女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

カテゴリ: 流れ才蔵


八話(終話) 生きる力


 捕らえた女三人は才蔵以外の皆が見守る中で裸にされて体が調べ
られ、薄い寝間着だけを与えられて縄掛けされて、千代が住む家の
土間に並んで座らされた。縄はお泉が縛る。いかな忍びであっても
縄抜けできない地獄縛り。才蔵は何も言わず、傍らにいて見守って
いる。

 一段高い板の間に座り三人を見下ろして千代が言う。
「おまえたちの身の上など訊かないよ、どうでもいい。どういうこ
とだかそれだけを隠さず言うことだね」
 敵三人の中で年長であり、その頭格とも言える琴という女は唇を
固く結んでそっぽを向き、女とも思えない大柄な峰はうなだれて声
も出せない。もうひとりの若い女、奈津が顔を上げて才蔵をチラと
見て、才蔵は隠すなよと言うように目でうなずく。
 奈津はきっちり正座をしていて背筋も伸び、まっすぐ千代を見上
げて言った。

「江戸の両国に春日屋(はるひや)という口入れ屋があり、あたし
らのような女どもを集めているんです。元はくノ一だったり遊女だ
ったりそんな女ばかりをです。それなりの女なら誰でもいい。春日
屋は女を扱う口入れ屋で、女衒どもが売りに来る娘を買って、そこ
らの女郎屋だとか料理屋だとか、ものによっては武家屋敷の女中だ
とか、そういうところに送り込んでは見聞きさせてる」
「見聞きとは?」
「いろいろ探らせているようです。それであたしらのような、それ
とは別に雇った者どもを使って話を伝える。娘らはくノ一のような
もの、あたしらはつなぎとして」
「なぜ我らを襲った?」
「娘はまだまだ欲しいのに奪われてはたまらない。追っ払って来い
と言われ、剣の使える峰と、元はくノ一だった琴が選ばれたんです。
あたしは違う。身が軽くて足が速い。張り番向きだと言われ」
 千代は、毒の苦しみからようやく解放された楓にちょっと視線を
やって、それから言った。

「村雨兄弟というのはでっち上げだね?」
 その問いには才蔵も目を上げて奈津を見る。
「いいえ、その春日屋にいる用心棒のような侍の兄弟で、よくは知
らないけど春日屋の主とは同郷らしい。主と言ってもまだ若い。四
十前の男ですけど。その村雨兄弟に駿河の海の話をよく聞かされた。
富士が綺麗で伊豆の湯も格別だとか、そういうふうに」

 駿河・・そういった連中が江戸を探らせている。由井正雪一派の
残党とみて間違いないだろうと確信した才蔵だった。

 さらに奈津が言う。
「それで、もっともらしく脅せるだろうからって、そう名乗ったん
です」
 千代が言う。
「おまえは見張りだけなのか? 手を出しちゃいないんだね?」
 奈津はうなずくと言うのだった。
「けどそれは一緒のこと。斬ったも同じ・・」
 そのとき横から峰という大女が口を挟む。
「あたしだってまさかと思ったんだ。琴に斬れって言われ、ひとり
を斬った。けど嫌で、次からは琴が毒刃で・・琴が我らに指図した
んだ」
 千代は黙って聞いていて、しかしその目は奈津を見つめて動かな
い。
 才蔵はお泉に目配せをして立ち上がり、揃って家を出ようとした。
「こいつらのことは任せるぜ。責めるなり殺るなり、どうにでもす
りゃぁいい」

 そう言い放つ才蔵に、そのとき真っ先に目を向けたのは楓だった。
『おまえならどうする?』とでも言うように眉を上げる才蔵。
 楓は、そんな才蔵に視線を残したまま言いはじめ、顔を振って千
代に視線を移していった。
「そんなことしてどうなるのさ。みんなの手が汚れるだけ。この部
落が穢れるだけ。そんならいっそお役人にでも引き渡せばいいんだ
ろうけど、きっと死罪さ」
 それきり誰も声を上げない。
 楓はちょっと才蔵に目をやって、才蔵は微笑んで深くうなずいた。
 役人には渡せない理由がある。銀である。部落に調べが来れば隠
し通せるものではない。
 千代は奈津だけを見下ろして考える素振りをすると、女たちに言
うのだった。
「そっちのふたりは連れて行け。どっかにつないでおくんだね。奈
津はお待ち」
 女たちにふたりずつ左右に付かれて連れ去られる琴と峰。そして
それと一緒に家を出た才蔵とお泉。
 奈津ひとりを残して、残る女たちに千代は言う。
「楓の心根は嬉しいね。けどね楓、罪は償うもの。許せる話じゃな
いんだよ」
 それから奈津を見据えて千代は言う。
「血の涙を流して悔いるまで、裸にして打ち据えてやりな」
 皆の目にすでに敵意は失せていた。楓の言葉が心に響いていたか
らだ。

 奈津は泣き、素直に立って自ら着物を脱ぎ去った。
「もういい! そんなの嫌だ!」
 楓が歩み寄り、渾身の力で奈津の頬を横殴りにひっぱたく。しな
だれ崩れる奈津。若く白い綺麗な体をしている。
 奈津は裸身を折って小さくたたみ、ただ黙り、ただ泣きながら楓
の足下に土下座した。
 千代は嬉しい。斬られて毒に苦しんだ楓自身が心底許さない限り
皆は奈津を許せない。千代は、皆一様に穏やかな女たちを見渡して、
ほっと胸を撫でていた。
 しかし一方、峰と琴をどうするか。罪は重く、峰はすでに言い逃
れを考えて、琴は琴でさすがくノ一、死を覚悟しているのだろう。
 そちらはあたしが決めなければならないと千代は腹をくくってい
た。

 外に出た才蔵と、ようやく梓からお泉に戻れたお泉は、自分の家
に入って向き合った。
「ご苦労だったな」
「でもなかったよ、漁なんてはじめてだったし梓の気分も味わった」
 そう言いながらお泉は才蔵の胸に寄り添って、唇が重なった。
「またしても江戸だね。行くつもりなんだろ?」
「ちぇっ、なんてこった・・」
 可笑しくてならないお泉。戻るのなら草源寺を覗いてみようと考
えて、むしろ楽しみ。笑いながら才蔵の尻をひっぱたく。
「いや、矢文でいいだろうぜ」
「矢文?」
「これより手を出すなら話は深みに行き着くぞ、江城(こうじょう・
江戸城)より・・ってのはどうだ」
「ふふふ、なるほどね。そしてそれをあたしに射れって?」
「それも違う、ともに行こう。ともに行って寺でも覗き、ふたたび
ここに戻って来よう。おめえを独りにしたくねえ。ほんの数日のこ
とじゃねえか」
「才蔵・・」
 お泉は嬉しい。見つめていると心が溶ける。
「ま、ちょいと風呂にするか」
「・・ったく馬鹿なんだから」

 三人の女どもをどうするか。いますぐ消えるわけにはいかないと
才蔵は思う。大海に洗われて綺麗になった女たちを汚したくない。
そうした才蔵の想いはお泉ももちろんわかっている。
 そして揃って家を出て、外は風もない春の陽気。女たちが外に出
て思い思いに陽射しを浴びる。昼間近の刻限で、これからでは漁に
は遅い。

 そこで才蔵は目を疑った。楓が奈津とふたりで、ひろげられて干
されてあった漁網のそばに座っていた。これにはお泉も目を見張る。
 楓が目を泣き腫らした奈津の肩を抱いていたからだ。
 奈津は冬の着物を与えられていて、長い黒髪をばっさり切って落
としていた。丸坊主が伸びたような妙な頭だ。償いの証だろう。
「おぅ楓、おめえらすでにそうなったか?」
 楓は笑い、笑えない奈津の肩を揺すっている。
「髪を剃るって言ったんだけど、それならってあたしが斬った。髪
なんてすぐ伸びる。あたしの女中にしろってお頭が言うんだよ」
「うんうん、おめえのことだ、さぞかし可愛がってやるんだろうが、
しかし楓よ」
「うん・・はい?」
 楓は才蔵の言いたいことなどわかっている。
「償いはさせねえとならねえぞ」
「言うと思った。わかってるし奈津だってそのつもり。言わなくた
って奈津がいちばんわかってる」
 奈津はまた涙を溜めてうなだれていた。楓は笑い、そんな奈津の
肩を強く抱く。

「残りのふたりは?」
 と、お泉が訊くと、それには楓の目が曇る。
「お頭が決めるって。しばらくは柱にでもつないでおくって。考え
るって言ってるんだ」
 才蔵はうなずくと楓に言った。
「明日からちょいと江戸へ発つ。じきに戻るから。・・おい奈津」
「はい」
 名を呼ばれ涙目で見上げる奈津。
「生き直すんだぜ」
 奈津は幾度も幾度もうなずいて、声を上げて泣いていた。

 そして翌朝、ふたり揃って江戸へと旅立ち、海辺の部落へ戻った
ときには睦月(一月)の初旬。家々の背の崖の緑に白く雪がのって
いた。しかし浜にも家の屋根にも雪はない。
 歩み寄るふたりの姿を最初に見つけたのはお邦だった。漁の帰り。
寒くはないといっても腿まで出した海女の姿。お邦は若い。
「あっ才蔵さん! お泉さんも! わぁぁーっ!」
「ちぇっ、よりによってうるせえのにめっかった」
 駆け寄って来るお邦の後ろに、海女姿の梓もいたが、梓は長綿入
れを羽織っている。しばらく見ない間に梓はまた陽に焼けて、元通
りの黒い梓に戻っていた。
「ねえ抱いてっ」
 駆け寄って才蔵の胸に飛び込むお邦。お泉は一歩退いて呆れて笑
う。才蔵はそんなお邦の尻をひっぱたき、そして言った。
「奈津はどうでぃ?」
「もうすっかり。やさしい姉様だし懸命に働いてる。海女を教えた
ら水を飲んで死にそうになってるし、あははは!」
「よかったな」
「うん、よかったぁ。あたし楓の姉様に惚れちゃったもんっ」
 額を小突かれ舌を出して笑うお邦。それからは子犬のように才蔵
にまつわりついて家々の並ぶ部落へと戻る。

 部落へ戻ると、才蔵とお泉の家がそのままそっと残してあった。
 家に入ってほどなくして、板戸が叩かれ、千代が明るい顔で覗く
のだった。家に中に三人だけ。千代は言った。
「あのふたり」
「うむ?」
「いろいろ考えたんだけど、やっぱりね、その罰は免れない」
 才蔵はちょっとうなずき、そして千代が言う。
「あれから数日、泣き叫ぶまで打ち据えて、ふたりともズタズタで。
そしたら皆が言うんだよ、もういい死んじゃうって。生かそうって。
ふたりとも出て行った。江戸にも戻りたくない。どっか遠くで暮ら
してみるって。どう考えてもここには置けない。その方がいいと思
ったし」
 銀の秘密を知られてからでは出せなくなる。
 才蔵は言う。
「そっから先はあいつら次第さ」
 千代はちょっと笑い、面色を変えて言うのだった。
「それでね、才蔵さんもお泉さんも、ちょっと聞いて欲しいんだ」
 ふたりで千代を見た。
「皆が言うんだよ、剣とか棒を習いたいって。部落は自分らで守り
たいって言うからさ」
 才蔵は小指の爪で耳の裏を掻きながら言う。
「根無し草に根が生えら・・なんてこった」
 千代はすまなそうに頭を下げると家を出た。

 ふたりになった家の中。

「ま、てことらしい。頼んだぜ」
 お泉の尻を撫でる才蔵。
「あたしが教えるってかい?」
「俺が斬ったら女どもが裸になっちまう」


続・流れ才蔵、完。


七話 虚しい剣


 その夜、才蔵とお泉は女たちが皆で囲む夕餉の席に加わった。若
い侍がひとりいる。それだけで話がはずみ、女たちは一様に目を輝
かせていたのだったが、夕餉が済んで才蔵は皆に言った。
「ちょいと聞いてほしいんだが」
 皆は静まり才蔵に目が集まった。
「明日の朝にでも俺とこっちのお泉とでここを出る」
 と言って才蔵は、お泉に化けた梓の膝をぽんとやった。
「得体の知れねえ客人がいたんでは敵は動かねえ。そっちのお泉を
残して一度出る。見張りがいるとしても夜中ではあるまい。江戸な
らともかく、町明かりひとつねえ夜の間は動かねえでは見張る意味
がないからな。雲が覆えば黒い闇よ、見張ったところで見渡せまい」
 見張るといってもその場所は限られる。家々の背後にそそり立つ
岩崖の肩のあたり、松林、そしてそう遠くはない岩場の猟場へと歩
く道すがら。海女たちの朝は早く、夕刻以降は外に出ない。

 お泉と梓が入れ替わってより、お泉は女たちの中にいて、あえて
ひとりになる隙をつくってきた。にもかかわらず手を出さない。見
張りは手ぬるい攻めは甘いと、腑に落ちないことばかり。
 才蔵は言う。
「おそらくこういうこったろう。女ばかりの相手に対してタカをく
くり、追っ払って来いってことで送られた者どもよ。女衒から娘を
横取りされちゃぁたまらねえ。その程度の敵だということ。とすり
ゃぁ数もたいしたことねえだろうし多勢を相手に襲いかかってこれ
ねえわけだ。得体の知れない侍がいてはなおさらそうさ。明日も空
は悪そうだ。出て行く姿を見せつけて夜中にこそっと戻って来る。
皆はいつも通りにしてることだな」
「明日も漁はできないだろうね」
 と千代が言った。海が荒れる。
 才蔵は言う。
「そんで夜中に戻った俺は姿を見せずに隠れてら。それで次に日和
がいいとき敵は必ず動くだろう。おめえらを追っ払うのは早いほう
がいいからな」

