十六話 一夜の思案
そしてその夜、庫裏の薄闇の底で、才蔵は目を開けて虚空をぼん
やり見つめていた。お泉は、その才蔵から少し間を空けて夜具をの
べ、才蔵に背を向けて横になっている。庫裏はふたりで寝るには充
分だったが、男女の距離を越えて離れることはできなかった。今宵
で二晩目。昨夜よりは落ち着けていたのだったが、才蔵の手が届く
と思うと息苦しい思いさえした。
「ふぅむ、わからん」
かすかな才蔵の声に、意識して閉じていた目がパッと開いたお泉
だった。
「何がさ?」
「おぅ、すまねえ、起こしたか」
「寝てないよ・・眠れない。どうしたのさ?」
お泉は、ひと思いに寝返りをうって、仰向けに虚空を見つめる才
蔵の横顔を覗き見た。
才蔵が言った。
「お香はいま二十四、納屋はお香が十かそこらの歳に動かされた。
いまから十三、四年前の話だ」
「そうなるね。それが?」
「あの書き付けによると、おそらく家光が将軍職を受け継ぐ間際に
書かれたもの。将軍となった翌年に忠長は駿河へ追いやられている
からな。いまから二十八年ほども前のことってわけだ」
「そのとき家光、十八か、そこらかい?」
「そういうことなんだがよ、では誰があの書き付けに気づいて守っ
たのか、それを考えていたんだが、若き日の家光と言えば・・」
「春日?(春日局)」
「そうだ、それしかあるまい。乳母であり、家光忠長のどちらもを
よく知る人物。かつ秘密を探られない立場の者。しかしどうでぃ、
何かがおかしいとは思わないか」
「合わないね数が。二十八年も前に書かれたものを、それから十数
年も経ってこの寺に隠している」
「そういうことだ、じつに妙だぜ。俺はこう考えたのさ、その間あ
の書き付けはきわめて探りにくいところに隠してあった」
「春日の寝屋とか?」
「あり得る話だ。そしてそれを後になって、春日なのか誰なのか城
から持ち出してこの寺に隠した。春日が逝ったのは確か九年ほど前
のこと。自らの老いを悟った春日が誰かに命じたと考えられなくも
ねえからな」
「大判もかい?」
と言いながら、お泉はそっと夜具の端へと身を寄せた。お泉にと
って、そんなことはどうでもよかった。才蔵の声をそばで聞きたい。
それだけの想い。
問われた才蔵が言う。
「これ見よがしに葵の紋の記された大判など、すなわちそれは家康
の威光そのものだろう。あれだけの財をどちらが手にするかで立場
が逆転しかねえ。いや、どちらが手にしても驕りとなって後々に災
いする。ないものとした方が身のためと考えたんだろうけどな。書
き付けだけなら大げさなからくりなどいらねえさ。莫大な財を隠す
ために造られた」
「てことはだよ、襲った坊主どもは書き付けだけを探して? 金に
は目もくれてないだろ?」
「さあな、そいつはどうだか。少しの小判などはした金。金に困っ
ちゃいねえだけってこともある」
そしてそのとき、話の終わりに、横寝になって才蔵を見つめるお
泉のほんの鼻先に、才蔵の手がぱさりと落ちた。仰向けになってい
て、なにげに手を動かしただけかも知れない。
お泉はハッとし、目の前の手を見つめ、指先だけをそっとつまむ
ように、身をさらにずらして開かれた手に頬を添えていく。
才蔵がお泉に寝返って、夜具と夜具の隙間の畳に、ふたりの影が
溶け合った。
お泉の背をそっと撫でながら、才蔵は、そこらの女とは違う、く
ノ一の肉の張りを感じていた。逞しさゆえ哀れでもある女の姿だ。
「十三年前と言やぁ、家光は三十三・・俺は十八、九」
「・・あたしは十四」
「ほう? 十四? そろそろ熟れていい頃だ」
「何を馬鹿な・・汚れただけだよ」
お泉はかつて配下だったくノ一、楓から聞かされていた。楓もず
っと以前、これと似たような夜があったらしい。けれどその先、才
蔵は一切手を出さない。あたしもそうなるだろうとお泉は思い、そ
れでもいいと考えた。家老の家柄とくノ一では身分が違いすぎる。
「行きたいところはあるか?」と、ふいに訊かれ、お泉は胸の軋む
思いがした。
「旅ってことかい?」
影から日向に出られるのだろうか・・どうせ夢さ。
お泉は言った。
