女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

カテゴリ: 流れ才蔵


十六話 一夜の思案


 そしてその夜、庫裏の薄闇の底で、才蔵は目を開けて虚空をぼん
やり見つめていた。お泉は、その才蔵から少し間を空けて夜具をの
べ、才蔵に背を向けて横になっている。庫裏はふたりで寝るには充
分だったが、男女の距離を越えて離れることはできなかった。今宵
で二晩目。昨夜よりは落ち着けていたのだったが、才蔵の手が届く
と思うと息苦しい思いさえした。

「ふぅむ、わからん」

 かすかな才蔵の声に、意識して閉じていた目がパッと開いたお泉
だった。
「何がさ?」
「おぅ、すまねえ、起こしたか」
「寝てないよ・・眠れない。どうしたのさ?」
 お泉は、ひと思いに寝返りをうって、仰向けに虚空を見つめる才
蔵の横顔を覗き見た。
 才蔵が言った。
「お香はいま二十四、納屋はお香が十かそこらの歳に動かされた。
いまから十三、四年前の話だ」
「そうなるね。それが?」
「あの書き付けによると、おそらく家光が将軍職を受け継ぐ間際に
書かれたもの。将軍となった翌年に忠長は駿河へ追いやられている
からな。いまから二十八年ほども前のことってわけだ」
「そのとき家光、十八か、そこらかい?」
「そういうことなんだがよ、では誰があの書き付けに気づいて守っ
たのか、それを考えていたんだが、若き日の家光と言えば・・」
「春日?(春日局)」
「そうだ、それしかあるまい。乳母であり、家光忠長のどちらもを
よく知る人物。かつ秘密を探られない立場の者。しかしどうでぃ、
何かがおかしいとは思わないか」
「合わないね数が。二十八年も前に書かれたものを、それから十数
年も経ってこの寺に隠している」
「そういうことだ、じつに妙だぜ。俺はこう考えたのさ、その間あ
の書き付けはきわめて探りにくいところに隠してあった」
「春日の寝屋とか?」
「あり得る話だ。そしてそれを後になって、春日なのか誰なのか城
から持ち出してこの寺に隠した。春日が逝ったのは確か九年ほど前
のこと。自らの老いを悟った春日が誰かに命じたと考えられなくも
ねえからな」

「大判もかい?」
 と言いながら、お泉はそっと夜具の端へと身を寄せた。お泉にと
って、そんなことはどうでもよかった。才蔵の声をそばで聞きたい。
それだけの想い。
 問われた才蔵が言う。
「これ見よがしに葵の紋の記された大判など、すなわちそれは家康
の威光そのものだろう。あれだけの財をどちらが手にするかで立場
が逆転しかねえ。いや、どちらが手にしても驕りとなって後々に災
いする。ないものとした方が身のためと考えたんだろうけどな。書
き付けだけなら大げさなからくりなどいらねえさ。莫大な財を隠す
ために造られた」
「てことはだよ、襲った坊主どもは書き付けだけを探して? 金に
は目もくれてないだろ?」
「さあな、そいつはどうだか。少しの小判などはした金。金に困っ
ちゃいねえだけってこともある」
 そしてそのとき、話の終わりに、横寝になって才蔵を見つめるお
泉のほんの鼻先に、才蔵の手がぱさりと落ちた。仰向けになってい
て、なにげに手を動かしただけかも知れない。
 お泉はハッとし、目の前の手を見つめ、指先だけをそっとつまむ
ように、身をさらにずらして開かれた手に頬を添えていく。
 才蔵がお泉に寝返って、夜具と夜具の隙間の畳に、ふたりの影が
溶け合った。

 お泉の背をそっと撫でながら、才蔵は、そこらの女とは違う、く
ノ一の肉の張りを感じていた。逞しさゆえ哀れでもある女の姿だ。
「十三年前と言やぁ、家光は三十三・・俺は十八、九」
「・・あたしは十四」
「ほう? 十四? そろそろ熟れていい頃だ」
「何を馬鹿な・・汚れただけだよ」
 お泉はかつて配下だったくノ一、楓から聞かされていた。楓もず
っと以前、これと似たような夜があったらしい。けれどその先、才
蔵は一切手を出さない。あたしもそうなるだろうとお泉は思い、そ
れでもいいと考えた。家老の家柄とくノ一では身分が違いすぎる。
「行きたいところはあるか?」と、ふいに訊かれ、お泉は胸の軋む
思いがした。
「旅ってことかい?」
 影から日向に出られるのだろうか・・どうせ夢さ。
 お泉は言った。
「別にないね。江戸から離れたいって思うけどさ。影は主の足下に
できるもの」

 怖かった。おまえなど邪魔だと言われそうな気がしていた。邪魔
と言われても影となるのは忍びの定め。そうなると寂しいだろうと
感じていた。
 涙がにじむ。あたしはどうしてしまったのか。気の抜ける寺での
暮らしに弛んでしまった。仁吉やお香を見ていて羨ましい。十吾や
お花にすり寄られて微笑ましい。そうした何もかもが、忍びという
役目の中で抑えつけてきた女の感情。どうせ夢だと諦めたものばか
り。くノ一は忍びの里でのみ女となれるもの。

「日向に向けてやろうとしても影が勝手に後ろへ回る、ふふふ」
 才蔵にそっと抱かれていて、声が胸板越しに響いてくる。心地い
いし、女の底から湧き上がる情念を感じていた。
「カタをつけねば」
「そろそろね」
「まずは女が来るのを待つとする」
「女?」
「金を届ける」
「ああ・・そうだね」
「おめえにも、もう一働きして欲しい」
「坊主どもの足取りかい?」
 才蔵は、撫でていたお香の背をぽんと叩いた。

「湯のいい山にでも行きてえもんだ」
「伊豆だってそうだし」
「ゆらりゆらりと歩んで行くか」
「・・あたしと?」
 もしかして・・少しの間でも夢を見させてくれるのかとお泉は思
い、どう考えても可笑しくてちょっと笑った。笑ったけれど涙がた
まる。
「影どうこう二度と言うな」
 ふわりと抱きくるまれて、胸板から伝わる声が心を震わせ、こら
えていた涙が一気にあふれた。

 仁吉が二日に空けず泊まりに来るようになり、祝言はどうすると
いう話になっていく。お泉にとってそれは光り輝く女の姿。影だ影
だと言い聞かせる自分が馬鹿馬鹿しくもあり、ほんわかした空気が
自然に心の張りを弛めてしまう。
 坊主どもの行方を探れ。役目が与えられたとき生来の習性とでも
言えばいいのか、とたんに人が変わってしまう自分に、お泉は悲し
みを覚えるのだった。白木の杖に仕込んだ白刃が、いつかまた血を
吸うときがくる。
 翌朝早く、お泉の姿が寺から消えた。

 お泉はそのまま三日三晩は戻らなかった。ところがそのまた朝早
く、皆がまだ床にいるうちに庫裏で眠る才蔵の傍らに忍び込む。
「どうでぃ?」
「見つけたけど、もうどうにもならないね。くノ一どもがまつわり
ついてる」
「くノ一だと? 男忍びじゃなく?」
「妙だと思わないかい? 公儀の忍びなら甲賀か伊賀。相手が相手
だ、なぜくノ一を配す? 解せないね。坊主どもは巣鴨の打ち捨て
られた破れ寺(やれでら)にこもっていたんだけど張り付かれちま
ってるよ」

 あのとき闇の墓所で片膝をついて去った謎のくノ一・・公儀であ
っても表の公儀でない誰か。
 そう考えたとき才蔵は、五人の坊主が寺を襲い、その様子を見て
逃げ去った百姓姿の男を、お泉のほかに追った者がいたのではと考
えた。寺が襲われたと知った何者かが見張りをつけた。そして同時
に坊主どもを監視するというわけだ。
 そしてそんなことのできる者とは・・頭巾の女に金を届けさせる
殿上人。
 隠し事のある寺に謎の浪人が棲み着いた。何者かを見極めるため
忍びを放って見張らせていたと考えるのが常道だろう。
 才蔵はあのときのお泉の言葉を思い出す。『見張られてはいない
ようだけど、あくまであたしの知る限り』
 いかにすぐれた忍びであっても単身では限りがある。
 お泉が言った。
「ごめんよ、ここに来た最初の頃、あたしはこの役目から逃げたか
った。あたしの見張りが甘かったんだ、許しておくれ」
 才蔵はちょっとうつむいて唇を噛んでいるお泉の手をそっととる。
「それは違うね、俺だってそうさ、流れ着いたボロ寺でまさかこん
なことになろうなんて思っちゃいねえ。それだけのこと。ご苦労だ
ったな、少し横になりゃぁいい」
「・・うん」
 そのとき才蔵の夜具の傍らで片膝をついて話していたお泉だった
が、なにがなんだか心が崩れ、才蔵の胸に崩れ落ちていきそうだっ
た。

 哀しげなお泉に微笑みながら才蔵は思う。
 これで寺は救われる。
 しかし坊主どもが危ういと。ふたたび動けば消されてしまうは必
定。才蔵は、忠義の武士どもをこれ以上亡くしたくはなかった。


十五話 眠る悲恋


 その日は昨夜の星空が一転して朝から黒い雲に覆われた。いまにも
天が裂け雨となって流れ出す、そんなような空模様。
 才蔵とお泉のふたりは納屋にこもり、十吾やお花が納屋に近づかぬ
ようお香がついて遊ばせていた。しかしあのことがあってから十吾は
童ではなくなって、お香の言うことをよく考え、幼いお花を守るよう
になっている。童らの決して近づかない納屋の中で、お泉とともに隠
された秘密を探る。

「わずかだが盛り土してあるようだね」
 馬の居場所も、ただの土間だと思ったところも、外の地べたに高さ
を合わせ、しかし土を盛って嵩上げしてある。よく踏み固め、また長
い歳月が土を締めて棒先でちょっと突くぐらいでは抉れもしない。
 農具の鋤(すき)や鍬(くわ)が置いてあったのは、墓を掘るとき
に使うのと、このためだったのかも知れなかった。

 馬の囲い場とは反対側の土間の土を鋤を使って剥いでいく。少し掘
ると鋤の先が固い何かに遮られ、石の板が現れた。
「石板で塞いである」
 石の板の角のところに鋤を差し込み少し浮かせて、才蔵が持ち上げ
る。長さおよそ三尺(1メートル)、幅およそ一尺(30センチ)ほ
どの薄い板が数枚並べてあって、そのさらに下に分厚い木の一枚板が
現れた。こちらは恐ろしく厚い板のようでビクともしない。
「これか・・」
 石板をどけて、分厚い木の板の上に残る土をすべて払うと、納屋の
基礎の四角く太い横木があって、そこに長四角の穴が開けられ、ちょ
うどぴったりはまる角材が埋めてある。長い歳月で湿気を吸い、埋め
られた角材が動かない。鉄の釘を打ち込んで才蔵が渾身の力で左右に
揺すると、ようやく少し弛みができてすぽんと抜けた。
 お泉が穴を覗き込み、顔を上げて周りを見ながら言うのだった。

「これこそテコ鍵さ。穴に合うテコ棒があるはずだけど」

 才蔵と二人で見回すも、そんなものがあるとしたらひとつだけ。馬
の手綱を縛る横木しかない。しかしそれはかなり太い丸太であって、
片方が納屋の屋台の柱に埋められ、片方が馬を囲む縦板の小柱に埋め
られる。
「これだね、ちょっと見せて」
 お泉が木の枠組みを見回して、縦板の柵の向こう側、馬の囲い場に
入り込んで、肩で柵を押す。しかし動かない。才蔵が柵をつかんで引
っ張りながらお泉が肩で押す。
「動いた、やはりそうさ、横木の丸太がテコ棒なんだ」
 縦板の柵が柵ごと斜めに傾いて、馬をつなぐ丸太の棒とのつなぎ目
が現れた。こちらが凸、屋台の横木の凹にぴたりと合う大きさと長さ。
 柵を傾け、丸太を引くと、丸太の反対側が納屋の柱からすぽんと抜
けた。

「よくできたからくりだよ、これをこうやって差し込んで」

 一握りもある丸太の棒。地べたの板の横にある基礎の横木の凹に凸
を合わせて差し込んで、反対側の丸太の尻をつかみ、最初左右に回し
てみても動かない。お泉は丸太尻を握り直し、肩を入れて上に向かっ
て持ち上げた。
 ギィィ・・納屋の基礎の横木がわずかに回り、そして同時に地べた
に伏せた分厚い板がガクンと揺れて下向きに折れる。

 人ひとりがやっと通れる地下への入り口。太い丸太で数段の梯子が
組んである。
 地べたにぽっかり開いた四角い闇。思うよりもかび臭くなく、そし
て湿気も少ないようだ。ふたりは顔を見合わせた。
 才蔵が言う。
「古い馬小屋によくも仕込んだものだ」
「これだけのからくりを何のために・・」
 お泉はそう言いながら太い蝋燭に火をつけて、上にいながら手を差
し入れて闇へと明かりを運んでやった。

「太い木で木枠をこしらえ、どこもかしこも石板で固めてある。あた
しが先に降りてみるから」
「うむ、気をつけろ」
「忍びだよ、あたし・・ふふふ」
 蝋燭を才蔵に持たせておいて丸太の梯子を数段下りると、背の高い
お泉の頭がちょうど穴から出るぐらい。深さはそうないようだった。
 蝋燭を受け取って穴の奥へと腰を屈め、奥からお泉の声がした。
「これは・・すごいよ」
「何がある?」
「来てごらんよ、腰が抜けちまう」
 お泉の持つ蝋燭で照らされながら才蔵は梯子を下り、ふたりで入る
と肩を寄せ合うほどの狭さの中で奥を見た。

 黒い千両箱。それも五つが整然と並んでいて、その上にかなり黄ば
んだ紙の束。綴じ紐で閉じられた書き付けのようだった。
 そしてさらにその書き付けの上に、少し新しい文のような紙がきっ
ちりたたんで置いてある。
 書を読むには暗すぎる。書き付けと文を才蔵が持ち、五つある千両
箱のひとつの蓋をお泉が開けて、ふたり揃って覗き込む。
 才蔵が言った。
「大判だ・・慶長大判に違いねえ」
 才蔵が手を入れて取り上げて、封を開けると、きらびやかな金色の
大判が現れた。
「うむ慶長大判・・それも、これを見ろ」
 金地に墨書きされた大判の裏には、その真ん中に大きく丸い葵の紋
が刻印されているのである。
 才蔵は言った。
「これはただものじゃねえ、おそらくは家康が特別につくらせたもの
だろう」
「だとすると、高い?」
 お泉は、才蔵の手にある金色の大判を食い入って見つめていた。