 そしてその二日後だった。数日空を覆っていた雲が消え、少し風
はあるものの風はぬるく陽射しが眩しい。
 女たちの半数を家に残して半数が漁に出る。梓に化けたお泉は、
皆と一度猟場へ行きかけ、途中でひとりだけ引き返す。何かを忘れ
た間抜けと敵の目には映っただろう。
 岩場から引き返して松林に踏み込んですぐのこと、生い茂る松の
幹の陰からふたつの陰が滲み出た。ひとりは大柄で、薄汚れた茶色
の着物に緑がかった濃い茶色の袴と、浪人の成り。もうひとりはく
らべるまでもなく小柄で、茶渋色の生地に柿茶色の枯れ葉の染め分
け。森に潜むときの迷彩となる忍び装束。どちらもが頭巾で顔を隠
している。
 しかしお泉は、もうひとり、少し離れた松の木の上に潜む忍びの
気配を察していた。

 そのときお泉は仕込み杖ではなく、切っ先が三つ叉に分かれた船
突きの銛(もり)を手にしていた。銛には海女が海の中で用いる長
さ三尺(およそ1m)ほどの短なものと、船の上から突く長さ六尺
(およそ1.8m)ほどの長いものがあって、お泉が手にしたのは
長い銛。真似事の海女では海の中の漁などできない。
 船突き銛は棒が太く、ちょうど僧が持つ錫杖のようでもある。

「待ちな女、死んでもらうよ」

 木陰から現れて行く手を遮る小柄な忍びが言う。もちろん女の声。
くノ一が剣を抜き、浪人姿の大男も腰の剣に手をかけた。
 しかし梓に化けたお泉は動じない。
「出たね村雨兄弟とやら」
 にやりと笑い、眼光を鋭くすると、お泉は手にした長尺の銛を頭
上に掲げてくるりと回し、中段に降ろし、切っ先のない棒尻の側を
敵に突きつけて中腰となって身構えた。
 その様子に敵ふたりは顔を見合わせ、大男がいよいよ剣を抜く。
くノ一の剣は反りのない短な忍び刀、男の剣は反りのある武士の剣。
 そんなふたりに対してひるまないお泉。
 ヒュゥーイ!
 お泉の口笛。お泉は口笛を吹きながらも構えを崩さず、敵を逃が
さない間合いを取る。
 口笛を合図に、家の側から才蔵と女たち、海の側から漁に出る素
振りをした女たちが手に手に銛や長ナタを握り締めて駆け寄って周
りを囲んだ。

 お泉は海の側から駆け寄った女たち六人に言う。
「手出しは無用だよ、逃がさないよう囲むんだ」
「おおぅ!」
 それからお泉は、怒りのこもる眼光で敵二人を睨みつける。
「どうした、臆したか? 来ないならあたしから行くよ!」
 刹那、中腰に構えた棒尻で小柄な相手を突く突く突く! しかし
敵も身軽で飛んで転がり避けながら踏み込んで斬りつける。毒の刃
であることが木の汁を塗ったような赤茶けた刀身からもうかがえた。
 斬り込まれ突き込まれる剣先を、長尺の棒が振られて防ぎきり、
次の瞬間攻めに転じる。横から斬りつけてくる大男の刃をも撥ねつ
けて、お泉の棒が宙で回され打ち付ける。
「セイヤァァーッ!」
 お泉の気合い。すさまじい棒の攻めと防御。剣を持つふたりが蹴
散らされ、左右に分かれてお泉と向き合う。

 しかし妙だ。それなりではあっても呆れるほど弱いと才蔵は感じ
ていた。敵はどちらもお泉の敵ではない。とりわけ浪人姿の大男。
太刀筋に冴えがない。形だけ。おかしいと才蔵は考えた。

「・・強い」
「うん・・すげぇや・・」
 才蔵の側にいてお泉の豹変を見つめる楓とお邦が思わず言った。
くノ一だった千代さえも、これほどのくノ一を見たことがない。

「ふむ、さて俺の出番か・・」
 才蔵がゆらりと動いた。大男の側へと歩み寄り、青鞘から白刃を
抜き去った。しかし草源寺で見せた鬼神の剣ではなかった。切っ先
を下段に降ろした静かな構え。
「おいデカいの、てめえの相手は俺だ、かかってこい」
 その声も荒くはなかった。
 そしてそのとき、小柄なくノ一とお泉との戦いに一瞬にしてケリ
がつく。剣先を突き込んだくノ一に対し、横振りの棒が刀を手から
吹っ飛ばし、回されて突かれた棒尻がくノ一の水月(みずおち)を
深く抉る。
「セェェーイ!」
「ぎゃう! ぐはっ・・」
 胃の腑の液を吐き、がっくり膝をついて崩れたくノ一。さらに宙
でくるりと回された棒先が丸まる背中を打ち据えた。
 水月を抉られて息ができず、したたかに背を打たれ、気を失って
崩れるくノ一。

 そしてお泉は、もうひとり、松の木の上に潜む小柄なくノ一に向
かって叫んだ。
「そこの者も動くな!」
 ひとりを倒したお泉が疾風のごとく木に駆け寄り、上に向けて三
つ叉に分かれた銛の切っ先を突きつけた。
「降りるんだ! おとなしくしないと殺るよ!」

 さて才蔵。対峙する敵は身の丈六尺(およそ180センチ)はあ
り、才蔵よりも大きいぐらいなのだが、剣を中段に構えたまま動け
ない。力量が違いすぎる。
「来るか、それとも剣を捨てるか」
「くそぉ、ちくしょう・・イザぁ!」
 やはりそうか。思った通り女の声。
 突き突き、斬り上げ、また突く女。しかしそんなものは才蔵の敵
ではなかった。
 キィィーン!
 一度刃が交わった次の瞬間、敵の刀はへし折られ、それでも抜い
た小刀さえも吹っ飛ばされて、愕然となって動けなくなった大女。
 刹那、才蔵の白刃が陽射しを散らして燕のように舞い狂い、頭巾
を飛ばされ、袴を着られ、袂を斬られ、前合わせを斬られ、浪人姿
の着物がボロ布と化していく。
 着物の裂け目から覗く白い肌。袴はずれ落ち、着物の帯が断たれ
たときに、その胸には白い晒しでつぶした女の乳房。女は胸を覆っ
てその場に崩れ、身を丸めてうなだれた。肩までの黒髪を垂らして
いる。

 才蔵の目にもとまらぬ剣さばき。女を半裸にしておきながら肌に
一筋の血さえも滲ませない。見守る女たちには声もなかった。
 才蔵は言う。
「取り押さえるんだ」
「はいっ」
 我に返った女たちが崩れたふたりに群がって、才蔵は刀を青鞘に
おさめながら、もうひとりの敵を取り押さえたお泉の元へと歩いて
いく。
 そのひとりも小柄なくノ一。お泉に気圧され剣さえ抜けずにへた
り込んでしまっている。
「頭巾を取りな」
 お泉に言われて頭巾を脱ぐと、くノ一は若い。
 こいつらいったい何者なのか? まさしく未熟。
 才蔵は女に言った。
「おめえは戻って伝えるんだ、これより手を出すなら、こっちから
乗り込んでたたっ斬るとな。さあ失せろ」
 しかし女は力なく言う。
「戻ったってしかたがないさ」
「何だと?」
「あたしら雇われただけ。追っ払えと言われて来た。あたしは張り
番、人を斬ったこともない」
「おめえら三人だけなんだな?」
「そう。ちょっと脅せばいいと思った。そっちのふたりが、まさか
殺るなんて思ってなかった」
「そっちのふたり? おめえら仲間じゃねえのか?」
「違うよ、はじめて会った。三人ともそうなんだ」
 才蔵は見据えて見下ろす。
「おとなしく剣を捨てろ」
「はい」
 腰の忍び刀を抜いてお泉に手渡す女。才蔵はお泉に目配せして女
を立たせた。

 ますます腑に落ちない。敵の中でくノ一らしいのはお泉が倒した
ひとりだけ。大女は多少剣をかじった程度、残るひとりは忍びかど
うかもわからない。
 お泉は、ひとりを後ろ手にひねって歩かせながら、ほかのふたり
を取り押さえた女たちに言った。
「連れてって裸にして体を調べるんだ。そっちの女は毒使い、何か
隠してるかも知れないからね」
 最初に倒した小柄なくノ一を取り押さえた司がうなずく。司もく
ノ一だった女。こういうときの扱いは心得ている。頭巾を毟り取っ
てみると、小柄な女は三十なかば。毒殺に長けた本物のくノ一らし
い。

 若いひとりを引き立てながら、お泉は名を問うた。
「あたしは奈津。大きいのが峰。それから琴」
「いくつだ? 皆は?」
「あたしは二十二、ほかは知らない」
 才蔵は言う。
「追っ払えと言われただけなんだな?」
「そうだよ、殺るなんて思ってなかった。怖かったけどもう遅い、
やるしかなかった。琴が、おまえが殺れと言って峰に斬らせ、次か
ら峰が嫌がって、それからは琴が毒刃で」
「おめえは斬ってねえんだな?」
「剣を持ったのもはじめてさ。あたしは身軽で足が速い。それだけ
だった。琴が怖くてならなかった。にやにや笑って娘を斬って・・」

 才蔵はわずかに首を振って、捨てるようなため息をつくのだった。 


六話 外種(そとだね)

 数日また数日と過ぎていき師走も末となっていた。雪が来る前に
ちょっとは先まで歩いてみたかったのだが、暖かかった冬らしくな
い日々もここに来て北風が強くなり、雪となる冷えに覆われはじめ
ていた。この部落が男どものいる有り体の海の村ならこのまま留ま
ってもよかったのだが、女ばかりでは身が持たない。日に日に女た
ちと打ち解けていくのはいいのだが、お泉との静かな時が持てなか
った。
 しかしそのお泉。梓となって女たちと海に出て、白かった肌がこ
んがり焼けて、それとは逆に、お泉となった梓は色が抜けて白くな
ってきている。
「女は不思議なものだよ、ふたりを見ていて感じるね」
 と、千代は言う。生きる世界が女を変える。海に生きる、町に生
きる、ということもあるのだが、男のそばにいられるかどうなのか、
そのことで決定的に違うと言うのだ。
 くノ一として、どこか陰のあったお泉は自分を開き、女たちの中
で体裁を気にしなかった梓はどんどん女の色に染まりだす。

 才蔵は言う。
「このまま女ばかりでやってくつもりなのかい?」
 千代は冬風に荒れる海に目を細め、冷えるから戻ろうと言い、歩
きながら言うのだった。
「女はやっぱり男がいてこそ女だろ。才蔵さんが来てからの皆の姿
が眩しくて」
「千代さんにしろ、それはそうさ」
「あたしがかい? 笑わせないでおくれよ。そんな日が来るのなら
嬉しくないわけじゃないけれど。皆はそれぞれ。けどあたしはずっ
とここで暮らすだろうね」
 そしてそのとき暗く垂れ込めた空からいよいよ白いものがはらは
ら舞った。空を見上げて千代が言う。
「寒いはずさ。才蔵さんにこんなこと言うのも何なんだけど、くノ
一はときとして女同士で慰め合うもの。役目を負って里を出ると気
を許せるときがない。気を許すのは仲間だけ。そんな自分が哀しく
なって抱かれて寝たい。そんなことも、あたしらくノ一だった女が
皆に植え付けたようなものなのさ。とりわけ冬は独り寝がつらくな
る」
「いいんじゃねえか、それならそれで。通じ合えているならよ」
「そりゃぁ、あたしらはいいよ、一度や二度そういうことも知って、
そこから逃げるようにここにいる。けど生娘のままここに置いては
可哀想。出て行ってくれるならいいけれど、いたいと言われて追い
出すわけにもいかないだろう」

 そして千代は、ふと歩みを止めて言う。
「ときに、どうするつもりなんだい? じきに年が明けちまうし、
先へ行けばますます雪だし、このまましばらく留まってもいいんだ
よ?」
「さあな。やるべきことが先よ。なりゆき次第ってことだろうぜ」
 それからまた少し歩むとそこが千代の住む家。そしてその隣りが、
楓が寝かされていた家だった。楓はとっくに起きられるようになっ
ていたが、まだしばらく海には出られない。今日は海が荒れて女た
ちは皆家々にこもっていた。
「ちょっと寄ってくぜ」
「うん、あいよ。喜ぶよ楓」
 千代の肩にそっと手を置き、才蔵はすぐ隣りの家の板戸を開けた。
 その家は部落にあって一軒だけ人の住まない家だった。厨として
料理をつくり、刻限になると女たちが集まって来てともに喰う場。
客人の才蔵のいる家にだけ膳が運ばれ別に喰う。
 その家の板の間に、同じように畳が二枚敷かれていて、あのとき
楓を運び込んだのがここだった。代わる代わる常に誰かがここにい
て楓を看ていた。才蔵が入ると、何人かの女たちが夕餉の支度にか
かっていて、その中に元気になった楓と、梓となったお泉がいた。

