女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

カテゴリ: 白き剣

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終話 女の貌


 「して、その葛なる女の処遇はどのように?」
 「落飾して仏門に。小石川にございます深宝寺、それに壷郷の屋敷の両方を用いて幸薄き娘らを見守るということで命ばかりはと」
 「そうか、うむ、それでよかろう。江戸にそのような場があるならこれ幸いというもの。ご苦労であったな美神」
  落飾とは、女人がその黒髪を切り、あるいは剃り、俗世を離れて色を断つということである。

  江戸城からもそう遠くない番町の片隅にある、名もなき料理屋、山科の奥座敷。老いてなお矍鑠とした、老中、戸田忠真は、美しき美神と座をともにした。
  柳を葬ったところで事の子細は美神を通じて戸田に伝えられ、それ以降は戸田の手の者どもによって密かに処理された。
  残る相手は品川にある船問屋、船冨士の主、喜十(きとお)と、その兄であり駿府にある船冨士本店の主であるとともに武器を扱うときには武器商人として武尊と名乗る、兄の喜幸(きこう)。そして番頭の清吾(せいご)と言う男であったのだが、船冨士は紀州家御用ということで迂闊には動けない。
  戸田は言った。
 「船冨士はつぶした。されどそれは禿どもの売り買いよる責めのみ。もっか取り調べておるが、そのほかご禁制の品々にも手を出しておったよ。兄とその手下どもは死罪、弟のほうは遠島と相成ろう。紀州尾張の両家に対しても、それとなくそれぞれの端役に匂わせておいた。いずれ両家より何人(なんびと)かの病死の届けが出されるであろうし、それはすでに尾張より壷郷なる者の病死が届けられておってな」
  美神はちょっと微笑み、うなずいた。
  武器の製造売買ともに、いっさいは闇の中。それが表沙汰となれば紀州尾張両家ともに一大事。船冨士はあくまで人身売買にかかわったということでのみ裁かれる。調べが進めば式根島に隠されるという武器一切も押収されるはずである。

  これで一件落着かと思えば、戸田は苦々しい面色で言うのだった。
 「こたびのことにも顔を出したが、このところ阿片が出回っておるようでな、それにも頭を抱えておるのだ」
 「左様でございますか。阿片となれば、またしても女たちが?」
 「そういうことだな。世が弛みきっておる。吉宗様お世継ぎに際しての紀州尾張の騒動も、じつは皆が注視するところ。ましてや政(まつりごと)を改めようとすれば古き中でぬくぬくしておる者どもとすれば面白くはない。阿片は芥子(ケシ)。どこぞで育てられておるのじゃろうが、その相手が譜代であっても、いまは公儀としては手が出しづらい。諸藩ともに財政難。あえいでおるからのう」
  戸田は顔を上げて美神を見つめた。吉宗の世として落ち着くまでは危ういということだ。
 「もっか探索させておるゆえ、事と次第によっては・・ふむ」
  ふむと、戸田はため息をついて眉を上げた。
  美神は言う。
 「かしこまりましてございます。入り用とあらば我らはいつでも」
  戸田はこくりこくりとうなずいて、盃をちびりとやった。

  そして、「さて」と言って戸田は美しき美神の背後に控える若き武士へと目をなげた。
 「そなたのことも聞いておるぞ。葉山の家からは勘当の身ゆえ、もはや一介の素浪人。それでよいのだな?」
  宗志郎は穏やかな面色でうなずいた。老中配下として動くからには一度は会わせておかなければならなかった。
  戸田は言う。
 「そちのお父上とも話したが、たいそう喜んでおられたよ。あのはみ出し者がまさかの働きと申して恐縮しておった。艶辰の皆のこと、しかと頼みおくぞ」
  そのとき時刻は夕の七つ(五時頃)。外に出てみると冬の陽は少し長くなっていて、明るさが残っていた。
  
  美神と二人そぞろ歩き、宗志郎の小さな家。家に着く頃、江戸はすがすがしい闇につつまれていた。今宵は星々が美しく、雲のない空に右半月がくっきり浮き立つ。
  玄関へ入ってみると、今宵は鷹羽と、あのとき壷郷の屋敷で救った小娘が待っていた。禿髪は少し伸びたとは言え、まだ髷を結うには短い。年が明けて娘は十五。地下の檻にいたときはまだ十四だったというわけだ。
  名を律(りつ)と言う。童顔の残る愛らしい娘だったが、それだけに体のそこらじゅうに残る消えない責め痕が痛々しい。焼けた火箸の先を押しつけられた傷もあり鞭打ちで肌を裂かれた傷もある。
  救われてから一月ほどになるのだったが、律は心が壊されて、その歳なりの明るさが失せていた。
  家に入って、美神は律を一目見るなり、どうしたものかと言うようにちょっと眉を上げて鷹羽と見合う。今宵は黒羽紅羽の二人、それに鶴羽鷺羽の二人にも座敷がかかって仕事に出ていた。

  宗志郎の小さな家に美神が来ると、鷹羽は美神とともに艶辰へと帰っていく。残されたのは宗志郎と律。律は、あれからずっと艶辰に暮らしたが、芸者の華やかな姿は律にはむしろ辛いこと。連れ出してやり、宗志郎の家へと来るたびに、ここがいいと言い出した。女の尊厳のすべてを踏みにじられた娘。艶辰の皆の女らしさがかえって辛い。
  さらにまた律は柳のしたことも間近で見ていて、葛のことも受け入れない。律にはもう生き場がなかった。行き場ではなく生きていく場がないのである。
 「宗志郎様」
 「おぅ、どした?」
  ふと見ると、鷹羽が帰って男と二人きりになったからか、律は板床に額をこすって土下座をし、夕餉の支度ができていると告げる。男への恐怖がぬぐえないのか。怖くて怖くてならないのだろうし、下手にやさしくするとかえって律は受け入れない。宗志郎は頭をかかえた。女の中にはいられない男のそばが恐ろしいでは、どうにもならない。

  宗志郎は、足下に平伏す律を見下ろして言う。
 「うむ、きっちりできたいい挨拶だ、おまえは可愛い娘だな」
 「はい主様、ありがとうございます」
 「では夕餉を頼む」
 「はい主様!」
  違う、そうじゃないとは思うのだったが、そうして畜奴のごとく扱ってやると律は落ち着く。そうするのがあたりまえの律の生き様。であるなら、いままで通りに扱ってやろう。宗志郎は内心ため息をついていた。
  茶色に黄色の縞柄の着物。前掛けをさせ、肩より長く伸びはじめた黒髪を横にまとめる。それは愛らしい姿なのだが、これをどうやって女に戻してやれるのかと考える宗志郎。
  丸い卓袱台に夕餉を二人分ととのえさせて、宗志郎は、台の向こうではなく横に座れと律に言った。そしてすぐそばにきっちり正座をする律。
  白い飯に焼き海苔を巻き、ちょっと醤油をつけて、その箸先を律の口許へともっていく。律は目を丸くして箸先を見つめている。
 「おまえに言っておきたいことがある。その前に喰え。おまえはよくやっている。これは褒美だ」
 「はい主様、ありがとうございます」

  小さく口を開けてほおばる律。こういう与え方をすると嬉しそうにするのだからしかたがない。
 「喰いながら聞くんだ」
  こくりと律はうなずいた。
 「本来それは俺だけのことではないのだが、これからは俺のことだけ考えろ。どうすれば褒美がもらえるか、どうすれば叱られなくていいのか。鷹羽もそうだし、黒羽やほかの皆にもそうだが、言われたことには素直に従う。おまえの兄や姉だと思え。女将さんは母様よ。一切何も考えず、ひたすら素直に付き従う。よくできたときには褒美、だめなら仕置き。わかったな」
  一口の飯を噛んで飲み込んだ律は、はいと言ってうなずいたのだが、そのときの律の目がいつになく輝いている。あたしはそういう畜奴。体に教え込まれた律にとっては唯一の喜びなのだろうと宗志郎は思う。
  宗志郎は言った。
 「よし、では俺に喰わせてくれ」
 「えっえっ?」
 「母が子にするように喰わせてくれと言っている。できなければ仕置きだぞ」
 「は、はい主様」

  宗志郎がしたように白い飯を箸先にまとめ、そっと口に運ぶ律。半信半疑、おっかなびっくりといった面色だったのだが、夕餉が進むうちにやさしい眸に変わってくる。
  これだと思った。母の心を呼び覚ます。そうすればいつかきっと女の心を取り戻してくれるだろう。
 「あの主様、汁は?」
 「うむ?」
 「汁は箸ではすくえません」
 「では口移しだ。おまえが含んで俺に飲ませろ」
 「ぁ、はい! ふふふ」
  笑った。笑顔など見せたことのなかった律が笑った。
  律は椀をとって一口をすすると、宗志郎の唇を見つめながら顔を寄せて唇を重ねてくる。
 「うむ、美味いぞ」
 「はい。でもそれは鷹羽の姉様がこしらえたもの」
 「そうか。だったら次にはおまえがつくれ。まずかったら尻叩き。よいな?」
 「はい主様、ふふふ、はい!」

  なぜ笑える? 哀しい。汁の塩味が涙の味のようにも思える宗志郎。

  口移しで汁をもらい、口移しで汁を与える。そうして夕餉をすませる頃には律に笑顔が戻っていた。
 「次は風呂だな」
 「はい主様」
 「律よ」と言って、宗志郎は律の両肩を強くつかんだ。ビクリとする律だったが、あえて強い眸でにらんでやると、律はむしろ穏やかだった。
 「壷郷の親爺と俺は想いは一緒でも考えが違う」
 「はい」
 「律は犬だとしよう。されど同じ犬でも可愛い犬とそうでない犬がいるものだ、わかるな?」
 「はい」
 「だったら可愛い犬になれ。置屋に飼われる律という犬は皆に可愛がられて生きていく。艶辰には美しい女たちがいるが、可愛い犬はおまえだけだぞ。人の女などは羨まず犬の牝を誇って生きろ」
 「はい主様」
 「うんうん、聞き分けのいい、いい子だ律は」
 「はい! ふふふ嬉しいです主様」
  喜んで笑う律を見ていて、宗志郎の二つの眸が潤んでいた。

 「それで風呂?」
 「体を洗わせ、よくできた褒美に洗ってやってな」
 「嬉しいんだろうね、それが」
  後日。宗志郎の小さな家ですべてを脱ぎ去った男と女が抱き合って話していた。末様は、あやめの白い背を撫で、そのあやめは心地よさに末様の胸に甘えつつ、そして言った。
 「・・犬か」
  宗志郎は言う。
 「まずはそこから」
 「わかったよ、じゃあそうしようね、律は犬だ」
 「犬はやがて化身する」
 「そうだね、そうかも知れない」
  艶辰に戻された律は明るくなった。犬としての生き場を見つけた。素直によく働いて皆に可愛がられている。
  宗志郎は言った。
 「打ちのめされる。次々に打ちのめされることを知る。女とは、いずれにしろ神がごとき・・」
  ちょっと笑った黒羽の唇が、強く勃つ末様の男竿にかぶさっていく。

  春、弥生(三月)。

  十八となったお光と十六となったお栗の初座敷は、鷺羽鶴羽鷹羽の座敷の座興として支度されたもの。その場には藤兵衛ほか木香屋の大工と職人衆が呼ばれいていて、月代を剃らずすっかり浪人髷となった宗志郎もともにした。
  姉様三人が横に並び、黒に桜の着物を着たお光、同じく黒に梅の着物を着たお栗が並んで座り、もっとも上座の藤兵衛に向かって三つ指をつく。
  鶴羽が言った。
 「こなた両名、わたくしどもの妹分なれど今宵が初お目見えにて、まだ名がありませぬ。末永くご贔屓にという意味も込めまして、どうぞよい名を皆様にと女将に申しつけられておりますれば」
 「ほほう、我らが名を? それはまたたいへんなお役目だ。下手をつけると呪い殺されてしまうゆえな。はっはっは」
  藤兵衛が笑うと集まった七名のほどの者たち、そして宗志郎がくすりと笑う。
  藤兵衛は大工ならがも粋人。宗志郎は横目に見て、それからお光お栗にちょっと笑った。藤兵衛は腕を組んでちょっと唸って考えて、畳に両手をついたまま顔を上げる二人の妹分に向かって言う。

 「艶辰は羽がつけば姉様格、介がつけば愛らしい。とするならば・・」
  お光もお栗も眸が輝き、それは美しい娘芸者。藤兵衛は言う。
 「お光は光ぞ、光は空に輝く陽であって、ゆえに陽介(ひのすけ)などはどうかと思う。お栗は栗、栗は森になるものということで、森介(しんのすけ)ではどうか」
  妹芸者二人は微笑んで互いを見つめ、鷺羽鶴羽鷹羽の三人も穏やかに笑っている。
  鶴羽が言った。
 「陽介に森介、それぞれにふさわしく、よき名かと存じます。これ陽介に森介、お客様にお礼のほどを」
 「はい姉様」 とお光が応じ、お栗も嬉しそう。
  お光が言った。
 「わたくし光は今宵をもちまして陽介にございます。心の限り務めますれば、どうか皆様ご贔屓に」
  お栗が言った。
 「さすればわたくし栗は森介とお名をいただき、いっそう芸に励みますので皆様どうかご贔屓に」
  二人揃って頭を下げると皆が手を叩いて声を上げた。

  ちょうどその頃、置屋の艶辰。春の陽気に誘われてということなのか今宵は皆が出払って艶辰には美神と律の二人だけ。
 「ここでこうして糸に玉をこしらえて一針入れて糸を切る。その先やってごらん」
 「あ、はい」
  律は針仕事が下手だった。縫い目が右に左によたってしまう。
 「もう不器用だね、おまえって子は」
  美神は笑って縫い手を代わった。
  艶辰で皆が集まる大部屋と言えば、四角い火鉢のある女将の部屋。春とはいっても夜には冷えて火鉢に炭が燃えている。
  風呂の掃除をしていた律の着物にほころびを見つけ、部屋へ呼んで縫い方を教えている。律は十三で売られた娘。禿髪は肩を越してだいぶ伸びたが、まだ結えるほどの長さはなかった。それこそ犬の尻尾のように頭の後ろでまとめただけ。普段着の着物だったが、それは虎介のお下がりで赤い小花柄の愛らしいもの。その袖が、何かに引っかけたようでほころんでいたのだった。

  律は薄い襦袢だけ。正座をすると腿が露わ。しかしそこにも鞭裂けの傷がある。美神が運針、律は顔を寄せて覗き込む。
 「ほらこうして。次からは自分で縫うんだよ」
 「はい、すみません、ありがとうございました」
  美神は微笑み、できなくて小さくなる律を横目にちょっと睨む。
 「あたしにとっちゃ皆が娘。可愛くてならないね。おまえもだよ律。おまえが皆に可愛がられる姿を見ると嬉しくて涙が出そうさ」
 「はい」
 「けどおまえという子はどうやら犬。ふふふ、それでもいいんだ、犬でもいいから駆け回っていてほしい」
 「はい、ありがとうございます女将様」
  美神は、まさに犬のようにまっすぐ見つめる律の眸を見て小首を傾げた。
 「まあいい。風呂でも沸かしな、ともに入ろう。着物ひとつまともに縫えない罰だからね」

  大きな湯船に二人で浸かり、美神はその白く美しい乳房に律を抱いて乳首を吸わせる。
 「はぁぁぁ心地いいよ律。何の因果で犬を産んでしまったのか、ふふふ、まったく一生の不覚だよ」
  乳房の裏から聞こえるような美神の声を、律は眸を閉じて聞いていた。
  湯の中で美神の手が律のふくらむ乳を揉み、そうしながら頭ごと抱き締めて、
 美神は言った。
 「おまえのような娘を減らせるならと願ってあたしらは動いている」
  乳首に吸い付き、口の中で舐めながら、律はこくりとうなずいた。
 「そのあたしらを癒やすのがおまえなのさ。己のためじゃなく、あたしらのために生きてくれる犬がいるなら、それは艶辰の誇り。おまえの一念を皆が受け取り日々を過ごす。受け取った一念は皆の一念を掻き立てて、人数分の想いをおまえは受け取る。犬としてならおまえも胸を張れるだろ?」
  律はこくりと今度は大きくうなずいた。

 「人の世はもう嫌・・考えない犬でいたい」

  美神はうなずき、幼さの残る律の裸身を抱きくるむ。そのときの律の顔。穏やかに微笑んでいて、与えられる抱擁を愉しんでいるようにも思えてしまう。

  この艶辰で誰しも持てない女の貌(かお)だと美神は感じた。


白き剣 完

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二二話 死の匂い


 壷郷の屋敷は決して大きなものではなかったが、武士の住まいとしての格式だけは備えていた。造られてからのほどよい歳月が木を枯れさせ、落ち着きに満ちているのだが、これほどの惨劇の後。邸内には血の匂いが濃く漂う。
  宗志郎も紅羽も黒羽も全身に返り血を浴びていて、さらに寺の側には十人の死骸。そちらは寺の側から放り込めばいいとして、壷郷の屋敷の側からは四人の死骸。家の中を引きずらないと地下へは降ろせない。その道筋に血が流れ、外戸を締め切っていては匂いを逃がせないのだが、冬の深夜に開け放っておけば不自然すぎる。邸内に吐き気をもよおすような死の匂いが満ちていた。

  床の間のある畳の大部屋に夜具をのべ、地下から救い出した三人の女たちを寝かせてやる。そのうち二人は大人の女で体には傷はなく、与える薬もなかったのだが、檻の中で倒れていた禿髪の娘については、全身に傷がひどいのと憔悴しきって命さえも危ういありさま。くノ一は薬を常に持ち歩く。素裸の娘に対して薬に長けた鷹羽がついて手当てをし、精のつく飲み薬も与えてやる。
  城務めの二人については寝かせたときに意識はあって、布団にくるまりあたたかくなったからか、気を失うように眠ってしまう。ところが檻の中にいた娘についてはぐったり気を失ったまま。体に薬を塗ってやり、飲み薬を口移しで飲ませてやってもぴくりとも動かない。顔色が死人の色。そして、歳の近い哀れな娘のそんな様子をお栗が暗く沈んで見守っている。

  家の中を見てきた鶴羽が部屋へとやってきて、呆然としている暗いお栗に言うのだった。
 「厨に米があるよ。握り飯ぐらいならできそうだ。風呂もいま沸かしてるから、すまないけどお栗はあたしと一緒に」
 「はい、あたしやります、姉様も少し休んで」
  鶴羽は相変わらず忍び装束。それは鷹羽もそうで、ここにいては着替えもない。宗志郎には男の着物があり、結い髪を下ろした男姿の紅羽黒羽にも男物の着物はある。こうなればしかたがない。くノ一二人も男姿になるしかない。明日には艶辰から着替えが届けられる。それまでの辛抱だった。

  さらに一人、母の柳を亡くした娘の葛。こちらは藤色の小袖姿。遠慮がちに部屋の隅に座っていて、けれども吹っ切れたようにさばさばした面色で、皆の動きを見守っていた。
  そんな大部屋へ、顔に浴びた返り血を手ぬぐいで落とし、血を浴びた袴を捨てた紅羽と黒羽がやってくる。袴に覆われる下はともかく、腰から上の着物にも返り血が飛び散っていたのだったが、二人ともに普段の面色に戻っていた。
  黒羽は部屋に入るなり、そのときちょうど立とうとしたお栗に微笑み、それから部屋の隅におとなしく座る葛へと目をやった。紅羽は可哀想な禿娘に寄り添ってやり、鷹羽に向かって言う。
 「助かりそうかい?」
  何とも言えないと鷹羽は首を傾げて目を伏せた。
 「薬は与えました。若い力が残っていればいいけれど」
  紅羽はうなずくと鷹羽の肩に手を置いて言う。
 「鷹も鶴も風呂にして。じきに沸くよ」
 「でも宗さんは?」
 「最後でいいって。向こうにいるよ。あたしらが看てるから行っといで。男の着物しか見当たらないけどね」
  横から鶴羽が言った。
 「厨に米があるから、お栗に握り飯でもって言ってたところ」
  部屋を出て行くお栗の背に目をやりながら紅羽が言った。
 「そうかい、あたしも手伝ってやりたいけどね、そこらじゅう血だらけだ」
  そんなやりとりを聞いていて、葛が静かに立ち上がる。
 「なら手伝う」
  紅羽も黒羽も葛を見たが、葛にもはや敵意はなかった。
  黒羽が言う。
 「母者のこと、我らは約束は守るから。死なば仏」
  葛はちょっとうなずいて部屋を出ていく。そのとき鷹羽も鶴羽も葛の思いはよくわかる。葛も風魔の血を受け継ぐ。母の邪視が哀れに思え、それだから付き従った。忍びは命じられて働くもの。好き好んでやったことではない。