 慶長大判は、慶長六年(1601年)、家康による天下統一の象徴とし
てつくられたものだったが、このように、その裏に大きな葵の紋が施
されたものは見たこともない。大判そのものが流通する貨幣ではなく、
手柄に対する恩賞や贈答のためのもの。つくられた年代や造作によっ
て、十両大判、七両大判と価値が変わり、このようなものであれば、
その価値は計り知れない。

「すべてがそうか?」
 お泉が箱の蓋を次々に開けていき、ふたり揃って呆然と立ち尽くす。
 そうした大判が、おそらくは二千枚。欲しがる者が多ければ価値は
動く。何万両どころではない価値になるのは明白だったし、間違いな
く徳川宗家の家宝ともなるものなのだ。
「ふうう・・震えるぜ、これだけあれば城が建つ」
 坊主どもの狙いが知れた。軍資金の調達だと、このときはそう考え
たふたりだった。
 箱の蓋を閉じ、書き付けと文だけを手にして上に登ったふたり。

 まずは文から。

 やがて暴く者とておるであろう
 そのときため拙僧が一筆したためておこう

 竜星和尚が書いたもの。流れるような達筆だった。

 知ってどうする 暴いてふたたび血をよぶか
 死した将を愚弄するのか愚か者
 人として思い 人として恥ずべきことのないように

 それだけの和尚の言葉。文を静かにたたんで傍らに置き、才蔵は
束となった書き付けをめくっていく。
「なんと・・」
 横にいて覗き込む、お泉の喉がかすかに鳴った。生唾を飲ませる
ほどのものなのだ。

 それは先代将軍、家光の直筆だった。
 政(まつりごと)を進めていく上で、味方となる者、敵となる者、
どちらにもつく怪しい者。御三家と言われる者の中にも敵がいて、
親藩と言えども信じ切れず、外様の中にも味方はいる。それらを見
透かし、家光がしたためたもの。
 そしてそれらに対してどう処遇していくべきか、葬るべき者たち
の名までが記されてあるのだった。
 このようなものがいまの将軍家で暴かれれば世が乱れるは必定。

 さらにその書き付けの最後のところに走り書き。
 才蔵はそれに目を走らせて愕然とした。

 この寺で待つというに そなたは来ぬ
 我が褥(しとね)にともにあれば 
 通じるものとてあるであろうに
 愛しきがゆえ葬らねばならぬ 悲しきや
 ああ悲しきや 弟よ

「これはおそらく若き日の家光公の・・」
 才蔵は膝が崩れる思いがした。
 先代将軍、徳川家光は男色として知られている。ゆえに世継ぎが
危うい。それを案じた春日局(かすがのつぼね)によって大奥はつ
くられて、世継ぎを絶やさぬようにとされたのだ。

 江戸城からもそう遠くはないこの寺で、若き日の家光が、実弟で
ある弟忠長と密会していた。
 我が褥(しとね=布団)でともにありたい。家光は弟を愛してい
たのだ。しかし待てど待てど弟は来なかった。冷たくあしらわれ、
それで弟は駿河に追いやられ、ついには自刃に追い込まれた。
 坊主どもが欲しがったのはこれだと思われた。乱心ではなく、実
の兄を愛せず、世継ぎの敵となったから忠長は葬られた・・。

 林景寺を出た竜星和尚は江戸を快くは思わない。おそらくは密会
の事実をその頃同門だった僧に告げた。しかしその後、和尚は、こ
れは命がけの愛だと悟り、家光、忠長、双方の名誉のために秘密を
守り通そうとした。ふたたび世が乱れぬようにとの願いも込めて。
 
 これらのものは、もしや城中に隠されてあったのではとも考えら
れる。気づいたか、あるいは処理を委ねられたか。
 であるなら家光にごく近い者・・それは正室か側室か。このよう
なものを城には置けない。ゆえにこの寺に葬ったのだ。
 そう考えるとすべてに納得がいく。その方は、寺の恩に報いるた
めに金を届けさせているのだろう。

 これは隠し通さなければならない。ひとりの男の真の姿がここに
あると考えた才蔵だった。

 お泉の背をそっと押して納屋を出た才蔵。本堂から明るい声がこ
ぼれてくる。またそのときパラパラと雨が舞い、古い寺はひっそり
と湿り気を帯びていた。


十四話 舞い込んだ縁談


 女がふたり、お香とお泉。童がふたり、十吾とお花。四人で揃って
買い出しに出て行って、ひとり残った才蔵は、中の廃物がすっかりな
くなった納屋にいて、新しい材でこしらえた棚板を手にしながら薄暗
い納屋の中を見回していた。
 細工があるとすれば地下。藁葺きの屋根は隠し幕をはずしてからの
作業であって、だいたいが納屋に天井などはなく、古い材の太い梁が
組まれてあるだけ。馬の居場所も定まっていて、そこには手が入って
いない。
 そしてまた、こうしてひとりでこもってみると、意味の解せない妖
気のようなものさえ漂う気がしてならない。才蔵でさえも身震いする
不思議な空気に満ちている。
 馬の居場所は縦板柵で囲われていて、手綱をつなぐ横丸太が残り、
それだけで納屋の中のほぼ半分を占めている。残る半分はいまは土間。
おそらくここに昔は板の間が造られてあり、からくりがあって地下に
入れるようにされていた。そう考えるのが自然だったし、暴こうとす
るならば掘り返してみるしかない。
 隠された秘密は、はたしてそれを望むのか。暴かれたがっているの
か拒むのか、ふとそう思ってしまうのだった。

『それを知って何とする?』

 竜星和尚の声が聞こえる気がする。才蔵は数枚の棚板を棚枠に配っ
ていきながら、さて困ったとため息をついていた。
 棚板を並べ終えて外に出る。中とは明らかにちがう白い風。納屋の
中には黒い空気が淀んでいた。
 狭いながらも静かな境内。地べたのあちこちに残っていた血の跡も、
土をかぶせ、雨に打たれて消えている。草源寺。草花の源となる大地
に建つ寺。そういった銘々だろうと考えるほど、ここで二度と斬り合
いなどあってはならないと思うのだった。孤児たちの里。仏に守られ
る童たちの家なのだから。

「まあ待つか」
 独り言をつぶやいて、才蔵は本堂への踏み段に腰を降ろし、穏やか
に晴れて風のない境内を見渡した。桜の木から赤茶けた葉が一枚、は
らはらと舞い落ちた。
 いますぐ暴くわけにはいかない。柵を造って生け垣とする。役人ど
ももやってくれば、その人足どもの中に忍びが紛れていないとも限ら
ないからだ。

 丸太を二本立てただけの門の下から、お花の明るい声がやってくる。
背丈のあるお泉、次にお香、それから小さなふたりの姿が覗く。
 お香がいつもの笑顔で明るい。竹で編んだカゴを抱えて才蔵の元へ
と小走りにやってくる。
「ほらぁ見て、美味そうだろ」
「おぅ、茸かい?」
「シメジ。お泉さんが美味いよって言うからさ。たくさんでも安かっ
たし」
 お泉が横で笑って言った。
「焼いてもいいし汁でも美味いし」
 お泉の里は若狭の山里。食べつけているのだろうと才蔵は思う。
 カゴの中に山盛りにして茸のシメジが詰まっている。軸の太いいい
茸だ。お香は、ふたり一緒にカゴを覗く十吾とお花を右と左に裏口か
ら厨へと入って行き、お泉はそのまま才蔵の座る踏み段の一段下へと
腰掛けた。

 お泉が言う。
「童のときのことを思い出しちまう。あたしだって・・ふふふ、いい
や、思い出したって仕方ないしね、そんな家が嫌で飛び出しちまった
あたしだし」
「似たもの同士か」
「さあ、それはどうだか。けど、あたし」
「何だ?」
「ここへ来てよかったよ。うまく言えないけどね」
「そうか、ならばよかった。やさしい顔してら」
「あたしがかい?」
 と、ふらりと顔が横を向く。細面で鼻筋の通る、女にしては冷たく
感じる顔立ちかも知れなかった。
 才蔵は言う。
「無論そうさ、はじめは目が尖っていたが・・ふふふ」
 そっと手が伸びて肩に置かれる。これまでなら男の手など払いのけ
ていたところ。お泉は心してそっぽを向きつつも、ほんのわずか肩を
寄せてなすがまま。
「柵造りがはじまるだろうぜ」
「そうだね。しばらくは手をつけない?」
「そういうこった。納屋の中に妖気が漂う、そんな気がしてならねえ
のさ」

 お泉は、今度ははっきり横顔を向けて、ほくそ笑みつつ言うのだっ
た。
「ふふん、それが怖いお人でもないだろうに」
 それは、くノ一を定めとして生きてきたお泉が、男に向けたはじめ
ての女らしい横顔だった。
「怖いさ、俺は妖怪じゃねえんだぜ」
「妖怪って言うのなら女にとって男は妖怪」
「おろ? だとすりゃ、俺にとっちゃ女は般若よ、ふっふっふ」
 お泉は唇の角をちょっと噛んで、ぷいとそっぽを向き、才蔵に隠れ
て微笑んでいた。

 気の抜ける寺での暮らし。お泉は日に日にトゲが抜けてしなやかに
なっていく。それはお香もそうだった。才蔵に対してもそうだったが、
四六時中やってくる仁吉に対してはどんどん女の艶が増していく。
 一日また一日。気がつけば十日、また気がつけば十日。季節は移ろ
い、神無月(十月)も終わりにさしかかる。
 新しい杭を打ち、新しい縄で囲った柵ができ、冬でも葉のある木を
配して門のあたりは生け垣。そして門前に『寺社奉行支配 草源寺』
の立て札が立てられた。

 そんなときだ、仁吉が大工の親方に連れられてやってきた。親方と
いう男、歳の頃なら五十年配、仁吉に比べるまでもなく体が大きく、
図太くしかし穏やかといった風体。本堂に通されて、お香が茶を支度
して歩み寄る。
 そのときもちろん、童ふたりも才蔵もそばにいて、お泉だけが、ち
ょっと出てくると言っていなかった。
 茶を出された親方が、お香に向かって座れと言う。意味が解せず、
それでもお香は前掛けを外して正座で座った。
 仁吉と連れだってやってきた。親方の言うことなど知れていた。才
蔵は幼いふたりを左右に座らせ、にやりと笑って仁吉の横顔を見てい
る。
 親方が言った。
「じつはな、お香ちゃん」
「はい?」
「仁の野郎からしつこく聞かされてましてな、お香ちゃんほどやさし
い娘はいねえって、毎日毎日うるさくて」
「ぁ、はい・・」
 お香の頬がかーっと熱を持って赤くなる。
 親方は微笑んで、なおも言いかけたのだが、慌てるように仁吉が割
って入った。
「いやな、お香さん、親方にはおいらから言ったんだ、どうしても一
緒に来てくれって」
 お香は声もなくうなずいて、上目がちに仁吉を見つめている。ふた
りとも大工の姿。木の匂いがぷんぷんする。仕事中に駆けつけたのは
明らかだった。

「おめえが言うか?」
「へい親方」
「おおぅ、言ってみろや、はっはっは」
 仁吉が震えている。才蔵はこらえきれずに十吾の肩をつっついた。
十吾が「くくく」と笑う。十吾でさえ何しに来たかはわかっている。
 仁吉が言う。
「お香さん」
「・・」
「おいらずっとお香さんと暮らしてえ。おいらの嫁さんになってほし
いんだ」
 親方が眉を上げて、にたにた笑う十吾と、目を丸くするだけのお花
に目をやって、それから言った。
「心からだぜ。こいつぁな、お香ちゃん。そこのチビふたりもひっく
るめて面倒みてえって言ってやがる。心底おめえさんに惚れてるのよ」

「おい、ちょいと出るか、あほらしくてやっとれん」
 才蔵は笑って十吾とお花を外に引っ張り出していく。
 歩きながら才蔵は、両脇に従える童ふたりに交互に言った。
「よかったな十吾、お花もな。姉ちゃんいよいよお嫁さんだ」
「よかったぁ! お嫁さんお嫁さん、きゃきゃきゃ」
 お花がはしゃぎ、しかし十吾は戸惑った。
「おらたち邪魔だろ? いないほうがいいんだろ?」
 才蔵は、そうじゃないと首を振ったが、この歳で姉を気づかう気持
ちが嬉しく、十吾の頭を手荒く撫でた。
「そりゃ違うぜ、仁吉はおめえらだって可愛いのよ。何もかもを飲み
込んで、そんで今日はやってきた。なあに父親だと思うことはねえん
だよ、兄ちゃんのままでいい。仁吉はおめえらの生き様にうたれたの
よ。思いやる心を持った十吾のことを誇りに思い、可愛いお花も誇ら
しく、だから今日やってきた」
「うん、わかった」
 涙ぐむ十吾。よくわけもわからずに、そんな十吾を見つめるお花の
小さな目。

「どうでぃ、お香ちゃん、こいつの気持ちをくんでやってはくれねえ
かい? ここで暮らすと言ってるんだぜ、みんな一緒によ」
 お香は泣いてうなずいた。何度も何度もうなずいた。
「ぅっ・・あぅ」
「てめえが泣くなっ、ったくもう! 今日のところは仕事に戻るぞっ、
コキ使ってやっからなっ! がっはっは!」
 親方に肩を叩かれて仁吉は涙をこぼして笑っている。本堂に響き渡
る大きな声が才蔵の耳にも届いていた。

