女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

カテゴリ: 流れ才蔵


八話(終話) 生きる力


 捕らえた女三人は才蔵以外の皆が見守る中で裸にされて体が調べ
られ、薄い寝間着だけを与えられて縄掛けされて、千代が住む家の
土間に並んで座らされた。縄はお泉が縛る。いかな忍びであっても
縄抜けできない地獄縛り。才蔵は何も言わず、傍らにいて見守って
いる。

 一段高い板の間に座り三人を見下ろして千代が言う。
「おまえたちの身の上など訊かないよ、どうでもいい。どういうこ
とだかそれだけを隠さず言うことだね」
 敵三人の中で年長であり、その頭格とも言える琴という女は唇を
固く結んでそっぽを向き、女とも思えない大柄な峰はうなだれて声
も出せない。もうひとりの若い女、奈津が顔を上げて才蔵をチラと
見て、才蔵は隠すなよと言うように目でうなずく。
 奈津はきっちり正座をしていて背筋も伸び、まっすぐ千代を見上
げて言った。

「江戸の両国に春日屋(はるひや)という口入れ屋があり、あたし
らのような女どもを集めているんです。元はくノ一だったり遊女だ
ったりそんな女ばかりをです。それなりの女なら誰でもいい。春日
屋は女を扱う口入れ屋で、女衒どもが売りに来る娘を買って、そこ
らの女郎屋だとか料理屋だとか、ものによっては武家屋敷の女中だ
とか、そういうところに送り込んでは見聞きさせてる」
「見聞きとは?」
「いろいろ探らせているようです。それであたしらのような、それ
とは別に雇った者どもを使って話を伝える。娘らはくノ一のような
もの、あたしらはつなぎとして」
「なぜ我らを襲った?」
「娘はまだまだ欲しいのに奪われてはたまらない。追っ払って来い
と言われ、剣の使える峰と、元はくノ一だった琴が選ばれたんです。
あたしは違う。身が軽くて足が速い。張り番向きだと言われ」
 千代は、毒の苦しみからようやく解放された楓にちょっと視線を
やって、それから言った。

「村雨兄弟というのはでっち上げだね?」
 その問いには才蔵も目を上げて奈津を見る。
「いいえ、その春日屋にいる用心棒のような侍の兄弟で、よくは知
らないけど春日屋の主とは同郷らしい。主と言ってもまだ若い。四
十前の男ですけど。その村雨兄弟に駿河の海の話をよく聞かされた。
富士が綺麗で伊豆の湯も格別だとか、そういうふうに」

 駿河・・そういった連中が江戸を探らせている。由井正雪一派の
残党とみて間違いないだろうと確信した才蔵だった。

 さらに奈津が言う。
「それで、もっともらしく脅せるだろうからって、そう名乗ったん
です」
 千代が言う。
「おまえは見張りだけなのか? 手を出しちゃいないんだね?」
 奈津はうなずくと言うのだった。
「けどそれは一緒のこと。斬ったも同じ・・」
 そのとき横から峰という大女が口を挟む。
「あたしだってまさかと思ったんだ。琴に斬れって言われ、ひとり
を斬った。けど嫌で、次からは琴が毒刃で・・琴が我らに指図した
んだ」
 千代は黙って聞いていて、しかしその目は奈津を見つめて動かな
い。
 才蔵はお泉に目配せをして立ち上がり、揃って家を出ようとした。
「こいつらのことは任せるぜ。責めるなり殺るなり、どうにでもす
りゃぁいい」

 そう言い放つ才蔵に、そのとき真っ先に目を向けたのは楓だった。
『おまえならどうする?』とでも言うように眉を上げる才蔵。
 楓は、そんな才蔵に視線を残したまま言いはじめ、顔を振って千
代に視線を移していった。
「そんなことしてどうなるのさ。みんなの手が汚れるだけ。この部
落が穢れるだけ。そんならいっそお役人にでも引き渡せばいいんだ
ろうけど、きっと死罪さ」
 それきり誰も声を上げない。
 楓はちょっと才蔵に目をやって、才蔵は微笑んで深くうなずいた。
 役人には渡せない理由がある。銀である。部落に調べが来れば隠
し通せるものではない。
 千代は奈津だけを見下ろして考える素振りをすると、女たちに言
うのだった。
「そっちのふたりは連れて行け。どっかにつないでおくんだね。奈
津はお待ち」
 女たちにふたりずつ左右に付かれて連れ去られる琴と峰。そして
それと一緒に家を出た才蔵とお泉。
 奈津ひとりを残して、残る女たちに千代は言う。
「楓の心根は嬉しいね。けどね楓、罪は償うもの。許せる話じゃな
いんだよ」
 それから奈津を見据えて千代は言う。
「血の涙を流して悔いるまで、裸にして打ち据えてやりな」
 皆の目にすでに敵意は失せていた。楓の言葉が心に響いていたか
らだ。

 奈津は泣き、素直に立って自ら着物を脱ぎ去った。
「もういい! そんなの嫌だ!」
 楓が歩み寄り、渾身の力で奈津の頬を横殴りにひっぱたく。しな
だれ崩れる奈津。若く白い綺麗な体をしている。
 奈津は裸身を折って小さくたたみ、ただ黙り、ただ泣きながら楓
の足下に土下座した。
 千代は嬉しい。斬られて毒に苦しんだ楓自身が心底許さない限り
皆は奈津を許せない。千代は、皆一様に穏やかな女たちを見渡して、
ほっと胸を撫でていた。
 しかし一方、峰と琴をどうするか。罪は重く、峰はすでに言い逃
れを考えて、琴は琴でさすがくノ一、死を覚悟しているのだろう。
 そちらはあたしが決めなければならないと千代は腹をくくってい
た。

 外に出た才蔵と、ようやく梓からお泉に戻れたお泉は、自分の家
に入って向き合った。
「ご苦労だったな」
「でもなかったよ、漁なんてはじめてだったし梓の気分も味わった」
 そう言いながらお泉は才蔵の胸に寄り添って、唇が重なった。
「またしても江戸だね。行くつもりなんだろ?」
「ちぇっ、なんてこった・・」
 可笑しくてならないお泉。戻るのなら草源寺を覗いてみようと考
えて、むしろ楽しみ。笑いながら才蔵の尻をひっぱたく。
「いや、矢文でいいだろうぜ」
「矢文?」
「これより手を出すなら話は深みに行き着くぞ、江城(こうじょう・
江戸城)より・・ってのはどうだ」
「ふふふ、なるほどね。そしてそれをあたしに射れって?」
「それも違う、ともに行こう。ともに行って寺でも覗き、ふたたび
ここに戻って来よう。おめえを独りにしたくねえ。ほんの数日のこ
とじゃねえか」
「才蔵・・」
 お泉は嬉しい。見つめていると心が溶ける。
「ま、ちょいと風呂にするか」
「・・ったく馬鹿なんだから」

 三人の女どもをどうするか。いますぐ消えるわけにはいかないと
才蔵は思う。大海に洗われて綺麗になった女たちを汚したくない。
そうした才蔵の想いはお泉ももちろんわかっている。
 そして揃って家を出て、外は風もない春の陽気。女たちが外に出
て思い思いに陽射しを浴びる。昼間近の刻限で、これからでは漁に
は遅い。

 そこで才蔵は目を疑った。楓が奈津とふたりで、ひろげられて干
されてあった漁網のそばに座っていた。これにはお泉も目を見張る。
 楓が目を泣き腫らした奈津の肩を抱いていたからだ。
 奈津は冬の着物を与えられていて、長い黒髪をばっさり切って落
としていた。丸坊主が伸びたような妙な頭だ。償いの証だろう。
「おぅ楓、おめえらすでにそうなったか?」
 楓は笑い、笑えない奈津の肩を揺すっている。
「髪を剃るって言ったんだけど、それならってあたしが斬った。髪
なんてすぐ伸びる。あたしの女中にしろってお頭が言うんだよ」
「うんうん、おめえのことだ、さぞかし可愛がってやるんだろうが、
しかし楓よ」
「うん・・はい?」
 楓は才蔵の言いたいことなどわかっている。
「償いはさせねえとならねえぞ」
「言うと思った。わかってるし奈津だってそのつもり。言わなくた
って奈津がいちばんわかってる」
 奈津はまた涙を溜めてうなだれていた。楓は笑い、そんな奈津の
肩を強く抱く。

「残りのふたりは?」
 と、お泉が訊くと、それには楓の目が曇る。
「お頭が決めるって。しばらくは柱にでもつないでおくって。考え
るって言ってるんだ」
 才蔵はうなずくと楓に言った。
「明日からちょいと江戸へ発つ。じきに戻るから。・・おい奈津」
「はい」
 名を呼ばれ涙目で見上げる奈津。
「生き直すんだぜ」
 奈津は幾度も幾度もうなずいて、声を上げて泣いていた。

 そして翌朝、ふたり揃って江戸へと旅立ち、海辺の部落へ戻った
ときには睦月(一月)の初旬。家々の背の崖の緑に白く雪がのって
いた。しかし浜にも家の屋根にも雪はない。
 歩み寄るふたりの姿を最初に見つけたのはお邦だった。漁の帰り。
寒くはないといっても腿まで出した海女の姿。お邦は若い。
「あっ才蔵さん! お泉さんも! わぁぁーっ!」
「ちぇっ、よりによってうるせえのにめっかった」
 駆け寄って来るお邦の後ろに、海女姿の梓もいたが、梓は長綿入
れを羽織っている。しばらく見ない間に梓はまた陽に焼けて、元通
りの黒い梓に戻っていた。
「ねえ抱いてっ」
 駆け寄って才蔵の胸に飛び込むお邦。お泉は一歩退いて呆れて笑
う。才蔵はそんなお邦の尻をひっぱたき、そして言った。
「奈津はどうでぃ?」
「もうすっかり。やさしい姉様だし懸命に働いてる。海女を教えた
ら水を飲んで死にそうになってるし、あははは!」
「よかったな」
「うん、よかったぁ。あたし楓の姉様に惚れちゃったもんっ」
 額を小突かれ舌を出して笑うお邦。それからは子犬のように才蔵
にまつわりついて家々の並ぶ部落へと戻る。

 部落へ戻ると、才蔵とお泉の家がそのままそっと残してあった。
 家に入ってほどなくして、板戸が叩かれ、千代が明るい顔で覗く
のだった。家に中に三人だけ。千代は言った。
「あのふたり」
「うむ?」
「いろいろ考えたんだけど、やっぱりね、その罰は免れない」
 才蔵はちょっとうなずき、そして千代が言う。
「あれから数日、泣き叫ぶまで打ち据えて、ふたりともズタズタで。
そしたら皆が言うんだよ、もういい死んじゃうって。生かそうって。
ふたりとも出て行った。江戸にも戻りたくない。どっか遠くで暮ら
してみるって。どう考えてもここには置けない。その方がいいと思
ったし」
 銀の秘密を知られてからでは出せなくなる。
 才蔵は言う。
「そっから先はあいつら次第さ」
 千代はちょっと笑い、面色を変えて言うのだった。
「それでね、才蔵さんもお泉さんも、ちょっと聞いて欲しいんだ」
 ふたりで千代を見た。
「皆が言うんだよ、剣とか棒を習いたいって。部落は自分らで守り
たいって言うからさ」
 才蔵は小指の爪で耳の裏を掻きながら言う。
「根無し草に根が生えら・・なんてこった」
 千代はすまなそうに頭を下げると家を出た。

 ふたりになった家の中。

「ま、てことらしい。頼んだぜ」
 お泉の尻を撫でる才蔵。
「あたしが教えるってかい?」
「俺が斬ったら女どもが裸になっちまう」


続・流れ才蔵、完。


七話 虚しい剣


 その夜、才蔵とお泉は女たちが皆で囲む夕餉の席に加わった。若
い侍がひとりいる。それだけで話がはずみ、女たちは一様に目を輝
かせていたのだったが、夕餉が済んで才蔵は皆に言った。
「ちょいと聞いてほしいんだが」
 皆は静まり才蔵に目が集まった。
「明日の朝にでも俺とこっちのお泉とでここを出る」
 と言って才蔵は、お泉に化けた梓の膝をぽんとやった。
「得体の知れねえ客人がいたんでは敵は動かねえ。そっちのお泉を
残して一度出る。見張りがいるとしても夜中ではあるまい。江戸な
らともかく、町明かりひとつねえ夜の間は動かねえでは見張る意味
がないからな。雲が覆えば黒い闇よ、見張ったところで見渡せまい」
 見張るといってもその場所は限られる。家々の背後にそそり立つ
岩崖の肩のあたり、松林、そしてそう遠くはない岩場の猟場へと歩
く道すがら。海女たちの朝は早く、夕刻以降は外に出ない。

 お泉と梓が入れ替わってより、お泉は女たちの中にいて、あえて
ひとりになる隙をつくってきた。にもかかわらず手を出さない。見
張りは手ぬるい攻めは甘いと、腑に落ちないことばかり。
 才蔵は言う。
「おそらくこういうこったろう。女ばかりの相手に対してタカをく
くり、追っ払って来いってことで送られた者どもよ。女衒から娘を
横取りされちゃぁたまらねえ。その程度の敵だということ。とすり
ゃぁ数もたいしたことねえだろうし多勢を相手に襲いかかってこれ
ねえわけだ。得体の知れない侍がいてはなおさらそうさ。明日も空
は悪そうだ。出て行く姿を見せつけて夜中にこそっと戻って来る。
皆はいつも通りにしてることだな」
「明日も漁はできないだろうね」
 と千代が言った。海が荒れる。
 才蔵は言う。
「そんで夜中に戻った俺は姿を見せずに隠れてら。それで次に日和
がいいとき敵は必ず動くだろう。おめえらを追っ払うのは早いほう
がいいからな」

 そしてその二日後だった。数日空を覆っていた雲が消え、少し風
はあるものの風はぬるく陽射しが眩しい。
 女たちの半数を家に残して半数が漁に出る。梓に化けたお泉は、
皆と一度猟場へ行きかけ、途中でひとりだけ引き返す。何かを忘れ
た間抜けと敵の目には映っただろう。
 岩場から引き返して松林に踏み込んですぐのこと、生い茂る松の
幹の陰からふたつの陰が滲み出た。ひとりは大柄で、薄汚れた茶色
の着物に緑がかった濃い茶色の袴と、浪人の成り。もうひとりはく
らべるまでもなく小柄で、茶渋色の生地に柿茶色の枯れ葉の染め分
け。森に潜むときの迷彩となる忍び装束。どちらもが頭巾で顔を隠
している。
 しかしお泉は、もうひとり、少し離れた松の木の上に潜む忍びの
気配を察していた。

 そのときお泉は仕込み杖ではなく、切っ先が三つ叉に分かれた船
突きの銛(もり)を手にしていた。銛には海女が海の中で用いる長
さ三尺(およそ1m)ほどの短なものと、船の上から突く長さ六尺
(およそ1.8m)ほどの長いものがあって、お泉が手にしたのは
長い銛。真似事の海女では海の中の漁などできない。
 船突き銛は棒が太く、ちょうど僧が持つ錫杖のようでもある。