 才蔵の姿を一目見ると楓が嬉しそうに笑う。年が明ければ数えで
十九になる楓。陽に焼けた肌はすっかり白くなっていて、長く苦し
んだことを物語る。
「おぅ楓、元気になったな」
「はい、もうすっかりいいんだ、痛くもないし」
 すっと歩み寄って来て才蔵の着物の袖をちょっと持つ。愛らしい
仕草をする。
「若いから早いさ、じきに海にも出られるだろ」
 と梓が言うと、才蔵はうなずいて梓に言う。
「おめえも黒くなったもんだぜ」
「ほんとだよ、泥なんてなくたって一緒だね。湯に行ったって落ち
やしない」
 女たちが一斉に笑った。才蔵はそんな梓に歩み寄ると肩に手を置
こうとしたのだが、梓は肩を振って手から逃げる。
「あたしじゃないだろ、お泉さんが家にいる」
 皆が声を上げて笑いだす。
 梓はちょっと拗ねたような目をして言った。
「けどあたし、しばらくでもこうなれてよかったね。みんなといる
とあたしは白く戻れてく。肌は黒くたって白くなる」
「うむ、よかったな」
 才蔵の手がすっと梓の背を撫でて、互いに目を見つめ合い、皆の
視線は遠慮してそらされて、そっぽを向いて笑っていた。

 家に戻った才蔵。そのときお泉となった梓、そしてお邦がそこに
いて何やら静かに話していた。
「おぅ小娘、いたのかい」
「べぇーダ、あたしだって女なんですぅ。じゃね姉様」
「おいおい、俺が来たら帰ぇえるのか?」
 お邦は目を丸くして眉を上げる素振りを見せた。
「男には内緒だもん、女同士のしっぽりした話だもんね」
「けっ、しっぽりねぇ・・わかったわかった、うるせえから帰ぇれ」
 お邦はちょっと口を尖らせて睨み、すぐにまた笑顔となって去っ
て行く。
 お泉となった梓とふたり、夜具をたたんだ畳の上に座っていた。
 お泉が言った。
「どうしようかなって言いに来たんだよ」
「どうしようかな?」
「ここのこと。あたしこのまま生きてくんだろうなって」
「うむ、それについちゃ千代さんも気にしてる」
「知ってるよ、だからお邦が来たんじゃないか」
「どういうこった?」
「あの子はね、気がつけばお邦って皆が言うほどの娘なのさ。誰か
が沈んでると、とたんに察して、いつの間にかそばにいる。お頭の
家で眠ることが多いんだ。お頭はずっとそれで迷ってる。そうする
といつの間にかお邦がいて、夜具に潜り込んで甘えてあげる」
「ほう・・いい娘だ」
「ほんとよ。あたしだって夢見てみたいって、あの子なりに思って
る。それは才蔵さんが来る前からずっとそう。楓もそうだし、生娘
のままじゃ哀しいからさ」

「ひとつ手はあるんだが」
 と、才蔵が言うと、お泉は探るように覗き込む。
「お上に願い出るのよ。銀の鉱脈を見つけましたとな。そうすりゃ
かなりな報償も出るだろうし、新たに暮らす土地だって世話してく
れる。銀山守りとしてここに居続けることだってできるやも知れぬ
しな」
 お泉は言った。
「それをしちゃ娘らを救えない。女衒から買うにはかなりな銭がい
るからね。そう思うと動けない。お頭だってそれはそう思ってる。
男たちを迎え入れてもいいだろうけど、男ってさ、銭があると馬鹿
なことをしでかすもの。だからできない。そんな男を嫌になるほど
見て来たからね」
 それはそうだと才蔵は言葉を返せず、しかしそうなると手立てが
なくなる。
 梓は言った。
「それであたし、お泉さんとも話したし、わざわざ話さなくたって
ここにはくノ一崩れがいるからね。くノ一には『外種(そとだね』
ってこともあるだろ。そういうことでもいいんじゃないかって、お
頭じつは考えてるみたいなんだよ」
「お邦がそう言ったのか?」
 お泉はうなずいた。

 才蔵も話には聞いていた。くノ一ばかりの女忍軍を里から切り離
した別動隊のようなものを組織するとき、そこではときとして、年
頃となった娘らを一度外に放って身ごもらせて里に戻す。男の子が
生まれれば一族の男忍軍に引き渡すといったような。
 それを『外種』と言うのだが、人は犬ではないのである。
 しかし忍びの女にとってはそれさえも役目であり嫌とは言えない。
太平の世となって表立って忍びを使えないとき、そうした得体の知
れないくノ一忍軍が必要となるからだ。
 梓は言う。
「けどそれだっていっときの夢じゃないか。肌を合わせ身ごもって
乳飲み子を抱く。ここにいてはそれさえも望めない。かと言って、
ここを捨てて出て行くったって、その先怖くてたまらない。あたし
ら年増はともかくも親に売られた娘たちなんだよ、信じるものなど
ありゃしない。だからあたしら女同士で慰め合うんだ。くノ一じゃ
ないのにね」
 才蔵はひそかなため息を漏らすのみ。そうしたことは女たち自ら
が決めなければならないこと。
「外種ということで娘らを納得させて外に出し、できるならそのま
ま別の土地で生きてほしいってことだろう」
「そうだよ、それがわかってるから、結局ここを追われることと同
じになる。お邦なんぞ絶対嫌だって言ってるよ。ここにいたい。け
どやっぱり体が疼く。才蔵さんとお泉さんを見ていると羨ましくて
ならないって」
 村雨兄弟の一件がかたづいて、しかしだから出て行くわけにはい
かないと才蔵は考えもした。けれどそれでは結局、女たちに飢えを
感じさせることになる。

「俺ひとりじゃ身が持たねえしなぁ」
「ふふふ、馬鹿なことを・・けど、こうなったら言うけどね、お泉
さんが言ってたよ。女の命ははかないもの。あたしの方からあの人
に体を開いたってね。寝間着の帯をせずに寝て」
「ふむ、そりゃそうだ。考え違いもはなはだしいが」
「考え違い?」
 才蔵はちょっと背伸びをしながら軽く言う。
「ま、そうじゃねえってことよ」
 お泉となった梓は微笑み、そして言った。
「梓がお泉でいるかぎり、あの人はあたしを抱いてくれているって」
「そう言ったのか、あいつが?」
「そう言った。あたしは顔を見たけどね、お泉さんは笑ってた。あ
たしでさえが、ああすごいって思ったもん。若いお邦がおかしくな
るのはよくわかる。楓だって、お泉さんを見てると打ちのめされる
って言ってるよ。ほかの女たちもそうだけど」
 そしてふいにお泉は言った。
「買い付けの船が来るって言っただろ」
「うむ?」
「お頭は言うんだよ、たくさん採って売るようにしろって。いまは
冬で岩海苔とか牡蠣とかそんなもんだけど、季節がいいと魚が獲れ
る。船に男衆が乗ってるからさ。出会いはそれしかないからね」
「なるほどな。そうやって少しずつ変えていくしかあるめえよ」

「そんなお泉さんだから、お邦は夜な夜な甘えてるんだ」
「そうなのか?」
「お邦ってそういう子なんだもん。あたしなんてそのぐらいしか人
に何かをしてやれないって。お泉さんを気にしてるんだ」
「それだって千代さんのおかげだな、いい娘に育ててら」
「巡り巡って銀があるからできること。いいことやら悪いことやら
知れないけれどね」
 才蔵はお泉となった梓の手を取り、梓は微笑んで才蔵の肩に身を
寄せた。一緒に湯に入っていても、そっと抱いてくれるだけ。それ
から先は手を出さない。罪な人だと、梓はちょっと憎くなる。


五話 代わり身


 司と呼ばれる女はすぐ見つけることができた。才蔵が先に洞穴を
出たとき、部落に半数残った女たちのうちの三人が、ある家の前の
道筋に投網をひろげ、明るい声で何やら話しながら網を繕っていた。
ひとりが名を呼ぶことがあり、その相手が司であったからだ。
 才蔵は司に歩み寄ろうとしたのだが、地べたにひろげた網にしゃ
がんで群がっていた女たちは着物の裾が割れていて、才蔵の姿を見
ると三人一様に裾を合わせて気にしている。女ばかりの住処では色
気は無用。女たちは一瞬のことであっても外の世界のことを思い出
していたのかも知れなかった。
 才蔵は女たちの身支度を察し、あえてゆっくり歩み寄る。
「司ってえのは、おまえさんだね?」
「あ、はい、そうだけど?」
「おまえさんとほかに誰か、ちょいと付き合ってくれねえか。あた
りを散歩したいんでね。このへんを見ておきたい」
 司はくノ一だった女。千代に連れられて洞穴に入って行ったこと
からも、その言葉の意味はおおよそわかる。

「わかった、じゃあちょいと誰か呼ぶから」
 立ち上がった司は思いのほか小柄。髪は肩までの垂髪で着物は粗
末。それに綿入れを羽織る姿。ほかの女たち同様に陽に焼けて、さ
ながら猫のようでもある。
 そしてそのとき才蔵は、しゃがんだまま視線を外して網に向かう
もうひとりの女を気にした。同じような姿だが明らかに背が高く細
身。髷を結えるだけの長い黒髪をまとめて横に流している。
「おまえさんもちょいと立ってみな」
 司もその女もふたりで顔を見合わせている。
「梓(あずさ)だよ」と司は言った。
「うむ梓か、いい名だ。ちょいと立ってくれねえか」

 女たちの中で才蔵の噂は持ちきりだった。見目形のいい若い侍。
刀を委ねて丸腰となり楓を救った男。そしてあのとき、その刀を突
きつけられて預かったのが梓だったのだが、才蔵はそんなことを覚
えていない。
 梓は立った。顔立ちは違うが立ち姿がお泉に似ている。それで才
蔵は思いつく。そういうことなら早いほうがいい。
 そう考えていたときに、遅れて洞穴を出て来た千代とお泉が歩み
寄る。才蔵は千代のそばへと歩み寄って何やら耳打ちすると、とも
に聞いていたお泉に向かって目配せした。
「すぐにかい?」とお泉が問い、才蔵はうなずく。

 千代が梓に言う。
「梓、ちょいとおいで、お泉さんと一緒にお行き」
「あ、うん、それはいいけど・・」
 梓は意味がわからない。
 才蔵は梓にちょっと微笑んで、それから司とほかのひとりを左右
に従え松林へと歩き出す。このとき才蔵は腰の刀を大小ともにお泉
に委ね、お泉はちょっと睨みつけたが、笑って背を向けて歩き出す。
刀など携えていては見透かされる。敵の見張りがいないとも限らな
いからである。
 そしてお泉に促され、才蔵と過ごす与えられた家に入った梓。入
るなり、控えめながらも中を見回す。男女が一夜を明かした家。そ
こは梓にとって一夜のうちに遠慮すべき家になっていた。
「あたしと代わろう、脱いどくれ」
「え? 脱ぐ?」
「あたしが梓、梓があたし」

 ようやく意味がわかったようだ。互いに着物を交換し、梓は座っ
てお泉に髪を結ってもらう。お泉は結い髪を解いて横にまとめる。
しかしお泉の肌は白く梓は日焼けで黒い。冬だから着物が厚く袖も
長い。手と、それから顔に白粉を塗られ、お泉は逆に泥土を混ぜた
ものを塗って黒くなる。くノ一にとってこれぐらいの代わり身はあ
たりまえ。
 お泉に髪を結い上げられた梓。赤茶縞のお泉の着物がよく似合い、
見違えるほど綺麗になっている。
 お泉は言う。
「ほら綺麗、いくつなんだい?」
「九になるけど」
「ふたつ姉様だね」
「そうなのかい? じゃあ七?」
 お泉は笑ってうなずくと、部屋を見回して言うのだった。
「今宵からは夜もだよ」
「夜も?」
「あたしは女たちと寝る、梓は才蔵さんとともにいる。湯に行くと
きもそうだしね」

 意味を悟って梓はとっさにうつむいた。若い侍とふたりきり。考
えただけで体が熱くなってくる。
 お泉は梓の肩に手を置いた。背丈がほぼ同じ。着物を交えると梓
はお泉のようだった。
「これであたしは女たちといられる。才蔵さんは家に残り、そうす
ればどちらも守れるじゃないか。楓を救ったのはあたし。村雨兄弟
とやらは許せないね」
 梓は小声で言った。
「お泉さんは、その・・」
「くノ一だよ」
 この人は強い、きっと強い。同じ女なのにあたしとは違う。梓は
そう感じ、声もなくうなずいた。梓はそのまま家に残り、梓となっ
たお泉が家を出て、女たちの中へと紛れていく。

 外へ出ると、司と梓がいなくなった投網の繕いを別の女ひとりを
加えたふたりでやっている。お泉はすっかり梓。あたりまえのよう
にやってきて着物の裾さえ気にせずしゃがむ梓に、ほかのふたりは
唖然としている。
「あたしは梓、いつも通りにね」
 ふたりはうなずき、投網の繕いを真似事ながらもこなしていく梓
に、住む世界の違う女の姿を見つけていた。
 女のひとりが小声で言う。
「楓を救ってくれてありがとね」
「手当てが早くてよかったよ」
「毒消しで?」
「そうさ、あたしがつくったものだけどね」
「つくった?」
「あたしはくノ一、哀しい定めの女だった。けどいまはもう・・」
 そう言って微笑む梓。
「じゃあ、あのお侍様と・・その・・」
「ふふふ、はじまったばかりなのさ、ふたりで湯なんてはじめてだ
った」
「よかったね、お泉・・じゃなかった、梓」
 隠さず語るお泉。梓として受け入れたお泉の女心はもちろんわか
る。女ふたりは、才蔵という若侍のやさしさを梓を通じて感じてい
た。
「いいね白くて」 と、横にしゃがむ女がふと言った。
「あたしはみんなを羨むね。これほど見事な海に生きていられる。
小娘のときに敵を斬り、斬った敵はあたしよりも小娘だった。そん
な思いをしなくていいんだ」
 女ふたりは顔を見合わせ、余計なことを訊いてしまった女の手が
そっと梓の膝にのる。

