそれと同時に、美神は鶴羽ら三人のくノ一に言った。
 「いま言ったあたりに絞って探る。鉄の流れと武具の動き。売るのは誰か。得をするのは誰かだよ」
  鶴羽はうなずき、鷹羽と鷺羽に目配せして座を立った。
  斜陽の下を歩きながら宗志郎は言う。
 「さりとて合戦までを望むわけではあるまい。世が乱れる気配でいい。商人どもの企みなら売れればよし。また背後にどこぞの藩が控えておるにせよ、倒幕を企てたと知れれば潰されるは必定」
 「あくまで商い?」
 「そういうことだ。したがって敵は紀州藩そのものには手を出さない。出入りの商人であらば武家に害はさしてなく、世を騒がせることはできるだろう。その柳とやら、隠れ家は日光と言ったな」
  黒羽はハッとする。
 「日光と言えば下野(栃木)、天領でもあり、下野佐倉藩はそれこそ御老中、戸田様の領地」
 「そういうことだ。下野に幕府の目が向けば戸田様を失脚に追い込むこともできるだろう。厳格厳正ゆえ、うとましく思う輩も多いゆえな」

  この剣は備前の刀工の手になるもの。宗志郎は腰の青鞘の刀に手をやって考えた。
  備前岡山と言えば豊臣家五大老の一人、宇喜多秀家からはじまる土地柄。その後、あの小早川秀秋を経て、池田家に受け継がれた外様の領地である。
  いまさら池田が謀反を企てるとも考えにくいが、これで少しは見えてきたと宗志郎は確信した。備前はもともと刀剣の産地であったのだが、太平の世が続いて刀剣の需要が減ったため備前の刀工は減る一方。藩としてもそうした者どもを守らなければ財政が苦しくなる。そこに古鉄を扱う商人どもがつけ入ったということか?
  さらに紀州家から出た八代将軍吉宗は、逼迫する幕府の財政をふまえて倹約へと舵を切る。尾張は違う。御三家筆頭の尾張徳川家。徳川の栄華を示そうと、何かにつけて倹約には異議を唱える考えだ。
  そう思うと、黒幕の背後にさらに黒幕がいるということも。武具までにおよぶ倹約は尾張としてはますます許しがたい。徳川の弱体化につながりかねないからであり、そうした吉宗の目論見を厳格厳正に行う老中の戸田が目障りなのだ。
  すべてに辻褄が合ってくると宗志郎は考えた。

  永代橋を渡って八丁堀の縁にある刀剣そのほか武具の店、美鈴。
  宗志郎と黒羽の二人が歩み寄ると、店じまいの刻限だったが、主が帳簿の書き込みのためか店先に座っていたのだった。
 「これはこれはお武家様、それに奥様も。何か不具合でもございましたか?」
  宗志郎は微笑んでそうじゃないと首を振った。
 「じつは拙者の知り合いに見せたところ、ぜひにも見たいと言うのだが、これと似たようなものはあるのかと思ってな」
  店主は嬉しそうな顔をしたが、いますぐではむずかしいと言う。
 「それほどのものとなりますれば出入りの問屋に探させねばなりませんし、おそらくは新たに打たせることになるものやと」
 「そうか、ならばやむをえまいな。こうしたものはそう多くはできぬものか? その備前の刀工とやらには?」
  主は微笑んでうなずいて言った。
 「まずもって鉄が足りませぬ。古い鉄は大坂あたりの鋼商(こうしょう)どもが集めて回っておるですが、なにぶん質が良いもので、備前だけでなく、京は山城、奈良なら大和、美濃もあれば相州(相模)もあり、そうした方々の刀の産地に買い付けられてしまうのですよ」
 「ふむ、左様か」
 「はい。さらには堺あたりの鉄砲鍛冶もありまするが、大坂あたりは天領でもあり御公儀の目もありますゆえ、そうそう多くは造れませぬ」
  幕府は刀剣ならともかくも鉄砲や大筒を厳しく取り締まっていて、個人での所有を禁じていた。藩として買い付けるには幕府の許しがないと勝手に調達するわけにはいかない。
  さらに店主は言った。
 「また、古鉄もあるときはありまするが、なくなるといつ出るとも知れぬもの。ときとして関ヶ原以来の古い大筒や鉄砲などが多く出回ることがあり、そうしたときには新たな剣も造られるものですが、ともかく古鉄はそう多くはありませぬ。まあ、とは申せ、ぜひにもとおっしゃっていただけるなら手を尽くして探してはみますが、おそらく新たに打たせることになるかと存じます」

  宗志郎は、さも残念という素振りを見せて、それとなく言った。
 「諸藩としても武具をあらいざらい吐き出すわけにもゆくまいしな」
 「左様でございますな。お武家様には失礼ながら、諸藩それぞれ懐具合もございますでしょうし、百出して百揃えるわけにもいかず、せいぜい新たに二十といった有様ゆえ、それではイザというとき足りませぬ。よって古い武具も備えておかねばなりませぬゆえ」
 「うむ、まさに」
  と、そこで店主はこう言った。
 「とは申せ、先ほども申し上げた刃物の産地では古鉄は奪い合い。武具と申しても古くなれば使い物にはなりませぬし、鉄砲など百出して二十を入れてもそれが新式鉄砲となれば話は別。関ヶ原以来の古い火縄銃などもはや鉄屑同然ですゆえな」
 「ほう、そんなものなのか?」
 「そんなものでございますとも。いかに鎖国とは申せ、そこはそれ、新たなものはどこぞから入ってくるもの。南蛮渡来の連発銃にいたっては一丁で古い銃の数丁分の働きをすると申しますし、古い大筒一門分の鉄で多くの新式銃が造れるもので」
 「なるほど。すると鍛冶どもを多く抱える藩にとっては金づるともなる?」
 「いかにも左様にございますが、それらのほとんどは西方の藩かと存じます」
  江戸の周辺、大阪の周辺と尾張の周辺、そこは天領(幕府の直轄統治)、親藩そして譜代で固めておいて、外様の大大名の多くは遠くに配してある。つまり鉄で得をするのは外様ということになるわけだ。
  参勤交代では国元が遠いほど移動に莫大が金がかかる。そうなると外様は苦しい。なりふり構わず財をなそうとするのもうなずける。
  宗志郎は黒羽にちょっと目配せをし、それから店主に言った。
 「よくわかった。急ぐものでもないゆえ折をみてあたっておいてくれればよい。ともかくもう一振りだ」
 「かしこまりましてございます」
  店主は腰を低くして若い侍とその奥方を送り出す。

  歩きながら宗志郎は言う。
 「新式銃か」
 「あり得る話です」
 「まさに。そうしたものを公儀に持たれ我が身が古式では話にならん。武器商人の思うツボ。世を騒がせればますます引き合いも多くなろう」
  仲むつまじき夫婦を気取ってそぞろ歩き、その頃暗くなってきて、二人はその足で宗志郎の小さな家へ向かうのだった。

  八丁堀の縁からそう遠くはない宗志郎の小さな家ではあったが、そぞろ歩いてやってくると闇が濃くなり、夜冷えの風が流れていて、家の中はひっそり冷えて静かであった。
  のべられたままの夜具にくるまり、久鬼と言う枯れきった老爺が穏やかに眠っている。宗志郎は黒羽と並んで掌を合わせ、安心して眠るような久鬼を見つめた。
 「まさに仙人のごとき穏やかな顔だ」
 「心残りを鷹に伝え、最期は鷹に抱かれて逝ってしまった。さぞ安堵したことでしょう」
  それにしても、いまから百十五年も前に死んだ風魔小太郎を兄のようなものと言った、この老爺。それだけの歳月を生きていただけですでに仙人のようなものである。気づいたら死んでいた。たまらなくて抱いてやったと鷹羽は言った。
  身内のような気がしたのだろうと宗志郎は思う。

  とそこへ、その鷹羽と鶴羽鷺羽の二人がやってくる。夜陰に乗じて屍を運び出す。どこぞの寺で葬ってやりたいと考えた。老爺を運び出してより、三人のくノ一には柳を追う役目がある。
  老爺の亡骸を一目見た鷺羽が言った。
 「眠っているよう」
  皆がうなずき、宗志郎は言った。
 「こなたのおかげよ。もやもやとしたものがつながった。我らで弔ってやろうじゃないか。百十余年を生きるとは、なんと見事な男であろうのう」
  三人は一様にうなずいて、やさしい娘の目を向けた。いまを生きるすべての忍びの父のような老爺である。
 「では、あたしらはこれで」・・と鶴羽が言うと、黒羽が応じた。
 「ご老体の念が消えたと悟った柳はいずれ動く。藩として表立ってかかわるわけはなかろうから、出入りの商人をあたることだよ」
  三人はうなずいて、布団にくるんだ久鬼の亡骸を運び出し、荷車に載せて去っていく。

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十二話 鉄のゆくえ


「槍を錆びさせるとは武家も堕ちたものだ」
  宗志郎は小声で言って闇の虚空を見つめていた。
  翌日の艶辰の夜。宗志郎のために支度された部屋に独り。忍び寄る女の気配を感じ、宗志郎はそんな考えを中断した。
  襖がそっと開いて灰鈍色(はいにびいろ)の寝間着姿の黒羽が入ってくる。今宵の黒羽は少し帰りが遅くなり、湯から出たところであった。黒羽は静かな闇の中に横たわる末様の隣りへ音もなく寄り添った。
 「温かい」
 「いま湯から」
 「うむ? そうじゃない、この艶辰のこと。夕べも鷹羽が泣いていた。女将さんに羽をもらったなと言うと、そっと背を向けて泣いているようだった」
 「抱いてやればよかったのに」
 「それでいいのか?」
  そっと抱かれ、背を撫でられて黒羽はちょっと笑うのだった。
 「あたしを気にして?」
  末様は応えない。何かを言えば無粋というもの。

 「しかし」・・と言って宗志郎は、女の柔肌とはまったく逆にある武士の武器を考えた。槍や鉄砲を錆びさせる武士の堕落。太平の世が弛めてしまった武士の心。それは外様よりも親藩や譜代に顕著。徳川の世が定まって外様どもは諦めの境地。そしてそれが徳川方の備えを増して弛めてしまった。
  宗志郎は言う。
 「庭番の世か」
 「忍びなど無用の長物」
 「まあそうだ。鷹羽が言っておったよ、仕えた主家では蔵で槍が錆びていると」
 「今度のことも、そのへんに不満を持つ者どもの仕業かも」
 「あるいはそうかも知れぬ。刀が折れると嘆いておった」
 「刀が折れる? どなたが?」
 「城中の者どもさ」
 「それもまた太平の世の移ろいかと」
  黒羽は抱きすがる末様の背をそっと撫で、その手が降りて引き締まった男の尻をそろそろ撫でる。

  刀というもの、鋼(はがね)でつくる。しかし慶長の頃というから江戸幕府ができる頃にその製法が変わってしまった。製鉄の技術が進み、混じりものの少ない刀の地金ができるようになると、鋼は硬度を増して切れる刃となっていく。
  けれども硬くて切れる分、折れやすくなってしまい、当時の刀鍛冶は粘りのある鋼を抱き合わせるなど工夫を凝らして折れにくい刀をつくったものだ。
  しかるに太平の世が続き、刀を持つ意味がなくなると技能に優れた刀鍛冶も減っていき、未熟な刀工がつくった刀が折れやすくなってしまったのだ。
  慶長以前の古い刀を『古刀』と言い、それ以降を『新刀』と言って区別している。古刀は鋼に不純物が多い分、粘りがあって折れにくく、またその頃は優れた刀工も多くいた。これは鉄すべてに言えること。したがって古い武器や古釘、農具など、古い鉄が高価で取り引きされたものである。

  しかしこのとき、宗志郎も黒羽も、話の成り行きでそこへいったに過ぎなかった。

  闇の中で抱き合って目を見つめ、唇を重ねていく。末様の手があやめの寝間着に忍び込み、あやめの手が末様の下穿きに忍び込む。
  二人横寝になったまま、あやめはくるりと後ろを向かされ、背越しに抱かれて白い乳房を愛される。
 「ぁぁ末様」
  乳房を愛され、うなじにそっと男の唇が這い、黒羽はふるふる震えだす。
  乳房をくるんだ片手が滑り、鳥肌の騒ぐ素肌を撫で降りて、性の飾り毛を撫でられて指先が女の谷底へと降りていく。
 「く・・」
  声を噛むあやめ。腰を張って尻の谷を強く勃つ末様に押しつけて、黒羽の女体がしなやかに反り返る。
  あやめの花はおびただしく蜜を流し、寝間着の尻がめくられて黒羽は手を噛み声を殺す。熱い熱い強張りが尻の谷越しに性の花を蹂躙し、ぬむりぬむりと黒羽を犯す。
 「んっ・・くぅ」
  どこか遠くへ行ってみたい。淫らな声を吼え散らして達してみたい。
 「あやめ」
 「末様、あぁぁ末様ぁ」 と甘く喘ぎ、そして黒羽は言う。
 「鷹のことも可愛がってやって。あたしとおんなじ。鷹だって末様が好きなんだから」
  馬鹿なことを言うんじゃないと言うような鋭い突き上げが女体の奥底までをも貫いた。
 「ぁむぅ!」
  白い尻が振り立てられて黒羽は夢の空へと羽ばたいた。

  そしてその頃、美神の寝所。
  今宵も座敷でさまざまあったお艶さんの三人娘が、一糸まとわぬ美神の裸身に群がっていた。達しても達しても次々に襲う性の高み。美神は女体のすべてを与え、泣いているかのようにとろんと眸を潤ませているのだった。
  気が遠くなる高みに耐えて己を捧げ、それからも美介彩介恋介の白い腿を開かせきって、それぞれの花蜜を吸い取るように舐めてやる。
  四人の裸身が絡み合い、そのまま眠りに落ちていく。そうして眠って翌朝になると、座敷であったすべてのことが忘れられ、若い三人の女たちは美神によって洗われる己を感じて生娘の心に戻れるのだった。
  艶辰の中でたった一人、お光だけは、美神に尽くすだけで褒美をもらったことがない。お光には男芸者の二人をあてがう。お光の若い花までは犯さないというだけの男女の肌合わせ。お光にはそれがいいと考えた美神であった。
  お光にだけは艶辰の役目を背負わせたくないのだが、そのお光は剣の稽古に励んでいる。心苦しい美神だった。

  翌日もまた冬晴れで江戸の空に雲がない。それなりに寒くても風がなく、陽射しが冬を春へと押しやっているようだ。
  末様とあやめは永代橋を渡って歩き、八丁堀の縁まで来た。そのときそこに黒羽も知らない刀剣の店ができている。いつの間に。
 「こんなところに刀。ここは確か米屋だったと思うのですが」
  刀剣『美鈴(みすず)』という板焼きの刻印のある看板が上がっていて、その店の少し奥に刀や匕首が並べられていたのだった。その中の白木の鞘におさめられた一刀が目についた宗志郎。いい刀は仕込み杖のようにして置かれてあって鞘や柄は刃の保護のため。鞘や鍔は別に好みを選んで刀に仕立てるものである。
 「これはいらっしゃいませ、お武家様、奥様も」
  店の主人らしい四十年配の男が腰を低くして言う。
  奥様と呼ばれた黒羽は恥ずかしい。一歩退いて店の中を見渡していた。
  このとき宗志郎は普段着の着流しだったが一見して凜々しい武士。片やの妻も、あたりまえの姿でも品がある。これは上客と店主は思ったのかもしれなかった。

  刀剣の美鈴はできたばかり。店の中に真新しい木の香りが漂っている。
  宗志郎は白木の鞘におさまった一刀を取り上げた。横一文字に拝み取り、そっと刃を抜いてみる。
 「これは」・・と言ったきり声をなくした宗志郎。そばにいて覗き込む黒羽の目もキラと光る。

  その刃文(はもん)は、鎌倉時代を思わせる華やかな重花丁字(じゅうかちょうじ)と呼ばれるもので、鍛え肌は杢目(もくめ)。鍛え肌とは刀工が鉄を叩いて整形するときにできる地金そのものに浮き立つ模様のことである。
 「ふうむ、見事なものだ」
  店主は腰を低くして笑う。
 「さすがでございますよ、お武家様は。それほどのものは滅多にそこらにございません。それは備前(岡山あたり)の刀工、定晴(さだはる)の手になるもの。歳は若くしてなかなかの腕を持つと評判なのでございますよ」
 「そうか定晴と言うか。うむ、これは見事だ。これほどのものは滅多になかろう」
  鞘を黒羽に預けておいて、宗志郎は剣を構え、その重さの配分もこれよりないというほど素晴らしい。
 「していかほど?」
 「三十と申したいところ、お武家様はお目が高く、お刀にふさわしき主かと。よろしければ二十でいかが? 鞘と鍔、それに小柄(こづか)もともにということで」
  これで二十両は安い。一両の価値はモノによっても変わるものだが、およそ十数万円だと思えばいい。つまり三百万円弱となるわけだ。これほどの刀であれば三十してしかるべき。そこらの武士の刀はせいぜい数両で求められるものであり、それらとは格が違う。

  店主は言った。
 「それは鍛え直しの一振りでして、古鉄(こてつ)の薙刀二柄(なぎなたふたえ)を刀の一振りに鍛え直したもの。ゆえにお安くはできませぬ。まず折れもせず刃こぼれもせず、無名ながら胸を張っておすすめできる名刀かと存じます」
  黒羽もそう感じて刃を見つめた。これは古刀の名刀にも匹敵する見事な一振り。宗志郎様にこそふさわしいと思って見ていた。
  しかし安くても高い。
  宗志郎は言う。つい昨夜考えたばかりのことである。
 「古鉄の薙刀を鍛え直すと?」
 「左様でございますとも。西方のある藩が武具の入れ替えのため下げ渡した薙刀で鍛え直した一振りで。物の価値と申しますが、失礼ながらお武家様方は錆びた古鉄とすぐにそうして見放してしまわれる」
 「ううむ、左様か」
  このとき宗志郎の中にもやもやとした思いがあった。そうやって捨てられる刀剣がどれほどあるのか。そしてそれらが、いまの刀剣よりも優れた刀となって蘇る。それをいったい誰が手にするのだろうと。
  しかしこのときもまだ、ふと思ったまでのこと。
  見事な刃に目を細め、そっと鞘におさめる宗志郎。宗志郎の腰にあるいまの刀も新刀。それはそれで見事なものだが、くらべるとやはり格が違うと黒羽は思った。

  黒羽は言った。
 「ではそれを青い鞘に仕立てておくれ」
 「青でございますか?」
 「青が好きです、空の色」
  宗志郎は黒羽を横目にするのだったが、「それはあたしが」と言うように黒羽はちょっとうなずいた。
  店主は言う。
 「かしこまりましてございます。では十日ほどお暇をいただいて、さっそく名工に委ねましょう」
  鞘や柄(つか)には、それを専門とする職人がいるものだ。
 「今日のところはこれで」と言って、黒羽は手付けの三両を手渡した。
  店を出てから末様が言う。
 「確かにあれは欲しい刀、金は俺が用意する」
 「いえ、それはあたしが」
  末様は微笑んでうなずくと黒羽の肩をそっと抱いた。金は俺が用意する。あやめの心が嬉しかった。

  伊豆から戻って数日また数日。師走となっても暖かな日々が続いている。
  あれから鷺羽鶴羽鷹羽のくノ一三人は艶辰に戻っていない。芸者として以外の出入りが目立つと目をつけられることにもなりかねない。忍びとはそうしたもので、役目が与えられると何かをつかむまでは戻って来ない。
  宗志郎の末様ぶりも板についてきていた。艶辰にいるとき侍言葉が出なくなる。下々という言葉があるが宗志郎はそれを嫌う。そうした末様の人柄が界隈でも話の種になっている。黒羽と出かけることが多く、黒羽のいい人らしいと噂になった。

  朝の稽古。真新しかった木綿の生成りの忍び装束が着慣れてこなれ、お光にはよく似合う。鷺羽鶴羽鷹羽の三人がいなくなって、稽古のほとんどは剣か棒。今朝は紅羽が棒を握って対峙する。長さ五尺ほどの八角棒で、それはちょうど僧が持つ錫杖(しゃくじょう)によく似ていた。
 「もっと腰を沈めてやわらかく」
 「はい!」
  棒を槍のように突き込むが、そんなものは紅羽の敵ではない。あしらわれ、横をすり抜けられて尻を打たれる。ぎゃっと悲鳴を上げてお光は転がり、尻をおさえてのたうっている。

  末様が座って見守り、今朝はその両隣りに黒羽と美神が座っていた。男芸者の二人とお艶さんの三人娘はこれほど激しい稽古はできない。色が売り。体に傷を残すわけにはいかないからだ。
  そんな中で一人だけ、下働きのお光であれば厳しく鍛えていける。お光もまた眸の色が違う。死に物狂いで立ち向かう。
  末様が小声で言った。
 「スジがいい」
  美神が言う。
 「もう少し早けりゃね」
  お光は年が明けると数えで十八。修行をはじめるには少し遅い。それがわかっているからお光は懸命にやっている。
  黒羽は目を細めて見つめている。日々の鍛錬で甘えが消えて、きっといい芸者になると思えたからだ。三味線も踊りも稽古は厳しい。箸ひとつ使うにしてもできなければ話にならない。お光はここへ来たとき箸さえまともに使えなかった娘である。

  お光の気合い。
 「トリャァァーッ!」
  カン、カーン! 乾いた樫の棒が交錯していい音を響かせる。打ち込みが鋭くなった。お光はすばやく体をさばく。猫のようだと黒羽は感じた。
 「まだまだ!」
  バシィィと、したたかに尻を打たれ、棒を取り落として尻を押さえ、跳ね回るお光。
 「もう一本!」
 「よし、かかっておいで!」
  カン、カン、カーン! 突きを跳ねられ、しかし棒を回して地から振り上げ、また回して天から振り降ろす。勘がいい。いっぱしの型になりつつあると末様は微笑んだ。
  しかしまたしても尻を打たれて転がって、逆エビに反り返ってじたばたもがく。
 泣きながらの稽古であった。
 「痛いのはあたりまえ! 棒を放すな! 諦めてどうするか!」
 「はいぃ!」
  地べたを這うようにして棒に取り付き、立ち上がって構えるお光。
 「よし、それまでにしておこう」
  紅羽がやさしい姉様に戻るとき。
 「はい! ありがとうございました!」
 「だいぶいいよ。着替えて姉様たちを手伝うんだ」
 「はい」
  笑って深く一礼するお光を見ていて、美神は震える思いがする。こんな娘を手籠めにする輩が許せない。敵が禿だろうと生かしてはおかない!