「待ちな女、死んでもらうよ」

 木陰から現れて行く手を遮る小柄な忍びが言う。もちろん女の声。
くノ一が剣を抜き、浪人姿の大男も腰の剣に手をかけた。
 しかし梓に化けたお泉は動じない。
「出たね村雨兄弟とやら」
 にやりと笑い、眼光を鋭くすると、お泉は手にした長尺の銛を頭
上に掲げてくるりと回し、中段に降ろし、切っ先のない棒尻の側を
敵に突きつけて中腰となって身構えた。
 その様子に敵ふたりは顔を見合わせ、大男がいよいよ剣を抜く。
くノ一の剣は反りのない短な忍び刀、男の剣は反りのある武士の剣。
 そんなふたりに対してひるまないお泉。
 ヒュゥーイ!
 お泉の口笛。お泉は口笛を吹きながらも構えを崩さず、敵を逃が
さない間合いを取る。
 口笛を合図に、家の側から才蔵と女たち、海の側から漁に出る素
振りをした女たちが手に手に銛や長ナタを握り締めて駆け寄って周
りを囲んだ。

 お泉は海の側から駆け寄った女たち六人に言う。
「手出しは無用だよ、逃がさないよう囲むんだ」
「おおぅ!」
 それからお泉は、怒りのこもる眼光で敵二人を睨みつける。
「どうした、臆したか? 来ないならあたしから行くよ!」
 刹那、中腰に構えた棒尻で小柄な相手を突く突く突く! しかし
敵も身軽で飛んで転がり避けながら踏み込んで斬りつける。毒の刃
であることが木の汁を塗ったような赤茶けた刀身からもうかがえた。
 斬り込まれ突き込まれる剣先を、長尺の棒が振られて防ぎきり、
次の瞬間攻めに転じる。横から斬りつけてくる大男の刃をも撥ねつ
けて、お泉の棒が宙で回され打ち付ける。
「セイヤァァーッ!」
 お泉の気合い。すさまじい棒の攻めと防御。剣を持つふたりが蹴
散らされ、左右に分かれてお泉と向き合う。

 しかし妙だ。それなりではあっても呆れるほど弱いと才蔵は感じ
ていた。敵はどちらもお泉の敵ではない。とりわけ浪人姿の大男。
太刀筋に冴えがない。形だけ。おかしいと才蔵は考えた。

「・・強い」
「うん・・すげぇや・・」
 才蔵の側にいてお泉の豹変を見つめる楓とお邦が思わず言った。
くノ一だった千代さえも、これほどのくノ一を見たことがない。

「ふむ、さて俺の出番か・・」
 才蔵がゆらりと動いた。大男の側へと歩み寄り、青鞘から白刃を
抜き去った。しかし草源寺で見せた鬼神の剣ではなかった。切っ先
を下段に降ろした静かな構え。
「おいデカいの、てめえの相手は俺だ、かかってこい」
 その声も荒くはなかった。
 そしてそのとき、小柄なくノ一とお泉との戦いに一瞬にしてケリ
がつく。剣先を突き込んだくノ一に対し、横振りの棒が刀を手から
吹っ飛ばし、回されて突かれた棒尻がくノ一の水月(みずおち)を
深く抉る。
「セェェーイ!」
「ぎゃう! ぐはっ・・」
 胃の腑の液を吐き、がっくり膝をついて崩れたくノ一。さらに宙
でくるりと回された棒先が丸まる背中を打ち据えた。
 水月を抉られて息ができず、したたかに背を打たれ、気を失って
崩れるくノ一。

 そしてお泉は、もうひとり、松の木の上に潜む小柄なくノ一に向
かって叫んだ。
「そこの者も動くな!」
 ひとりを倒したお泉が疾風のごとく木に駆け寄り、上に向けて三
つ叉に分かれた銛の切っ先を突きつけた。
「降りるんだ! おとなしくしないと殺るよ!」

 さて才蔵。対峙する敵は身の丈六尺(およそ180センチ)はあ
り、才蔵よりも大きいぐらいなのだが、剣を中段に構えたまま動け
ない。力量が違いすぎる。
「来るか、それとも剣を捨てるか」
「くそぉ、ちくしょう・・イザぁ!」
 やはりそうか。思った通り女の声。
 突き突き、斬り上げ、また突く女。しかしそんなものは才蔵の敵
ではなかった。
 キィィーン!
 一度刃が交わった次の瞬間、敵の刀はへし折られ、それでも抜い
た小刀さえも吹っ飛ばされて、愕然となって動けなくなった大女。
 刹那、才蔵の白刃が陽射しを散らして燕のように舞い狂い、頭巾
を飛ばされ、袴を着られ、袂を斬られ、前合わせを斬られ、浪人姿
の着物がボロ布と化していく。
 着物の裂け目から覗く白い肌。袴はずれ落ち、着物の帯が断たれ
たときに、その胸には白い晒しでつぶした女の乳房。女は胸を覆っ
てその場に崩れ、身を丸めてうなだれた。肩までの黒髪を垂らして
いる。

 才蔵の目にもとまらぬ剣さばき。女を半裸にしておきながら肌に
一筋の血さえも滲ませない。見守る女たちには声もなかった。
 才蔵は言う。
「取り押さえるんだ」
「はいっ」
 我に返った女たちが崩れたふたりに群がって、才蔵は刀を青鞘に
おさめながら、もうひとりの敵を取り押さえたお泉の元へと歩いて
いく。
 そのひとりも小柄なくノ一。お泉に気圧され剣さえ抜けずにへた
り込んでしまっている。
「頭巾を取りな」
 お泉に言われて頭巾を脱ぐと、くノ一は若い。
 こいつらいったい何者なのか? まさしく未熟。
 才蔵は女に言った。
「おめえは戻って伝えるんだ、これより手を出すなら、こっちから
乗り込んでたたっ斬るとな。さあ失せろ」
 しかし女は力なく言う。
「戻ったってしかたがないさ」
「何だと?」
「あたしら雇われただけ。追っ払えと言われて来た。あたしは張り
番、人を斬ったこともない」
「おめえら三人だけなんだな?」
「そう。ちょっと脅せばいいと思った。そっちのふたりが、まさか
殺るなんて思ってなかった」
「そっちのふたり? おめえら仲間じゃねえのか?」
「違うよ、はじめて会った。三人ともそうなんだ」
 才蔵は見据えて見下ろす。
「おとなしく剣を捨てろ」
「はい」
 腰の忍び刀を抜いてお泉に手渡す女。才蔵はお泉に目配せして女
を立たせた。

 ますます腑に落ちない。敵の中でくノ一らしいのはお泉が倒した
ひとりだけ。大女は多少剣をかじった程度、残るひとりは忍びかど
うかもわからない。
 お泉は、ひとりを後ろ手にひねって歩かせながら、ほかのふたり
を取り押さえた女たちに言った。
「連れてって裸にして体を調べるんだ。そっちの女は毒使い、何か
隠してるかも知れないからね」
 最初に倒した小柄なくノ一を取り押さえた司がうなずく。司もく
ノ一だった女。こういうときの扱いは心得ている。頭巾を毟り取っ
てみると、小柄な女は三十なかば。毒殺に長けた本物のくノ一らし
い。

 若いひとりを引き立てながら、お泉は名を問うた。
「あたしは奈津。大きいのが峰。それから琴」
「いくつだ? 皆は?」
「あたしは二十二、ほかは知らない」
 才蔵は言う。
「追っ払えと言われただけなんだな?」
「そうだよ、殺るなんて思ってなかった。怖かったけどもう遅い、
やるしかなかった。琴が、おまえが殺れと言って峰に斬らせ、次か
ら峰が嫌がって、それからは琴が毒刃で」
「おめえは斬ってねえんだな?」
「剣を持ったのもはじめてさ。あたしは身軽で足が速い。それだけ
だった。琴が怖くてならなかった。にやにや笑って娘を斬って・・」

 才蔵はわずかに首を振って、捨てるようなため息をつくのだった。 


六話 外種(そとだね)

 数日また数日と過ぎていき師走も末となっていた。雪が来る前に
ちょっとは先まで歩いてみたかったのだが、暖かかった冬らしくな
い日々もここに来て北風が強くなり、雪となる冷えに覆われはじめ
ていた。この部落が男どものいる有り体の海の村ならこのまま留ま
ってもよかったのだが、女ばかりでは身が持たない。日に日に女た
ちと打ち解けていくのはいいのだが、お泉との静かな時が持てなか
った。
 しかしそのお泉。梓となって女たちと海に出て、白かった肌がこ
んがり焼けて、それとは逆に、お泉となった梓は色が抜けて白くな
ってきている。
「女は不思議なものだよ、ふたりを見ていて感じるね」
 と、千代は言う。生きる世界が女を変える。海に生きる、町に生
きる、ということもあるのだが、男のそばにいられるかどうなのか、
そのことで決定的に違うと言うのだ。
 くノ一として、どこか陰のあったお泉は自分を開き、女たちの中
で体裁を気にしなかった梓はどんどん女の色に染まりだす。

 才蔵は言う。
「このまま女ばかりでやってくつもりなのかい?」
 千代は冬風に荒れる海に目を細め、冷えるから戻ろうと言い、歩
きながら言うのだった。
「女はやっぱり男がいてこそ女だろ。才蔵さんが来てからの皆の姿
が眩しくて」
「千代さんにしろ、それはそうさ」
「あたしがかい? 笑わせないでおくれよ。そんな日が来るのなら
嬉しくないわけじゃないけれど。皆はそれぞれ。けどあたしはずっ
とここで暮らすだろうね」
 そしてそのとき暗く垂れ込めた空からいよいよ白いものがはらは
ら舞った。空を見上げて千代が言う。
「寒いはずさ。才蔵さんにこんなこと言うのも何なんだけど、くノ
一はときとして女同士で慰め合うもの。役目を負って里を出ると気
を許せるときがない。気を許すのは仲間だけ。そんな自分が哀しく
なって抱かれて寝たい。そんなことも、あたしらくノ一だった女が
皆に植え付けたようなものなのさ。とりわけ冬は独り寝がつらくな
る」
「いいんじゃねえか、それならそれで。通じ合えているならよ」
「そりゃぁ、あたしらはいいよ、一度や二度そういうことも知って、
そこから逃げるようにここにいる。けど生娘のままここに置いては
可哀想。出て行ってくれるならいいけれど、いたいと言われて追い
出すわけにもいかないだろう」

 そして千代は、ふと歩みを止めて言う。
「ときに、どうするつもりなんだい? じきに年が明けちまうし、
先へ行けばますます雪だし、このまましばらく留まってもいいんだ
よ?」
「さあな。やるべきことが先よ。なりゆき次第ってことだろうぜ」
 それからまた少し歩むとそこが千代の住む家。そしてその隣りが、
楓が寝かされていた家だった。楓はとっくに起きられるようになっ
ていたが、まだしばらく海には出られない。今日は海が荒れて女た
ちは皆家々にこもっていた。
「ちょっと寄ってくぜ」
「うん、あいよ。喜ぶよ楓」
 千代の肩にそっと手を置き、才蔵はすぐ隣りの家の板戸を開けた。
 その家は部落にあって一軒だけ人の住まない家だった。厨として
料理をつくり、刻限になると女たちが集まって来てともに喰う場。
客人の才蔵のいる家にだけ膳が運ばれ別に喰う。
 その家の板の間に、同じように畳が二枚敷かれていて、あのとき
楓を運び込んだのがここだった。代わる代わる常に誰かがここにい
て楓を看ていた。才蔵が入ると、何人かの女たちが夕餉の支度にか
かっていて、その中に元気になった楓と、梓となったお泉がいた。

 才蔵の姿を一目見ると楓が嬉しそうに笑う。年が明ければ数えで
十九になる楓。陽に焼けた肌はすっかり白くなっていて、長く苦し
んだことを物語る。
「おぅ楓、元気になったな」
「はい、もうすっかりいいんだ、痛くもないし」
 すっと歩み寄って来て才蔵の着物の袖をちょっと持つ。愛らしい
仕草をする。
「若いから早いさ、じきに海にも出られるだろ」
 と梓が言うと、才蔵はうなずいて梓に言う。
「おめえも黒くなったもんだぜ」
「ほんとだよ、泥なんてなくたって一緒だね。湯に行ったって落ち
やしない」
 女たちが一斉に笑った。才蔵はそんな梓に歩み寄ると肩に手を置
こうとしたのだが、梓は肩を振って手から逃げる。
「あたしじゃないだろ、お泉さんが家にいる」
 皆が声を上げて笑いだす。
 梓はちょっと拗ねたような目をして言った。
「けどあたし、しばらくでもこうなれてよかったね。みんなといる
とあたしは白く戻れてく。肌は黒くたって白くなる」
「うむ、よかったな」
 才蔵の手がすっと梓の背を撫でて、互いに目を見つめ合い、皆の
視線は遠慮してそらされて、そっぽを向いて笑っていた。

 家に戻った才蔵。そのときお泉となった梓、そしてお邦がそこに
いて何やら静かに話していた。
「おぅ小娘、いたのかい」
「べぇーダ、あたしだって女なんですぅ。じゃね姉様」
「おいおい、俺が来たら帰ぇえるのか?」
 お邦は目を丸くして眉を上げる素振りを見せた。
「男には内緒だもん、女同士のしっぽりした話だもんね」
「けっ、しっぽりねぇ・・わかったわかった、うるせえから帰ぇれ」
 お邦はちょっと口を尖らせて睨み、すぐにまた笑顔となって去っ
て行く。
 お泉となった梓とふたり、夜具をたたんだ畳の上に座っていた。
 お泉が言った。
「どうしようかなって言いに来たんだよ」
「どうしようかな?」
「ここのこと。あたしこのまま生きてくんだろうなって」
「うむ、それについちゃ千代さんも気にしてる」
「知ってるよ、だからお邦が来たんじゃないか」
「どういうこった?」
「あの子はね、気がつけばお邦って皆が言うほどの娘なのさ。誰か
が沈んでると、とたんに察して、いつの間にかそばにいる。お頭の
家で眠ることが多いんだ。お頭はずっとそれで迷ってる。そうする
といつの間にかお邦がいて、夜具に潜り込んで甘えてあげる」
「ほう・・いい娘だ」
「ほんとよ。あたしだって夢見てみたいって、あの子なりに思って
る。それは才蔵さんが来る前からずっとそう。楓もそうだし、生娘
のままじゃ哀しいからさ」