  鷹羽と鶴羽は、姉様二人にその場を任せて部屋を出た。広い部屋に残ったのは紅羽黒羽に、布団に横たわる三人の女。
  しばらくして、川の字に並んで横たわる奥の一人が目を開けた。しかし紅羽も黒羽も気づかなかった。
  紅羽と黒羽が姉妹で話す。
 「これでともかく止められた」
 「ともかくはね。けどまだ終わっちゃいない」
 「許せない。女を虐げるなど許せない」
  そのときだった。
 「救われたのですね、わたくしたちは」
  紅羽黒羽が揃ってそちらへ目を向けた。
  横たわる女は顔を傾け、言うのだった。
 「わたくしは小夜と申します、大奥に務める下女、宿下がりでお城を出て襲われました。こなたは姜と申し、同じく城に務める下女」

  紅羽黒羽は顔を見合わせる。間にあった。城内で騒ぎとなればもはや抑えがきかなくなる。すんでのところで食い止められた。お栗がいてくれなければ大変なことになっていたと二人は思う。姉妹は揃って小夜のそばに座り直し、黒羽は手を取り、紅羽は頬をそっと撫でる。
  小夜は言う。
 「いかにも不覚。いきなり当て身、気づいたときには裸にされていたのです」
  紅羽が言う。
 「もういい、忘れることだよ。我らは悪を憎む者。とにかくいまは体を休めて」
 「はい、ありがとうございます、救われました」
  そして小夜はちょっと笑い、涙を溜めて、眠る目から涙が頬をつーっと伝う。

  眠ろうと目を閉じて、しかし小夜は毅然として言う。
 「武尊なる者の言葉を聞きました。あとさきよくはわかりませぬが、『弟は生真面目すぎる、このような好機はないというに武器も女も喜ばぬ』 すると壷郷なる者がこう申し『よもやのことがあってはならぬ。わかっておるとは思うが兄弟であっても油断はするな』 とまた武尊がこう申し『番頭に見張らせてありますゆえ間違いはござりませぬ。よもやのときには殺せと言ってあり』・・と」
  船問屋の船冨士だ。船冨士の真の主、つまり兄の方が武尊!
  黒羽が問うた。
 「確かなんだね? それが知れればすべてが片づく」
 「確かでございます、どうか根絶やしに」
 「うむ、わかった。すまぬな小夜さん、我らの力およばす探りきれていなかったこと。その旨確かに伝えるゆえ、くれぐれもこたびのことで己を責めることのないように」
  小夜は応えずただ泣いて、顔を横に向けるのだった。

 「ぅぅ、寒いよ、助けてぇ、もう嫌ぁ」

  かすかに呻く禿髪の娘。
  黒羽はとっさに姉と目を合わせ、さっと立って着物を脱ぐと、桜色の湯文字だけの裸となって娘の横へと滑り込む。助かってほしい。死なずに生きてほしい。
  抱きくるんで温めてやる黒羽。
 「可哀想に・・じきに仇はとってやる・・許さない・・」
  娘を抱いて背を撫で腕を撫で腿を撫で、禿髪の頭ごと顔を乳房に抱いてやる。

  その頃、厨の少し奥の風呂場では鷹羽と鶴羽が湯を浴びて、そこから少し離れた厨に、前掛けをしないお栗と葛が立っていた。
  二人には声もなく、互いに顔を見合わせない。
  化け物だった母親を打ち負かす邪視の持ち主。葛はいまだに信じられない。そしてそんな葛の胸中を察したようにお栗は言う。
 「あたしはジ様と一緒に暮らした、久鬼のジ様さ。親を殺され彷徨っていたらジ様に救われたんだ」
 「それで教えられたか」
 「違う。ジ様は教えてくれなかった。けど一緒に暮らすうち、わかるようになったんだ。江戸で柳が目を使った。ジ様は感じ、やめさせようと無理をして死んでしまった。柳のことが許せない。それでまたそのためにあたしを救ってくれた皆が苦しむ。ますますもって許せない」

  葛は黙って聞いていて、料理の手を止め、夢見るように虚空を見つめた。
 「母者が言ってたよ、この目を持つ者は思うよりも多くいる。気づかぬだけだし、気づいたところで使い方を知らんのだとね。女の一念は恐ろしいというが一念とは念の集束。あたしにはできなかったし、それで苦しみ抜いた母者を見ていて哀れでならない。あたしなんかが言うことじゃないけれど、その目、きっといいことに使っておくれね。さもないと・・」
 「言われるまでもない、わかってる。けどあたしは立つよ。いまはまだ童みたいなもんだけど、いつかきっと皆の力になりたくて」

  そしてまた料理の手を動かす葛。今度こそ何かが吹っ切れたような面色だった。
 「化け物でもあたしにとっちゃ母者なのさ。久鬼の爺様の子の子が母者、あたしはその子。母者を葬り、あたしが死ねば、化け物の血がようやく絶える」
  お栗はチラと横目で見たが、そのとき葛はほんの少し笑っていた。
 「葛だったね? あたしは十五。いくつなのさ?」
 「二十八。母者は十六であたしを産んだ。おまえを産んでやれたことだけがあたしの幸だと言ってくれた」
  お栗はうなずくでもなくただ聞いて、手元の野菜に目をやった。
  ちょうどそのとき風呂場から鷹羽と鶴羽が並んで出てくる。濡れ烏の黒い髪を横に流してまとめた姿。二人ともに男の着物を着込んでいて、それはこの屋敷に暮らした若い侍のものだった。
  くノ一二人は、葛がお栗と並んでいることに驚いたのだが、葛に殺気は感じられない。
  お栗に向かって歩み寄りかけ、そのときお栗が唐突と言う。
 「こやつは嫌いだ、卑怯者だ。死んで血を絶やすと言う。あたしは生きる。生きてこの血を絶やさない」
  己の行き先を見据えるようなお栗の強い目。鶴羽も鷹羽も呆気にとられ、いったい何を話していたのかと二人揃って葛を見つめる。

 「そんなことをお栗が?」
  と、紅羽が目を丸くする。
 「いったい何を話したことやら」
  大部屋へと戻った鶴羽と鷹羽。そのとき黒羽が布団に潜って禿髪の娘を抱いて、紅羽は小夜に寄り添い、布団の上から小夜の胸を撫でてやっている。
  禿髪の娘を抱きながら黒羽が言った。
 「武尊が知れたよ。船冨士の主が武尊。番頭はその手下で、兄に反対する弟を見張ってる」
  これで葛を生かしておく意味がなくなったと、くノ一二人は考えた。だからこそお栗の言葉が重い意味を持ってくる。
 「代わろう姉様、あたしが抱く」
  鷹羽は湯文字さえもしていない。忍び装束の下は男同様ふんどしを穿くもので。鷹羽は素裸。桜色の湯文字を巻いた半裸の黒羽と入れ替わる。
  紅羽黒羽の二人が厨の後ろを通りがかり、お栗が明るい目を向けた。
 「厨にいろいろあったから、ちゃんとしたものができそうです。葛も手伝ってくれてはかどって」
  黒羽は微笑んでうなずくと、お栗のそばで戸惑う素振りの葛に言った。
 「聞いたかい。お栗はおまえを許したんだ。武尊が知れた。もはやおまえに用はない。殺してやりたいぐらいだけどね、お栗が許すならあたしたちだってそうするしかないんだよ。償い方にはいろいろある。死んじまったら楽だからね」
  怒ったように言い捨てて、二人は風呂場へ入って行った。

 「そうだよ葛、ジ様はおまえたちを殺そうとしたわけじゃないんだよ」

  そんなお栗の声は風呂場にまで聞こえている。お栗は変わった。強くなったし大人になった。黒羽も紅羽もそれが嬉しく、互いの背中を流し合う。
  お栗と葛の二人は別に、最後に宗志郎が風呂を済ませ、その頃には外はすっかり明るくなって、つまりは朝餉。大部屋に女三人はぐっすり眠り、死の淵を彷徨った禿髪の娘も顔色がよくなった。
  厨にいろいろあったといっても握り飯と味噌汁にするぐらい。膳を置かず畳の上に盆をならべて皆で囲む。その中には葛も混じる。
 「味噌汁は葛がつくった。美味いよ」
  と、お栗は言い、それだけでもお栗の気持ちは皆に伝わる。
  宗志郎が汁の椀に口をつけ、椀を置きながら部屋を見回し言うのだった。
 「縁の下は柳の墓よ」
  その言葉に葛は宗志郎へと怪訝そうな目を向けた。
 「まあ、てなことにしてはどうかと思ったまで」
  宗志郎は葛を見据えた。
 「母者のしたことなれど、その責めはおまえにもある。突き出せば死罪。されどだよ、これだけの屋敷があれば禿遊びの哀れな娘どもも救えるし、尼寺に預けたままの娘らも多くいる」
  それは、あのときのお光の友もそうだし、天礼寺で救った三人もそうだった。寺に託したままとなっている。その上さらにこの屋敷で救った禿髪の娘もいる。

  皆は宗志郎が決めるならそれでいいと思って聞いていた。
  宗志郎は言う。
 「これだけの家屋敷があれば大勢で暮らせるだろうぜ。どうだい葛、おまえが姉様となって守ってやるならお天道様も許すだろう。この屋敷、誰が返せと言うもんか。騒げば墓穴を掘るだけよ。おい葛」
 「はい?」
  宗志郎に見据えられて葛の声は小さかった。
 「飯がすんだらお栗と二人、湯でも浴びて、お栗の背でも流してやれ」
  皆は微笑んだまま目を伏せて異論はなかった。
  お栗が明るい面色で言う。
 「おまえのために生きるんじゃない。皆のために生きて償う」
  おお! いっぱしのことを言いやがると皆は可笑しく、宗志郎もまた笑って言った。
 「ちぇっ、もはや頭も上がらんな、お栗に睨まれればおしまいだ。はっはっは」

  そう言われてもなお戸惑う素振りの葛に向かって鷹羽が言った。
 「おまえは母者のことばかりを言うけどね、久鬼のジ様は、娘の葛だけは救ってやってほしいと言った。あの子は悪くないと言い残して逝ったんだよ」
  その言葉を追いかけて、またしてもお栗が言う。
 「悪くないわけじゃないけどね。ふふふ」
  混ぜっ返すなコノ馬鹿と言うように、隣りに座る鶴羽に頭を小突かれるお栗であった。

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二一話 生ける妖怪


  深宝寺の内廊下に隠された階段から地下へと降り、人一人が通れるほどの洞(ほら)のごとき穴ぐらを行くと、洞はひろがり、そこは四方を角石で組んだ地下の牢獄。その一方の石壁に×字(ばつじ)に組んだ白木の磔台が二脚据えられ、ふっくらふくらむ乳も美しい女が二人、両手両足を縛られて体を開かれ、磔にされている。
  女たちは一糸まとわぬ素裸。その割り開かれた体の中心に、真下から丸い棒が突き立てられて、女陰を貫かれているのである。女たちはどちらもが歳の頃なら二十代のなかばあたり。とろんと目を開けていたのだが、その目線は定まらず、半開きの唇からだらだら唾を垂らしている。
  女陰を貫く丸い棒は先は太く、つまりは張形。その軸に女陰の汁が流れるように伝っている。おそらくは媚薬が塗られる。悦楽の高みへ追いやる責め。ただ女たちはどちらもが白い体に傷はない。柳の邪視に正気を奪われ、こうやって思考を操られる。その快楽は魔物に魅入られたようなものだろう。繰り返し数日をかけて嬲られ尽くし、人としてのまともな思考を奪われていくのである。

  しかしすんでのところで間に合った。殺せと言われて若い侍が一人地下へと降り、いまにも刺し殺そうとするところ。女はどちらも生きている。宿下がりで江戸城を出た大奥の下女、小夜(さよ)と、表方の下女、姜(きょう)であったのだが、このときの紅羽黒羽にはそこまではわからない。
  地下の惨劇はそれだけではなかった。
  裸で磔にされた二人の傍らに鉄格子のはまった大きな檻が置かれていて、その中に、明らかに十四、五歳かと思われる禿髪の少女が一人、こちらも素裸で閉じ込められる。少女の白い体の全身に縄目の血筋と惨たらしい鞭の痕。下腹の毛も焼かれたように縮れていて、ぐったりとなって倒れている。虐待に虐待を重ねられ、疲れきっているようだ。

  いますぐ助けてやりたい。しかしまだ敵がいる。紅羽黒羽は磔にされた二人の女の真下に突き立つ、淫らな責め棒だけを抜いてやる。
 「あぅぅ、嫌ぁぁ!」
 「静かにしないか、我らは味方」
  張形が抜かれ、そのとき黒々と茂る下腹の飾り毛の奥底からタララと女の汁が流れ落ちた。
 「おまえたち、しっかりおしよ、じきに助けるからね」
  黒羽が言うが返事さえできない。目がとろけ唇を閉ざすこともできないようだ。
  紅羽は檻の中で倒れた禿髪の娘を見つめるが、こちらは眠っているようで身動ぎひとつしない。
  紅羽黒羽は怒りに満ちた目を見合わせ、ギラリと光る剣を手に、壷郷の屋敷の側へ向かって洞を進んだ。石組みの地下の部屋はまたすぼまって穴ぐらとなり、ほどなく行き止まり。寺と同じ隠し階段がつくられて屋敷に出られる。

  紅羽と黒羽がそうして地下へと踏み込んだ頃のこと。
  深宝寺の冠木門から外へ出て、壷郷の屋敷に駆けた宗志郎。しかし土塀につらなる腕木門は閉ざされていて、右の脇戸も内側から閉ざされる。
  塀伝いに少し走り、横に回ってみると、土塀の中ほどに勝手口の門があり、ちょうど宗志郎が表通りから横道への角に立ったとき、勝手口から踏み込む柿茶色の忍び装束の背が見えた。
  鷺羽鶴羽鷹羽だ。少しの違いで艶辰に戻り、急を聞いて駆けつけた。三人はこの場所を天礼寺で聞き出して知っている。
  しかし、いかにくノ一の脚であっても品川から本所深川、その上さらに小石川では身が持たない。宗志郎は白刃を手に駆けた。

  白土塀がそこだけ切られた勝手口。飛び込んでみると、屋敷の裏手に石を配して黒砂利を敷き詰めた枯山水の裏庭。そして土塀の際に、なぜか追い詰められたように突っ立つ鷺羽鶴羽鷹羽。鷺羽は吹き矢、鶴羽は毒鞭、そして鷹羽は両手に鉄の爪をつけ熊が獲物を狙うように両手を上げて構えてはいたのだが、三人ともに様子がおかしい。
 「宗さん、動けない!」
 「何ぃ!」
  屋敷を捨てて柳を逃がそうと勝手口を出ようとしたとき、くノ一三人が駆けつけて塀の中へと押し戻された。
  身動きできずに突っ立つくノ一三人とは少しの間を空け、屋敷の主の壷郷光義、その配下の若い武士が二人、そして女が二人。くノ一三人を相手に互いに見合っていたのだが、女の一人はほんの童で、身の丈四尺五寸(135センチ)ほど。その若い母親は中肉中背。柳はその母親の方である。
  柳の目を見てはいけない。鷺羽も鶴羽も鷹羽も承知のはず。宗志郎もまた母のほうには目を向けず、しかし禿の目を見てしまった。
  禿は童。しかし妙だ。顔を白く塗っていて唇には真っ赤な紅。そんな禿の二つの目に青い炎が揺らぐよう。

  柳は禿! しまった!

  その邪視を見てしまった宗志郎も、足が地べたに埋もれるように動けなくなっている。大きな石でも抱かされたように体が重い。渾身の力で刀を構えようとするのだが、腕がぴくりとも動かない。恐るべき妖怪の眼力。
 「動けまい。ふっふっふ、柳がいてくれれば万人力よ」
  壷郷がほくそ笑み、配下の侍二人がにやりと笑い、母親だと思ったじつは娘の葛が憎しみを込めた目で宗志郎を見つめた。
  柳という風魔の女。邪視を得たゆえなのか身の丈はのびず、娘を産んで、その娘はあたりまえに大人になった。藤色の小袖がよく似合う美しい娘。そして柳は童のごとき体のまま。童らしい赤い着物が愛らしく、しかしその二つの目の底に青い炎が揺らいでいる。
  これぞ邪視!
  宗志郎は渾身の力で声を上げた。
 「柳は禿! 禿が柳だ!」
  そのとき地下で、黒羽は女たちの女陰に突き立つ張形を抜いて、紅羽は檻の中の娘を見ていた。聞こえない!

 「もうよいわ、座興はこれまで。殺れ!」
  壷郷に命じられ、配下の若い侍が二人、抜刀した。
  宗志郎も鷺羽鶴羽鷹羽の三人も身構えようとするのだが、体の骨が錆びついてしまったように自由がきかない。若い二人が剣を振り上げ迫ってくる。

  危ない宗志郎! 危ないくノ一!

  そのときだった。勝手口からお栗が飛び込む。柳が邪視を使った。恐ろしい念を受け取ったお栗が飛び込んだ。
 「柳ぁ! 許さぬぞ、よくもジ様をーっ!」
  逃げろお栗。宗志郎は振り向いて、来るなと首を振ったのだが、お栗の怒りはすさまじい。
  そして次の一瞬。宗志郎も、くノ一三人も、あまりのことに目を見開く。
  お栗の二つの目の底に、真っ赤な炎が燃えている!
  お栗は目覚めた。己の中に潜んでいた邪視に目覚めた。

 「うむむ! おまえは何者かぁ!」
  柳は唸る、そして叫ぶ。
  柳の目の青い炎とお栗の目の赤い炎がぶつかり合った。父親代わりの久鬼を死に追いやった柳への怒り。そしてそのために艶辰の皆は苦しんでいる。
  許さない! 死ね柳! 心の底から噴き上げる怒りの炎!
  さしもの柳も気を集めねば負ける。柳対お栗。女対女の勝負。

  そしてそのとき、宗志郎ほかくノ一三人へ向けられた呪縛が解けた!

  体が動く!
  抜刀して迫り来る二人の敵。宗志郎はくノ一三人との間に立ちはだかり、柳生新陰流の鬼神の構え。鬼神の眼光!
 「死ねぃ! トォリャァーッ!」
  敵の気合い。受けて立つ宗志郎の鬼神の一声!
  キエェェーイ!
  キンキン! キィィーン!
  刃が交錯。すさまじい火花を散らして一閃する正義の剣!
  敵二人の左の一人に斬り抜き胴!
 「ぐわぁぁーっ」
  さらに体をさばいた返す刀の横斬りで右の一人のそっ首がふっ飛ばされて転がった! こちらは悲鳴を上げる間もなく、首のない仁王立ち。血しぶきを噴き上げて朽ち木となって倒れ去る。
  さらに切り返された白刃が、抜き胴に片膝をついて崩れた男の首をも吹っ飛ばす!