  その日、宗志郎は一度は城に登ったものの早々に引き上げて、川向こうの小さな家を覗き、甘い菓子の包みを置いて、艶辰に帰り着く。夜となって冷えてきていた。黒羽も紅羽も、お艶さんの三人娘も今宵はいない。男芸者の二人と美神がいて、それに加えて宗志郎。それからもちろんお光も残る。
  美神は「さてお光」と言って手招きしながら立ち上がり、自らの寝所へ向かう。
  お光に布団をのべさせておき、美神は一糸まとわぬ姿となって横になる。お光は声もなく、あまりに美しい裸身を見つめる。
 「さあ、脱いでおいで」
 「はい女将さん」
  裸になったお光の尻と言わず背と言わず、激しい稽古の青い痣が残っていて、美神は、ふわりとやさしい乳房の谷に抱いてやり、痛いはずの背や尻を撫でてやる。
 「おまえはよくやってるね、いい子になったよ」
 「はい。嬉しい女将さん」
 「うんうん。さ、あたしを可愛がっておくれ」
 「え・・」

  抱かれて口づけ。それから美神はうつぶせに一度寝て、腰を上げ、犬のように這っておいて、すべてを晒した。
 「よく舐めて、あたしが達するところまで」
 「女将さん、あたし嬉しい、ぅぅぅ」
  泣いてしまうお光。
 「ふふふ、しょうがない子、いいわ、おいで」
  美神に手を取られて下に寝かされ、若い乳房を揉まれて乳首を吸われる。
 「あぁん女将さん、震えますぅ」
  膝を立てさせ、濡れる花をひろげておいて、美神は逆さにお光をまたぎ、甘く濡れる美神の花をお光の口許へと押しつけていく。そしてそうしながらお光の花園へと顔を埋めて舐めやる。
 「あぅ、女将さん、そんな」 と喘ぎながら、お光の裸身が反り返ってふるふる震える。けれどもすぐに弾かれたように顔を上げ、突きつけられる美神の花へと舌をのばして吸い付くように顔を埋める。
 「んふぅ! あぁぁ心地いい、お光は可愛い、可愛いんだよ、お光」
 「はい、ありがとうございます。あぁん女将さん、あたしも震える。はぁぁ!」

  お光はその夜、美神の夜具で眠りについた。
  そしてちょうどそんなとき、川向こうの宗志郎の小さな家に柿茶色の忍び装束を着た鷹羽が戻る。探れど探れど、これといったものがない。敵はいまのところ動いていない。次の餌食が出る前に。そうは思ってもどうすることもできなかった。童を連れた母親らしき女などそこらじゅうにいるのだから。
  鷹羽は、美介が聞き込んだ旅籠のある奥州街道沿いを張り、鷺羽は紀州屋敷に近い甲州街道への道筋、鶴羽は日本橋から南にあたる東海道の道筋を。
  そうやって手分けしても、たった三人ではどうにもならない。
  今宵もまた手ぶらで戻り、しかし卓袱台に置かれた菓子の包みに微笑んで、まずは風呂。あがって寝間着に着替えたときだった。そのとき刻限は、暁の九つ(午前零時半)を過ぎていた。

  茶を淹れて卓袱台に置き、菓子の包みに手をかけようとした、そのとき、小さな家の戸口に忍び寄る気配を察し、鷹羽は跳ねて転がって黒鞘の忍び刀に手をかけた。

 「誰か?」
 「開けてみよ、敵ではない」
  ひどく枯れた老爺の声。しかしいま時分、そんな老爺がなぜ?
  刀を手に戸口に潜んで気配を探るが、気配は一人。
 「開けよと申しておるではないか。探りの先にあるものを持って来てやったのじゃぞ」
 「何・・」
  敵ではなさそうだと感じたものの、こちらの探りを見透かされてしまっている。
  相手は老爺。開けてもし敵なら斬る。鷹羽はそう思い、そっと引き戸を開けてやる。
  と、そこに、身の丈五尺(およそ150センチ)そこそこの枯れ木のような老爺が立っている。まっ白な垂髪、干し柿のような顔の中に落ちくぼんだ目が二つ。そしてその手に仙人が持つような螺旋竹の杖を持っている。
  老爺はちょっと微笑むと戸口をくぐって中に入り、後ろ手で引き戸を閉めた。
 「禿を伴う女では探せど探せどあてなきこと」
 「そなたは何者か?」
 「見ての通りの枯れ木じゃよ。このわしが何を言おうと信じまい。邪視とはこうしたものよ」

  老爺が上目使いにキッと目を上げると、どうしたことかその刹那、鷹羽の体から力が抜けて手にした刀を取り落とす。呆然と見つめたまま身じろぎひとつできなくなった。
 「脱ぐがよい」
 「・・・」
  寝間着の帯を解いて肩から落とすと下は素裸。白く美しい女の裸身を隠すでもなく、ただただ呆けたように立つ鷹羽。
 「ふむ!」・・と老爺が気合いを込めて唸ると、またその刹那、鷹羽に正気が戻っていた。
 「ああ! あぁぁそんな・・」
  なぜ素裸になっているのか。鷹羽は白い乳房を掻き抱いて板床にへたり崩れた。ほんの一瞬、心が消えた。そうとしか思えない。
 「どうじゃな、信じようとするか、否か?」
  鷹羽は幾度もうなずいて、乳房を抱いたままで言う。
 「では、あなた様も風魔? もしや悟郎太から?」
 「悟郎太と? ふっふっふ、そのような者は知らぬわ。まあよい、寝間着を着なされ。すまぬことをしたな」
 「あ、はい・・」
  身の毛もよだつ恐ろしい技。剣などではとても勝てないと慄然とする鷹羽。


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十一話 美しき裸身


  美神の姿は神々しいまでに美しい。四十二歳。まさかと思わせる若さに悟郎太の目は吸い寄せられて目を切れない。
 「どうしたんだい、女房がいるからかい?」
 「あれは女房じゃねえ。なもん、いねえさ」

  悟郎太はちょっと笑うと美神の裸身を見つめながら脱いでいく。毛の中にあるような顔。全身毛だらけ。まさしく野獣の体躯を持つ風魔の猛者。美神は、そうした体躯が晒されたとき、すでに勃つ悟郎太の武器に微笑みながら、風が流すように寄り添うと、そっと抱かれ、抱かれながらますますいきり勃つ悟郎太に手をやって撫でるように可愛がる。
  最前の話の合間、「そこの女将のように魂を抜かれる女はいるものさ」と言ってまっすぐ見つめてくれた野獣の目に、かすかな諦めのような心根が透けていた。想ったところで高みの花。そんなような諦めであったのだろう。
  そしてそう感じたとたん、たまらなく可愛く思えてならかなった。あたしの女心が揺れた。揺れた心に嘘はつかない。それは男芸者の二人にも、お艶さんの三人娘にも、ずっとそうして教えてきた人の心。

  冬。裸身では寒く、悟郎太は背を押して湯へと誘う。自然のままの岩風呂はところによって背丈よりも深く、そちらに歩もうとすると手を引かれてとめられる。
  透き通った山の湯が陽光を散らしてきらきら輝く。岩を背にどっかと体を投げ出した悟郎太の上に浮くように、美神は男に抱かれていた。
  しかし悟郎太は抱くだけで手を出さない。それもまた男らしいけじめ。見かけの粗暴とはまるで違う筋の通し方も美神を震わせるものだった。
  抱かれていて目を見つめ合い、唇を求めていったのは美神のほう。そっと触れる静かな口づけが、いっそう美神を熱くする。
  しばし抱かれて男と女の凪を楽しみ、それから美神は湯を立って、すべすべとした岩肌に両手をついて悟郎太に背を向けた。膝の少し上ほどまでが湯に浸かり、白く熟れた二つの甘い桃が晒される。美神は腿を弛めて尻を上げた。「女将の名は?」
 「美神。美しき神と書く」
 「うむ、まさに」
  悟郎太は湯に沈み、美神の尻の下から毛だらけの顔を密やかな美花に寄せていく。

 「ぅん、くう、あぅ」

  女陰を舐め上げ、ますます濡れる花弁を吸い立てて、ザッと湯を乱す気配がし、強くなった悟郎太の切っ先が濡れる花にあてがわれた。美神はさらに尻を差し上げ、白い歯で唇を噛み、背を反らせて犬のように上を向く。
 「悟郎太、いい・・すごくいい・・」
 「参った。もはや頭も上がらぬよ」
  豊かに張って、突き上げのたびに揺れる乳房を揉みしだかれ、美神もまた白き獣と化していく。
  声は噛む。噛みきれなくて喘ぎとなって、声の代わりにぶるぶる震える尻肉を振り立てて、美神は達し、しかしそのときもまた悟郎太は女陰から去っていく。
  美神は振り向き、むしゃぶりつくように顔をくるんで口づけをすると、そのまま湯に落ち込んで、そそり勃つ悟郎太をほおばった。
 「ふふふ参った、はじめて知る女よ美神は」
  大きな男尻を抱きながら、吐き気をこらえて喉へと吸い込む美神。
 「ふぅ、むぅ、むうう!」
  男竿に漲る力が白き精を吐き出した。美神は喉を鳴らして飲み込みながら、それでも萎えない悟郎太をむしゃぶり続けた。

  宗志郎は脱ぎ去った。そのとき二人がそばにいたが、黒羽でも鷹羽でもなく、虎介そして情介だった。見た目は女。ここの者らも疑ってはいない。しかしそんなことはどうでもよかった。
  虎も情も首から下は男。なのにどちらも勃ててしまって恥ずかしげに手で隠す。
 「なぜ隠す?」
 「嬉しくて。あたしらを蔑まない」
 「蔑む? おまえたちもいい女だよ」
 「ほんと? ほんとのこと?」
  宗志郎は二人を両手に押しやって、湯に身を横たえて、両側から女二人に抱かれていた。いまもし誰かがやってきても、後ろからだとそうとしか思えなかったことだろう。
  歳は情介より下でも艶辰に長い虎介が言った。
 「庵主様もそう。こういう役目がたまにある。姉様たちが人を斬る。そうすると姉様たちに体を開いて抱いてやり、苦しみを吸い取って、けどそれだけじゃないんです」
 「とは?」
 「斬り捨てた相手のために掌を合わせていらっしゃる。あのお方は観音様。だからあたしら庵主様とお呼びする。あたしらだって抱いてくれ、あたしらは庵主様が達するまで導いて差し上げる。あたしらは震えてる。ちょっと触れていただくだけで達してしまうの。庵主様は笑われて、それがすごく楽しそう」
 「そうか、おまえたちも嬉しいな」
  情介が言う。
 「嬉しい。でもそれはあたしらだけじゃないんです。誰かが沈むと庵主様は寝所に呼ばれ、よしよしって抱いてやり」
 「うむ」
  宗志郎は二人の勃つものを両手にくるむと、同じように二人の手がやってくるのを許してやって、三人抱き合ったまま目を閉じた。

 「禿(かむろ)だなんて思いたくはないけれど」
  黒羽の横の夜具に眠る美神が言った。綺麗にされた部屋であっても、悟郎太ら、男の匂いが漂っている。
  禿は童。童を斬れというのか。
 「もしそうなら吉原あたり」
  黒羽が言った。
  遊女となるため修行をする年端もいかない娘らもまた禿。黒髪を結わず、おかっぱ頭にするから禿。そのような者を隠すなら遊郭が好都合なのだが、童が敵となるなら、これは辛い役目となる。
  紅羽はもちろん鷺羽鶴羽鷹羽の三人もそこにいてそんな声を聞いていた。
  美神は言う。
 「鷺鶴鷹は一足先に戻っておくれ。そのへん探ってみるんだね。宗さんの家を使えばいいだろう」
  江戸までまた三日。しかし忍びの脚なら二日で戻れ、しかも宗志郎の家があるから隠れて動ける。

  その頃また別の家で。
  そこは狭く、宗志郎のほか六人が雑魚寝のありさま。ところがお光がいちばん近く、甘えたがって抱きついてくる。眠っていながら抱きついて振り払うのも可哀想。宗志郎はそっと背中を撫でてやる。
  からくりが見えはじめた。そうした手で拐かした娘らを手なずけて家へと戻し、
あるとき何かの合図を送って狂わせる。しかし誰が、何のために?
  紀州より来た吉宗が将軍となって間もないいま、江戸を騒がせ、紀州と尾張をにらみ合わせる。将軍家の権威は失墜し、同時に徳川の家が揺れる。
  そうなると何が起こるか? 得をするのは誰なのか? 宗志郎はそこを考えていたのだった。
 「嫌ぁぁ・・もう嫌ぁぁ・・」
  寝言。すがりつく手。このお光は十七歳。この子と同じような娘が狙われ、捕らわれたとき呆けていたとしても死罪は免れない。怒りがこみ上げてくる。

  そしてまた別の家では、悟郎太そのほか、むさ苦しい雑魚寝となっていた。悟郎太は眠れない。
 「参ったぜ・・ふふふ」
 「どうしやした?」
  隣りにいた手下の一人が目を開けた。男だらけで寝苦しい。
 「あの女将よ」
 「へえ、なんともいい女で」
 「この俺に挑んできやがった」
 「ほう? 刀で?」
 「馬鹿かてめえは・・けっ・・とっとと寝やがれ」
  悟郎太は夢のような美神の裸身が忘れられない。
  あれは女の勝負だと考えた。身を賭した女の勝負。この俺を男と見込んで仕掛けてきた本気の勝負。
  あの者どもは命がけで働く輩。己の想いに嘘はつけない。そうした思いだったのだろうと考える。
 「和尚か・・まだ生きてやがったか化け物め」
 「ほっといていいんですかい、親みてえなもんでしょう」
 「まあな、かれこれ三年会ってねえ」
  悟郎太はいま三十四になろうとした。江戸に見切りをつけてこの地に戻ったのは数年前。それから二度ほど寺を訪ね、その最後が三年ほども前のこと。江戸にいる頃あの寺を出たり入ったり。思えばふらふら生きてきた。
 「それもまた夢のごとく・・か」
 「へっへっへ、フラれやしたか?」
 「てめえ! 絞め殺すぞ、この野郎!」

  伊豆への旅を終えて戻ったとき、艶辰はひっそりと静まって、戻ったというよりも訪ねてきたといった心持ちがした美神だった。鷺羽鶴羽鷹羽の三人はいなかった。ほんの一足、昨日の夜には戻ったはずだが、たった一日でできることは多くない。
  そしてその頃、永代橋のたもとで皆と別れた宗志郎一人だけが小さな家に帰り着く。夕刻前の刻限でじきに暗くなるというとき。そちらにも鷺羽鶴羽鷹羽の姿はなかったのだが。
  夜も更けて、湯船に浸かる頃になり、妙な気配が忍び込む。鷹羽であった。夜陰になじむ柿茶色の忍び装束。頭巾をした姿であったのだが、それは風呂場の外の景色。鷹羽は床下から畳を上げて戻っていた。
 「宗さん、鷹です」
  風呂の板戸越しに声がする。
 「うむ。戸口に気配なし。どっから入った?」
 「ふふふ床下から」
 「ふむ。さらにまた、どうしてこうした頃合いに」
 「ふふふ、黒羽の姉さんに斬られそう」
 「ほかの二人とここにいたのか?」
 「いえ散っており。我らは忍び、固まるヘマはいたしません」

  そして風呂から出てみると鷹羽は着替え、町女の姿だったのだが、黒髪はまとめて横に流していた。たたまれた忍び装束の上に妙なものが置いてある。
 「なるほどな、そうしたものであったのか」
 「え? 何が?」
 「そいつだよ。人吉とか申す口入れ屋が襲われたとき、幾筋もの引っ掻き傷がある屍があったそうだが、これでわかった」
 「ふふふ、だからあたしは鷹と呼ばれる」
  忍び装束の上にあったもの。それは鉄の板の先が三つに分かれた鷹の爪のような武器。両手の手首にはめ込んで握りを持つと、握り込んだ拳の先に三本の鋭い爪が備わるもの。鷹羽は言った。
 「鷹の爪と言ってね、いまは塗ってないけど先に毒を塗ったりもする。敵の剣も受けられれば、ちょいと引っ掻いてやるだけで泡を噴いて死んじまう」
 「なるほど恐ろしい女だってことがわかる代物」
  宗志郎は微笑んで、恐ろしげな鉄の爪へとふたたび目をやる。
  鷹羽は言った。
 「伊賀の中でも我ら一族だけに伝わる武器さ」
  宗志郎は眉を上げて首を竦めた。
 「鶴羽は甲賀で毒鞭を使い、鷺羽は戸隠で吹き矢の名手。それぞれが散り散りとなった哀しいくノ一」
 「まさに哀しい身の上だ。まあ風呂でも入ってくるんだな」

  鷹羽は、いきなり女となって戸惑った。この小さな家の風呂には脱衣がない。
  鷹羽は言う。
 「棟梁に言ってやるんだね」
 「何をだ?」
 「脱ぐとこぐらい造っとけって」
 「ふふふ、わかった言っておく。背中ぐらいは流してやるぞ」
 「ヤだよ、もう! 姉様が羨ましいさ」
  背を向ける宗志郎を気にしながら脱ぎ去って鷹羽は風呂へと入っていった。

  狭いといっても二人ならゆとりもある。夜具の間を空けて敷き、鷹羽は横寝となって宗志郎には背を向けた。黒羽への羨みが微笑みとなって眠れない。
 「眠れぬな」
 「あたしも」
  闇の中で互いに言って、宗志郎は言う。
 「そなたはどうして艶辰に?」
  しばらく声はなかったものの、そうするうちに衣擦れの音がして、鷹羽が逆向きに寝返って宗志郎を見て言った。
 「いまのお光と同じようなものなのさ。危ういところを救われた。そのとき女将さんと紅羽の姉様が一緒でね、相手はゴロツキどもが六人だった。それぞれが脇差しを持っていて」
 「うむ」
 「あたしは危ないと思った。あたしさえ伊賀の鷹女(ようじょ)に戻れば負けない相手」
 「うむ」
 「ところがだよ、そのとき板戸のつっかえ棒を手にした姉様の強いこと強いこと。
あたしでさえが声も出ない。後になって姉様が言うんだよ」
 「うむ?」
 「そのときあたしがその同じ棒を見る目でわかったって。ただの女中じゃないだろうって察したとき、それをあたしにさせてはいけない、だからあたしが手に取ったって」
 「そうか」
 「それで艶辰に連れて行かれ、そのとき紅羽と黒羽の姉様はすでに芸者。女将さんと三人だけの置屋だった。あたしが鷺羽を知っていて、鷺羽が鶴羽を知っていた。おちぶれたくノ一の末路なんて似たようなものだから。あたしらはさる小藩のお抱えでね。だけど蔵にある槍や鉄砲なんて錆び付いてる。太平の世に忍びなどまして無用」
 「そうか」
 「それでさ、艶辰に連れて行かれて、そしたら女将さんが抱いてくれた。毎夜毎夜、素裸で抱いてくださって、あたしを可愛がってくださった。それであたし三味線も踊りの稽古もさせてもらって芸者になった。いまのお光と同じように気張って気張って働いたんだ。だから宗さん、あのときお光を救ってやった宗さんの気持ちが嬉しくてね」

  しばしの無言。
 「かきつばた」
 「何だよ、ややこしく呼ばないで」
  鷹羽は闇の中で微笑んで、その目はキラキラ輝いていた。
 「そなたらに羽をつけたのは女将さんのようだな」

  鷹羽は急に黙り込み、涙を溜めて、ふたたび寝返り、背を向けた。

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十話 伊豆の白湯


 「さて皆々よ、このような雨の折ゆえ、しっぽり濡れる話をしよう。我ら坊主の修行を行(ぎょう)と言うが、そなたら女人には女人業(にょにんぎょう)とも申すべき業(ごう)がある。それはまた性(さが)とも申すもの」

  芝高輪、湧仙寺。
  芝の南から高輪にかけて寺の集まる一帯があり、そこには名のある大きな寺から、この湧泉寺のようなちっぽけな古刹まで数多くの寺がひしめき合って、したがって町中に僧侶の姿をよく見かける。僧を僧としてあなどってはいけない。かつては僧兵ばかりを集めた寺もあり、また忍びの者どもが僧に化けた寺もあったもの。湧泉寺の住職たる妙玄(みょうげん)も、いまでこそ齢八十二と老いていたが、かつてはそうした僧兵としてならした男。
  艶辰のある本所深川から高輪は少し遠い。男の脚でも一刻(二時間)ほどもかかってしまい、小雨の中、着いてみると、狭い本堂にすでに女ばかり十人ほどが集まっていて、何やら法話の最中だった。女は市井の者ばかり。一見してこのあたりの商家の妻ばかりと思われる。

  妙玄は、ふいに訪れた宗志郎に目でうなずきつつも、かまわず言う。
 「業(ごう)とは人の業であり、業を極めることを修行とするなら行(ぎょう)とも言える。さてここからじゃ。皆々、童どもを思えばよい。己が童であった頃、苦しむことと言えば腹が減っただとか、しょんべんちびっただとか、まあそんなようなものじゃった」
  女たちから笑いが漏れる。
 「しかるにいつ頃からか、女として生きねばならぬ、男として生きねばならぬと思い込むようになり、色というものが生まれてくる。色は欲。嫌よ嫌よ、もっとソコということになるわけじゃな」
  隣り合った女同士が顔を見合わせくすくす笑う。
 「それが女人を苦しめる。同じ女が敵ともなって立派な竿を奪い合う。なんて大きく恐ろしく、されど欲しくてたまらぬ男のイチモツ。拙僧などはもういかん、萎びたままじゃ」
  おもしろいと宗志郎は思う。女たちが食い入るように見つめていて、皆の目がキラキラしている。
 「同じ女でありながら意地を張り合い、遠ざけ合って、隣の家では色よき声もするものの、なんでウチには夜がない、などということになって不仲となる。夫婦の不仲は世への不仲に変わっていって、周りの者としてみれば、なんたる嫌なクソ婆、てなことにもなろう」

 「そこがこそ、そなたら一人一人を不幸にする大元ぞ。童に戻るときがあってもよいというもの。女となる前の心を持って女人を抱く。女同士で湯でも浴びて、一つ布団で眠れるならば、心は濡れて、違うところもきっと濡れよう。よいか皆々よ、女の性とは女の業(ごう)。しかるにそれを修行の行(ぎょう)と思うなら女人は解き放たれて羽ばたける」
 「それは女人同士で交われということでしょうや?」
  女の一人が訊いたとき和尚はうなずいて言うのだった。
 「女人はなぜに女でなければならぬのか。女人はなぜに男と交わらねばならぬのか。女人はなぜに女を想うてはいかぬのか。亭主元気で留守がよい。うむ、それはそうじゃろう。されどそれも亭主に飽きて触れられど濡れもせぬゆえ。それではあまりに可哀想というものじゃが、さりとてそこらじゅうの男にあはんうふんもまずかろう。女房殿は皆々そのように考えて、ゆえに寂しゅうなっていく。嫌な女になってしもうた己を憎み、ますますもって鬼婆。よいか皆々、業を行とすることじゃ。想うて欲しくばまず想うこと。童の心に戻れるならば女人は女でなくなって、人として女を想えるようになろうというもの。ここにおる皆々よ、互いに想うて抱き合って、濡れる女人となるがよい。行と思うて業に臨めば、人を想う女の性は満たされる」
  女たちは皆いい顔をしていると宗志郎は感じた。艶辰の女たちの顔そのままの素直な面色ではないか。

 「そこな若武者よ、いかに思う?」
  問いかけられて皆は振り向き、目が集まる。いつの間にか若く凜々しい武士がいる。女たちは一様に、はにかむような笑顔を見せる。
  宗志郎は言う。
 「何を語っておるのやら、クソ坊主め。はっはっは」
  皆が声を上げて笑い、しかし一様に穏やかな顔をする。宗志郎はふと虎介情介の二人を思った。まさに和尚の言う通り。しかしそれはありきたりに身構える者どもにはむずかしいかと考えた。
  妙玄は言う。
 「くノ一は、くノ一同士で交わるという。明日の命も知れぬ身ゆえ、そのとき想うた己の心に素直でありたい。汚れなき人の姿だとは思わぬか」
  と、突然現れた武士の姿になぞられて持ち出した和尚の話に皆はうなずく。  いい法話だと宗志郎は思う。

 「・・ふうむ、そのようなことがあったとはのう。わしも歳じゃな、とんと俗世に疎うなってしもうたわ」
  妙玄はシワ深い目を雨模様の空へとなげて、しばし考え、そして言った。
 「そのようなことがあるとするなら、それは邪視(じゃし)やも知れぬな」
 「邪視ですと?」
 「そうじゃよ邪視じゃ。このわしとて話として知っておるだけじゃし見たこともないのじゃが、そのようなことがあるというぞ。仙人のごとく修行を重ね得られるもの、また魑魅魍魎、妖怪のたぐいに取り憑かれてしまうもの、天狗のせいじゃと申す者もおるらしいが、平安の頃には禿化け(かむろばけ)と称して、妖力を得た女が童に化けて災いを運んだとか。まあ心眼とも言えるのじゃろうが、見つめるだけで心を抜き取り、邪心を送り込んで人を操る。役目を果たして邪心が抜ければ人は抜け殻。心をなくしてしまうからの」
 「・・ふうむ、されどそのようなことが真にできるものなのか」
 「わからぬ。あるいは生まれ持った特異な才やも知れぬし何とも言えぬわ」

  いまから十五年ほど前、その頃、剣の修行に明け暮れていた十五歳の宗志郎は、柳生の剣の師範に連れられ、この寺を覗いていた。
  当時すでに妙玄は六十代の半ばであったのだが、小柄な体でも槍を持たせれば下手な剣では勝てない強さ。宗志郎の師範が学んだ、そのまた師範のような男であった。以来、宗志郎はときどき寺を覗いていた。
 「されど尊師もお達者で」
 「まったくじゃ。どうやらわしも妖怪天狗のたぐいのようで。はっはっは」
  この時代、四十代から人はばたばた死んでいく。八十をこえる齢は、それだけで仙人のようなもの。