 女ふたりとあたりを歩いた才蔵が戻ったのは半刻(およそ一時間)
ほど後だった。出て行くときに固かったふたりの顔が穏やかに弛ん
でいる。ある家の前でふたりと別れた才蔵が家へ戻ると、そこには
別人のように綺麗にされた梓が待っている。
「おぅ、見違えたぜ」
「はい・・あたしあの、どうしていいやら」
 梓は白粉で頬の赤らみは隠せていたが震える思い。才蔵はそんな
お泉の背にそっと手をやって、畳に座り、慌てて座を板の間に移そ
うとした梓の手を取って引き留める。
 才蔵は言う。
「ここにはどうして?」
「逃げてきたんだ」
「逃げてきた?」
「あるところで女中をしてて男どもに・・」
「なるほどな、嫌な野郎だったってことかい?」
 梓はうなずく。
「この下の浜を歩いて少し先の岩場に出て、そしたらそこに海女た
ちがたくさんいて」
「ふむ、それで居着いちまった?」
「て言うのか、しばらくかくまってもらい、けどもう出て行く気が
しなくなって」
「いくつなんだ?」
「九になります」
「うんうん、よかったな。いいところに出会えたもんだぜ」

 梓は恥ずかしくて身を固め、正座をしたまま動けない。
「茶でも飲むか」
「はい。あ! あたしがします」
「なあに、いいってことよ、そう固くなるんじゃねえ。しばらくは
お泉じゃねえか」
 才蔵は立って茶をふたつ用意して、湯飲みのひとつを梓に手渡す。
「ありがとうございます」
「おいおい、よさねえかい、おめらと目の高さは一緒だぜ。ご丁寧
なことはいらねえ。俺たちのほうこそ厄介になる、ありがとよ」
 梓はふと板壁に立てかけられた青鞘の大小に目をやって、武士の
持ち物と、やさしい男を見比べるように才蔵に目をやった。
 梓は言う。
「楓のこと、嬉しかった」
「うむ。それにしたってお泉の手柄よ、俺だけじゃどうにもならね
え。俺だけじゃどうにもならねえことが江戸でもあって、お泉にど
れほど助けられたか。ときに楓は?」
「もうすっかり嘘のよう。動くと痛がって、けどよく喰うし、元気
です」
「よかったよかった、ほっとしたぜ」

 才蔵は江戸でのお泉との出会いを話してやった。そしてそうする
うちに梓の面色がほぐれてくる。梓もまた幸せではなかった女。孤
児を世話するお香という娘の気持ちはよくわかる。
「さて、湯にでも行くか。おめえはお泉、あたりめえにしてればい
いぜ。見張りがあると思ったほうがいいだろう。敵はおそらく忍び
ども」
「忍び?」
「まず間違いねえだろう。ゆえにお泉が梓、おめえがお泉よ」
「お頭は・・ぁ・・お千代さんは」
 と言い直した梓が可笑しくて、才蔵は笑って梓の背をぽんと叩く。
「頭でいいさ、そう呼んでいるんなら」
「はい。お頭は言うんです、ここを捨てようとも考えたけど、これ
だけのお宝が・・ぁ・・」
 しまったというような面色をする梓。
「はっはっは、銀だろ? さっき千代さんに見せてもらった。嬉し
かったぜ、見ず知らずの俺たちに大切なものを隠さずな」
 梓は微笑んでうなずいて、そして言った。
「これだけのものがあれば多くの娘らを救える。できるなら動きた
くないって」
 才蔵は幾度もうなずき、そして言った。
「千代さんも立派だぜ、それを守るおめえさんらも立派。けどそり
ゃぁ、おめえさんらの勝手でな、俺は楓をあんな目に遭わせた者ど
もが許せねえのさ」
「はい」
「さてと、うるせえのが帰ぇって来ないうちに湯にするか」
「うるせぇのって?」
「お邦だよ。あの鼻タレ、俺たちの風呂を覗きやがった」
 梓ははじめて白い歯を隠して笑った。
「羨ましい羨ましいってうるさくて」
「言ってたかい?」
「もうぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。色気づいちゃってたまらないん
だ、あははは」
 才蔵は先に立ち、梓の手を引いて立たせていた。

 腰にそっと手を回され道筋を歩むふたり。外に出るとそこには網
を繕う梓がいて、女三人で、湯へと向かうふたりに笑う。お泉とな
った梓はさぞ恥ずかしい。梓となったお泉が真っ先に笑ったことで
明るい声が響いていた。
「いいのかい、ふたりでさ」
 そう言われてお泉は笑う。
「あの人がどうするかが見物だろ? 笑えるね」
 何があろうと揺るがない想い。女ふたりは互いに微笑み、そう言
って笑い飛ばす、梓となったお泉を見ていた。

「網はああやって手入れするのか?」
「底が岩でどうしても引っかかるんだ。あんまりひどくなると新し
いのに替えるけど繕える間はね」
「そうか」
 洞穴の湯に着いて、梓の背を押して板を立てた脱衣に追いやり、
自分は手前の岩に座って背を向ける才蔵。梓は心が震えてならなか
った。
「才蔵さん」
「おぅ?」
「そこ寒いだろ?」
「いいってことよ、先に入りな」
 ところが梓は衝立てを出て才蔵の手を引いた。
「それなら先に才蔵さんが」
「ありがとよ。そんじゃまぁ一緒に入ぇるかっ」
「えっえっ」
 引いた手を逆に引かれて、梓は流れるように才蔵の胸に抱かれて
いった。そっと包むように抱かれ、そして耳許で。
「おめえもそうだが、ここの女たちは強ぇえ。いつかきっといい男
衆を迎えてよ、いい村になっていく」
「はい」
「いまはただ千代さんを囲んでやりな。素晴らしいお人じゃねえか」
「はいっ」

 ああ、たまらない。梓は自らの手に力を込めて才蔵の胸にすがっ
ていった。


四話 大海原


 翌朝のこと。江戸ではあたりまえの早朝に目覚めてみると部落の
女たちの半数がすでに出ていなかった。日々半数が海に出て半数は
体を休める。とりわけ冬は体が冷えてそうでなければ持たないから
だ。漁といってもその日を喰う分だけ。部落の背にそそり立つ崖を
回り込んで陸へと行くと百姓村がいくつもあって野菜などと交換す
る。そうやって女たちは生きていた。

 そのときお泉は楓の傷を診るために家にいて、才蔵ひとりが松林
を抜けて崖に出た。崖といっても背丈の倍ほどの低いものだが、そ
れでも見晴らしは素晴らしい。見渡す限りの大海原。今日もまた冬
晴れで風がなく、綿入れを着ていると暑いほどの陽気だった。腰に
差す青鞘の大小が綿入れの前の合わせを割りひろげ、風が入って心
地いい。

「お侍様はこういう眺めは?」
 静かな気配がすぐそばにやってきた。千代だった。
 才蔵は言う。
「その昔、似たような景色の中で育ったが、これほどの海じゃなか
ったね」
「どちらなので?」
「若狭だよ。向こうの冬は暗い。雪が積もり空よりむしろ明るいく
らいさ。千代さんにも言っておく。お侍様はやめてくれ」
「それはなぜ?」
「まっぴらだ。それが嫌で家をおん出た。千代さんと目の高さは一
緒だぜ。俺は才蔵。それだって実の名を捨てる名さ」
「じゃあ才蔵さん」
「うむ、気が楽だ」

 やはりそうか、若狭あたりの名家の出だと千代は思う。
 そして千代は、すぐ眼下の砂浜を指差して言う。
「北へ少し行くと岩の海。その手前を左に折れて陸へ向かえば表街
道につながって、だからここらは訳ありの者たちがときどき通る。
あたしもそうしてここへ来た。その頃は少し北に漁師の村があった
んだ。それでここを知ったのさ。ここは番小屋の集まり。湯があっ
て心地よく、いつの間にか棲み着いてしまったね。あたしも女。漁
師たちの世話もしたし、そうやって厄介になっていた。海女を技を
あたしが教わり、ここの皆に教えていった。ところがその漁師の村
がなくなって取り残されたというわけさ」

 才蔵は語らず聞いていた。千代は言う。
「お涼からも聞いたと思うけど、あたしも名もなきくノ一だった。
けど、お泉さんのように手練れじゃない。剣もダメ、走ったって速
くない。そうなると残るは女を武器にしなければならなくなる。死
にたいと思ったときに、どうせ死ぬなら人知れずって思ってさ。忍
びの村を飛び出して気がつけばここにいた」
「そうするうちに女どもが集まって来たと?」
「まあそういうことだけど、そんな中に侍がひとりいたんだよ。手
傷を追って逃げていて、この下で倒れていた。あたしらで救ってや
って、けど消えた」
「それで密書の話をつくったか?」
 千代は笑う。
「正直言うとそうなのさ、あれはでたらめ。その人はまだ若い侍で
家中のもめ事に巻き込まれたって言っていた。それがとっさに浮か
んでね、あんなことを言ってしまった。お涼からもお邦からも、信
じていいんじゃないかって言われたよ。たった一夜のことなのに、
才蔵さんは妙なお人さ。ゆうべもお邦と話したろ」
「うむ、いい娘だ」
「お邦が言うんだ、お泉さんが羨ましい、恋い焦がれているのがわ
かるって」
「俺にかい?」
「もちろんじゃないか」
 才蔵は横に立つ千代の横顔を盗み見た。静かでいてどこか哀しい
女の面色。千代もまた才蔵の姿に横目をなげた。

「どういういわれがあったのかは知らないけれど、人を信じず生き
てきたくノ一が本気で想える男なんて滅多にいない。あたしらだっ
てそうだったからわかるんだって、お涼が言う。楓を救ってくれた
ときだって、見ず知らずのあたしらに刀を委ね、楓をおぶって走っ
てくれた。こういうお人もいるんだって震えたって皆も言ってる」
 才蔵は小指の爪で耳の裏をちょっと掻く。
「それは違うねぇ、思い違いというものさ」
「違うとは?」
「女たちが洗ってくれた。お泉もそうだが、江戸のちっぽけな寺に
いたお香という娘。孤児として寺で育ち、和尚が死んで、それから
はまだ幼い弟や妹のために母のように生きている。そんなとき俺は、
竹カゴに寝かされて寺の門前に捨てられた乳飲み子をはじめて見た
のさ。なんということだ、それにくらべて俺はいったい何だったの
かと哀しくなった。ここへ来て、そなたらを見てもそうさ。女ばか
りで厳しい暮らしに耐えていながら逞しい。俺は弱い、脆い、そん
な自分を思い知り、そしてまた、そんなときに出会ったお泉に甘え
たくなってしまった。それだけのこと」
 すごい・・この男はすごいと千代は感じた。

 そしてそのとき、楓を診たお泉が歩み寄ってくる。
「すっかりいいよ。傷はしばらくかかるけどもう大丈夫」
 微笑んでうなずく才蔵との間合いというのか、このとき千代は、
つい昨日、会ったときのお泉とは何かが違うと感じていた。しなや
かな女の姿をしていると・・。
 千代は言った。
「秘密を見せるよ、お泉さんも一緒に」
 そう言って千代は背を向けて歩き出す。才蔵とお泉は顔を見合わ
せ、千代の後ろ姿を見つめながら後を追った。
 家々の背後にそそり立つ黒い岩盤の崖。その裂け目のすぐ奥に湯
が湧いていたのだが、さらにその奥、闇の中に人ひとりがすり抜け
られる裂け目があって、そこを抜けると奥にかなり広い空洞が拡が
っていたのである。
 千代の手にある蝋燭を岩盤に近づけていくと、黒い岩に銀色の筋
が幾筋も走り、タガネで削った痕跡がそこらじゅうにあるのだった。

「銀の鉱脈さ。いつだったかの地揺れで岩がくだけて割れ目が拡が
り、その奥であたしが見つけた。削って溶かしてやると、いい銀が
採れるんだ。それであたしは売られていく娘らを相場より高く買い
取った。そうなると次の娘を待ってる連中が困るだろ、女郎屋とか
さ」
「そして村雨兄弟か・・」
 才蔵は言いながら、お泉に向かって目でうなずく。
 千代は言った。
「買い取った娘らはさらに多くてね。ここに残るのは少しの数で娘
らはてんでに去って行くんだよ」
 才蔵は、千代の両肩にそっと手を置いて微笑んだ。
 千代は言う。
「それほどの大金がどうして続くのか、そういうこともあるのかも
知れないし」
「それもあるだろうね。その探りも兼ねてってことだよ」
 と、お泉が言って、なおも才蔵が問う。
「村雨兄弟だとなぜわかった? そう名乗ったからか?」
「矢文だった。はじめひとりが殺られたときに矢文が放たれ、『手
を退け 去れ さもなくば死あるのみ 村雨兄弟』・・と」

 それも怪しいものだと才蔵は思う。頭巾で顔を覆うなら敵はふた
りとは言い切れない。
 お泉が問うた。
「はじめのひとりも毒刃でかい?」
「いえ、はじめはバッサリ。そのとき松林を逃げ去れるふたりの姿
を女たちが見ていてね。ひとりは男ひとりは女。毒刃に変わったの
は次からなんだけど、それから姿は見ていない」
 男が襲えば一刀で切り捨てて、女が襲えば毒刃となる。男は武士、
女はくノ一というのも、そうしたやり口からそう思うだけというこ
ともあっただろう。身の丈だけで女と決めつけるわけにはいかない。
 おそらく敵は、女ばかりの部落ということで脅すつもりでありも
しない殺し屋の名を使った。ひとりを斬ってみたが女どもは動かな
い。そこでさらに惨いやり口に変えたということもあり得る話。あ
のとき崖の上で楓を襲い、風のごとく消えている。敵は忍びとみた
ほうがいいだろうと才蔵は考えた。
 千代が言う。
「あたしら逃げようと考えなくもなかったけどさ、銀のことがあっ
て動けなかった。あたしさえ見切っていればと思うけど・・」