  その傍らで、呪縛の解けた鷺羽鶴羽鷹羽。柳は迫り来るくノ一三人にも目を向けねばならず、それではお栗の邪視にとうてい勝てない。
 「柳ぁ! おまえの相手はあたしだぁ!」
  お栗の赤い業火が、生ける妖怪、柳の青い力を焼き尽くす!
 「化け物、覚悟!」
 「ぎゃっ! ぎゃぁぁーっ!」
  横から飛んだ鷹羽の右手の毒爪が柳の右頬をざっくり切り裂き、左手の毒爪が顔を縦に切り裂いた。
  そしてそれと同時に剣を抜いて踏み込んだ鷺羽の切っ先が柳の胸を突き貫いた。妖怪は倒れた!

  残る敵は壷郷、それに柳の娘の葛。くノ一三人が取り囲み、そのとき地下から紅羽黒羽が駆けつけて、宗志郎は刀を振って血を飛ばし、鞘におさめて、呆然として突っ立っているお栗のそばへと歩み寄る。
  お栗は怖い。血しぶきを上げる首のない男などはじめて見る。
 「よくやった、よくやったぞお栗、久鬼殿の仇をとったな」
 「う、うん、あたし夢中で」
  お栗の目に妖しい光は失せていた。生ける妖怪とやりあった恐ろしい力を秘めた娘。しかしお栗はやさしい娘。宗志郎は抱いてやる。抱き締めてやり、背を撫でてやる。
 「おまえは強い、胸を張って生きろ。その目をきっといいことに使うんだぞ」
 「はい、きっと」
  お栗は宗志郎にすがりついて抱かれていた。

  母親だと思った、じつは娘の葛。くノ一三人に囲まれながら母の柳の小さな体にすがって黒い禿髪を撫でていた。
 「これで眠れる、やっと眠れる、よかったね母様」
  鷺羽鶴羽鷹羽の三人はそれぞれ武器を降ろして見守った。妖怪の力を持ったばかりに狂った女の生き様。それはくノ一の背負う宿命のようなもの。
 「あたしにはどうすることもできなかった。そばにいて守ってやりたい一心で」
  母の髪を撫でつけながら、つぶやくように言う葛。
  鶴羽が言った。
 「知ってること話してくれるね?」
  葛は涙を溜めた目を向けた。
 「見ての通り。言うことなど何もない。母はただ女どもを操るだけ」
  鷹羽が問うた。
 「どうやって操る?」
 「それも念、念ずるのみ」
 「念ずるのみ? 娘らを念で元に戻して帰し、また念を用いて狂わせるのか?」
  葛はうなずく。
 「母は化け物。従っているしかなかったのさ」
 「黒幕はそいつか?」 と鷹羽が壷郷へと目をやると、壷郷は、紅羽と黒羽に刃を突きつけられてへたり込んでしまっている。

  その壷郷。
 「さあ吐け! 武尊と、それに船冨士のこと、黒幕が誰なのか、吐け!」
  黒羽が迫るが、壷郷は黙して語らない。紀州藩士であることも、元は根来忍びであったことも。
  そうなのだ、壷郷は根来忍び!
  屈したように見せかけて油断させ、横に飛んで転がって、先に死んだ配下の侍の剣を取る。紅羽黒羽の二人が構え直して左右を固め、しかし壷郷は、手にした剣を逆さに回して腹に突き立て自刃した。
 「吉宗め・・ぐふっ」
  それだけを言い残し、壷郷は倒れた。
  そしてそんな様子を、母親の小さな骸にすがりながら葛は顔色ひとつ変えずに見つめ、言うのだった。

 「紀州藩、腰物支配が配下、それが壷郷。元は根来」
 「忍びか」 と、鷹羽が崩れ去った壷郷を見つめて吐き捨てるように言い、葛はさらに言う。
 「武器の一部は豆州は式根島。紀州領内に鍛冶どもを囲ってつくらせる。船冨士が運び、その一部は島に隠す」
 「一部とは?」
  鶴羽に問われて葛は横に首を振る。
 「ほかは知らぬよ。いずれかに運ばれて、すでに諸藩の手にあるものと思われる。刀もあるが新式鉄砲が売れると言う。欲しい藩は数多(あまた)あり、もはや追えぬ。武尊なる商人に売りさばかせて得た金は尾張へ回る」

 「尾張だと? そやつは紀州が家臣であろう?」

  お栗の肩を抱きながら宗志郎が歩み寄って問うた。葛は、母親と同じ力を持つ小娘を見つめながら言う。
 「そなたも妖怪か、ふふふ」
  宗志郎の腰にすがるお栗。葛はちょっと眉を上げ、おまえもいずれはたどる道と言いたげだった。
  葛は言う。
 「そこな壷郷は根来の裏切り者。世継ぎ争いに敗れた尾張は、吉宗めが配下に命じて本来世継ぎとなるべき家中の者を殺されたと思っていてね。壷郷は紀州に仕えながら、尾張の誰かに禿どもをあてがって取り入って、かなりな禄(ろく・報酬)を得ていたんだ。ゆえにこの屋敷も寺も持てた。元が忍びの壷郷は母者を知っていて、そのとき目を使わせて娘どもを狂わせた」
 「なるほど、それで思いついた企みだったと?」
 「そうだよ。首尾良く運べば紀州と尾張はにらみ合い、世が乱れれば武器が売れる。太平の世のせいで鍛冶どもはあがったり。刀鍛冶が包丁をつくって食いつなぐありさまなんだよ。堺の鉄砲鍛冶にいたっては衰退の一途。どちらも二つ返事で武器をこしらえ己が腕を見せたがる。よもや露見することがあったとしても、紀州領でつくられ紀州御用の船冨士が運んでいるんだ。尾張とすればどっちに転んでも吉宗を追い詰めることになる」

  葛はまた母親の禿髪を撫でてやり、それから静かに立ち上がった。
 「一つ望みがある。それまでは生かしてほしい」
  宗志郎が問うた。
 「その前に聞いておきたいことがある」
 「武尊だね?」 と葛は言い、宗志郎がうなずいた。
 「五十年配なのだろうが小柄な男でね。ときどきここへもやってくる。どこにいるかなどは知らんし、どうやってつなぎを取るのかも知らん。船冨士についてはなお知らん。顔を見たこともないのでね」
 「武尊なる男は見ればわかるな?」
 「わかる」
  そのとき横から鷹羽が問うた。
 「天礼寺の者どもとのつながりは? 禿どもを躾けていたよ」
  葛はちょっと笑って言うのだった。
 「男などくだらない。どいつもこいつもくだらない。壷郷のやり口を商いにしやがった。壷郷も船冨士も元は紀州。どうやってつながったのか、そこまでは知らないけどね。まさしく禿化けさ。買った娘を禿の姿にしておいて、方々のお大尽に売りさばく。壷郷など責め殺し、次なる禿を持てと指図をするのさ」
  宗志郎は黙って聞いて葛の願いを問い質した。葛は言う。
 「母者の骸を日光に葬ってやりたい」
 「なぜまた日光?」
 「わからぬか。我ら風魔にとって家康は敵ぞ。東照宮のそばに眠り、あの世で取り憑いてやると言っていた。徳川の世を乱せるならおもしろい。ゆえに母者は力を貸した。母者を葬り、あたしは死ぬ」
 「ならばその前に力を貸せ。武尊なる男を見極めてほしい」
 「わかった。その代わりこちらの願いも」
  宗志郎はうなずいた。

  それから紅羽とくノ一三人が地下へと降りて女たちを救う。
  そこらじゅうに散乱する死体と柳の亡骸は、女たちと入れ替えるように地下へと運んだ。
  しかし、その夜のうちに艶辰に戻るわけにはいかなかった。地下に囚われた女三人は疲れ切って動かせない。檻の中の少女は命さえ危ない。鷺羽一人を艶辰へ帰しておき、残りの皆で壷郷の屋敷へ入り込む。

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二十話 修羅場なり


 艶辰のある本所深川から永代橋を渡って、八丁堀、日本橋、内神田、小川町と、お栗はどんどん小石川に近づいていく。お栗は十五と若く、八王子の山の暮らしで脚がよく小走りで通せるのだが、さしもの宗志郎もこれほどの距離は厳しい。何かを嗅ぎつけて犬が駆け、人がそれを追うようなもの。お栗は時折脚を止め目を閉じて両手をひろげ闇を吸うような仕草をする。邪視を使うとき、それは業火のようなものであり、念を発し続けられる時はそう長くない。しかし念を止めてもかなりの間は残り火のような、まさしく残念が漂うという。あの夜のお栗は久鬼の発するそれをたどって宗志郎の家を嗅ぎつけた。
  宗志郎も紅羽も黒羽も相変わらず半信半疑。妖怪の力というしかなかっただろう。

  それにしても小石川と言えば、御三家、水戸屋敷のあるところ。それだけに人の入り組む場所である。
  御三家のひとつ水戸徳川家は、陸奥国は水戸に水戸藩を構えていたが、その当主は江戸定府として江戸に暮らし、全国諸侯の中で唯一参勤交代を免除されていた家柄。御三家筆頭の尾張家は大納言、次なる紀州家も大納言。比べて水戸家は中納言と、三家の中では格下であったのだが、江戸定府ということでじつはもっとも将軍家に近く、尾張家紀州家ともに動向の気になるところ。ゆえにその屋敷のある小石川の周辺には息のかかった者どもを潜ませて目を光らせていたのである。
  そしてそれはそのほか諸藩にとっても同じこと。外様大名よりもむしろ徳川家により近い譜代にとって、徳川家内の力関係は無視できない。譜代や外様やと言ってみても、それは初代家康、二代秀忠、せいぜい三代家光あたりまでのことであり、八代将軍の今日まで長く太平の世が続くと、狸と狐の化かし合いの様相を呈してもいたしかたのないことだった。その間隙を縫うように外様大名が手ぐすね引いているのだから、水戸屋敷の周辺に思惑が混み合うはずなのである。

  そうしたとき探る側にとって格好の擬態となるのが寺社仏閣。とりわけ寺は、戦国の世から武将どもが己の権力の象徴として築いてきたものが多く、その流れで諸藩諸侯の息のかかった寺が江戸狭しと建立された。寺とは名ばかり。反動の士や忍びの根城となるものも多く、また武器など闇取引の温床ともなるものまでが現れる始末。それらを取り締まるために寺社奉行がつくられ、怪しい寺については幕府によって移転させられることも多かった。

  かなりな脚で駆けていたお栗が止まった。小石川と本郷との境、やや北となるあたり。小さな寺が武家屋敷に混ざって点在するそんな場所。闇も深く、町には人の気配がしない。ひたすらこちら方面へ向かうお栗に、もしや水戸様までがと考えていた宗志郎だったのだが、その場所は水戸屋敷からは遠かった。
  冬の深夜、お栗の息が白い。立ち止まって息を静め、お栗はふたたび両手をひろげて闇を吸う。
 「近い。このへんだけど」
  それからさらに北へと向いて、東、南、西と向きを変えて闇を吸う。そしてさらに少し歩き、それほど古くはない小さな寺の角で立ち止まる。
 深宝寺(じんぽうじ)。背丈ほどの白土塀で囲まれて、その門は屋根のない冠木門。三方を武家屋敷に抱かれるように存在する寺。
  お栗は言った。
 「ここだと思う。けど妙なんだ」
  宗志郎が問うた。
 「妙とは?」
 「念がぼやけて・・寺とそして・・」 と言って、またしても闇を吸う。
  そして、「そこ」と、寺の右隣に建つ武家屋敷を指差すお栗。こちらは黒瓦の屋根のある腕木門に右片脇戸。造りの小ぶりな屋敷であった。
 「寺と両方にいるっていうのかい?」
  黒羽が問うたが、お栗は黙って気を一点に集めているよう。
 「念がぼやけて光の繭のよう。けどここだ、違いはないよ」
  深宝寺そして武家屋敷の表札に『壷郷(こごう)』とある。
  しかし宗志郎にとっては知らぬ名。表札を見上げて宗志郎は黒羽に向かって知らないと首を振る。

  そしてそのとき、寺とは地下でつながる壷郷の屋敷の奥の間で夜具を並べて寝ていた二人の女のうちの一人がハッとするように目を開けた。柳である。
 「うむ?」
  ただならぬその気配で隣の布団に横たわる女も目を開ける。娘の葛。
 「どうかなさいましたか?」
 「いや、わからぬ。わからぬが、かすかな念を感じた」
 「久鬼様の?」
 「違う。爺様ならはるかに強い。ごくわずか、かすな念・・」
  そして柳は身を起こし、寝間着の上に長綿入れを羽織って立って、薄明かりを通す明かり障子の前へと歩む。
 「うむ、いる。何者かが迫り来る。どうやら念をたどられた。いかん来る!」
  ところがそのとき宗志郎らが踏み込んだのは寺の側。念を感じたという無体な理由で武家屋敷には踏み込めない。
  寺では曲者の気配を察して寝間着姿の僧どもが二人また二人と数を増し、壷郷の屋敷の側でも柳に急を告げられた武士どもが一斉に起き出した。

 「寺が襲われているようです」
 「敵は? その数は!」
 「わかりませぬが多くはないよう」
 「ううむ」 と唸り声を上げた屋敷の主。紀州藩、腰物支配の配下、壷郷光義(こごうみつよし)であった。壷郷は紀州藩の藩士であったが、それほど年配というわけでもない四十代。腰物支配の配下の中では軽輩ながらも特異な経歴を持つ男。元は根来忍びであり、この屋敷は別邸。本宅を四ッ谷に構える男であった。
  深宝寺とは地下でつながるこの別邸に裏のある者どもを囲っているというわけだ。
 「捨ておくわけにはいかぬ、行け、皆殺しとしてしまえ! よもやの時には柳を逃がせ、よいな!」
 「はっ!」
  寺を探られれば地下道は隠しおおせない。知らぬ存ぜぬでは通らない。
  壷郷の屋敷の備えは、主の光義、そして柳と葛のほか配下が七人。一方の寺には住職以下六人。多勢に無勢!

  寺へと踏み込んだ宗志郎、男姿の紅羽黒羽。お栗は塀の向こうの屋敷の陰に隠してある。
  本堂へと続く数段の踏み段を境として、木綿生成りの単衣の寝間着姿の僧ども六人と対峙する宗志郎。
  宗志郎が男どもの中央にいる住職らしき男に言う。住職といっても若い。こちらもまた四十代かと思われた。男ども六人は明らかに僧ではない隆々とした体つき。皆が長身、目つきが鋭く、六人それぞれ、剣が四人に槍が二人。
  宗志郎は言った。
 「ここに柳がおるはずだ、出せ」
 「柳と? ふふふ、知らぬな」
  宗志郎はにやりと笑う。
 「知らぬなら何ゆえ剣と槍を持つ。それこそが偽坊主の証となろうぞ」
 「さてね。ふっふっふ、そなたらは三人、しかも見受けるに女が二人。いかにも無勢! 殺れぃ!」
 「おおぅ!」
  頭の号令で男どもが外廊下から一斉に飛び降りて三人を囲み、問答無用で斬りかかり、槍の一人が黒羽を狙って身構える。

  背中合わせの陣形で剣を抜く紅羽そして黒羽。一刀流の女剣士。
  そしてついに宗志郎の腰から青鞘の白刃が抜き去られた。月光にギラつく怒りの剣!
 「覚悟せい!」
  左右から斬りかかる剣と剣。宗志郎の白刃がこともなげに振り払い、夜陰のごとく体をさばいた刹那、二人のそっ首が胴から離れて地べたに転がる。噴き上げる血しぶき。そして刹那、中腰中段、切っ先を後ろに構える柳生新陰流の構え。次なる敵の男二人を右斜め左斜めにおいて鬼神の気迫!

  黒羽には槍の一人。突き込みを剣で払うも、飛び退きざまに槍は回され、棒尻へ脚を払い、黒羽が飛ぶと、ふたたび回された槍が中段に構えられ、しかしそれよりわずかに速く、
 「おしまいだよ! 覚悟!」
  くの字に踏み込んだ黒羽の剣が槍を持つ敵の両腕を肘下から吹っ飛ばし、男が断末魔の悲鳴を上げる間もなく、返す刃が心の臓を貫いて背中へと突き抜けた。恐るべし黒羽! 一刀流の女神様!

  紅羽には剣の一人。互いに中段、にらみ合い、焦れた男が一瞬先に刀を振り上げ、突き斬りに踏み込んだ。
  ピィィーン
 横に体をさばきつつ敵の剣の横腹へ打ち込む紅羽。敵の剣が中ほどでぽっきり折れて地べたに刺さり、次の一瞬勝負は決した。
  敵の横から後ろへと回り込みながらの横振りの太刀筋!
  チェストォォーッ!
  くそ坊主の毛のない頭を吹っ飛ばし、石ころのように首が転がる。首のない胴体が血しぶきを噴き上げながら朽ち木のごとくばったり倒れる。
  恐るべき姉、紅羽の一刀流! 妹もろとも、女はやっぱり恐ろしい!

  そのとき宗志郎は二人を相手に身構える。一方は剣、また一方は槍。槍を持つ男が住職、いいや頭であった。
 「強い。その構えは柳生新陰流。名は?」
  しかし宗志郎はほくそ笑む。
 「末様」
 「何ぃ?」
 「ふっふっふ、末っ子ゆえな」
 「しゃらくさい!」
  左から斬りかかる剣を払い、右からの槍の突きを紙一重で交わした宗志郎。槍が回され、それを目くらましとするように剣を持つ一人が踏み込んだ。
  ピキィィーン
 剣と剣が交錯し、敵の剣が大きく欠けるも宗志郎の剣は無傷。そうして二人を相手としながら宗志郎は黒羽に言う。
 「ここは俺が。中を探れ」
  ところがそのとき、寺の側ではなく寺の門を回って武士ども四人が斬り込んでくるのだった。寝込みを襲われて皆が灰色の寝間着の姿。皆が若く、宗志郎の敵ではなかったが、数が多い。さらに次なる敵はいずれも武士。刀ではかなり使うと思われた。

  宗志郎には僧が二人に武士が一人、紅羽と黒羽を残る三人で取り囲む。
  まずい。ここで手間取ると柳に逃げられる。斬り込んだ四人とは別の一人が取って返して報告する。
 「敵は三人なれど尋常ならず! 強い!」
 「柳を逃がす。屋敷を捨てるぞ。それから地下の女どもも斬り捨てろ」
 「はっ、そのように!」
  そんなことは遠く離れた宗志郎には伝わらない。
  交錯する剣と剣が境内狭しと火花を散らし、敵はばたばた倒れていく。残ったのは槍を持つ住職と、武士の二人。宗志郎にたじろいで踏み込んでは退きを繰り返し、一方を深追いすると後ろから襲われる。
  その傍らで三人の武士に囲まれた紅羽黒羽だったのだが、一瞬の間隙をついて黒羽が囲みを破り、同時に紅羽が一人を倒し、黒羽は二人を相手、しかしその片方を後ろからの紅羽の剣が仕留め、そのとき同時に黒羽の剣が残る一人の首を飛ばす。
  これで三対三。宗志郎を囲む陣形が崩れ、その刹那、宗志郎の鬼神の剣が二人を倒す。残るは槍を持つ住職一人。
  宗志郎は言う。
 「二人は中へ。柳の目を見るな」
  紅羽黒羽は顔を見合わせ、互いに剣を振って血を飛ばすと、抜刀したまま踏み段を駆け上がって本堂へとなだれ込む。しかし無人!