  と、ふいに妙玄は手を叩き、宗志郎を見つめるのだった。
 「そうじゃ悟郎太(ごろうた)がおった!」
 「それは何者?」
 「伊豆は天城あたりを根城とする山賊の頭でな、風魔賀次郎(ふうま・がじろう)が末裔よ」
 「なんと? あの風魔の末裔と申されるか?」
 「いかにも。風魔は死なず、そうして生きておるわい。かつてのわしの弟子じゃがな。うむ、そうじゃ風魔じゃ。かつて風魔に特異な才を持って生まれた男児がおってな。七つじゃったか、その歳にして見つめるだけで人を操ったという。風魔の女が妖怪を生んだと恐れられたものらしい。そのへん訊くなら訪ねてみればよかろうぞ」
  風魔と言えば、江戸時代のはじめに盗賊となって江戸市中を荒らし回り、ことごとくが捕らえられて滅亡したと思われていた。それがいま、八代将軍となった世に生きている。ぜひにも会ってみたいと宗志郎は考えた。

 「邪視」
  と言ったきり、美神にしばし声はなかった。虎介が聞き込んだ話と符合する。
 「さらにまた風魔とは」
  くノ一である鷹羽もまた声をなくし、同じくくノ一の鷺羽鶴羽と目を合わせる。
  美神が言った。
 「じつを言うと虎がそれと似たような話を聞いたとか」
  美神が子細を話すと皆の目が厳しくなった。そうした才を持つ者がいるとすればすべてがうなずける。とりわけ禿化けという言葉がひっかかる。まさかとは思っても虎介が持ち込んだ話そのままではないか。
  美神は言った。
 「その悟郎太とやらに会いに行こう。皆で行く」
 「皆で?」
  と黒羽が訊いて、美神は深くうなずいた。
 「さっそく明日にでも出よう。お光にも支度させるんだ」

  そして三日後の夕刻前、伊豆は天城山。冬晴れの青空に一片の雲もなく、山の緑も美しかった。
  宗志郎、美神、そして紅羽に黒羽、そのほかくノ一三人だけならともかくも、若いお艶さんの三人衆、男芸者の二人に加えてお光までが一緒だと、途中で二泊しないと歩き切れない。艶辰はじめての皆での旅。物見遊山の気分で楽しめていたのだが、いよいよ山が迫ってくると気を引き締める。
  宗志郎は大小を腰に差した着流しだったが、紅羽黒羽の二人は黒髪を後ろでまとめ袴を穿いて腰に大小を差した男姿。そのほか皆は女の旅姿であったのだが、美神、鷹羽、鷺羽、鶴羽の四人は白木の仕込み杖を持っている。
  海を見渡す表街道を逸れて山へと踏み込むと、いきなり人の気配が絶えて道も細く、右に左にうねっている。
  そろそろ出るか、山賊ども。

 「待ちな! これはこれはぞろぞろと」
  いかにも山賊といった風体のゴツイ男ばかりが八人ほど、森を縫う道筋の前と後ろから現れて挟み打ちというわけだ。粗末な着物にウサギの毛皮でつくったチョッキを重ね、腰には刀、髪の毛などは獣のごとく。
  しかし前に向かって宗志郎と紅羽黒羽、後ろには間に皆を挟んで鷹羽鶴羽鷺羽が陣取り、こちらにも隙はない。皆が仕込み杖に手をかけて寄らば斬るの面色だった。
  宗志郎が男どもに笑って言う。
 「よせよせ、てめらじゃ勝てないぜ」
 「何をしゃらくせえ!」
  男の一人がすごんで声を上げたが、宗志郎は穏やかに言う。
 「悟郎太に会いに来た」
  頭の名を呼ばれて山賊どもは一斉にある一人の男へ目をやった。背が高く胸板が厚く、毛の中に顔があるといったような男。まさに大猿。しかしその腰には剣はなく、代わりに、よく手入れされて光り輝く黒い槍を持っている。

 「俺がそうだが」
  宗志郎はちょっと笑って眉を上げた。
 「妙玄和尚に聞かされて参った者」
 「ほう和尚に?」
 「拙者は葉山宗志郎」
 「なに・・」
  柳生新陰流の若き鬼神とまで言われた男。悟郎太も和尚から聞かされて名ぐらいは知っている。悟郎太は手をかざして手下どもに退けと合図をする。
  しかし悟郎太は宗志郎の背後へ目をやって言うのだった。
 「で、ぞろぞろとか?」
 「皆々が江戸の置屋の芸者でな」
 「ほほう、芸者とはまた。男姿で剣を持ち、仕込みを持つ者もいる。恐ろしい芸者どもよ」
  悟郎太は宗志郎に歩み寄り、「こっちが兄弟子だぜ」と小声で言って笑い、そして手下どもに言い放つ。
 「おいみんな、こいつはよ、弟弟子のくせしやがって俺なんぞよりはるかに強ぇえや。てめえらなんぞ刺身にされるぞ、あっはっは」

  悟郎太は、はるばる訪ねてきた弟弟子と並んで歩く。
 「で、どうしたって?」
 「かつて風魔に邪視を持って生まれた子がいたと聞いた」
  悟郎太は眉を上げて目を見開く。
 「なるほど、わかった。まあ根城に来いや。湯も湧くし、なかなかいいぜ」
  鬱蒼とした樹海の中に、そこだけ森が拓かれて、いまにも朽ち果てそうな小屋がいくつか並び、粗末な姿の若い女も三人いて、さながら山窩(さんか・山の民)の根城のようにされている。雲のない天空から陽射しが注ぎ、森が風を遮るのか、そこだけ春のように暖かかった。
 「まあ気楽にやってくれと言いたいところなんだがよ、なにせ家がちっぽけだ。ごろ寝ってことになる。森の奥に湯もあるし、そこだけは極楽よ」

  五軒ある家の中で少し大きな一軒が頭とその女の家なのだが、とても皆は入りきれない。美神と紅羽黒羽、それに鷹羽が家に入り、鶴羽鷹羽は皆と一緒にほかの家に散っていた。
  訪ねて来た皆を家に上げ、毛皮の敷かれた囲炉裏の周りに座らせておき、悟郎太は、一応は上座にあたるところに敷かれた大きな鹿の毛皮の上にどっかと座った。悟郎太の女らしき者が茶を淹れて配っている。大柄な女であったが笑顔がやさしい。
  話の支度が整うと宗志郎が悟郎太に言う。
 「そちらが江戸の置屋の女将さんでな、こなた男姿の二人も芸者なんだが、ともに武家の出。そこの一人も芸者だが、じつはくノ一」
 「なるほど。まあ、ただの置屋ではあるまいが訊かぬ」
  悟郎太は賢い男。宗志郎はうなずいて、さらに言った。
 「風魔の女が妖怪を産んだとか」
  悟郎太はうなずいた。
 「俺も聞いた話だが我らでは語り継がれる話でな。七つばっかのこわっぱに見つめられ、人は腑抜けとなってしまうのさ。生まれながらの化け物だった」

 「禿として使ったのでは?」
  と美神が訊いて、悟郎太はあまりにも美しい美神を見つめる。
 「そこの女将のように魂を抜かれる女はいるものさ。まあ、そんなようなもの。あまりに恐ろしいこわっぱゆえ、その頃の頭も困り果てた。よもや敵とならば一族は滅ぶ。そこでこわっぱのうちに放り出した。その母とともにな。生きていける金を握らせ、どこぞで好きに暮らせというわけさ」
  宗志郎が問う。
 「それきりなのか?」
 「それきりだ。ああしたものは血だ。こわっぱを産んだ女に妖怪でも取り憑いたかということで、母もろとも放り出す。悪さでもして叱ろうものなら、七つのこわっぱに見つめられておかしくなる。そうなりゃ放り出すしかあるめえよ」
 「そうかい、それきり行き方知れずってことなんだね?」
  美神を見つめながら悟郎太は話し、だから美神がそう言った。
  江戸で妙な事件が起こっていると宗志郎が告げると、悟郎太はまたうなずいて言うのだった。
 「だとすりゃあ血よ。こわっぱの血かも知れねえし、その頃まだ若かった母者がまた別の子を成したとも考えられる。剣では勝てねえ、ともかく目を見ねえことだ。言えるのはそれだけよ」

  黒羽が問うた。
 「そうした者が確かにいると言うんだね?」
  悟郎太は、こちらもまた美しい黒羽を目に入れて、それから宗志郎に向かうのだった。
 「いる。偽り話を伝えてどうする。心を抜き取り、どうにでも操る。そうしたやり口であるなら決まり事をつくっておくのさ。犬猫の声でもいいし記号(しるし)のようなものでもよかろう。見る聞く触れる、何でもよいのだ。そのとたん人が変わってしまう。話に聞く陰陽師のようなものもそのうちだろうが、呪いだと思えばよかろうな。呪いを持って産まれた化け物。もはや人ではあるまいに」
  そして鷹羽が問うた。
 「ずっとここに隠れ住んできたのかい?」
  それには悟郎太は笑う。
 「風魔は北条、北条は相模、相模は海よ。ここらはもともと我らが土地でな」
  鷹羽は黙ってうなずき、それから口を開かなかった。忍びは皆同じ。主家が滅ぶと戻る場所をなくしてしまう。

 「さて皆々、今宵はどうするつもりよ。冬のいまなら、じきに陽が暮れよう。旅籠といっても遠いぞ」
  と悟郎太は言い、女将の美神をじっと見つめた。
  そしてそのとき宗志郎が袂から封を切らない二十五両の包みを取り出して悟郎太の前にそっと置いた。
 「これで頼む、今宵一晩」
 「ふふん、ずいぶんと張り込んだものだ、つまらねえ話を聞くためによ。わかった、どうにかしたいがどうにもならん。ここが広いゆえ、ここを空ける。まあ湯にでも浸かって来いや」
  と、そこで美神が言った。
 「じゃあ、あたし一人が先に行く。お頭と一緒にね」
  悟郎太は目を丸くする。美神が言った。
 「銭で買ったと思われてはあたしの名折れ。気持ちだということをわかって欲しい」
  悟郎太は呆気にとられて宗志郎を見つめた。
 「ふっふっふ、気に入った・・気に入ったぞ、はっはっは」
  悟郎太は立ち上がり、美神の手を取って引き抜くように立たせていた。並んで立つと悟郎太は大きい。

  そして森に抱かれるようにある湯へと向かう。
  山肌が岩に変わったすぐのところ。周りは鬱蒼とした緑また緑。十人ほども入れそうな大きな岩風呂。脱衣などというものはなく、悟郎太は湯の縁まで美神をそっと押しやると、岩に座り込んで背を向ける。
 「どうしたんだい、入らないのかい?」
 「気持ちはもらった、ありがとよ姐さん。されど、ならば俺にも気持ちはある。ここらには腹を空かせた犬が出るゆえ」
  美神は歩み寄って悟郎太の前に回り、目を見つめ、そのままそっと抱かれていった。

 「嬉しいよ悟郎太、いいから入ろ」
  野獣のような男にまともに見られていながら一糸まとわぬ裸身となった美神であった。

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九話 一筋の光


 「拙者の・・」と言いかけて、宗志郎はチラと女将の美神へ目をやった。芸者を束ねる置屋の艶辰が、しかるべき者の命によって密かに働く者どもの集まりと知り、その頭が美神ということで、どうしても武士の言葉になってしまう。
  夕餉を終え、今宵座敷に呼ばれた鶴羽と鷺羽が戻るのを待って、紅羽黒羽の姉妹と鷹羽も加えた七人で、美神の寝所に輪を描いて座っている。夜具をのべると狭くなる部屋であっても座って話すぐらいならちょうどいい。その場にお光は呼ばれなかった。お光は厨で夕餉の片付けをしている。
  このとき宗志郎は平袴などは脱いでしまい、それでも登城のための堅苦しい着物姿。それもあってついつい武士言葉になってしまうのだった。
  芸だけを見せる鶴羽鷺羽と違って、お艶さんと呼ばれる三人の若い芸者と男芸者の二人は色を売るだけに帰りが遅く、またこうした話に入ることも少なかった。女将の部屋で静かに話す。
 「ううむ、いけませぬな、武士が抜けない」
  美神はちょっと微笑んで、素でいいからと言う。

 「まあ花畑でもあり・・うん、少しはよく見せたくもあり」
  皆が笑う。黒羽はちょっとうつむいて隣りに座る姉の紅羽と目を合わせてくすくす笑う。すべてはお光。あのときあの子がいてくれなければこうはなっていなかった。人の縁とは奇妙なものだと、そう思っても可笑しくなる。
 「じゃあこうしましょう」と黒羽が言った。
 「ここでは宗志郎様ではありません、お名は末様。気楽というもの」
  末様はちょっと首を傾げて眉を上げ、しかし微笑みはすっと失せて真顔となった。
 「剣の友に同心がおり、そやつももちろんお奉行から言われておる。されど目を光らせよと言われても雲をつかむような話であって、さらにどうやって娘どもを操るのか皆目見当もつかぬと申すわけで。妖しき術か、はたまた薬か、それにしてもわずか数日で人をそれほど変えられるものなのか。あるいは忍びの仕業かもと申しておって」
  美神は、鷹羽にちょっと目をやって眉を上げた。
 「あたしらもそう話したものです。鷹羽と、それに鶴羽、鷺羽もくノ一」
  ほう・・と驚くように末様は鷹羽を見つめ、鶴羽鷺羽と順に見た。
 「そんな術は聞いたこともないし、薬であるならわずかな間ではできないね」
  と鶴羽が言って、末様はうなずいた。

  黒羽と紅羽が武家の出、美神もそう。残る三人はくノ一。どうりで隙がないはずだ。なるほどとうなずける陣容だった。
  末様が言う。
 「されど、最前のことを思うても敵にはかなりな黒幕が控えておろう。捕らえられるなら自刃して果てるなど尋常ではない。紀州と尾張がにらみ合って得をする者と申しても、それもまたそこらじゅうにいる話。さらにまたそのへん目星がつこうとも、つまるところ、どうやってという問いが解けねば逃げられる」
  そのとき美神は言うのだった。
 「黒幕を追い詰めるつもりなどないのです。娘らを使う手口が許せない。手を下した者どもを許せない。さるお方も申されておりました。深入りしすぎても世を乱す。そうしたことが起こらねばよい話と」
 「うむ、いかにも」
  末様の声に続いて黒羽が言った。
 「我らは苦しむ女や童を救うことのみ。男のお役人では入り込めないところがある。そのために我らがつくられた」
  末様は、うんと深くうなずいて、それから美神に言うのだった。
 「その探索の大元が見張られている。よって尾けられ、あのようなこととなる、気がかりなのはここ艶辰。いずれ嗅ぎつけられるときがくる。剣において上には上があるということをわきまえられよ」

  美神は眉を上げて首を傾げる素振りをする。そういう意味でも宗志郎が味方となってくれるなら、これほど心強いことはない。
  それはそうでも指図によって動く立場。了解を得ずに引き込むわけにもいかなかった。美神は言う。
 「近いうちにつなぎを取ってよろしいですか? 我らを動かすは御老中、戸田様です。あなた様にもお立場はあろうかと?」
  これには皆も美神を見つめる。そんなことだろうと思っていても、皆々、美神に従うだけであり、それこそ深みには立ち入らない。
  美神は皆を見渡した。
 「この際、皆にも言っておきます。わたくしは、その戸田様の縁者にあたる者の娘。隠していたわけでもないけどね」
  そんなことだろうと、それもまた推察していたこと。
  末様は言う。
 「もとよりそのつもり。花畑の虫を追うは男の本望」
  女たち皆がそれぞれに目を合わせて微笑んだ。いちいち粋なことを言う。
  美神が問うた。
 「末様の剣はどのような? 柳生新陰流とお見受けしますが、ちょっと違う気がしたもので」

  さすがだと末様は思う。剣を知るから剣がわかる。
 「推察の通り、柳生新陰流。なれど先ほども申した剣の友というのが示現流でしてな、真似ておるうち妙な癖がついてしまった」
  ちょっと頭を掻く末様。示現流と言えば強いことで恐れられる薩摩武士の剣。敵の剣をものともせずに突き進み、渾身の一刀で斬り捨てる剛剣として知られた流派であり、昨今、江戸にも入り込んできている剣だ。
  このとき黒羽もまた、どうりで剣さばきが剛なはずと考えていた。
  それはともかく、正座で囲む女が七人、その中で一人だけあぐらをかいた末様。末様が両膝をぽんとやって黒羽にちょっと横目をやった。
 「このようなことになるとは思わず、あのときはあやめ殿に会いたい一心、あの場に越してよかったよかった。ここと二か所の場ができる。粋な棟梁のはからいで湯船も大きく造ってあるゆえ・・」
  眉を上げて黒目を回すあの仕草で黒羽を見つめる。
  これには美神よりも姉の紅羽が声を上げて笑った。隣りに座る妹がどんどん小さくなって、うつむいていくからだ。
  美神が言った。
 「空き部屋もあり、今宵はお泊まりでよろしいでしょう。黒羽もすでに赤羽のようで今宵はどうぞご一緒に・・ふふふ」
  あの黒羽が赤くなる。皆が笑った。美神も粋な言い回しをするものだ。

  さてお開き、というときになって美神はお光を呼ぶよう鷹羽に告げた。皆が出て入れ替わりにお光が来る。濃い茶色に黄色格子の着物を着た愛らしい姿。黒髪も乱れなく結われていて見違える。
  美神を上座において末様とお光が向かいって座る。お光はすでに泣きそうだった。
 「おまえの名は光だったのだな」
 「はい」
 「剣の修行をしておるとか。昔の我が身を斬り捨てたいとか」
 「はい」
 「うんうん、もはや言うこととてない、よかったなお光」
 「はい・・ありがとうございます」
  涙を溜めてうつむくお光。
 「芸者の修行もしたいらしくて」・・と美神が言うと、末様は微笑んで、目の前で正座をし膝に両手を置いて拳をつくるお光の手に、そっと手を置く。
 「さぞ美しい芸者となろう。よく立ち直った、立派だぞ」
 「はぃ、ぅぅぅ・・うぅぅーっ」
  泣いてしまうお光。そのとき末様の目も潤んでいると美神は思い、艶辰にとっても新しい風となると確信した。

  艶辰でそのようなことがあった少し前の刻限だったが、お艶さんと呼ばれる若い芸者の三人娘が、あの喜世州の座敷にいた。
  今宵の客は奥州街道へといたる浅草から蔵前あたりの旅籠の主衆が五人であった。歳の頃なら四十代の末から、上では六十を過ぎていて、その中の二人が三人娘にとってはご贔屓さん。あの夜の男芸者の二人のような拾い紙などはせず、一人が座って三味線を弾き、二人が踊り、お客に「はい」と言われたときにぴたりと止まる。踊り手がふらつけばその者が一枚脱いで、三味線が先に走れば座る女が脱いでいく。
  結局のところ三人ともに白い乳房も露わな湯文字だけの姿となる。もちろん座敷のさらに裏に布団が敷かれ、ただし客の側から無理強いできないという決まり。今宵のお客は決まりを守る上客だったし、歳が歳で、そういうことより見て楽しむ者ばかり。
  踊る二人はすでに桜色の湯文字だけ。若く張った乳房を揺らして踊り、三味線の一人だけが肌襦袢の姿。
  遊び慣れた二人はよくても、こういう席がはじめてだった三人の客たちは目を輝かせて笑っている。

  老いた一人が笑って言った。
 「ううむ残念、三味線の一人が残ってしまった、はっはっは」
  こういう席がはじめての一人が言う。
 「ほほう、脱いでも湯文字までということですか?」
 「辱めては可哀想というものです。これより脱がせてみたいなら心しかありませぬな」
 「ふふふ、なるほど。いずれ愛らしい娘たち。さあ皆々、もういいよ、こっちに来ておくれ」
 「はぁい」
  そうして三人ともに客の間に割って入り、酒の相手をするのだが、このとき湯文字だけの美介と恋介、一人残った肌襦袢の彩介。そのうちの彩介が口惜しがる老いた男の手を取って襦袢の上から乳房に添えた。
 「あぁぁ旦那さん、心地いい」
 「うんうん、よくやったよ彩介、いい子だねいい子だね」
  しなりと崩れて肩を寄せる彩介。男の老いた手が蠢いて乳房を嬲る。
  老いた男が周りに言った。
 「ほらごらん、こちらの心をちゃんとくんで、こうしてくれる。可愛いね彩介は」
 「はぁい、あぁん旦那さぁん」
 「しっぽり濡れたか?」
 「はぁい・・嬉しゅうございます旦那さぁん」

  そんな様子を笑って見ながら、美介も恋介も若く張った乳房を見せつけるようにお客の顔に寄せていき、恋介が、こうした席がはじめただった三人の中では若い一人に乳首を差し出し、男がそっと口づけた。
 「ぁ・・うふぅ・・心地いい、これからもどうぞご贔屓に」
 「うんうん、なんと愛らしい娘だろうね」
  とまあ、そうした席だったのだが、また別の老いた一人が、美介の乳房を肩越しに回した手で揉みながら言うのだった。

 「ここのところ、あんまりですかな。新しい上様が倹約家ということで、お役人様たちも泊まらず過ぎ去るようになってしまった」
 「ウチもですよ、以前はお出かけついでに泊まっていかれたものですが」
 「そうそう、そう言えばちょっと前に不思議なお客様がいましてね」
 「ほう? それはどんな?」
 「いえね、お泊まりの中にお武家様が三人おいでで、酔ってしまって妙なことになりかけたんです。相手はまだ若いどこぞのお内儀さんだったのですが、あれはそう七つか八つの子連れでして」
 「うむ、それで?」
 「その御内儀さんが廊下ですれ違ったときに酌をしろと言われたようで、嫌だとはねつけるとお武家様が怒ってしまい」
 「ほうほう。そうした方もおいでですからな」
 「ところがですよ、その連れのお嬢ちゃんが、にっこり笑って見つめると、どうしたことかお武家様方が呆けたように・・と申しますか、いきなり酔いが醒めたようにと申しますか、これはすまぬことをしたと謝って、その場がおさまってしまったんです」
 「なんとまあ、それはまたおかしな話で。すると何ですかな、その子に見つめられて人が変わった?」
 「そうなんですよ、まさにそんなふうでして。この美介に見つめられて、あたしなど狂ってしまう、そんなようなものでしょうかね、はっはっは」

  その夜のこと。艶辰に戻ったお艶さん。
 「そうかい、そんなことをお客が言ったか?」
 「そうなんですよ。夕べのお座敷がはじめてだった蔵前の旅籠の旦那さんなんですけどね。それだけのことなんですが気になったものだから」
 「うん、わかった、お手柄だったね。おいで美介・・」
  美神は両手をひろげて夜具の中に美介を誘い、帯を解いて白い裸身を抱いてやる。
 「あぁぁ庵主様ぁ・・ぁ・・あっ・・」
 「ほうらいい・・心地いいね・・ほうら濡れる・・しっとり濡れる」
 「はぁい・・あ、あ、あぁん」
 「さあ美介・・可愛がってやっておくれ」
  寝間着を着たまま膝を立てて腿を割る美神の奥底へ、美介は吸い込まれるように唇を寄せていく。

  さて、その同じ頃、別棟の空き部屋で末様と黒羽・・さすがにそこまでのことはなく、薄闇の中で宗志郎独りが横になり、ぼんやりと虚空を見つめていたのだった。
  どのようにして娘を操るのか。そこさえ知れれば敵もまた知れるやも・・と考えて、あの方ならもしやと思う。高輪にある湧仙寺(ゆうせんじ)という古くからの寺の住職であったのだが、齢はすでに八十をこえていて多くのことを知っている。
 明日にでも早速訪ねてみようと考えた。
  老中の戸田と言えば厳格厳正で知られた堅物。そんな男が色街の置屋に手の者を隠しているなど思いもよらない。
  知らぬことが多すぎると宗志郎は考えた。若くして家に背を向け、ろくに世を見なかった。なのにその一方で、女たちが命がけで動いている。恥ずかしい思いがして、だから眠れそうにもない。

 「眠れないの嬉しくて」
 「うむ、さあおいで、抱いてあげる」
  夜具を川の字にのべた虎介情介そしてお光。立ち直るきっかけをくれた宗志郎の剣が脳裏をよぎり、半裸とされて燃えるように恥ずかしかった己の姿を思い描く。
  夜具を抜け出し、寝間着を脱いで裸身となって虎介の布団へと潜り込む。お光の肌には尻にも背にも二の腕にも剣の稽古で青痣が浮いていたが、そこをそっと撫でられて、そしたら背中を情介にも抱いてもらえ、お光はそっと二人の萎えたものへと手をやった。
 「ふふふ、可愛い・・やわらかい」
  今宵の姉様たちは女のお客を相手した。どういうことがあったのだろうと考えると二人が哀れにも思えたし、逆に嬉しいかったんだろうとも思える。
 「ねえ姉様方」
 「うん、どうしたね?」
 「女のお客さんて、どうなんだろと思ってしまって」
  背中から抱く情介が耳許でささやくように言う。
 「あたしらの姿に震えるように抱いてくれ、しゃぶってくれて、奥の間に引き込まれることもある。抱いてといって脱いでくれると嬉しくてあたしらが泣いてしまうのさ」
 「抱いてって言う?」
 「言うよ。お体に尽くしてあげて、それからは手でやさしくされる。あたしらが出してしまうまで」
 「えー出すの? 心地よくて?」
 「もちろんじゃないか」
 「・・うん、わかった、姉様たちって女だもんね」
 「そういうことさ。だからお光と心は一緒。抱いてやってお光が濡れるとあたしらだって達していくよ」
 「・・うん・・そうだと嬉しい・・」
  それでお光は安心したのか、二人のものを握ったまま静かになって眠ってしまう。