「ひとつ手はあるんだが」
 と、才蔵が言うと、お泉は探るように覗き込む。
「お上に願い出るのよ。銀の鉱脈を見つけましたとな。そうすりゃ
かなりな報償も出るだろうし、新たに暮らす土地だって世話してく
れる。銀山守りとしてここに居続けることだってできるやも知れぬ
しな」
 お泉は言った。
「それをしちゃ娘らを救えない。女衒から買うにはかなりな銭がい
るからね。そう思うと動けない。お頭だってそれはそう思ってる。
男たちを迎え入れてもいいだろうけど、男ってさ、銭があると馬鹿
なことをしでかすもの。だからできない。そんな男を嫌になるほど
見て来たからね」
 それはそうだと才蔵は言葉を返せず、しかしそうなると手立てが
なくなる。
 梓は言った。
「それであたし、お泉さんとも話したし、わざわざ話さなくたって
ここにはくノ一崩れがいるからね。くノ一には『外種(そとだね』
ってこともあるだろ。そういうことでもいいんじゃないかって、お
頭じつは考えてるみたいなんだよ」
「お邦がそう言ったのか?」
 お泉はうなずいた。

 才蔵も話には聞いていた。くノ一ばかりの女忍軍を里から切り離
した別動隊のようなものを組織するとき、そこではときとして、年
頃となった娘らを一度外に放って身ごもらせて里に戻す。男の子が
生まれれば一族の男忍軍に引き渡すといったような。
 それを『外種』と言うのだが、人は犬ではないのである。
 しかし忍びの女にとってはそれさえも役目であり嫌とは言えない。
太平の世となって表立って忍びを使えないとき、そうした得体の知
れないくノ一忍軍が必要となるからだ。
 梓は言う。
「けどそれだっていっときの夢じゃないか。肌を合わせ身ごもって
乳飲み子を抱く。ここにいてはそれさえも望めない。かと言って、
ここを捨てて出て行くったって、その先怖くてたまらない。あたし
ら年増はともかくも親に売られた娘たちなんだよ、信じるものなど
ありゃしない。だからあたしら女同士で慰め合うんだ。くノ一じゃ
ないのにね」
 才蔵はひそかなため息を漏らすのみ。そうしたことは女たち自ら
が決めなければならないこと。
「外種ということで娘らを納得させて外に出し、できるならそのま
ま別の土地で生きてほしいってことだろう」
「そうだよ、それがわかってるから、結局ここを追われることと同
じになる。お邦なんぞ絶対嫌だって言ってるよ。ここにいたい。け
どやっぱり体が疼く。才蔵さんとお泉さんを見ていると羨ましくて
ならないって」
 村雨兄弟の一件がかたづいて、しかしだから出て行くわけにはい
かないと才蔵は考えもした。けれどそれでは結局、女たちに飢えを
感じさせることになる。

「俺ひとりじゃ身が持たねえしなぁ」
「ふふふ、馬鹿なことを・・けど、こうなったら言うけどね、お泉
さんが言ってたよ。女の命ははかないもの。あたしの方からあの人
に体を開いたってね。寝間着の帯をせずに寝て」
「ふむ、そりゃそうだ。考え違いもはなはだしいが」
「考え違い?」
 才蔵はちょっと背伸びをしながら軽く言う。
「ま、そうじゃねえってことよ」
 お泉となった梓は微笑み、そして言った。
「梓がお泉でいるかぎり、あの人はあたしを抱いてくれているって」
「そう言ったのか、あいつが?」
「そう言った。あたしは顔を見たけどね、お泉さんは笑ってた。あ
たしでさえが、ああすごいって思ったもん。若いお邦がおかしくな
るのはよくわかる。楓だって、お泉さんを見てると打ちのめされる
って言ってるよ。ほかの女たちもそうだけど」
 そしてふいにお泉は言った。
「買い付けの船が来るって言っただろ」
「うむ?」
「お頭は言うんだよ、たくさん採って売るようにしろって。いまは
冬で岩海苔とか牡蠣とかそんなもんだけど、季節がいいと魚が獲れ
る。船に男衆が乗ってるからさ。出会いはそれしかないからね」
「なるほどな。そうやって少しずつ変えていくしかあるめえよ」

「そんなお泉さんだから、お邦は夜な夜な甘えてるんだ」
「そうなのか?」
「お邦ってそういう子なんだもん。あたしなんてそのぐらいしか人
に何かをしてやれないって。お泉さんを気にしてるんだ」
「それだって千代さんのおかげだな、いい娘に育ててら」
「巡り巡って銀があるからできること。いいことやら悪いことやら
知れないけれどね」
 才蔵はお泉となった梓の手を取り、梓は微笑んで才蔵の肩に身を
寄せた。一緒に湯に入っていても、そっと抱いてくれるだけ。それ
から先は手を出さない。罪な人だと、梓はちょっと憎くなる。


五話 代わり身


 司と呼ばれる女はすぐ見つけることができた。才蔵が先に洞穴を
出たとき、部落に半数残った女たちのうちの三人が、ある家の前の
道筋に投網をひろげ、明るい声で何やら話しながら網を繕っていた。
ひとりが名を呼ぶことがあり、その相手が司であったからだ。
 才蔵は司に歩み寄ろうとしたのだが、地べたにひろげた網にしゃ
がんで群がっていた女たちは着物の裾が割れていて、才蔵の姿を見
ると三人一様に裾を合わせて気にしている。女ばかりの住処では色
気は無用。女たちは一瞬のことであっても外の世界のことを思い出
していたのかも知れなかった。
 才蔵は女たちの身支度を察し、あえてゆっくり歩み寄る。
「司ってえのは、おまえさんだね?」
「あ、はい、そうだけど?」
「おまえさんとほかに誰か、ちょいと付き合ってくれねえか。あた
りを散歩したいんでね。このへんを見ておきたい」
 司はくノ一だった女。千代に連れられて洞穴に入って行ったこと
からも、その言葉の意味はおおよそわかる。

「わかった、じゃあちょいと誰か呼ぶから」
 立ち上がった司は思いのほか小柄。髪は肩までの垂髪で着物は粗
末。それに綿入れを羽織る姿。ほかの女たち同様に陽に焼けて、さ
ながら猫のようでもある。
 そしてそのとき才蔵は、しゃがんだまま視線を外して網に向かう
もうひとりの女を気にした。同じような姿だが明らかに背が高く細
身。髷を結えるだけの長い黒髪をまとめて横に流している。
「おまえさんもちょいと立ってみな」
 司もその女もふたりで顔を見合わせている。
「梓(あずさ)だよ」と司は言った。
「うむ梓か、いい名だ。ちょいと立ってくれねえか」

 女たちの中で才蔵の噂は持ちきりだった。見目形のいい若い侍。
刀を委ねて丸腰となり楓を救った男。そしてあのとき、その刀を突
きつけられて預かったのが梓だったのだが、才蔵はそんなことを覚
えていない。
 梓は立った。顔立ちは違うが立ち姿がお泉に似ている。それで才
蔵は思いつく。そういうことなら早いほうがいい。
 そう考えていたときに、遅れて洞穴を出て来た千代とお泉が歩み
寄る。才蔵は千代のそばへと歩み寄って何やら耳打ちすると、とも
に聞いていたお泉に向かって目配せした。
「すぐにかい?」とお泉が問い、才蔵はうなずく。

 千代が梓に言う。
「梓、ちょいとおいで、お泉さんと一緒にお行き」
「あ、うん、それはいいけど・・」
 梓は意味がわからない。
 才蔵は梓にちょっと微笑んで、それから司とほかのひとりを左右
に従え松林へと歩き出す。このとき才蔵は腰の刀を大小ともにお泉
に委ね、お泉はちょっと睨みつけたが、笑って背を向けて歩き出す。
刀など携えていては見透かされる。敵の見張りがいないとも限らな
いからである。
 そしてお泉に促され、才蔵と過ごす与えられた家に入った梓。入
るなり、控えめながらも中を見回す。男女が一夜を明かした家。そ
こは梓にとって一夜のうちに遠慮すべき家になっていた。
「あたしと代わろう、脱いどくれ」
「え? 脱ぐ?」
「あたしが梓、梓があたし」

 ようやく意味がわかったようだ。互いに着物を交換し、梓は座っ
てお泉に髪を結ってもらう。お泉は結い髪を解いて横にまとめる。
しかしお泉の肌は白く梓は日焼けで黒い。冬だから着物が厚く袖も
長い。手と、それから顔に白粉を塗られ、お泉は逆に泥土を混ぜた
ものを塗って黒くなる。くノ一にとってこれぐらいの代わり身はあ
たりまえ。
 お泉に髪を結い上げられた梓。赤茶縞のお泉の着物がよく似合い、
見違えるほど綺麗になっている。
 お泉は言う。
「ほら綺麗、いくつなんだい?」
「九になるけど」
「ふたつ姉様だね」
「そうなのかい? じゃあ七?」
 お泉は笑ってうなずくと、部屋を見回して言うのだった。
「今宵からは夜もだよ」
「夜も?」
「あたしは女たちと寝る、梓は才蔵さんとともにいる。湯に行くと
きもそうだしね」

 意味を悟って梓はとっさにうつむいた。若い侍とふたりきり。考
えただけで体が熱くなってくる。
 お泉は梓の肩に手を置いた。背丈がほぼ同じ。着物を交えると梓
はお泉のようだった。
「これであたしは女たちといられる。才蔵さんは家に残り、そうす
ればどちらも守れるじゃないか。楓を救ったのはあたし。村雨兄弟
とやらは許せないね」
 梓は小声で言った。
「お泉さんは、その・・」
「くノ一だよ」
 この人は強い、きっと強い。同じ女なのにあたしとは違う。梓は
そう感じ、声もなくうなずいた。梓はそのまま家に残り、梓となっ
たお泉が家を出て、女たちの中へと紛れていく。

 外へ出ると、司と梓がいなくなった投網の繕いを別の女ひとりを
加えたふたりでやっている。お泉はすっかり梓。あたりまえのよう
にやってきて着物の裾さえ気にせずしゃがむ梓に、ほかのふたりは
唖然としている。
「あたしは梓、いつも通りにね」
 ふたりはうなずき、投網の繕いを真似事ながらもこなしていく梓
に、住む世界の違う女の姿を見つけていた。
 女のひとりが小声で言う。
「楓を救ってくれてありがとね」
「手当てが早くてよかったよ」
「毒消しで?」
「そうさ、あたしがつくったものだけどね」
「つくった?」
「あたしはくノ一、哀しい定めの女だった。けどいまはもう・・」
 そう言って微笑む梓。
「じゃあ、あのお侍様と・・その・・」
「ふふふ、はじまったばかりなのさ、ふたりで湯なんてはじめてだ
った」
「よかったね、お泉・・じゃなかった、梓」
 隠さず語るお泉。梓として受け入れたお泉の女心はもちろんわか
る。女ふたりは、才蔵という若侍のやさしさを梓を通じて感じてい
た。
「いいね白くて」 と、横にしゃがむ女がふと言った。
「あたしはみんなを羨むね。これほど見事な海に生きていられる。
小娘のときに敵を斬り、斬った敵はあたしよりも小娘だった。そん
な思いをしなくていいんだ」
 女ふたりは顔を見合わせ、余計なことを訊いてしまった女の手が
そっと梓の膝にのる。

 女ふたりとあたりを歩いた才蔵が戻ったのは半刻(およそ一時間)
ほど後だった。出て行くときに固かったふたりの顔が穏やかに弛ん
でいる。ある家の前でふたりと別れた才蔵が家へ戻ると、そこには
別人のように綺麗にされた梓が待っている。
「おぅ、見違えたぜ」
「はい・・あたしあの、どうしていいやら」
 梓は白粉で頬の赤らみは隠せていたが震える思い。才蔵はそんな
お泉の背にそっと手をやって、畳に座り、慌てて座を板の間に移そ
うとした梓の手を取って引き留める。
 才蔵は言う。
「ここにはどうして?」
「逃げてきたんだ」
「逃げてきた?」
「あるところで女中をしてて男どもに・・」
「なるほどな、嫌な野郎だったってことかい?」
 梓はうなずく。
「この下の浜を歩いて少し先の岩場に出て、そしたらそこに海女た
ちがたくさんいて」
「ふむ、それで居着いちまった?」
「て言うのか、しばらくかくまってもらい、けどもう出て行く気が
しなくなって」
「いくつなんだ?」
「九になります」
「うんうん、よかったな。いいところに出会えたもんだぜ」

 梓は恥ずかしくて身を固め、正座をしたまま動けない。
「茶でも飲むか」
「はい。あ! あたしがします」
「なあに、いいってことよ、そう固くなるんじゃねえ。しばらくは
お泉じゃねえか」
 才蔵は立って茶をふたつ用意して、湯飲みのひとつを梓に手渡す。
「ありがとうございます」
「おいおい、よさねえかい、おめらと目の高さは一緒だぜ。ご丁寧
なことはいらねえ。俺たちのほうこそ厄介になる、ありがとよ」
 梓はふと板壁に立てかけられた青鞘の大小に目をやって、武士の
持ち物と、やさしい男を見比べるように才蔵に目をやった。
 梓は言う。
「楓のこと、嬉しかった」
「うむ。それにしたってお泉の手柄よ、俺だけじゃどうにもならね
え。俺だけじゃどうにもならねえことが江戸でもあって、お泉にど
れほど助けられたか。ときに楓は?」
「もうすっかり嘘のよう。動くと痛がって、けどよく喰うし、元気
です」
「よかったよかった、ほっとしたぜ」

 才蔵は江戸でのお泉との出会いを話してやった。そしてそうする
うちに梓の面色がほぐれてくる。梓もまた幸せではなかった女。孤
児を世話するお香という娘の気持ちはよくわかる。
「さて、湯にでも行くか。おめえはお泉、あたりめえにしてればい
いぜ。見張りがあると思ったほうがいいだろう。敵はおそらく忍び
ども」
「忍び?」
「まず間違いねえだろう。ゆえにお泉が梓、おめえがお泉よ」
「お頭は・・ぁ・・お千代さんは」
 と言い直した梓が可笑しくて、才蔵は笑って梓の背をぽんと叩く。
「頭でいいさ、そう呼んでいるんなら」
「はい。お頭は言うんです、ここを捨てようとも考えたけど、これ
だけのお宝が・・ぁ・・」
 しまったというような面色をする梓。
「はっはっは、銀だろ? さっき千代さんに見せてもらった。嬉し
かったぜ、見ず知らずの俺たちに大切なものを隠さずな」
 梓は微笑んでうなずいて、そして言った。
「これだけのものがあれば多くの娘らを救える。できるなら動きた
くないって」
 才蔵は幾度もうなずき、そして言った。
「千代さんも立派だぜ、それを守るおめえさんらも立派。けどそり
ゃぁ、おめえさんらの勝手でな、俺は楓をあんな目に遭わせた者ど
もが許せねえのさ」
「はい」
「さてと、うるせえのが帰ぇって来ないうちに湯にするか」
「うるせぇのって?」
「お邦だよ。あの鼻タレ、俺たちの風呂を覗きやがった」
 梓ははじめて白い歯を隠して笑った。
「羨ましい羨ましいってうるさくて」
「言ってたかい?」
「もうぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。色気づいちゃってたまらないん
だ、あははは」
 才蔵は先に立ち、梓の手を引いて立たせていた。