 才蔵はうなずいて言う。
「最後に訊くが、そういうことがはじまってから新たな娘は買い取
ったのか?」
 千代は横に首を振った。
「増えれば危うくなるだけさ。女衒(ぜげん)にせよ、銭が尽きた
と思ったのか来なくなったよ」
 そしてそのとき、お泉が問うた。
「はじめに斬られた娘だけどね、やはり以前はくノ一だった? 歳
はいくつで見目形はどうだった?」
「売られた娘さ、くノ一なんかじゃない。二十歳になったばかりで
ね、それは愛らしい娘だったよ」
「それを一刀で? 前からかい? 後ろからかい?」
「後ろから袈裟切りに一刀で」
 それを聞いたお泉は考える素振りをし、チラと才蔵に横目をなげ
た。お泉が言う。
「ちょっと妙だね、それほどの娘なら嬲ろうとしてもよかったはず。
斬るにしたって前からだろうに」

 才蔵はお泉の言いたいことが見透かせた。男なら心が動く愛らし
い娘を無慈悲に殺れるのは同じ女ゆえの残忍さ。身の丈こそ大きく
ても女はいる。確かに敵が男であれば解せないところだ。
 さらにお泉は言うのだった。
「江戸あたりの郭(くるわ)なら、くノ一を潜り込ませて遊びに来
る侍どもを探っているはず。それにあたしの里にだって身の丈六尺
(180センチ超)の女はいるんだよ」
 なるほどと才蔵は思う。太平の世となって忍びは見捨てられてい
る。しかしくノ一となると使い道はあるもので、女が稼いで一族を
支えているということもあるだろう。
「わかった、よく打ち明けてくれたな」
 そして才蔵はお泉に言う。
「おめえは千代さんとここにいろ。俺はそのへん歩いてくるぜ」
 地形を探る。それぐらいのことはわかる。
 それから才蔵は千代にも言う。
「そんとき女たちを少し借りるぜ、俺ひとりじゃ怪しまれる」
「それなら司がいるよ、やっぱり元はくノ一でね、少しなら剣も使
える。あたしが言ったって言ゃあいいから」
 お泉が言った。
「丸腰で出ちゃ危うい」
 才蔵は背を向けざまにちょっと手を挙げて、洞穴を出て行った。

 洞穴の深みから岩湯のあるあたりまでともに歩み、千代はお泉の
背をちょっと叩き、外の光に目を細めながら言うのだった。
「離れちゃだめだよ、ずっとね。あたしらなんか女同士の夜なんだ
から・・」
 女同士で慰め合う。明日の命の知れないくノ一には身につまされ
る話であった。千代は静かに歩き出す。


三話 思案の夜


 小窓を開け放った明るい夕餉。冬のいまは海からの吹き上げ風も
あるはずなのに、背後に切り立つ崖と風を散らす松林のせいなのか、
思うよりも風が入らず、大きな火鉢の炭火の熱がほどよくこもって
暖かい。
 想い人との差し向かい。才蔵はあぐら、お泉は正座。それは寺で
の夕餉でも同じことであったのだが、あのときは童がふたり、仁吉
やお香もいてむしろ気が楽だった。こうして差し向かいに膳に向か
うと着物のちょっとした乱れも気になってしかたがない。

 お泉は、それまで自分でも気づかなかった自分の中の女性(にょ
しょう)の心に、ちょっと信じられない思いがした。男が嫌い。侍
など反吐が出る。そう思って生きてきたあたしは何だったのか。嬉
しくもある驚きだった。
 磯の香りに満ちた夕餉を終えて、才蔵はふと物思うような面色と
なって言う。
「さて、お邦はどうするか」
「どうだろうね、邪魔だと思ってるだろうしさ」
「来るさ。己の気持ちにかかわらず行けと言われて来るだろう」
「千代という長に言われて?」
「来いと言われてるなら行け、それが長の言うべきことだ。探りと
いうより様子をうかがう。そしてお邦は長に告げる。ここがちょい
と難儀だな。訊きすぎても訊かなすぎても疑うだろう。我らとして
も見極めなければならぬのでな。善と悪があるのなら、それもまた
しかり。されどそのことと若い娘をいたぶるってことは話が違う。
四人殺られたそうだが、それほどまでしてなぜこんなちっぽけな部
落を狙うのか」
「密書がどうしたなんて、またぞろ大げさな話になるのかってこと
だよね、あの寺みたいに」
「いや、おそらく違うな。密書どうこうはつくり話よ。ここ常陸は
御三家水戸藩の領地であり、しかも附家老(つけがろう)のからむ
土地。そうした中でこんな女ばかりの部落に何が隠されていたとし
ても、いかに配下の下っ端が命じたとは言え殺し屋なんぞは送るま
い。やり方はいくらでもある。娘を毒刃でいたぶるなど下衆(げす)
の所業よ。みっともなくて話にならん」

 附家老とは、将軍自らが任じて送り込む家老のこと。江戸の意に
沿うよう藩主を導く役目も負い、家臣というより将軍から使わされ
た目付役といったところだろう。したがってよからぬ騒動は江戸に
伝わるということだ。

 と、そう小声で話していると粗末な板戸が遠慮がちに叩かれた。
 お邦。夕餉の膳を下げるついでに上がり込む。ごく自然な流れだ
った。お邦は着物を着替えていて、むしろくだけた寝間着に綿入れ
を羽織った姿。それで相手が気を許すと思っているのだろうか。
「お茶もらうよ」
「いちいち断るな、邪魔者は俺たちよ」
 そう聞いてお邦はちょっと笑い、湯飲みに茶を満たして部屋へと
上がった。そのときふたりは畳に座り、お邦は板の間に座ろうとす
る。才蔵が座をずらして畳を空けた。
「ありがと。やさしいんだね」
 お泉が言った。
「楓は苦しんでないかい?」
「ううん、よく寝てる。熱もだいぶ下がったし、寝息が静かになっ
たから。姉様たちが裸で抱いて熱を取った」
「そうかい、ならよかった。しばらくは起きちゃだめだよ」
「わかってる。姉様たちが診てるから大丈夫。ありがとね、お泉姉
さん」

 さっきまでの跳ねっ返りとは思えない穏やかな口調。お邦のほん
との姿だろうと才蔵は思う。
「ひとつ訊きてえ、村雨兄弟とやらの人相はわからねえんだな?」
「わからないし姿を見た者も少ないんだ。どっちも頭巾で顔が知れ
ない。誰かが何かの拍子にひとりになったときに襲われる。惨いや
り方も一緒。あたしらが見つけた時には虫の息、死んでいくのを見
てるしかなかったのさ」
 つまり敵は見張っているということだ。毒の刃で斬られたという
ことは、最前、浜を通りがかったそのときに斬られたと思われた。
「楓のことはどうして見つけられた? すぐに俺たちを囲んだが?」
「悲鳴が聞こえたのさ。風向きがよくて聞こえたんだろ」
「そうか。ま、こんな話はしまいにしようぜ。せっかく来たんだ、
海のことでも聞かせてくれや」
「うん。海の話ったって、そうないけどね。そこの海でも採れるけ
ど、浜を少し先まで行くと岩場に変わる。そこは深い。小さな船も
そのへんにつないであって、魚なら投網、貝なんかなら潜って採る
んだ」
「冬でもか?」
「何もわかっちゃいなんだね、冬は海の中のほうがぬるいもの。岩
場に焚き火を組んで暖まる。また潜る。だから冬場は喰う分だけを
採るんだよ。銭が要ることがあるとたくさん採って船を呼ぶ。さっ
きの崖に旗を立てて、そうすりゃ買い付けの船がやってくる」
「そうか。厳しいだろうがおおらかな暮らしだな」

 そのときお邦が、湯飲みを覗き込んで弱く笑った。
「あたしは売られた。この常陸の北の果ての貧しい農家だったんだ。
身売りだよ。そんときあたしは十三だった。救ってくれなきゃ、い
まごろ女中か女郎だったね」
 才蔵はわずかにうなずくと、すぐそばに足を崩して座るお邦の膝
に手を置いた。
「だからあたし、ここが好きさ。それぞれ何かを引きずって、それ
でも仲良く暮らしてる。あたしの一生なんてこんなもんだろうなっ
て思ってさ」
 そのとき、お泉が横から言った。
「はじめて人を斬ったのは小娘の頃だった」
 お邦が静かに視線を流した。
「ある武家の屋敷に忍んでね、逃げようとしたときに仲間が見つか
り斬り合いになったのさ。相手もくノ一。あたしらはふたりだった
が相手は四人。あたしはふたりを斬ったんだけど、そのうちのひと
りがあたしよりも小娘だった」
「ふーん、辛かったんだろうね?」
「震えたさ。毎夜毎夜夢に見て眠れない。そのうちあたしは女とな
って、これでもいろいろあったんだ」
 お邦はこくりとうなずいて、哀しげに微笑んだ。

 おまえはどうやってここへ来たと問いたい思いはあったのだが、
才蔵は訊かなかった。思い出させるのも可哀想。
 そして声が途絶えたときに、お泉が問うた。
「だけどあれだね、こう言っちゃなんだけど、こんなところに女ば
かりじゃ怖いだろ?」
 お邦は顔を上げてちょっと笑った。
「いまはもう大丈夫。ここらの海にはちょっと前まで海賊がいてね」
「ほう、海賊が?」
 その昔、若狭の海にもいたと才蔵は思う。食い詰めた浪人どもが
盗賊となり果てて海に出た。山なら山賊、陸なら盗賊。三代将軍家
光の世となって締め付けが厳しくなり格段に減っていた。まして常
陸は水戸藩。幕府の威信にかけて追い払ったことだろう。
 この部落の備えもそのときのためだったと思われる。
 お邦は言った。
「昔はひどかったらしいんだ。それもあり嵐で大勢死んだこともあ
りで隣の村は北へと移っていったそうだ」

 お邦が言った。
「ねえ、あたしから訊いていい?」
「かまわん、何だ?」
「江戸にいたってことだけど、そこで出会った?」
「お泉とか?」
「うん、訊きたい」
 ここにいては出会いがない。興味があってならないのだろう。お
邦の目が俄然きらきら輝いた。十五と言えば嫁に出てもおかしくな
い歳。
 そしてそのときお泉はちょっとうつむき、才蔵がどう言うか、ハ
ラハラして聞いていた。才蔵は言う。
「江戸のあるところにちっぽけな寺があってな」
「うん?」
「そこでは孤児を引き取って育てていた」
「孤児?」
「そうだ孤児だ。カゴに入れられて寺の門前に捨てられる乳飲み子
もいたんだぜ」
「・・ひどい話だね」
「そうだな、しかしそうしなきゃならねえ訳もある。それで、その
寺の和尚が死んで寺が悪い輩に狙われた。そんとき流れ者の俺がた
またま寺に厄介になっててな。銭もねえ俺に寺のみんなはよくして
くれた」
「うん」
「そしてまた、そんときちょうど急な病でこのお泉が転がり込んだ。
寺が襲われたのはそのしばらく後だった。俺とお泉で悪い輩を追っ
払った」
「ふーん、いい話だ・・それで?」
「俺もお泉も流れ者。どっか遠くの知らないところに行こうってこ
とになり、俺が一緒に来いってお泉に言った」

「ふーん、それでか・・」
 と言って、お邦はふたりを交互に見てくすっと笑う。
 才蔵が言う。
「それでかとはどういうこった?」
「寺ではふたりきりになれなかった。好き合っているのにさ。んふ
ふ」
「てめえ、そう言やぁ思い出したぜ、よくも覗きやがったな」
 頭をかるくはたいてやる。ちょっと舌を出すお邦の癖が愛らしい。

 お泉は頬がかーっと熱くなる。好き合っていた。思い返せばそう
だった。どうせ夢だと諦めていた。
 才蔵は言う。
「好き合っていたか・・うむ、そうかも知れんな」
 お泉は信じられないものを見るように才蔵の横顔を覗き込む。本
心からの言葉だろうか。
「ま、てえことだったんだがよ、江戸を出てたった三日でこのザマ
さ、参ったぜ」
「・・ほんとだよ、もう」
 お泉は小声で言うのだったが、何かを言わないと涙があふれてき
そうだった。
 お邦は立った。
「わかったよ、ありがとね。江戸なんて、きっと一生知らない町だ
し。あたし寝るから。朝も早いし」
「おぅ、よく寝て育て」
「ちぇっ、これだよ。あたしゃもう童じゃねえんだ。べぇーダ」
 笑ってあっかんべぇーをしながら、膳をふたつ持ってお邦は出て
行く。粗末な板戸でもつっかえ棒が置いてあり、外から開かないよ
うになっていた。

 畳二枚きりの上に間を空けられずに夜具をのべ、揃って寝間着に
着替えたものの、お泉は帯をせずに横たわり、才蔵の気配を察して
振り向いて、泣いてしまって抱かれていった。二十七年生きてきて、
いまこそ夢の中だと思うのだった。


二話 くノ一の目


 才蔵とお泉のふたりが洞穴の湯に溶けていた頃、粗末な小屋のよ
うな家が並ぶ一軒の屋根の下に女たち三人が集められていた。
 女たちは三人ともに歳の頃なら二十代の終わりから三十そこそこ。
最前、千代がくノ一だった者が三名いると言った、その三人だと思
われた。
 千代が言う。静かな声だ。
「まあ楓を救ってくれたんだ、差し迫った敵ではないだろうけど目
を離さないことだね。あのふたりはできる。男のほうは見ず知らず
の我らに囲まれ、刀を委ねていながら平然としていた。イザとなれ
ばいつでも奪い取って抜けるからだよ」
 女たち三人は顔を見合わせてうなずいて、そのうちのひとりが言
った。
「女が持つ杖だって、あれは仕込み。女も強いと見たけどね」
 千代がうなずく。
「我らが束になってもおよばない、あのふたりはそういう者どもだ。
あのときの言いぐさを聞いただろう。『流れ流れた木っ端のトゲが
艶布を引っかけた』・・女のことをツヤ布だよ。浪人の成りはして
いても、かなりな家柄の武士と見た。心しておかねばならぬだろう」
 女たちはふたたびうなずき合って、千代の前を離れて行った。