  そして翌日、ぱらつく小雨の中を宗志郎は高輪に向かって歩いていた。

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八話 危うし美神


  墨田の流れにかかる橋を海の側から眺めると、河口に近く渡れば本所深川という永代橋、浜町から南本所へと渡る新大橋、両国から川を越える両国橋と順に川を遡上して、置屋の艶辰は永代橋を渡って左の新大橋寄り、宗志郎の小さな家は川のこちらを北へと歩き両国橋から渡った先ということになる。

  黒羽が宗志郎との一夜を過ごした二日後のこと。江戸城へ登城して普請場を見た宗志郎は、大工の棟梁である藤兵衛とともに城を出て、両国にあって藤兵衛が営む材木商の木香屋に向けて二人並んで歩いていた。
  夕刻には少し早い刻限ではあったのだが空には斑に黒い暗雲が垂れ込めていて、いまにも降りそう。陽が傾いて暗くなるより暗雲が夜を連れてくるといった様相だった。このとき宗志郎は、登城の後ということで濃い青の着物に灰色の平袴(ひらばかま)を穿いていたが、務めが木くず舞う普請場回りということで肩衣(かたぎぬ)までは身につけない。この上下で裃(かみしも)と言い、登城の際の正装ではあったのだが。

 「お察しするに懐具合がよろしくないようですな」
 「うむ、それもまた世のたるみ。されどこたびの上様はそのへんしかと見定めておられるゆえな」
 「左様でございますな。どのみち使えない忍びならば、お庭番なる者どもに見張らせようということで」
 「庭番はもとより紀州の身内。紀州の出の上様ゆえ、よって無駄な金もかからぬというわけさ」
  この頃幕府の財政は苦しかった。八代将軍吉宗は将軍となってすぐ、その立て直しに尽力した。使えない忍びに金を使わず紀州藩の身内であるお庭番を配そうと、城内の要所にそうした者どもの張り番所を置く。その普請を宗志郎が取り仕切るというわけだった。

  江戸城から日本橋北を抜けて両国へ。あと少しで川べりにある木香屋に着くというところで、藤兵衛は少し前をゆく女の背姿に目をやった。一見して若くはなさそう。とりわけどうということもない町女の着物に冬物の長羽織。しかし結い上げた黒髪は乱れなく美しく、遠目に見る立ち背の姿でさぞ美形と思える女はそうはいない。
  藤兵衛は言った。
 「あれは女将」
 「うむ女将? 艶辰のか?」
 「もちろん左様で。長く見知っておりますゆえ見まがうはずもなく」
 「ほう、あの者がのう」
  これから木香屋に顔を出し、早々に用件を済ませて今宵こそ行ってみようと思っていたところ。
  しかし藤兵衛は言う。
 「両国橋をのう・・ふうむ、はてさてどちらへ行かれたのやら」
 「どういうことだ?」
 「本所深川なら永代橋、ここらに用があったとしても帰りはまず新大橋があたりまえ」
  宗志郎はいっとき目を細めて見ていたがハッとする。
  その女将を追うように、少し離れて町屋の軒先に隠れながら歩む二人の影を見逃さなかった。
 「藤兵衛殿、ちと気になることがあるゆえ、すまぬが話は明日ということで」
 「はいはい、急ぐものでもありませぬし」
  藤兵衛は気づいていないようだった。

  尾けられている。女将はそれに気づいていて、だからあえて遠回りをしたに違いない。両国橋を渡れば南本所の雑踏。巻くこともできるだろう。
  藤兵衛と別れ、後を追って歩きつつ、宗志郎は、尾ける二人の町人は武士に違いないと考えた。どちらもが長い羽織りを着込んでいて片手を着物の内に隠しているから、おそらく刀を握って身に寄せていると思われた。
  そして両国橋。川中へ向かって高くなる傾斜を登って向こう側へと降りるのだが、傾斜の向こうへ消えて行く女将の足が速くなる。それにつられて男二人の追い足も増していく。
  そうやって橋を渡り切り、女将は左へと向きを変えた。本所深川とは逆向きにである。小走りに細道を行き、川に向かって向きを変えると、背丈ほどもある枯れススキの川原。草陰で巻くつもりなのだろうか。
  相手は男。女の足で逃げ切れるものではない。追っ手の二人も気づかれたと知って勢い込んで走り、捕らえるのか斬ろうとするのか、いずれにせよ尋常ではない様相。ススキ川原にはススキが刈られて人が歩ける道筋があちこちにはしっている。川で漁をするため、童どもが遊ぶため。

  あと少しで川に出るという背丈ほどのススキ群(むら)の中、女は懐から懐剣を抜き取って右手に持ち、柄を逆手に握って中腰に身を沈めた。この女もまたできる。構えに隙がなく、ふわりと膝を折ってしなやかに身構える。
  艶辰の女将もまた武家筋か、さもなくばくノ一。そうは思うのだったが、振り向いてキリとした眼差しを向けるその姿が、なんと美しいことだろう。宗志郎は息をのんだ。
  女は言う。
 「先刻ご承知なんだよ、このあたしに何の用だい!」
  追いすがった二人の男が長羽織の前をはだけ、思った通り、黒鞘の刀。反りのある武士の刀。案の定、町人に化けた武士である。二人ともに二十代の末あたりの若侍。それなりに使うと宗志郎は見切っていた。
 「聞きたいことがある、我らを甘く見るではないぞ、ともに来てもらおう」
 「しゃらくさいね、べらぼうめ。寄らば斬るは、あたしの台詞さ」
  おお怖っ・・男勝りな物言いが美しい見目形にそぐわない。
 「ならばやむなし、力ずくで取り押さえるまで」
  男二人が抜刀し、しかし刃を返した峰打ち剣。左右に散って囲みを絞る。
 「セェェーイ!」
  女一人を相手とする男の気合いもわざとらしい。声で脅す。相手を見くびった対峙のありよう。
  峰打ちで斬り込むも、女は胴を狙って横に流れる太刀筋を見事に見切って懐剣で敵の剣を跳ね、踏み込んで斬りつけるも、敵もまた瞬時に交わし、待ち構えるもう一人が斬り込んでいく。
  しかしそれも交わしきり、女は一歩後ろへ飛んで身構え直す。

 「ふむ・・やるな」
  少し手前のススキ群の草陰でちょっと笑った宗志郎。そしてそのとき女が言った。
 「あたしを狙ったからには生きて帰すわけにはいかないんだよ! 峰打ちとは笑止! ふんどし締め直してかかっておいで!」
  むぅ、すごい・・。
  さらに笑った宗志郎だったが、敵もいよいよ気を入れて身構える。
 「惜しい女よ、おとなしくすればよいものを」
  男二人が刃を返し、今度こその人斬り剣。追っ手を帰せばこちらの素性が知れるということ。女の言葉はそう受け取れると宗志郎は考えた。
  左右から二人が踏み込み、突きが腕を狙い、下からの斬り上げが脚を狙う。殺さず捕らえてお持ち帰りということか。
 「待てぃ!」
  ススキ群から剣に手を掛け、抜刀しながら駆け寄る宗志郎。男二人が振り向いた。
 「退いておられよ!」
  女にそう言うと、宗志郎のギラと光る白刃が、左右の斜め前から襲いかかる敵の剣をこともなげに振り払い、それでも身を立て直して襲いかかる左の男の剣と剣がぶつかって火花を上げた。
  キィィーン!
  敵の一刀を跳ね上げておき、その刹那、切り替えされた宗志郎の抜き胴が一刀のもと一人の敵を葬った。

  美神は目を細めて見守った。こやつは強い。鬼神の剣であり、そのしなやかな身のこなしと太刀筋は柳生新陰流・・いいや少し違うと感じていた。斬り込みが剛な剣さばき。
  残る敵は一人。敵は中段、こちらは剣の切っ先を後ろへ回す腰留めの構え。その構えはまさしく柳生新陰流。
 「いざぁ!」
 「おおぅ!」
 「トリャァァーッ!」
  キン、キィィーン!
  刃が二度交わって、宗志郎はあえて浅く一人の肩口を斬り抜いて、敵は剣を取り落として膝から崩れ、しかしもんどり打って背後へ転がり、腰から小刀を抜き去った。とても歯の立つ相手ではない。捕らえられれば詰問されるは必定。
 「我らを甘く見るでない! 不覚!」
  男は小刀を己の首にあてがって筋引きの自刃剣。血が飛び散り、男は目をカッと見開いて崩れ去った。
  敵の黒幕はよほどの者であったのだろう。たどられるぐらいなら死を選ぶ。それもまた武士らしいと宗志郎は哀しくなる。

  宗志郎は倒れた敵の着物で剣の血を拭い、回すでもなく、静かに鞘におさめていた。
 「大事ござらぬな?」
 「はい。どなたかは存じませぬが危ういところをお助けいただき・・」
  鈴の女声。美神もまた懐剣を懐にしまい、膝を浅く折って頭を下げた。
  なんと凜々しい若侍。鬼神のごとき剣も見事。美神はもしやと直感した。
 「私は葉山宗志郎、あやめ・・いや黒羽様とはなさぬ仲となり申し」
 「ふっ・・ふふふ」
  やっぱり。しかも身分違いの芸者ふぜいに様をつけて呼ぶとは、なんと男らしいお人なのか。あの黒羽がイカレる想いがよくわかる。
  しかしこれで艶辰の素性が知れると美神は思った。
  穏やかに微笑む美神のそばへ宗志郎は歩み寄る。見上げてしまう背の高さも男らしい。

 「いましがた藤兵衛殿と別れたばかり。今宵こそは艶辰へと思うておりました」
 「お光に次いであたしまで。不思議な縁でございますこと」
  宗志郎はちょっと笑ってうなずいて、そして言った。
 「あやめ・・いや黒羽より聞いております。あの折の小娘が立ち直ろうとしておるとか。それもまた女将殿へのご恩かと」
 「いいえ、それは黒羽そして鷹羽のお手柄。あなた様もね。ところで」
 「は?」
 「黒羽を、なぜにあやめと?」
  宗志郎は眉を上げた。あやめと呼ぶのが口癖になっている。
 「それはあの折、お二人をお見かけし、いずれあやめか、かきつばた。ゆえに鷹羽殿はかきつばた」
  美神は声を上げて笑った。

  それから歩みはじめた二人だったが、美神は、旗本の身分でありながらあべこべに半歩退いて寄り添ってくれる宗志郎を背に感じ、これほどの若侍には味方でいて欲しいと思っていた。
 「葉山様のようなお方に出会えた黒羽は幸せ者です」
 「いやいや、それを申さば藤兵衛殿の粋なはからい」
 「藤兵衛さんの? それは?」
 「ちょいと散歩のすぐそこに小さな家を目利きしてもらっており、その湯船、ちょいと大きく造っておいたと背を叩かれて、それならばと早速試しに二人でちゃっぷん」
 「ぅくくっ、そうですの? あっはっは!」
  たまらない。なんと粋なお人だろうと美神は笑える。このあたしを高笑いさせてくれた男は少ないと美神は思った。

  板塀に囲まれた艶辰が見えてきた。
  と、その板塀の切れ間の奥の引き戸が開いて、それぞれに美しい芸者衆が次々に顔を出す。いまにも雨になりそうで手に手に閉じた蛇の目傘を持っている。美しい女ばかりの黒羽織の艶姿は、ここがそういう町であることをうかがわせた。
  もうそんな刻限なのかと美神は思う。遠回りをしていて一刻半(三時間)ほども遅くなってしまった。
  戻って来る女将と、寄り添う若侍を見つけると、芸者衆はよそ行きの言葉を使い、それぞれに腰を折って頭を下げる。
 「女将さん、行ってまいります」
 「うんうん、すまなかったね、遅くなっちまった」
  男芸者の虎介情介、お艶さんの三人衆、それから鶴羽と鷺羽の二人であった。美神は問うた。
 「紅と黒は? 鷹もいないようだけど?」
 「はい今宵はお呼びがかからず」
  女たちの中ではもっとも姉様格の鷺羽が、女将の少し後ろに控える若侍の素性を察しながら言うのだった。歳では鶴羽のほうが三つ上でも芸者としては鷺羽が長い。
 「そうかい、ご苦労だね、行っといで」
  それぞれに頭を下げるも、皆が宗志郎に目をやってほくそ笑む。黒羽の姉様の色男。そう察していたのだった。

  七人の芸者たちは、それぞれのお座敷に向かって薄闇の中へと消えていく。
そしてその七人を見送ろうとしたらしく、すっかり元気になったお光がちょっと顔を出す。
 「おぅ、お光じゃねえか!」
 「え・・うわっ! あのときのお侍様!」
 「これお光、うわとはなんたる言いざまか」
  美神が笑う。小娘らしい驚き方だ。
  お光は宗志郎に向かいかけるも、家の中を振り向いてどうしようかと迷ったあげく、家の中へと駆け込んでいく。
 「姉様姉様っ! 葉山様がぁ!」
  宗志郎はちょっと頭を掻き、美神は小声で言うのだった。
 「ったく、どうしようもない・・あれでもあの子、剣を修行する身なんですよ」
 「ほう剣を?」
 「己の昔を斬り捨てたいって」
 「うむ、よかった。愛らしい娘ではありませぬか」
  二人でうなずき合って戸口をぐぐると、上がり框の際まで黒羽が迎えに立って
 やってきた。
  なぜか女将が連れて来た末様。黒羽は目を丸くして、間に立ったお光は双方を見比べるようにくすくす笑う。
 「ちょいとそこでバッタリだよ。夕餉の支度をね」
 「はい、それは・・」
  折り目の通った袴を穿く末様。黒羽は上目がちの目を送り、ちょっと笑う。惚れ惚れする若侍。

  末様は女将の目をものともせずに黒羽めがけて歩み寄り、そっと手を取る。
 「会いたかったぞ、あやめ」
 「ぁ・・はい」
  黒羽の黒目が大きく黒く輝いて、美神とお光が目を合わせ、お光が照れてちょっと首をすくめて舌を出す。
 「馬鹿だね、この子は。おまえが照れてどうすんだよ。ふっふっふ」
  とそこへ黒羽の肩越しに姉の紅羽が歩み寄る。宗志郎は黒羽の手を放してやって、歩み寄るうりふたつの姉に微笑みかけた。紅羽もまた穏やかに微笑んでちょっと腰を折って出迎える。
  姉が言う。
 「いらっしゃいまし。妹がたいそう愛でていただいておりますようで」
  宗志郎は見とれるように紅羽を見つめて言う。
 「いえいえ、それはこちらこそ。あやめ二輪の美しさ。女将さんは白き薔薇、そこな娘は花待ち蕾」
  と言いながら宗志郎は黒目を回して横目にお光にちょっと笑う。
  美神は、花待ち蕾と言われて嬉しそうにはにかむお光の背を叩いて言う。
 「はいはい、おまえは夕餉の支度にかかるんだよ」
 「はぁい」
  と、お光を奥へと追いやっておきながら、美神は、残った紅羽黒羽の姉妹に小声で言う。

 「不覚にも尾けられて襲われた。葉山様が救ってくださり・・というわけさ」
  これには紅羽黒羽がキリとした目を合わせ、二人して宗志郎に目をやって、かたじけないと言うようにわずかに目で礼を言ったのだったが、このとき紅羽はこれでこちらの素性が知れると考えていた。
  しかし美神はあっけらかんと明かしてしまう。
 「さるお方にお会いしてきた。ようとして知れぬばかりか、放った間者も戻って来ぬ始末。そなたらも気をつけろと言われた矢先」
  これには姉妹二人が唖然とし、宗志郎もまた美神の横顔をうかがう素振り。
  宗志郎ほどの使い手ならば、ぜひとも味方としておきたい。美神はそう思ったに違いなかった。
  美神は宗志郎へと澄んだ目を向けるのだった。
  宗志郎とて見抜いている。美神の目に対し、ちょっと目でうなずいて宗志郎は言う。
 「そなたら、もしやあの一件を? 紀州出入りの商家での・・?」
  美神はうなずき、言うのだった。
 「娘らを貶めるなど許せませぬ。わたくしは御老中、戸田・・」と美神が言いかけたとき、宗志郎は言い放つ。
 「それまで。皆まで申されずともよい話。言わずもがな拙者はお味方ゆえ」
  美神は安堵の笑みを浮かべてうなずいた。

  それにしても御老中とは・・指図元はかなりな御仁と察していたが老中じきじきの指図であったのかと、紅羽も黒羽も、あらためて美神を見つめた。


  白き剣 第一部。 続いて二部へ。


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七話 小さな家


 「そうか、あのときの小娘が転がり込んだか」
 「そろそろ十日になりますけどね、よくやってるし皆も新しい風だねって言ってるんです。鷹羽はほら、あのときのことも知ってるから、末様が連れてきたのかも知れないねって」
 「そんなことになろうとは思ってもみなかったが・・」

  まずは四日かなと冗談交じりに言った宗志郎の家。間に立った藤兵衛が営む材木商、両国の木香屋はもちろん木場に出入りしていて木場と深川は隣り合わせ。藤兵衛は置屋の艶辰をよく知っていて、昼日中にちょいと覗き、ちょいちょいと黒羽を手招きしたというわけだった。
  女将の美神も、お光とのきっかけとなった出来事は鷹羽を通じて聞かされていて、それならすぐに行って来いと背中を押された。こうしたとき越した祝いを手に持つものだが宗志郎は酒を一切やらない。立ち直ろうともがくお光の話が手土産のようなもの。宵となって男女が会うとき酒がないというのは芸者稼業の黒羽には嬉しいことだった。紅羽黒羽は艶辰の看板芸者。上客のほかやすやすとは出さないもので今宵の黒羽は体が空いた。

  宗志郎の小さな家は、両国橋を渡って広小路、そこから川伝いに少し行くと和泉橋という橋があるのだが、そのすぐ近く。艶辰からも遠くなく、あのときお光を救った場所からも遠くない。お座敷で出会った宗志郎がお光を連れてやってきた。そんな気がしてならない黒羽であった。
  話の合間に、宗志郎はふいに名を呼んだ。
 「あやめ殿」
 「ふふふ、はい。妙な気分だけど嬉しい。あたしにも名はあれど、あたしもまたその名は捨てたい女ゆえ」
 「うむ、俺もしかりで、末様さ」
 「ですね、うふふ」

  小さな家の畳の間で向き合っている。二つ置かれた大きな行灯だったがぼんやり明るい闇の中。こうして男と二人きりになったのはいつ以来のことだろうと思うと可笑しくもあり、黒羽はそちらへ気をやって笑っていたいと思っていた。
  あたしはどうしてしまったのか。小娘だった昔に戻ったようで胸が苦しくてたまらない。
 「あやめ殿」
 「はい末様? 何でしょね?」
  ふざけてごまかし、偽って、笑おうとしているのに、そんなに見ないで。名を呼んで見つめないで。黒羽ははっきり震え出す女心に戸惑った。
  言わないで。惚れたとか、どうだとか、そんな言葉はいらないから抱き寄せて組み敷いて。汚れのない女の扱いでは怖くなる。どんどん弱くなっていく己の心が怖くなる。

  手を取られ、ちょっと引かれて肩を寄せ、そのまま抱かれて崩れていく。
  顔を上げて見つめたとき、女の目は据わり、いきなり濡れ出す女陰(ほと)を感じて目を閉じる。
  
  口づけ。浅くはじまり一度離れて目を見つめ、ふたたび触れ合って口づけは深くなる。やさしい末様。けどあたしが最初に欲しいのはそうじゃない。
  裾を割って忍び込む男の手。腿を撫で、そっと這って這い回り、女の震えなどに臆することなく来てほしい。壊してほしい。
 「はぅ・・んっ・・末様、ああ濡れる末様・・」
  さざ波に産毛が逆立ち、肌を掃くように撫でられるとゾクゾクとした震え。男らしい強い指が密生する草むらを掻き分けて、性の谷へと落ちていく。
 「ぁん末様、ねえ末様・・あたしおかしい・・ああ末様ぁ」
  帯を解こう。着物も襦袢も湯文字も脱ごう。けどもうダメ、間に合わない。畳に手をつき犬のよう尻を突き上げて、着物をまくられ襦袢も湯文字も剥き上げられて尻さえ開き、淫らのすべてを見せつける。
 「あぅ! ぁ、ぁ、はぁぁ!」
  熱い舌。淫蜜をほしがって舐める舌。尻の穴まで開けひろげ、腰を振り尻を振って喘いでいる。
 「あやめ」
 「はい、はい末様・・あ! きゃぅぅ!」
  熱く硬く太い男が濡れビラを掻き分けてぬむりぬむりとめり込んで来る。
  肩も首も、吼えるように上を向く顔も頭も、がたがた震える。
 「ふぅぅふっふっ、ふぅぅ、ふぅう・・ああ末様、達します、達してしまいますぅ!」

  こんなことがあっただろうか。あまりにすごい喜びに愕然とするように黒羽の白い尻肉がぶるぶる震えた。突き抜かれるたび肉が揺れて波紋を伝え、その揺れがさらにすごい波濤のような喜びを連れてくる。
  そのままで腹の奥底を打つような迸りが欲しい。けれどダメ。狂うほどの喜びの中にいて、突き抜かれて去っていく末様。黒羽は振り向き、淫らにぬらめく強いものにむしゃぶりつくと、喉の奥へと突き立てて男の情を待ちわびた。
 「あやめ・・むぅう!」
  そのとき黒羽は目を見開いた。喉の奥を焼くような熱いもの。男が嫌い侍が嫌いと心して己を偽った真っ赤な嘘を思い知る。男が好き、もっともっと壊してほしい。脈打ってとめどなく襲う精の迸り。無我夢中で飲み込んだ。そしたらそのとき女の頂が見えてくる。夢のような喜びだった。夢のような高みにある性の頂点。そんなふうに思える女心があたしにあった。嬉しくてならない黒羽だった。

  情を放って穏やかに萎えていく末様を、あやめは涙目で見つめていた。
  一糸まとわぬ白き黒羽となれたこと。
  一糸まとわぬ強き男に抱かれていること。

 「夢のよう」
  末様は何も言わず抱きくるんでくださる。惚れた女に向かうとき言葉を失う男が好き。あやめの手が萎えた末様を握り込んで放さない。
  強く張る胸板越しに声がした。
 「数日前のことだがな、俺の剣の友に北町の同心がおるのだが、そいつに聞いた話よ」
 「はい」
 「市ヶ谷あたりの口入れ屋が何者かに襲われた。そこは表向きこそ口入れ屋なんだが裏ではかなりな悪だということ。奉行所として探ろうとはするのだが、どういうわけか差し止められる。上の上の息がかかるということらしい」
 「はい」
 「人吉とか申すその場には十人ほどの悪がいて、そのことごとくが消されてしまった。中には用心棒もいたらしく、しかしそやつも、ものの一刀、そっ首を吹っ飛ばされて倒れていた」
 「はい」
 「中には幾条もの斬り筋のできる妙な武器で殺られた者もいれば、何やら鞭のようなもので打たれて死んだ者もいる。こうしたものは忍びの武器よ。しかしそやつは言うておった、一刀で首を飛ばされた浪人者の屍があまりに見事と。襲った者どもの中にそれほどの剣の使い手がいたということさ」
 「はい」
 「そのような者どもがいてくれる江戸は心強いと思ったものだ。裁けぬところにこそ悪は潜むものゆえな」
 「はい」
 「そのときふと、俺はあの夜の黒羽の剣を思い出した。乱れなき一刀流の太刀筋。黒羽という芸者、武家の出ではないか。あれほどの剣を女が身につけるということは、さぞかし何ぞあったのだろうと」
 「はい」