 ほどなくしてお泉が戻り、才蔵に耳打ちした。ここからそう遠くな
い同じような寺に潜んだ坊主どもが消え去った。
「ときに何かあったのかい? お香の目が真っ赤だよ?」
「めでたく嫁さん」
「へええ、仁吉と? 言いに来た?」
 才蔵は苦笑い。
「けっ。親方に連れられてよ、たったいま帰ったばかりさ。あの野郎、
ひとりじゃ言えねえもんだから。ったく、勢いだけで生きてやがる。
ふっふっふ」
「そうかい、よかったねぇ・・あったかい寺だよここは」
 お泉は、厨にこもって夕餉の支度をはじめていたお香のそばへと歩
み寄り、そっと肩を抱いてやる。
 お香が小声で言った。
「ふたつも上なのにね」
 仁吉は歳下だ。
 お泉が小声で応じた。
「ふたつも下なのにね。けど頼れるだろ?」
 お香はこくりとうなずいた。
「あたしあのとき・・」
 才蔵を五人の敵が囲んだとき、板戸のつっかえ棒を握り締めて飛び
出して行ったときのこと。
「この馬鹿って思いながらも男だなぁって・・守ってくれてるって」
「はいはい、わかったわかった、あほらしくてやってられないね」
 パァン!
「あ痛ぁっ! ああん、もうっ、恥ずかしいぃ!」
 お香の尻っぺたをひっぱたいて、お泉はそのまま横に立って支度を
手伝う。

 庫裏から本堂は遠いようでも近い。同じ屋台組みの中にあって声が
響く。
「ちぇっ」
 才蔵は小指の爪先で耳の裏を掻き、斜陽に染まりだした境内を横目
に見ていた。風呂から出た十吾とお花が、まるで小さな夫婦のように
寄り添って桜の木を見上げている。
「そっちもかい・・お花め、お嫁さんの真似してるってか・・」
 坊主どもは消えた。しかしそれは散っただけ。才蔵の眼光は涼しか
った。

 その夜は丸い月が浮いていて星々もきらびやかに瞬いた。夕餉を終
える頃になって仁吉はやってきて、皆に囲まれてやいやいうるさい。
 才蔵はひとり本堂を抜け出して、寺のすぐ裏からはじまる林を抜け、
ほどんどが丸い石を置いただけの墓のある草原に歩み出た。墓石らし
いものもないではなかったが、点在する墓はどれもがここらの貧しい
者たちの墓所であった。和尚が死んで墓石が消え、穴の開いたままに
された墓もある。仏を別の寺の墓所へと移したからだ。
 そんな中、才蔵は、できたばかりの新しい墓の前に立つ。やはり丸
い石を置いただけ。しかしそこには、お香が花をたむけていた。才蔵
の剣に倒れた坊主どもの墓である。
 才蔵はもの言わず、手を合わせるわけでもなく、ただ石を見つめて
佇んだ。

「何者か・・」

 木陰に気配。しかし殺気は感じられず、才蔵の声も穏やかだった。
 少し離れた木の陰から小柄な黒い影が歩み出て、片膝を折って座り、
才蔵を黙って見つめ、何を言うでもなくそのまま闇へと失せていく。
柿茶色の忍び装束。身の丈そして身のこなしから、くノ一だろうと思
われた。礼を尽くして去ったところから敵ではない。

「心せよということか・・何者なのやら・・」

 才蔵は月を見上げてつぶやいた。城中の何者か、おそらく大奥の何
者か、その手の者だと考えた。気配りしておるゆえ心せよ・・そうい
うことであったろう。
 そのとき背後にはっきりとした気配。
「やってられないね」
「だろ?」
「けど、いい若衆だよ」
 お泉。藤色小花を少し散らせた赤茶の着物。風呂上がりで結い髪を
降ろしていて、髪を上に丸めてまとめた、くだけた姿だ。
 才蔵は、たったいま見張られていたことを告げなかった。

「お泉よ」
「うん?」
「そろそろ俺たちが邪魔となろう」
「カタをつけるかい?」
「そろそろな。流れ者がつっかかってはしかたがねえや」
「ふふふ、まったくね」
 才蔵は月を見上げて言う。
「・・ともに行くか」

 そのときお泉は一歩退いて立っていた。まさかそんなことを言われ
ようとは思っていない。くノ一は影。それが定め。
 お泉は斜め後ろの才蔵の背にちらと目をやり、わずかだが逆向きに
身をそらす素振りをした。言葉にはならなかった。
「今宵は庫裏でおまえと俺。お香は揃って広間だろうぜ」
 お泉は、才蔵の目の届かぬところで、今度こそしっかりと才蔵の横
顔を見つめ、ちょっとうつむいて微笑んでいた。
「忍びを抜けろ」

 どうしたことか、お泉の立ち姿が流れるように才蔵の背へと溶けて
いく。


十三話 黒い謎


 お泉は今夜のところは帰していた。お泉が夜をどうすごすか才蔵は
知らない。それも忍び。忍びは人知れず存在するものでなければなら
ない。仁吉は留まってお香ら三人と広い本堂で眠っている。才蔵は狭
い庫裏。古くなると多少なりと手の入れられる本堂とは違い、庫裏は
一際狭くてかび臭い。畳にすれば八畳はあるのだが箪笥なども置かれ
てあって足場という意味で狭いのだった。

 この寺の住職だった竜星という和尚は、いつ頃からこの庫裏に暮ら
したのだろうと考える。死んでいった老僧は忠長の名を惜しむように
「乱心などされておらぬ」と言い残した。かつての駿河大納言、徳川
忠長にゆかりの者、そしておそらく由井正雪の倒幕の企てにも荷担し
た者ども。そういった輩が欲しがる秘密とは何だろうと、その一点が
胸のつかえとなっていた。
 先代将軍、家光の実弟である徳川忠長は世継ぎ争いに敗れ、駿河大
納言という地位を与えられるが、それは結局、江戸からの追放だった。
後に乱心を理由に自刃に追い込まれて生涯を閉じている。
 それがもし、あの老僧の言うとおり仕組まれたものであったとした
ら・・配下の者どもがほしがるものにはふたつあると思えてくる。

 ひとつは江戸表に一泡吹かせる何か。もうひとつは亡き主君の汚名
を晴らす何か。才蔵はそのどちらもを満たせるものだろうと考えてい
た。倒幕の企てはつい昨年脆くも崩れた。ふたたび動きがあるとして
も、それに足る力を蓄えてからでないと動けまい。
 とすれば残るは主君の無念を晴らそうとする動き。林景寺の面々は
そのために寺を捨てて江戸に潜んだ。最前の老僧は、この寺の住職だ
った男に歳が近い。その頃はまだしも穏やかだった林景寺にいた同門
の僧に、竜星はあるときこの寺の秘密を漏らしてしまったのではない
か。そのときはよくても後になって老僧は敵となったということだ。
 やがて由井正雪が立ち、倒幕の企てが密かに進む中で、それに乗じ
ていまの江戸表をつぶそうと企んで、竜星から聞いていたある物がど
うしても欲しくなる。
 そうやって話を組み上げていくと辻褄が合うのである。
 斬り殺した五人は無頼の輩ではない。忠義を貫く武士ばかり。そん
な者どもを斬ったからには、隠されたものが何なのかを確かめないま
ま手を引くわけにはいかなった。事実を知り、その上で死んでいった
者どもを供養してやりたい。才蔵もまた武士。関わりなきことではす
まされないと考えていたのである。 

 だが、そうしたこととは別に、ここを家として育てられた童らは守
らなければならない。仁吉もいる。襲った者どもが、はたしてまた来
るのだろうか。敵が多ければ守り切れない。ここはやはり皆を逃がし
ておきたいとは思うのだったが、下手に勘ぐられてそっちを追われて
はひとたまりもなく殺られてしまう。
 先々のためにも是が非にもカタをつけておかなければならないだろ
う。

 その朝、しとしとと小雨が舞い落ちて境内の土は水を含んで黒かっ
た。旅姿の女がふらふら歩みやってきたのは昼少し前の刻限だ。
「急に腹がさしこみまして」
 まあ、それはお泉の一芝居。まんまと寺に取り込んで、皆で笑った
までのこと。このときお泉は白木の仕込み杖だけを手にしていて、弓
矢も忍び装束も携えてはいなった。
 昼が迫り空は急に明るくなって陽射しが注ぐ。寺社奉行の役人ふた
りがやって来たのはそんなとき。才蔵はふと、あることを思いついて
申し出た。

「ほう、囲いを造りたいと申すか?」
「ずいぶん前に賊に入られましてな、本尊さえも盗まれる始末でして」
「ふむ、それは物騒だ」
「とは言え、土塀などでは物々しい。周囲を杭で囲み、縄を張って柵
をつくる。その上できますれば、この寺が寺社奉行支配であることを
示す立て札などをと思っておるのですが。柵はこちらでいたすとして
も立て札だけはどうにもならず。なにぶん女子供の所帯ゆえ、そうで
もしないと心細いこともあり」
「うむ、なるほどのう。よしわかった、その旨を話してみよう、しば
し待て」
 公儀支配を堂々と晒してしまえば手が出しにくくなる。それと大石
の下の秘密を掘り返そうにも、目隠しがないと、三方を囲む浅い谷の
向こうに並ぶ武家屋敷から素通しになってしまうこともある。柵をこ
しらえ、門の周りだけでも木を植えて生け垣とするということだ。

 そして役人どもは、才蔵のはるか後ろでお香らと昼餉の支度をする
見たことのない女に視線を投げた。
「なにやら見ぬ顔が増えておるが?」
 才蔵は笑って言った。
「ここはそういうところでござるよ。旅の途中で病になり、すがって
参った女です。しばらくは養生ということで」
 役人ふたりは顔を見合わせ、そして言った。
「左様か、いやいや、ますます感心するのみ。孤児の世話と言い、よ
くやってくれておる。先の話わかったぞ、柵ともどもこちらでやって
やりたいもの。杭とは言え銭のかかることゆえな」
 人の好い役人だ。才蔵は内心ほくそ笑んで帰って行くふたりを見送
った。

「柵に生け垣? そんなもんでよきゃぁ、あっしがやりますものを」
 話を聞いた仁吉が言った。
 お泉がそれに苦笑して応じた。
「お役人の手を借りてこそなのさ」
「へ?」
「そのとき人足と一緒にお役人に出張ってもらえば目立つだろ。それ
だけ手が出しにくくなるって寸法さ」
 ぽかんとする仁吉の背中を『わからんのか馬鹿』と言うように幼い
十吾がバシンとひっぱたき、皆で声を上げて笑い合う。

 昼餉の支度の途中で、広間でふと才蔵とふたりになったお泉。
「気が抜けちまう、こういう暮らしもあるんだなって。夢のようだね」
 才蔵はちょっとうなずき、そして言った。
「おめえも心得違いをするんじゃねえぞ。手下だなんて思っちゃいね
えし、くノ一だとも思っちゃいねえ。物好きな俺のために苦労をかけ
る、すまぬな」
 肩にちょっと手を置かれ、お泉は声も出せずに才蔵の目を見つめ、
さっと背を向けて厨へと歩み去る。いまにも涙になりそうだった。

 皆が揃って昼餉を終えて、そろそろお香が買い出しに出るという刻
限となり、仁吉が一足先に帰って行った。仁吉は明日からまた普請場
で仕事があり、早めに飯場に帰っておきたい。
 そしてそのとき寺の門前まで送りに出たのが、お香。才蔵はたまた
まそのとき大石のそばに立っていた。桜の木は葉を散らすにはまだ早
く、赤茶けた葉をつけている。
 仁吉を見送って振り向いたお香に、才蔵は言う。
「明日から普請場なんだろ?」
「はい。けど、すぐまた来るからって」
 しかし話の腰を折る、お泉とお花の声がした。
「ほれほれっ」
「きゃぁぁ! あははは! ぁきゃぁーっ!」
 地べたに虫でもいたのだろう。お泉がつまみ上げてお花に突きつけ、
お花が逃げ回っている。
「ったく、何をやっとるか」
 才蔵の言葉が可笑しくてお香は笑い、しかし真顔になって、うつむ
きがちに言うのだった。

「才蔵さん、あの・・」
「おぅ? どした?」
「納屋のこと」
「納屋?」
「あたし知ってるんです。その頃はまだ馬小屋だった納屋は板屋根だ
ったんだけど、そこの石のすぐそばにあったんです。あたしがまだ十
だか十一だかの頃に和尚さんが人手を頼んで動かした。藁葺き屋根に
変えて納屋にしたの」
「そうか、その頃なんだな、いまの所に動かしたのは?」
 お香はここらへんだと大石の境内側に立つのだった。
「石はずっとそこにあったんだな?」
「そう、石は動かせないって」
 才蔵が思う場所とはかなり違った。
「それでそのとき和尚さんは、いろいろ役立ってもらわねえとって」
「いろいろ役立ってと、そう言ったのか?」
「あたしも童だったから、はっきりとは覚えてないけど、確かにその
ように」
「それまでは、ただの馬小屋だった?」
「馬が死んだんです。ここらも拓けてきていて、それでもう馬はいい
ってことになり」
「なるほどな。そんで庫裏に近くして納屋にしようってことか?」
「そうなんです。あの、才蔵さん」
「うむ?」
「黙っててすみませんでした。才蔵さんのこと、あたし・・信じ切れ
ていなかった」
「ふふふ、そりゃそうだ、刀を持った得体の知れねえ流れ者。大金も
置いてあるしな」

 微笑んで肩に手を置く才蔵。お香は唇を噛んでうつむいてしまう。
賊に入られ、次には襲われ、血だらけの惨劇を見てしまった。怖さを
思い知って打ち明ける気になったのだろう。
 そのとき本堂のそばから十吾とお花がはしゃぎながら駆け寄ってき
て、お泉が追って小走りにやってくる。才蔵はお泉に目配せで『向こ
うへ連れてけ』と合図をし、様子を察したお泉は目でうなずいて、童
ふたりを引き戻して去って行く。
「それでそんときのことは覚えてるか? どうやって動かしたとか、
どんなことをやっていたとか?」
「少し覚えてます。板屋根を外して、戸とかも外してしまって、地べ
たに丸太をたくさん並べてよいしょよいしょと動かして、丸太を順繰
りに送っていくんです」
 それがコロ。余分なところを外して軽くしておき押していくという
ことだ。新材で新しい納屋を造ってしまえば、とってつけたようで目
立つから、あえて古く汚い小屋を動かしたと考えられる。