  槍を中段に身構えて相手の喉笛へと向ける男。動きが速い。おそらく忍びをと見切った宗志郎。
 「根来か」
 「笑止! 覚悟せい!」
  キエェーイ!
  すさまじい気合い。突き突き、嵐の突き。右に左に顔を振って交わすも、左の頬をかすかにかすって一条の血筋。男は強い。にやりと笑ってふたたび身構え、突き突き、そして槍を回しながら体をさばき、棒尻で頭を狙うと見せかけて踏み込んで蹴り。宗志郎が崩れると見るや、振り上げた槍が地べたを突き!
  宗志郎は横っ飛びに転がりながら、下からの振り上げ剣で脚を狙う。
  セェェーイ!
  闇を裂く男の悲鳴。右足の膝下が消えていた。刹那立った宗志郎の袈裟斬りが男の肩口から切り裂いて勝負は決した。
  宗志郎は刀を振って血を飛ばすと、一瞬寺を見たのだったが、背を向けて門へと走り、すぐ隣の壷郷の屋敷へと回り込む。そしてそのとき、物陰に潜んだままのお栗と目が合う。
  凄い・・お栗は声も出なかった。宗志郎の全身が、顔までも、返り血を浴びて真っ赤! がたがた足の震えるお栗だった。

 「地下だ」
 「うむ!」
  寺の奥の庫裏へと通じる廊下に隠し階段。黒羽が先に続いて紅羽が降りる。しかしそこで二人は怒り狂う光景を目にしてしまう。
 「待てぃ! 許さぬ!」
  とっさに黒羽は腰の小刀を抜いて投げつけておき、投げながら小刀の軌跡を追うように駆け寄ると、
 「串刺しにしてくれる! くそ畜生めが!」
  逃げようと背を向けた若い武士の左の背から心の臓を貫いた!

  くそ畜生とは・・黒羽は美形ぞ。言葉に気をつけねばならぬだろう。

 「なんてことを・・惨い・・」
  遅れて駆け寄った紅羽がその光景を目にし、愕然として吐くようにつぶやいた。

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十九話 お栗の眸


  品川が冬の夜陰にくるまれる刻限。船問屋の船冨士に並はずれた耳を持つ鷺羽が潜み、天礼寺には戦いに長けた鷹羽と鶴羽が潜んでいた。
  そしてちょうどその頃、艶辰の厨にはお光とお栗、そして今宵は紅羽が立って夕餉の支度が進んでいた。しかしお光はしきりにお栗を気にしている。どこか様子がおかしい。落ち込んでいるとかそういうことではなくて、時折ぼーっとすることがある。それはいまにはじまったことではなくて昨日あたりからちょっとおかしく、夜をともに明かす男芸者の情介もそれに気づいていた。黒羽と宗志郎が一つ部屋にともにいて、情介はちょっと覗いて黒羽に微妙な目配せで告げたのだった。
 「うん? どうしたんだい?」
 「ちょっと」
 「ああ、いいよ」
  黒羽は宗志郎に向かって眉を上げると立ち上がり、部屋を出て情介の顔を覗き込む。

 「お栗の様子がおかしい?」
 「そうなんです、あたしが夕べ遅くに戻ったとき、お栗がなんだか怖がってて抱きついてくるんです」
 「怖がって?」
  情介はうなずいた。
 「訊けばジ様が夢に出てくるとか。けど、どうもそれだけじゃないみたいで」
 「と言うと?」
 「ときどきハッとするような顔をして、『気のせいさ』って独り言をぼそっと言う。それであたしが、どうしたっていうのさって訊くと、ううんなんでもないって言うんですけど。抱いてって言ってすがってくるから」
  ちょうどそう話しているとき、厨ではお栗が小皿を二枚重ねて持って、落として割ってしまうのだった。
  お光が笑いながら言った。
 「あれま、やっちまったよ。どうしたのさ? なんだかヘンだよ?」
  若い二人のやりとりを紅羽がチラと横目で見る。
 「何かあるなら言ってごらん。あたしらもう家族なんだよ。悩み事でもあるっていうのかい?」
  その紅羽を声を、それならと様子を見に来た黒羽も聞いた。壁を隔てた陰にいて黒羽は耳をすませていた。

  紅羽に両肩に手をのせられて見つめられ、お栗は元気のない顔を上げるのだった。
 「昨日からヘンなんです」
 「ヘンとは?」
 「ジ様が夢に出てくることと、気のせいだとは思っても、ジ様の念を感じてしまって。ジ様があの眸を使うとわかるんです。ゾゾっと震える感じがして、いま眸を使ったなって」
  このとき、紅羽も黒羽ももしやと思った。お栗にとってのジ様、久鬼なる老爺は柳とは血のつながる関係。柳がその力を使えば、つまりは久鬼と同じ血が騒ぐということ。死んだ久鬼にそのようなことができるはずがない。
  紅羽は問うた。
 「その念は強いのかい?」
  お栗はううんと首を振る。
 「わからない。弱いけどでも確かにあの眸の念なんだ。それを感じるとビクっとするし、ジ様がそばにいるような気がしてならないんだもん」
 「そうかい、うんうん怖いよね」
  紅羽はお栗を抱いて背を撫でる。そしたらお栗が腕の中でつぶやいた。
 「川向こう」
 「え? 川向こう? どこからの念なのか、わかるのかい?」
 「わかる。川向こう」
  八王子の山中から、久鬼の発する念をたどって宗さんの家を探り当てた娘だったと思い直した紅羽。
 「宗さんの家のほうかい?」
 「違う。そのずっと先のほう。・・あっ」
  あっ、と弱く叫んで抱きすがるお栗。
 「いままたゾクっとした。念が強くなってるの。確かに感じる。ジ様は死んだはずなのに」
  
  宗志郎の小さな家の少し先の寺に久鬼の亡骸を葬った。方角はそうでも久鬼は死んだ者。
  お栗は、紅羽に抱かれていながら振り向いて虚空を見つめ、しばらく探るような素振りをすると、紅羽を見つめてそっと胸に抱きすがる。
 「消えた」
 「消えた?」
 「いま消えた。静まったんです、いま」
  そしてそのとき厨へ顔を見せた黒羽に対して紅羽は眸でうなずいた。
  柳だ、そうに違いないと二人は思った。久鬼と同じ血を受け継ぐ柳が力を使うとお栗に伝わる。
  黒羽の背に隠れるように心配そうに顔を出す情介。黒羽は振り向いて情介に微笑むと、お栗を部屋へ連れて行けと小声で言った。
  情介に肩を抱かれて厨を出たお栗。代わって黒羽が厨へ降りる。
 「柳だね」
 「うむ、おそらく。お栗にはわかるんだ。誰に教えられるわけでもなく宗さんの家を探り当てた娘なんだよ」

  柳が邪視を使ったと感じた久鬼は、それをやめさせようとして対決するためやってきて、しかし寒空。無理がたたって死んでしまった。お栗にすれば父親同然。そして艶辰へやってきて事件のことを聞かされて、皆が柳を追っていると知る。柳が憎いという気持ちが生まれ、ゆえに柳を感じることができるようになっている。
  情介に連れられて部屋へと戻ったお栗。そこには虎介もいて、今宵の二人に座敷はかかっていなかった。情介に支えられるようにして部屋へと入り、どすんと尻を落としてへたり込むお栗。情介と虎介の二人が左右に寄り添う。
  お栗が力なく言った。
 「わかるの、柳という化け物の気配がする」
 「うんうん」 と虎介は言って、辛そうなお栗の手をそっと握る。
 「力がどんどん強くなってくる。あたし怖いの。あたしの力が増してるから。ジ様が死んであたしはもう天涯孤独なんだと思ったんだ」
 「うんうん」 と情介が言ってお栗の肩をそっと抱く。お栗は涙を溜めていた。声が泣き声に変わっていく。
 「柳が憎い。よくもジ様を殺してくれた。憎いんだ。憎いと思えば思うほどあたしの力が強くなってく。そんな気がして怖いんだ。姉様方がそれで働いてる。あたしだって仇は許せない。あたしにもっと力があればと思ったけど、そう思うからか、どんどん力が強くなってく」
 「うん、怖いだろうね、うんうん」 と虎介が手を握り、情介が肩をしっかり抱いてやる。
 「あたし嬉しいんだ。もう独りなんだと思ったけど、みんなが娘のように可愛がってくれるだろ・・だからあたし力になりたいって思ったんだ・・そしたらあたしの眸に力が宿ってくるみたいでさ・・怖いんだ」
  泣いてしまうお栗。わずか十五歳の娘、化け物の気配に恐怖を覚える気持ちはよくわかる。

  思ってもみなかったところから柳の所在が知れるやも。
  しかしお栗がそれを感じたということは、柳が邪視を使ったということ。次の事件が迫っているとみて間違いはないだろう。もはや時間がない。
  黒羽、宗志郎、そして美神が顔を合わせた。美神はお栗を呼べと言い、黒羽が立って迎えに行った。そのとき泣いてしまって虎介情介の二人に抱かれていたお栗の手を取り、美神の部屋へと連れてくる。
  宗志郎のそばに座ったお栗。宗志郎はその膝にそっと手を置いた。お栗はちょっとうなずいて、泣き顔を美神へ向けるのだった。
  美神は言った。
 「あたしらみんな死に物狂いで探ったんだよ。鷺も鶴も鷹も、いまこうしてる間にも張り付いてる」
  お栗はもちろんわかっているから、泣きながらうなずいている。
 「おまえを巻き込みたくはないけれど」 と美神が言うと、みなまで聞かずにお栗は言った。
 「逃げませんあたし。柳が憎い。ジ様の代わりにあたしがやる。あたしはこの眸をいいことに使いたい」
  美神は眸を潤ませてお栗を見つめる。お栗は強い子。
 「わかった、そうしな。おまえはあたしらみんなの仲間だからね、あたしらできっと守るから」
 「はい!」
  泣き濡れる眸に、今度こそお栗らしい力が漲る。美神は微笑んでうなずくと、厨を手伝うよう明るく言った。

 「次だね、動くよ」
  柳が次に眸を使ったときが勝負。美神の言葉に皆がうなずく。

  品川の闇はますます濃くなり、船着き場から人影が失せていた。船問屋の船冨士。その屋根裏に鷺羽が潜み、聞き耳を立てていた。
  そしてそこから少し離れた天礼寺には、鷹羽と鶴羽が張り付いている。
 「嫌ぁぁーっ、ああ嫌ぁぁーっ、助けてぇーっ」
  凄惨な陵辱。禿とされた娘が三人、阿片を吸わされて朦朧としたところを犯し抜かれる。鬼畜そのものの男ども。敵は総勢五名ほどだが、粗野というだけで、殺るならいつでも殺れる程度の者どもでしかない。
  屋根下の風抜き穴から見下ろす鷹羽は、怒りを抑えて忍んでいて、もう一人の鶴羽は、寺へといたる道の脇に潜んでいる。鶴羽のほうに動きはない。

  裸の娘三人を手首の縄で梁に吊り、尻を出させて後ろから突き立てる。阿片を吸って、むしろ昂ぶる娘らは、女の悦ぶ声を上げながらも、時折正気に戻ったように泣きわめいて犯されている。
  許せない。殺してやる!
  そうは思っても手出しのできないもどかしさ。鷹羽は忍び装束に忍ばせた鉄の爪に手をやって、歯ぎしりする思いでいた。
 「助けて助けて、けど果てちまう、もっと欲しいか? はっはっは! ほうらいい、もっと尻を振り立てろ!」
 「あぁン、はぁン、あっあっ! もう嫌ぁぁーっ!」
  裸の娘が三人、裸の男どもが四人。そして一人が僧の姿で見張りをする。

  ある娘の尻を犯す男の一人が言った。
 「こうして見るとおめえだな。上玉よ。じきに夢の世界へ行けらぁな。そこは地下でよ、泣いてもわめいても声ひとつ聞こえねえ。縛っていたぶるのが好きな御仁でよ」
  すると、その隣で別の娘を犯す男が言うのだった。
 「小石川のお大尽か。まったく何人死なせば気がすむのか。屋敷があって、そのための地下があり、地下を行けば寺に出る。鉄砲、刀はそれほど儲かるものなのか、ふん、クソ野郎が」
  鷹羽の眸がぎらりと光った。武尊という武器商人の根城なのか? それとも武尊を操る何者かの根城なのか?
  もう待てない。問い質して吐かせてやると思ったとき、一人の男がまたしても口を滑らせた。
 「躾もほどほどに連れて来いってことだ、おめえは明日にでも連れ出してやるからな」
 「怖や怖や。そこには見つめるだけで人を操る妖怪がいるそうだ。躾もくそもねえらしい」
  柳だ! 間違いあるまいと鷹羽は思った。
  ヒュィ!
  忍びの耳に聞こえるわずかな息笛。鶴羽が気づき、鷹羽は屋根から飛んで駆け寄った。
 「鷺をここへ、やるよ!」

  疾風のごとく闇を駆ける鶴羽。ほどなくして鷺羽が駆けつけ、くノ一三人が顔を揃えた。鷹羽が屋根へ、鶴羽鷺羽は板戸に寄り添い、踏み込む陣形が整った。
  柿茶色の忍び装束から鉄の爪を手にした鷹羽。両手の手首にハメ込んで、内側の握りを持つと、先の曲がった鋭い爪が雲間から注ぐ青い月光を浴びてギラリと光る。
  風抜き穴をくぐり抜けた鷹羽は、屋根の裏に組まれた太く四角い梁に取りついて、下への間合いを計り、まさしく鷹となって舞い降りた。
 「許さぬ! 覚悟!」
  男どもは五人いるが、うち四人は素っ裸。見張りの一人が剣を持つ。
  板床に舞降りた伊賀の鷹女(ようじょ)。その目は鬼神。真っ先に、娘を犯す三人の男のうちの二人の背を、両手の爪で切り裂いた。飛び散る血しぶき。爪には恐ろしい毒が塗られている。
 「ぐわぁぁーっ!」
 「ぎゃうーっ!」
  断末魔の悲鳴が重なって、そのときそれを合図に板戸を蹴破り、鶴羽鷺羽がなだれ込む。
  剣を持つ見張り、そして素っ裸で男根を勃てたまま錫杖にとびつく一人。まさに娘の尻に突き立てていた裸の一人が横っ飛びに床を転がり剣を手にする。

  着衣の見張りと対峙する鷹羽の爪。裸で錫杖を持って身構える一人に対峙する鶴羽の手には、巻き上げた革の一本鞭。その先端には鉄のトゲが埋められて、トゲにはやはり毒。さらに鷺羽だ。鷺羽は吹き矢の名手であり、なだれ込むなり、素っ裸の一人に矢を放ち、矢は男の尻に突き立っていた。こちらは気を失う毒矢であり、男は倒れても死にはしない。一人は生かして口を割らせる。
  着衣の見張りに対峙する鷹羽が言った。
 「死にたくなければ吐きな! 小石川のお大尽とは何様さ! おまえら武尊の手下なのか! 吐かねば殺す!」
  そのときすでに、飛び降りざまに背中を裂かれた裸の二人が泡を噴いてのたうち苦しむ。猛毒だ。見張りの男も、鷺羽と鶴羽に睨まれた男どもも、仲間の姿に面色が青くなる。
  しかし見張りの一人が剣を振り上げ、鷹羽へ向かって踏み込んだ。
 「ぬかせ女! 勝負はこれから! セィヤァーッ!」
  敵は侍でもなく忍びでもない。なのに剣はかなり使う。踏み込みざまに突き斬りの剣先が鷹羽を襲うが、鷹羽の鉄の爪が剣を受けきり、手首をひねると爪と爪の間に白刃が捉えられて抜けなくなってしまう。
 「それまでだ、死ねぃ外道!」
  右手の爪で剣を受けて動きを封じ、左手の鉄の爪が剣を持つ腕を切り裂いた。肘下の腕が裂かれて骨が見える。鷹羽の爪、恐怖!
 「ぐわぁぁーっ! 腕がぁぁ!」
  剣を手放し、血の噴き出す腕を押さえて後ろへ吹っ飛ぶ男。またたく間に毒が回り、泡を噴いてのたうちもがく。

  鷺羽の吹き矢は効果が遅い。裸の尻に突き立った吹き矢を引き抜くと、男は剣を中段に構えて、突き突き、突き!
  しかし鷺羽は身が軽く、とんぼを切って宙を舞うと、忍び刀を抜きながら音もなく板床に立って身構える。
 「ふふふ、じきに目が回ってくるさ」
 「何ぃ! てめえ! 覚悟せいやぁ!」
  振り込まれる剣を剣で払い、転がりざまに鷺羽の剣先が、なかば勃ったままで揺れて暴れる男根の頭を吹っ飛ばす。
 「ぎゃぃ!」
 「ふんっ、そんなもの、もはやいらん、汚らしい!」
  剣を取り落とし、先をなくして血を噴く男根を両手で覆って絶叫する男。しかしその声が弱くなる。毒が効きはじめていたからだ。

  その傍らで対峙する鶴羽。相手は裸で、長さのある錫杖を持っていたが、鶴羽の手にある黒革で仕立てた毒鞭のほうが少し長い。錫杖の突き込みに対して横振りに振られた鞭先の鉄のトゲが男の頬をピシリと打って、頬が裂け、猛毒が体を駆け巡る。
  裸の男は錫杖を板床について体を支えるも、毒が回って体が動かなくなっていく。
 「それまでだね、おまえはもう助からないよ。冥土の土産に娘らの裸を見て死んでいけ、犬畜生め!」
  白目を血走らせ、口をぱくぱくやって泡を噴き、そのうち黒目が裏返って白目を剥いて膝から崩れる裸の男。鶴羽の前蹴りを鼻っ柱にまともにくらって後ろへ吹っ飛び、ひくひくと死の震えを繰り返す。

  鷺羽の吹き矢に倒れた男。朦朧とする意識の中、三人のくノ一たちの姿が歪んで見える。
 「さあ吐け! 小石川のお大尽とは何者だ!」
 「あぅぅ、言う、言うから命だけは」
  男は吐いた。しかしすべてが知れたわけではなかった。下っ端が知らなくていいことは知らない。ただひとつ、そこに柳が潜んでいる。それだけ聞けば充分だった。
  屋根下の太い梁に素っ裸で吊られたままの娘らは、突如起こった惨劇に声もない。そんな裸の娘らに鷹羽は言った。
 「よく見ておきな、おまえたちの仇はとったからね」
  黒い鞘から忍び刀を静かに抜くと、朦朧として声も出せなくなった裸の男の胸板へ、鷹羽は顔色ひとつ変えずに鬼の刃を突き立てた。

  鷹羽、恐怖! 鷺羽鶴羽もまた恐怖! 女は恐怖!

  天礼寺で娘らを救い、くノ一三人は艶辰へと走った。しかし品川からではいかにも遠い。
  そしてそれから一刻あまりが過ぎた頃、艶辰では、お栗が念を感じて美神が号令。茄子紺の袴に黒頭巾の黒羽、同じく茄子紺の袴に赤頭巾の紅羽、そして青鞘の刀を佩いた宗志郎が、町娘の姿のままのお栗の手を引く。美神は残って、よもやのときに艶辰を守る。

  くノ一三人は永代橋のそばまで迫っていたが間に合わない。
  柳の発する念をたどってお栗が走り、三人が後を追う。しかしそうして柳にたどりついても寺には抜け穴があって、知らせがなければ逃げられる。
  急げ、くノ一!