  あやめの裸身が少し反り、仰向けに寝る末様を見つめて言った。
 「その黒羽と申す者、恐ろしい女です」
  しかし末様は虚空を見上げ、そっと手を回してあやめを引き寄せ、抱き締めた。
 「娘どもが売られるらしい。可哀想に土左衛門となって浮くらしい。そのようなことあらば俺などさらに鬼神となろう。斬り捨てるが人のため」
 「ふふふ、はい。ねえ末様」
 「うむ?」
 「女将さんがいっぺん連れて来いって言ってます。男嫌いでならした艶辰の黒羽が惚れた男が見てみたいと」
 「お光もいるしな」
 「それにしたって末様が救った娘。あたしのことも救ってくださり・・ふふふ」
 「あやめには惚れたが、黒羽という女には・・」

  しばしの沈黙。黒羽は男の胸板に頬を委ね、目を閉じて微笑んで、そして言った。
 「・・黒羽という女には?」
 「この俺に惚れてほしいと願うのみ」
 「ぅくっ・・ふふふ、末様らしい物を言う・・」
  見抜かれている。しかし、それならそれでいいと思う。
  黒羽の透けるように白い裸身は男の肌を這い降りて、憎らしいそこのところを指先でちょっと弾いて口に含んだ。
  そして黒羽は末様を口に含んだまま、裸身をずらして男の胸をまたぎ、いまだぬらぬらと淫らに咲いているはずの女の素性を見せつける。
 「どう末様? 惚れた惚れたと泣いてませぬか?」
  何も言わず口づけが花弁にちょっと触れ、けれど黒羽は腰を振って逃げて笑った。

  ちょうどその頃、艶辰で、お光は美神の寝所に呼ばれていた。眠る刻限ではない。美神も着物、お光も着物。正座をして背を正すお光を見つめて美神は言った。
 「虎介に聞いたよ、おまえ剣を習いたいそうだけど、何のために?」
 「はい。朝のお稽古を見ていて思ったんです。ここに置いてくださって夢のような暮らしの中で生きていられる。習えるものがたくさんあって、ならばできる限りのことをしてみたい。あたしはあたしの弱さと向き合っていたいから」
  この子は賢いと美神は思うが、しかしそれも悲しいこと。十七歳は悟りに遠いところに立つから輝くもの。
 「おまえ十四で男に犯されたのかい?」
 「そうです」
 「どうだったか言ってごらんよ。おまえの言葉でおまえの思いを」
  お光は、はいと言ってうなずいて、目を輝かせて言うのだった。

 「おなかが空いてお蕎麦を食べたんです。けどお金は持ってなく、逃げようとしたときに、たまたまそこにいた親分さんに捕まった。組に連れていかれ丸裸にされて男たちに嬲られた。次から次に犯されて、あたし未通女(おぼこ)だったから血だらけにされたんです。来る日も来る日も犯されて、そうするうちに良くなって声を上げて達していけるようになっていた。そのときあたしは十五でした。逆らえば怖いけど、あたしから身を開けば男たちはやさしくなると思い知ったんです。お乳に甘えるみたいにしてくれて、いつかそれが嬉しくなった。せめてそのときぐらいは幸せでいたいと思ったし。盗みを働き首尾良くいくと男たちが褒めてくれる。褒めてくれて次々に抱いてくれ、あたしはもっと達していける」
 「自ら体を開いたんだね? 嬉しくて?」
 「そうです、はい。いつの間にかあたしは甘え、そうすれば生きていけると思ったから。どんどん狡くなっていく。それでここのみんなの剣の稽古を見せられて思ったんです。あたしはあたしを斬り捨てたい。昔を斬って今度こそ胸を張って立ちたいと思ったんです」
 「芸者衆を見ていてどう思う?」
 「下働きからいろいろ覚えていきたい思いです。芸者さんなんて夢。まさかと思った遠い夢。夢に向かってあたしは己を責めていきたい。皆様が許してくださるまで責めていたいと思うんです」

  そのへんのことについては鷹羽に聞かされていた。罰がほしい、そうでないと苦しいと。この子なりに考えたことだろうと美神は思う。
 「いっぱしの口をきくんなら、そうなれるまでにくじけると許さないよ。痣だらけになる覚悟があるのなら紅か黒に言うことだね」
 「はい、そうします!」
  笑顔で美神の部屋を出たお光は、そのまま紅羽黒羽の部屋へと向かったのだが、もぬけの殻。壁の陰で聞いていた紅羽がお光と入れ替わるように美神の元へとやってくる。
 「聞いたかい、しょうのない小娘だよ」
 「振り払おうと懸命なんですよ」
  そう話し合って二人で笑い、紅羽が言った。
 「虎や情が戻ると、あの子ったら平伏して迎えるそうなんです」
 「知ってるよ聞いた聞いた。着替えでも堂々と裸になるし風呂まで一緒。一つ夜具で抱き合って寝てるって言うじゃないか。どうぞあたしを抱いて寝てくださいって、あやつめ裸で寝るそうだ」
 「ええ、あたしも聞いてます。色を売る辛さを身に染みて知っている。いい子じゃありませんか」
 「ふふふ、さてどうだか。じゃあ紅、明日から早速しごいてやりな」
  紅羽がうなずくと美神はちょっと眉を上げて首を傾げ、そして言った。
 「ときに黒は?」
  紅羽は目でうなずき、ちょっと笑った。
 「今宵は戻らないかも知れないって出て行きました。よかったと思ってますよ、あの子を組み敷ける男なんていないって思ってましたから」
 「会ってみたいもんだねぇ、お光にしたって元はと言えばそうなんだし、あの鷹までがイカレちまってるって話じゃないか」
  いまごろ妹は抱かれて喘いでいるだろうと姉は思い、胸があたたまる思いでいた。

  そしてまた同じ頃、宗志郎の小さな家の風呂場では。
  新調された真新しい湯船に浸かり、黒羽は末様の胸に頬を委ねて抱かれていた。
 「ふふふ可笑しい」
 「うむ? なぜ笑う?」
 「小さな家なのに湯船が大きい」
 「うむ、そうなんだ、棟梁のはからいさ。ちょいと大きくしときましたって笑ってやがった」
 「・・粋な棟梁」
  ちょっと笑って触れる口づけを交わし、それからまた末様の胸に頬を委ねる。
  黒羽はこのとき、察していながら踏み込まない末様を思い、それと同じように察するだけの美神という女の謎を考えていた。
  美神はときとして朝出かけ、夕刻までは戻らない。そしてそのたび何らかの動きを指図する。美神も武家の出。そのぐらいのことはわかりきった話だったし、出かけるたびに誰かに会って指図を受ける。それもまたわかりきった話だったが、ならばその相手はと考えると、深く入りすぎてはいけないと思うのだった。

  奉行所でも手に負えない一件をさばくとすれば相手はかなりな御仁だろう。だからこそ深くは入らないし知りたいとも思わない。
  さらに、お光もそうだ。そういったいきさつで連れて来られ、どうやら組は仕置きされたと感づいているだろう。芸者の置屋でありながら二日に一度は剣の稽古。この人たちは何者だろうと考えないはずはない。
  そう思うと可笑しくなる。人にはそれぞれ立ち入らない方がいい深みがあるもので。
  そしてまたそう思うと、末様ほどのお方を見抜けなかった女ばかりじゃないだろうとも思えてくる。どういった女を抱いて来たのだろうと気にすることは、それだけあたしが女となった証のようなもの。
  考えることがさまざまあって、だから可笑しくなって笑えてしまう。人の世は妙なものだと黒羽は思う。

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六話 お光の震え


 その深夜。雨も小降りとなっていて音のない静かな夜。
  鷺羽鶴羽鷹羽の三人が戻ったのは暁の九つ(午前零時)を過ぎた頃。そのときもちろんそれぞれが寝所で眠り、今宵ばかりは一人で寝所にこもっていた美神の元へ、戻って寝間着に着替えた鷹羽がそっと忍び込むようにやってくる。
 「ただいま戻りました」
  囁くような小声。しかしもちろん美神は気配に気づいている。
 「ご苦労だったね、娘らはどうだった?」
 「お光同様かなりな折檻を受けていて、けど皆が元気。尼寺へ預けてまいりました」
 「快く引き取ってくれたろう?」
 「はい、それはもう。庵主様というお方は、それは穏やかな老尼でいらして、うんうん、そういうことならわかったよって」
  美神は静かに微笑むと、両手をひろげて寝間着姿の鷹羽を夜具の中へと誘い入れ、母が娘を抱くようにそっと抱きくるんでやったのだった。
 「冷えたろう・・冷たい」
 「はい庵主様、心地いい」
  寝間着越しに鷹羽の背を撫で、美神は言った。
 「このあたしが面倒をかけた庵主様でね。もうずいぶん昔のことだけど」
  美神の静かな声をやはり寝間着越しの乳房のふくらみの裏に聞き、鷹羽は目を閉じてすがりついて甘えている。

 「それで組のほうは?」
  話にならない、まるで相手にならなかったと鷹羽は笑う。
 「組長というのが五十前の里という、でっぷり肥えた女。手下どもも見事に若造ばかりであたしらの相手じゃありません」
 「うむ」
 「何でも五年前に組長を亡くし、組の主だった者どもがよそへ鞍替えしてしまったとかで若造しか残らなかった」
 「うむ」
 「脇差しで手向かう連中をあたしらがあしらうと、里という女は、手下どもは許してほしい、斬るならあたしをと言い、それならばと里に剣を向けると今度は手下どもが泣いて許してやってと言う始末」
 「ほう・・思ったよりもいい奴らか」
 「そんなことでお光が言ったことも少しはうなずけ、かといって懲らしめておかないとと思ったもので、皆を丸裸に剥いて縛り上げ、里の耳でもいいし乳首ぐらいは削いでやろうとしたのですが、手下どもが泣いて泣いて、どうか許してとすがるもので」
 「親と子なんだね」
 「そのようでした。裸の里を縛り上げて柱に逆さに吊っておき、手下どもはひとまとめに縛り上げ、明日になったら叫べばいいと言い残して去ってきた」
 「なるほど赤っ恥というわけかい。うむ、それでいい。思うほど悪い組でもなさそうだ。身に染みればよしとして」
 「そうであってくれればいいけど・・ぁ・・庵主様ぁ・・」
  美神の手が鷹羽の寝間着の帯を解き、鷹羽は震えて抱かれていった。

  それから何刻かが過ぎた朝のこと。お光は虎介情介の寝所に移され、若くて愛らしい二つの寝顔に挟まれて目を開けた。夜具を三組、川の字にのべると部屋は狭い。目覚めたとき女の中にいると思い、香木のかすかな香りもあって安堵したお光だったのだが・・。
 「目が覚めたかい?」
  それにしては声がなんとなく違う気がした。声をかけたのは情介で、お光よりも六つ歳上。そしてその声で虎介までもが目を開けて、体を横寝に左右からお光を見つめる。一夜明け、鼻血はもちろん止まっていたが左目の周りが青くなって張れている。結っていた町娘の髷も解かれ、素裸に一枚だけ寝間着を着せられていたのだった。お光は己の体をまさぐってハッとする。けれど女同士の中にいる・・と考えたのだったが。
 「傷まないかい?」
 「あ、いいえ、もう」
  虎介の声のほうが違って聞こえる。情介よりも三つ下で二十歳の虎介のほうが声が低い。
  なのにどちらもが女の黒髪。それにここは芸者の置屋のはず。お光は何が何だかわからない。
 「そろそろ起きる刻限だよ。あたしらと一緒にやることがあるからね」
 「はい。あの・・」
 「なんだい?」
 「あたしほんとにいていいの? 盗人なのに?」
 「いいんだよ、おまえ次第だって女将さんに言われたろ。さあ起きよう」
 「はい」

  狭い部屋で揃って起きて、しかしすぐに着替え。お光の着物は綺麗にたたまれて置かれてあった。小柄なお光には鷹羽の着物がちょうどいい。
  夜具を離れて立ってみると、虎介情介の二人がはるかに背が高く、薄い単衣に透ける腰の線が固いと感じる。
  まさか。
  その上さらに二人が寝間着を脱ぐと桜色の湯文字を腰に巻き、なのにどちらにも乳房がない。愕然と見つめるお光に二人は顔を見合わせて微笑むのだった。
 「驚いたかい? あたしら男なんだよ」
 「えっえっ・・」
  それきり絶句するお光。
 「いろいろあって女将さんに拾われたのさ。あたしらも芸者のはしくれでね、お客が女でも男でも、あたしらは女としてお座敷に出てるから」
  と虎介が言い、情介は着替えろと言う。
  棲む世界の違う男・・いいや女・・どっちだろう?
  あたしは脱げば下穿きさえ身につけてはいない。恥ずかしさがこみ上げて頬が真っ赤になっていく。
  だけど脱がなければならない。お光は背を向けて震えながら寝間着を脱ぎ去り、そしたら両方の背後からそっと二人が抱いてくれる。ゾクゾクとする妙な心地にお光は身を固くした。
 「綺麗だよ、お光は」
 「うん、愛らしい姿じゃないか。誰にだって昔はある。あたしらと一緒に生きようね」
 「はい」

  生娘でゴロツキどもしか知らなかったお光にとって、はじめての男のやさしさ。
それに言葉も仕草も、何もかもが女よりも女らしい。あたしじゃ勝てない。女のはずのあたしなのに男の二人にとても勝てない。そう思うと、不思議なことに、この二人には甘えていいと思ってしまう。
 「愛らしいよ、お光」
  そう言って肌を撫でてくれる二人の男・・ほんとに男?
 「これから毎夜抱いて寝てあげる。あたしらの胸で泣けばいいからね」
 「はい、あたし気張ります、死んだ気で気張りますから」
  涙があふれてならなかった。素裸で立っていて、湯文字だけの情介に前から抱かれ、湯文字だけの虎介に後ろから抱きくるまれる。二人の肌は熱かった。
  衝き上げるお光の嗚咽が鳴き声となって響いていた。
  真新しい赤い湯文字、襦袢を着せられ、それまで見たこともないような浅い藤色の花模様の着物を着込み、キラキラ光る黒い帯。
  それから座って、虎介に黒髪を結い上げてもらうのだったが、それもそれまでのいいかげんな髷ではなくて、格上だと思っていた女の艶に満ちたもの。それで最後に情介が持っていた鼈甲(べっこう)のかんざしまでも。

  そんな姿で外に出て、前掛けをさせられて、女たちの洗い物から一日がはじまった。お光の心はふわふわしていた。
  ぽんと背中を叩かれて、それは黒羽。まだ髪も結ってなく、着物もあたりまえの姿なのだが、今朝になって見つめてみるとうっとりするほど美しい。
 「似合うじゃないか」
 「あ、はい、けど・・」
 「びっくりするのも無理はないよ。その着物、鷹羽の姉様のだからね、ちゃんと礼を言うんだよ。あたしは黒羽、よろしくね」
  そう言いながら、今度こそ女の黒羽が抱いてくれる。夢のような心持ち。
  お光を抱いてやりながら、黒羽はそばにいて見守る二人に笑いながら言うのだった。
 「こんなことだろうと思ったよ、かんざしまでしてやってさ。愛らしくし過ぎじゃないのかい。ふふふ、可愛い可愛い妹分てことだろうけど」
  そこは流し。洗い物もすれな顔も洗うそんな場所。夜具を起き抜けた女たちが次々にやってきて、見違える姿にされたお光のことを次々に抱いていく。
 「おやまぁ愛らしい。目の周りがちょっとだけど。ふっふっふ」
 「はい、恥ずかしくてあたし」
 「あたしは鷹羽、よろしくね」
 「あ、このお着物、姉様の・・あたし嬉しくて」
 「わかったわかった、泣かない泣かない。せいぜい気張りな、ここでだめならおしまいだよ」

  それで最後に女将の美神。とりわけどうという着物でもなく化粧もしてはいなかった。なのにそれでも声も出ない美しさ。お光は女の格というものをはじめて見た思いだった。
 「お光」
 「はいっ」
 「虎と情、二人の心にどう応えるかがおまえを決めるんだ。ここは夜の女の住処だよ。うわべの繕いなども一切いらぬ。思うがままに応えてやりな。女の命に胸を張るんだ、わかったね」
 「はいっ!」
  美神に尻をこれでもかと叩かれて、お光は泣きながらも白い歯を見せて笑うのだった。

  夕べの今朝。起き抜けていきなり違う世界にいたお光。そしてその日の夜、虎介情介の二人が戻ったのは遅かった。二人はそれから湯に浸かり、そっと忍ぶように寝所へと入って来る。
  夜具が三組、きっちりと整えられていて、その真ん中にお光はいる。お光は寝間着を着た姿。自分の布団の上で三つ指をつき、戻って来た二人を迎えるのだった。
 「虎介の姉様、情介の姉様、遅くまでご苦労様です」
 「うんうん、先に寝てればよかったものを。遅くなってすまなかったね」
  二人が左右に分かれて横になり、お光はささやくように言う。
 「今宵のお客様は女の方で?」
  虎介が寝返ってお光を見つめた。
 「いいや男のお客さ」
 「男の・・」
 「そうだよ。あたしらにはご贔屓さんでね」
  そしたら横から情介が言う。拾い紙という遊びがあって、負けた方が脱いでいく。恥ずかしくてならないけれど、それでお客さんは楽しんでくれるのだと。
 「それはその・・男同士でということに?」
  虎介が言う。
 「そうなるときもあるし、お客が女であれば女同士ってこともある。ほら、あたしらって女だろ」
 「ああ・・はい」
 「今宵はお相手が男だったというだけであたしらはいつも女。それは楽しそうにしていただいて、抱かれて可愛がられると、ほら、男って勃つからね、それはお客さんもだけど」
 「お相手の方々も?」
 「もちろんそうさ、あたしらの心に応えてくださる。それが嬉しくてあたしらだって応えて差し上げる。硬いものをしゃぶって差し上げ、導いて差し上げる。そうすると向こうだって同じようにしてくださり、あたしらは女の声を上げて達していくんだ」

  頬が燃えるような話であった。男色などあたりまえの時代であっても、下々ではそうではない。男同士が抱き合う姿を思い描くと、身震いするような人の深さを思い知る。愛という世界を知らないうちに性だけをたたき込まれたお光には、それは遠い世界のように思えてならない。たった一日のことでお光はむくむくと何かが育ち枝葉をひろげていく己を感じた。
 「美介の姉様ともお話しましたが」
  それには情介が応じた。
 「お艶さんと呼ばれていてね、三人ともに」
 「はい、少しお話ししてくれて」
 「脱いでも湯文字まで。同じような遊びがあって脱がされていくんだけど、姉様方は姉様方で、笑っていただけ抱いていただけ、本気で濡れるって言ってるんだよ」
 「・・はい」
 「人はそんなものなのさ。心はきっと通じるもの。それだけのために生きるのがあたしらなんだし」

  それで一度は声も絶えて目を閉じたお光だったが、ふいに虎介が言う。
 「なぜだかわかるかい?」
 「え?」
 「あたしらがなぜそうするのかってことじゃないか」
  お光には答えようがなかった。
  しばらく待って虎介が言う。
 「命はいつ消えるとも知れないもの。そのときの想いに素直でいたい」
  お光はそれでも声が出ない。それは組にいてゴロツキどもに抱かれていてもそうだった。あたしなんてクズ。けれどクズなりにいまの喜びに浸っていたい。虎介の言葉のそこだけは素直に飲み込めるお光だった。
  そして同時にお光はこうも考えた。夕べの女将さんのあの言葉・・『殺すまでのことはない、痛めつけてやるんだね』・・ここの人たちは芸者というだけではないのではないか? 命がけで何かをする人たちではないか?
  それゆえそう思えるのではないかと。

 「あたし・・」

  そう言って黙り込むお光に、二人は左右から目をなげた。闇の中にキッと目を開けて虚空を見つめるお光の姿が見てとれる。
  情介が問うた。
 「言いな。なんだい?」
 「あたし力が湧いてきた。けどあたし、罰もなく許されるのは嫌。怖いんです。これまでのあたしを叱ってくれないと怖いんです」
  この子はもがいていると二人は思う。それはかつて己でも嫌というほど苦しんだのと同じ思い。しかし罰とは己で見つけて己を裁くもの。ただの甘えだと気づくにはお光は若すぎると、このとき二人は考えていた。

 「お光」
 「はい姉様?」
 「あたしがおまえを抱いたとする。それでおまえが達してくれて眠れるなら嬉しくなれる」
 「はい」
 「あたしがおまえを責めたとする。おまえは泣いて苦しむだろうし、そんなおまえを見ているあたしはもっと苦しい」
 「・・はい」
 「ならば、おまえが己でおまえを責めたとすればどうか。あたしらはどう思うか、そこをよく考えるんだね」
  虎介から夕べの話を聞かされて、鷹羽はお光を叱っていた。

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五話 黒羽の震え


 ついいましがた茶屋で休んだ二人だったが、宗志郎と出会ったことでふたたび茶屋での時を過ごす。茶屋と言っても表の道筋からは少し逸れ、客がまとまれば出合茶屋でもないのに小さな部屋ごと貸してくれる、そんな店。しかし安普請。外の道筋にあふれかえる騒がしさは忍び込む。
  ともかくも落ち着ける小部屋で宗志郎と黒羽鷺羽は向き合った。穏やかな声で宗志郎が言った。
 「じつを申さば、こたびの役目と言えど、俺にははじめての役目なのだが、俺はつくづく城務めには向かんと思った。それで今日、このへんにどっかないかと思ってな。で、そなたらとバッタリというわけさ」
  鷺羽が問うた。
 「どっかないかとは?」
 「長屋でもいいし空き家でもあらばそれもよし」
  黒羽が言った。
 「では、お家を出て?」
 「恥ずかしながらそういうことだ。親父殿のしかめっ面も見なければならぬし、あれやこれやと言いつけられそうでたまらんのだ」
  黒羽はちょっと息苦しい。このあたりであるならいつでも会えるし、会いたくなって抑えられなくなるだろう。

 「そんなことでよろしいので?」
  鷹羽が問うと、宗志郎は浅く笑ってうなずいた。
 「四男坊などそんなものよ。兄が三人、しかもその兄たちとは母者が違う身の上ゆえな」
  後添えの子・・それでは居づらいだろうと黒羽は思う。
 「こたびの役目も棟梁に任せておけば大事ない。夕べもそうだが黒・・いや、あやめ殿に末様と呼ばれたとき、まさに末を思って考えてしまってな。旗本などとふんぞり返る暮らしが性に合わんのだ。棟梁を見ていても、あやめ殿や、こなたかきつばた殿を見ていても、町の暮らしがいいと思う。ま、どう繕っても逃げではあるが俺には城務めは向かんのだ」
  鷹羽が言った。
 「では、すぐにでも?」
 「そうだ、すぐにでも。じつはすでに小さな家を見て来てな。それならと棟梁が探してくれた。あやめ殿のそばにもいたいだろうしと言われてな」
  澄んだ目でまっすぐ見つめられる黒羽。

  黒羽は震えるような想いを、ちょっとうつむき噛み締めていた。これほど素直に想いを告げてくれるなどとは思いもしない。
  片や鷹羽も女。そうした黒羽の想いを察した上でほくそ笑み、黒羽の肩をちょっと突いた。
 「それで、どのへんで?」
  と、そう言う黒羽の声がか細くなったと鷹羽は思う。
 「この少し先なんだが、ほんに小さな家でな、いまは古くて汚いが気に入るようなら手を入れてやると棟梁が言ってくれ、手直しぐらいでいいのなら、まずは三日ということだった。いまのままでは厨と風呂が使えぬ」
 「あ、はい、左様で」
  風呂・・ああ、たまらない。黒羽は己の中にこれほどの女の情が眠っていたのかと驚くほど、身震いするような想いを感じていた。つい夕べお座敷で会ったばかり。しかもこちらは売り物の芸者であった。あたしはもう三十路。どうかしてると思っても胸が詰まる苦しさは何なのか。
  宗志郎は言う。
 「さすれば胸内(むなうち)に紅差すお方ともども遊びに来られるではないか」
 「え・・」
  黒羽は驚きの面色で宗志郎を見つめていた。胸内に紅差すお方・・あのときお座敷で赤襟を返していた姉の胸の内までをもくんでくれるお人。そうした物言いが嬉しかったし、なんと粋なお人だろうと思うしかない。

  そしてそんな想いが黒羽を女へと化身させる。腰のどこか奥底が疼くような、いまにも乱れだす性への予感。
  片やの鷹羽。剣を持たせればとても勝てない姉様なのに、その姉様をこれほど見事に変えられる男がいるというのか。そばにいて横目に見るうち、嬉しくなってならない鷹羽であった。
 「では三日でそちらに?」
  もう声もなくした黒羽の代わりに鷹羽は問うた。
  宗志郎は鷹羽に微笑み、それからまっすぐ黒羽を見つめた。目と目が合って黒羽はとてもそらせない。
 「三日というのはそれだけ手直しにかかるということでな。ううむ、四日かな? はっはっは」
  黒目を回すあのときの仕草が童のよう。鷹羽は笑い、黒羽はますます頬が火照ってたまらない。