「別にないね。江戸から離れたいって思うけどさ。影は主の足下に
できるもの」
怖かった。おまえなど邪魔だと言われそうな気がしていた。邪魔
と言われても影となるのは忍びの定め。そうなると寂しいだろうと
感じていた。
涙がにじむ。あたしはどうしてしまったのか。気の抜ける寺での
暮らしに弛んでしまった。仁吉やお香を見ていて羨ましい。十吾や
お花にすり寄られて微笑ましい。そうした何もかもが、忍びという
役目の中で抑えつけてきた女の感情。どうせ夢だと諦めたものばか
り。くノ一は忍びの里でのみ女となれるもの。
「日向に向けてやろうとしても影が勝手に後ろへ回る、ふふふ」
才蔵にそっと抱かれていて、声が胸板越しに響いてくる。心地い
いし、女の底から湧き上がる情念を感じていた。
「カタをつけねば」
「そろそろね」
「まずは女が来るのを待つとする」
「女?」
「金を届ける」
「ああ・・そうだね」
「おめえにも、もう一働きして欲しい」
「坊主どもの足取りかい?」
才蔵は、撫でていたお香の背をぽんと叩いた。
「湯のいい山にでも行きてえもんだ」
「伊豆だってそうだし」
「ゆらりゆらりと歩んで行くか」
「・・あたしと?」
もしかして・・少しの間でも夢を見させてくれるのかとお泉は思
い、どう考えても可笑しくてちょっと笑った。笑ったけれど涙がた
まる。
「影どうこう二度と言うな」
ふわりと抱きくるまれて、胸板から伝わる声が心を震わせ、こら
えていた涙が一気にあふれた。
仁吉が二日に空けず泊まりに来るようになり、祝言はどうすると
いう話になっていく。お泉にとってそれは光り輝く女の姿。影だ影
だと言い聞かせる自分が馬鹿馬鹿しくもあり、ほんわかした空気が
自然に心の張りを弛めてしまう。
坊主どもの行方を探れ。役目が与えられたとき生来の習性とでも
言えばいいのか、とたんに人が変わってしまう自分に、お泉は悲し
みを覚えるのだった。白木の杖に仕込んだ白刃が、いつかまた血を
吸うときがくる。
翌朝早く、お泉の姿が寺から消えた。
お泉はそのまま三日三晩は戻らなかった。ところがそのまた朝早
く、皆がまだ床にいるうちに庫裏で眠る才蔵の傍らに忍び込む。
「どうでぃ?」
「見つけたけど、もうどうにもならないね。くノ一どもがまつわり
ついてる」
「くノ一だと? 男忍びじゃなく?」
「妙だと思わないかい? 公儀の忍びなら甲賀か伊賀。相手が相手
だ、なぜくノ一を配す? 解せないね。坊主どもは巣鴨の打ち捨て
られた破れ寺(やれでら)にこもっていたんだけど張り付かれちま
ってるよ」
あのとき闇の墓所で片膝をついて去った謎のくノ一・・公儀であ
っても表の公儀でない誰か。
そう考えたとき才蔵は、五人の坊主が寺を襲い、その様子を見て
逃げ去った百姓姿の男を、お泉のほかに追った者がいたのではと考
えた。寺が襲われたと知った何者かが見張りをつけた。そして同時
に坊主どもを監視するというわけだ。
そしてそんなことのできる者とは・・頭巾の女に金を届けさせる
殿上人。
隠し事のある寺に謎の浪人が棲み着いた。何者かを見極めるため
忍びを放って見張らせていたと考えるのが常道だろう。
才蔵はあのときのお泉の言葉を思い出す。『見張られてはいない
ようだけど、あくまであたしの知る限り』
いかにすぐれた忍びであっても単身では限りがある。
お泉が言った。
「ごめんよ、ここに来た最初の頃、あたしはこの役目から逃げたか
った。あたしの見張りが甘かったんだ、許しておくれ」
才蔵はちょっとうつむいて唇を噛んでいるお泉の手をそっととる。
「それは違うね、俺だってそうさ、流れ着いたボロ寺でまさかこん
なことになろうなんて思っちゃいねえ。それだけのこと。ご苦労だ
ったな、少し横になりゃぁいい」
「・・うん」
そのとき才蔵の夜具の傍らで片膝をついて話していたお泉だった
が、なにがなんだか心が崩れ、才蔵の胸に崩れ落ちていきそうだっ
た。
哀しげなお泉に微笑みながら才蔵は思う。
これで寺は救われる。
しかし坊主どもが危ういと。ふたたび動けば消されてしまうは必
定。才蔵は、忠義の武士どもをこれ以上亡くしたくはなかった。