 腰にそっと手を回され道筋を歩むふたり。外に出るとそこには網
を繕う梓がいて、女三人で、湯へと向かうふたりに笑う。お泉とな
った梓はさぞ恥ずかしい。梓となったお泉が真っ先に笑ったことで
明るい声が響いていた。
「いいのかい、ふたりでさ」
 そう言われてお泉は笑う。
「あの人がどうするかが見物だろ? 笑えるね」
 何があろうと揺るがない想い。女ふたりは互いに微笑み、そう言
って笑い飛ばす、梓となったお泉を見ていた。

「網はああやって手入れするのか?」
「底が岩でどうしても引っかかるんだ。あんまりひどくなると新し
いのに替えるけど繕える間はね」
「そうか」
 洞穴の湯に着いて、梓の背を押して板を立てた脱衣に追いやり、
自分は手前の岩に座って背を向ける才蔵。梓は心が震えてならなか
った。
「才蔵さん」
「おぅ?」
「そこ寒いだろ?」
「いいってことよ、先に入りな」
 ところが梓は衝立てを出て才蔵の手を引いた。
「それなら先に才蔵さんが」
「ありがとよ。そんじゃまぁ一緒に入ぇるかっ」
「えっえっ」
 引いた手を逆に引かれて、梓は流れるように才蔵の胸に抱かれて
いった。そっと包むように抱かれ、そして耳許で。
「おめえもそうだが、ここの女たちは強ぇえ。いつかきっといい男
衆を迎えてよ、いい村になっていく」
「はい」
「いまはただ千代さんを囲んでやりな。素晴らしいお人じゃねえか」
「はいっ」

 ああ、たまらない。梓は自らの手に力を込めて才蔵の胸にすがっ
ていった。


四話 大海原


 翌朝のこと。江戸ではあたりまえの早朝に目覚めてみると部落の
女たちの半数がすでに出ていなかった。日々半数が海に出て半数は
体を休める。とりわけ冬は体が冷えてそうでなければ持たないから
だ。漁といってもその日を喰う分だけ。部落の背にそそり立つ崖を
回り込んで陸へと行くと百姓村がいくつもあって野菜などと交換す
る。そうやって女たちは生きていた。

 そのときお泉は楓の傷を診るために家にいて、才蔵ひとりが松林
を抜けて崖に出た。崖といっても背丈の倍ほどの低いものだが、そ
れでも見晴らしは素晴らしい。見渡す限りの大海原。今日もまた冬
晴れで風がなく、綿入れを着ていると暑いほどの陽気だった。腰に
差す青鞘の大小が綿入れの前の合わせを割りひろげ、風が入って心
地いい。

「お侍様はこういう眺めは?」
 静かな気配がすぐそばにやってきた。千代だった。
 才蔵は言う。
「その昔、似たような景色の中で育ったが、これほどの海じゃなか
ったね」
「どちらなので?」
「若狭だよ。向こうの冬は暗い。雪が積もり空よりむしろ明るいく
らいさ。千代さんにも言っておく。お侍様はやめてくれ」
「それはなぜ?」
「まっぴらだ。それが嫌で家をおん出た。千代さんと目の高さは一
緒だぜ。俺は才蔵。それだって実の名を捨てる名さ」
「じゃあ才蔵さん」
「うむ、気が楽だ」

 やはりそうか、若狭あたりの名家の出だと千代は思う。
 そして千代は、すぐ眼下の砂浜を指差して言う。
「北へ少し行くと岩の海。その手前を左に折れて陸へ向かえば表街
道につながって、だからここらは訳ありの者たちがときどき通る。
あたしもそうしてここへ来た。その頃は少し北に漁師の村があった
んだ。それでここを知ったのさ。ここは番小屋の集まり。湯があっ
て心地よく、いつの間にか棲み着いてしまったね。あたしも女。漁
師たちの世話もしたし、そうやって厄介になっていた。海女を技を
あたしが教わり、ここの皆に教えていった。ところがその漁師の村
がなくなって取り残されたというわけさ」

 才蔵は語らず聞いていた。千代は言う。
「お涼からも聞いたと思うけど、あたしも名もなきくノ一だった。
けど、お泉さんのように手練れじゃない。剣もダメ、走ったって速
くない。そうなると残るは女を武器にしなければならなくなる。死
にたいと思ったときに、どうせ死ぬなら人知れずって思ってさ。忍
びの村を飛び出して気がつけばここにいた」
「そうするうちに女どもが集まって来たと?」
「まあそういうことだけど、そんな中に侍がひとりいたんだよ。手
傷を追って逃げていて、この下で倒れていた。あたしらで救ってや
って、けど消えた」
「それで密書の話をつくったか?」
 千代は笑う。
「正直言うとそうなのさ、あれはでたらめ。その人はまだ若い侍で
家中のもめ事に巻き込まれたって言っていた。それがとっさに浮か
んでね、あんなことを言ってしまった。お涼からもお邦からも、信
じていいんじゃないかって言われたよ。たった一夜のことなのに、
才蔵さんは妙なお人さ。ゆうべもお邦と話したろ」
「うむ、いい娘だ」
「お邦が言うんだ、お泉さんが羨ましい、恋い焦がれているのがわ
かるって」
「俺にかい?」
「もちろんじゃないか」
 才蔵は横に立つ千代の横顔を盗み見た。静かでいてどこか哀しい
女の面色。千代もまた才蔵の姿に横目をなげた。

「どういういわれがあったのかは知らないけれど、人を信じず生き
てきたくノ一が本気で想える男なんて滅多にいない。あたしらだっ
てそうだったからわかるんだって、お涼が言う。楓を救ってくれた
ときだって、見ず知らずのあたしらに刀を委ね、楓をおぶって走っ
てくれた。こういうお人もいるんだって震えたって皆も言ってる」
 才蔵は小指の爪で耳の裏をちょっと掻く。
「それは違うねぇ、思い違いというものさ」
「違うとは?」
「女たちが洗ってくれた。お泉もそうだが、江戸のちっぽけな寺に
いたお香という娘。孤児として寺で育ち、和尚が死んで、それから
はまだ幼い弟や妹のために母のように生きている。そんなとき俺は、
竹カゴに寝かされて寺の門前に捨てられた乳飲み子をはじめて見た
のさ。なんということだ、それにくらべて俺はいったい何だったの
かと哀しくなった。ここへ来て、そなたらを見てもそうさ。女ばか
りで厳しい暮らしに耐えていながら逞しい。俺は弱い、脆い、そん
な自分を思い知り、そしてまた、そんなときに出会ったお泉に甘え
たくなってしまった。それだけのこと」
 すごい・・この男はすごいと千代は感じた。

 そしてそのとき、楓を診たお泉が歩み寄ってくる。
「すっかりいいよ。傷はしばらくかかるけどもう大丈夫」
 微笑んでうなずく才蔵との間合いというのか、このとき千代は、
つい昨日、会ったときのお泉とは何かが違うと感じていた。しなや
かな女の姿をしていると・・。
 千代は言った。
「秘密を見せるよ、お泉さんも一緒に」
 そう言って千代は背を向けて歩き出す。才蔵とお泉は顔を見合わ
せ、千代の後ろ姿を見つめながら後を追った。
 家々の背後にそそり立つ黒い岩盤の崖。その裂け目のすぐ奥に湯
が湧いていたのだが、さらにその奥、闇の中に人ひとりがすり抜け
られる裂け目があって、そこを抜けると奥にかなり広い空洞が拡が
っていたのである。
 千代の手にある蝋燭を岩盤に近づけていくと、黒い岩に銀色の筋
が幾筋も走り、タガネで削った痕跡がそこらじゅうにあるのだった。

「銀の鉱脈さ。いつだったかの地揺れで岩がくだけて割れ目が拡が
り、その奥であたしが見つけた。削って溶かしてやると、いい銀が
採れるんだ。それであたしは売られていく娘らを相場より高く買い
取った。そうなると次の娘を待ってる連中が困るだろ、女郎屋とか
さ」
「そして村雨兄弟か・・」
 才蔵は言いながら、お泉に向かって目でうなずく。
 千代は言った。
「買い取った娘らはさらに多くてね。ここに残るのは少しの数で娘
らはてんでに去って行くんだよ」
 才蔵は、千代の両肩にそっと手を置いて微笑んだ。
 千代は言う。
「それほどの大金がどうして続くのか、そういうこともあるのかも
知れないし」
「それもあるだろうね。その探りも兼ねてってことだよ」
 と、お泉が言って、なおも才蔵が問う。
「村雨兄弟だとなぜわかった? そう名乗ったからか?」
「矢文だった。はじめひとりが殺られたときに矢文が放たれ、『手
を退け 去れ さもなくば死あるのみ 村雨兄弟』・・と」

 それも怪しいものだと才蔵は思う。頭巾で顔を覆うなら敵はふた
りとは言い切れない。
 お泉が問うた。
「はじめのひとりも毒刃でかい?」
「いえ、はじめはバッサリ。そのとき松林を逃げ去れるふたりの姿
を女たちが見ていてね。ひとりは男ひとりは女。毒刃に変わったの
は次からなんだけど、それから姿は見ていない」
 男が襲えば一刀で切り捨てて、女が襲えば毒刃となる。男は武士、
女はくノ一というのも、そうしたやり口からそう思うだけというこ
ともあっただろう。身の丈だけで女と決めつけるわけにはいかない。
 おそらく敵は、女ばかりの部落ということで脅すつもりでありも
しない殺し屋の名を使った。ひとりを斬ってみたが女どもは動かな
い。そこでさらに惨いやり口に変えたということもあり得る話。あ
のとき崖の上で楓を襲い、風のごとく消えている。敵は忍びとみた
ほうがいいだろうと才蔵は考えた。
 千代が言う。
「あたしら逃げようと考えなくもなかったけどさ、銀のことがあっ
て動けなかった。あたしさえ見切っていればと思うけど・・」

 才蔵はうなずいて言う。
「最後に訊くが、そういうことがはじまってから新たな娘は買い取
ったのか?」
 千代は横に首を振った。
「増えれば危うくなるだけさ。女衒(ぜげん)にせよ、銭が尽きた
と思ったのか来なくなったよ」
 そしてそのとき、お泉が問うた。
「はじめに斬られた娘だけどね、やはり以前はくノ一だった? 歳
はいくつで見目形はどうだった?」
「売られた娘さ、くノ一なんかじゃない。二十歳になったばかりで
ね、それは愛らしい娘だったよ」
「それを一刀で? 前からかい? 後ろからかい?」
「後ろから袈裟切りに一刀で」
 それを聞いたお泉は考える素振りをし、チラと才蔵に横目をなげ
た。お泉が言う。
「ちょっと妙だね、それほどの娘なら嬲ろうとしてもよかったはず。
斬るにしたって前からだろうに」

 才蔵はお泉の言いたいことが見透かせた。男なら心が動く愛らし
い娘を無慈悲に殺れるのは同じ女ゆえの残忍さ。身の丈こそ大きく
ても女はいる。確かに敵が男であれば解せないところだ。
 さらにお泉は言うのだった。
「江戸あたりの郭(くるわ)なら、くノ一を潜り込ませて遊びに来
る侍どもを探っているはず。それにあたしの里にだって身の丈六尺
(180センチ超)の女はいるんだよ」
 なるほどと才蔵は思う。太平の世となって忍びは見捨てられてい
る。しかしくノ一となると使い道はあるもので、女が稼いで一族を
支えているということもあるだろう。
「わかった、よく打ち明けてくれたな」
 そして才蔵はお泉に言う。
「おめえは千代さんとここにいろ。俺はそのへん歩いてくるぜ」
 地形を探る。それぐらいのことはわかる。
 それから才蔵は千代にも言う。
「そんとき女たちを少し借りるぜ、俺ひとりじゃ怪しまれる」
「それなら司がいるよ、やっぱり元はくノ一でね、少しなら剣も使
える。あたしが言ったって言ゃあいいから」
 お泉が言った。
「丸腰で出ちゃ危うい」
 才蔵は背を向けざまにちょっと手を挙げて、洞穴を出て行った。

 洞穴の深みから岩湯のあるあたりまでともに歩み、千代はお泉の
背をちょっと叩き、外の光に目を細めながら言うのだった。
「離れちゃだめだよ、ずっとね。あたしらなんか女同士の夜なんだ
から・・」
 女同士で慰め合う。明日の命の知れないくノ一には身につまされ
る話であった。千代は静かに歩き出す。


三話 思案の夜


 小窓を開け放った明るい夕餉。冬のいまは海からの吹き上げ風も
あるはずなのに、背後に切り立つ崖と風を散らす松林のせいなのか、
思うよりも風が入らず、大きな火鉢の炭火の熱がほどよくこもって
暖かい。
 想い人との差し向かい。才蔵はあぐら、お泉は正座。それは寺で
の夕餉でも同じことであったのだが、あのときは童がふたり、仁吉
やお香もいてむしろ気が楽だった。こうして差し向かいに膳に向か
うと着物のちょっとした乱れも気になってしかたがない。

 お泉は、それまで自分でも気づかなかった自分の中の女性(にょ
しょう)の心に、ちょっと信じられない思いがした。男が嫌い。侍
など反吐が出る。そう思って生きてきたあたしは何だったのか。嬉
しくもある驚きだった。
 磯の香りに満ちた夕餉を終えて、才蔵はふと物思うような面色と
なって言う。
「さて、お邦はどうするか」
「どうだろうね、邪魔だと思ってるだろうしさ」
「来るさ。己の気持ちにかかわらず行けと言われて来るだろう」
「千代という長に言われて?」
「来いと言われてるなら行け、それが長の言うべきことだ。探りと
いうより様子をうかがう。そしてお邦は長に告げる。ここがちょい
と難儀だな。訊きすぎても訊かなすぎても疑うだろう。我らとして
も見極めなければならぬのでな。善と悪があるのなら、それもまた
しかり。されどそのことと若い娘をいたぶるってことは話が違う。
四人殺られたそうだが、それほどまでしてなぜこんなちっぽけな部
落を狙うのか」
「密書がどうしたなんて、またぞろ大げさな話になるのかってこと
だよね、あの寺みたいに」
「いや、おそらく違うな。密書どうこうはつくり話よ。ここ常陸は
御三家水戸藩の領地であり、しかも附家老(つけがろう)のからむ
土地。そうした中でこんな女ばかりの部落に何が隠されていたとし
ても、いかに配下の下っ端が命じたとは言え殺し屋なんぞは送るま
い。やり方はいくらでもある。娘を毒刃でいたぶるなど下衆(げす)
の所業よ。みっともなくて話にならん」

 附家老とは、将軍自らが任じて送り込む家老のこと。江戸の意に
沿うよう藩主を導く役目も負い、家臣というより将軍から使わされ
た目付役といったところだろう。したがってよからぬ騒動は江戸に
伝わるということだ。