 お香は遠目に納屋に目をなげながら言う。
「それでいまの所に据えたんだけど、そのときあたし、ちょっと不思
議に思ったのは、置き場を決めてから晒しの幕で四方を覆ってしまっ
て」
「幕だと?」
「何て言うのか、芝居の幕みたいな」
 陣幕だろう。戦で本陣を囲う幕のようなものではないか。
「幕で覆って中で何やらトンカチやっていた?」
「そうなんです。何ができるかわくわくしたのを覚えてますから」
 見られてはまずい何かを細工していた。納屋を造るだけなら隠す意
味もないはずだ。
「しばらくして幕が外されて、それから藁葺き屋根がのったんです」
「屋根はそれからなんだな? 幕が外されたときに屋根はなかった?」
「だと思います、屋根は後から造ったような・・」
 才蔵は、お香の肩に両手を置いて目を見つめた。
「納屋の中のことは?」
 お香は首を振るだけでそれ以上を知らなかった。よくできたからく
りならば童に見つけられるはずもない。
「わかった、よく言ってくれたな。やっとどうにかなりそうだぜ。俺
もそこそこ馬鹿だからよ、考えることにゃぁ向いてねえもんな。はっ
はっは」
 お香は役に立てたことが嬉しくて、ちょっと笑った。

 大石の周囲に目を凝らしても地下に細工がありそうには思えない。
たとえば地下に空洞のようなものがあるのなら、こんな大石を置けば
つぶされてしまうだろう。頭を抱えていたところだった。
 しかし納屋にからくりのようなものはない。その頃あったからくり
を和尚は壊してしまったのだろう。
 才蔵はお香の背を押しながら皆の元へと歩み寄り、お香を童ふたり
のほうにそっと押しやりながら、お泉に向かって『来い』と目配せす
る。お香が童に溶け合って、お泉が離れ、本堂へと入っていく才蔵を
追いかけた。
「やはり納屋?」
「うむ、据えてから幕で覆って中で何やらやってたそうだ」
「わかった、すぐにでも調べてみる」
「いや後でいい」
「え?」
「おめえはお香らと買い出しに行きゃぁいい。童らと茶菓子でも喰っ
て来い。お香の奴が俺にそれを言えなかったことを気にしてら。信じ
切れなかったって、しょげちまってる。お香を頼む」
「・・わかった、じゃあそうする」

 呆れる。この人はどこまでやさしい人なのだろう。侍と言えば肩を
怒らせ、そうでなければ、ただ単に弱いだけ。
 お泉は心が震える思いがした。この役目を負わされたときタカをく
くっていたのだったが、付き従うことが誇らしくさえ思えてくる。そ
んな男をお泉はこれまで知らなかった。


十二話 鬼の才蔵


 歳嵩のひとりは別に、四人揃ってかなりな使い手。そう才蔵は感じて
いた。シャランと金輪を鳴らして錫杖の切っ先を突きつけながら男のひ
とりが叫ぶ。
「退けと言うに! 関わりなきは去れ!」
「忠長一派か正雪一派の残党か」
「やかましい、死ねぇい!」
 声高にすごみつつ前から突き込まれる錫杖を、その棒軸を巻き込むよ
うに回りながら交わした才蔵。その刹那、才蔵の右の裏拳が男の顎をガ
ツンととらえ、男が持つ錫杖をともに握りながら才蔵は体をさばき、ほ
かの三人との間に敵ひとりを盾に陣取った。
 歳嵩のひとりが編み笠をしたまま言い放つ。
「やむを得ぬ、殺れ!」
「おおぅ!」
 錫杖を握り合う下から男の急所を蹴り上げて錫杖を奪い取った才蔵が
棒を構えて中腰となり、そのとき残る三人が仕込み錫杖の鞘を払って剣
を抜く。八角棒の棒尻に仕込むための反りのない細い刀身。金輪のある
切っ先と棒尻の剣と切っ先は頭尾にある。
 才蔵に錫杖を奪われたひとりが、法衣に隠した黒鞘の大刀を抜き去っ
た。才蔵が奪い取った錫杖も仕込み錫杖だったのだが、才蔵はその鞘を
払わない。剣と棒の戦いだった。

 そして悪いことにそんなとき、本堂の板戸の隙間から様子を見ていた
仁吉が、板戸のつっかえ棒を握り締めて飛び出してくる。
「やいやい、てめえらっ、五人でひとりを囲むとは汚ぇえぜ!」
 才蔵はとっさに叫んだ。
「退け! おめえは童を守るんだ!」
 しかし遅い。境内に裸足で飛び出した仁吉は、老いたひとりと若い男
のふたりに前後を囲まれ退くに退けない。
「ふふん、ともに死ね小僧!」
 左右から突かれる槍剣を仁吉はもんどりうって転がって除けきって、
立ち上がりざまに老いたひとりの向こうずねを棒先で殴りあげる。
「ぐわぁ! 許さぬ、死ねぇ!」

 まずい。このままでは殺られてしまう。しかし才蔵も敵は三人。前か
らの槍剣、横からの太刀、また横からの槍剣。棒先で払い、棒尻で払い、
そうしながら仁吉を救わなければならなくなった。

 そんなときだ。本堂に置いたままの才蔵の剣。青鞘の大刀だけをひっ
つかみ、幼い十吾は一度奥へと走り去って厨の裏口から外へと飛び出す。
お香が止めるより早く、お香は一緒になって飛び出して行きそうな幼い
お花を抱くのがやっと。
 裏から出た十吾は、薪割り場を駆け抜けて納屋の裏へと回り込み、納
屋の反対側の草陰に潜むように才蔵を見つめている。才蔵はもちろん気
づき、三人の敵とやり合いながらもじりじり納屋へと近づいていく。
「才蔵さん、刀ぁ!」
 後三歩というところで十吾は青鞘の大刀を投げ上げた。
「ちっ、こわっぱめが! 死にくされ!」
 才蔵よりも男のひとりがわずかに十吾に近かった。棒尻の鋭い剣が地
べたを這う十吾に向かって突き込まれ、そしてそのとき才蔵の耳許をか
すめるように赤い矢羽根の弓矢が飛んだ。お泉の矢だ。
 投げ上げられた剣に向かってもんどり打って手をのばす才蔵。

「うわぁーっ!」
 男の棒尻の細い剣先が、とっさに転がる十吾の脛を浅くかすめて紙一
重の地べたに刺さり、その刹那、男の右肩口に赤い矢羽根の弓矢が浅く
突き刺さる。しかし矢はあまりに浅い。
 転がり飛んだ才蔵の手が青鞘の剣をひっつかむ。そして刹那、抜き去
られた才蔵の白刃。肩口を射られても屈強な兵の動きを止めるまでには
いたっていない。地べたを刺した剣先がふたたび十吾に向けられた。

 危ない、十吾!

「セイヤァァーッ!」
 鬼神のごとき才蔵の気迫! 振り抜かれた白刃が、左斜め後ろから男
の背を逆袈裟斬り!
「ぐわぁーっ!」
「死ねぃ外道!」
 背に振り抜かれた一刀が空中で反転し、次には真横に振り抜かれて男
のそっ首を吹っ飛ばす! 血しぶき! 石のごとくごろんと転がる坊主
の首。
 十吾の細い脛に一筋の血が滲む。
「十吾、大丈夫か、よくやったぞ」
「うんっ、どうってことない!」
 十吾に向かって笑った才蔵。しかし刹那、敵に向かって振り向くとき
には鬼の形相!

 そしてその傍らで。
「トゥリャァーッ!」
「なんの! ハァァーイ!」
 仁吉を襲うふたりの男を相手に、紅矢のくノ一、お泉が挑みかかる。
忍び装束でもない町女の着物姿。脚が開かず動けない。それでもお泉は
素早かった。前から横から襲う切っ先を苦もなく交わし、くノ一の剣が
老いた男の胸を貫く!
 お泉は強い!

 その様子を横目で見た才蔵。青鞘から抜かれた見事な白刃が切っ先を
天に向け、弧を描いて中段下まで降ろされて、チャッという鍔鳴りを響
かせて反転し、真横にすーっと動いて止まる。
 これぞ、流れ才蔵の十字剣! 対する男ふたりは身構えながらも才蔵
のあまりの気迫に腰が退けた。
「こ、こしゃくな、死ねぇい!」
 若い男がふたり。ふたりともに剣を抜き、剣対剣。左右に分かれて才
蔵を狙う剣先だったが、左のひとりが斬り込んだ刹那、勝負は決した。
 左からの切っ先を払い落としておきながら、右の男の胴を切り裂き、
返す刃が左からの攻めの一瞬前に男の首を吹っ飛ばし、そしてまたその
返す切っ先が右の男の喉笛を貫いた。
 死んだ男を足蹴にして喉笛から剣を抜き、老いたひとり倒して残った
ひとりと対峙するお泉との間に割って入る。

「十吾を頼む」
「あいよっ」
 お泉とそして仁吉を追いやって、才蔵は残るひとりと対峙した。
「俺が相手よ、女じゃねえぜ」
「ふふん、口は立派だ、受けてみろ!」
 最後のひとりが男たちの中ではもっとも使える。突き突き突きと突き
を使う実戦剣。戦場での剣さばきは才蔵をもたじろがせるほど速かった。
 キィーン、キン、キィーン!
 白刃と白刃が火花を散らして交錯し、互いに退いて互いに斬り込む。
足を払われて才蔵が宙を舞い、宙から斬り下げる剣先を敵が受け流して
もんどりうって転がった。
 追い込む才蔵、しか受けから攻めに転じる敵! 双方、強い!
 キィィーン!
 最後に一度交錯する刃と刃。忍びのように身軽に体をさばく才蔵。
 真横に振り抜かれた切っ先が敵の胴を浅く抉り、敵がひるんだ一瞬、
返す刃が肩口から深々と袈裟斬りに肉を抉った!
「トゥセェェーイ!」
 吼える才蔵! 鬼神の気合い! 噴き上がる血しぶきを浴びた才蔵は、
もはや鬼か!
 男はその眼をカッと見開き、声も発せず朽ち木のようにゆらりと崩れ
て倒れ去る。

 才蔵は強い! 話に聞いていたお泉だったが、震えが来るほど才蔵は
強い。お泉は目を輝かせた。

 しかしそのとき、三方を囲む浅い谷の草陰から逃げ去る男の影ひとつ。
男は百姓姿に化けていた。お泉が気づき、才蔵もそれを察して顎をしゃ
くって『追え』と合図。お泉の姿が一瞬後に消えていた。
「強ぇえ・・おいら驚いちまった」
 たったいま目の前で起きたこと、そして首のない男の死体、また死体。
仁吉は呆然としてふらふら歩み、才蔵のそばへとやってきた。
「よくやったな仁吉、助かったぜ」
 仁吉の役割は大きかった。敵を二手に散らせてくれた。才蔵に肩を叩
かれ、しかし境内のそこらじゅうが血だらけの惨状に、仁吉はへなへな
と崩れてしまう。
 脛に白い晒しを巻かれた姿で十吾が歩み、十吾はそのまま才蔵の腰へ
とすがりつく。
「おめえもだ十吾、立派だった、ありがとよ」
 十吾もまた呆然としてしまって、声もなくうなずくだけ。

「ぅ・うぅぅ」

 お泉の剣に倒れた老僧に息がある。才蔵は傍らにしゃがんで覗き込む。
「忠長一派と見たが?」
「ぅぅ・・乱心など・・されてはおらぬ・・むぅぅ・・家光め・・江戸
など滅ぶがよか・・ろう」
 首がゆらりと崩れて老兵は去った。
 仁吉は目を丸くする。殿上人など身分が違う。才蔵は言った。
「仁吉、十吾もだ」
 へたり崩れた仁吉が見上げ、腰にすがる十吾が下から才蔵を覗き込む。
「敵とは言え、こやつら皆、忠義の者ども。武士とはそういうものぞ。
墓所に葬ってやらねばな。手伝ってくれるよな」
 仁吉は黙ってうなずき、十吾は、たったいま眼前で死んでいった老兵
を見つめて泣いてしまい、かすかに「うん」と呟いた。

 そしてそのとき、お香は幼いお花を抱き締めながら本堂の外廊下に立
っていて、はじめて見るおぞましい光景に震えていた。才蔵の顔も着物
も血しぶきを浴びて真っ赤。鬼の姿に見えたことだろう。
 ふと本堂を見た十吾。身を固くするお香の姿に、何を思ったのか十吾
は才蔵の腰を離れて歩んでいき、そのとき手をのばした姉の手をしっか
り握った。
「男ですぜ、もう」
 仁吉がそんな十吾の小さな背中を見て言った。
「おめえもな、無鉄砲にもほどがあらぁ、ふふふ」
 そう言って才蔵は笑ったのだったが、仁吉は首をちょっと横に振る。
「おいらなんぞ威勢がいいだけ・・へへへ」
 力なく笑う仁吉の手を引いて立たせ、ふたり揃って、境内に散らばっ
た武士どもの亡骸に歩み寄っていくのだった。

 そのとき十吾が、そっちへ行くなと手を握って止めようとしたお香の
手を振り払って歩み出し、勇気を振り絞るように、首を飛ばされて転が
ったその首に小さな手を合わせ、泣きながら持ち上げて、裏の林の墓所
へと運ぶ。
 才蔵も仁吉も黙って見ている。十吾はいまこのとき男になった。ふた
りは目を見合わせてうなずき合っていたのだった。

 その日の夕餉。支度が遅れ外は暗くなっている。
 太い蝋燭が何本も揺れる本堂に、才蔵、仁吉、十吾、お花、そしてお
香が膳を据えて輪になった。しかし静か。幼いお花でさえも皆を気づか
い静かにしている。
 静けさにたまりかねたというわけでもないだろうが、仁吉が口を開い
た。
「こんなこと訊いていいもんやらとは思うけんど」
 問いかけの相手はもちろん才蔵。
「うむ? かまわんが?」
 仁吉はチラとお香と目を合わせつつ言うのだった。
「さっきのお方は? おいらを救ってくださった?」
 才蔵は皆を見渡してちょっと笑い、仁吉の目を見やった。
「お泉と言ってな」
 と、そう言いかけたとき、本堂への踏み段に気配。意図してはっきり
気配を感じさせる歩みである。

「言ってるそばから・・ふふふ、十吾、開けてやってくれ」
「うんっ」
 十吾は力強くうなずいて立ち上がり、本堂を閉ざす板戸の片方を少し
開けた。
 血しぶきを浴びた着物を着替えて現れた、お泉。町女のいでたちで明
るめの黄色茶縞の着物。晒しの脚絆を巻く旅姿。そしてその手に白木の
仕込み杖。才蔵は言った。
「入りな、ご苦労だったな」
 お泉は戸を開けてくれた十吾の頭に手を置いて、皆を見渡しちょっと
頭を下げる素振り。才蔵のそばへと音もなく歩み寄り、そのときお香が
用意した座布団に正座で座った。
 どこか鋭い印象。すさまじいまでの剣さばき。ただの女でないことは
明らかだった。才蔵が言う。
「お泉さんと言ってな、いろいろあって俺の影となって動いてくれる。
辛い役目を負わせていてな」
 お泉は才蔵の姿を横目に見ている。お泉さんと『さん』をつけて呼ば
れたことがない。やさしく思いやった言葉をもらったことがない。