  今宵は雲間に美しい三日月が浮いていて、しんしんと冷えていた。

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十八話 終の住処


  商いの規模のわりに羽振りがいいという船問屋の船冨士。そこには武尊なる怪しい武器商人が出入りしている。武尊は西国あたりの武器商人であり、船冨士はその品物を船で運ぶ。船は駿府にあるという船冨士の本店を経て品川へとまわされるのだったが、海路をゆく途中の豆州(伊豆)またはその沖に点在する大島そのほか島々のどこかで荷を降ろし、それらの武器を隠していると思われた。裏金が動くから船冨士は羽振りがいいということだ。
  さらに船冨士は禿遊びのための娘らを運んでいる。売られた娘らを品川へと運び、天礼寺なる寺へと送って遊び女に躾けているわけで、そこでもまた裏金が動くことになるわけだ。
  ・・と、いまのところわかっているのはそこまでで、天礼寺と武尊がつながるのかどうなのかまでは知れていないし、いまはまだ表立っては動けない。敵の黒幕があなどれないことよりも、柳への道が途切れてしまっては元も子もないからだ。

  それにしても、それほど多くの武器と小娘・・どちらも幕府が厳しく禁ずる取り引きであり、露見すれば極刑は免れない重罪だ。なのに商う。そこには抜け道のようなものがあるのではないかと、美神は、一人になった寝所で薄闇の虚空を見つめて考えていた。
  西国ということは紀州あるいは尾張の匂い。紀州家尾張家の荷であれば、よほどの確証がない限り幕府といえども手出しはしにくい。
 「紀州の出の上様、お世継ぎを出せず地団駄を踏む尾張・・上様を失脚させたい・・けれど妙だね」
  紀州家御用の商家の娘を狂わせることにどんな意味があるのか。紀州と尾張を睨み合わせるためとはいってもやり口が愚劣すぎる。紀州家そのもの尾張家そのもの、あるいは城中で似たようなことが起こるならまだしもわかるが。そうした釈然としない思いが美神の眠気を遠ざけていた。
  と、そのとき、寝所の外に歩み寄る気配。
 「庵主様、お休みでしょうか、情介です、ただいま戻りました」

  男芸者の二人は今宵も座敷がかかって戻りが遅かった。刻限はそろそろ夜の四つ(十一時)になろうとする。
 「いいよ、お入り」
  情介は膝をつき、そっと襖を開けて中へと入った。油を燃やす小さな炎が揺れている。情介は座敷帰りの着物姿のままであり、どこから見ても女そのもの。
  美神は穏やかに微笑んで迎え入れた。
 「遅かったね、いいお客だったようじゃないか?」
  情介は、はいと言ってちょっと笑い、しかしすぐに真顔となって言うのだった。
 「戻ったのはあたしだけ。虎の姉様は今宵はお客様と」
 「泊まりってことなんだね?」
 「はい。場所は喜世州にて。それというのもじつは、今宵のお客様が尾張藩の腰物支配の配下のお方で」
  微笑んで聞いていた美神の目がきらりと光った。美神は夜具から体を起こして情介と向き合った。
  腰物支配とは、剣や槍など藩の持つ武器を管轄する役職のことである。幕府では腰物奉行がいて配下の者どもを差配する。諸藩ではこうした幕府の役職を真似て腰物支配なる役職を設けるところが多かった。

  情介が言う。
 「ご年配のお方で、名は中条様。お歳のため年内でお役御免となられ、出入りの刀剣商の方々が」
 「なるほどね、お見送りということで?」
 「そうです。それでその席で刀や槍の話となって、長い間ご贔屓にといったあたりの話から、近頃めぼしいものを武尊なる武器商人に買い漁られて困るという話になったもので」
  武尊と聞いて美神の眸が鋭くなった。
 「そうかい。それでそのお方は何と?」
 「はい、話としては聞いておるが、なにぶん紀州様の息がかりゆえ、いかんともしがたいものだとおっしゃられ」
 「なに? 紀州と言ったか?」
  武尊は紀州につながる武器商人・・しかし話がおかしい。紀州を陥れるために紀州家御用の商家ばかりが狙われたはず。当然敵は尾張と考えてしかるべき。
  ということは、紀州家内の何者かが敵を尾張と見せかけて紀州を乱そうとしているということになるのだが・・。

  美神は言った。
 「それで虎が残って?」
  情介はうなずきながらも、それは虎介の心だと美神に告げた。探りのためだけではなくということだ。
 「その中条様というお方は、すでに六十年配なのですが、じつに矍鑠となさり、清廉潔白を物語るようなお方でして、年内でお役御免の身ゆえ、終の住処(ついのすみか)に戻る前に一夜をともに話したいと申されて」
 「終の住処ね、ふむ。 それで虎が残ったというわけかい?」
  情介は微笑んでうなずいた。
 「あのお方は律儀であり忠義の者。やましきところは毛ほどもないかと。このような老いぼれの話を聞いてくれるかと申されたもので、虎の姉様は快く」
 「そうかい、うん、そうかいわかったよ、おまえも今宵は休みなさい」
  情介はうなずいて女将の寝所を後にした。
  終の住処に戻る前にとは、どういうことか?
  人生の最期を過ごす地に戻る前に夢を見たいというならば、中条なる男は男色ということになり、それを知る商人どものはからいで虎介情介が座敷に呼ばれた・・。

  その頃、艶辰からは少し離れた料理屋、喜世州。料理屋とはお上をごまかす仮の姿で、言うならば上格な出合い茶屋。ラブホテルのようなものだった。
  座敷はもちろんもぬけの殻。商人どもはとっくに引き上げ、夜具をのべた奥の間に、中条なる人物と虎介が二人でいる。中条は浴衣に着替え、虎介も黒に雪花の着物を脱いで桜色の襦袢の姿。中条があぐらで座り、虎介が寄り添うようにそばにいて酒の酌をする。大きな火鉢が熱を配り、寒くはなかった。
  中条が言った。
 「わしの先祖は家康様の頃までは伊達家の家臣だったのだが、そのうち徳川に迎えられて江戸に暮らすようになる」
 「はい」
 「とは申せ、軽輩もいいところ。わしとて若かった頃は金がのうて苦しんだもの。それで江戸に暮らすうち、あるとき市ヶ谷あたりの川縁で、いまにも自刃なされそうな御仁に出会ってな」
  市ヶ谷と言えば尾張藩の上屋敷があるところ。
  中条は言った。
 「訊けば家中でハメられ失脚したとか。濡れ衣なのだ、この上は腹を斬って死んでやると申されて、もはや信ずるに足りる者はこの世におらぬと自棄となっておられてな」
 「はい」
 「わしは妙な男でな。若い頃からなぜに男に生まれたのか、裸となって我が身を見たとき呪ったものだ。もしも女の身なら、どんなことをしてもお助けしたい。そのお方はそれは立派なお方であった」
 「はい」

  中条は盃をちびりとやると、ちょっと笑って先を言う。
 「わしは申した。死ぬのなら冥土の土産に一度だけ抱いてほしいと。そのお方は眸を丸くなされ、しかしそなたは男ではないかと申された。そのときのわしは当然ながら着物姿も男であったゆえ、なおさらな。しかしわしは言った。男でも心はあなた様のおそばにおる者。私のことさえ信じられぬと思われるなら、しかたがないとも申したものだ」
 「はい、よくわかります、わたくしもそうですので」
  中条は微笑んで虎介の膝に手を置いた。
 「うんうん、そうだろうと思うたわ、見せかけだけの男芸者であるはずがないと感じたよ。わしも歳だ、その頃のことは夢のまた夢。 して、その後、そのお方が尾張の家中でご出世なされた折、ぜひにもとわしを呼んでくれたということで。そなたがおらなんだら死んでおったと言われてな」
 「はい。真の人の心はきっと通じるものでございます」
 「我が身を賭してもお救いしたい。口惜しい思いに涙されるそのお方は、まぎれもなく美しき心の武士。わしが十七、そのお方が四十少しの歳であったか」
 「はい。少しお待ちを」
  虎介はそばを離れて立ち上がると、中条に見つめられながら、穏やかに微笑んで襦袢を脱ぎ、桜色の湯文字までも脱ぎ去った。濃いとは言えない下腹の飾り毛の中から、いまはまだ静かに垂れる男の道具が揺れている。
  一糸まとわぬ裸となった虎介は、中条の膝に甘えて抱かれると、浴衣の下の褌に手を差し入れて、白髪のまじる毛の中で萎えている中条に口づけをし、頬を添えてほおずりした。
  心が通い、中条の手に尻を撫でられて、虎介の若い男竿がむくむくと勃ち上がる。

  中条は言う。
 「もうよいのだ、何もかも。終の住処で人として余生を過ごしていたいもの。今宵のことは最期の夢。懐かしき我が身をおまえの体に見るようだ」
 「はい、どうぞ可愛がってやってくださいまし。このように大きくなってお情けを求めておりまする」
  中条はますます漲る若い虎介をしっかり握り、そうしながら萎えた老い竿を虎介の口に含まれる。
  中条は夢見るような面色で言う。
 「はぁぁ心地よいぞ、あたたかい。同じことをわしもした。心の限りわしは甘え、ほとばしる熱きものを飲んで差し上げ、そのお方に抱かれて涙した。『わかった死なぬ、何としても生きてやる』 と申されてな」
  虎介はおだやかに勃つものをほおばりながらうなずいた。
 「それからも時折わしは抱かれておったよ。そのお方を尻に迎え、わしは達し、しごいてくださりさらに達する。わしは生涯妻は持たぬ。そのお方が亡くなられ、以来わしは孤独にもがいた」
 「はい、お可哀想な中条様」
 「江戸はもうよい、我が古里、陸奥へと戻る。地獄の鬼が迎えに来るまで生きねばならぬであろうがのう」
 「地獄の鬼でございますか?」

 「それで中条様は、嫌なことがたくさんあったが、何をおいても苦しんだのは試し斬りだとおっしゃられ」
  宗志郎は眸を伏せた。その意味には察しがつく。
  翌朝、朝餉を終えた遅い刻限となって艶辰に戻った虎介。美神、それに紅羽黒羽、宗志郎もその場にいた。虎介は涙を溜めて言う。
 「いかに罪人とは申せ、商人どもの持ち込む刀で斬ってみる、槍であらば突いてみる。そのときわしは鬼畜であり、しかしまた嬉々として、その切れ味を上役に報告し、商人どもにもっとつくれと促すのだと、泣きながら申されて」
  そのときそばで聞いていた情介が、涙する虎介の肩を抱く。この場にお艶さんの三人娘とお光お栗は呼ばれなかった。
  腰物支配の役職には調達した武具を試す役回りもついてくる。死罪と決まった罪人を引き出しては斬り捨てる。とうてい人がする所業でないことをしなければならない役回りの恐ろしさ。これまで誰にも言えなかった苦悩を中条は虎介を相手に吐き出して江戸を去って行ったのだった。

  虎介は頬を涙で濡らしながら、しかし肝心なことはしっかり聞いて、皆に伝えた。
 「こうおっしゃいました。やがてよからぬことが起きはしまいか。堺あたりの鉄砲鍛冶、方々の刀鍛冶が消えておると聞く。思うに、どこぞに集められ、武器をつくっておるのではないか・・とです」
  美神は、宗志郎に眸をやってわずかに眉を上げるのだった。
  虎介はなおも言う。
 「中条様はあのこともご存じでした。何者かが紀州と尾張を睨み合わせようとしておる。そうなれば仲裁に水戸様も動くであろうし、御三家が乱れて落ち着かない。そしてそうした不穏の気配が諸国に伝わり、武器は引く手あまたで売れるであろう。いまの刀は折れやすい。古鉄でなした刀は値が跳ね上がることだろうし、鉄砲など、あればあるだけ言い値で売れる、と申されて」
  宗志郎が空手で顔を洗うようにして、吐き捨てるように言った。
 「なんてこった、そのためか。武器を売りさばいて稼ぐため」
  したがって紀州家をじかに脅かすような真似はしない。世が乱れる気配を醸せばいいということ。ゆえに出入りの商家が襲われたということだ。
  宗志郎は言う。
 「うなずける話だ。上様は近く大倹約令を出されるだろう。そうなれば年貢そのほか取り立ても厳しくなり荒い金も使いにくくなる。紀州も尾張も、御三家であっても苦しくなって宗家の支配に甘んじなければならなくなる。金だ。どんな手を使っても蓄えておきたい。世に不穏がひろがれば幕府はそれを鎮めねばならなくなり、その懐はますます苦しい。そのときに金で宗家を牛耳る算段」

  紅羽が言った。
 「船問屋も武器商人も紀州の息がかり、ゆえに露見せずにやってこれた。鉄砲鍛冶や刀鍛冶を紀州領に集めてつくらせる。幕府といえども手は出せない。古鉄もまた商人どもに集めさせ・・」
  美神が言った。
 「虎も情もお手柄だったよ、これで知れた。けどそこで、では紀州のいったい誰がという問いが残る。まさか紀州公がじきじきにとは考えにくい。家臣の誰かがお家の内情を忖度したと見ていいだろう」
  それきり声が途絶えていた。
  からくりが知れたところで、八代将軍を送り出したばかりの紀州が相手。柳を見つけ出して葬り、武尊そして船冨士をこらしめる。そうすれば事の露見を恐れる黒幕は手を引くだろう。

  品川。海より引き込まれる水路に面した船問屋の船冨士。しかし水路を挟んだ両側に同業の船問屋が並んでいて、年の瀬のいま昼日中は人出が多すぎて見張りにならない。水路を挟んだ向かい側では遮るものがないから素通しになってしまうし、小さな蕎麦屋が一軒あるだけで、旅籠は少し離れている。
  闇にまぎれる忍びであればいざ知らず、まして女姿のくノ一では目立ってしまって動きが取れない。
  同じことが、船冨士からは少し離れた天礼寺にも言えた。町中から離れている分人通りもほとんどなく、昼日中では目立ってしまう。町女の姿で潜める場所などほとんどない。船冨士と天礼寺。どちらを張るにせよ夜を待たなければならなかった。
  それにしても天礼寺の僧どもは何者なのかと、鷹羽は思った。武士というわけでもなさそうだし、忍びなら、同じ忍びの匂いがするはず。僧どもは皆が若く体つきが逞しい。年端もいかない娘らを犯しつくす非道を平然とやってのけ、粗暴そのもの。
  とそう考えたとき、船問屋の船冨士とのつながりを考える。もしや海賊どもではあるまいか。豆州あたりには離島も多く、いまだに海賊が出るという。そうした者どもを味方とするなら武器の隠し場所にも困らぬはず。

  いずれにせよ、一刻も早く柳へつながる手がかりがほしい。娘らの悲鳴が心に刻まれる鷹羽であった。

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十七話 禿遊び


 品川。

  江戸へと至る東海道の要衝として、品川宿は東海道の中でももっとも栄えた宿場町であったと言えるだろう。西国から流れ込む人々や、逆に西国へと下る人々が必ず通る道すがら。それだけに親藩、譜代、外様を問わず、ほぼすべての藩が配下の者を住まわせて様子を探り、また、それぞれ息のかかった寺を置く土地柄ともなっていた。
  そうした寺は、寺とは名ばかり。つまりは藩士の立ち寄り処。江戸へと向かうとき国元からの密書などを携えていると露見したとき騒ぎとなる。息のかかった寺へと持ち込み、手ぶらとなって江戸へ入る。密書のようなものがあるのなら寺を経た別の道筋で届けられるというわけだ。そのほか、寺には僧兵を集めた不穏の集団の隠れ家となるところもある。
  こうした寺もどきを取り締まるために三代将軍家光の頃につくられたのが寺社奉行であったのだが、長く続く太平の世で監視もゆるみきっていた。

  さらに海に面した品川は物流の一大拠点ともなっていた。船によって北から南から荷が集まり、江戸へと運ばれていくのだったが、そうした荷の中でもじかに江戸に持ち込むことをはばかられるようなものは、この品川界隈の船着き場で降ろされると言ってもよかっただろう。とりわけ南からの船は豆州(ずしゅう・伊豆)の海を通り、伊豆には大島はじめいくつもの島があって、豆州がいかに天領であっても隅々までは目が届かない。駿府(静岡あたり)の船問屋と武器商人が結託するなら荷の隠し場所はいくらでもあるということになる。小舟に荷分けをすれば海岸線の入り組んだ伊豆のどこであっても陸揚げできるし、それら離島もあるということだ。

  その品川宿から少し離れたの南のはずれ。海に近く、海までの水路のある場所に、船問屋の船冨士は、真新しい大きな店を構えていた。つまりは海運業であり、さまざまある商人たちは船問屋を通さなければ商いにならない。探るには時節がよくない。年の瀬であり、荷受けにはしる仲買・小売りの商人たちでごったがえしていたし、幕府の目が厳しくなるそうした時節に裏のある武器商人などが動くはずもないのである。
  鷺羽鶴羽鷹羽の三人は、明るいうち、船冨士の船着き場、商人どもの店への出入りを探ったのだが武器に結びつくような気配は皆無。ただ、そうした荷船に混じって三人の禿が降ろされたことを見逃さなかった。
  禿は小娘。粗末な着物を着せられて人足どもの子であることを偽った姿。鷺羽ら三人はそのぐらいのことを見抜けないくノ一ではなかった。

  禿とは年端もいなかいほんの小娘であり、黒髪を結わずおかっぱ頭にしている。身の丈なら四尺五寸(135センチ)ほどと三人ともが同じようなもの。その身の丈なら歳の頃なら十二、十三ということになるのだが、顔つきが少し大人と言うべきか、十五あたりから十八あたりではないかと思われた。
  したがってなおさら妙だ。童らしくない童。その歳でなぜ禿姿をさせられているのか。禿たちがどこぞへ連れ去られれば鷺羽がついて行き先を確かめる手筈。

  そしてその夜。船着き場を見渡せる川向こうの商家の屋根下の闇に、柿茶色の忍び装束を着た鶴羽が忍び、船冨士の屋根裏には同じ姿の鷹羽が忍ぶ。
  夜となって店の表戸を閉めても、中では奉公人たちが帳簿と荷のつきあわせに追われていて、店の外にある荷置き場との間で右往左往。つまりは船問屋としての本業が忙しすぎて秘め事などを話す暇もないといったありさまなのだ。
  このまま潜んでもろくな話は聞けないだろうと鷹羽は思った。
 「そんなことを逐一言うんじゃないよ! おまえも手代のうちなんだよ、そのぐらい己の裁量でやらなくてどうするんだい!」
  争う声が響いてくる。どうやら荷を間違えて出してしまったということで若い手代が番頭に怒鳴られている。
 「どうしたんだい騒がしい。番頭さん、忙しいのはそうだけど穏やかに運ばないといけないよ」

  それが主の弟らしい。船冨士は、主とその弟の二人主で切り盛りしている船問屋らしいのだが、店にいるのは弟のほう。兄はいま駿府にあるという本店にいるらしい。西国あたりから集まる荷は駿府でまとめられて品川へと運ばれる。
  弟は名を喜十(きとお)と言い、兄は喜幸(きこう)と言って、二人ともに五十年配の末であるらしい。本名にしてはめずらしい名。それに兄弟は生き写しだと聞き込んだ。兄を見なければ何とも言えないが、もしや双子ではないかと考えた鷹羽であった。
  弟の喜十は思いのほか穏やかな気質であるらしく、手代を怒鳴った番頭を諫めている。これまで探った限りでは、船冨士とはそう悪い者どもとも思えない。
  と、そのときは思った鷹羽だったが、叱られた手代が去って、喜十と番頭が二人だけになったとき。

 「まったくしょうがないね、手代になったばかりなんだよ、しくじることだってあるというもの」
 「へい、すみません、つい怒鳴ってしまいました」
 「まあいいさ、年の瀬だからね、苛々するのはわかるよ。それで番頭さん、あっちのほうは?」
 「へい、そろそろ寺へ出そうかと」
 「そうかい。まったく兄者にも困ったもんだよ。店を大きくしたいって心根はわかるけどさ、よりによって禿遊びとは」
 「とは申せ、それがご縁でつながる仲もございますし」
 「まあね。それはそうでも・・」
  それきり声がしなくなる。

  禿遊び・・先ほどの娘三人がそうなのか。髪を結っていい年頃の若い娘をあえて禿としておいて遊ぶということは、遊びの質がおおよそ知れる。番頭は寺と言った。このあたりに寺は多い。鷺羽が何かをつかんでくるはず。鷹羽は天井裏を出ようとしたが、そのときある不自然が眸にとまる。