  宗志郎はふいに言った。いいや、言いかけた。
 「それしても、あやめ殿のあの太刀筋、あれは一刀・・」
  一刀流と言いかけたそのとき茶屋のすぐ表で騒ぎが起きた。男どもの怒鳴り声と若い女の悲鳴が響いてくる。
  宗志郎は傍らに置いた剣を取ると、涼しい面色で座を離れ、黒羽鷺羽の二人がそれに続く。
  外に出てみると、どこぞの藩のご立派な若侍が三人。地べたに崩れた一人の町娘を囲んでいた。娘はまだ十代であったろう。赤い格子の着物を着て、胸を抱くようにへたり込んでしまっている。
  スリだった。ちょっとぶつかり懐から財布を抜き取る。しかし相手が悪すぎる。三人で歩いていて、そのうちの一人が二人と別れて歩き出し、娘はその一人のほうを狙ったようだ。
  男たちは泣いて震える娘を三方から囲んでいて、斬り捨てると言って息巻いている。宗志郎は割って入った。

 「まあまあ、そう責めずとも」
 「何者だ貴様は!」
 「いやいや、この茶屋でしっぽり。それだけの男でござるよ。見ればまだ小娘ではないか。盗られたものも戻ったようだし、このように泣いておる。許してやってはくれまいか」
  穏やかに話す宗志郎だったが侍三人はおさまらない。三人は三人ともに二十代の若侍。それだけに血気盛んで頭に血が上っている。
  宗志郎に対していまにも剣を抜きそうな身構え。取り囲んで見守る多くの町人たち。なのに宗志郎は、しごく平然と三人を見渡して言うのだった。
 「そなたらが許せぬ気持ちはよくわかる。ではこうしよう」
  とそう言うと、宗志郎は地べたに崩れた娘の手を取って立たせ、泣き顔を覗き込んで言う。
 「盗みをしたのはおまえだな?」
 「はい」
 「悔いておるな?」
 「はい」
 「うんうん、ではそこに立っておれ。動くでないぞ」

  刹那、宗志郎の腰から抜き放たれた白刃が目にもとまらぬ速さでツバメが飛ぶごとくキラキラと宙を舞い、立たされた娘の着物をボロ布に変えていく。
  突っ立って見つめる三人の若侍は一歩また一歩と退いていき声もない。三人がかりで手向かっても、とても勝てる相手ではないと見定めた。
  帯を断たれ、袖を切られ、裾を切られ、娘はそのたび露わとなっていく赤い湯文字と若い肌に呆然としながら、泣いて泣いて涙を流す。
  娘の着物をボロ布としておきながら肌には傷ひとつ残さない剣さばき。半裸となった娘が胸を抱いてくずおれて、宗志郎は白刃をくるりと回して鞘におさめ、三人の若侍に向かうのだった。
 「これでどうか? この娘はこうして町中で恥もかき心底悔いておるはずだ。拙者に免じて許してはもらえぬだろうか」
  若侍三人は、宗志郎のあまりの剣に声もないまま、うなずいて去って行く。そして黒羽がすっと歩み寄り、羽織っていた薄い綿入れを脱いで娘の肩に掛けてやる。
  町人たちからやんややんやの拍手が起こり、宗志郎は、泣く娘の肩に手を置いた。
 「二度とやるなよ、よいな、わかったな」
 「はい、ありがとうございました」
 「うむ、もうよい去れ」
  娘は幾度も頭を下げて逃げるように駆け去った。

  末様の太刀筋は柳生新陰流・・いいや少し違うと黒羽は思い、鷹羽は恐ろしく強いと愕然としていた。新陰流にもいくつもの流派があって、柳生の剣とは太刀筋が違うもの。
  宗志郎が、ふむ、と息にのせて、語調を変えて言う。
 「さて。あーあ、なぜにこうなるのやら。しっぽりどころかあんぐりであったろう。みっともないところを見せてしまったな。うむ四日だ。四日したらまた会おう。雲行きも怪しいゆえ今日のところはさらばだ、むふふ」
  ふざけるように笑って歩み去る宗志郎の背を見つめ、黒羽は、末様の女になると確信できた。そしてふと空を見上げ、いつの間にかひろがりだした黒い雲を見回した。

  その夜、艶辰に女将の美神が戻ったのは、夕刻前よりかなり遅い暮れの六つ(七時頃)。時につれて本降りとなった雨に道がぬかるみ、そうそう早くは歩けない。美神は戻ってすぐ、そのとき迎えに立った鶴羽に言った。
 「おや、いたのかい?」
 「はい。お呼びはかかったのですが、この雨でまたにすると」
 「だろうね、外はびしゃびしゃだよ。他は?」
 「お艶さん三人だけ。他はおります」
  お艶さんとは美介彩介恋介の三人衆。色を求める客には雨などさしたることでもないようだ。美神は笑い、紅羽そのほか四人を集めるようにと言った。
  紅羽黒羽の姉妹に、鷺羽と鷹羽、それに鶴羽が顔を揃えて大きな火鉢を取り囲む。
  美神が言った。
 「ようやくつかんだ、市ヶ谷に『人吉(ひとよし)』って口入れ屋があるんだが、そこが根っこよ」
  鷺羽が言う。
 「人吉か。まさしく人を喰った名だこと」
  それに美神は笑ってうなずき、さらに言う。
 「表向きはちゃんとした口入れ屋なんだが裏ではあこぎなことをやってやがる」

  それが美介を遊郭に売り飛ばした輩である。女衒(ぜげん・人買い)の出入りする口入れ屋であり、仕入れたモノによって、遊郭に売り飛ばしたり、美形であれば色狂いの武家の家へ法外な値をふっかけて売り飛ばす。そうした娘らの中から川に浮く土左衛門が出るに至って、放っておくわけにはいかなくなったということだ。
 「相手は総勢十人ほどだが用心棒のような痩せ侍もいるってことだから、心してかかるんだよ。明日にでも早速始末しておしまい」
  置屋の艶辰はときとして休みとなる。そういう事情があったからだ。

  ところがそんなとき、慌ただしく戸を叩く音がする。
  皆で顔を見つめ合い、そのときは鷹羽が立って戸口へ向かった。
 「ああ、いたいた、鷹ちゃん大変なんだよ、すぐ来ておくれ」
  浅草寺そばの馴染みの蕎麦屋の女房だった。
 「いますぐ?」
 「すぐにだよ。ほら昼間のあの小娘がさ」
  昼間、宗志郎が救った小娘が着の身着のまま、あの茶屋に飛び込んで来たという。娘は顔を手ひどく殴られていて、目の周りが青ざめていて、飛び込んで来るなりばったり倒れてしまったらしい。
  どうやらあの騒ぎを取り囲んだ町人たちの中に鷹羽を知る者がいたらしい。茶屋と蕎麦屋はすぐ近所。それで蕎麦屋の女房が駆けつけたということだ。
  戸口で大きな声を張り上げるものだから、美神そのほか皆が出て来て、黒羽が昼間にあった事の子細を美神に告げた。
  盗みにしくじって折檻されたのだろう。
 「わかった、行っておやり。ここに連れて来るんだよ」
  美神に言われて黒羽と鷹羽、それに鷺羽の三人が雨具を着込んで飛び出した。

  あのときの小娘は、名をお光(みつ)と言って、まだ十七歳の娘であった。顔をこれでもかと殴られていて、鼻血がひどく、全身濡れねずみ。泥だらけの着物は蕎麦屋で着替えさせてもらっていたが、裸足で走った足は泥だらけ。町娘の結い髪など乱れに乱れた姿であった。
  美神の見守る前でお光は裸にさせて体を拭かれ、寝間着を与えられて横になる。若い裸身に傷はなく、皆はちょっとほっとした。
  お光の姿を黒羽も鷹羽も覚えていたが、お光はそれどころではなかった。見ず知らずの女ばかりに囲まれて怯えきっているようだ。
  手当てをされて晒し布を鼻にあてられ、お光は息も絶え絶えだった。
  青ざめた面色で横たわる床のそばに美神は座り、怯えのせいか冷えたせいか震える頬にそっと手を置く。
 「お光と言ったね? 十七だとか?」
 「はい光です、歳も、はい」
 「うむ。おまえスリを働いたって? それが生業かい?」
 「はい、あたしら皆、見張られて働いて・・スリもだし置き引きとかも」
 「しくじって折檻された?」
 「そうです、はい。あたしら、しくじるといつもそう」

  美神はなんてことかと首を振って皆を見渡す。
 「それで逃げて来たんだね? どっからだい?」
 「下谷」
  下谷なら近い。
 「下谷? 下谷のどこさ?」
 「神田との境のへんに『我門(がもん)』て言う組があり・・あの、ここはどこ?」
  星のない雨の夜。裸足で死に物狂いに走り、それから黒羽らに両脇を抱えられてやっとの思いでここまで来た。両国橋を渡ったことさえ覚えていないようだった。
  鷹羽が言う。
 「本所深川だよ」
 「なら近い。下谷広小路の通りから一本向こうの路地に入り、少し行くと左に小さなお稲荷さんの赤い鳥居。その角を左に入ってすぐのところ」
  あのとき騒ぎのあった場所からも遠くない。
  美神が問うた。
 「やくざ者なんだね?」
 「はい。親分は女の人で、名は里(さと)って言う恐ろしい女。そこであたしら見張られて暮らしてて」
 「手下の数は?」
 「五人です、皆が若く、はみだし者ばかり」
 「おまえはどうしてそんなことになったんだい? いつから盗みを働いてる?」
 「あたしは下野(しもつけ)の山里の出で、妹たちが二人いて喰えなくて、それで売られそうになったから逃げたんです。十四のとき。それで彷徨ううちに江戸にいて、けどやっぱり喰えなくて親分さんに拾われた」
 「じゃあ十四のときからずっと盗みを?」
 「はいずっと。けどあたしらの中には十三の子もいて」
 「十三・・それで娘らはどれほどいるんだい?」
 「あたしのほか四人です。上でも十八。一人がしくじると皆が叩かれ、だから逃げられなくなるんです。あたしら仲がいいから」
 「男どもに体は?」
 「それは、あの・・」
  お光は唇を噛んで声もない。
 「だろうね」
 「だからあの、それもあって逃げられなくて」
 「どういうことだい?」
 「はみ出し者でも、あたしらみんな生娘だったし、甘えられたりして可愛いところもあるんだし・・」
  これには皆が声をなくした。最初の男を想ってしまう娘心が可愛いし、哀れでもある。それにしても十三歳の童にまで・・。

  美神はため息をつきながら、わずかに首を横に振った。
 「なんてこった、あっちでもこっちでも」
  たったいま、それとよく似た別の件を話したばかり。美神は呆れ果て、しかしその刹那、怒りに満ちた眸の色で皆を見渡した。
  しかしこうしたとき、組をつぶすのはたやすくても、それでは結局、娘らが路頭に迷うことになる。美神はちょっと考える素振りをすると鷹羽に言った。
 「不忍池の向こうに妙香院(みょうこういん)て尼寺がある。下谷広小路ならすぐそこさ。このあたしが言ったって言やぁ娘らの面倒をみてくれる。鷹、鷺、それに鶴、ご苦労だけどすぐにかかりな。殺るまでのことはないよ、こっぴどく痛い目みさせてやりゃあいいだろう」
  三人は互いに顔を見合わせてさっと立ち、奥へと消えて、そのまま艶辰から姿を消した。

  怖くてならないお光。すぐそばで恐ろしいことを言い放った、あまりにも美しい美神を見上げて言うのだった。
 「あの、女将様」
 「なんだい?」
 「ここはどういったところ? あたしのこと番屋へ?」
  美神は微笑み、冬の雨に冷え切ったお光の額をそっと撫でて言うのだった。
 「しばらくはここにいな。それからのことはおまえ次第さ。ウチは置屋だよ」
 「置屋? 芸者さんの?」
 「そうさ芸者の置屋。あたしはその女将ってこと。おまえなんぞ突き出したって寝覚めが悪くなるだけよ。死の者狂いでやるなら置いてやる。ただし下働きからだよ」
  お光は目を丸くする。
 「置いてくれるんですか? あたし盗人なのに・・」
 「もういい言うな、今宵は寝ろ、ひでぇ面だぞ」
  男っぽい物言いでも頬を撫でてくれる手がすべやかで温かい。お光はそれでようやく力が抜けて、抜けたとたんに眠ってしまう。疲れ果てているのだろう。

 「この雨の中を裸足でさ・・可哀想に・・」
  額や頬を撫で続ける美神。よかったと黒羽は思う。
  あのとき末様に救われて、逃げようとしたときにとっさにあの場所を思ったのだろうと考えた。人の情をはじめて知ったあの場所を。
  そしてそんなとき、別棟にいた男芸者の二人が顔を出す。姉様たちが慌ただしく出て行く気配に、何かあったと気づいたのだろう。美神は二人の顔を見るとちょっと考える素振りをして言うのだった。
 「この子はお光、まだ十七だよ。おまえたちの部屋で面倒をみてやるようにね」
  二人はきょとんとして顔を見合わせていた。黒羽には、そうした美神の想いはわかる気がした。

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四話 朝の艶辰


  芸者衆十名を女将の美神が束ねる置屋の艶辰は、それまで墨田あたりの川から海までの一帯で漁をする網元の住まいであった。江戸が栄え花街としての色が濃くなって一帯に料理屋や出合茶屋などができていき、そのとき網元だった男が老いて家を手放す。かつての広大な敷地を三つに割って売り払った、そのうちのひとつであった。三代将軍家光の頃であったと言われている。

  そう古くもない艶辰の建物は平屋の棟が申し訳程度の中庭をはさむ、ちょうど『』このような造りとされていて、通り側を除く三方に目の高さよりも高い板塀が造られて目隠しとなっている。二人いる男芸者も女形であり、襦袢や湯文字など洗ったものを干すにせよ、建物の造りと板塀が人の目を遠ざけた。
  芸者衆は夜に生きる。朝は遅いほうであったが、冬のいま、それでも明けの六つ(六時半頃)、明るくなる頃には皆が起き出し、歳の若い虎介情介が皆の洗い物をする。女将の美神は男芸者二人に女として生きるよう躾けていた。虎介も情介も小柄で華奢。すらりと背の高い紅羽黒羽の姉妹と身の丈が変わらない。ゆえに女形がよく似合い、またどちらも気が弱くてやさしい若者。とりわけ芸者となって半年ほどの情介に対しては、華やかな芸者姿の裏にある湯文字までを洗わせて女の素性を教えていこうと考えている。

  そんな男芸者二人をよそに、同じく若い艶芸者の美介彩介恋介の三名に対しては、逆に強くなれと教えていた。朝起きると真っ先に匕首や剣、それに空手の稽古をさせるのだ。板塀の外に墨田の流れ(隅田川)。浅草川とも呼ばれた大河との間には草原の河川敷がひろがっていて、板塀の内側の稽古の気合いを吸い取ってくれている。美介彩介恋介ともに、忍びが鍛錬で用いる生成りの木綿の忍び装束。そして今朝、この三名に教えるは姉様芸者の鷹羽であった。
  鷹羽もまた生成りの忍び装束。鷹羽は二十七歳。中背の美しい女であったのだが、いまはもう崩壊して散り散りとなった伊賀のくノ一。上で二十二、下で十九という若い美介彩介恋介にとっては恐ろしく強い姉様だった。
 「もっと腰を沈めるんだ。拳をやわらかく握り、当たるそのとき握り込む。突きは肩からだよ。肩が出て腰が入り、拳が伸びてく感じだね。いいね! わかったら左右で百本、はじめ!」
 「はいっ!」
  三人の妹分は皆一様に厳しい眼差し。セイセイと気合いを吐いて打ち込むのだが、まだまだ甘い。三年ほど前までの艶辰には美介一人がいただけで、ましてや若い恋介など鍛錬しだして一年と経ってはいない。

 「こら恋(れん)! 猫が引っ掻いてんじゃねえんだよ!」
 「あぅっ!」
  鷹羽の左回し蹴りをまともに尻にくらって吹っ飛ぶ恋介。この三人は艶芸者であり、もっと厳しくしたいところだったが体に傷を残すわけにはいかなかった。
 「なんだい、どいつもこいつも! こうだ見てな!」
  腿を割って腰を沈め、右足を一足分前に出して構える鷹羽。右左右と忍び装束の手首の生地がビシっと鳴るほどすさまじい打ち込み。若い三人が憧れるような目を向ける。
  くノ一は、生まれて物心つく頃から体中を痣だらけにされるほどの鍛錬を積んでいる。にわか鍛錬でできるものではない。技よりも強い心。そのための鍛錬だった。
  そんな様子を微笑んでしばらく見ていた黒羽。
 「さて、あたしらも軽く」
 「はい姉様」

  黒羽は、やはり生成りの木綿の単衣。結い上げる前の黒髪を後ろでまとめて垂らしている。化粧もしない。それでも黒羽は美しかった。
  黒羽は木刀。その黒羽に促されて左右に立つのは鶴羽と鷺羽。鶴羽鷺羽の二人も黒羽と同じく黒髪を垂らしてまとめ、生成りの木綿の単衣を着込む。
  黒羽は三十歳。対する鶴羽は一つ上の三十一、鷺羽は二つ下の二十八。この鶴羽鷺羽の二人は背格好が同じようなもの。黒羽より少し背が低く、しかしどちらも鍛えられた肢体を持つ。鶴羽は鷹羽同様に崩壊した甲賀のくノ一。鷺羽は甲斐一帯にいまも残る戸隠流のくノ一だった。二人ともにもちろん手練れ。鷹羽に劣らぬ技を使う。
  そんな二人を右と左の前に置き、木刀を中段に構える黒羽。剣を持つときの黒羽は、立ち姿から妖気のようなものさえ立ち昇る。そばで見ている若い三人にはそう見えたに違いなかった。
 「打ち込んでおいで」
 「はいっ!」
  鶴羽鷺羽ともに、一瞬の間を置いてほぼ同時に打ち込むのだが、黒羽の木刀がカンカンと乾いた音を響かせて左右の剣をこともなげに払い、二人は一歩後ろへ飛んでふたたび腰を沈めて身構える。
 「セェェーイ」
 「ハァァーイ」
  二人の気合いが重なって、木刀対木刀、すさまじい打ち合いになるのだったが、黒羽はその中にいて、どちらの剣をも蹴散らして、ごく軽い抜き胴を二人交互に浴びせていく。

 「すごい・・」
  ぼーっと見ていた、まだ十九の恋介が思わず言った。
 「参りました」
  鶴羽鷺羽のどちらもが片膝をついて頭を下げる。しかし黒羽はそんな二人の肩にそっと手を置き、言うのだった。
 「剣ではね。けど忍びの技ではとても及ばぬ。おまえたちもいい太刀筋になってきたよ」
  鶴羽鷺羽の二人はちょっと笑ってこくりと首を折るのだった。
  それにしても黒羽の剣。それぞれ手練れのくノ一を相手に、まるで寄せ付けない強さ。それに気品。立ち姿の品格とでも言えばいいのか、これには鷹羽も含めたくノ一三人は憧れる。
  そしてさらにその場に姉の紅羽。歳こそ黒羽より二つ上だが剣では黒羽。同じような立ち姿で木刀を構えて向き合う姉妹を囲んで六人が見つめている。
 「いくよ、セェェィヤァ!」
 「なんの! ハァァーイ!」
  カンカン! カーン! カンカーン!
  腰を沈めて打ち合ううちに互いに単衣の裾が乱れて白い腿まで露わとなる。木刀も折れるのではと思うほどのすさまじい打ち合い。まるで互角。しかし黒羽の剣がやや上か。押し込まれて退いて行くのは紅羽のほう。
  この姉妹はいったい何者。太平の世にあって武家の女どもでもこれほどの使い手はまずいない。
 「それまで!」
  黒羽が制して、二人ともに剣を降ろす。

  そして黒羽は、美介彩介恋介の若い三人に歩み寄り、それぞれに頬を撫でてやり、それぞれを抱いてやり、それぞれに口づけをしてやった。
 「おまえたちの辛さはよくわかるよ、強くなって前を向いて」
 「はい姉様、嬉しい」
  それぞれにうなずいて涙を溜める。美介は一度は遊郭へ売られた身。彩介と恋介はいずれも奉公先で嬲られ尽くして逃げてきた娘たち。恋介など体中に淫らな責めの痕があり、追っ手となったゴロツキどもを紅羽黒羽の姉妹の剣が蹴散らした。そのときのことをいまでもはっきり覚えていた。

  そうした女たちの洗い物を干しながら、稽古の様子を横目に見る男芸者の二人の肩に女将の美神はそっと手を置き、言うのだった。虎介情介ともに長い黒髪をまとめて垂らし、やはり生成りの木綿の単衣を着込んでいる。
  なのに美神一人が髪も結い上げ、薄く化粧も整えた出かける姿。落ち着いた江戸小紋の着物がよく似合い、そばにいるだけで二人の男竿は疼きだす。
 「おまえたちはダメだよ、とことん弱くおなり。男は強くなろうとすると見えなくなるものがあるからね」
 「はい庵主様」
  美神の両手がそれぞれ若い二人の股間に寄せられて、それぞれが男竿をふくらませる。
 「ふふふ可愛い、もう大きくしてるんだから」
  虎介情介ともに白い頬が紅潮し、甘い息を漏らしていた。
  そんな二人の尻を叩いて歩み出た美神。振り向く皆を見渡して誰とはなしに言う。
 「あたしゃ、ちょいと出てくるから。そうさねぇ夕刻前かな」
  戻るのは夕刻。皆がうなずき、美神は穏やかに微笑むと背を向けた。

  芸者は夜に花咲くもの。美神が出て、それから皆で朝餉を済ませ、今日は紅羽を置いて黒羽が出た。最前剣を交えなかった鷹羽を連れて。鷹羽もまたどこにでもいる町女の姿。お天道様のあるうちは芸者の身を忘れていたい。
  永代橋を渡り、なじみの小間物屋、なじみの茶屋で甘い物でもほおばって姉妹のように歩いている。夜の女は深川限り。その外では二人ともただの女でいたいと思う。
  墨田の流れに沿って歩き、ひとつ川上の両国橋。その広小路の表通りに出たときだった。
  黒羽は、待ちわびたような面色を一瞬見せたが、昨日の今日の話。
  葉山宗志郎。濃くかすれた青地の着物。黒鞘の大小を腰に差した凜々しい姿。袴などは穿いておらず、今日の登城はないようだった。
  芸者姿の黒羽ではない、くだけたそこらの女のいでたち。はたして気づいてくれるのだろうか・・と思うよりも先に、宗志郎は微笑んで、そっと歩み寄って来るのだった。

  微笑んでちょっと頭を下げたのだったが、そのとき黒羽は、どう呼んでくれるのだろうと考えた。
 「これは黒・・いや・・ううむ」
 「ふふふ」
  困ってる困ってる。昼日中の呼び名に困るやさしさが嬉しかった。
 「あやめ殿、このようなところでお会いできようとは」
 「あやめですの? このあたしが?」
 「うむ、さすればお隣りは、かきつばた」
  これには鷹羽もくすりと笑う。
 「ゆうべのお座敷で」と、黒羽は小声で鷹羽に告げた。
  黒羽が言った。
 「末様こそ、なぜに?」
 「さてね、浅草寺でも見てみようかと。あやめ殿とのことを願掛けに」
  そう言って黒目を回す仕草。粋な人だと鷹羽も思う。
 「妹のような、かきつばたでございます」
  そう言って黒羽は鷹羽を引き合わせる。
 「鷹羽と申します、どうぞご贔屓に」
 「うむ、俺のほうこそ。されどあれですな」
  と宗志郎は黒羽を見つめる。
 「はい?」
 「皆々、名に羽がつくようで?」
  黒羽は笑ってうなずくと、末様と呼んだ宗志郎の耳許で言うのだった。
 「女が空高く舞えるようにと女将さんが」
 「ほう、これはまた粋な」

  親しげな二人の様子に、鷹羽は先に戻ると言ったのだったが、宗志郎が引き留めた。
 「いやいや、それでは無粋というもの。空高く舞うものは舞ってこその命。見上げて想うぐらいがせいぜいの男ゆえ。ふっふっふ、茶でもいかがか?」
  鷹羽の面色が女の色に満ちていると、このとき黒羽は可笑しくなった。鷹羽は男を寄せ付けない。そんな女のはずなのに。