「で、いかに?」
「言っていいんだね、ここで?」
「かまわんさ、おめえが十吾や仁吉を救ってくれた」
「そうですぜ姉さん、恩にきやす」
 仁吉が笑って言うと、かしこまっていたお泉の面色がやわらかくなっ
ている。
「おらもだ、死ぬかと思った、えへへ」
 と、十吾。お泉が笑ってうなずいた。笑うとやさしい女の面色。
「内藤新宿と大久保の境あたりに、ここと似たような寺があってね、奴
らの根城さ。敵は四人残っているが、さてそれだけなのかどうなのか」
「うむ」
「しばらく潜んだ。敵は皆坊主の成りだが若い武士ばかり。ひとまず散
ろうと話していたよ」
 それは才蔵とて察したことだった。こちらから攻める手もあったのだ
が、駿河の者どもと考えるとどれほどの数が潜んでいるとも知れない。

 ふいに、お香が言った。
「お泉さん、夕餉は?」
「いや」
「はいっ、じゃあ支度しますね、今宵はご馳走なんだから」
 そう言ってお香一人が立ち上がり、けれども幼いお花が遅れて立って
厨へ歩むお香を追った。
「ふふふ、いい子だ。十吾もだが。なあ、お泉よ」
 お泉は黙ってうなずいて、そのとき目の合った十吾に言った。
「傷は傷むかい?」
「ううん、もうすっかり」
 お泉が、忍びが用いる傷薬を使い、晒しを巻いてやっている。
「お姉さん、ありがとね」
 お泉は笑ってうなずきながらも、ちょっと目をそらしていた。住む世
界のまるで違う家族の中に迎えられた気がしていた。

「あ、いけない」
 お泉が才蔵の耳許で言う。かつて馬小屋だった納屋は、門に近い桜の
木のそばにあったもの。寺をよく知る村の婆が言っていたと。

 ほどなくして、お香とお花が揃って現れ、お香は膳を、お花はその小
さな手に湯飲みを持って歩み寄り、「はいっ」と言って差し出した。
 お泉は湯飲みを受け取って、お花の頭を撫でてやる。
 才蔵が言った。
「こうなったからには言うが、お泉にはここにいてほしい。明日にでも
一芝居うってもらい客人として迎えるのさ。買い出しそのほか俺ひとり
じゃどうにもならんこともあってな」
 皆に異論のあるはずもなく、ただお泉だけが戸惑っている。
 才蔵が眉を上げて笑いながらお泉を見た。
「本堂は広れぇ、庫裏は狭ぇえ。となりゃぁ俺が庫裏で寝るまでよ」
 そしてまた仁吉に向かって眉を上げる。
「おい仁」
「へ? あっしも?」
「おめえもお香のそばで寝ろ、命がけで守った女だ。ふっふっふ」

 しどろもどろの仁吉と、頬を赤くしてうつむくお香に、皆で笑った。


十一話 美しき月


 その夜、才蔵は本堂へと上がる数段の踏み段に腰掛けて、瞬く星空の
中にくっきり浮かぶ三日月を見上げていた。深夜。寺はひっそり穏やか
に月闇の中に沈んでいる。

「和尚とは何者だったのかと考えているんだが」

 高床の縁の下、さらに闇が濃くなるところにお泉が潜む。才蔵が座る
踏み段の裏側だった。お泉は何も言わず聞いている。
「若かりし和尚もまた僧兵だった。されどその頃の林景寺は江戸に牙を
剥くものでもなかった。世継ぎ争いに敗れた忠長一党、あるいは由井正
雪の息がかりやも知れぬが、そういう者どもが入り込んだがゆえに林景
寺はおかしくなった」
 お泉は呼吸の気配さえも感じさせない。静寂の闇には小声で充分。
「和尚は早くに寺を出ているがゆえにそうした輩とは別物と考えていい
のかも知れぬし、だとすれば本山の異変を快くは思うまい。秘密は隠そ
うとするだろう。その頃あったからくりを壊してでも隠し通そうとする
のではないか。それが表に出れば世が乱れることはわかっておる」

 そこではじめてお泉が言った。
「城中とのつながりはなぜにってこともあるしね」
「うむ、そこも気になる。ある秘密を和尚が守ることを条件に金を届け
させ、それが結局、童らを守ることともなっている」
 才蔵は浅いため息をつきながらちょっと笑い、語調を崩してさらに言
った。
「さて暴いていいものか。ここで俺ごときがしゃしゃり出て化け物を掘
り出してしまったらと思うとなぁ」
「けど坊主どもはきっと来るよ。ここが公儀支配となったと知ったら何
が何でも奪いにかかる。それほどの大事がここにはある」
「そうだな。その大事とは何かってことよ。で、その後は?」
「ないね何も。紀州は動かない。けど、あたしが気になるのは公儀の手
も動かないことなんだ。それほどの大事なら見張りの忍びぐらいは動か
してもいいはずだろ。秘密そのものを葬ってしまえばいいのに、とも思
ってさ」
「それができない何か・・ゆえに薄気味悪いのよ、こそこそ金を届けさ
せ、それはすなわち公儀にとって身内さえも欺く行い。これはえらいこ
とだぞってよ、ますます気味が悪くなる。あるいは亡霊を目覚めさすよ
うなことになりはしねえか・・とな」

 このときもちろん才蔵は才蔵で、お泉はお泉なりに、この寺にあって
探れるところはあたっている。からくりのようなものはどこにもない。
とすると、万一のときのことを思った和尚が、からくりごと秘密を葬っ
てしまったとも考えられる。
 才蔵は言った。
「お香はここで童らと暮らしてえのさ」
 お泉はちょっと眉を上げて微笑んだが、才蔵の座る踏み段の下。
「いい人もできたことだしね」
「ふふふ、そういうこったな。ここで亡霊を怖がって手を引くわけには
いかねえ。秘密を暴くことそのものも隠し通さなきゃならねえし」
「それで納屋だけどね、妙だとは思わないかい?」
「何かあるのか?」
「いや、そういうことじゃなくだよ。下木(基礎部分)だけに新しい材
を使ってるね。石基礎で地べたからの浮きがあるとはいっても下木は腐
る。時期が来れば替えるものなんだけど、気づいたのはそれぐらいだよ。
本堂も庫裏も、縁の下から屋根裏まで調べてみたけど何もない。もっと
たやすいものなんじゃないかって思ってさ」
「たやすいとは?」
「埋めて大石で塞ぐだけとか、そういうことさ」
 境内には苔むした大きな石が置いてある。
「あの納屋、馬小屋だったと言っただろ」
「うむ。それが?」
「風呂の焚き口がすぐそばなんだよ。馬は煙を嫌がるからね」
 才蔵はハッとした。
「馬小屋を動かした?」
「考えられるね。前にも言ったけどコロ(重い物を転がす丸太)を使え
ばあのぐらいのものをずらすことはできるから。武家屋敷じゃあるまい
し馬小屋なら門に近いほうがよくはないかい? それこそ臭いし」

 お泉は境内の隅にとってつけたように置いてある大石を気にしていた。
庭の造作というほど出来の良い庭でもない。
 からくりからくりとむずかしく考えるから見当たらない。納屋はかつ
て馬小屋として門の近くに造られてあり、その地下に何らかの仕掛けが
あった。そう考えると納得できるし、金を届けた女はそれを知っている
から納屋を気にした。
 才蔵は言う。
「となると古い話だ、二十四になるお香が知らない。まあしかし、そう
かも知れぬな」
「訊いてみるよ、そのへんの年寄りに。寺の昔を知ってるだろ」
 それだけ言うとお泉の気配は闇へと去った。
 才蔵は大きな桜の木の下に置いてあるいびつに丸い大石に目をなげた。
 そしてふと見上げると、いましがたまで夜空にくっきり浮いていた三
日月が、深夜となって冷えてきたからか、うっすらと靄に覆われて朧月
に変わっていた。それがまた詫びて美しい。

 翌日はよく晴れて、しかしその次の日には厚い雲が空を覆いだしてい
た。
 寝込んでいたお花も元気になって、十吾とふたり、朝方に訪ねて来た
仁吉と境内を走り回っている。仁吉は普請場の休みで昨夜一度浜町にあ
るという親元を覗いていたのだったが、翌日には普請場にある飯場に戻
り、漁師の家からくすねてきた魚やイカの一夜干しを持って寺にやって
きた。お香のそばにいたいというより童らが気になってしかたがないと
いった様子。童らも喜んで、仁吉をおもちゃにして遊んでいる。
 お香が丸い竹カゴを才蔵に見せて言う。
「今宵はほら、魚やイカや、ご馳走で」
 お香も嬉しそうだった。

 そんなときだ。丸太を二本立てただけの門の下から、丸く大きい坊主
笠をかぶった僧が五人、傾斜を歩んでやってくる。
 一見して、先に立つひとりが歳上、後ろの四人が明らかに若く、それ
ぞれがギラリと光る錫杖(しゃくじょう)を持っている。僧が持つ錫杖
とはすなわち槍。鉄の丸環がついているとはいっても武器になるものだ
った。
 不気味に歩む僧どもの影が近づいて、才蔵は仁吉を手招きしながら、
お香に対しても童らを奥へと小声で言った。
 このとき才蔵は納屋にいて、着物をまくり上げてたすき掛け。庫裏の
物をしまうために新しい板で棚を作っていた。
 才蔵は着物の裾を直しながら矢面に歩み出た。しかし丸腰。青鞘の剣
は本堂に置いたまま。

 物静かだが有無をも言わさぬ足取りで歩み寄る五人の僧。先に立つひ
とりはともかくも後ろの四人はおそらく武士。隙がない。四人ともに背
が高く、黒い法衣から出る腕が隆々として太かった。
 先に立つひとりが坊主笠を少し上げて才蔵を射るような目で見つめる。
六十に近いシワ深い顔立ちだった。
「我ら五人、伊豆の寺から参った者じゃが、そなたは?」
 才蔵は名乗らず言った。
「ゆえあって寺をたたもうと手伝ってはいたんだが、里子に出した童が
戻ってきてしまいましてな。しばらくは寺におくしかなくなった。ゆえ
にいま納屋を手直ししているところ」
「ふむ、左様か。ではこの先も寺はこのまま?」
 後ろの四人は編み笠で面体を隠したまま互いに顔を見合っている。
 才蔵はわずかにほくそ笑みながら語調を変えた。
「ま、てぇことになるでしょうな。ときに伊豆の寺とはどちら?」
「林景寺と申すが、それが?」
「ほうほう、あの樵どもの村にある?」
 先に立つシワ深い男の眼光が鋭くなって才蔵を睨みつけた。

 しかし才蔵はひるまない。
「拙者は流れ者ゆえ伊豆も知る地。林景寺のある村に世話になったこと
がありましてな。しかし、さても妙だ、あの寺では坊主どもが消えたと
聞き及んでおりますが」
 背後の四人が才蔵を囲むようにさっと左右に散ったのだが、先に立つ
老僧が手をかざして四人を制し、言うのだった。
「この寺の亡き住職は我らと同門、預けてあった物もあり、よもや次の
住職がいりようならばと参ったまで」
 才蔵は左右に散った者どもを涼しい眼光で抑えながら言った。
「それは先だって仏像そのほか持ち出されたはずでは? それにいま、
この寺は寺社奉行支配。面倒を起こされるとよろしくないかと・・ふふ
ふ」
「いいからそこをどけ! 斬るぞ!」
 しびれを切らした右横のひとりがすごみ、シャランと金輪を鳴らして
錫杖で身構えた。
「ほほう、斬るぞ? これまた妙だ、斬るぞとは武士の言いざま、坊主
とも思えませんな」
「問答無用!」
 先に立っていたひとりが一歩二歩と退いていき、両横と背後の四人が
丸く大きな坊主笠をむしるように剥ぎ取って、四人それぞれ中腰となっ
て錫杖を構える。四人ともが坊主頭となって僧を偽る姿であった。


十話 頭巾の女


 翌日もよく晴れた。秋といってもまだ長月(九月)のなかばをすぎた
ところ。晴れれば夏、陰れば秋。そのとき才蔵は着物をまくり上げてた
すき掛け。納屋から引っ張り出した腐りかけた木っ端や板を鋸でほどよ
く揃え薪(たきぎ)にしようとしていた。汗だくだった。
 昼下がりの刻限で、お香は童らを連れて買い出しに出ていた。
 寺を囲む浅い谷の草陰にお泉が潜み、顔を上げて笑っている。才蔵の
姿は泊めてもらう代わりにコキ使われる食い詰め浪人そのままだった。
才蔵もお泉の目には気づいていて、片目をつぶって『笑うな』と言って
いるようだった。

 しかしそのとき、お泉の姿が草下にすっと失せ、ほどなく丸太を二本
立てただけの寺の門に、紫頭巾で顔を覆った身なりのいい女が現れた。
 一見して四十代。派手ではなかったが濃い青花の質の良い着物をまと
い、名のある武家の奥様ふう。
 音もなく歩み寄って女が言った。
「もし」
「ああ、はいはい?」
「そなたは? お寺の方々はお留守でしょうや?」
 城中の女だと直感した。言葉の微妙な言い回し、それにほのかだが香
木の香りがする。
「あいにくいま買い出しに。拙者は流れ者なんですが、懐の寂しいこと
もあり数日厄介になっており。旅から旅で歩き疲れてしまいましてな」
「ああ、なるほど左様で」
 このときの才蔵の姿は明らかにサンピン。埃にまみれていた。訪ねて
来た女にも身構える様子はない。
「それで納屋の中を?」
 と言いながら女は板戸が開け放たれたままだった納屋に目をやる。
「まあ寝屋の恩とでも言いますか。庫裏が手狭で、和尚もいなくなった
ってことで、庫裏のものを納屋に移そうとしてましてね。お恥ずかしい
限りですが見ての通り埃まみれだ、はっはっは」
「庫裏が手狭と申しますと?」
「じつはつい昨日のこと、里子に出したはずの童が戻ってきてしまいま
してね。寺をたたむはずだったそうなんですが、まあしばらくはしょう
がないかと。ついては和尚の持ち物など納屋にしまおうってことでして。
平素は男手もなく力仕事はできませぬゆえ」