 と、そう小声で話していると粗末な板戸が遠慮がちに叩かれた。
 お邦。夕餉の膳を下げるついでに上がり込む。ごく自然な流れだ
った。お邦は着物を着替えていて、むしろくだけた寝間着に綿入れ
を羽織った姿。それで相手が気を許すと思っているのだろうか。
「お茶もらうよ」
「いちいち断るな、邪魔者は俺たちよ」
 そう聞いてお邦はちょっと笑い、湯飲みに茶を満たして部屋へと
上がった。そのときふたりは畳に座り、お邦は板の間に座ろうとす
る。才蔵が座をずらして畳を空けた。
「ありがと。やさしいんだね」
 お泉が言った。
「楓は苦しんでないかい?」
「ううん、よく寝てる。熱もだいぶ下がったし、寝息が静かになっ
たから。姉様たちが裸で抱いて熱を取った」
「そうかい、ならよかった。しばらくは起きちゃだめだよ」
「わかってる。姉様たちが診てるから大丈夫。ありがとね、お泉姉
さん」

 さっきまでの跳ねっ返りとは思えない穏やかな口調。お邦のほん
との姿だろうと才蔵は思う。
「ひとつ訊きてえ、村雨兄弟とやらの人相はわからねえんだな?」
「わからないし姿を見た者も少ないんだ。どっちも頭巾で顔が知れ
ない。誰かが何かの拍子にひとりになったときに襲われる。惨いや
り方も一緒。あたしらが見つけた時には虫の息、死んでいくのを見
てるしかなかったのさ」
 つまり敵は見張っているということだ。毒の刃で斬られたという
ことは、最前、浜を通りがかったそのときに斬られたと思われた。
「楓のことはどうして見つけられた? すぐに俺たちを囲んだが?」
「悲鳴が聞こえたのさ。風向きがよくて聞こえたんだろ」
「そうか。ま、こんな話はしまいにしようぜ。せっかく来たんだ、
海のことでも聞かせてくれや」
「うん。海の話ったって、そうないけどね。そこの海でも採れるけ
ど、浜を少し先まで行くと岩場に変わる。そこは深い。小さな船も
そのへんにつないであって、魚なら投網、貝なんかなら潜って採る
んだ」
「冬でもか?」
「何もわかっちゃいなんだね、冬は海の中のほうがぬるいもの。岩
場に焚き火を組んで暖まる。また潜る。だから冬場は喰う分だけを
採るんだよ。銭が要ることがあるとたくさん採って船を呼ぶ。さっ
きの崖に旗を立てて、そうすりゃ買い付けの船がやってくる」
「そうか。厳しいだろうがおおらかな暮らしだな」

 そのときお邦が、湯飲みを覗き込んで弱く笑った。
「あたしは売られた。この常陸の北の果ての貧しい農家だったんだ。
身売りだよ。そんときあたしは十三だった。救ってくれなきゃ、い
まごろ女中か女郎だったね」
 才蔵はわずかにうなずくと、すぐそばに足を崩して座るお邦の膝
に手を置いた。
「だからあたし、ここが好きさ。それぞれ何かを引きずって、それ
でも仲良く暮らしてる。あたしの一生なんてこんなもんだろうなっ
て思ってさ」
 そのとき、お泉が横から言った。
「はじめて人を斬ったのは小娘の頃だった」
 お邦が静かに視線を流した。
「ある武家の屋敷に忍んでね、逃げようとしたときに仲間が見つか
り斬り合いになったのさ。相手もくノ一。あたしらはふたりだった
が相手は四人。あたしはふたりを斬ったんだけど、そのうちのひと
りがあたしよりも小娘だった」
「ふーん、辛かったんだろうね?」
「震えたさ。毎夜毎夜夢に見て眠れない。そのうちあたしは女とな
って、これでもいろいろあったんだ」
 お邦はこくりとうなずいて、哀しげに微笑んだ。

 おまえはどうやってここへ来たと問いたい思いはあったのだが、
才蔵は訊かなかった。思い出させるのも可哀想。
 そして声が途絶えたときに、お泉が問うた。
「だけどあれだね、こう言っちゃなんだけど、こんなところに女ば
かりじゃ怖いだろ?」
 お邦は顔を上げてちょっと笑った。
「いまはもう大丈夫。ここらの海にはちょっと前まで海賊がいてね」
「ほう、海賊が?」
 その昔、若狭の海にもいたと才蔵は思う。食い詰めた浪人どもが
盗賊となり果てて海に出た。山なら山賊、陸なら盗賊。三代将軍家
光の世となって締め付けが厳しくなり格段に減っていた。まして常
陸は水戸藩。幕府の威信にかけて追い払ったことだろう。
 この部落の備えもそのときのためだったと思われる。
 お邦は言った。
「昔はひどかったらしいんだ。それもあり嵐で大勢死んだこともあ
りで隣の村は北へと移っていったそうだ」

 お邦が言った。
「ねえ、あたしから訊いていい?」
「かまわん、何だ?」
「江戸にいたってことだけど、そこで出会った?」
「お泉とか?」
「うん、訊きたい」
 ここにいては出会いがない。興味があってならないのだろう。お
邦の目が俄然きらきら輝いた。十五と言えば嫁に出てもおかしくな
い歳。
 そしてそのときお泉はちょっとうつむき、才蔵がどう言うか、ハ
ラハラして聞いていた。才蔵は言う。
「江戸のあるところにちっぽけな寺があってな」
「うん?」
「そこでは孤児を引き取って育てていた」
「孤児?」
「そうだ孤児だ。カゴに入れられて寺の門前に捨てられる乳飲み子
もいたんだぜ」
「・・ひどい話だね」
「そうだな、しかしそうしなきゃならねえ訳もある。それで、その
寺の和尚が死んで寺が悪い輩に狙われた。そんとき流れ者の俺がた
またま寺に厄介になっててな。銭もねえ俺に寺のみんなはよくして
くれた」
「うん」
「そしてまた、そんときちょうど急な病でこのお泉が転がり込んだ。
寺が襲われたのはそのしばらく後だった。俺とお泉で悪い輩を追っ
払った」
「ふーん、いい話だ・・それで?」
「俺もお泉も流れ者。どっか遠くの知らないところに行こうってこ
とになり、俺が一緒に来いってお泉に言った」

「ふーん、それでか・・」
 と言って、お邦はふたりを交互に見てくすっと笑う。
 才蔵が言う。
「それでかとはどういうこった?」
「寺ではふたりきりになれなかった。好き合っているのにさ。んふ
ふ」
「てめえ、そう言やぁ思い出したぜ、よくも覗きやがったな」
 頭をかるくはたいてやる。ちょっと舌を出すお邦の癖が愛らしい。

 お泉は頬がかーっと熱くなる。好き合っていた。思い返せばそう
だった。どうせ夢だと諦めていた。
 才蔵は言う。
「好き合っていたか・・うむ、そうかも知れんな」
 お泉は信じられないものを見るように才蔵の横顔を覗き込む。本
心からの言葉だろうか。
「ま、てえことだったんだがよ、江戸を出てたった三日でこのザマ
さ、参ったぜ」
「・・ほんとだよ、もう」
 お泉は小声で言うのだったが、何かを言わないと涙があふれてき
そうだった。
 お邦は立った。
「わかったよ、ありがとね。江戸なんて、きっと一生知らない町だ
し。あたし寝るから。朝も早いし」
「おぅ、よく寝て育て」
「ちぇっ、これだよ。あたしゃもう童じゃねえんだ。べぇーダ」
 笑ってあっかんべぇーをしながら、膳をふたつ持ってお邦は出て
行く。粗末な板戸でもつっかえ棒が置いてあり、外から開かないよ
うになっていた。

 畳二枚きりの上に間を空けられずに夜具をのべ、揃って寝間着に
着替えたものの、お泉は帯をせずに横たわり、才蔵の気配を察して
振り向いて、泣いてしまって抱かれていった。二十七年生きてきて、
いまこそ夢の中だと思うのだった。


二話 くノ一の目


 才蔵とお泉のふたりが洞穴の湯に溶けていた頃、粗末な小屋のよ
うな家が並ぶ一軒の屋根の下に女たち三人が集められていた。
 女たちは三人ともに歳の頃なら二十代の終わりから三十そこそこ。
最前、千代がくノ一だった者が三名いると言った、その三人だと思
われた。
 千代が言う。静かな声だ。
「まあ楓を救ってくれたんだ、差し迫った敵ではないだろうけど目
を離さないことだね。あのふたりはできる。男のほうは見ず知らず
の我らに囲まれ、刀を委ねていながら平然としていた。イザとなれ
ばいつでも奪い取って抜けるからだよ」
 女たち三人は顔を見合わせてうなずいて、そのうちのひとりが言
った。
「女が持つ杖だって、あれは仕込み。女も強いと見たけどね」
 千代がうなずく。
「我らが束になってもおよばない、あのふたりはそういう者どもだ。
あのときの言いぐさを聞いただろう。『流れ流れた木っ端のトゲが
艶布を引っかけた』・・女のことをツヤ布だよ。浪人の成りはして
いても、かなりな家柄の武士と見た。心しておかねばならぬだろう」
 女たちはふたたびうなずき合って、千代の前を離れて行った。

 そしてそれと入れ替わりに洞穴の湯から駆け戻ったお邦が、にや
にや笑いを噛むような面色でやってくる。
 千代が問うた。
「どうだった? 何が可笑しい?」
「ふふふ、どうもこうも、あのふたりはじめてのようだった、抱き
合うのが」
 千代がちょっと眉を上げた。
「そう見えたかい?」
「女が恥じらって『嬉しい』って言い、男が『俺もだ』と言うと、
女は『ほんと? ほんとのこと?』って甘えてた。男はやさしい。
女のほうから惚れてるって感じでさ、見てて羨ましくなってくる」
 千代はちょっと笑って考える素振りをすると、独り言のように言
うのだった。
「だとすると恋仲、それもはじまったばかりの男と女。それで? 
ほかには?」
 お邦は聞き取れなかったと首を横に振ったのだった。
 千代が言う。
「考えすぎか・・悪い癖だね。まあいい、しばらく様子を見ようじ
ゃないか」
 お邦は笑いながらちょっと頭を下げて部屋を出た。

 洞穴の湯を出た才蔵とお泉だったが、そのときはまだ斜陽には早
い刻限で、傾きだしたお日様が背後の崖の上に浮いている。
 この湯へ来るとき、ある家の裏から回って来たのだったが、洞穴
を出てふと見ると、そちらが表と思われる道筋が見えている。才蔵
を離れてちょっと覗いたお泉が、たちどころにあることに気づいて
いた。
「ごらんよ、家々は道筋の左右に分かれていて真ん中を道が貫いて
る」
「うむ? それが?」
「道は狭いよ。そりゃそうさ、ここはもともと人が住む家じゃない
からね。番屋とは納屋も兼ねるもの。荷車を引くにしても道筋はま
っすぐ通っていたほうがいいはずさ」
 なるほどと才蔵は思う。せっかく筋の通る道すがら、わざと邪魔
をするように、家々の何か所かから別棟となる納屋が造られて道を
遮っているのである。大勢の敵に突き進まれないために。忍びの知
恵でもあったのだろうし、それも兵法。敵への備えをしているとい
うことは戦うときのことを考えるがゆえ。

 お泉は言った。
「考えすぎかも知れないよ、女ばかりの部落だからね、逃げやすい
ようにしてるだけかも知れないし」
 一目で見抜くくノ一の眼力に、才蔵はちょっと笑ってお泉の腰を
すっと抱く。とっさにお泉は腰を振って手を遠ざけた。
「あ・・見られるだろ」
「かまわんさ、だから何だってことじゃねえか」
 おおっぴらに男女の仲を見せていい。これほど嬉しいことはない。
 お泉は唇をちょっと噛んではにかんだ。もうくノ一だったあたし
じゃない。影じゃない。そう思うと崖の上に浮いているお日様が眩
しく見えた。

 崖を西の背にするこの部落のありようだと、お日様が崖に隠れた
とたんに暗くなる。眼前の松林が明るくても家々のならぶ場所だけ
に、いきなり夕刻がやってくる。
 いまはその寸前。湯を出て佇むふたりを目ざとく見つけ、女がひ
とり歩み寄る。背丈はそこそこ。海の仕事で逞しく焼けた肌。髪は
そう長くなく、結わずに上にまとめた姿だった。海女ばかり。そう
言えばここの女たちは、年長の千代のほか髪を結ってはいなかった。
そっけなくまとめただけだったし、潮にやられて髪の毛が赤茶けて
いる。厳しい暮らしを物語るようだった。
「家を用意しました、こちらへ」
「うむ、すまぬな、世話になる」
「いえ・・」
 女は、男の腰の低さにあらためて探るような目を向けて、横を歩
きながら言う。
「あたしは涼、涼しいと書いて涼」
「そうか、お涼さんか。ときに、ここの女たちは髪を下ろしたまま
のかい?」

 なにげなく訊いたとき、お涼は、なぜかそばを歩くお泉へと目を
やって、ちょっと笑って言うのだった。お泉は見事に結い上げた黒
髪だった。
 お涼は言う。
「あたしらみんな海女なんだよ。朝には海に出て働いてる。髪なん
てなくたっていいくらいさ、男がいるわけじゃないんだし」
「採ったものを売ってか?」
「もちろんそうだけど、売るより喰うためって言ったほうがいいだ
ろうね。近くで菜物なんかを仕入れるときに畑のものと交換するっ
て感じかな。たくさん採れたら買い付けの船が来るから売るけどさ。
合図があってね、たくさん採れたら旗を立てるって寸法なんだが、
だいたいは喰うだけ採ったらおしまいにする」
「厳しい暮らしだな」
「それはね。けど、あたしらはそれでいい。身の丈以上のものを求
めない。あたしはくノ一だった。陸奥(むつ 福島~青森あたり)
のさるお武家に仕えていたけど、あたしの役目は色じかけ。哀しく
なって逃げたんだ。抜け忍なんだ、ここのほかでは生きていけない」
「そうか、すまぬ、つまらんことを訊いたな。けどよ、ここのみな
はキラキラしてら」
「え?」
「これほどの海が相手よ、人また人の煩わしさから解き放たれてな。
おめえさんも忘れちまえ。おっと、思い出させた俺が言う台詞じゃ
なかったな。ふっふっふ」

 お涼は何を思ったのか、ふいにお泉に向かって言うのだった。
「楓のこと礼を言うよ。妹分なんだ。あたしだってくノ一だったけ
ど、知ってのようにくノ一にもいろいろあってね。剣もダメ、毒を
盛ったことはあっても毒なんてつくれない。忍び込むのも下手だっ
たし、そうなると奉公してでも入り込むしかないじゃないか。娘の
頃から女中だった。ずっとそうやって生きてきた。年頃になると、
わざと裾を乱してみたり、男どもの気を引くようにさ」
 才蔵は言う。
「それは役目だ、おめえさんが汚れたわけじゃねえからな、心得違
いするんじゃねえぞ」
 お涼はハッとするように才蔵を見つめていた。
「やさしいんだね、ありがと。さあここだよ、じきに夕餉を運ばせ
るから」
 わずかな歩みで家の前。そこもまたちっぽけな小屋だった。引き
戸の板戸がガタピシ開けられ、入ろうとしたときに、となりの家か
ら、お邦が出て来てにやりと笑った。