 そしてそれと入れ替わりに洞穴の湯から駆け戻ったお邦が、にや
にや笑いを噛むような面色でやってくる。
 千代が問うた。
「どうだった? 何が可笑しい?」
「ふふふ、どうもこうも、あのふたりはじめてのようだった、抱き
合うのが」
 千代がちょっと眉を上げた。
「そう見えたかい?」
「女が恥じらって『嬉しい』って言い、男が『俺もだ』と言うと、
女は『ほんと? ほんとのこと?』って甘えてた。男はやさしい。
女のほうから惚れてるって感じでさ、見てて羨ましくなってくる」
 千代はちょっと笑って考える素振りをすると、独り言のように言
うのだった。
「だとすると恋仲、それもはじまったばかりの男と女。それで? 
ほかには?」
 お邦は聞き取れなかったと首を横に振ったのだった。
 千代が言う。
「考えすぎか・・悪い癖だね。まあいい、しばらく様子を見ようじ
ゃないか」
 お邦は笑いながらちょっと頭を下げて部屋を出た。

 洞穴の湯を出た才蔵とお泉だったが、そのときはまだ斜陽には早
い刻限で、傾きだしたお日様が背後の崖の上に浮いている。
 この湯へ来るとき、ある家の裏から回って来たのだったが、洞穴
を出てふと見ると、そちらが表と思われる道筋が見えている。才蔵
を離れてちょっと覗いたお泉が、たちどころにあることに気づいて
いた。
「ごらんよ、家々は道筋の左右に分かれていて真ん中を道が貫いて
る」
「うむ? それが?」
「道は狭いよ。そりゃそうさ、ここはもともと人が住む家じゃない
からね。番屋とは納屋も兼ねるもの。荷車を引くにしても道筋はま
っすぐ通っていたほうがいいはずさ」
 なるほどと才蔵は思う。せっかく筋の通る道すがら、わざと邪魔
をするように、家々の何か所かから別棟となる納屋が造られて道を
遮っているのである。大勢の敵に突き進まれないために。忍びの知
恵でもあったのだろうし、それも兵法。敵への備えをしているとい
うことは戦うときのことを考えるがゆえ。

 お泉は言った。
「考えすぎかも知れないよ、女ばかりの部落だからね、逃げやすい
ようにしてるだけかも知れないし」
 一目で見抜くくノ一の眼力に、才蔵はちょっと笑ってお泉の腰を
すっと抱く。とっさにお泉は腰を振って手を遠ざけた。
「あ・・見られるだろ」
「かまわんさ、だから何だってことじゃねえか」
 おおっぴらに男女の仲を見せていい。これほど嬉しいことはない。
 お泉は唇をちょっと噛んではにかんだ。もうくノ一だったあたし
じゃない。影じゃない。そう思うと崖の上に浮いているお日様が眩
しく見えた。

 崖を西の背にするこの部落のありようだと、お日様が崖に隠れた
とたんに暗くなる。眼前の松林が明るくても家々のならぶ場所だけ
に、いきなり夕刻がやってくる。
 いまはその寸前。湯を出て佇むふたりを目ざとく見つけ、女がひ
とり歩み寄る。背丈はそこそこ。海の仕事で逞しく焼けた肌。髪は
そう長くなく、結わずに上にまとめた姿だった。海女ばかり。そう
言えばここの女たちは、年長の千代のほか髪を結ってはいなかった。
そっけなくまとめただけだったし、潮にやられて髪の毛が赤茶けて
いる。厳しい暮らしを物語るようだった。
「家を用意しました、こちらへ」
「うむ、すまぬな、世話になる」
「いえ・・」
 女は、男の腰の低さにあらためて探るような目を向けて、横を歩
きながら言う。
「あたしは涼、涼しいと書いて涼」
「そうか、お涼さんか。ときに、ここの女たちは髪を下ろしたまま
のかい?」

 なにげなく訊いたとき、お涼は、なぜかそばを歩くお泉へと目を
やって、ちょっと笑って言うのだった。お泉は見事に結い上げた黒
髪だった。
 お涼は言う。
「あたしらみんな海女なんだよ。朝には海に出て働いてる。髪なん
てなくたっていいくらいさ、男がいるわけじゃないんだし」
「採ったものを売ってか?」
「もちろんそうだけど、売るより喰うためって言ったほうがいいだ
ろうね。近くで菜物なんかを仕入れるときに畑のものと交換するっ
て感じかな。たくさん採れたら買い付けの船が来るから売るけどさ。
合図があってね、たくさん採れたら旗を立てるって寸法なんだが、
だいたいは喰うだけ採ったらおしまいにする」
「厳しい暮らしだな」
「それはね。けど、あたしらはそれでいい。身の丈以上のものを求
めない。あたしはくノ一だった。陸奥(むつ 福島~青森あたり)
のさるお武家に仕えていたけど、あたしの役目は色じかけ。哀しく
なって逃げたんだ。抜け忍なんだ、ここのほかでは生きていけない」
「そうか、すまぬ、つまらんことを訊いたな。けどよ、ここのみな
はキラキラしてら」
「え?」
「これほどの海が相手よ、人また人の煩わしさから解き放たれてな。
おめえさんも忘れちまえ。おっと、思い出させた俺が言う台詞じゃ
なかったな。ふっふっふ」

 お涼は何を思ったのか、ふいにお泉に向かって言うのだった。
「楓のこと礼を言うよ。妹分なんだ。あたしだってくノ一だったけ
ど、知ってのようにくノ一にもいろいろあってね。剣もダメ、毒を
盛ったことはあっても毒なんてつくれない。忍び込むのも下手だっ
たし、そうなると奉公してでも入り込むしかないじゃないか。娘の
頃から女中だった。ずっとそうやって生きてきた。年頃になると、
わざと裾を乱してみたり、男どもの気を引くようにさ」
 才蔵は言う。
「それは役目だ、おめえさんが汚れたわけじゃねえからな、心得違
いするんじゃねえぞ」
 お涼はハッとするように才蔵を見つめていた。
「やさしいんだね、ありがと。さあここだよ、じきに夕餉を運ばせ
るから」
 わずかな歩みで家の前。そこもまたちっぽけな小屋だった。引き
戸の板戸がガタピシ開けられ、入ろうとしたときに、となりの家か
ら、お邦が出て来てにやりと笑った。

「あっ、こらてめえ、ぶった斬るぞ、着物の帯をよ」
「へんっ、べーダ! ヤなこった! あははは」
「てめえ、待てこらっ!」
 追いかける素振りをするとお邦はすっとんで逃げていく。
「ふっふっふ、どうしようもねえ娘だな」
 そんな様子を呆れて見ていて、お涼が言った。
「お邦が何かしたのかい?」
「覗きやがったのさ、湯をよ」
「あれま」
 お涼はくすっと笑ってお泉を見たが、お泉はそっぽを向いて、ち
ょっと怒った面色だった。
 お涼は言う。
「そうだったのかい、ふふふ。お邦は十五、いちばん若い。ふざけ
てばかりで、どうしようもないんだよ。許してやっておくれね」
 才蔵は首を振る。
「端から怒ってなどいねえや。平素が女ばかりで男がめずらしいん
だろうぜ。夕餉が済んだら遊びに来いって言っといてくれねえか」
「うん、わかった。じゃあ、じきに夕餉だからね」

 家に入って板戸を閉めて、お泉は呆れて笑って言う。
「たまらないね、会ったそばから魂抜いてる」
 言いながら、お泉は才蔵の胸へと流れて抱かれていった。心がど
んどん崩れていく。この人のためなら何でもできると思えてくる。
「夕餉か、ちと早い気がするが」
「海女は朝が早いから」
「なるほど。そう言やぁ、若狭の海でも暗いうちから船が出たな」
「そうだね。けどもう若狭には・・遠いよね」
「うむ、俺もそうさ、若狭どころか、江戸だろうがどこだろうが、
侍など見たくもねえ」
 そう言って抱きくるまれて、背をそっと撫でてくれる才蔵。今宵
あたしは抱かれると、お泉は心が震えてたまらない。

 小屋の中は、入って土間、一段高くて板の間で、板床の奥のとこ
ろにすり切れた畳が二枚敷いてあり、布団が二組。夜具の間を空け
ることもできなそう。畳にすれば五畳ばかりのいびつな部屋。炭の
燃える大きな火鉢に鉄瓶がのっていて、いまに湯気を噴き上げそう。
厨も厠もない、まさしく小屋だったのだが、お泉は草源寺の狭い庫
裏を思い出し、それより狭いと可笑しくなった。
 つっかえ棒で開けた小窓が造られていて、閉じれば闇がやってく
る。
 部屋に上がったふたりは座布団さえない板の間に申し訳程度に敷
かれた畳に座り、お泉が立って茶を淹れて、ふたたび座った。草源
寺で感じたよりもさらに気の抜ける、ふたりの間合い。
 ほどなく板戸がガタピシいって開けられて、お邦が膳を二つ運び
込む。
「これは美味そうだ、貝に魚か」
「地物の牡蠣だよ、それに冬ならカレイだね。美味いよー」
「おめえの膳はねえのかい?」
「あたしは向こうでみんなとさ。邪魔しちゃ悪いし。ふふふ、姉様
言ってた。お涼の姉様」
「おうよ? 何と?」
「お泉ってお人が羨ましいって。あたしも思うよ、羨ましいって」
「そうか、じゃあ後で来いや。海のことでも聞かせてくれ」
「けどさ・・」
 お邦は上目がちにお泉を見た。
「いいから来い、覗いた罰だ、尻めくってひっぱたく、ふっふっふ」
 チロと赤い舌先を覗かせて、頭を下げてお邦は出て行く。

 このとぼけた間合いは何だろうとお泉は思った。あのとき剣を抜
いた才蔵は鬼神のごとく強かった。なのにいま、まったくそこらの
男に成り下がる。どうしようもなく惹かれていく。お泉の体は火照
っていた。


一話 海女たちの海


 そそり立つ背後の屏風岩に守られるようにある女ばかりの部落。
村と言うにはあまりに小さく、それはさながら海女どもの集まる海
の番屋のようなもの。数軒のあばら屋、そこに暮らす女どもは総勢
十四名だと言うが、四十そこそこの歳嵩の千代のほか女たちはだい
たいが若かった。上でも三十そこそこ、下は十代。女ばかりが身を
寄せ合ってできたばかりの部落であれば家はもう少し新しくてもよ
かっただろう。海風を防ぐためか家々はすべてが平屋で、仮建てそ
のものの古い小屋の集まりといった部落である。
 密書を携えた武士を救ったと言うが、そんなものはにわかにつく
った言い逃れではないか。あるいは、かつてそういうことがあった
としても、それとこれとは話が違う・・おおよそそんなことではな
いかと、このとき才蔵は考えた。

 才蔵が千代に問う。
「そなたらは海を生業(なりわい)に?」
 千代は言った。
「女たちを見てもわかるように我らは海女の部落でね。ここらの海
は見た目は浜だが急深で、一泳ぎもすれば底は岩。貝などたくさん
穫れるんだ。浜伝いに少し行けば岩の海だし、船などなくても漁は
できる。もともとここは近くの村の番屋の集まりだったんだが、嵐
で高潮にやられてしまった。大勢死んだ。それで村ごと、もっと北
に移っていったさ」
「なるほど、それでここに?」
「もう五年になるかね。おまえ様のように江戸から来た者もいれば、
もっと北から流れてきた者もいる。皆が貧しい。十二、三で売られ
ていく娘たちが多いんだ」
 そのへんのことについて嘘はないだろうと才蔵は思う。
「まあ話はわかった、俺は才蔵、よろしく頼む」
「才蔵様」
「様などいらぬ。侍扱いはまっぴらだ。流れ者ゆえ、どうなりと呼
ぶがいいぜ」

 千代は眉を上げて小首を傾げると、すぐ隣りに座るお泉に目をや
ってちょっと笑った。
「おまえ様方、なさぬ仲というわけでもないだろうに」
 才蔵は言う。
「流れ流れた木っ端のトゲが艶布を引っかけた・・とでも思えばよ
かろう」
 お泉が呆れたように才蔵を流し見た。どうしてこう粋な言葉が浮
かぶのか。
 千代は目を細めて浪人姿の男を見つめている。そんな言い回しに
育ちの良さを感じたからだし、気取らない男の性根を見抜いていた。
 千代は言う。
「北へ行くのかい?」
「そのつもりだったんだが、なにぶん冬ゆえ、まずは行けるところ
までと思ってな。されど風が冷えてきた」
「ふふふ、わかった、留まりたいなら、それもいいさ」

 千代は、間近にいた若い娘に目配せすると、座を立ちながら才蔵
に向かって言う。
「空き家をつくる。ちょいと待っておくれでないかい」
「空き家とは?」
「四人殺られたって言っただろ」
「ああ・・そういうことか」
「支度する間、湯にでも浸かって温めるがいい。それがあるからこ
こはいいのさ。お邦(くに)、おふたりを湯へ」
「はい頭・・ぁ」
 頭と思わず言ってしまった娘の目がちょっと笑って、舌を出す。
お邦はまだ十六、七の娘であった。