 そうして話しながらも女は納屋へとチラチラ目をやっている。それは
納屋を気にする素振り。才蔵は、ちょっと妙だと感じていた。
「乗りかかった船でござるよ、根無し草に根が生えるのも可笑しな話ゆ
え、それらこれらを片付けて拙者はおいとましようかと」
「左様ですか、ふふふ、お寺とそれから童らのこともよろしくお頼みい
たしますね」
 女は見事なまでに当たり障りなく接し、白い半紙にくるんだ小判を置
いて去って行く。そしてそのとき、背を向けながらもそれでもチラと納
屋を気にする素振り。はるばる訪ねていながら寺に入ろうともしない。
 秘密はやはり納屋にあるのか。
 香木のほのかな香りを残して女が去り行き、才蔵は草陰から顔を覗か
せたお泉に対して『尾けろ』と顎をしゃくって合図をし、直後に眉を上
げてわずかに左右に首を振る。『深追いはするな』ということなのだが、
お泉のほうではそのぐらいは承知。

「大奥か・・おそらくな」 と才蔵は、かすかな声で呟いた。

 仮に大奥だったとして、女は、その歳格好からもおそらく年寄り格の
者だろう。下っ端であるはずがないし、だとするとますます容易ならぬ
ことになる。大奥こそまさに将軍家のおそば者。秘密とはもしや徳川宗
家を揺るがしかねないものではないか? そしてそれは俺ごときが下手
に暴かず蓋をしておくべきではないか? それがお香や童らのためでは
ないか?
 才蔵は、納屋を見つめながらそう思う。

 半刻(およそ一時間)ほどして戻ったお香に半紙の包みを手渡した。
中には五両。受け取ったときから厚みでうかがえる金額だった。
 それでそのときお香は、女が訪ねて来るのが思うより少し早いと言っ
た。紀州を封じるため寺社奉行に手を回し、その後の様子を見に来たの
だろうと考える。何もかもが見透かせた。

 日が暮れて、いつも通りの穏やかな夜。今宵は仁吉がいない。さすが
にいきなり毎日では気が引けるのだろうと思うと可笑しくなる。
 深夜になって本堂にお泉が忍び込む。
「城だな?」
 お泉は言うまでもないと小首を傾げて微笑むだけ。
「石垣の先は追えないからね」
 そしてお泉は言う。
「赤城屋は止まったよ、紀州屋敷も静かなものさ」
「そうか、ご苦労だったな」
「それとこの寺、あたしが知る限り見張られてはいないというだけで、
それはあたしが知る限り」
 わかっている。お泉がいかに手練れの忍びであっても体はひとつ。
才蔵としても見張りがないなどとは思っていない。

「ときに、お泉よ」
 テコ棒やテコ鍵。お泉はもちろん知っていて、ちょっと考え込む素振
りをした。
「何を隠すかだよ。テコ鍵といっても筆尻を差す仕掛け書箱から、長い
丸太で小屋ごと動かすものまであってね」
「小屋ごと動かす?」
「そうだよ。床下にコロが仕込んであって、小屋ごと回したりズラした
りするんだけど、それには基礎ができてないとならない。ここの納屋は
地べたに石基礎だからそこまでの仕掛けじゃないだろうね。裏の墓所は
探ってみたけど何もなかった。よく調べたわけじゃないけど本堂それに
庫裏の下にもおそらく何もないだろう」
 隠してあるものが密書ぐらいなら壁や床や天井やと仕掛ける場所はど
うにでもなる。そのほかからくりにも様々ある。かなり手の込んだ仕掛
けだろうとお泉は言った。

 二日待てば仁吉が三人を連れ出してくれる。そのはずだったのだが、
翌日になってお花が熱を出して寝込んでしまった。寺に戻れたことでは
しゃぎすぎ、風邪をひいてしまったらしい。
 その夜も仁吉はやって来て、夕餉の席にいないお花のことを気にして
いた。
「あれま、熱をかい?」
 お香が苦笑してうなずいた。
「あの子って弱いから」
「なあに幼子のうちはそんなもんださ。浜町がなくなわけじゃねえから
な、いずれまた行こうじゃねえか」
 面白くないのは十吾。ふてくされている。
「ちぇっ、ったく」
 お香は十吾だけでも連れて行ってやってと言ったのだったが、十吾は
ふてくされていながらも、また一緒に行こうと言った。
「妹なんだぜ、おらだけじゃ可哀想ってもんじゃねえか」
「へっ、いっぱしの口ききやがって。はっはっは」
 仁吉に頭を手荒く撫でられて十吾ははねつけ、お香は笑って才蔵に言
うのだった。
「えらいだろ十吾って。こういう子なんだもん。お花のことが可愛くて
ならないの。ねえ十吾」

 童らを里子に出してしまったことを悔やむような面色。才蔵はちょっ
とうなずいて、座るお香の膝をぽんと叩いた。
「十吾は男よ、いつまでも童じゃねえ。お花のそばにいてやらねえと姉
ちゃんひとりがしょいこむことになっちまう。気配りのできる男ってこ
とじゃねえか」
 才蔵の言葉が嬉しかったのか、十吾はそっぽを向いてはいたが笑いを
噛み殺しているようだった。
 仁吉が言った。
「まったくですぜ、十吾もそうだけんど、面倒をみてるお香さんにも頭
がさがる思いでさ」
「だから惚れたんだもんなぁ仁吉は?」
「へい。えっえっ? あ、いやいや・・」
 なにげに応じ、とたんにしどろもどろの仁吉、赤くなるお香。その両
方を交互に見て、十吾は機嫌を直して笑って言った。
「けど兄ちゃんも嬉しいだろ?」
「どういうこってぃ?」
「お花はどうしたお花はどうしたって、お花をダシに毎晩来れら、でれ
でれと猫撫で声で。ひひひっ」
「おいてめえ・・ったく、クソ餓鬼が」
 と横目で睨みながら苦々しく笑ったものの、仁吉は言うのだった。
「おいらもそうでさ、山から海にやってきて寂しかったおいらに、いま
のおっ母さんはよくしてくれやしたし、おっ父にしてもそれはそうで、
よく船に乗っけてくれたもんでした。ただおいらには兄弟がいねえ。で
すからね、ここへ来ると嬉しいんでさ。十吾やお花を見ていると我が身
のことのようでたまらねえ。おいらは孤児じゃあねえけんど餓鬼の頃は
寂しくてね。ここで育ったみんなの心根がよっくわかる。あ?」
 ふと十吾に目をやると、わかったわかったとでも言うように小さな十
吾に膝をぽんぽん叩かれて、そんな姿にお香も笑った。
 十吾が言った。
「兄ちゃんなんぞ幸せなんだよ、親がいっぱいいるじゃねえか。山にい
る親にしたって、いっときたりと忘れちゃいねえや。おらたちみんなは
よ、そのことは考えないようにしてるんだ」
「うん、だよな、うん。十吾は強ぇえぜ、姉ちゃんだって支えてら」
「そりゃいかん」
「は? いかん?」
「姉ちゃんのことはおいらが支える、ぐれえのことが言えないもんか」

「てめえ、いっぺん殺すぞクソったれ!」
「だははは! くすぐったいだろ! だははは!」
 とっくみあいでじたばたしている仁吉と十吾に呆れ果て、才蔵とお香
はやさしい笑みを浮かべ合った。どっちも子供だ。
「いい奴だぜ仁吉は」
 小声で言って目を合わせると、お香は素直にうんとうなずいて、そん
なやりとりを横目に見た仁吉が、組み伏せてじたばたさせている十吾に
言った。
「どれ、お花みてこようか、可哀想によぉ」
「うんっ!」
 お花は奥の庫裏で寝ている。仁吉と十吾のふたりは若い父と子のよう
に連れだって奥へと消えた。

 蝋燭の明かりが灯る畳の小部屋。小さな布団にくるまって額に濡れ布
巾をのせられ、お花はよく眠っていた。
「ふふふ、可愛いなぁ」
「おらさぁ」
「おぅ?」
「お花の奴が戻って来たとき嬉しかったんだ。おらたち仲がよくてなぁ。
いなくなって寂しかった」
「うむ」
「兄ちゃん、ありがとな。兄ちゃんが見つけてくれなきゃ、どうなって
たかしれねえだろ。お花も大好きだぜ兄ちゃんのこと。今宵兄ちゃん来
るかなぁって、おらに訊くしよ」
「うん・・そうか・・うん」
 仁吉は額の布巾を取り上げて、傍らに置かれたタライの水で冷やして
絞り、そっと額にひろげてやる。熱は少し引いているようだったが、頬
が桃のように赤かった。

 十吾が言った。
「おらたちよ・・姉ちゃんとおらだけんど」
「うん?」
「甲斐に行こうって話してたんだ。おらはここが好きだけど、みんなを
外にやっちまってよ、残ったのはおらと姉ちゃん」
「そうだな」
「姉ちゃん辛そうだったからさ。おらの親も探してくれたけど見つから
んし、けど見つかれば、姉ちゃん独りになっちまうだろ。そんとき才蔵
さんが来てくれて、姉ちゃんどれほどほっとしたか。そいで次には兄ち
ゃんさ。お花を連れてきてくれたしよ。苦しかった姉ちゃんのことを仏
様はみててくれたなって思うんだ」

 仁吉は、わずか九つの十吾がとっくに大人だと感じていた。姉さんを
想い、お花や、いなくなった皆のことも想っている。
「十吾はもう弟だ・・うん、弟だ・・」
 十吾の小さな肩を抱く。細い蝋燭だけの薄闇が仁吉の潤む目を隠して
いた。


九話 寺の日々


 朝からお香のいない一日。十吾は戻って来た妹お花と一緒になって駆
け回っていて、才蔵ひとりが納屋の中をホウキで掃いて掃除をする。
 十吾は手伝うと言ったのだったがお花がちょろちょろしていてはうる
さくてしかたがない。遊ばせておくほうがはかどるというものだ。

 夕べのテコ鍵の話。才蔵は納屋の中を細かく見たが、確かにそんなよ
うなものはあっても丸い棒は埋め込まれてビクともしない。だいたいが、
それが造られてあるのが板壁の際であって、ここが動いて何が開くのか
と考えると違うと思うしかないものだった。
 本堂にも庫裏にもそんなようなものはなく、寺の裏手にわずかにある
墓所へ回ってみても、どう見たって林の中の墓であり、丸く大きな石が
置いてあるだけのもの。結局何も見つけられずにいたのだった。
 そうするうちにお香が戻り、そのとき納屋で埃だらけになっていた才
蔵を見て笑っただけ。

「参った参った、どんだけ放っといたのか、掃いても掃いてもキリがね
えや」
「すみません、お侍様にとんでもないことをさせちゃって」
「なあに、かまわねえって。そんでお花のことは?」
「はい、先様では気に入ってくれてもう一度ってことなんですけど、し
ばらく様子を見た方がいいだろうって。どうせまた逃げ出すに決まって
るし、少し待ってわかるようになってからでいいとおっしゃって」
「いい人みてえじゃねえか」
「それはもう。だからお花を預けたんだもん。仏様のような方々で、お
花が無事でよかったとそればかりをおっしゃって。で才蔵さん、何か見
つかりました? テコ鍵とか言うものとか?」
「いんや、さっぱりだ。夕べはもしやと思ったんだが、けっ、ダメだ」

 その言い方が可笑しかったらしく、お香は笑って、相変わらず境内で
遊ぶ兄弟へと目をやった。
「うるさかったでしょ? ずっとこうなんですよ、みんながいた頃には、
わーわー収拾がつかないぐらい」
「まあな、元気なのはいいが、さすがにちょいと疲れちまう。しかし十
吾は嬉しそうだぜ、お花お花ってそばを離れねえ」
「もともと仲がよかったもん。あの子だってじつは寂しくてならなかっ
た。さあ! じゃあ夕餉の支度にかかりますね」
 気分を変えるようにそう言って、お香はわーわーうるさい二人に目を
やった。
「こらふたりとも! 姉ちゃん夕餉の支度するから十吾はお風呂沸かし
てあげて! 才蔵さん埃まみれじゃない!」
「へーい」
「へーいじゃない! 才蔵さんが出たらお花をお風呂に入れてやるんだ
よ、わかったね!」
「はぁーい!」
 いい光景だと才蔵は思う。公儀の秘密だか何だか知らないが、それさ
えなければ素晴らしい寺なのに。そう思うと腹が立ってくる。

 才蔵が風呂から出て、入れ替わりに十吾とお花が入っているとき、本
堂に歩み寄る気配がした。じきに暗くなってくるそんな刻限だったのだ
が、仁吉がすっきりした顔で現れたのだ。風呂もすませたといった感じ。
「おぅ仁吉、やけに早ぇえな? それは?」
 仁吉はその手に大きな風呂敷包みを提げていた。
「親方がみんなにって。寿司ですよ」
「寿司?」
 風呂敷越しの外見にも二段に重ねられた大きな寿司折り。
「そんで夕餉に間に合うように持ってけって、おいらだけ今日はいいか
ら行って来いって言われやして」
 つい先刻、普請場であったことを仁吉は才蔵に告げた。才蔵は風呂敷
包みを受け取ると奥に向かって声を上げ、粗末な着物に前掛けをしたい
つもの姿でお香が飛び出してきたのだった。
 仁吉はお香を一目見ると、明らかに照れた面色でぺこりと頭を下げ、
お香はお香で、いかにもバツが悪そうにちょっとだけ頭を下げて応じて
いる。
「このお寿司、親方さんが?」
「そうなんだ、どうしてもって。おめえも一緒に喰って来いって、だか
らおいらも飯はまだ」
「わかったよ、支度してるからちょいと待ってて。ありがとね」
 妙な間合いだ。よそよそしくしたかと思えば、話したとたん、お香は
パッと笑って応じている。包みを手に奥へと消えたお香。