「あっ、こらてめえ、ぶった斬るぞ、着物の帯をよ」
「へんっ、べーダ! ヤなこった! あははは」
「てめえ、待てこらっ!」
 追いかける素振りをするとお邦はすっとんで逃げていく。
「ふっふっふ、どうしようもねえ娘だな」
 そんな様子を呆れて見ていて、お涼が言った。
「お邦が何かしたのかい?」
「覗きやがったのさ、湯をよ」
「あれま」
 お涼はくすっと笑ってお泉を見たが、お泉はそっぽを向いて、ち
ょっと怒った面色だった。
 お涼は言う。
「そうだったのかい、ふふふ。お邦は十五、いちばん若い。ふざけ
てばかりで、どうしようもないんだよ。許してやっておくれね」
 才蔵は首を振る。
「端から怒ってなどいねえや。平素が女ばかりで男がめずらしいん
だろうぜ。夕餉が済んだら遊びに来いって言っといてくれねえか」
「うん、わかった。じゃあ、じきに夕餉だからね」

 家に入って板戸を閉めて、お泉は呆れて笑って言う。
「たまらないね、会ったそばから魂抜いてる」
 言いながら、お泉は才蔵の胸へと流れて抱かれていった。心がど
んどん崩れていく。この人のためなら何でもできると思えてくる。
「夕餉か、ちと早い気がするが」
「海女は朝が早いから」
「なるほど。そう言やぁ、若狭の海でも暗いうちから船が出たな」
「そうだね。けどもう若狭には・・遠いよね」
「うむ、俺もそうさ、若狭どころか、江戸だろうがどこだろうが、
侍など見たくもねえ」
 そう言って抱きくるまれて、背をそっと撫でてくれる才蔵。今宵
あたしは抱かれると、お泉は心が震えてたまらない。

 小屋の中は、入って土間、一段高くて板の間で、板床の奥のとこ
ろにすり切れた畳が二枚敷いてあり、布団が二組。夜具の間を空け
ることもできなそう。畳にすれば五畳ばかりのいびつな部屋。炭の
燃える大きな火鉢に鉄瓶がのっていて、いまに湯気を噴き上げそう。
厨も厠もない、まさしく小屋だったのだが、お泉は草源寺の狭い庫
裏を思い出し、それより狭いと可笑しくなった。
 つっかえ棒で開けた小窓が造られていて、閉じれば闇がやってく
る。
 部屋に上がったふたりは座布団さえない板の間に申し訳程度に敷
かれた畳に座り、お泉が立って茶を淹れて、ふたたび座った。草源
寺で感じたよりもさらに気の抜ける、ふたりの間合い。
 ほどなく板戸がガタピシいって開けられて、お邦が膳を二つ運び
込む。
「これは美味そうだ、貝に魚か」
「地物の牡蠣だよ、それに冬ならカレイだね。美味いよー」
「おめえの膳はねえのかい?」
「あたしは向こうでみんなとさ。邪魔しちゃ悪いし。ふふふ、姉様
言ってた。お涼の姉様」
「おうよ? 何と?」
「お泉ってお人が羨ましいって。あたしも思うよ、羨ましいって」
「そうか、じゃあ後で来いや。海のことでも聞かせてくれ」
「けどさ・・」
 お邦は上目がちにお泉を見た。
「いいから来い、覗いた罰だ、尻めくってひっぱたく、ふっふっふ」
 チロと赤い舌先を覗かせて、頭を下げてお邦は出て行く。

 このとぼけた間合いは何だろうとお泉は思った。あのとき剣を抜
いた才蔵は鬼神のごとく強かった。なのにいま、まったくそこらの
男に成り下がる。どうしようもなく惹かれていく。お泉の体は火照
っていた。


一話 海女たちの海


 そそり立つ背後の屏風岩に守られるようにある女ばかりの部落。
村と言うにはあまりに小さく、それはさながら海女どもの集まる海
の番屋のようなもの。数軒のあばら屋、そこに暮らす女どもは総勢
十四名だと言うが、四十そこそこの歳嵩の千代のほか女たちはだい
たいが若かった。上でも三十そこそこ、下は十代。女ばかりが身を
寄せ合ってできたばかりの部落であれば家はもう少し新しくてもよ
かっただろう。海風を防ぐためか家々はすべてが平屋で、仮建てそ
のものの古い小屋の集まりといった部落である。
 密書を携えた武士を救ったと言うが、そんなものはにわかにつく
った言い逃れではないか。あるいは、かつてそういうことがあった
としても、それとこれとは話が違う・・おおよそそんなことではな
いかと、このとき才蔵は考えた。

 才蔵が千代に問う。
「そなたらは海を生業(なりわい)に?」
 千代は言った。
「女たちを見てもわかるように我らは海女の部落でね。ここらの海
は見た目は浜だが急深で、一泳ぎもすれば底は岩。貝などたくさん
穫れるんだ。浜伝いに少し行けば岩の海だし、船などなくても漁は
できる。もともとここは近くの村の番屋の集まりだったんだが、嵐
で高潮にやられてしまった。大勢死んだ。それで村ごと、もっと北
に移っていったさ」
「なるほど、それでここに?」
「もう五年になるかね。おまえ様のように江戸から来た者もいれば、
もっと北から流れてきた者もいる。皆が貧しい。十二、三で売られ
ていく娘たちが多いんだ」
 そのへんのことについて嘘はないだろうと才蔵は思う。
「まあ話はわかった、俺は才蔵、よろしく頼む」
「才蔵様」
「様などいらぬ。侍扱いはまっぴらだ。流れ者ゆえ、どうなりと呼
ぶがいいぜ」

 千代は眉を上げて小首を傾げると、すぐ隣りに座るお泉に目をや
ってちょっと笑った。
「おまえ様方、なさぬ仲というわけでもないだろうに」
 才蔵は言う。
「流れ流れた木っ端のトゲが艶布を引っかけた・・とでも思えばよ
かろう」
 お泉が呆れたように才蔵を流し見た。どうしてこう粋な言葉が浮
かぶのか。
 千代は目を細めて浪人姿の男を見つめている。そんな言い回しに
育ちの良さを感じたからだし、気取らない男の性根を見抜いていた。
 千代は言う。
「北へ行くのかい?」
「そのつもりだったんだが、なにぶん冬ゆえ、まずは行けるところ
までと思ってな。されど風が冷えてきた」
「ふふふ、わかった、留まりたいなら、それもいいさ」

 千代は、間近にいた若い娘に目配せすると、座を立ちながら才蔵
に向かって言う。
「空き家をつくる。ちょいと待っておくれでないかい」
「空き家とは?」
「四人殺られたって言っただろ」
「ああ・・そういうことか」
「支度する間、湯にでも浸かって温めるがいい。それがあるからこ
こはいいのさ。お邦(くに)、おふたりを湯へ」
「はい頭・・ぁ」
 頭と思わず言ってしまった娘の目がちょっと笑って、舌を出す。
お邦はまだ十六、七の娘であった。

 お泉とふたり外に出て、猫の額ほどの平らな岩の上にかたまった
数軒の小屋のような家々を縫って行くと、背後のそそり立つ岩壁に
ぶちあたる。そこに斜めに岩が裂けたような洞窟があり、少し入る
と湯が溜まって湯気が上がる。温泉が湧き出していたのだった。
 洞窟の口に向かって板で組んだ目隠しが屏風のように立っていて、
その向こうが脱衣、さらに先の一段下に自然のままの岩の凹み。ご
つごつとした岩風呂で透き通った塩泉だ。
 才蔵もお泉も目を見張る。
「ほう、湯が湧くか・・」
 お邦という娘は小柄で丸顔。背丈はまあそこらの女なりだが童を
そのまま大きくしたような、くりくりした目をしている。
「夏にはちょっと熱いけど、いまぐらいならちょうどいいと思うよ。
出たらそのへんにいてくれれば誰かが見つける」
 くすっと笑って背を向けたお邦を才蔵は呼び止めた。
「おいおい、てえことはだが・・」
「そりゃそうさ男女の別などありゃしない、女ばかりの部落なんだ
し・・うぷぷ」
 そっぽを向くお泉を察してお邦は笑い、駆け去っていく。

「ふむ・・まあ、そういうこった、ともに浸かるか」
 お泉は声も出せず、横目に才蔵を睨みつけた。
 寺の庫裏で寝間着越しに抱かれたことはあっても素肌に触れられ
たことはない。この人と一緒にいると、どうしてこうなってしまう
のか。呆れて物も言えない。
 粗末な板を立てただけの目隠しの裏側に青鞘の刀を立てかけて、
さっさと脱いでいく才蔵。お泉は背を向けたまま動けなかった。
 湯の乱れる音がした。
「おおぅ、いい湯だ、おめえも入れ、こりゃあいいぜ」
「ちぇっ、何言ってんだか・・たたっ斬るよ」
 そんな言葉とは裏腹にお泉は頬が燃えるようだった。もうもうと
した湯気に白む中に立っていて、だからこそ夢のようで恥ずかしい。

 才蔵の刀に寄せて白木の仕込み杖を立てかけて、脚絆を外し、帯
を解き、そのときチラと目をやると才蔵の白い体が透き通った湯に
揺らぎ、向こうを向いてこちらを見ない。引き締まった若い背中。
 着物をはだけて肩からするりと滑り脱ぎ、それだけでお泉の白き
裸身は桜色に染まっていた。

 お泉は二十七だった。もちろん小娘であるはずもなく、けれども
この人と見定めた男の前では震えてしまう。寺の庫裏でそっと抱か
れ、それにしたって胸が高鳴り眠れなかった。
 くノ一を捨てろと言われ、こうしてふたり旅をして、なのにまた
面倒に巻き込まれ、そうかと思うといきなりふたりきりの湯に浸か
る。何もかもが夢のよう。そうとしか思えなかった。

 ちゃぷ・・。

 足を入れ、一歩踏み込み、そっと沈む。湯は浅く胸まで浸かるこ
とはできそうもなかった。
 才蔵が振り向かずに流れて寄って、素肌の肩をそっと抱かれる。
お泉は自ら身をひねって抱かれていった。しがみついていないと何
もかもを見られてしまう。
 男の目を見つめ、ごまかそうとして笑うのだったが、女の目は据
わり、才蔵の眼差しからは逃げられない。息が乱れた。

 くノ一が若きひとりの主に付き従い、役目を果たそうとすると、
どうしたって闇の中でふたりきりとなるものだ。楓もそうだ、あの
ときのあたしのように寄り添って眠ることもあっただろう。
 けれどもこうして素肌を合わせて抱かれていると、せめていっと
き役目を忘れ、女として生きてみたいと思えてくる。お泉は湯の濡
れを言い訳に泣いていた。泣き震えて肩が揺れる。

「村雨兄弟とはな」
「知らないね、聞いたこともない名だよ。それに妙だ」
「そう思うか。おそらくはとっさに繕った話だろうが・・はぁぁ」
 才蔵のため息が可笑しくなってお泉は笑った。
「・・なんてこった」
「ふふふ、ほんと、なんてこった。あたしが言いたい台詞だよ。楓
って名を聞いたとき、あたしだって放っとけないって気がしたさ。
楓を斬ったのは女だね。毒の刃はくノ一のやり方さ。男の力で剣を
振るえば傷はどうしたって深くなる。あれは匕首(あいくち・短刀)
の傷。崖の上で襲われたのか、崖まで逃げて転がったのか。とっさ
に交わして交わしきれず、だから傷が浅くて済んだのかも知れない
し」
「おおかたそんなところだろうが、おめえのおかげだ、よく救って
くれたな」
「けど肌に傷は残る」
「うむ。若ぇえのに可哀想なこったぜ。ここにも隠された何かがあ
る。しかしなぜひと思いにやらねえのか? そうできない理由があ
るからよ」

 素肌の胸板越しに響く声は男らしく、お泉は胸に頬を添えて眠る
ように聞いていた。

「・・嬉しい」
「俺もな」
「ほんと? ほんとのこと?」

 才蔵は、胸に頬を委ねたまま見上げるお泉に微笑みながらうなず
いた。男の腕が女を引き寄せ、そのときそっと目を閉じたお泉の唇
に男はそっと口づけた。
 そのときだった!

「うぷぷ・・ぅくくっ」
「こらてめえ! 覗いてんじゃねーや!」
「ごめんよごめんよー、うぷぷ、きゃーだわ、きゃー! あははは」
「何がきゃーだ、おめえはお花かぁーっ!」

 お邦がばたばた駆け去って行く。

 才蔵は腕の中のお泉を見つめてぼそりと言った。
「おもしれえ小娘だ」
「ぅくっ・・あーあ、なんてこった・・」
 お泉は可笑しくなって笑ってしまう。幼いお花は、いまごろ仁吉
やお香や、やんちゃな十吾に囲まれて笑っているのだろう。泣いて
泣いて見送ってくれた幼い兄弟の姿が心に焼き付いて離れなかった。


終話 波濤の村


 師走もなかばになろうとした。冬としては温かいおかしな冬では
あったのだが、それでも風は冷えてきていた。
 才蔵とふたり、旅姿のお泉は、表街道を避けて海沿いを行き、常
陸の国(ひたち 茨城あたり)の白波立つ海を見ながら歩いていた。
草源寺を出てふらりふらり。三日ほどが過ぎていた。
 江戸から少し離れるまでは表街道を行きたくない。江戸への出入
りに巻き込まれるのはまっぴらだった。それゆえに東海道は避けた
かったし、こんなことのあった後だけに駿府に近い伊豆というのも
気乗りがしない。役人どもの姿さえも見たくない。海沿いには旅籠
などない漁師の部落が点在していて、そうした家々に一夜の宿を借
りて歩みを進めた。

 北へ行こう。そうは思っても、なにぶん冬。常陸でもよし、陸奥
(むつ 福島から青森あたり)でもよし。どのみち行くあてのない
旅だ。雪が来る前に行けるところまで行こう。江戸より北は才蔵に
とってもお泉にとってもはじめての地であった。
 お泉は思う。北は遠く雪は白い。くノ一であった身の上を消し去
って、これまでの汚れを白い雪で覆い隠す。そんなことができれば
いいと願っていた。
 このままもう少し海べりを歩き、江戸から離れたところで陸側に
向けば奥州街道に入って行ける。旅籠もあれば湯もあって、忍びの
役目ではないゆるりとした旅路に酔っていける。夢を抱いて歩いて
いた。