  この末様に、あたしは抱かれる。

  黒羽は燃えるような想いが衝き上げてくる女体の気配を感じていた。
  この出会いが置屋の艶辰を変えていこうとは、このとき二人は思ってもみなかった。

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三話 色狂い


 喜世州はつまり一夜の色を楽しむ店。と言って遊郭ほど露骨なものでもなく、呼ばれた芸者たちは客を選んで接していられる。今宵の三人、それに幼子の急な病で来られなくなった一人を加えた四人のお内儀たちは、虎介情介にとっては上客であり、あるところを限度に遊ぶ頃合いを心得た四人であった。
  虎介は二十歳、情介は三つ上の二十三歳であったのだが、色芸者としては虎介の方が姉様格で十八の頃より艶辰に籍を置いた。情介はまだ半年ほどである。
  三人の客の中の姉御格の女は沢という名であったが、喜世州では名など不要。どちらも桜色の湯文字だけにされて、女そのままにくねくね腰を振って踊る男芸者ににんまりしながら、女は丸められた白い紙を高く投げ上げ、虎介情介の二人が肩を突き合ったり押し倒したりしながらきゃっきゃと騒ぎ競い合って紙を拾う。紙は二人の間の背後の方まで転がって、競って取りつこうとするときに桜色の薄い湯文字にくっきり尻の形が透けていた。

 「ほら取ったぁ! 情介の勝ちにございますよー、あははは!」
  客を楽しませるのが色芸者。暗さは微塵もなく、情介は拾った紙を女たちに届けると、ちょっとはにかみ甘えた素振りで姉御格の一人に寄り添う。
  負けた虎介は頬を赤くしながら女たちに笑われながら素肌に残った最後の一枚を脱いでいく。褌などはしていない。下の毛も始末されて一切ない。湯文字を脱げばまっ白な丸裸。馴染みの客たちに可愛がられた覚えがそうさせるのか若い男竿は腹を打つほど勃っている。
 「あぁん、奥様ぁ、恥ずかしゅうございますぅ。こんなに勃ててしまい」
 「そうね恥ずかしい子。でもだめです、腰を振っていやらしく踊りなさい」
 「はぁい。あぁん嫌ぁぁん」
  虎介の若く白い裸身が羞恥に桜色に染まっている。天を衝いて屹立する男竿は血の筋を浮き立たせ、腰をくいくい入れて踊るたびに赤ベコのごとく竿を弾ませ、女たちは目を輝かせて笑っている。
  一方の勝ったほうの情介は、女たち三人に寄り添われ、三方から手が伸びて肌を撫でられ、湯文字の中に手を入れられて、こちらもまた頬を赤くして喘ぎ声を漏らしている。
 「情ちゃんは可愛いねぇ。ほうら心地いい。心地よくて果ててしまいそうだもんねぇ」
 「はぁい奥様ぁ、あぁん、心地いいですぅ、ありがとうございますぅ。情介は皆様をお慕いしますぅ」
 「ふふふ可愛いことを言う。ああたまらない、情介ぇ」
  こちらはこちらで女たち三人に寄ってたかって湯文字を奪われ、抱かれて体中を嬲られながら男竿をびくびく弾ませ甘い声を漏らしている。

  そうして情介を愛でながら、若い内儀の一人が裸で踊る虎介に言う。
 「虎ちゃんはダぁメ、負けたんだから恥ずかしいだけ。果てるなんて許されないんだから」
 「はぁい。ぅぅぅ辛いですぅ」
 「泣いちゃった。うふふ可愛いなぁ。嘘ですよ、さあいらっしゃい、ご褒美に舐めさせてあげようかしら」
  酒の席の裏側に襖で閉ざされる別な部屋が用意してあり、すでに布団がのべられてある。若い内儀の一人が立って丸裸の虎介の手を引いて襖の向こうへ消えていく。
 「さあ虎ちゃん、たっぷり舐めてあたしを果てさせておくれね」
  若い内儀は通(つう)と言うが、通は着物を脱いで襦袢だけの姿になると、布団に横たわって虎介を誘い、大きく腿を割っていく。
 「そんな奥様ぁ、そんなにまで想ってくださるなんて、ああ嬉しい、虎介は幸せ者ですぅ。心からお尽くしさせていただきますぅ」
 「ほらぁ、また泣く・・ああたまらない、なんて可愛い虎ちゃんでしょう」

  一夜と言えども本気で愛される。それが男芸者というものなのだが、虎介情介の二人はとりわけ情に厚く、女たちに贔屓にされていたのだった。いずれ名のある商家のお内儀が体を開くということは男芸者の誉れそのもの。虎介は、すでに濡れる淫らな女陰に迷うことなく舌先を這わせていった。
  ここ喜世州に集まるお内儀たちは、すでに子もあり、亭主との夜が絶えた者ばかり。不満もあり飢えもあり寂しくてたまらない。そうした鬱積を洗い流してやろうとする虎介情介の想いが、客たちには嬉しくてならないのだ。

  その夜の本所深川。永代橋にほど近いところにある置屋の艶辰に、今宵の座敷を終えた芸者たちが次々に戻って来る。
  最初に戻ったのは紅羽黒羽の姉妹。夜の五つ(九時半頃)。格子戸を開けて入ると二人はまっすぐ女将の待つ奥の間へと入って行った。
  四角い火鉢に炭が燃え、その後ろの小机に女将の美神(みかみ)が座っている。美神のさらに後ろには神棚が造られていた。
  姉の紅羽がちょっと腰を折って頭を下げた。続いて黒羽も同じように。
 「庵主様、ただいま戻りました」
  庵主。派手さのない縦縞の着物をまとい、しかし美しく結い上げた女髷。見るからに尼僧でもなさそうなのに、なぜか皆に庵主様と呼ばれていた。慈愛に満ちた観音様であるかのように。
  艶辰の女将である美神は、紅羽黒羽の二人にも引けを取らぬ絶世の美女。四十二歳になるのだったが、その見目形も紅羽黒羽に劣らず若い。かれこれもう八年となるのか、いつの間にかこの地に住み着き、置屋をはじめた女であった。しかし色商いのくだけた感じは微塵もない。どこぞの武家の奥方といった姿なのだが、話すとまるで感じが違った。

 「はいはい、お疲れさんよ。今宵の客はどうだったい?」
  まるで男。意図して色を消しているようにも思える美神。
  紅羽が言う。
 「藤兵衛の親方さんと、それから葉山様って若いお武家様。このお武家様が驚くお人で、人が好いったらありゃしません」
 「ほう、武家のくせにかい?」
 「なんでもお旗本の四男坊とか。己をそのまま出すお人で、この黒羽が寄り添うほど」
  そう言って横に座った妹を横目にすると、黒羽はちょっとうつむいて微笑むのだった。
  美神は言う。
 「ほうほう、そうかいそうかい、黒羽をしてそうなら間違いねえや。そいつはさぞかしいい男。ふっふっふ、よかったね黒羽」
  豪快な物言い。美神には人を虜にする不思議な技があるようだった。
  座敷はいい座敷ばかりとは限らない。口惜しい思い悲しい思いをして戻って来る芸者たちが、戻って美神と話したとたんに明るくなれる。すがりついていられる女将。そんなところから庵主と呼ばれるのか。

  黒羽が言った。
 「あのお方はかなりな使い手。あれほどの刀を見たのは久びさ。ゆえに己に素直でいられる、そんなお人」
  美神は微笑んでうなずくと、わずかだが眉をひそめて真顔に戻った。
 「で、あっちの方は?」
 「いえ、話にも出ませんでしたね」
  と黒羽が言い、美神はうなずくと奥に向けて顎をしゃくった。
 「二人とも湯にしな。のんびりしてるがいい」
  艶辰には大きな内風呂があり、戻った芸者たちがさっぱりできる。
  立ち上がりざまに紅羽が訊いた。
 「今宵はあたしらが先で?」
 「いや、美(みの)も彩(あや)も恋(れん)も奥にいるよ。鷺、鶴、鷹、それに虎と情は出てるけどね」
  と話しているところへ、格子戸の開く音がして、紅羽黒羽は奥へと去った。

  続いて戻ったのは、紅羽黒羽の姉妹に劣らず贔屓の多い、鷺羽(さぎは)、鶴羽(つるは)、鷹羽(たかは)の三名。それぞれに黒地に錦艶の着物を着込み、黒い羽織を羽織って戻ってくる。そしてやはり戻るなり美神の元へ。
 「庵主様、ただいま戻りました」
 「うんうん、お疲れさんよ。で? そっちはどうだったい?」
  三人は火鉢を囲むように腰を降ろし、中では姉御格の鶴羽が言った。
 「今宵も商家の者ばかり。噂にはなってるようで、しきりに怖い怖いと話してましたね。若い娘のいる家もあるらしく、けどいずれも紀州とは無縁ということ」
 「ふむ、そうかい。まあそうだろうね、そうちょくちょくあることでもないんだし」
  三人の中では若い鷹羽が言った。鷹羽は美しい女だったが、三人の中では眼が鋭い。
 「紀州や尾張とつながる商家と言っても雲をつかむような話。それとなくこちらから振ってみても、とりたたて何も」
 「そうかい、わかったよ。ついいましがた紅と黒が戻ってる。おまえたちも湯にするんだね。
  鶴羽は三十一歳、鷺羽は二十八歳、鷹羽は二十七歳。紅羽黒羽の姉妹と同様、ここまでの五名が辰巳芸者と言える顔ぶれ。芸は売れども色は売らない。
  しかし三者ともに足の運びが違い、気配を感じさせずに歩むことができる。並の女であるはずがなかった。
  そして先ほど、『美(みの)も彩(あや)も恋(れん)もいる』と美神が言った三名は、艶辰が抱える女の艶芸者。美は美介(みのすけ)、二十二歳。彩は彩介(あやのすけ)、二十歳。そして恋は恋介(れんのすけ)、まだ十九歳。この三名は脱いでも湯文字までの裸芸を売りとする女たちで、それぞれに弾むような若さを備え、色気を求めてやってくる者たちを楽しませる。

  それら女が八名に、男芸者の虎介情介を加えた十名を女将の美神が取り仕切る。それが置屋の艶辰のすべてであった。
  紅羽と黒羽の実の姉妹、そして鷺羽、鶴羽、鷹羽の五人の女たちには、また別の顔があり、そのほか五人の艶芸者にはそれぞれに辛い昔がある。
  そして、それもこれもを飲み込んで苦悩のすべてを吸い取るように美神がいる。艶辰とはそうしたところ。ゆえに皆は美神のことを庵主様と呼んでいる。

  その夜、最後に戻ったのは虎介情介の男芸者。顔を見るなり美神は言った。
 「今宵も辛かったね。よくやったよ二人とも、いい子だったよ」
  美神の言葉が女言葉に変わっている。歳は若くても艶辰に長くいる虎介が、ちょっとはにかむように微笑んで言う。
 「いいえ、そうではありません、今宵のお客様はご贔屓さん、それはやさしくしていただけ、可愛がっていただけますので」
  美神は穏やかに微笑んでうなずくと、芸者となってまだ日の浅い情介に向かって言う。
 「情はどうだい? 心を向ければ返してくれる。人とはそうしたもの。わかって来たかい?」
 「はい庵主様、夢のようです、恥ずかしくて泣いてしまうのですけど、あたしのほうから飛び込んでいくと、それはそっと抱いてくださり」
  涙ぐんで話す情介に、美神はうんうんとうなずいて、微笑みかけて言う。
 「二人とも湯になさい。褒美をあげるからあたしの寝所へおいでね」
 「はい、あぁん、はぁい庵主様ぁ」
  二人ともに涙を溜める。美神が好きでたまらない。美神のためなら命を賭しても惜しくない。虎介も情介も想いは同じ。

  風呂で清め、結い髪を下ろして横にまとめた虎介情介は二人ともに寝間着の姿。襖を閉ざしてひっそりと静まった廊下を歩き、女将の部屋の前で膝をつき、
 囁くように言う。
 「虎介です」
 「情介です」
 「うんうん、お入り」 と中から声がし、二人はそっと襖を開けて忍び込むように寝所へ入って襖を閉ざす。
  美神の寝所は八畳間。その真ん中に、普通の布団の倍ほども幅のある大きな布団がのべられてあり、美神はそのまた真ん中にうつぶせとなって寝そべっている。
 「さあ、あたしを癒やしておくれ。さあおいで」
 「はい、あぁぁ庵主様、心よりお慕い申し上げますぅ」
  二人の声が重なって、二人ともに寝間着を脱ぎ去り丸裸。大きな掛け布団をめくってみると、一糸まとわぬ美神の白い裸身が横たわる。
 「あぁぁ天女のごとき・・」
 「お綺麗です庵主様ぁ・・」
  このとき虎介は涙を溜め、情介はすでに泣いて涙が伝う。
  二人は、まさしく美神(びしん)のような白い裸身にそっと寄り添い、背を揉んで、足先から揉んでやり、それぞれ肌に唇を這わせていく。
  美神の白い手が、最前あれほど精を放って萎えたものが、ふたたび漲り、切なげに勃つ二人の男竿へと伸びていく。
 「ふふふ、熱い」
 「はぁい、あぁん心地いいです庵主様ぁ」
 「いい子・・さあもっとあたしを癒やしておくれ」
  うつぶせに寝そべったまま、美神の白い尻が開かれて少し上げられ、二人は泣きながら女の深い谷底へと顔を寄せる。

  そしてその頃、部屋を隔てた鷺羽、鶴羽、鷹羽の寝所の布団にくるまれ、鷺羽に彩介、鶴羽に恋介、鷹羽に美介と、女同士の一夜があった。
  彩介恋介美介にとって鷺羽鶴羽鷹羽は姉。その鷺羽鶴羽鷹羽にとって紅羽と黒羽は姉も同然。そしてそれは虎介情介の男芸者もそうなのだが、男二人にとって女はすべて姉も同然。女将の美神はすべての者の母も同然。それが艶辰のありようだった。
  命など灯火に過ぎず、それもそれぞれに通じる想い。心の向くまま肌を合わせ一夜の幸を拠り所に強く生きる。人としてあるべき姿で生きていたい。切ないまでの想いであった。
  
  紅羽と黒羽の姉妹には女将の美神同様に八畳間が与えられ、鷺羽鶴羽鷹羽の三人にはそれぞれ別な四畳半。彩介恋介美介には三人一緒の八畳間、そして男芸者の二人には二人一緒の六畳が配られた。一夜を明かすに寝所は自由。それも艶辰の夜である。
  今宵の紅羽黒羽は二人一緒で静かな夜。夜具の間を少し空け、互いに闇の虚空を見つめていた。
 「ふふふ、末様か・・」
  と黒羽がささやき、姉の紅羽がくすりと笑う。
 「気になるのかい?」
  黒羽はちょっと鼻で笑って言う。
 「さあ、どうだろう・・されどあの剣」
 「うむ、相当な業物と見たけどね」
 「あやつは使うよ。それだけに震えてしまう。男のやさしさは怖い。けどあやつのそれは少し違う」
 「そう思う。やさしいのではなく曝け出す。ゆえに怖い。突き進んで来られると退けなくなる。女とはそうしたもの」
 「ふふふ、さてね、どうだろう・・」
  それきり声が消え失せて、黒羽は目を閉じ、なのにちょっと微笑んだ。

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二話 闇座敷


  紅羽と黒羽の剣の舞いが終わる頃、江戸城からもそう遠くない番町の片隅にある、名もなき小さな料理屋、山科(やましな)の奥座敷に六十年配の老いてなお矍鑠(かくしゃく)とした武士が、小さな座敷の上座に座り、二人の客人を待っていた。
  暮れの六つ(六時頃)になろうとした。こちらの山料は、さほど古い店ではなかったが、かつては武家屋敷で建物は古い。それだけに市井の料理屋とは違う落ち着いた佇まい。知る人ぞ知る。料理屋の格としてより隠れ家の趣が色濃い店。夜でなければ文字通りの築山を配した起伏ある見事な庭が見渡せるのだったが、今宵は障子を閉めてある。

  先客の男に料理が運ばれる頃になって、二人の武士が次々にやってきて、上座の左右に腰を降ろした。顔を合わせた三人ともに家紋のない上質な着物を着込んでいて、袴など格式ばったものは身につけていなかった。三者ともにふらりと家を出る姿と言えばよかっただろう。
  待ちかねた二人が揃うと、髷に白髪の目立つ上座の男が、まず言った。
 「ここはわしの国元より呼び寄せた馴染みの者がいたしておる店でな。そなたらも覚えておくがよいぞ。ここであらばどのような話もできるというもの。店主は剣も使うゆえ安堵してくつろげるであろう。下野(しもつけ・栃木あたり)の山の味は格別でもあるゆえな」
  とそう言われた二人の客人も、ともに五十年配。平素の身なりながらも明らかに身分のある者どもだろうと思われた。

  場を和ませる前置きをした頃合いに、それぞれに料理と酒が運ばれる。運んで来たのは三十代半ばの仲居が二人であったが、足音もさせず、穏やかながら目配りが鋭いと客の二人は感じていた。おそらくはくノ一ではないか。それも手練れの部類だろうと察しはつく。
  支度が整って、上座の男が口を開いた。老中、戸田忠真(とだ・ただざね)である。戸田忠真は下野佐倉藩、同じく下野宇都宮藩、さらに越後高田藩の藩主でもあり、厳正な性格で知られていた。
 「そなたらをかようなところへ招いたはほかでもない。このところ江戸を騒がすよからぬ一件。そう申せばわかると思うが」
  招かれた二人が目を合わせてそれぞれにうなずいた。
  招かれた男の一人が言う。
 「されど御老中、その軒で町奉行ではなく我ら二人をいうことは、それが元凶ともなり、いずれかの藩に乱れが生じまいかということで?」
  戸田は目でうなずいて言う。
 「ここで気配りは無用じゃ。いずれかの藩ではのうて紀州それに尾張、そのあたりが火種にならぬかと上様も案じておられる。ゆえにそなたらには紀州尾張の両者に近しい諸藩に目配りをよりいっそう。江戸市中については、わしから町奉行に別な手は打ってあるゆえな」
 「うむ、なるほど左様で。このたびの一件は確かに紀州様に近しいところで起きておりますゆえな」
  と片やの一人が言った。老中配下の大目付、水野重之(みずの・しげゆき)。そして同席するもう片や、同じく老中配下の大番頭(おおばんがしら)、久瀬利房(くぜ・としふさ)の両名である。
  大目付とは諸大名の監察を職務とし、大番頭とは江戸城ならびに江戸市中の警備を職務とする役職。そしてその両名を取り仕切るのが老中たる戸田忠真であったのだ。

  戸田は暗澹たる思いを隠すかのように平然を装った面色で言うのだった。
 「上様が将軍職を継がれてよりおよそ三月の間にすでに三件。いまのところは紀州出入りの商家に限られておるが、それがよもや紀州家家中の者どもに及ばぬかと思うと気が気でない。御三家が仲違いするようなことあらばゆゆしき事態ぞ。上様もそこを案じておられるのだ」
  大番頭の久瀬が言う。
 「されど御老中、探れと申されても雲をつかむような話。紀州家出入りの商家のみならいざ知らず、その家中の者どもまでとならば星の数」
  大目付の水野はそれにうなずき、さらに言った。
 「さらにですぞ、紀州家に近しい諸藩に至れば、その国元までを含め、いかにして探るかということもありますゆえな」
  両名の言葉に、戸田は浅いため息をついてうなずいた。
 「まさしく左様。甲賀も伊賀も使い物にはならぬし、さりとてにわかにお庭番と申してもな。上様は早急に庭番を整えよと申されておるが、いずれにせよ時がかかる。いまのところは江戸にのみの事件ではあるが、それにしても雲をつかむような話ゆえな」

  公儀お庭番は、八代将軍吉宗となって創設された幕府の役職であり、それ以前は存在しなかった。長く太平の世が続き、甲賀伊賀ともに忍軍としての機能を果たせず崩壊状態。また紀州藩藩主を経て徳川宗家を継いだ、いわばよそ者の吉宗にしてみれば、代々江戸の宗家に仕えてきた甲賀者伊賀者では信じ切るに不安。
  そこで吉宗は、江戸城に入るにあたって国元より、もとより紀州藩お抱えであった薬込役(くすりごめやく)と言われる数十人の役人たちの中から腕の立つ者十数人を選りすぐって随行させた。薬込役は紀州藩の奥向きの警備を職務としており、ときとして藩主の命によって諜報活動をも行った。しかし創設当初のお庭番は武士の集まりであって透波(すっぱ=忍者)どもの代わりにはならない。 腕の立つ若き武士や甲賀者伊賀者の手練れをも取り込んで諜報機関としてのお庭番ができていくのはずっと後のことである。それまでの忍軍ではない、いわゆる公儀隠密とは、そうした者どもが城から出て働いたということだ。
  それはそうでも吉宗が将軍職を継いでよりわずか三月のこの頃は、お庭番とは字のごとく将軍に近しい城内の警備のみを職務としており、外へと散らす頭数はなかった。

  大番頭の久瀬が言った。久瀬は江戸市中の警備をも職務としており、それだけに責任ある立場。
 「それにつけても、いかようにしてという謎が残りますな。拐かされた娘どもが数日のうちに何事もなかったかのように戻り、しかしまたその数日後に突如として乱心、家人を斬りつけたり火を放ったりと暴挙に及ぶ」
  大目付の水野が相づちを打つようにうなずきながら言う。
 「尋常ならざる技であろうな。あるいは何らかの薬やも知れぬが、首を傾げるのは、何事もなかったかのように家へと戻り、さらに数日何事もなく過ごした上で突如として狂うことだ。そこには何ぞ合図とでも申すのか、何かの合図をきっかけに狂うような仕掛けがされていたと見るしかあるまい」
  久瀬が言った。
 「とするなら裏で操るは忍び、あるいはあやかしの術を心得た何者か。かつては不可思議な術を用いる陰陽師などというものもあったと聞く」
  両者の言葉を戸田はもの言わず聞いていた。

  徳川吉宗が八代将軍となってより、およそ三月。そのわずかな間にこれで三件、不可思議な事件が起きていた。
  江戸にお店(たな)を構える紀州藩出入りの海運、両替、米穀と商家ばかり三件が相次いで狙われて、その若き娘が拐かされる。しかしどの娘も十日としないうちに、まるで何事もなかったかのように家へと戻るのだが、それから数日して突如として狂ってしまい、先の二件では包丁で家人数名を刺し殺し、次の一件では家に火を放って家人数人を焼き殺してしまう。
  取り押さえられた娘らは一様に心を抜き取られたように抜け殻となり、ろくに調べもできないまま牢に入れられているのである。
  手がかりと言えば、いずれの商家も紀州藩出入りを許された元は紀州の商家ばかりというところのみ。事はもちろん紀州家へも伝わって、紀州とすれば尾張の画策ではないかとの疑念も生まれる。事が商家であるうちはともかく、よもやその藩士の家にまで及ぶようなら、御三家筆頭の尾張と、将軍を送り出した紀州がにらみ合うことにもなりかねない。
  戸田が左右の両名を見渡して言った。
 「まあ、わしとしてもさまざま手は講じてみるが、そなたらのほうでも、いま言ったようなあたりに心当たりなどあらば探ってみて欲しいのだ。単に江戸を騒がすためなのか将軍家を脅かすためなのか、敵の意図するところも不気味ゆえな。吉宗様を窮地に追い込むための所業ではあるだろうが、解せぬところもありというもので」
  久瀬、水野の両名は、うなずくでもなく聞いていた。

  後に名君とうたわれる八代将軍、吉宗ではあったが、その将軍継承に際しては密かに黒い噂が流れていた。
  徳川吉宗は、御三家のひとつ紀州藩二代目藩主、徳川光貞の四男坊。十四歳で越前葛野藩主、二十二歳で紀州藩五代目藩主となるのだったが、将軍家の継承などとはほど遠い順位にあった男子。
  六代将軍、徳川家宣(いえのぶ)が在職わずか三年で急死。その後、わずか三歳で将軍となった七代将軍、徳川家継(いえつぐ)までもが病死して、二代将軍秀忠(ひでただ)の血を受け継ぐ直系男子が絶えると、将軍家を継ぐ順位では上であるはずの尾張家の四代藩主、徳川吉通(よしみち)までが急死、さらにその長子たる五郎太(ごろうた)までもがわずか二歳で病死。また同じ紀州家にあっても兄たちが次々に死んでいき、四男坊であった吉宗が表舞台に立つこととなる。しかし、このあまりに都合のいい事の推移に、吉宗を将軍とするため影の力が働いたのではという噂が流れた。病死とは毒殺ではなかったかということだ。