  海沿いをゆく東海道の品川あたり。江戸から見て右側に寺の集まるところがあって、行きすぎると武家屋敷が居並んで、さらに田畑が続き、その先にふたたぶ寺の集まる一帯がある。
  その中間、田畑の中の細道を行くと起伏が織りなす丘があり、その緑の中に小さく、しかしできてから間のない新しい小寺があったのだ。
  天礼寺(てんれいじ)。住職はじめ僧は皆がまだ若く、宗派の定かでない寺であったが、三人の禿を追った鷺羽には、このときそこまではわからなかった。
  刻限は夜の五つ(九時頃)。冬のいま、めっきり人通りが減っている。
  三人の娘らは船冨士から四十年配の手代一人に連れられて店を出て、ほどなくして、この寺へと至る小路に分け入ったところで若い僧侶が二人現れ、囲まれて歩かされた。江戸を白くした雪も消え、寺は濃い冬葉をつける杉の林に囲まれている。表街道からの距離もあり、夜ともなると人通りも絶えてしまってひっそり静か。
  しかし妙だ。そう若くもない手代が一人に娘が三人。二人の僧侶に出会うまでに逃げようと思えば逃げられたはず。娘らが金で売られたことを物語る。逃げれば金を受け取った側もただではすまない。おそらくは食い詰めた親だろうと鷺羽は思った。

  三人の娘らは寺に連れ込まれるなり無造作に裸にされて、一人ずつ台に寝かされ、僧侶姿の男によって女陰を改められた後、下の毛を剃られてしまう。三人ともに無毛の童。しかし乳房や尻の張りから見ても禿という齢ではない。誰もが女らしい綺麗な体をしていた。娘らは泣いてしまい、しかし抗えずに身を丸くしてしゃがみ込む。
  寺の本堂は広くはない。大きな火鉢が三つ入る板床の本堂で、素裸の娘らは太い磨き丸太の一本柱を背抱きにして三人まとめて縛られた。三つある火鉢の中の娘らに近いひとつに、鉄でできた黒い鉄瓶のようなものが置かれ、ほどなくして注ぎ口から白い煙を上げはじめる。
  寺には天井などというものはなく、鷺羽は屋根の上のわずかな風抜き穴から一部始終を見下ろした。白い湯気というのか煙と湯気の間のような白い風が流れ出てくる。
 「・・これは阿片(あへん)」
  煙を吸わないよう手をあてて覗いていると、娘らの首ががっくり折れて力が失せたようになる。

 「ふっふっふ、愛らしい娘どもよ」
  若い僧が数人やってきて、目の高さほどの板壁にある小窓を開け放って風を抜き、娘らの縄を解き、それから男どもはよってたかって娘らの裸身にかぶさっていく。大きくひろげさせた女の白い腿の間に男どもの尻が割り込んでいくのである。男どもは僧にして僧にあらず。と言って武士でも忍びでもなさそうだ。僧兵の集まりではないか。僧侶にして戦いを知る者どもだ。
 「あっあっ! あっ、ああーっ!」
  激しい突き込みに白い乳房が暴れて揺れる。しかしそれも妙な話。娘らが未通女(おぼこ)でないことを物語っているからだ。未通女のままなら高く売れる。
 「はぁぁ! あぁン、心地いい! 狂いますぅ! あぁンあン!」
  見ていられない。下の毛を失った娘らは禿頭で、さながら幼子を寄ってたかって犯すようなもの。阿片で朦朧とする中、逆に研ぎ澄まされる性の悦び。娘らは達しても達しても際限なく犯されて性の快楽を植え付けられていくのだろう。
  いますぐ躍り出て斬り捨ててやりたい。
  娘らを犯しながら男の一人が言った。
 「悦びを女陰に刻め。案ずることはないのだ。禿遊びのお相手は御大身ばかりぞ。身請けでもされてみろ、果てしない責め苦に狂う日々が待っておる、ふっふっふ」
  鷺羽は刀に手をかけながらも唇を噛んで耐え、屋根を折りて寺を去った。

  翌朝早く、鷺羽一人が町女の姿に戻って何食わぬ顔で艶辰に戻っていた。 本所深川あたりは夜の町だが、深夜から外が白む頃まではほとんど人を見かけない。それだけに夜動くとかえって目立つ。町に人が出はじめる刻限に合わせて戻った鷺羽だった。
  そのときちょうど艶辰の中庭では、お光とお栗の二人が五尺棒で打ち合う稽古の最中。硬い樫の木がぶつかり合ういい音が響いていた。
  久しぶりに戻った鷺羽は懐かしいものを見るような心持ち。裏の洗い場では今朝もまた虎介情介の二人が洗い物。さらに、しばらく見ない間にお光もお栗もいっぱしに棒を使うようになっている。
  裏口の木戸から入った鷺羽。皆が一斉に眸を向けて、お光とお栗が稽古の手を止め、笑って迎えた。
  鷺羽は微笑む。
 「なかなかだよ二人とも。お栗のほうがちょっと上か」
 「はい、あたしと違ってスジがいいから」
  お光は明るく言って笑うのだった。

  そしてそのときその場にいた紅羽黒羽の姉妹に眸をやって、鷺羽はちょっとうなずく素振りをし、さらに宗志郎へと眸をなげた。奥へ。目配せで伝える鷺羽。
 「よし、今朝はもういいだろう」 と黒羽が言って、鷺羽をともない部屋へと入る。

  深みにある女将の部屋。
 「禿遊びとはいかにも卑劣、許せないね」
  美神の眸が涼しく光る。
  宗志郎が問うた。
 「されど、それがつなぐ縁もあると番頭が言ったんだろう?」
  鷺羽はうなずいた。
 「およそ知れたことだけど、そうして娘を好き者どもにあてがってやり、その見返りにということで」
  宗志郎がため息まじりに言う。
 「だろうな。身売りなどお上が厳しく禁ずること。まして小娘。それだけでも始末してやりたいものだが」
  肝心の武器商人は現れない。年の瀬で無駄口をたたく暇もないありさまだと鷺羽は告げた。
 「鷹と鶴が張ってますが、さて、といったところでしょうか」
  鷺羽はちょっと眉を上げ小首を傾げ、なおも言う。
 「駿府の方へは? そちらに主がおるらしく」
  しかし美神は応じた。
 「あたしらはあくまで江戸さ。散っていては見落とすものもあるからね。行ったところで大差はないよ、どのみち年の瀬、送り側も右往左往してるだろうし」

  いまは聞き耳を立てることぐらいしか手が打てない。力ずくでこちらが動けば悟られて尻尾を切られる。柳(やな)に結びつく何かが得られない限りどうしようもないのである。武尊という武器商人の方も一網打尽としない限り確証を消されてしまうだろうし、そこにこそ黒幕がいるはずだ。下手に近づいて敵に忍びの者でもいようものなら扉は閉ざされ、こちらの身も危うくなる。
  であるなら、ともかくその生臭さ寺の先にある淫らなところを探ってみるか。美神は言った。
 「船冨士とやらに一人を残し、二人は禿どもの行き先を。ご苦労だけどね。どのみち数日すれば動けないさ。それぞれに正月もあることだし」
  黒幕に立場があればあるほど年の変わり目には立場なりの仕事もあり、目立った動きはしづらいもの。鷺羽はうなずき、鷹羽からの言葉を伝えた。
 「ほう? 天井裏に別の足跡が?」
  美神はとっさに黒羽へ眸をやり、黒羽がうなずいて言う。
 「だとすると用心だね、我らの他に探る者がいる証」
 「鷹羽もそう言ってました、一度退いて様子を見るかと」
  美神が言う。
 「ならなおのこと、いまはまだ深入りしない、禿たちを先に」
  鷺羽はうなずき座を離れた。

 「禿遊びとは恐れいったよ、下衆どもめ」
  育ちのいい宗志郎にはその意味を思うだけではっきりとはわからない。何だと問うように眉を上げた宗志郎に美神は言った。
 「かつてはこのへんでもあったんだよ。年端もいかない小娘を金で買い、禿姿にしておいて売り払う。泣き叫ぶ童に昂ぶる愚か者がいるわけさ。いまでは取り締まりが厳しくなってなくなったと聞いてるけど、ほら、お光を囲ったやくざ者がいただろう、そんなような輩がのさばっているわけさ」
  柳の件さえなければすぐにもたたき斬ってやるところ。美神は、やるせない思いと怒りを表すように唇を真一文字に結んでいた。

  しかし・・その日の昼下がりの刻限だった。
  暮れから正月を迎えるということで城勤めの下女たちが宿下がりで次々に城を出る。その中には大奥に働く者もいる。
  大奥の下女、小夜(さよ)と、もう一人、表方の雑用をこなす姜(きょう)と言う女が、城を出たまま姿を消したことなど知る由もない艶辰の皆々だった。

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十六話 年の瀬


  また三日、焦れるような日々が続く。鷺羽鶴羽鷹羽の三人はいまだ戻らず、それは敵の奥深さを物語るようなもの。くノ一たった三人でできることは知れていたし、疑いを持っても確証をつかむには頃合いというものがある、敵が動く気配がなければやみくもに探っても感づかれるだけ。いつの間にか師走となって年の瀬が迫ってきていた。とりわけ今日は朝から牡丹雪が舞っている。

  そのときは女将の美神が座を離れた大きな火鉢の前で、お光が炭を加えて火を整えていたのだった。なにげに部屋を通りがかった紅羽。
 「冷えるね、寒い寒い」
 「あ、はい姉様、そう思って火をちょっとふくらまそうかと」
  お光の様子がおかしいと感じた。昨日あたりから、それまでのお光とはどこかが違う。元気がないというのか、眸を合わせてもお光のほうでそらせてしまう。
  紅羽は、そばにしゃがんでお光の顔を覗き込むが、お光はちょっと笑ってやっぱり眸をそむけてしまう。紅羽にはだいたいの見当がついていた。
 「どうしたんだい、元気ないね?」
 「えっえっ? そうですか? そんなことはないけれど」
  なんだか哀しそうだと紅羽は感じ、ちょっとおいでと己の部屋へ連れていく。黒羽と二人の部屋であったが、黒羽は宗志郎と出かけていた。

 「ちょいとお座り」
 「はい」
  ちょっとため息をつくように、お光はそっと正座をする。紅羽は艶辰でもっとも歳上の格であり、お光もちょっと意識している。紅羽という女、妹の黒羽より物腰がしなやかな分、さばけたところに少し欠ける。まさに女。美神を除いて女らしさの頂点にいる女。見目形は双子のようでも紅羽は心根がやさしく、そのぶん剣では黒羽が上か。
 「隠さず言ってごらん、どうかしたかい?」
  お光は黙ってちょっとうつむいていたが、意を決したように顔を上げた。
 「お栗が来て・・」
  やっぱりそうか。朝の稽古で薄々感じていたことだった。
  お光は言う。
 「あの子はできる。まだほんの数日なのに、あたしとはスジが違う。棒を振っても鋭いし動きも速い。あたしじゃできない」
 「そんなこと気にしてたのかい馬鹿だね」
 「けど、あたし・・」
 「ほらほら、また黙る、聞く耳はあるんだから言えばいい」
  お光はちょっとうなずいた。
 「あたし、ここの人たちに助けられた。姉様たちには別な役目があると知って、ならあたしもそうなりたいって思ったんです。悪者をこらしめる。姉様たちのお役に立ちたい。そう思って稽古をしても、お栗ほどの才がない」

  紅羽はちょっと笑ったが、お光はますますしょんぼりする。人には分というものがあるのだが、お光の気持ちはもちろんわかるし、こういうときにうわべの慰めではダメ。紅羽は言った。
 「あたしら姉妹は早くに女将さんと出会ってね、艶辰の最初からここにいる」
 「はい」
 「あたしも黒も、剣こそできても三味線はだめ踊りはだめ。それで剣の舞を思いつき、二人で稽古してお座敷芸にしたんだよ。いまでこそ三味線も弾けるし踊れるけどね、その頃はまるでだめ。芸者なんてとてもとても、身のほど知らずだって思ったんだ」
 「はい」
 「確かに剣ではお栗が上かも知れないね。持って生まれた才がある。だったらお光は、お栗にできないことをすればいい。おまえだけの何かを探す」
 「あたしだけの何か?」
 「鷹羽は伊賀者で毒の名手だ」
 「毒?」
  光は眸を丸くする。
 「そうさ毒だよ。おまえはお艶さんとなってもいいし」
  お艶さん・・身を売るってことなのかとお光は思い、そのときはがっかりしたのだったが、紅羽がそんなことを勧めるはずもない。

 「色仕掛けで取り入って毒を盛る。くノ一では女陰働き(ほとばたらき)と言われていて、くノ一仲間からも一目置かれる役回り。くノ一の誉れなんだよ」
  お光は呆然として声をなくした。
 「剣では斬れない敵に対しておまえは戦う。いまいるお艶さんの三人のようにね」
 「え・・」
 「鷹羽がつくった毒を持って敵に近づき、殺すまでいかずともこらしめることができるじゃないか」
  お光は言った。
 「じゃあ、お艶さんの三人は・・?」
  紅羽が微笑んでうなずいた。
 「美介と彩介はそれをした。恋介はまだだけど。虎もそれをしたんだよ」
 「えぇぇ、虎介の姉様も?」
 「幼い男の子をたぶらかしては手籠めにする奴がいてね。虎はそいつに抱かれて毒を盛った。泡を噴いて死んだそうだよ」
 「そうなんだ、あたしはまた・・」
 「ただの色売り芸者だと思ったかい? ところが違う。女将さんはあたしらみんなにそんなことをさせて苦しませるから、いつもああして仏に祈る。だから庵主様と呼ばれてる。何かがあれば身を開いて吸い取ってくださるだろう?」
 「はい。あたし、知らなかった」

  剣の稽古をほとんどしないあの五人は、じつはそうだったのかと思ったとき、艶辰では剣を使える者が上だし、あの五人は格下だと考えた自分が浅はかだったと、お光は思う。
  とそこへ美神が戻り、何やら話し込む紅羽を見て眉を上げた。お光の悩みを紅羽が告げると美神は笑い飛ばし、紅羽が座を離れ、代わって美神が座ったのだった。
 「そんなことだろうと思ったよ、妙に元気がなかったもんね」
  お光は唇を噛んでちょっと笑う。
 「でもね、お栗はちょっと暗い。愛想がない。あれでは芸者には向かないね。まだ十五でもあるし色気づくには早いんだけど、それにしても男っぽすぎるんだ。おまえはやさしい。それぞれ働く場があるんだから、おまえらしいことをすればいいのさ」
 「はい女将さん」
  美神はちょっと叱るような強い目を向けたのだったが、すぐまた笑った。
 「あたしは城中にいた女。大奥だよ」
  呆然として見つめるお光。
  大奥といえば、それは娘らにとっては女の夢を集めたようなところ。思い描くだけの憧れの存在だった。

 「上様のお手がつくならまだしもいいが、よりにもよって嫌な男に言い寄られた。それで願い出てお城を下がり、逃げたってことなんだ。あたしは薙刀でね」
 「薙刀?」
 「剣も少しは使うけど薙刀、それから槍ではそこそこで、警護の者どもに教えていた。けど薙刀なんて町中で使うものじゃないだろう」
 「はい」
 「それぞれにそれを使う場というものがあるんだよ。若いおまえにとってあたしらは憧れなのかも知れないけれど、所詮は殺し屋。どう繕っても殺し屋であることに違いはない」
  お光はそうじゃないと言うように首を振って言った。
 「それは人を生かすため。あたしもお役に立ちたくて」
  お光やお栗にそんなことをさせるつもりもなかった美神だったのだが。
 「まあ心根はわかったよ。おまえらしく気張ることだね。お栗は厨のことがまるでだめ。細かなことに気がきかない。そうなると女中はできない。おまえはできる。敵に潜り込んで耳を使うのがくノ一というものさ。おまえらしい役目があるじゃないか」
 「はい!」
  眸の色がいつものお光に戻っている。十七らしい若さだと美神は思う。
  そしてまたそんなとき、お栗が前掛けをした姿で現れた。

 「姉様、ちょっと」
 「あ、うんっ、いま行く」
  昼餉の支度にかかったまではよかったが、頼りのお光が戻って来ない。美神は、ほらねと言うように眉を上げて微笑んだ。
  厨に入って前掛けをしたお光。お栗と並ぶとまるで姉妹のようだった。お栗はお栗で、艶辰へやってきて数日のうちに次々に流れ込んでくる新しいものをさばききれない。とりわけお栗だけが男を知らない生娘。お光に対してだって肩身の狭い思いをしていた。
  お栗は包丁の使い方からしてお光を横目に習っている。久鬼と二人、喰えればよかった田舎料理と、江戸にいて料亭に出入りする者たちが食べるものとは質が違う。
  厨に二人。若い芸者衆は踊りや三味線の稽古に出ていて、戻ってすぐ昼餉。段取りよくしないと間に合わない。お光が手際よく支度にかかると、お栗はそれを横から見ていた。
 「ねえ姉様」
  まな板に向かいながら横を看ると、お栗が妙に沈んでいる。
 「うん? 何だい何だい、どうしたって?」
 「虎と情の姉様とさ」
  なるほど。一つ部屋で眠っているお栗。

  お栗が言った。
 「風呂もそうなんだけど、あたしどんどんヘンになってく」
 「ヘンて?」
 「姉様たちが抱いて寝てくれ、やさしくされて、あたしよりずっと女じゃないかと思ったとき、男を知らないのはあたしだけだって」
 「十五だからね、これからだよ」
 「それはそうだけど、姉様たちは男だろ。やさしくされると震えるし、そうされてもいいと思うのにしてくれないしさ」
 「それはね、姉様たちは置屋の姉様なんだからしかたがないよ」
 「わかってるよ。けど姉様を見てても思うんだ」
 「あたしを?」
 「そうだよもちろん。あたしが手で、その、してやると、そしたら姉様たちが甘い声で出すじゃないか。それが腹に入れば子ができると言う。そんなことさえ知らなかったあたしって何だったんだろって思うんだ。あたしならいいんだよって言っても、そこまではしてくれない」
  それが美神が与えた、女へと化身していく階段だった。お光は言う。
 「はじめは痛いもんなんだ」
 「痛い?」
 「狭いんだよ。太いアレが入るとひろがって、そんとき血が出たりする。だからちっともよくないんだ」
 「はぁ、そういうもんなんだ?」
  何だ、お栗はお栗で悩んでいた。そう思うと力が湧いてくるお光であった。

  お光が言う。
 「あたしは悪い奴らに犯された。代わる代わるに犯されて、けどそのうち男が可愛く思えてきた。だんだん良くなって達していけるようにもなっていく」
 「う、うん。達するって心地よくてか?」
 「そうだよ。ふわふわ雲に浮いてるようで、あぁんあぁんて声をあげて男の体にしがみつくんだ」
 「うん。はぁぁぁ、そうなんだ? 虎の姉様も情の姉様も、あぁんて言って、可愛いって思ってると出すだろ」
  お栗の息づかいがおかしくなっている。
 「ふふふ、そうだね、あの二人は心が女なんだよ。男に生まれたことが間違ってる。あたしにもそうだった。哀れなあたしのことを抱いてやりたい。やさしくしてくれ、舐めてくれて、あたしは達した。舐めてくれたかい?」
 「え・・うん、舐めてくれた。恥ずかしくて、けど心地よくなってきて、はぁぁぁ」
 「あっはっは、そればっか考えてるんだ?」
 「考えてる。入れていいよって思うんだ。あたしちっとも女じゃなかった。知ってみたい。風呂も一緒だし、男の体を見てるとね、あたしがやさしくしてやると、よっぽど嬉しいんだろなって思うしさ。アレのところが大きくなって」