 そこはわずかな砂浜。人の背丈の倍ほどの岩の崖が左にあって、
右は海。白波立つ冬の潮が押し寄せて、若狭の海を思い出す。冬の
若狭は鉛色。寒風が吹き寄せて海が荒れる。しかし見渡す限りの大
海は、空が青く、海が青く、白波が絵のように美しい。
 役目を忘れてふたりで行ける。お泉にとって目にするすべての景
色が光り輝いていたのだった。
 砂浜は岩の崖の凹凸に沿って左にゆるやかに曲がり、崖に隠され
ていた行く手の浜がひろがりだしたところで、才蔵もお泉もほぼ同
時に、崖下に倒れる人影を目にしてしまう。
「行くぞ」
 走りたくても砂に足を取られ、北からの向かい風がなおいっそう
邪魔をする。

「おい・・おい! どうした、誰にやられた!」
 粗末な成りの若い女。崖から落ちたことで裾がまくれ、腿の中ほ
どまでが陽に焼けた女の肌が露わ。背中に袈裟斬りの刀傷、しかし
浅く息がある。
「ぅぅ・・ぅむむ・・む、むらさめ・・きょうだい」
「村雨か? 村雨兄弟と言ったか?」
「ああそうだ・・うぅむ」
 そしてそのとき、崖裏から急傾斜を滑るように大勢の者たちが降
りてくる。前から五名、後ろから七名、いずれもが若い女どもで、
着物は粗末。毛皮のチョッキ、手に手に漁具の銛(モリ)や長ナタ、
木でできた船の櫂(かい)や長い棒を手にしている。
 その成りからも、ここらの部落の女どものようだった。

「てめえ、村雨だな! よくもやりやがったぜ、おおぃみんな殺っ
ちまえ!」
「おおぅ!」
 一斉に中腰となって身構える女ども。才蔵は、瀕死の女をお泉に
診させておきながら、囲む女たちに立ちはだかる。
「待て待て、村雨兄弟とは何者だ、我らは違う、旅の途中、通りが
かっただけの者」
 そしてそのとき女の傷を診たお泉が言った。
「浅いよ、早くしないと」
 才蔵はうなずくと囲む女たちに言う。
「聞いた通りだ、早く運べ、女は助かる」
 囲む女どもは顔を見合わせ、姉貴格と思われるひとりが、切っ先
のギラつく銛をそれでも構えながら問う。
「まこと村雨兄弟ではないのだな?」
 才蔵は声を荒らげた。
「くどい! 問答してる暇などねえ! 早く運べ!」
 女どもは顔を見合わせ、手にした武器を一斉に降ろすと、倒れた
女の元へと駆け寄った。
「楓! 死ぬな楓!」
 楓・・お泉は配下だった同じ名の女をとっさに思い、才蔵もまた
よく知る楓の姿を思い出す。

 斬られた楓は若かった。明らかに十代。海での暮らしで着物から
出るところが褐色に焼けている。
 倒れた楓に女たちは群がるが、ひとりで背負うには足場が砂で悪
すぎた。
「どけ、俺がおぶる」
 才蔵は青鞘の大小を腰からひっこ抜くと女のひとりに手渡して、
瀕死の楓を背におぶる。
 崖を回り込み、急坂をジグザグに登る道筋を歩き、崖の上に上が
ってみるとそこは松の林。松林を抜けて歩くと、そそり立つ岩と岩
の間に粗末な家が数軒並ぶちっぽけな部落があった。
 楓をおぶって才蔵は走り、家の一軒に運び込むと、そこから先は
お泉の出番。くノ一は傷の薬を携えている。

「うわぁぁ痛いぃーっ」
「手足を押さえな! 手ぬぐいを噛ませるんだ! 楓と言ったね、
沁みるけど我慢だよ!」
「うわぁぁーっ!」
 壮絶な悲鳴が粗末な家に響いていた。

 才蔵は同じ家の中にいて、部屋を離れ、女ども数人に囲まれてい
た。剣は持たない。大小ともに委ねたまま。
 ほどなくして、四十前ほどの年増女がやってきて、才蔵の前に腰
掛けた。年増であっても体は締まり、海の仕事で焼けている。
 女は才蔵の目をしばし見つめると、刀を委ねられた若い女に言う
のだった。
「返しておやり、このお方は違うようだ」
 囲む女たちの怪訝な面色が一斉にやわらいで、女が青鞘の大小を
才蔵の座の前にそっと置く。そのとき女は小声で言った。
「すまなかったね」
「うむ、かまわんさ、楓とかいう娘はきっと助かる」
 女はこくりとうなずいて数歩退いて控えている。
 そしてそのとき、奥の部屋から若い女がやってきて、才蔵に向き
合う年増の女に耳打ちした。
「ほう、見事なものだと・・」

 年増の女はちょっと笑うと才蔵に向かって言った。
「おふたりは旅の途中で?」
「そうだ、三日前に江戸を出たばかりでな」
「左様で。あたしは千代、こう見えても元はくノ一。この部落は女
ばかり。身売りが嫌で逃げて来た者、奉公先で男どもに嬲られた者、
あたしのようにくノ一だった者もいる。これで五人目。楓は助かり
そうでよかったけれど、ほかの四人は遅かった」
「遅かったとは?」
「惨い手口さ、ひと思いに殺りはしない。苦しませ、手当が遅けれ
ば死んでしまう」
「相手は村雨兄弟とか言ったが?」
「そう呼ばれているけどね。兄と妹の二人連れで、頭巾で顔を覆っ
ているが、年格好ちょうどおまえ様方のようなもの。どちらも剣を
使い、兄は武士ふう、妹の方は得体が知れない」

 才蔵が問うより先に千代は言った。
「ときに、おまえ様の連れのお方は? 傷の手当てが見事だそうだ
けど?」
「お泉と言ってな、くノ一だ。いまは違うが」
 千代は眉を上げて納得し、そのときちょうど傷の手当てを終えて
お泉が部屋へとやってくる。
「傷は浅いが毒の刃」
「毒?」
「ありきたりのやり口さ。毒消しを施してある。手当が早かったか
ら、おそらく持ち直すと思うよ」
 才蔵はうなずいて、すぐ横に腰を降ろしたお泉の膝にそっと手を
置く。千代も、そのほかの女たちも、そうした才蔵の振る舞いを見
つめていた。
 千代がお泉に向かって言った。
「礼を言うよ、ありがとね」
 お泉はちょっと頭を下げたが笑みはすぐに真顔に変わった。

 才蔵が千代に問うた。
「どういうことだ? なぜ狙われる?」
 千代は、周りを囲む女たちを見渡して、浅いため息をつくのだっ
た。
「少し前のことだけど、手傷を負って逃げていたお侍をかくまった。
傷が癒えて逃がそうとしたときに追っ手がやってきて、お侍は逃げ、
その後どうなったかは知れないが、あたしらが狙われるようになっ
たんだ。お侍はどうやら何らかの密書を携えていたようなのさ。け
どそんなものはあたしらは知らない。預かった覚えもないしね」
「密書を出さぬなら殺るぞってことか?」
 千代はうなずく。
「村雨兄弟は金で人を殺る殺し屋なのさ。チクチク針で刺すように
惨いことをする。殺しを楽しむようにね。あたしら総勢十四名。四
人殺られてその数だし、襲って一気に皆殺しってやり方じゃないん
だよ。ここらのどこかに潜んでて、ひとりずつ嬲るように手にかけ
る」

 妙な話だと才蔵は考えた。密書などというものを押さえたいなら
大挙してやって来て総ざらえが常道だろう。
 この部落にも何かがありそうだ。やれやれ・・またしても流れ者
の流れが澱んでつっかかる。そう思うと可笑しくなった。

 千代は言う。
「あたしのほか、くノ一だった者は三人いてね、それぞれが甲賀で
も伊賀でもなく流派とてない名もなき一族の末路だよ。あたしは親
父様の代までは風魔。けどあたしが生まれる前に滅亡した」
 そこまで言うと千代はお泉に控えめな目を流し、なおも言った。
「その残党などてんでに散って、なのにあたしは忍びとして育てら
れた。ふたりいた兄が死に、ようやっと独りになれたあたしは、こ
こで女ばかりの部落をつくった。と、そういうことでね」
 奥の部屋から、また先ほどの女がやってきて、今度ははっきり声
に出して言う。
「ひどい熱なんだ、どうしよう」
 千代より先にお泉が言った。
「毒消しが効いてきたんだよ、体を冷やしておやり、傷が開かない
ようにしてれば大丈夫」
 それを聞いた千代が女に向かってうなずいて、女は、お泉に浅く
頭を下げて奥へと消えた。

 千代が言う。
「さて、足止めしちまって悪かったね、どこへなりと行くがいいよ。
楓のこと、ありがとね」
 才蔵が言う。
「てえ訳にはいかねえな、せっかく救った楓とやらが、ふたたび斬
られてはたまらねえ」

 そう言うと思っていた。お泉は、きらきら輝く才蔵の目を横から
見つめた・・。


『流れ才蔵』完  
引き続き、追って『続・流れ才蔵』を短篇としてスタート。
次作は、R18ではありませんが少しだけ艶っぽく。
 


十七話 対峙


 頭巾の女がふたたびやってきたのは、明日から師走(十二月)と
いう、霜月(十一月)最後の日。桜の葉もすっかり散って、けれど
も冬でも葉のある生け垣だけは濃く青い越冬葉をつけていた。

 今日は茶色頭巾の女。境内を滑るように歩み、滑るように去って
行く。昼を少し過ぎた刻限で、そのときも寺には才蔵ひとり。皆は
買い出しに出ていなかった。
 金はその包み嵩から五両と思われ、受け取った才蔵は、ともに歩
んで門の間際の大石のところで立ち止まる。
「お待ちあれ」
 女は背に向けられた声を受け、静かだが明らかに身構えるように
立ち止まり、しかし一瞬後にしなやかに振り返る。
 才蔵は、あえて納屋を振り向く素振り。女の視線が才蔵の目の行
き先を追うようについてくる。
「なんぞ?」
「話されずとも結構にござる、ただお聞きくだされば」
 女はちょっとうなずいて頭巾の中から見つめている。若くはない
が澄みきったいい目をしている。

「どなた様かにお伝えいただきたい。『この家は光の中にあり、た
だただ長く安穏が続くのみ』・・と」
 女はその言葉を心で噛むように沈黙し、そして言った。
「はて? 何のことやら解せませぬが?」
 才蔵は微笑んでうなずいて、北風に冷えた大石に手を置いた。
「何も申されずともよいのです。ついてはひとつお願いしたきこと
があり・・火種は拙者が消し去って、拙者もまた消え去るでしょう」
 それから女は才蔵の言葉に耳を傾け、されど沈黙したまま去って
行った。

 数日後の筑波の山寺。
 穏やかな時の中に息づくような美しき女性(にょしょう)は、そ
のとき少し風のそよぐ庭先を見やりながら言うのだった。
「ほう・・この家は光の中にあり、ただただ長く安穏が続くのみと、
そう言うか・・ふふふ、なるほどのぅ、その者さぞや、ただ者では
あるまいて」
 頭巾の女は、このときもちろん頭巾などはしていない。お付きの
女は言うのだった。
「左様にござりまするな、よもやそのようなことを聞こうとは」
「家光様、忠長様、どちらもが安穏・・ふふふ、なるほどのぅ。わ
かったぞ、その者の思うようにさせてやるがよいと思うが」
「かしこまりましてござります、ではそのように」

 師走となり、一日また一日。今年は冬が遅いようで風はぬるく陽
射しが注ぐ。その夜もまた夕餉に間に合うように仁吉がやってきて、
童らの声が絶えない賑やかな時が流れていた。
 今宵仁吉は祝言の日取りが決まったと言いに来た。普請の仕事は
雪が降れば止まってしまう。冬冷えが来る前の大仕事で大工は忙し
い。祝言は春というのが慣例なのだが、正月休みに集まろうと話が
できた。浜町にいる仁吉の親、大工の親方や大工仲間、できるなら
越後の山奥にいる仁吉の生みの親も呼んでやりたいところなのだが、
越後はすでに雪に閉ざされ、春が来て、お香とそれから十吾やお花
も連れて会いに行こうということになっていた。

 夕餉がすんで才蔵ひとりが抜け出して庫裏にいた。しばらくして
お泉がやってきて、ため息をついて苦笑する。毎夜毎夜同じような
ことの繰り返し。これが幸というのものなのだろうとお泉は思う。
「何も変わらないね、可笑しくなるくらい」
「まったくな、やってられん」
 夜具をのべ横になる刻限がやってくる。それもまた日々の繰り返
し。夜具の間に隙間をつくり、お泉が背を向けて横になる。今宵は
とりわけ風もなく、静かに沈む闇だった。
 しかしそのとき、お泉はサッと横に転がり、仕込み杖を手にする
と身を翻して身構えた。才蔵ももちろん気配には気づいていたし、
あえて気配を消さずに忍び寄ることを察していた。
「よいよい、相手は知れてる」
 お泉は、そんな話は聞いていない。才蔵は手をかざしてお泉を留
め、寝間着の上に綿入れを羽織って、そっと裏口から外へ出た。

 そこは薪割り場。今宵も見事な丸い月。
 積み上げた薪の束の陰から小柄なくノ一が滲むように現れた。小
柄でも手練れ。腰の剣もかなり使うだろうと思われた。
 あのときのくノ一に違いない。片膝をついて頭を下げる。
「お伝えするよう申しつかって参りました」
「うむ、ご苦労、寒いのにすまぬな、風邪などひくなよ」
 くノ一は、まさかというように才蔵の姿を仰ぎ見て、ふたたび深
く頭を垂れて、それからそっと顔を上げた。そんな言葉をかけられ
ようとは思ってもいない。
「僧は二手に散っており、片や巣鴨の古寺に三名、片や本郷の旅籠
に四名。なれど僧どもの頭とおぼしき者は巣鴨かと」
「そうか、わかった」
「巣鴨へ参られれば敵に動きあるともつなぎはとれるようにしてし
てござりまする。ではこれにて・・」
 くノ一は、片膝のまま深く礼を尽くすと身を翻し、闇の中へと滲
んで消えた。

 翌日の巣鴨。
 寺をひとりで出たはずが、旅姿のお泉が白木の杖を手に、いつの
間にか影となる。才蔵は気づいていながらちょっと笑って歩みを進
めた。

 そこはいまにも朽ち果てそうな小さな寺。参勤交代で諸藩が屋敷
を造りだし、その敷地漁りで、こうして打ち捨てられる寺や神社が
そこらじゅうにあったのだ。金とは怖いものだと考える。
 だがそこは破れ寺といってもちゃんとした門があり、境内もそれ
なりに広かった。才蔵は迷うことなく踏み込むと、それまで気配の
失せていた本堂の左右から、薄汚れた法衣をまとった若い僧がふた
り現れ、ふたりともに錫杖を構えて才蔵に突きつけるのだった。
「そなたらの同胞を五人斬った」
「貴様、なぜここがわかった?」
「そのようなことはよい、頭目に会いに来た」
「何ぃ・・おい殺れ」
 しかしそのとき表の様子を探っていたもうひとりの男から声がか
かる。落ち着いた老いた声だ。
「待て、よいから退け」
 ふたりの若い僧が錫杖を降ろし、滑るように一歩退く。