 そうした様子に才蔵は、ちょっと髷をいじって苦笑した。
「さては、おめえら・・ふふん、そういうことかい?」
「あ、いや、あやや」
「あややじゃねえ! てめえ惚れたな?」
 仁吉は、そのとき親方が妙なことを言い出したばっかりに、大工仲間
に冷やかされたと苦笑した。そして微笑みながら言う。
「さっき普請場で見かけたとき、おいら仕事をおっぽり出して叫んじま
った。お香さんはいいなぁって・・うん」
「うんとは何だ、言ったそばからてめえで納得するんじゃねえや、あっ
はっは!」
 今度こそダメだと才蔵は思った。江戸に惚れた男ができれば山奥なん
ぞに行きたがるはずもない。
 それでまた、風呂から出て来たお花が真っ赤な顔して仁吉を一目見る
なり、きゃーきゃー叫んで駆け寄ってくる。
「おぅ元気になったかいっ」
「うんっ! 兄ちゃん好きっ! きゃきゃきゃ!」
 仁吉の手を引いて本堂へと連れ込む妹に、十吾もぽかんと口を開けて
いて、才蔵と目を合わせて首を竦める素振りをする。
「ちぇっ、すっかりもうおなごだもんなぁ」
 いっぱしの口をきく。
「ふっふっふ、ぞっこんみてえだな。仁吉はもはや仏様みてえなもんだ
ろうぜ」
「これでまた甲斐に行けなくなっちまったぃ、ああクソっ」
 問題はそこだ。才蔵は頭を抱えていた。寺を一度空にして、お泉に探
らせたいところなのだが、どうにもうまくいかない。

 夕餉は寿司と、お香がこしらえた魚の煮付け、それに汁。寺では質素
を通していて寿司など喰えるものではなかったようだ。十吾もお花も目
を輝かせてむしゃぶりついた。
 そんな童らを見守る仁吉とお香の視線が、ときどきチラとぶつかって、
揃って微笑む。
 仁吉が言った。
「二、三日すればしらばく休みが入るんだ」
 お香が問うた。
「休みって?」
「あれだけデカくなると普請はウチだけでやってるわけじゃねえからな。
あるところができねえとこっちは動けねえってことがある。ウチはほら
親方の腕がいいから仕事が早ぇえのさ。それでおいら、久びさ浜町を覗
こうかと思ってよ」
「浜町なら海だろ?」
 と十吾が言い、まだよくわからないお花が海だ海だと騒ぎ出す。
「馬鹿か、てめえは。おらたちが行くわけじゃねえんだぞ」
 ちょっと寂しそうにするお花を察して、仁吉が言った。
「じゃあよ、連れてってやってもいいぜ。海っつうか川の出口なんだが
よ。おっ父の船で海に出てみるか?」
 童たちは船なんてはじめてだった。小さい二人は食べながらはしゃい
でいるし、それを見ているお香もまた面色が輝いている。
 寺での暮らしは安穏なのだが、寺だけに派手な遊びをしたことがない。

 才蔵は言った。
「泊まれるのか、おめえん家?」
「泊まれる泊まれる、三人ぐらい平気だよ。小っこくても網元だからな。
ちょっと遠いけんど朝発てば暗くなる前に着けるだろ」
 三人と聞いて、お香はまたうつむいて微笑んでいる。
「親方もさ・・あ・・」
 と言ったきり、チラとお香を見て声もない仁吉。
 才蔵が眉を上げて横目に見た。
「なんでぃなんでぃ、親方がどうしたって? ほれ言ってみろ」
「いや、だからその・・ここのことを気にしてくれて、おいらにもよく
してやって言ってくれてさ」
 なるほど、親方はお香を気に入った。それで仁吉の背を押している。
そういうことだろうと才蔵は思うのだった。
 人一倍気を使うお香が何かを言い出す前に、才蔵は勝手に決めてしま
う。
「ウシっ、じゃあ頼んだぜ、チビどもに海を見せてやってくれ。お香も
一緒に行きゃぁいい。寺は俺がみててやる」
「あ、はい、あたしが一緒でいいなら・・」
 赤くなるお香。ふと見ると仁吉も眸の向きがおどおどしている。

 これで二日の時ができる。それだけあれば充分だろうと考えた。


八話 なにげない一言


 仁吉がふたたびやってきたのは、その日の夕刻。しかし夕餉を終えた
刻限だった。
 ここから半里ほど先の普請場(建築現場)に飯場を建てて暮らしてい
て夕餉は皆とすませてきたと言った。その手には薄板でくるんだ餅菓子
を持っている。仁吉が来たとき、お香と十吾が膳を片付けだしていて、
小さなお花は、寺で着慣れた粗末な着物に着替えており、才蔵の膝で眠
ってしまっていたのだった。
 才蔵は笑って言った。
「飯の途中で寝ちまったのさ」
「へい。ふふふ、可愛らしいなぁ。疲れ果ててころんでしょ?」
「まったくだ。可哀想に道に迷って歩き回っていたんだろ」
 そう話しているとき奥から十吾が茶を運んでやってきて、ほどなくお
香もそばに座る。狭い本堂でもそれなりに広く、板の間の真ん中あたり
に膝を寄せ合うようになる。三か所に燭台が立っていて太い蝋燭がふら
ふらとした光を投げかけている。
「うめえ! この餅うめえや! 甘えぇ!」
 中に粒あんを入れた白い餅菓子。十吾はほおばって声を上げた

 仁吉は、こうしてあらためて見ると、背丈はそれほどでもなかったが
目のくりっとした若々しい男だった。着物ももちろん着替えていて、風
呂も済ませてきたらしくさっぱりしている。普請場の仕事で陽に焼けて、
いかにも大工といったふうだった。

 小さなお花は、出会ったばかりの才蔵の膝に頭をのせて体を丸くして
寝入っていた。嬉しそうに覗き込む仁吉に微笑んで、お香が言った。
「せっかくねぇ・・けど嬉しいよ。もう会えないと思ってたもん。明日
にでも行って先様と話してこなくちゃね。もう少し小さければよかった
んだろうけど。物心つく前なら」
「そりゃそうですぜ、ここが家だ、寂しくなるのはあたりまえ」
「そりゃそうでも飛び出すこたぁねえだろ。兄ちゃんのおかげで助かっ
たけど、人さらいにでもあったらてえへんだったんだ」
 と十吾は怒るように言い、しかしその十吾もまた戻って来た妹の寝顔
をまんざらでもない面色で覗き込む。
 仁吉が言った。
「おいらももらわれ子、じゃねえや、えーと、預かられ子?」
「なんだそら?」
 才蔵は笑った。
「おいらは越後の出なんで。越後っつっても海じゃねえ、ずっと山だ。
冬になると何もかもが雪に埋もれるそんな土地でさ。おいらがちょうど
そこの、えーと」
 十吾に目をやる仁吉に「十吾」だよとお香が言った。

「ちょうと十吾ぐらいんときに、おっ父の山が崩れちまった。三日続い
たひでえ嵐で雨が続いて崩れたんで。材木はもうだめだってことで暮ら
しが苦しい。そんでおいら、浜町で漁師をやってた縁者の家に預けられ
て育ったんで。そん人がおっ父代わりになってくれた」
「それがどうして大工になった?」
 と才蔵が言い、十吾は仁吉を見つめ、お香はなぜか目をそらせて聞い
ていた。
「あるときシケでおっ父の船が壊れちまったんでさ。新しい船を注文し、
そいでそんとき船大工ってもんをはじめて見た。ただの木や板が、鋸で
引かれ、カンナで削られ、ノミで穿たれ、濡らした板が火であぶられ曲
げられて、そんなふうに見る間に船になっていく。毎日通っておっ父の
船ができていくのを見てたんで」
「すげえと思って?」
 と十吾が訊いた。
「ああ、そうよ、職人てすげえもんだなってわくわくしちまってよ」
 そう言って仁吉は、ふたたび寝入ったお花に微笑み、さらに言った。

「それからですぜ、方々で普請されるお屋敷や町屋を見るたんびに大工
仕事が気になった。じきに十五って歳になって、おいら、おっ父に言っ
たんでさ、大工になりてえ。けど、それはいかんて言われちまって」
「漁師はどうするってかい?」
 仁吉はうなずきながら、チクチクうるさい十吾の頭をちょっと撫でた。
十吾はもういっぱしの口をきく。
「けどおいら、こう言ってやったんで。周りを見てみろ、江戸は普請場
だらけじゃねえか。大工が足りねえ。漁師なんぞ海が荒れたらおしめえ
なんだし、漁に出たって獲れるとは限らねえ。大工なら、いっちょまえ
になりゃぁ引っ張りだこだって。そしたらおっ父がいまの親方を探して
くれた。船大工の頭領とのつながりでよ。親方ん家は牛込でな、そんで
家を出て、そっからずっと飯場にいる。おいらいま二十二だけど、若頭
のひとつ下まで上がってきたんだ。親方んところには二十人ほど大工が
いるが五人ずつ分かれていてよ、それぞれ若頭が率いてる。いまの普請
場もウチからは十人出してやってるんで」
「もういっぱしだな?」
 才蔵が言うと仁吉はこくりとうなずいた。
「ときどきおっ父の顔を見に行き、ちょっとだけど酒も飲む。いまにな
っておっ父は大工にしてよかったって言ってますぜ」
「山にいるおっ父は?」
「前に会ったのはもう三年も前のこと。そっちはそっちでぴんぴんして
ますけどね、木が育つには時がかかる。いまだに雇われて樵の仕事やっ
てるんで。だからおいら・・」
 それでまた仁吉は死んだように眠るお花を見つめて微笑んだ。
「お花ちゃんの心根がよっくわかるんでさ」
 そのときお香がはじめて顔を上げて仁吉を見つめたのだった。
「おいらだって山からいきなり海へ来て、寂しくて寂しくて泣いたもん
で・・へい。だからな十吾も」
「おぅ、何でぃ?」
「お香姉さんみてえなお人がいてくれてよ、それがどんだけ幸せなこと
なんか・・うん、負けちゃいけねえ、うん・・」
 勝手に涙ぐむ仁吉。いい奴だ。お香も目を潤ませている。

「ちぇっ、湿っぽくていけねえや」
「生意気言うんじゃないよっ、ったくもう」
 ちょっとそっぽを向く十吾。お香に頭を小突かれて、舌を出して笑っ
ている。
「ところで、この寺たたむんで?」
 そう仁吉が言って、お香がようやく口を開いた。
「あたしらみんな孤児でね、ここの和尚さんに救われた身なんだけど、
和尚さんが亡くなって、新しい暮らしを探してみようかってことでね。
何人かいた子らにも里親を探してさ、残った十吾とふたり甲斐にでも行
こうって話してるところなのさ」
「甲斐に? うん、それもいいや、どこにいたって姉さんや十吾はその
まんま。いずれ出て行く家なんすから、早いか遅いかだけのこと」
 お香はちょっと笑って寝入ったお花の足を撫でた。お花はぴくりとも
動かない。
 お香は言った。
「それはそうなんだけどね、この子らの行き先を探したことが良かった
のやらって思ってさ。ほかにもいるんだ。いまごろ同じように泣いてる
だろうなって思うと苦しくなっちまう。才蔵さん、あたしね」

 言うことはわかっていた。しばらく様子をみようと思う。ほかに戻っ
てくる子がいるかも知れない。
「あたし明日ちょっと出て来ますね。先様も心配してるだろうし、どう
するか話してこなくっちゃ。こんなんじゃ、また戻ってくるに決まって
ますから」
 そのとき、才蔵が何かを言うより早く仁吉が言うのだった。
「姉さんは間違っちゃいませんぜ」
「え?」
「間違っちゃいません。ここで暮らすのもいいけんど、童はやっぱ親が
いるのがいちばんでさ。おいらには二人ずつおっ父とおっ母がいる。近
頃じゃそう思えるようになりやしたし、おいらを預けた実の親のことに
したって悪く思っちゃいませんから。姉さんひとりで抱えてると姉さん
がつぶれちまう。はじめはそりゃ寂しいだろうけんど、いつかわかる時
が来る。姉さんを恨んだりはしやせんから」
「だといいけど。なんだかねぇ、お花を見てても、あたしのしたことは
鬼の所業かと思っちまって。けどお花は運がいいよ、仁吉さんみたいな
いいお人に出会ってさ」
 そう言って、なぜかお香はちょっと恥ずかしそうに目を伏せた。

「造ってるのはお武家の屋敷なのかい?」
 湿っぽいのが嫌というより、聞いていると捨て子だった我が身を思っ
て泣きたくなる。十吾は話を変えようとした。十吾も大人びてきている
と才蔵は思う。辛いことに耐えてきた分、そこらの九つ坊主ではなかっ
た。
 仁吉は面色を明るくして言った。
「おうよ武家屋敷よ、そりゃおめえ、でっけえお屋敷でな、ウチのほか
にもたくさん大工が入ってらぁな」
「もうできるのかい?」
「いんや、まっだまだ、この先二年はかかるだろうぜ。それはすげえ屋
敷でな、どこぞのお殿様の家なんだ。それをおいらたち町人が造ってら。
ちょいと胸を張れる気分だぜ」
 仁吉はきらきらしている。顔立ちに幼さの残る若者なのだが、その手
はいかにも大工のゴツい手で、仕事の姿が思い描けた。才蔵はふと我が
手と見比べた。侍の手など刀を持つだけ。恥ずかしくなってくる。
「お武家の屋敷ってよ、いろいろあるんだろ?」
「は? いろいろって何がよ?」
「ほら、抜け穴とか、からくりとかが?」
 十吾がなにげに訊いたことで話が思わぬ方へひろがった。

「いやいや、ねえことはねえが口外無用。てか、そっちは藩のお抱え大
工の仕事でな、おいらたち町大工はそういうところは造らねえ。幕を引
いてこそこそやってら。おいらたちは知らん」
「でもあるんだろ、抜け穴とか?」
「だろうぜ、きっと。そりゃそうさ、隠しておきたいものだってあるだ
ろうしよ」
「なるほどな、そんなもんさ、どこの屋敷にもあるだろうぜ」
 才蔵が言うと仁吉はうなずいて、それから十吾に向かって言った。
「おいらがやった仕事でよ、ある町屋の造作なんだが、テコ棒とかテコ
鍵とか、そういうのは造ったな」
「テコ棒にテコ鍵? 何だそりゃ?」
 十吾との話を才蔵は違う耳で聞いていた。
「テコ棒はそのまんまよ、切り欠きなんぞに棒先を突っ込んでよいしょ
とやりゃぁ、普段閉じてる蓋が開くとかそういうもんでな」
「うん?」
「そんでテコ鍵ってえのはよ、たとえばほれ、そこの柱みてえな・・」
 と言って仁吉は本堂を支える二本の太い柱を指差した。