  可笑しい。お光は剣のことで落ち込んでいた自分が可笑しくなった。
 「あたしいまお艶さんの姉様方と一緒だろ」
 「うん?」
 「毎夜だよ、それが。舐めてくれるし、あたしだって舐めてやるし」
 「そうなんだ女同士で?」
 「人と人。女将さんがいつも言うこと。虎と情の姉様なんて、女将さんに叱られて尻を叩かれると勃てるんだって。それがまた赤ベコみたいなんだって」
 「へぇぇ、えへへへ」
  思い浮かべて笑うお栗。
 「悪かったって思ってるんだろうねって睨みつけて、ナニの先を叩いてやると出しちゃうんだよって女将さん笑ってた。何かがあってしょげてると、よしよしって口でしてやる」
 「口で! 舐めるのアレを!」
 「あ、馬鹿、声がデカい」
  ちょっと首をすくめるお栗。
 「そうそう。そしたら二人とも、いっぺんに元気になるんだって。飲んでやると嬉しくて泣くんだって。すごく可愛いって言ってたんだよ」
 「飲むんだソレを。はぁぁぁ、だめだ、気がおかしくなってきた」
  声を上げて笑い、尻をひっぱたいてやるお光。そういう意味で知りはじめた新しいことがお栗には別の世界そのもので。
  あたしはあたし。お光はきっぱり己を見定めることができていた。

  しかしちょうどその頃。水戸屋敷にもほど近い小川町のあるところで。
  黒砂利を敷き詰めた枯山水の庭。明かり障子を閉め切って冷気を遮り、明るさだけを採り入れる板の間の部屋。囲炉裏がパチパチ爆ぜて熱を配る。
  女が言った。
 「爺の念が失せた」
 「ほう? さては去りましたかな?」
  と男が応じ、女が言った。
 「いや、おそらくは逝ったのだ。生きておるなら残り火ぐらいは感ずるはず。百十余年を生きるとは、なんたる化け物」
  おかっぱ頭の禿を連れた、まだ若い女と、女が二人。そして商家の主らしき五十年配の男。
  男が言う。
 「じきに正月。宿下がりの下女を狙えということで。商家ばかりを狙ってまいり探索の手はそちらへ向かう。次はまさか城中でとは思いますまい。御前様も早うせいと焦れておいでです」
 「わかった。いよいよ世が騒ぐ。じつに愉快」
 「柳(やな)様におかれましても、いよいよもって風魔の再興」
 「ふんっ、そのようなことは考えておらぬわ。徳川にひと泡吹かせてやればそれでよいし、女どもの狂う様も見物というもの。そなたらの目論見が愉快ゆえ力を貸したまでのこと」
 「ではわたくしはこれにて」
  男が腰を低く部屋を出て、柳は障子を開けよと娘の葛に言う。少し明けると牡丹雪が舞っている。
 「美しきかな。されど冷える。ふふふ」
  江戸城に仕える下女、大奥もそのうちだが、盆や正月に休みをもらって城を出ることが許される。これを宿下がりと言う。

  それからしばらくの刻を置いて、宗志郎の小さな家に鷹羽が戻り、追って鶴羽鷺羽の二人が戻ってくる。皆がありきたりの町女の姿。顔を合わせて鷹羽鷺羽は言うことなしと言うように首を振ったが、鶴羽はあることをつかんでいた。
  三人は火鉢に顔を寄せ合った。鶴羽が言う。
 「いまのところは聞き込んだ話だが、品川にある船冨士(ふなふじ)という船問屋に、武尊(ぶそん)なる武器商人が出入りしている。冨士屋はもともと駿府が商人なのだが、ここのところ羽振りがよく、と言って商いがそう盛んというわけでもないらしい。どこぞから動く金があるということ。方々の刀・・」
  と言いかけたとき、戸口に気配。鷺羽が仕込み杖を手にして立つと、宗志郎と黒羽。

 「・・というわけで、刀鍛冶やら鉄砲鍛冶より武器を買い付けているそうですが、どこに隠してあるのかまではいまのところ皆目。妙な武家の出入りもありませんしね。されど商人どもの間では、よほどの金づるをつかんだのではと評判になっており」
  鷹羽が応じた。
 「匂うね。三人で張り付くか」
  宗志郎が応じた。
 「我らも刀の店を覗いて回ったが、方々に古鉄を用いた刀が出回っている。訊けばそれらは西国から仕入れたものらしい。船問屋ならあり得る話だし、刀の出所が西国の何者なのかも確かめておきたいところ。ご苦労だがもうしばらく」
  くノ一の三人はうなずいて、黒羽が封を切らない二十五両の包みを鷺羽に手渡した。
  黒羽が言う。
 「お栗はよくやってるよ。皆も元旦ぐらいは戻っておいで」
  三人はうなずいて微笑むと、「では、あたしらは」と言って鷹羽が黒羽の肩にそっと手を置き、家を出た。
  鷹羽が最初、間を置いて一人また一人と出て行って、一度散ってどこかで落ち合う手筈だろう。

  はらはらと雪は舞い続け、江戸が白くなっていく。


白き剣 第二部。続いて三部へ。

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十五話 力ない眸


  そのお栗がお光に連れられて女将の寝所へやって来たのは、その夜、さて寝ようとしたところ。美神はすでに夜具に身を横たえて、けれどまだ火鉢には火があって、油を燃やす小さな明かりも灯っていた。
 「女将さん、よろしいでしょうか、お光です」
 「いいよ、お入り」
  ここへ来て間がないというのにお光は女らしく、また大人の女の言葉を言えるようになったと思う。下働きでもよくやっている。芸者として躾けていっていいのではと、このとき美神は考えた。
  そっと襖が開くと、そこにお光が片膝で据わり、少し後ろにお栗が正座をして座っている。二人ともに、まだ寝間着に着替えてはいなかった。お栗は紅羽に髪を結ってもらい見違えるような娘となっている。幼な顔の残るお栗だったが、こうして見ると愛らしい。

 「どうしたんだい二人揃って?」
  お光は、まるで実の姉となったようにやさしい目でお栗を見つめて言うのだった。
 「お栗がちょっとお訊きしたいことがあるからって」
  ちょうどいい。美神としても邪視という不可思議な力のことを尋ねてみたいと思っていたし、そのことで言っておきたいこともある。
 「かまわないよ、いいからお入り」
 「はい」 と言って、お光はお栗の背をそっと押し、お栗一人を押しやって己は下がって行ったのだった。
  二人きりとなり、すでに寝間着の美神は、布団の上に座り直して綿入れを肩に羽織った。
 「寝間着になっちまったから、このままでいいだろ?」
 「はい、女将さん」
  お栗は布団の際で正座をしている。両手を膝に置いているのだが、どうにも身が定まらないといった様子。綺麗な着物を着せられて髪もちゃんと結ってもらうという暮らしに戸惑っているようだった。
 「何を訊きたいんだい?」
 「女って何だろ?」

 「え?」
 「この艶辰って、どういうところ? それから、あたしが棲んでいいのかって?」
  それきり黙り込んでしまったお栗を見つめ、美神は、この子なりに懸命に考えていると感じていた。
 「どうしてそう思ったんだい?」
 「朝の湯で、虎介の姉様と情介の姉様と湯に入り、けど二人は姉様じゃない。心は女だって言った。あたしより女っぽい。じゃああたしは何なのって思ってしまった。紅羽黒羽の姉様は恐ろしく強いのに、でもやさしくて。お艶さんて呼ばれてる三人もそうだし虎介情介の姉様だって、裸で芸もすれば、その・・抱かれたりもすると言う」
 「それで何が何だかわからなくなっちまったって?」
  お栗はちょっとうなずいて、なおも言った。
 「それもあるし、そんなみんなには役目もあるだろ。鷺羽鶴羽鷹羽の姉様はくノ一なんだし、ここはどういうところって思ってしまった。あたしなんて山猿なのにいていいのかって思ったし、それに・・」

  言いたいことはそこからだと美神は感じた。
 「思うことを吐き出しちまいな、言えばいいから」
 「はい。あたしは黒いし」
 「え? 黒いとは?」
 「ジ様に言われた。おまえの中には恨みの念が燃えているって。それは黒い焔(ほむら)のごとくで恐ろしいことだぞって」
 「うむ、そうだね、そう思うよ」
 「それであたし剣を習った。懸命にやれば強くなれる。けどそうなったときのあたしが怖い。悪人を許せなくなり平気で人を斬るようになるだろう。そのときあたしはきっと鬼。なのにまた女に戻れるものだろうかって」
  案じていたことをお栗自身がわかっている。宗志郎の言葉が思い出される。やがて気づくときが来る。美神はちょっとほっとした。
 「それにあたし・・」
 「まだあるのかい?」
 「あたしの目も怖いんだ。ジ様に言われた。おまえの中にも陰童子が眠っている。陰童子が黒い心を持つと化け物だって。怖くてならない。宗志郎様にも言われた」
 「宗さん、何て?」
 「黒に向かえば己の白に気づくだろうって」
  目をそむけず己を見つめよということだ。
  いきなり棲む世界が違ってしまい、奔流となって流れ込むすべてのものをさばききれない。

  お栗は顔を上げて美神をまっすぐ見つめて言った。
 「けどそれは、あたしが己を律していくこと。わかってるけど自信がない。だからあたし、このままここにいていいのかと思ってしまった。朝の風呂で・・」
  そしてまたうつむくお栗。心が激しく揺れていると美神は思う。
 「朝の風呂でどうしたって?」
 「あの二人は男。知らずに脱いだあたしを囲んで抱いてくれ、あったかくて、あたし震えた。お光の姉様は平気で抱かれ、その・・男のモノを可愛がってやっている。そしたらそれは大きくなって、なのにそれでもお光の姉様は笑ってる。あたしはまだ男を知らない。もう何が何だかわからなくなってしまった。あたしもいつか男を知るのか? そのときあたしは女になれるのかって? あたしの中には妖怪がいるんだよ。それでも女でいられるのかって。片方で人を斬り、なのにもう片方で女でいられるものかって思うんだ」
  うつむくお栗の二つの目が涙で揺れて美神を見つめた。

  美神は言った。
 「あたしがもし、おまえの親を殺した者どもに出会ったとする」
 「はい?」
 「鬼となって八つ裂きにするだろう。返り血を浴びて地獄の鬼のごとき姿となるが、振り向いて、鬼はおまえを抱いてやる。刹那、母のやさしさをもってだよ」
 「はい」
 「けどそれはおまえの恨みを晴らすというより、二度とおまえのような娘を出さないため。だってそうだろ、あたしは母ではないのだから、おまえにとっては慰めに過ぎないもの」
 「はい」
 「けど母の心を向けてやりたい。苦しみを吸い取ってやりたい。おまえの中にいるという妖怪の頭までも撫でてやりたい。おまえのままのおまえを守ってやりたいとそう思う」

 「はい」 と応えたその声が涙に揺れた。
 「男芸者はそんな心を客に向け、お艶さんはそんな心を客に向ける。そしてさまざま何かを背負って戻ってくる。いいことよりも口惜しいこと腹の立つことのほうが多いだろう」
 「はい、それはきっと。そう思います」
 「うむ。そしてそれをお光は吸い取ってやっている。それが嬉しくて男は勃てるし、勃ててくれて嬉しいからお光はそれを可愛がる。あたしもそうだよ。この身を投げだし、どうか癒えてほしいと抱いてやる。心と心が響き合うのに男女の別などありはしない」
 「はい、それもそう思います」
 「ならばお栗」
 「はい?」
 「おまえの中の妖怪を、なぜおまえは抱いてやらない? 怖がって遠ざけようとするから妖怪は哀しくなって暴れだす。人が人を抱くとき、じつは己を抱いているんだと思えばいい。川は一筋の流れからはじまって、流れ込む濁流に削られて、やがてゆったり流れる大河となる。削られれば川だって痛いはず。だけど川は逃げたりしない。流れを包み込んでじっと耐える。それが人。ゆえに人は他人の痛みがよくわかる」
 「はい」
 「おまえはいていいのかと言ったけど、皆はいてほしいと思うだろうし、けどあたしはそこがちょっと皆とは違う」
 「違う?」
 「ここにいろと叱ってやりたい。『俺』などと言おうものなら頬を叩いて叱ってやりたい。剣のできないおまえの尻を黒羽がどういう思いで叩いて叱るか、そこをよく考えてみることだね」

  お栗は涙の伝う顔を上げて美神を見つめた。
 「じゃあ、あたし・・」
 「あたしのそばにいてちょうだい。剣で黒羽に勝てるまで」
  うぅぅっ・・襖の向こうでお光の嗚咽。
 「ほらね、お光はね、おまえのことが大好きなんだ。そんなお光を捨て去って、おまえは出て行くって言うのかい?」
 「はい、嬉しいです、はい!」
  美神はお栗の肩越しに襖に言った。
 「お光、入っておいで」
 「はい、すみません、盗み聞きしてしまいました」
  襖を開けたお光。お栗よりずっと泣いてしまっている。

 「やれやれ、あたしまで泣けてくるよ」
  と笑って言うと、美神は二人の目の前で寝間着を脱ぎ去り、白い裸身となって両手をひろげた。
 「おいで二人とも、今宵はあたしを抱いて寝ておくれ」
  涙を溜めたお光に促され、涙を溜めたお栗も脱いで、娘二人が母のような美神の乳房に甘えていった。
  二人の娘を乳房に抱いて美神は言った。
 「明日からお光はお艶さんの部屋へ行く。芸者修行をはじめるよ」
 「はい」 と言ってお光は美神の左の乳房に頬を寄せた。
 「お栗は虎と情の部屋へ行く。思うままに過ごすがいい」
 「はい」 と言ってお栗は右の乳房に頬を寄せ、泣き濡れる目を閉じた。

  そしてその意味をお栗が悟るのは翌朝の剣の稽古の後だった。朝湯。芸者修行をはじめたお光の風呂はお艶さんの三人娘と一緒。お栗だけが虎介情介の二人と一緒。お光のいない場で女が一人。男二人の目のある中で裸になってお栗は赤くなっている。
  情介が言う。
 「お栗は未通女(おぼこ)なんだってね」
 「あ、はい」
  虎介が言う。
 「女らしい綺麗な体、羨ましいよ」
 「はい」
  どんどん声が小さくなってうつむくと、右と左に大きくなった男のそこのところが目に入る。
  かーっと燃えるような女の想いに戸惑うお栗。生唾をごまかして笑おうとするのだが、稽古で痣だらけにされた尻を撫でられ、背を撫でられて抱かれると、女の奥底が疼くような妙な感じに震えがくる。
 「あたしらで遊べばいいさ」 と虎に言われ、お栗はちょっと左右に首を振る。

 「嬉しいんです、あたし。夢のようだし。夕べだって女将さんが裸で抱いてくださって」
  情介が言う。
 「うんうん、よかったね。あたしらもそうなのさ、女将さんが抱いてくれ」
  その後を虎介が言う。
 「嬉しくて勃ててしまうと、そっと握って可愛がってくれるんだよ」
 「えぇー、そうなの?」
  虎が言う。
 「心地よくてあたしは喘ぎ」
  その後を情介が言う。
 「あたしも喘ぐ。女将さんは女陰を晒し、そしたらとろりと濡れていて」
  その後を虎介が言う。
 「あたしらで舐めて舐めて」
 「えぇー」 え? という言葉の言葉尻がのびていき息の声に変わっていく。信じられないというように、お栗は左右の姉様の顔を交互に見た。
  情介が言う。
 「お乳にも甘えてね、女将さんの体が震えてしなって達していくと、あたしらは嬉しくなって出してしまう」

  耳を塞ぎたい言葉。よくも言えたものだと思いながら、言葉だけで濡れはじめる己を感じてたまらない。
  虎介が言う。
 「ここへ来たとき、あたしらは役立たずにもほどがあり、女将さんに叱られて物差しでお尻をぶたれ、でもそうするうちにたまらなくなって勃ててしまう」
  その後を情介が言う。
 「勃ったものを笑われて、手でパシパシぶたれるとビクンビクン、それだけで出してしまうんだ。嬉しくて嬉しくて、このお方のためなら何でもできると思うようになっていき」
  その後を虎介が言う。
 「心がどんどん童に戻っていくんだよ。赤子に戻って、それでも小さくなっていくと人は女陰の中へと戻るだろ」
 「う、うん」
  息が乱れる。はっきり己で感ずるほどに濡れてくる。お栗はそっと左右で勃つものへと手をのばし、そっと触れてみて、握ってみる。
 「熱い。硬い。あたしといて嬉しいから?」
 「そうさ嬉しいから。お栗のこと大好きだよ」
 「うん。はぁぁ、ん、はぁぁ」
  女はこうなるものなのか。吐息が燃えるようだし生唾が湧いてきてたまらない。胸がドキドキ。寒気のような波に襲われ裸身が震える。女将さんはひどいと思った。こんなことが続いていくと、あたしはどんどん女になる。

  虎介が言う。
 「お光の女陰を可愛がってやるだろう」
 「は、はい?」
  情介が言う。
 「お光は濡れて愛らしい女となって」
 「はい、んっ、はぁぁ」
  虎介が言う。
 「お光が手でしてくれて、あたしらだって濡れてくる。心がさ」
 「はい、あぁん嫌ぁ、あたしヘン」
  虎が言う。
 「濡れたかい?」
 「う、うん。はぁぁ、泣きそう」
  笑われて抱かれながら、お栗は二人の勃つものを両手に握って嬉しかった。
  お栗の中に女としての小さな自信が生まれていたのかもしれなかった。

  その手を二人に取られて動かすことを教えてもらう。そうするものか。ドキドキしながらしごいていると、二人の息が熱くなり、虎介も情介もうっとり目を閉じ甘い声を漏らしだす。
 「はぁぁ、お栗」
 「いいよぉ、お栗」
 「あたしは女? ねえそうなの?」
 「いい女さ」
 「ほんとよ、お栗はやさしい女」
 「うん」 と小声で言いながら、熱い息を吐く姉様二人を交互に見る。
  虎介が少し早く、遅れて情介が、
 「あぅ!」
 「むぅ!」
  勃つものの先から白い粘りを弾かせた。お栗は目を丸くする。
 「これが出るってこと? 心地よくて出すってこと?」
  虎介が言った。
 「そうだよ、ああ嬉しい。これが女の中に入ると子ができるのさ」
 「えぇぇ、そうなの? 子ができるの?」
  何も知らない生娘。男女の意味をはじめて知って、あたしがそこへ導いてやれたことが嬉しくなる。お栗は十五。生娘のまま嫁にいくのがあたりまえの時代のこと。

  朝湯を終えて出て来たお栗を一目見て、宗志郎は、見違えるほど女らしい目をしていると感じていた。
 「おまえら、何かしたか?」
  二人揃って居並ぶ、まさしく女の虎介情介に耳打ちした宗志郎。
 「んふふ、それは内緒ぉ、んふふ」 と、しんねり色目の虎介。

  ゾワとする。訊くんじゃなかった宗志郎。

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十四話 惑う小娘


  久鬼の亡骸を運び出し、くノ一の三人が去ってほどなくして、宗志郎と黒羽の二人は火鉢の燃え炭に灰をかけて消し、小さな家を出ようとした。
  玄関先に忍び寄る気配を感じたのはそんなとき。そのときたまたま戸口のきわにいた黒羽が気づく。黒羽はとっさに「静かに」と言うように指を立てて唇を閉ざしながら宗志郎へと目配せし、宗志郎は刀を手に息を潜めた。
 「開けろ。いるのはわかっている」
  小声。若い女の声だった。若いどころかまだ幼いと思えるような娘の声。黒羽は宗志郎を振り向いて小首を傾げながら板戸を開けた。そしたらそこに、ひどく粗末な長綿入れを着込んだ小柄な娘が立っている。一見して十五、六か。丸い目をした愛らしい顔立ちだったが、ひどく暗く、黒羽と宗志郎を睨みつけている。黒髪は結っていたがほつれ毛が目立ち、なおのこと娘を貧相に見せていた。