  御三家筆頭の尾張を差し置いて紀州よりの新将軍。これは尾張としては面白くない。まして将軍継承からわずか三月。ここで紀州藩ゆかりの商家ばかりが狙われれば、紀州としては尾張の仕業ではないかと勘ぐりたくもなるというもの。  商家であるうちはまだしも同じようなことが紀州藩藩士の周囲に及べば、両家の火種に油を注ぐこととなり、江戸はそれを取り締まらなければならなくなる。
  戸田は言う。
 「上様はこうも申されたぞ。『我ら親藩はもとより譜代と言えども弛みきっておる。されど外様どもはどうなのか。忍びさえも放てぬとあっては探りようとてないゆえな』・・と」
  諸藩に目を光らせるのが職務の大目付、水野が言った。
 「そうしたときに徳川が割れていては外様どもの思うツボということも。あるいは紀州様と尾張様の不仲を助長しようとする外様どもの仕業とも考えられ」
  大目付と大番頭、二人を見渡して戸田はちょっと眉を上げて苦笑する。
 「わからぬ。わからぬがしかし案ずればキリがない」

  山科で密談が交わされる、ちょうどそのとき、本所深川と南本所の間あたりにある、また別な料理屋に、暇を持てあます大店(おおだな)のお内儀(妻)ばかり三人が酒の席を楽しんでいた。もう一人誘った女はいたのだったが、まだ幼い末娘が熱を出したとかで来られなくなっている。
  その料理屋、喜世州(きよす)は、できてそう古くもなく、建物の木という木が白木の肌をそのまま留める綺麗な造作。料理屋とは名ばかりの女たちのための隠れ家のようなもの。太平の世の呑気は下々にまで行き渡り、物見遊山などあたりまえという弛んだ江戸の象徴のようなものだった。
  喜世州は、女将の菊奴(きくやっこ)がはじめたもの。菊奴は、いわゆる色芸者から身を起こし、この世に女どもの遊びが足りないということで洒落っ気を織り交ぜて喜世州を起こした。
  その喜世州。遊ぶときには互いに身元は知っていても名は不要。そうした決まりがあったのだった。

  そのと刻限は暮れの六つ(六時半頃)。三十代の末が二人に四十代の女が一人。それぞれに子も長じた、脂ののった女盛りの三人で飲めや騒げの芸者遊びだったのだが、呼ばれた芸者は二人いて、虎介(とらのすけ)と情介(じょうのすけ)と名乗る男芸者。成りこそ女芸者でも中身は若い男が二人。虎介二十歳、情介は三つ上の二十三歳。芸は売っても色は売らない辰巳芸者と言われるが、そこはそれ、男の色で座敷を務める者たちだった。
  虎介情介ともに、紅羽黒羽の姉妹と同じ置屋(おきや)の艶辰(つやたつ)に籍を置く、界隈でもぼちぼち出はじめた男芸者。置屋とは芸者を束ねる元締めのようなもの。看板芸者の紅羽黒羽を筆頭に数名の芸者衆を抱えている。今宵の客は女であったが男の客でも男芸者を好む好事家はいるもので、ちょくちょく名指しがかかるのだった。

 「さあさ、二人とももう湯文字だけ・・ふふふ、可愛いわぁ」
  あえて弱く灯した行灯(あんどん)の薄闇の中、姉御格の女がにやりと笑い、少し若い二人の連れがきゃっきゃと騒ぐ。
  虎介情介どちらもが地毛で結い上げた芸者髪。役者の女形のごとく見目麗しく、着物姿は女そのものなのだが、脱げば肌の白い無垢な若者。女ばかりの客の前での踊りながらの『拾い勝負』。客の誰かが丸めた紙を投げてやり、奪い合って先に拾ったほうが勝ち。負ければ一枚ずつ脱いでいくという色遊び。
 「じゃあいくわよ、拾ったほうはあたしらの中へおいで。負けたほうは脱いで踊るの。どうせもういやらしく勃ててるんだろうからさ。うふふ」
  連れの若いお内儀二人は手を叩いて笑っている。
  半裸で立つ男芸者の桜色の薄い湯文字の股間のところが二人ともに衝き上げて尖っていた。褌などしていない肌色が透けて見える。虎介情介のどちらもが眉をひそめて泣きそうな面色。それがまたたまらない客たちだ。

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一話 剣の舞


  冬寒の風が漂う夜のこと。夜とは言っても冬の空。まだ夕の七つ(五時半頃)と遅くはない刻限だったが陽は沈み、今宵は月も満ちて夜空に星々も瞬いていた。
  江戸は本所深川に古くからある老舗の料理屋、潮亭(うしおてい)には、ならではの江戸前の味を求める上客たちが集まって、明かり障子に目隠しされたそこここの部屋からは三味線や鼓の音にのって芸者たちが奏でる長唄の艶声が漂っている。
  享保元年(1716年)、霜月(十一月)五日の夜であった。

  その潮亭の奥座敷。そこは舞いのためにしつらえられた特別な部屋であり、明かり障子ではなく襖で仕切られた広い部屋。他の部屋より天は高く、座敷と言いながら床も畳ではなく磨き板の板の間で、まさしく舞いのために用意された舞台のよう。そしてその上座に六畳ほどの縁なし畳が敷かれてあって、客はそこでくつろいで舞いを楽しむ。
  潮亭は、粋造りとでも言えばいいのか、花柳の華美を廃した質素なしつらえ。中でも、風月と名づけられたその部屋は上客中の上客のほか滅多に客を通さない広間であって、あの千利休由来の数寄屋の趣に満ちていた。

 「おぅおぅ来たか。お待ちかねだぞ、さあお入り」

  畳の敷かれた上座のそのまた上座に、茄子紺よりも黒に近い着流し姿で、まだ若い武士が座り、その座の左下に、六十年配の町人が落ち着いた鼠色の着物で座っている。
  町人のほうが潮亭の客であり、武士のほうは、その町人に招かれてやって来ている。町人は藤兵衛(とうべい)と言って大工の棟梁であったのだが、大工職としてより両国にある材木商、木香屋(きこうや)の主として知られる男。常陸国
 (ひたちのくに・茨城あたり)の出で、一代にして木香屋を築いた男であった。
  一方の若侍は、座していても長身のうかがえる涼しい顔立ち。月代を剃り上げた凜々しい髪型とも相まって育ちの良さをうかがわせる。歳の頃なら三十ほどであっただろうか。色白で若く見えるが華奢というわけではない。男らしいすがすがしさに満ちている。
  そしてその武士の背後に、床との段差すらない申し訳程度の床の間が造られてあり、黒鞘の大小が刀掛けに横たえられてあった。

  藤兵衛に促され、枯れ草色の無地の襖が音もなくすーっと開き、若く美しい芸者が二人。どちらもが女としては長身で細身。一人は黒に雪のせ枝の肩裾模様の着物をまとい赤襟を返している。片やの一人は着物は黒でも雪兎の裾模様。赤襟を返した一人が三味線を携えて、一人は手ぶら。
  そしてその芸者二人を先にやって一歩遅れて鼓を持つ年増の女が襖を閉ざして部屋へと入り、部屋の隅の板の間に静かに座った。こちらの女は部屋の造作に溶け込む木肌の無地の着物を着込んでいて飾具なども身につけず、座敷では陰に徹する者と思われた。
  芸者二人は板の間で舞うために白い足袋を身につけて、すり足で音もなく畳の間に歩み寄ると、畳下の板の間で左右に分かれ、三つ指をついて礼を尽くす。
  赤襟を返して胸元に色香の漂う一人が、揺らぐように頭を下げながら言った。
 「今宵はお招きいただきまして幸せにございます。どうぞお見知りおきのほどをお願い申し上げます」
  藤兵衛が言う。
 「うんうん、いつもながら見事な姉妹よ」

  そして藤兵衛は、上座に座る若い武士に横目を流し、芸者二人に交互に手をかざして言うのだった。
 「いかがでございますかな、二つ歳の離れた実の姉妹なれど、こうして見ると双子のよう。そちら、赤い襟を返しておりますのが姉の紅羽(べには)と申しましてな、こなた一人が妹の黒羽(くろは)と申します」
  若き侍が穏やかな笑みを浮かべてちょっとうなずき、その様子を確かめて藤兵衛は次に二人の芸者に目をやった。
 「そなたらがこうした席を好まぬのを承知の上で今宵は来てもらった」
  と、そのとき、若き侍がちょっと笑いながら藤兵衛に問う。
 「ほう? 芸者ながらこうした席を好まぬとは?」
  藤兵衛は眉を上げて芸者姉妹に微笑みかけて、それから侍へと視線を流した。
 「このように見受けますれば、まこと麗しき二人なれど、とりわけこなたの黒羽など、どうしようもない跳ねっ返りでございましてな、お侍など大っ嫌い、堅苦しい席など大っ嫌いという二人でして」
  姉妹はちょっと拗ねて睨むような上目を藤兵衛に向け、そして笑った。
  若き侍は目を丸くして笑う。
 「ふっふっふ、そうなのか、わかる気がする」
  そして若く凜々しい侍が芸者二人に目を向けた。
 「それを言うなら拙者も・・いや、こうした席で拙者などと偉ぶるからいかんのだろうな。俺などまさにそうで、城務めなどまっぴらごめん、と言いたいところなんだが、どうした因縁なのか旗本の家に生まれついてしまってな。将軍様と同じ四男坊なのだが、生まれついてのぷーらぷらよ。はっはっは」
  紅羽と黒羽が横目を見合わせ、ちょっと笑った。侍相手に黒羽が笑うことはめずらしいと藤兵衛は思う。

  本所深川あたりを行き交う芸者は、辰巳(たつみ)芸者と呼ばれるが、江戸城から見て辰巳の方角にあったからそう呼ばれるもの。客筋の多くは江戸の職人衆や大店(おおだな)の主など、つまりは町人のためにあるのが辰巳芸者。事あるごとに上から物を言う武家嫌いが多かったのもそのためだ。
  藤兵衛は一緒になって笑い、そして紅羽黒羽の姉妹に言った。
 「というお方なのでご案内差し上げたというわけだ。そなたらの剣の舞いのことをちょっと言うと、ぜひにも見たいと申されたものゆえな。こなたは葉山宗志郎
 (はやま・そうしろう)様とおっしゃるが、こたび城内にてちょっとした補修があって、それを我が木香屋で請け負うこととなった。葉山様はその差配に任じられてな、度々お会いするうちにそなたらの話になったというわけだ」
  このとき姉妹は、藤兵衛ほどの男が連れてくるのだから、その人柄には信がおけるに違いないと思っていた。
  宗志郎が鼻で笑って言う。
 「差配などとはくすぐったい。親父殿に申しつけられた役目が暇を持てあます末っ子に回った。とんだとばっちりなんだが、こればかりはいたしかたなし。これは愚痴だ、うむ愚痴よ。誰かに言わんと気がおさまらん」
  姉妹はちょっと顔を伏せて含み笑う。
 「でまあ、その支度もあって棟梁の世話になるうち、そなたらのことを聞き及んだということで。今宵のことも俺からぜひにと頼み込んだ。俺は酒がだめでな、このような席もはじめてゆえ無粋なところもあると思うが、先に言っとく、許してほしい」
  あっけらかんと言い放ってちょっと頭を下げる宗志郎に、姉妹二人は微笑んでうなずいた。すがすがしい若侍だ。家柄を鼻にかけず、透き通った眸で本心を言い放つ。この世に多くはない形を持つ男だと感じていた。

 「さて紅羽、黒羽、どのような舞いでもよいからな」
 「はい、ではさっそく」
  藤兵衛に促され、黒羽は一歩二歩と退いていき、赤襟を返した姉の紅羽が、畳の席の間際に両膝をついて宗志郎に言う。
 「ではお刀をお貸しいただけませぬでしょうか。できますれば大のほうを」
  宗志郎は眸を輝かせ、座の後ろの刀掛けから黒鞘の大刀を右手にすると横に寝かせて差し出した。それを紅羽は両手に拝み受け、すすっと二歩ほど後ろへ退いて立ち上がる。
  そしてその間に、鼓を持つ女が立ち上がり、本間六曲(ほんけんろっきょく)の御簾屏風(みすびょうぶ)を舞いの背に用意する。御簾屏風とは、よく枯れた木枠に細い裂き竹を組み合わせた透かし屏風のことで、金屏風のような過飾のない数寄屋の趣を際立たせる屏風である。

  そしてその屏風を背に、紅羽と黒羽は向き合って、互いに通りすがるようにすり足で横を抜け合い、黒羽がさも気づいたかのように振り向いて、帯に差した扇を抜き取り、逆手に構えて、匕首を持つ女の姿を模して立つ。
 「よぉぉポン、ポン、ポンポン」
  鼓が入り、黒羽は着物の裾を割って縦に足を踏み込みざまに中腰となって姉の紅羽に対峙する。
  敵討ち。巡り会った夫の敵に向き合う黒羽。相対する紅羽のほうは敵役。黒鞘の大刀の柄(つか)に右手をかけて、左手に鞘を掲げ、風が舞うようにその場で回ると、鞘から剣を抜き去って、しなしなと回り舞う中で腰を落として鞘を置く。

 「これは?」
  訊かれた藤兵衛が小声で言った。
 「敵討ちでございましてな」
 「ふむ、なるほど」
 「刀を持つは夫の敵。匕首に見立てた扇を構えるは、あえなく討たれた男の女房」
  さらに藤兵衛は言う。
 「あの扇は鉄扇にて」
 「ほう、鉄扇とはまた・・」
  鉄扇とは、扇の外骨を鉄でしつらえたものであり、かつて武将が用いたもの。女が持つ扇よりも一回り大きく太く、いざとなれば武器ともなる。

  真剣を持つ紅羽の鋭い眼光、その構えに尋常ならざる気迫あり。舞いながらくの字を描くように踏み込んで、あたかも人を斬るように白刃が振り込まれ、対する黒羽はしなりしなりと右に左に剣を交わして回り舞い、逆手に持った閉じた鉄扇で突きかかる。
 「よぉぉポン! そぉぉポン! ポンポンポン!」
  鼓が暴れ、姉妹の舞いはさながら決闘。どちらもの裾が乱れて桜色の襦袢がたなびき、白い足袋から上の桜色のふくらはぎまで露わとなった。
  大刀を振るって迎え撃つ武士と弱々しい匕首で斬りつける女とでは勝負は明らか。鉄扇を振るう黒羽が一刀を交わされて舞いながら床に崩れ、そのとき敵の剣先が黒羽の喉元に突きつけられるも、敵は夫を想う女を見下ろし、殺してくれと目を閉じた女の元へと片膝をつくと、手にする剣をくるりと回して逆手に持ち替え、背の側に隠し持ち、空いた左腕で崩れた女を抱く素振り。女のほうはせつなげに敵を見上げ、ついにくずおれて男に抱きすがる素振りをする。

  宗志郎が言った。
 「ふうむ、夫を想う健気な妻を斬るにしのびず、女の方でも心を奪われていくというわけか。それにしても剣さばきがじつに見事。舞いとも思えぬ気迫も見事」
  このような席で芸者が真剣で舞うなど聞いたこともない。ひとつ間違えば怪我をするほどの立ち回り。あくまで舞い。声に出した気合いはないが振り込まれ
 る鋭い白刃が鼻先をかすめるほどのきわどい間合い。
  はたしてこれは舞いなのか。聞きしに勝る剣舞だと宗志郎は思う。
 「いよぉぉポンポン、ポン」
  鼓の音がふたりの想いを語るようにやさしく鳴り止み、宗志郎は小さく鳴る手を叩く。
 「見事と言うほかあるまい。剣客なみの剣さばきをよもやここで見られようとは」
  紅羽は剣を鞘にしまい黒羽は鉄扇を帯に戻して、二人揃って三つ指をつく。 それから紅羽は大刀を一度宗志郎の手に戻し、続いて黒羽が、姉がしたようにふたたび剣を拝み取る。

 「これからが見物ですぞ、黒羽の剣は格別ゆえ」
  と藤兵衛が意味深に微笑んで、宗志郎は目を輝かせてうなずいた。
  宗志郎から大刀を授かった黒羽。同じように姉の紅羽は鉄扇を逆手に持って向き合うが、黒羽の構えは下段。腰を沈めて足を開き、桜色の襦袢もはだけて白い膝上までが露わとなった。
 「ポン! ポン! そぉぉポン! よぉぉポン!」
  いきなりの鼓が強い。先ほどとはくらべものにならない強さで打ち込まれる鼓の音に、しなやかなれど跳ねるように黒羽は舞い、白刃を抜き去って舞いながら鞘を置く。
  そしてそれと対峙する姉の紅羽も跳ねるように回り舞い、逆手に持った鉄扇を突きつけて中腰に身を沈める。
 「そぉぉれ、ポンポン!」
  鼓の音を合図とするように下段から振り上げられる白刃は、とても舞いの剣とは思えない。真剣での斬り合い。もしも切っ先がちょっとでもかすめれば命も危ういと思われるほどのもの。
  匕首で構える紅羽も右へ左で顔を振って肌一枚をかすめる刃を避けきって、逆手の鉄扇で斬りつける。

 「すごい・・これが舞いだと言うか」
  呆然と見つめる宗志郎に藤兵衛は言う。
 「こたびは相手がくノ一でございましてな。おそば付きの麗しき腰元がくノ一だった」
 「うむ、なるほどなるほど」
 「そぉぉポン! よぉぉポンポン!」
  暴れる鼓。刀の重みに振り負けない黒羽のすさまじい剣さばき。気合いこそないがそのまま人が斬れるに違いない本気の太刀筋。相対する紅羽もさすが。ついては離れ、離れては斬りかかる鉄扇を、黒羽は身を翻して交わしきり、互いに滑るように間合いをひろげ、ふたたび鉄扇で斬りつける紅羽。
  そのとき黒羽の剣の刃がチャッを鍔鳴りを響かせて裏返り、峰打ちの抜き胴が紅羽の帯ぎりぎりを斬り抜けて、打たれた紅羽がゆらぐように膝をつく。
  黒羽は一度、女の頬に切っ先を突きつけるも、剣を引き、空いた左手で女の頬を叩くような素振りをすると、そのまま膝をついて女を抱いた。
  身を偽ってそばにいるうち主君を想ってしまった哀れなくノ一。主君に抱かれて幸せそうに目を閉じて、いつしか女の手が主君を抱いてすがりつく。
 「なるほどそうか、敵を想ってしまった忍びの哀れ。主君は許し、掻き抱いて慰めるというわけか」
 「男と女はそうしたものということでございますかな」
  そう言って藤兵衛は微笑み、着物の裾を直した黒羽、紅羽の姉妹が畳の間の下に座り、黒羽が拝み差し出す大刀を宗志郎が右手でそっと受け取った。

  宗志郎が姉妹に言う。
 「いやぁ見とれたぞ、二人ともにまさに見事。そなたらの剣は舞いだけではあるまいと訊きたくなるのは俺の無粋。いかんいかん。そしてまた盃を取らすと言いたいところだが、いかんせんこれではなぁ」
  宗志郎の前に置かれた膳にあるのは茶と料理。湯飲みを取り上げて苦笑する宗志郎に、姉妹は揃ってくすっと笑った。
  宗志郎は言う。
 「板床では寒かろう、こっちでゆるりとされるがいい」
  姉妹はうなずき、姉の紅羽が鼓を持つ年増の女に振り向いて、もういいよと言うようにうなずいて見せ、女は深く一礼して去っていく。

  畳の間へそっと上がった姉妹は、藤兵衛には姉の紅羽、宗志郎には妹の黒羽がついて、紅羽はさっそく酌をしたが黒羽はそれのしようがない。
  黒羽が宗志郎を横目にちょっと笑って言う。鈴の転がる声だった。
 「葉山様はお酒はぜんぜん?」
  と、言下に宗志郎が言う。
 「その葉山様はやめてくれ、くそ面白くもない親父殿の見目形を思い出す。宗志郎でよいし、俺は童の頃、兄たちより末吉と呼ばれていたものだ」
 「ふふふ、末吉とはまた可笑しな名」
 「四男坊などそんなものよ。まして俺ははみ出し者ゆえ、それもまたいたしかたなし」
  そんな宗志郎を横目に、かすかに微笑み、黒羽は言った。
 「はい、では末様と?」
 「末様か・・うむ、何でもよいのだ、俺などほんの小僧ゆえな」

  このときすぐそばにいて、あれほど嫌った侍を相手に微笑む黒羽の姿を、姉の紅羽ははじめて見たといった面色だった。

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序章 お猿の弁士


 あ、さてさて。このお話、まずはお猿の弁士のあっしの口から言わせ
てもらう。

 時は享保(きょうほう)元年(1716年)、名君と誉れも高き八代将軍、
吉宗様が将軍となられし、その年よ。
 江戸は本所深川、だいたいそのへん。夜ともなれば辰巳芸者の行き交
う町に、艶辰なる置屋(おきや)があった。置屋の女将は美神と言うが、
なぜか人は庵主様と呼んでいた。歳の頃なら四十ちょっとの、それはそ
れはいい女。柿を見てみろ、腐る手前がいっちゃん美味え。

<登場人物①>
 艶辰(つやたつ)の女将 美神(みかみ)=庵主様。四十二歳。素性
 は不明。艶辰一門の総差配。君臨する美しき女帝といったところ。

 さてその艶辰、囲う芸者は合わせて十名。その中で、ひときわ色濃い
姉妹がいたさ。姉は紅羽、妹が黒羽と名乗る。わけあって武家を離れた
実の姉妹は、どちらも剣客。歳の頃なら姉三十二、妹三十ちょっきりだ。
どっちもどっちで見目麗しく、しかし剣を抜けば般若のごとく。とりわ
け黒羽の剣は鬼の舞い。今宵一夜の夢を見たくも、芸は売っても身は売
らねえ辰巳芸者の心意気っ。

<登場人物②③> 
 辰巳芸者 
 ②姉が紅羽(べには)で③妹、黒羽(くろは)。姉が三十二歳、妹は
 三十歳。武家の出で実の姉妹。瓜二つで双子のよう。すらりと中背、
 美しい。どちらも剣客、とりわけ黒羽の剣は恐ろしい。

 さて次だ。芸者としては妹分のようでもあるが、別な女が三人いる。
鷺羽、鶴羽、鷹羽だよ。鷺羽は耳を役目とし吹き矢を使う。鶴羽は毒鞭、
鷹羽はその名のごとく毒の爪を武器とする。三人揃って夜な夜な忍ぶく
ノ一で、剣でももちろん強いんだ。

<登場人物④⑤⑥>
 辰巳芸者
 ④鷺羽(さぎは)二十八歳。身軽であり、忍んで聞く並外れた耳を持
 つ。吹き矢の名手。
 ⑤鶴羽(つるは)三十一歳。切っ先に針のある毒鞭の使い手で自白に
 追い込む名手。
 ⑥鷹羽(たかは)二十七歳。毒爪を武器とする。
 揃って中背、それぞれもちろん美しい女忍者三人衆。芸者としても引
 っ張りだこ。

 まだいるぜ。艶芸者三人衆。美介、彩介、恋介の面々だ。男相手の裸
芸を得意とし、ときとして身を賭して敵に取り入る。この三人はぴっち
ぴちの娘っ子。それぞれ悲しい昔があって美神に拾われた娘らさ。武器
といえば匕首と毒針ぐらいで剣は持たねえ。

<登場人物⑦⑧⑨>
 艶芸者
 ⑦美介(みのすけ)二十二歳、⑧彩介(あやのすけ)二十歳、⑨恋介
 (れんのすけ)十九歳。脱いでも湯文字までの裸芸を得意とし、邪な
 男どもに取り入って探る役。元はいずれも町娘。

 そんで最後に、ちょっと吐きそな二人のことも話しておこう。男芸者
の虎介と情介だ。成りは女そのもので女形のようでもあるのだが、こい
つらは客が女ばかりのときに働く者ども。裸踊りも得意とし、枕芸者と
してだって女の寝所に入り込む。艶辰の女将にぞっこんで、美神のため
なら命もいらぬ下僕ども。女に虐められるのが大好きで、そのまた妖艶
な声と言ったらたまらねえ。

<登場人物⑩⑪>
 男芸者 ⑩虎介(とらのすけ)二十歳、⑪情介(じょうのすけ)二十三
 歳。くノ一三人衆に鍛えられ、毒を使う名手でもある。

 今回は登場人物が複雑ゆえ、前もって書いておかねえとならねえだろ
う。そんで作家の野郎が弁士のあっしを呼んだってことなんだ。以降あ
っしは二度とふたたび登場しねえ。
 弁士、猿飛ばす佐助とは俺のこと。これをもって、さようなら。           

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