「ま、ここの造作にそんなもんはねえけんど、床の間の柱とかよ、そこ
の柱もそうだがツルツルした柱を磨き丸太ってえんだが、普段は丸棒な
んかを横に差したりしてあって、桟とか棚とか手すりみてえにしてある
わけよ。そんでイザって時にそいつを引っこ抜いて太さの同じ長い棒を
差してやると、よいしょとやりゃぁ柱が回って床が開くとか天井が開く
とかするわけさ」
「へええ、からくりなんだね?」
「おうよ。短けえ棒じゃ鬼がやっても動かねえ。けど長い棒ならたやす
く動かせるって寸法さ」
「落とし穴とか造ったんか? 落ちたら死ぬぞって? うひひっ」
「なもん造るかっ。あのな坊主、忍び屋敷じゃねえんだぞ。忍び屋敷じ
ゃねえけんど、そいつをテコ鍵って言ってな、それだって大工の技よ。
そのほか隠し梯子に隠し階段、ドンデン返し。町屋にだってそんぐらい
の仕掛けはあらぁな。お宝なんぞ隠しておかねえと盗まれちまう」

 才蔵の面色が真顔に変わっていると、ふと目をやったお香は感じた。
 しかし才蔵は黙って聞いているだけだった。この若者を巻き込むこと
になってしまう。

 そしてまた翌日だった。朝いちばんで小石川に出かけたお香は、夕餉
の支度もあって買い出しを済ませ、野菜をカゴに入れた姿で大きな普請
場の前を通りがかった。土塀などはまだなくて杭を打って縄で仕切り、
広々とした更地に基礎ができて建て込みがはじまっている。敷地の端か
ら端までを歩くだけでも大変なほどのお屋敷だった。
「姉さん! お香姉さん!」
 ねじり鉢巻きをした仁吉が駆け寄ってくる。空はすっきり晴れていて、
まるで光の中から飛び出してくるようだった。
「ここ?」
「そうそう、どうでぃ、すげえお屋敷だろ?」
 と立ち話をしているところへ五十年配の大きな男が歩み寄る。それが
仁吉の親方だった。背は高いし体もゴツい鬼のような男である。
「おう仁よ! そちらは?」
「へい、昨日の童の・・ほら寺のお方でして」
「そうかいそうかい。けどよかったぜ、うずくまってる童を仁の奴が見
つけてな、わんわん泣くし、みんなでおろおろしちまった」
 お香は身を折って頭を下げ、夕べも訪ねてくれてお花を可愛がってく
れたと告げた。親方は堂々と笑い、仁吉の背中をバシンと叩いた。
「けど何だ、こりゃまたべっぴんさんじゃねえかっ、なあ仁よ」
「あ、親方・・そんなことをいま」
 それでもかまわず親方は、お香に面と向かって言うのだった。
「いえね、仁の奴にゃぁ、いい人なんていませんわ。ああ寂しい。これ
からもよろしくお頼みしてえぐれぇです・・ってか? あっはっは!」
「ちょちょ親方ぁ! ったく何を・・ああん、もうっ!」
 親方はそっくり返って大笑いし、仁吉をお香に向かって押しやって去
って行く。
 お香は真っ赤になってうつむいていた。このときお香は赤茶縞のよそ
行きの着物を着て、ほかの大工たちも横目にするほど目立っていた。

「よ、よかったら今宵も・・お花だって喜ぶだろうし」
 それだけ言ってお香は背を向け、駆け出した。


七話 朝靄の剣


「紀州がそれで手を引くのか・・」
 とお泉が言って、才蔵はちょっと眉を上げるも、うなずいた。
「赤城屋とのつながりなど隠せるものじゃねえからな。ゆえに赤城屋は
退散した。しかし俺が気にするのはそこじゃねえ。寺の秘密とは公儀が
外に対して隠しておきたいもの。そんなものを手にできれば紀州にとっ
てはまたとない攻め手となろう。しかるにやり方が手ぬるい。残された
女子供を相手に取り上げることもできただろうに、なぜそうしないのか」
「よもや知らないなんてことは?」
 才蔵は笑ってうなずく。
「それだな、おそらく。当初ここに目配り処をつくろうという話は公儀
の役人どもの間であったのだろう。昨年には正雪の乱もあり弛んだタガ
を締め直そう。しかしその程度のことは紀州に筒抜けよ。ゆえに先に奪
ってしまいたい」
「そしてその紀州の動きを知った殿上人が寺社奉行を動かした?」
「そういうことだ。こんなボロ寺、取り壊されるのは明白ゆえな。紀州
と言えば根来忍び。寺は見張られているとみるべきだ。そこで公儀とし
ては紀州を刺激せぬよう木っ端役人の動きをいっとき止めて、逆に上の
寺社奉行を動かした・・ってことなんだが、であるなら、寺に入った賊
は何者かってことになる。根来衆ではあるまいと、じつはそこを考えて
いたんだが、お泉の手柄で見当がついた」
「坊主どもってことだよね」
「盗まれたものは仏像、掛け軸、書箱そのほか和尚の持ち物。本堂も庫
裏も納屋も物色されているわりには探し方が腑に落ちん。忍びであれば
からくりなどは見抜くだろうし盗賊に見せかけるなら小判など持ち去る
はず。書き付けか、もしや錠前の鍵のようなものではなかったか」
「密書であるとか?」
「そういうことだ。世に出れば将軍家が危うくなるような。そして、そ
ういうものであるとしたら徳川の身内に対しても知られたくはねえだろ
うから下手にじたばたしたくない」

「探してみようか?」
 お泉は目を輝かせたが、才蔵はうなずくわけでもなく小首を傾げて微
笑むだけ。
「ここはやはりお香らふたりを甲斐に出そう。寺をたたむ素振りをする。
俺たちは何も知らない。あけっぴろげに片付けのフリをしたほうが勘ぐ
られまい。坊主どもは必ずまた来る」
 お泉が言った。
「次の住職を送り込んでしまえばいいものを」
「それができない訳あるのよ。よもや正雪の乱にかかわった者どもであ
れば追われているってこともある。坊主どもは十数人いたそうだが、お
そらく散っているだろうぜ」
 才蔵はこう考えた。
 この寺の和尚、竜星は、ずいぶん前にやってきた。その頃は伊豆とも
つなぎをとっていた。孤児たちを引き取るようになり、いつ頃からか謎
の女が金を届けるようになる。あるいは和尚が隠されたものを知ったが
ゆえに金が届くようになったのかと。

「出方をみるしかあるまい。お香らを逃がすのが先よ」

 その夜の明け方。薄靄にかすむ境内に青鞘を抜き放たれた白刃が舞っ
ていた。着物の上をはだけ、刃と語らう、舞いのごとき剣さばき。切っ
先が天に向けられ、半月を描くように斜め下に流れ下った剣先が、チャ
と鍔を鳴らして切り替えされて、次には横に半月を描く。
 着物をはだけた才蔵の腹は締まり、胸板は厚く、男にしては白い肌か
ら気迫が湯気となって揺らいでいた。
 わずかに開けられた本堂の板戸の隙間から、まだ寝間着姿のお香が板
戸になかば隠れるように見つめている。才蔵と出会ってよりはじめて見
る武者の姿。心地よい震えのような想いが衝き上げてくるのだった。

 シャァ!

 かすかな気合いが耳に届き、刹那、宙を十文字に切り裂くような白刃
の舞いを見せて、剣はチーンと鍔鳴りの音をさせて鞘におさまる。
 凜々しい姿とは思うものの、剣はやはり恐ろしい。身近にいてくれる
やさしい男ではあっても才蔵は武士なのだと、不思議に心地よい距離感
を悟るお香だった。
 剣をおさめて着物を正し、才蔵は本堂へと歩み寄る。お香が微笑んで
顔を見せた。
「おぅ、すまぬ、起こしちまったか?」
「いいえ、起きる刻限ですので。じつは夕べ」
「うむ?」
 本堂への踏み段に座る才蔵。お香が二段ほど降りて横に座った。
「十吾とよく話したんですけど、やはり一度ここを出ようかと」
「そう決めたのなら思うがままよ、十吾とて嬉しかろう?」
「そうなんです、才蔵さんから甲斐のことを聞いて、あの子はここしか
知りませんから違う土地へ行ってみたいってきかないんです。しばらく
出て、それでどうなるか。お寺への想いだけは忘れませんが、きらきら
してる十吾の目を見ていると、弟が喜ぶならいいかと思って」
「そうだな、それがよかろう。俺もそろそろ。根無し草に根が生えちま
う」
 お香がちょっと笑って立ち上がり、才蔵が言う。
「いずれ様子を見に行くぜ。江戸はもういい、俺には向かぬ」
 お香はひときわ笑って小走りに奥へと消えた。

 夜が明けて、メザシと汁、それに夕べの残りの野菜の炊き合わせで朝
餉をすませ、それから三人で寺の片付けにかかっていた。本堂や庫裏は
少しずつだが片付けは進んでいて、才蔵がいるうちに男手がなければで
きない納屋の始末をはじめていた。
「馬小屋だったようだな?」
「そう聞いたことがあります。昔は板屋根だったそうなんですが腐って
しまって、それでワラ葺きにして納屋にしたんだと。このへんはちょっ
と前まで畑や草原。馬がないと買い出しにもいけないところだったそう
なんです」
 寺と庫裏は高床続きであったが、庫裏の中の厨と厠(かわや・便所)、
そしてもちろん納屋の中は地べたにじかに建っている。かつて馬小屋だ
った納屋は思ったよりも広く、小屋の半分ほどを板で仕切って馬をつな
ぐ丸太が横にはしっている。残りの半分が土間であり、いまでは使われ
ていない農具のようなもの、板や棒の切れっ端、小さな童らに行水させ
た大きなタライ、ワラ縄の束、腐っていそうな馬の鞍まで、どれもこれ
も雪のような埃をかぶって置かれてあった。
「ここも荒らされてはいたんだろ?」
「はい少しは。けどこんなところを探ったってしょうがないと思ったの
か、そんなに手はつけてなかったようですよ」
「なるほど。まあそうだろうな、触るだけで痒くなりそうだぜ」
 とは言ったものの、だからこそ怪しいとも言える。

 ともあれ中のゴタ物を外に積み上げ中を空にしてみると、ますます納
屋は広くなる。馬一頭に馬具をおさめて、なおかつ納屋として使えそう
だ。畳にすれば八畳相当、もっとあるかと思われた。
 小さな十吾ひとりが宝探しのようなもの。はしゃぎ回って邪魔をして
いる。お香は手ぬぐいで姐さんかぶり、才蔵は着物をまくり上げてたす
き掛け。何かを持ち出して放り出すだけで煙のような埃が舞い上がる。
「うわっ、たまらん、俺には忍びは向かんと思い知る」
「なんでだよ」
 と十吾が言って、綿埃を投げつけて笑っている。
「屋根裏に潜むなどまっぴらごめんてことじゃねえか、あっはっは」

 しかし、そんな様子を坂下の草陰に潜んで見守る目のあることに、こ
のとき誰も気づかなかった。粗末な百姓姿の男がひとり。目の厳しいが
っしりした体つき。男はしばし様子を探り、にやと笑うと草陰へと消え
ていった。

 夕刻前まで片付けて、才蔵は十吾とふたり風呂の焚き口に火を入れる。
お香は姉さんかぶりを脱いではたき、もうもうと舞い上がる埃に顔をそ
むけながら笑う。
 そしてちょうどそんなとき、寺の前から、妙な若造が小さな娘を連れ
て上がってくる。
「ここかい?」
「うん、ここぉ!」
 小さな娘は五つかそこら。赤い花柄の着物を着せられ可愛い姿にされ
ていた。
「わあっ、お姉ちゃんだぁ! お姉ちゃぁん!」
「花? お花じゃないか! どうしておまえが・・」
 何だ何だと才蔵が立ち上がると、そばにいた十吾が口を尖らせて言う
のだった。
「お花ってぇんだ。歳は五つ。せっかく姉ちゃんが親を探してきたのに
よ、逃げてきたに決まってらぁ」

 そしてお花の手を引いた若い男が、駆け寄るお香に向かって声高に言
う。
「おい、どういうこってぃ! ずっと先の軒下にうずくまってるからよ、
訊いたらここだって言うじゃねえか。探し回って連れてきてやったんだ。
どういう了見か知らねえけどよ、こんな童を置き去りにしたってか!」
 落ち着き先を見つけてもらったまではよかったが、寂しくなって飛び
出した。小石川の料理屋だと言う。小石川といえば遠い、迷うのもしか
たがなかった。おそらく朝から歩き回っていたのだろう。

 事情を話すと男は落ち着いた。町人というより大工の若い衆か、それ
でもなければ魚屋のように、着物をまくり上げて尻まで出して、きっぷ
がいい。二十歳そこそこの若者だった。
「寺をたたむ? そんで里親を? こいつ孤児なんで?」
 お香に腰を低く謝られ、事情を聞くうちに若者は涙ぐんでしまってい
る。いかにも江戸っ子。胸のすく男である。
 可愛い姿をさせられたお花だったが、ここにいたいと言ってお香の胸
で泣きじゃくった。

 しかし参ったと才蔵は思う。これでまた甲斐行きがのびるだろう。童
が増えれば襲われたとき守りに困ることもある。
「やれやれ、根無し草に根が生える・・ちぇ」
 苦笑するしかない才蔵だった。
 お花を抱いて庫裏へと歩むお香と入れ替わりに、才蔵が歩み寄る。
「すまなかったな若いの、礼を言うぜ」
「お武家さんは?」
「見てのとおりで手伝いよ。ちょっとゆかりの者でな」
「へえ左様で。おら仁吉(じんきち)ってえもんで」
「仁吉か」
「へい、この先でお屋敷造ってますわ」
「すると大工?」
「左様で。十五んときからやって、いま二十二、これでもいっぱしなん
ですぜ」
 大工・・だとすればからくりに気づいてくれるかも。そう考えた才蔵
だった。
「俺は才蔵、よろしくな」
「とんでもありやせん、こちらこそってやつですぜ。けどよかった、材
木担いで外に出たら軒下で丸くなってやがって。迷子かとも思ったんす
が放っとけなくて」
「恩人だな、ありがとよ」
「あ、じゃあおらはこれで、仕事がありますんで」
「おぅ、よければ飯でも食いに来い、お花も喜ぶだろう」
「左様ですかね?」
「喜ぶさ。お香さんにしたって手を合わせてるに決まってる」
 若者はこくりこくりとうなずいて、頭を下げて帰って行った。

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