 お泉とふたり外に出て、猫の額ほどの平らな岩の上にかたまった
数軒の小屋のような家々を縫って行くと、背後のそそり立つ岩壁に
ぶちあたる。そこに斜めに岩が裂けたような洞窟があり、少し入る
と湯が溜まって湯気が上がる。温泉が湧き出していたのだった。
 洞窟の口に向かって板で組んだ目隠しが屏風のように立っていて、
その向こうが脱衣、さらに先の一段下に自然のままの岩の凹み。ご
つごつとした岩風呂で透き通った塩泉だ。
 才蔵もお泉も目を見張る。
「ほう、湯が湧くか・・」
 お邦という娘は小柄で丸顔。背丈はまあそこらの女なりだが童を
そのまま大きくしたような、くりくりした目をしている。
「夏にはちょっと熱いけど、いまぐらいならちょうどいいと思うよ。
出たらそのへんにいてくれれば誰かが見つける」
 くすっと笑って背を向けたお邦を才蔵は呼び止めた。
「おいおい、てえことはだが・・」
「そりゃそうさ男女の別などありゃしない、女ばかりの部落なんだ
し・・うぷぷ」
 そっぽを向くお泉を察してお邦は笑い、駆け去っていく。

「ふむ・・まあ、そういうこった、ともに浸かるか」
 お泉は声も出せず、横目に才蔵を睨みつけた。
 寺の庫裏で寝間着越しに抱かれたことはあっても素肌に触れられ
たことはない。この人と一緒にいると、どうしてこうなってしまう
のか。呆れて物も言えない。
 粗末な板を立てただけの目隠しの裏側に青鞘の刀を立てかけて、
さっさと脱いでいく才蔵。お泉は背を向けたまま動けなかった。
 湯の乱れる音がした。
「おおぅ、いい湯だ、おめえも入れ、こりゃあいいぜ」
「ちぇっ、何言ってんだか・・たたっ斬るよ」
 そんな言葉とは裏腹にお泉は頬が燃えるようだった。もうもうと
した湯気に白む中に立っていて、だからこそ夢のようで恥ずかしい。

 才蔵の刀に寄せて白木の仕込み杖を立てかけて、脚絆を外し、帯
を解き、そのときチラと目をやると才蔵の白い体が透き通った湯に
揺らぎ、向こうを向いてこちらを見ない。引き締まった若い背中。
 着物をはだけて肩からするりと滑り脱ぎ、それだけでお泉の白き
裸身は桜色に染まっていた。

 お泉は二十七だった。もちろん小娘であるはずもなく、けれども
この人と見定めた男の前では震えてしまう。寺の庫裏でそっと抱か
れ、それにしたって胸が高鳴り眠れなかった。
 くノ一を捨てろと言われ、こうしてふたり旅をして、なのにまた
面倒に巻き込まれ、そうかと思うといきなりふたりきりの湯に浸か
る。何もかもが夢のよう。そうとしか思えなかった。

 ちゃぷ・・。

 足を入れ、一歩踏み込み、そっと沈む。湯は浅く胸まで浸かるこ
とはできそうもなかった。
 才蔵が振り向かずに流れて寄って、素肌の肩をそっと抱かれる。
お泉は自ら身をひねって抱かれていった。しがみついていないと何
もかもを見られてしまう。
 男の目を見つめ、ごまかそうとして笑うのだったが、女の目は据
わり、才蔵の眼差しからは逃げられない。息が乱れた。

 くノ一が若きひとりの主に付き従い、役目を果たそうとすると、
どうしたって闇の中でふたりきりとなるものだ。楓もそうだ、あの
ときのあたしのように寄り添って眠ることもあっただろう。
 けれどもこうして素肌を合わせて抱かれていると、せめていっと
き役目を忘れ、女として生きてみたいと思えてくる。お泉は湯の濡
れを言い訳に泣いていた。泣き震えて肩が揺れる。

「村雨兄弟とはな」
「知らないね、聞いたこともない名だよ。それに妙だ」
「そう思うか。おそらくはとっさに繕った話だろうが・・はぁぁ」
 才蔵のため息が可笑しくなってお泉は笑った。
「・・なんてこった」
「ふふふ、ほんと、なんてこった。あたしが言いたい台詞だよ。楓
って名を聞いたとき、あたしだって放っとけないって気がしたさ。
楓を斬ったのは女だね。毒の刃はくノ一のやり方さ。男の力で剣を
振るえば傷はどうしたって深くなる。あれは匕首(あいくち・短刀)
の傷。崖の上で襲われたのか、崖まで逃げて転がったのか。とっさ
に交わして交わしきれず、だから傷が浅くて済んだのかも知れない
し」
「おおかたそんなところだろうが、おめえのおかげだ、よく救って
くれたな」
「けど肌に傷は残る」
「うむ。若ぇえのに可哀想なこったぜ。ここにも隠された何かがあ
る。しかしなぜひと思いにやらねえのか? そうできない理由があ
るからよ」

 素肌の胸板越しに響く声は男らしく、お泉は胸に頬を添えて眠る
ように聞いていた。

「・・嬉しい」
「俺もな」
「ほんと? ほんとのこと?」

 才蔵は、胸に頬を委ねたまま見上げるお泉に微笑みながらうなず
いた。男の腕が女を引き寄せ、そのときそっと目を閉じたお泉の唇
に男はそっと口づけた。
 そのときだった!

「うぷぷ・・ぅくくっ」
「こらてめえ! 覗いてんじゃねーや!」
「ごめんよごめんよー、うぷぷ、きゃーだわ、きゃー! あははは」
「何がきゃーだ、おめえはお花かぁーっ!」

 お邦がばたばた駆け去って行く。

 才蔵は腕の中のお泉を見つめてぼそりと言った。
「おもしれえ小娘だ」
「ぅくっ・・あーあ、なんてこった・・」
 お泉は可笑しくなって笑ってしまう。幼いお花は、いまごろ仁吉
やお香や、やんちゃな十吾に囲まれて笑っているのだろう。泣いて
泣いて見送ってくれた幼い兄弟の姿が心に焼き付いて離れなかった。


終話 波濤の村


 師走もなかばになろうとした。冬としては温かいおかしな冬では
あったのだが、それでも風は冷えてきていた。
 才蔵とふたり、旅姿のお泉は、表街道を避けて海沿いを行き、常
陸の国(ひたち 茨城あたり)の白波立つ海を見ながら歩いていた。
草源寺を出てふらりふらり。三日ほどが過ぎていた。
 江戸から少し離れるまでは表街道を行きたくない。江戸への出入
りに巻き込まれるのはまっぴらだった。それゆえに東海道は避けた
かったし、こんなことのあった後だけに駿府に近い伊豆というのも
気乗りがしない。役人どもの姿さえも見たくない。海沿いには旅籠
などない漁師の部落が点在していて、そうした家々に一夜の宿を借
りて歩みを進めた。

 北へ行こう。そうは思っても、なにぶん冬。常陸でもよし、陸奥
(むつ 福島から青森あたり)でもよし。どのみち行くあてのない
旅だ。雪が来る前に行けるところまで行こう。江戸より北は才蔵に
とってもお泉にとってもはじめての地であった。
 お泉は思う。北は遠く雪は白い。くノ一であった身の上を消し去
って、これまでの汚れを白い雪で覆い隠す。そんなことができれば
いいと願っていた。
 このままもう少し海べりを歩き、江戸から離れたところで陸側に
向けば奥州街道に入って行ける。旅籠もあれば湯もあって、忍びの
役目ではないゆるりとした旅路に酔っていける。夢を抱いて歩いて
いた。

 そこはわずかな砂浜。人の背丈の倍ほどの岩の崖が左にあって、
右は海。白波立つ冬の潮が押し寄せて、若狭の海を思い出す。冬の
若狭は鉛色。寒風が吹き寄せて海が荒れる。しかし見渡す限りの大
海は、空が青く、海が青く、白波が絵のように美しい。
 役目を忘れてふたりで行ける。お泉にとって目にするすべての景
色が光り輝いていたのだった。
 砂浜は岩の崖の凹凸に沿って左にゆるやかに曲がり、崖に隠され
ていた行く手の浜がひろがりだしたところで、才蔵もお泉もほぼ同
時に、崖下に倒れる人影を目にしてしまう。
「行くぞ」
 走りたくても砂に足を取られ、北からの向かい風がなおいっそう
邪魔をする。

「おい・・おい! どうした、誰にやられた!」
 粗末な成りの若い女。崖から落ちたことで裾がまくれ、腿の中ほ
どまでが陽に焼けた女の肌が露わ。背中に袈裟斬りの刀傷、しかし
浅く息がある。
「ぅぅ・・ぅむむ・・む、むらさめ・・きょうだい」
「村雨か? 村雨兄弟と言ったか?」
「ああそうだ・・うぅむ」
 そしてそのとき、崖裏から急傾斜を滑るように大勢の者たちが降
りてくる。前から五名、後ろから七名、いずれもが若い女どもで、
着物は粗末。毛皮のチョッキ、手に手に漁具の銛(モリ)や長ナタ、
木でできた船の櫂(かい)や長い棒を手にしている。
 その成りからも、ここらの部落の女どものようだった。

「てめえ、村雨だな! よくもやりやがったぜ、おおぃみんな殺っ
ちまえ!」
「おおぅ!」
 一斉に中腰となって身構える女ども。才蔵は、瀕死の女をお泉に
診させておきながら、囲む女たちに立ちはだかる。
「待て待て、村雨兄弟とは何者だ、我らは違う、旅の途中、通りが
かっただけの者」
 そしてそのとき女の傷を診たお泉が言った。
「浅いよ、早くしないと」
 才蔵はうなずくと囲む女たちに言う。
「聞いた通りだ、早く運べ、女は助かる」
 囲む女どもは顔を見合わせ、姉貴格と思われるひとりが、切っ先
のギラつく銛をそれでも構えながら問う。
「まこと村雨兄弟ではないのだな?」
 才蔵は声を荒らげた。
「くどい! 問答してる暇などねえ! 早く運べ!」
 女どもは顔を見合わせ、手にした武器を一斉に降ろすと、倒れた
女の元へと駆け寄った。
「楓! 死ぬな楓!」
 楓・・お泉は配下だった同じ名の女をとっさに思い、才蔵もまた
よく知る楓の姿を思い出す。

 斬られた楓は若かった。明らかに十代。海での暮らしで着物から
出るところが褐色に焼けている。
 倒れた楓に女たちは群がるが、ひとりで背負うには足場が砂で悪
すぎた。
「どけ、俺がおぶる」
 才蔵は青鞘の大小を腰からひっこ抜くと女のひとりに手渡して、
瀕死の楓を背におぶる。
 崖を回り込み、急坂をジグザグに登る道筋を歩き、崖の上に上が
ってみるとそこは松の林。松林を抜けて歩くと、そそり立つ岩と岩
の間に粗末な家が数軒並ぶちっぽけな部落があった。
 楓をおぶって才蔵は走り、家の一軒に運び込むと、そこから先は
お泉の出番。くノ一は傷の薬を携えている。

「うわぁぁ痛いぃーっ」
「手足を押さえな! 手ぬぐいを噛ませるんだ! 楓と言ったね、
沁みるけど我慢だよ!」
「うわぁぁーっ!」
 壮絶な悲鳴が粗末な家に響いていた。

 才蔵は同じ家の中にいて、部屋を離れ、女ども数人に囲まれてい
た。剣は持たない。大小ともに委ねたまま。
 ほどなくして、四十前ほどの年増女がやってきて、才蔵の前に腰
掛けた。年増であっても体は締まり、海の仕事で焼けている。
 女は才蔵の目をしばし見つめると、刀を委ねられた若い女に言う
のだった。
「返しておやり、このお方は違うようだ」
 囲む女たちの怪訝な面色が一斉にやわらいで、女が青鞘の大小を
才蔵の座の前にそっと置く。そのとき女は小声で言った。
「すまなかったね」
「うむ、かまわんさ、楓とかいう娘はきっと助かる」
 女はこくりとうなずいて数歩退いて控えている。
 そしてそのとき、奥の部屋から若い女がやってきて、才蔵に向き
合う年増の女に耳打ちした。
「ほう、見事なものだと・・」

 年増の女はちょっと笑うと才蔵に向かって言った。
「おふたりは旅の途中で?」
「そうだ、三日前に江戸を出たばかりでな」
「左様で。あたしは千代、こう見えても元はくノ一。この部落は女
ばかり。身売りが嫌で逃げて来た者、奉公先で男どもに嬲られた者、
あたしのようにくノ一だった者もいる。これで五人目。楓は助かり
そうでよかったけれど、ほかの四人は遅かった」
「遅かったとは?」
「惨い手口さ、ひと思いに殺りはしない。苦しませ、手当が遅けれ
ば死んでしまう」
「相手は村雨兄弟とか言ったが?」
「そう呼ばれているけどね。兄と妹の二人連れで、頭巾で顔を覆っ
ているが、年格好ちょうどおまえ様方のようなもの。どちらも剣を
使い、兄は武士ふう、妹の方は得体が知れない」

 才蔵が問うより先に千代は言った。
「ときに、おまえ様の連れのお方は? 傷の手当てが見事だそうだ
けど?」
「お泉と言ってな、くノ一だ。いまは違うが」
 千代は眉を上げて納得し、そのときちょうど傷の手当てを終えて
お泉が部屋へとやってくる。
「傷は浅いが毒の刃」
「毒?」
「ありきたりのやり口さ。毒消しを施してある。手当が早かったか
ら、おそらく持ち直すと思うよ」
 才蔵はうなずいて、すぐ横に腰を降ろしたお泉の膝にそっと手を
置く。千代も、そのほかの女たちも、そうした才蔵の振る舞いを見
つめていた。
 千代がお泉に向かって言った。
「礼を言うよ、ありがとね」
 お泉はちょっと頭を下げたが笑みはすぐに真顔に変わった。