 「ジ様は死んだのか?」
  ぼそとした無遠慮な物言い。人を呪うような響きがある。黒羽はまた宗志郎を振り向いて、宗志郎が言う。
 「まあ入れ、寒いだろうに」
  小娘はそっと戸口に一歩入り、長綿入れの前に手を入れて、白木の握りの匕首を手にすると、鞘から抜いて右逆手に構えて身構えた。敵意に満ちた眸の色だ。
  黒羽は一歩二歩と静かに後ずさり、代わって宗志郎が一歩出た。

 「応えろ。ジ様は死んだのか?」
  宗志郎はうなずいて言う。
 「たったいま寺へ運び出したところ」
 「知っている。見届けて戻ってきた。応えろ、おまえたちが殺したのか?」
 「違う。昨夜遅くに訪ねて来て、そのときここにいた我らの一人に、あることを告げてそのまま眠った。朝になって冷たくなっていたそうだ」
 「それに違いないな? きっとだな?」
  宗志郎はうなずいて、物騒なものをしまえと言った。
  小娘の目から殺気が失せて、がっくりと肩を落とすように、匕首を鞘におさめて胸元にしまう。
 「わかった。すまなかった」
  力なくそれだけを言い残し小娘は家を出ようとする。宗志郎が言った。
 「おい待て。ご老体とおまえのつながりは?」
 「一緒に暮らした」
 「どういうことだ?」
 「八王子の山ん中。去年のいまごろ峠で山賊に襲われた。おっ父もおっ母も殺された。俺は山向こうの百姓だった。そんときジ様が助けてくれた」
  娘なのに俺と言う。
 「それから一緒に暮らしたと? 八王子の山の中で?」
 「そうだ。けどもうジ様はいない。帰る」
 「どこへ?」
 「山へ」
 「おいおい、いいから待て、いま何刻だと思ってる」
 「それでもいい、帰る」

  ぶっきらぼうな言い方をする娘。ひどく暗いと二人は感じた。
  宗志郎が言う。
 「帰るのはかまわんが、いっぺん上がれ。少し話を訊かせてほしい」
 「何だ? 言えば応える」
 「ジ様は何ゆえ山を出て、おまえはそれをどうやって知った? ジ様がここにいることを?」
 「わかるんだ。ジ様は夕べ、あの目を使った。そんとき俺は家にいたが、わかったんだ。それで出て後を追った」
 「じゃ何か、夕べ老爺がここにいるのをおまえはわかったと言うのか? 八王子の山にいて?」
 「そうだ。俺にはわかる」
  夕べ遅くにそれを知って、それから家を出て歩いて来たというのだろうか。八王子といっても山の奥からでは恐ろしく遠い。
  そしてまた夕べのうちに老爺は死んだ。なのにどうしてこの家だとわかったのか。それを問うと小娘は言う。
 「死んだってしばらくは念が残る」

  黒羽は呆然として宗志郎を見つめ、それから「一晩歩いてきたって言うのかい」と娘に訪ね、娘はそうだと目でうなずいた。
  宗志郎は言う。
 「わかった。まあともかく上がれ。茶でも飲んであったまれ」
 「いいのか?」
 「かまわん。おまえ寝てもいないだろう」
  小娘は唇をむっと噛んで黙りこくり、部屋へと上がった。ワラで編んだ深い履き物を履いている。宗志郎は黒羽に風呂の支度をさせながら、無造作に座り込む小娘のそばに座った。

 「ご老体とは二人で暮らしたか?」
 「そうだ」
 「では帰るとことてなかろうに? 金はあるのか? 食い物はどうする?」
 「俺はもう山猿。どうしたって生きてやる」
 「そうか。俺は宗志郎、それから黒羽。おまえの名は?」
 「栗」
 「うん? くり?」
 「山になる栗だ、イガイガの」
 「ああ、なるほど、お栗か。歳はいくつだ?」
 「明けて十六」
  いまは数えで十五。お光より二つも下の娘である。
 「さっきの問いが先だが、いいのか?」
 「何?」
 「ジ様は、ときどき感じる念に恐ろしいことが起こると言った。わしが止めねばえらいことになると言って家を出た」
  なるほど確かにそっちの問いが先だったと宗志郎は考えた。栗は賢い娘のようだったが、それよりも、この娘もまた念を感じる不思議な力を備えている。

 「お栗は、柳と葛を知っているか?」
 「知っているが知らん。話に聞くだけで見たこともない。どうせこうも訊くだろうから言っておく。ジ様は柳の念を感じると言うが、俺が感じるのはジ様の念だけ。一緒にいるうちにわかるようになったんだ。ジ様は言った。人を想えば通じるものだと」
  この栗にも同じ力が備わっているのだろうが、栗はその使い方を知らない。生まれ持った力も修練を積まなければ、その力は弱いのかもしれない。
  そのとき黒羽が戻ってきてそばに座った。
 「じきに沸くよ風呂」
  栗は無言でちょっと頭を下げる素振りをする。小娘を相手におかしな言葉だが、木訥(ぼくとつ)とした娘と言えばよかっただろうか。
 「なら俺も訊いていいか?」・・と、栗は二人を順に見た。
 「いいぞ、何だ?」
 「ジ様はなぜここに来た? 誰に何を言いに来た?」
  宗志郎はちょっと笑うと、隠さず言った。

 「夕べはここに鷹羽という女がいてな。この黒羽もそうだが、さっきおまえが尾けた荷車の三人ともが芸者でな」
 「嘘だ。あの者らはくノ一」
  宗志郎はそれにもうなずく。
 「そうだがしかし芸者なのさ。江戸で惨い事件が起きている。柳の念が娘らを狂わせる。それでご老体は止めようとしてここへ来た。我らとしてもそれを探っていたところ。娘らを地獄に堕とす者どもが許せない。しかし手がかりがまるでなかった。日頃は芸者の鷹羽と申すくノ一がこのあたりを探っていて、久鬼殿はそうと知って鷹羽に柳と葛のことを伝えに来た。疲れたと言って横になり、そのまま死んでしまったんだ」
  黙って聞いていた栗だったが、その言葉の真意を探るように黒羽へと目をやって、黒羽が深くうなずくと、栗が言った。
 「ではジ様が役に立ったんだな?」
  宗志郎は強くうなずき、そして言った。
 「お栗にもしも似たような力があるのなら我らに貸してはくれまいか? そのような力を持たぬ我らでは探りようがないからな。こうしている間にも次の事件が起こるやも知れぬ。そうなればまた若い娘が泣くことになる。おまえと同じような若い娘がだ。柳はきっと俺が斬る」

  栗は、まっすぐに宗志郎を見つめて言った。
 「わかった。ジ様もきっと喜ぶだろうし」
  黒羽が言った。
 「さ、湯へ行っといで。温まってくるんだよ」
 「うん」
  そして立ったまではよかったが、この家には脱衣がない。栗が戸惑う。
 「どこで脱ぐ?」
  黒羽はハッとし、声を上げて笑った。
 「ほら、だから言ったじゃないのさ、棟梁に言っとけって」
 「うむ、忘れてた」
  黒羽に背中をひっぱたかれる二人の姿に、栗ははじめてちょっと笑い、臆することなくさっさと脱いだ。山の暮らしで着物から出るところは日焼けしていたのだが、白く乳房もふくらんで女らしい体をしている。
  栗が風呂場へ消えると宗志郎が言う。
 「黒羽、先に艶辰へ。お栗は俺が連れていく」
  黒羽は先に家を出た。艶辰には紅羽と美神がいたのだったが、それにしても手薄。栗が風呂を出るのを待って、宗志郎は栗の背を押して外に出た。

  そのときそこそこいい刻限。艶辰では今宵、男芸者の二人がいないだけで女たちは皆顔を揃えていた。鷺羽鶴羽鷹羽の三人を除いて。
  お栗のことは一足先に戻った黒羽が伝え、美神は待ち構えていた。
 「ここはね、艶辰と言って芸者衆の置屋だよ。あたしが女将で美神と言う」
  お栗は目を見開いて美神を見つめる。なんと美しい女将だろうと。
  若いお艶さんの三人衆、それにお光は目をキラキラさせている。
  美神は言った。
 「おまえは最初からここのことを知って来た。出たって行き場がないのなら、あたしらと暮らせばいい。そこの宗さんと、ほかに二人、妙な男がいるけれど、そのほかみんな女なんだ」
  そうは言われてもいきなりではお栗は面食らう。
 「けど俺」
  美神は眉を上げて皆を見渡し、笑った。
 「俺と言うか? ふっふっふ、気に入った、娘のくせに俺とは傑作だ。けどね、お栗」
 「うん?」

 「うんじゃない、はいって応える!」

 「あ、はい?」
  キツく言われて驚くような丸い目が愛らしい。美神は笑って小首を傾げ、それからまたお栗に言った。
 「まあ、今日のところはいいけどね。これからはあたしって言うように。皆のことは姉様だよ、わかったね。おまえはいちばん歳下なんだ」
 「はい」・・とおそるおそる応えるお栗。
  黒羽が思いついたように言った。
 「あ、ところでおまえ夕餉は?」
  食べていないと首を振る。
 「喰ってないだって? そりゃいけない、お光!」
 「はい! いますぐ!」
  同じような年頃、同じような境遇の娘が来てくれてお光は嬉しくてならない。すっとんで厨に走り、残り物でどうにかして持ってくるだろう。

  美神が立って奥へと歩むと、後を追うように黒羽も立って、美神の背に歩み寄る。
 「すみません女将さん、勝手なことをしてしまって」
  そこで美神はちょっと笑い、そして言った。
 「艶辰を変える娘が増えただけ、いろんな意味でね」
  片手で黒羽をそっと抱き、頬にちょっと口づけをして、美神は奥へと去って行った。

  腹を空かした山猿が喰うように、お栗は握り飯と焼いたメザシに喰らいつく。そのときには皆が散り、火鉢の前にお光とお栗。お光はガツガツ喰らうお栗を見ていて、あの頃の自分を思い出す。
 「あたしスリだったんだ」
  握り飯を喰いながら、お栗は目だけでお光を見つめた。急に何を言い出すかと。
 「宗志郎様に救われたんだ。あのときはね」・・と夢見るように言うお光。
 「裸にされた? そりゃ見物だ、あっはっは」
  お栗は笑い方も図太かった。しかし、ひとしきり笑った後でお栗はちょっと哀しげな顔をする。
 「ジ様が死んだ。俺は独りになっちまった」
 「独りじゃないよ、ここのみんながいるじゃないか」
 「いていいのか、ほんとに?」
 「いいに決まってる。みんなも嬉しい。みんないろいろあった人たちばっかりなんだし、あたしだってそうだった。盗人なんだよあたし。それでもみんなが守ってくれる」
 「でもよ、俺にはちょいとって感じかな。女っぽいのってだめなんだ俺」
 「ふふふ、いまにわかる。明日になればわかるから。黒羽の姉様なんて、そこらのサンピンじゃ勝てないよ」
 「剣か?」
 「あたしいま教わってる」
  とそう言って、お光は着物をまくって尻を見せた。青痣だらけ。
  そしてそれを見たお栗が、あたしもやってみたいと眸の色を変えて言う。二親を山賊に殺された恨みを忘れない。強くなってたたき斬ってやりたい。

 「わかった。よろしくな、お光の姉様」
  黒目の底光るギラギラとした眼差しに、恐ろしいほど強い生気があふれているとお光は感じた。
  まずは食べ、それからお栗は、風呂上がりで結いを解いて流した髪をお光にちゃんと梳いてもらい、寝間着を与えられて横になる。男芸者の虎介情介の部屋を出て、はじめてもらった二人の部屋。夜具をのべ、横になったお栗に付き添うように、お光は己の布団に座って見つめていた。
 「眠い」
 「寝てないのかい?」
 「ジ様を探してな」
 「うん、いいから寝な」
 「おまえは・・じゃない、姉様は寝ないのか?」
 「あたしはまだ早い。やることあるし」
 「そうか」
  そして目を閉じたお栗だったが、その刹那寝息に変わって、動かなくなっている。妹ができたようなもの。髪を梳いて寝間着に着替えさせると歳なりの愛らしさ。
 「ぐっすり寝るんだよ、あたしと生きていこうね」
  そうささやいて、頬にちょっと手を当てて、お光はそっと部屋を出た。

  翌朝のお栗は、なにやら硬い木がぶつかり合う音で目を覚ます。そう言えばお光が剣を習っていると言っていた。見てみたい。飛び起きたお栗は寝間着を着替えようとしたのだったが、枕元にはきっちりたたまれた柿色の着物が置いてある。赤を少し渋くした若い娘が好む色。
  おそるおそる着てみるお栗。お光の着物だろうと思うのだが、己に似合うか気になった。これほど綺麗な着物を着たことがない。長い髪をまとめて縛り、ともかく庭を覗いてみようとしたときに、裏口あたりに男芸者の虎介情介の二人がいて女たちの洗い物を干していた。桜色の湯文字や襦袢。
 「おはよう」
  声をかけたのは虎介だったが、お栗は二人をまだ知らないし、まさか男だとも思っていない。ちょっと頭を下げただけで通り過ぎたお栗。着物が違うことで何となくだが恥ずかしい気がしてならない。
  そして外を覗いてみると空が青い。何もかもが輝いているとお栗は思った。

 「トォォーッ!」
  カンカーン!
  今朝の相手は黒羽。黒羽は木刀、お光は五尺棒。中腰に身を沈め、中段に構えた棒で突き込んで、払う敵の剣の力を受け流して棒を回し、踏み込みながら打ち込むお光。しかし黒羽の剣の敵ではなく、交わされて横へ回られ、またしても尻をバシンと打たれる。
 「ぎゃう! うむむ!」
  尻を押さえて転がって、のたうち回り、それでも立って棒を構える。お栗は目を丸くした。お光は強いと思えたからだ。
 「おぅ、お栗、眠れたか?」
 「はい、よく寝た」
 「うむ、よかった」
  宗志郎の声で黒羽もお光もお栗に気づき、黒羽がそれまでと言ってお光を止めた。
 「おまえ、剣をやってみたいとか?

 「え、あ、はい!」
  黒羽のあまりの強さに膝が震えるような感じがする。黒羽はお光に言いつけてお栗を着替えさせ、木綿生成りの忍び装束の姿となったお栗に、お光が持った五尺棒を持たせたのだ。黒羽は剣を持っていない。まずは構え方から。
  棒の中ほどを体の軸に合わせ、その前後に両手を分けて握り、中段に、ほぼ水平に構えるのが基本。棒先をやや上げて敵の胸を狙う感じ。
 「胸や腹が的が大きい。そこを狙って突き込むことだ」
  こうだよと言うように黒羽が構えを見せてやり、その棒をお栗に持たせて構えさせる。
 「足は斜め前と斜め後ろ。開きすぎず、膝を閉めて内股になる感じ」
 「はい」
 「もっと腰を落とすんだ。棒はやわらかく握り、当たるときに握り込む」
 「はい」
 「よし突け。敵がいると思って本気で突け」
 「はい!」

  そのときだった。何を思ったのか宗志郎が木刀を持ってお栗の前に立ちはだかった。
 「俺が敵だ、しくじると斬られると思ってかかってこい」
 「はい!」
  トォォーッ!
 「浅い! もっと深く突き込むんだ!」
 「はい!」
  トォォーッ!
 「続けて二度突く!」
 「はい!」
  トオォォーッ! トオォォーッ!

  徐々に気合いがのってくる。お栗の踏み込みに合わせて宗志郎は棒先を木刀で払いながら二歩引いて、一度元に押し戻し、ふたたび二度続けての突き。そのとき宗志郎は中段に構えた木刀で、二度目の突きを叩き落とす。
  セイヤァァーッ!
  宗志郎の気合い。カーンと鋭い音が響き、お栗の棒先が地べたを打つが、そのときガラ空きになった上体にこれではいけないと思ったのか、お栗は棒を握ったまま横にふっ飛んで転がって、立ちざまに宗志郎の胸をめがけて棒を構え、打ち込みの頃合いをはかるように棒先を細かく振るのだった。

  これには黒羽も紅羽も驚いた。天性の勘。動きも速く、なにより体が力んでいない。猫が転がり背を丸くして身構えるようなもの。宗志郎は「それまで」と言って木刀を降ろし、黒羽と横目を合わせて眉を上げた。
 「まさに猫よ、参ったぜ、はっはっは」
  たったいま棒の構えを習ったばかり。しかるにもう危うさを察して身を守る動きができている。野生の本能と言うしかないだろう。
  そのとき家の中の廊下に立って美神もまた目を細めて見つめていた。いい目をしている。ただしかし野獣の目だと美神は思う。憎しみのこもる二つの目。親を殺された恨みの炎が揺らいでいる。

 「恨みだ。しかしいまはそれでいい」
 「それでいい?」
 「それでいい。強くなろうと苦しみもがき、いつか虚しさに気づくだろう。恨みの剣の脆さを知って、ゆえに人は強くなる」
  お栗を黒羽に委ねて家へと上がり、宗志郎は美神の肩にそっと手を置き、奥へと消えた。
  トォォーッ!
 「何の! ハァァーイ!」
  突けど突けどかすりもしない。数度に一度は木刀で尻を打たれ、悲鳴を上げて転がるものの、その度、目つきが変わってくる。黒光りする深い眼差し。それは黒い炎が揺らめいているようで。
  すさまじい恨みだと黒羽も思う。
 「くそぉーっ! トォォーッ! トォォーッ!」
  泣きながらかかってくるお栗に、黒羽は末恐ろしいものを感じていた。お栗は強くなる。ゆえに黒羽は手加減しない。
 「交わされたときにガラ空きなんだ。交わされたと思ったら、そのまま前へ一歩飛べ。剣が届かぬ間合いを取って、それから振り向き構え直す」
 「はい!」
 「よし、そこまで」
 「はい! ありがとうございました!」

  お光は嬉しい。いつかあたしより強くなる。そう思えるから嬉しくてならないのだ。稽古がすんで肩を抱き、お光とお栗は並んで歩く。強くなるという決意ができたからか、お栗はすでに夕べのお栗ではなかった。
  稽古の後は汗を流す。冬であっても激しい稽古で汗びっしょり。艶辰の風呂場は広く、女四人が一緒に入れる。しかし紅羽黒羽の順序が先。今朝は鷺羽鶴羽鷹羽がいない。二人を先に、続いてお艶さんの三人娘、それから四人が一緒に入る。これから朝餉。下働きにはのんびりしている暇はない。
  虎介情介、それにお光とお栗なのだが、そのときになってお栗は目を丸くした。
 「驚いたかい。あたしら男なんだよ」
  そうとは知らずさっさと脱いでしまったお栗は恥ずかしい。なのにお光は平気でいて、それどころか裸同士で抱かれて笑っているのである。
 「さ、お栗もおいで、一緒に入ろ」
 「あ、え・・」 と声さえなくし、どうしていいかわからないお栗を見て三人が一緒になって笑っている。虎介情介の二人がそっと歩み寄り、耳許で言う。
 「体は男、けど心は女。女のお客さんでも男のお客さんでも、あたしらは女のまま。さ、おいで」
  そう言って前と後ろから抱かれたお栗。頬を赤くしてうつむいてしまっている。
 「あたし、あの・・」 と思わず言って、お栗は『俺』とは言えなくなっている己を感じた。

 「綺麗な乳だね」
 「綺麗な尻なのに痣だらけ」

  妙な二人に撫で回されて、お光がくすくす笑っていて、お栗はなぜか涙が溜まってしかたがなかった。
 「どうして泣く?」
 「ほんとよ、どうして?」
  前と後ろから抱き締められて、お栗は力が抜けて膝が震えた。お栗は男を知らない娘であった。

  男を知らない体でも人の心はよくわかる。抱かれるぬくもりにお栗は震えた。


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