 才蔵が千代に問うた。
「どういうことだ? なぜ狙われる?」
 千代は、周りを囲む女たちを見渡して、浅いため息をつくのだっ
た。
「少し前のことだけど、手傷を負って逃げていたお侍をかくまった。
傷が癒えて逃がそうとしたときに追っ手がやってきて、お侍は逃げ、
その後どうなったかは知れないが、あたしらが狙われるようになっ
たんだ。お侍はどうやら何らかの密書を携えていたようなのさ。け
どそんなものはあたしらは知らない。預かった覚えもないしね」
「密書を出さぬなら殺るぞってことか?」
 千代はうなずく。
「村雨兄弟は金で人を殺る殺し屋なのさ。チクチク針で刺すように
惨いことをする。殺しを楽しむようにね。あたしら総勢十四名。四
人殺られてその数だし、襲って一気に皆殺しってやり方じゃないん
だよ。ここらのどこかに潜んでて、ひとりずつ嬲るように手にかけ
る」

 妙な話だと才蔵は考えた。密書などというものを押さえたいなら
大挙してやって来て総ざらえが常道だろう。
 この部落にも何かがありそうだ。やれやれ・・またしても流れ者
の流れが澱んでつっかかる。そう思うと可笑しくなった。

 千代は言う。
「あたしのほか、くノ一だった者は三人いてね、それぞれが甲賀で
も伊賀でもなく流派とてない名もなき一族の末路だよ。あたしは親
父様の代までは風魔。けどあたしが生まれる前に滅亡した」
 そこまで言うと千代はお泉に控えめな目を流し、なおも言った。
「その残党などてんでに散って、なのにあたしは忍びとして育てら
れた。ふたりいた兄が死に、ようやっと独りになれたあたしは、こ
こで女ばかりの部落をつくった。と、そういうことでね」
 奥の部屋から、また先ほどの女がやってきて、今度ははっきり声
に出して言う。
「ひどい熱なんだ、どうしよう」
 千代より先にお泉が言った。
「毒消しが効いてきたんだよ、体を冷やしておやり、傷が開かない
ようにしてれば大丈夫」
 それを聞いた千代が女に向かってうなずいて、女は、お泉に浅く
頭を下げて奥へと消えた。

 千代が言う。
「さて、足止めしちまって悪かったね、どこへなりと行くがいいよ。
楓のこと、ありがとね」
 才蔵が言う。
「てえ訳にはいかねえな、せっかく救った楓とやらが、ふたたび斬
られてはたまらねえ」

 そう言うと思っていた。お泉は、きらきら輝く才蔵の目を横から
見つめた・・。


『流れ才蔵』完  
引き続き、追って『続・流れ才蔵』を短篇としてスタート。
次作は、R18ではありませんが少しだけ艶っぽく。
 


十七話 対峙


 頭巾の女がふたたびやってきたのは、明日から師走(十二月)と
いう、霜月(十一月)最後の日。桜の葉もすっかり散って、けれど
も冬でも葉のある生け垣だけは濃く青い越冬葉をつけていた。

 今日は茶色頭巾の女。境内を滑るように歩み、滑るように去って
行く。昼を少し過ぎた刻限で、そのときも寺には才蔵ひとり。皆は
買い出しに出ていなかった。
 金はその包み嵩から五両と思われ、受け取った才蔵は、ともに歩
んで門の間際の大石のところで立ち止まる。
「お待ちあれ」
 女は背に向けられた声を受け、静かだが明らかに身構えるように
立ち止まり、しかし一瞬後にしなやかに振り返る。
 才蔵は、あえて納屋を振り向く素振り。女の視線が才蔵の目の行
き先を追うようについてくる。
「なんぞ?」
「話されずとも結構にござる、ただお聞きくだされば」
 女はちょっとうなずいて頭巾の中から見つめている。若くはない
が澄みきったいい目をしている。

「どなた様かにお伝えいただきたい。『この家は光の中にあり、た
だただ長く安穏が続くのみ』・・と」
 女はその言葉を心で噛むように沈黙し、そして言った。
「はて? 何のことやら解せませぬが?」
 才蔵は微笑んでうなずいて、北風に冷えた大石に手を置いた。
「何も申されずともよいのです。ついてはひとつお願いしたきこと
があり・・火種は拙者が消し去って、拙者もまた消え去るでしょう」
 それから女は才蔵の言葉に耳を傾け、されど沈黙したまま去って
行った。

 数日後の筑波の山寺。
 穏やかな時の中に息づくような美しき女性(にょしょう)は、そ
のとき少し風のそよぐ庭先を見やりながら言うのだった。
「ほう・・この家は光の中にあり、ただただ長く安穏が続くのみと、
そう言うか・・ふふふ、なるほどのぅ、その者さぞや、ただ者では
あるまいて」
 頭巾の女は、このときもちろん頭巾などはしていない。お付きの
女は言うのだった。
「左様にござりまするな、よもやそのようなことを聞こうとは」
「家光様、忠長様、どちらもが安穏・・ふふふ、なるほどのぅ。わ
かったぞ、その者の思うようにさせてやるがよいと思うが」
「かしこまりましてござります、ではそのように」

 師走となり、一日また一日。今年は冬が遅いようで風はぬるく陽
射しが注ぐ。その夜もまた夕餉に間に合うように仁吉がやってきて、
童らの声が絶えない賑やかな時が流れていた。
 今宵仁吉は祝言の日取りが決まったと言いに来た。普請の仕事は
雪が降れば止まってしまう。冬冷えが来る前の大仕事で大工は忙し
い。祝言は春というのが慣例なのだが、正月休みに集まろうと話が
できた。浜町にいる仁吉の親、大工の親方や大工仲間、できるなら
越後の山奥にいる仁吉の生みの親も呼んでやりたいところなのだが、
越後はすでに雪に閉ざされ、春が来て、お香とそれから十吾やお花
も連れて会いに行こうということになっていた。

 夕餉がすんで才蔵ひとりが抜け出して庫裏にいた。しばらくして
お泉がやってきて、ため息をついて苦笑する。毎夜毎夜同じような
ことの繰り返し。これが幸というのものなのだろうとお泉は思う。
「何も変わらないね、可笑しくなるくらい」
「まったくな、やってられん」
 夜具をのべ横になる刻限がやってくる。それもまた日々の繰り返
し。夜具の間に隙間をつくり、お泉が背を向けて横になる。今宵は
とりわけ風もなく、静かに沈む闇だった。
 しかしそのとき、お泉はサッと横に転がり、仕込み杖を手にする
と身を翻して身構えた。才蔵ももちろん気配には気づいていたし、
あえて気配を消さずに忍び寄ることを察していた。
「よいよい、相手は知れてる」
 お泉は、そんな話は聞いていない。才蔵は手をかざしてお泉を留
め、寝間着の上に綿入れを羽織って、そっと裏口から外へ出た。

 そこは薪割り場。今宵も見事な丸い月。
 積み上げた薪の束の陰から小柄なくノ一が滲むように現れた。小
柄でも手練れ。腰の剣もかなり使うだろうと思われた。
 あのときのくノ一に違いない。片膝をついて頭を下げる。
「お伝えするよう申しつかって参りました」
「うむ、ご苦労、寒いのにすまぬな、風邪などひくなよ」
 くノ一は、まさかというように才蔵の姿を仰ぎ見て、ふたたび深
く頭を垂れて、それからそっと顔を上げた。そんな言葉をかけられ
ようとは思ってもいない。
「僧は二手に散っており、片や巣鴨の古寺に三名、片や本郷の旅籠
に四名。なれど僧どもの頭とおぼしき者は巣鴨かと」
「そうか、わかった」
「巣鴨へ参られれば敵に動きあるともつなぎはとれるようにしてし
てござりまする。ではこれにて・・」
 くノ一は、片膝のまま深く礼を尽くすと身を翻し、闇の中へと滲
んで消えた。

 翌日の巣鴨。
 寺をひとりで出たはずが、旅姿のお泉が白木の杖を手に、いつの
間にか影となる。才蔵は気づいていながらちょっと笑って歩みを進
めた。

 そこはいまにも朽ち果てそうな小さな寺。参勤交代で諸藩が屋敷
を造りだし、その敷地漁りで、こうして打ち捨てられる寺や神社が
そこらじゅうにあったのだ。金とは怖いものだと考える。
 だがそこは破れ寺といってもちゃんとした門があり、境内もそれ
なりに広かった。才蔵は迷うことなく踏み込むと、それまで気配の
失せていた本堂の左右から、薄汚れた法衣をまとった若い僧がふた
り現れ、ふたりともに錫杖を構えて才蔵に突きつけるのだった。
「そなたらの同胞を五人斬った」
「貴様、なぜここがわかった?」
「そのようなことはよい、頭目に会いに来た」
「何ぃ・・おい殺れ」
 しかしそのとき表の様子を探っていたもうひとりの男から声がか
かる。落ち着いた老いた声だ。
「待て、よいから退け」
 ふたりの若い僧が錫杖を降ろし、滑るように一歩退く。

 本堂の板戸が軋んで開いて、あのときの老僧と同じ年格好の老い
たひとりが姿を見せた。歳の頃なら七十に近いだろう。
 老僧は言う。
「何ゆえ参った?」
「話がしたくてな。上がってよいか?」
 老僧は才蔵を強い目で見下すと、左右に散ったふたりに目配せし、
背を向けて本堂へと入っていく。才蔵が追う。数段の踏み段を上が
り、履き物をそこで脱いで、草源寺とはくらべものにならない広い
板の間へと歩みを進めた。
 本尊はすでにない。何もかもが草源寺そのもの。朽ちていく寺に
は仏さえも無用の長物なのだろう。
 上座に老僧、その左右に若いふたりが今度は剣を左に置いてあぐ
らで座る。才蔵は青鞘の大小を腰から抜くと、座の右に揃えて置い
て腰を降ろした。
 老僧は、そうした才蔵の振る舞いから眼光もいくぶんやわらいで、
まずは聞くつもりになっているようだ。

 才蔵が言った。
「まずは竜星和尚の言葉を伝える。書き置きが見つかってな」
「ふむ、何と?」
「それを知って何とする。人として想い、人として恥ずべきことの
ないように、と」
 三人は顔を見合わせるでもなく、ただ黙って聞いていた。
 老僧が言う。
「そなたは公儀の手ではないのだな?」
「無論だ。まっぴらだね、まっぴらごめんさ」
「何?」
「武士などまっぴら。俺は流れ流れて漂うだけの男でござるよ」
「では何ゆえ剣を抜く?」
「寺を襲われれば女子供は守らねばならぬ。そなたらがふたたび襲
うとあらば皆殺しにするだろう」
 老僧はともかくも左右の若いふたりはいまにも飛びかからんばか
り。しかし才蔵は身じろぎひとつしなった。

 才蔵が言う。
「そなたらは忠義の武士。亡き忠長様に尽くす者とお見受けいたす。
拙者とて武士のはしくれ。そのような者どもに死んで欲しくはない
のです。伊豆へ戻られ、主君のために祈られよ」
 老僧はシワ深い目を向けて視線を外さず、才蔵の真意を探ってい
る。
 才蔵は言った。
「さるお方がおいででな、そのお方は、亡き先代将軍ならびに亡き
忠長様のどちらもを想い、日々仏に手を合わせておいでなのだ。は
るか高みの殿上人ぞ。徳川の中にも真を知って心をいためておられ
るお人がいる。忠長様の無念を想い、どうか許せと祈るお人がおる
のです」
 老僧は目を細めつつ、それでもまっすぐ才蔵を見つめている。

 才蔵はなおも言う。
「さらに、いまさらそれを暴いたところでそなたらに何ができる。
すでにこうして居場所など筒抜けだ。倒幕の企てなど拙者は知らぬ、
どのようにでもするがよかろう。されどそれには力を蓄えねばなら
ぬ。どれほどの者が賛同するのか見極めねばならぬであろう。そな
たらの真はそこにあるのか。忠長様の無念をそなたらよりも想い、
一心に想い、手を合わせておいでの殿上人がおいでなのだぞ。徳川
にあって忠長様は孤立無援ではない。それでいいのではないか。こ
こで動けばそなたらごとき踏みつぶされてしまうだろう。ここは皆
を伴って退き、主君をご供養せしめ、その後また決起するならそれ
もよかろう。あの寺の女子供を手にかけて天上の忠長様が喜ばれる
とお思いか。哀れな孤児ばかりぞ。そなたら皆、僧ではないのか。
死ぬな、生きろ。それを言いに来たまでのこと」

 老僧は黙ったまま、静かにひとつうなずいた。
「しかと相違ないのだな? 忠長様を想って祈るお方がいると?」
「相違ござらぬ。拙者が斬ったそなたらの同胞、草源寺にて手厚く
供養しておりまする。孤児として竜星和尚に育てられた若き娘が花
をたむけて祈っておるのです。そなたらのごとき誇り高き者どもを
失いたくはない。林景寺に戻られよ、そうされよ」
 話を聞くうち左右の若いふたりはうなだれて、古い板の間の波打
つ板目を見つめていた。
 老僧は深く息をひとつして、それから顔を上げるのだった。
「わかり申した、かたじけない。伊豆にこもるとしましょうや。な
あ皆も」
 才蔵は刀を置いたまま立ち上がり、老いた僧のシワ深い手をそっ
と握った。
「お察し申す、さぞや無念」

 老僧の目の底が涙に揺らいだ。

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