 本堂の板戸が軋んで開いて、あのときの老僧と同じ年格好の老い
たひとりが姿を見せた。歳の頃なら七十に近いだろう。
 老僧は言う。
「何ゆえ参った?」
「話がしたくてな。上がってよいか?」
 老僧は才蔵を強い目で見下すと、左右に散ったふたりに目配せし、
背を向けて本堂へと入っていく。才蔵が追う。数段の踏み段を上が
り、履き物をそこで脱いで、草源寺とはくらべものにならない広い
板の間へと歩みを進めた。
 本尊はすでにない。何もかもが草源寺そのもの。朽ちていく寺に
は仏さえも無用の長物なのだろう。
 上座に老僧、その左右に若いふたりが今度は剣を左に置いてあぐ
らで座る。才蔵は青鞘の大小を腰から抜くと、座の右に揃えて置い
て腰を降ろした。
 老僧は、そうした才蔵の振る舞いから眼光もいくぶんやわらいで、
まずは聞くつもりになっているようだ。

 才蔵が言った。
「まずは竜星和尚の言葉を伝える。書き置きが見つかってな」
「ふむ、何と?」
「それを知って何とする。人として想い、人として恥ずべきことの
ないように、と」
 三人は顔を見合わせるでもなく、ただ黙って聞いていた。
 老僧が言う。
「そなたは公儀の手ではないのだな?」
「無論だ。まっぴらだね、まっぴらごめんさ」
「何?」
「武士などまっぴら。俺は流れ流れて漂うだけの男でござるよ」
「では何ゆえ剣を抜く?」
「寺を襲われれば女子供は守らねばならぬ。そなたらがふたたび襲
うとあらば皆殺しにするだろう」
 老僧はともかくも左右の若いふたりはいまにも飛びかからんばか
り。しかし才蔵は身じろぎひとつしなった。

 才蔵が言う。
「そなたらは忠義の武士。亡き忠長様に尽くす者とお見受けいたす。
拙者とて武士のはしくれ。そのような者どもに死んで欲しくはない
のです。伊豆へ戻られ、主君のために祈られよ」
 老僧はシワ深い目を向けて視線を外さず、才蔵の真意を探ってい
る。
 才蔵は言った。
「さるお方がおいででな、そのお方は、亡き先代将軍ならびに亡き
忠長様のどちらもを想い、日々仏に手を合わせておいでなのだ。は
るか高みの殿上人ぞ。徳川の中にも真を知って心をいためておられ
るお人がいる。忠長様の無念を想い、どうか許せと祈るお人がおる
のです」
 老僧は目を細めつつ、それでもまっすぐ才蔵を見つめている。

 才蔵はなおも言う。
「さらに、いまさらそれを暴いたところでそなたらに何ができる。
すでにこうして居場所など筒抜けだ。倒幕の企てなど拙者は知らぬ、
どのようにでもするがよかろう。されどそれには力を蓄えねばなら
ぬ。どれほどの者が賛同するのか見極めねばならぬであろう。そな
たらの真はそこにあるのか。忠長様の無念をそなたらよりも想い、
一心に想い、手を合わせておいでの殿上人がおいでなのだぞ。徳川
にあって忠長様は孤立無援ではない。それでいいのではないか。こ
こで動けばそなたらごとき踏みつぶされてしまうだろう。ここは皆
を伴って退き、主君をご供養せしめ、その後また決起するならそれ
もよかろう。あの寺の女子供を手にかけて天上の忠長様が喜ばれる
とお思いか。哀れな孤児ばかりぞ。そなたら皆、僧ではないのか。
死ぬな、生きろ。それを言いに来たまでのこと」

 老僧は黙ったまま、静かにひとつうなずいた。
「しかと相違ないのだな? 忠長様を想って祈るお方がいると?」
「相違ござらぬ。拙者が斬ったそなたらの同胞、草源寺にて手厚く
供養しておりまする。孤児として竜星和尚に育てられた若き娘が花
をたむけて祈っておるのです。そなたらのごとき誇り高き者どもを
失いたくはない。林景寺に戻られよ、そうされよ」
 話を聞くうち左右の若いふたりはうなだれて、古い板の間の波打
つ板目を見つめていた。
 老僧は深く息をひとつして、それから顔を上げるのだった。
「わかり申した、かたじけない。伊豆にこもるとしましょうや。な
あ皆も」
 才蔵は刀を置いたまま立ち上がり、老いた僧のシワ深い手をそっ
と握った。
「お察し申す、さぞや無念」

 老僧の目の底が涙に揺らいだ。


十六話 一夜の思案


 そしてその夜、庫裏の薄闇の底で、才蔵は目を開けて虚空をぼん
やり見つめていた。お泉は、その才蔵から少し間を空けて夜具をの
べ、才蔵に背を向けて横になっている。庫裏はふたりで寝るには充
分だったが、男女の距離を越えて離れることはできなかった。今宵
で二晩目。昨夜よりは落ち着けていたのだったが、才蔵の手が届く
と思うと息苦しい思いさえした。

「ふぅむ、わからん」

 かすかな才蔵の声に、意識して閉じていた目がパッと開いたお泉
だった。
「何がさ?」
「おぅ、すまねえ、起こしたか」
「寝てないよ・・眠れない。どうしたのさ?」
 お泉は、ひと思いに寝返りをうって、仰向けに虚空を見つめる才
蔵の横顔を覗き見た。
 才蔵が言った。
「お香はいま二十四、納屋はお香が十かそこらの歳に動かされた。
いまから十三、四年前の話だ」
「そうなるね。それが?」
「あの書き付けによると、おそらく家光が将軍職を受け継ぐ間際に
書かれたもの。将軍となった翌年に忠長は駿河へ追いやられている
からな。いまから二十八年ほども前のことってわけだ」
「そのとき家光、十八か、そこらかい?」
「そういうことなんだがよ、では誰があの書き付けに気づいて守っ
たのか、それを考えていたんだが、若き日の家光と言えば・・」
「春日?(春日局)」
「そうだ、それしかあるまい。乳母であり、家光忠長のどちらもを
よく知る人物。かつ秘密を探られない立場の者。しかしどうでぃ、
何かがおかしいとは思わないか」
「合わないね数が。二十八年も前に書かれたものを、それから十数
年も経ってこの寺に隠している」
「そういうことだ、じつに妙だぜ。俺はこう考えたのさ、その間あ
の書き付けはきわめて探りにくいところに隠してあった」
「春日の寝屋とか?」
「あり得る話だ。そしてそれを後になって、春日なのか誰なのか城
から持ち出してこの寺に隠した。春日が逝ったのは確か九年ほど前
のこと。自らの老いを悟った春日が誰かに命じたと考えられなくも
ねえからな」

「大判もかい?」
 と言いながら、お泉はそっと夜具の端へと身を寄せた。お泉にと
って、そんなことはどうでもよかった。才蔵の声をそばで聞きたい。
それだけの想い。
 問われた才蔵が言う。
「これ見よがしに葵の紋の記された大判など、すなわちそれは家康
の威光そのものだろう。あれだけの財をどちらが手にするかで立場
が逆転しかねえ。いや、どちらが手にしても驕りとなって後々に災
いする。ないものとした方が身のためと考えたんだろうけどな。書
き付けだけなら大げさなからくりなどいらねえさ。莫大な財を隠す
ために造られた」
「てことはだよ、襲った坊主どもは書き付けだけを探して? 金に
は目もくれてないだろ?」
「さあな、そいつはどうだか。少しの小判などはした金。金に困っ
ちゃいねえだけってこともある」
 そしてそのとき、話の終わりに、横寝になって才蔵を見つめるお
泉のほんの鼻先に、才蔵の手がぱさりと落ちた。仰向けになってい
て、なにげに手を動かしただけかも知れない。
 お泉はハッとし、目の前の手を見つめ、指先だけをそっとつまむ
ように、身をさらにずらして開かれた手に頬を添えていく。
 才蔵がお泉に寝返って、夜具と夜具の隙間の畳に、ふたりの影が
溶け合った。

 お泉の背をそっと撫でながら、才蔵は、そこらの女とは違う、く
ノ一の肉の張りを感じていた。逞しさゆえ哀れでもある女の姿だ。
「十三年前と言やぁ、家光は三十三・・俺は十八、九」
「・・あたしは十四」
「ほう? 十四? そろそろ熟れていい頃だ」
「何を馬鹿な・・汚れただけだよ」
 お泉はかつて配下だったくノ一、楓から聞かされていた。楓もず
っと以前、これと似たような夜があったらしい。けれどその先、才
蔵は一切手を出さない。あたしもそうなるだろうとお泉は思い、そ
れでもいいと考えた。家老の家柄とくノ一では身分が違いすぎる。
「行きたいところはあるか?」と、ふいに訊かれ、お泉は胸の軋む
思いがした。
「旅ってことかい?」
 影から日向に出られるのだろうか・・どうせ夢さ。
 お泉は言った。
「別にないね。江戸から離れたいって思うけどさ。影は主の足下に
できるもの」

 怖かった。おまえなど邪魔だと言われそうな気がしていた。邪魔
と言われても影となるのは忍びの定め。そうなると寂しいだろうと
感じていた。
 涙がにじむ。あたしはどうしてしまったのか。気の抜ける寺での
暮らしに弛んでしまった。仁吉やお香を見ていて羨ましい。十吾や
お花にすり寄られて微笑ましい。そうした何もかもが、忍びという
役目の中で抑えつけてきた女の感情。どうせ夢だと諦めたものばか
り。くノ一は忍びの里でのみ女となれるもの。

「日向に向けてやろうとしても影が勝手に後ろへ回る、ふふふ」
 才蔵にそっと抱かれていて、声が胸板越しに響いてくる。心地い
いし、女の底から湧き上がる情念を感じていた。
「カタをつけねば」
「そろそろね」
「まずは女が来るのを待つとする」
「女?」
「金を届ける」
「ああ・・そうだね」
「おめえにも、もう一働きして欲しい」
「坊主どもの足取りかい?」
 才蔵は、撫でていたお香の背をぽんと叩いた。

「湯のいい山にでも行きてえもんだ」
「伊豆だってそうだし」
「ゆらりゆらりと歩んで行くか」
「・・あたしと?」
 もしかして・・少しの間でも夢を見させてくれるのかとお泉は思
い、どう考えても可笑しくてちょっと笑った。笑ったけれど涙がた
まる。
「影どうこう二度と言うな」
 ふわりと抱きくるまれて、胸板から伝わる声が心を震わせ、こら
えていた涙が一気にあふれた。

 仁吉が二日に空けず泊まりに来るようになり、祝言はどうすると
いう話になっていく。お泉にとってそれは光り輝く女の姿。影だ影
だと言い聞かせる自分が馬鹿馬鹿しくもあり、ほんわかした空気が
自然に心の張りを弛めてしまう。
 坊主どもの行方を探れ。役目が与えられたとき生来の習性とでも
言えばいいのか、とたんに人が変わってしまう自分に、お泉は悲し
みを覚えるのだった。白木の杖に仕込んだ白刃が、いつかまた血を
吸うときがくる。
 翌朝早く、お泉の姿が寺から消えた。

 お泉はそのまま三日三晩は戻らなかった。ところがそのまた朝早
く、皆がまだ床にいるうちに庫裏で眠る才蔵の傍らに忍び込む。
「どうでぃ?」
「見つけたけど、もうどうにもならないね。くノ一どもがまつわり
ついてる」
「くノ一だと? 男忍びじゃなく?」
「妙だと思わないかい? 公儀の忍びなら甲賀か伊賀。相手が相手
だ、なぜくノ一を配す? 解せないね。坊主どもは巣鴨の打ち捨て
られた破れ寺(やれでら)にこもっていたんだけど張り付かれちま
ってるよ」

 あのとき闇の墓所で片膝をついて去った謎のくノ一・・公儀であ
っても表の公儀でない誰か。
 そう考えたとき才蔵は、五人の坊主が寺を襲い、その様子を見て
逃げ去った百姓姿の男を、お泉のほかに追った者がいたのではと考
えた。寺が襲われたと知った何者かが見張りをつけた。そして同時
に坊主どもを監視するというわけだ。
 そしてそんなことのできる者とは・・頭巾の女に金を届けさせる
殿上人。
 隠し事のある寺に謎の浪人が棲み着いた。何者かを見極めるため
忍びを放って見張らせていたと考えるのが常道だろう。
 才蔵はあのときのお泉の言葉を思い出す。『見張られてはいない
ようだけど、あくまであたしの知る限り』
 いかにすぐれた忍びであっても単身では限りがある。
 お泉が言った。
「ごめんよ、ここに来た最初の頃、あたしはこの役目から逃げたか
った。あたしの見張りが甘かったんだ、許しておくれ」
 才蔵はちょっとうつむいて唇を噛んでいるお泉の手をそっととる。
「それは違うね、俺だってそうさ、流れ着いたボロ寺でまさかこん
なことになろうなんて思っちゃいねえ。それだけのこと。ご苦労だ
ったな、少し横になりゃぁいい」
「・・うん」
 そのとき才蔵の夜具の傍らで片膝をついて話していたお泉だった
が、なにがなんだか心が崩れ、才蔵の胸に崩れ落ちていきそうだっ
た。

 哀しげなお泉に微笑みながら才蔵は思う。
 これで寺は救われる。
 しかし坊主どもが危ういと。ふたたび動けば消されてしまうは必
定。才蔵は、忠義の武士どもをこれ以上亡くしたくはなかった。


十五話 眠る悲恋


 その日は昨夜の星空が一転して朝から黒い雲に覆われた。いまにも
天が裂け雨となって流れ出す、そんなような空模様。
 才蔵とお泉のふたりは納屋にこもり、十吾やお花が納屋に近づかぬ
ようお香がついて遊ばせていた。しかしあのことがあってから十吾は
童ではなくなって、お香の言うことをよく考え、幼いお花を守るよう
になっている。童らの決して近づかない納屋の中で、お泉とともに隠
された秘密を探る。

「わずかだが盛り土してあるようだね」
 馬の居場所も、ただの土間だと思ったところも、外の地べたに高さ
を合わせ、しかし土を盛って嵩上げしてある。よく踏み固め、また長
い歳月が土を締めて棒先でちょっと突くぐらいでは抉れもしない。
 農具の鋤(すき)や鍬(くわ)が置いてあったのは、墓を掘るとき
に使うのと、このためだったのかも知れなかった。

 馬の囲い場とは反対側の土間の土を鋤を使って剥いでいく。少し掘
ると鋤の先が固い何かに遮られ、石の板が現れた。
「石板で塞いである」
 石の板の角のところに鋤を差し込み少し浮かせて、才蔵が持ち上げ
る。長さおよそ三尺(1メートル)、幅およそ一尺(30センチ)ほ
どの薄い板が数枚並べてあって、そのさらに下に分厚い木の一枚板が
現れた。こちらは恐ろしく厚い板のようでビクともしない。
「これか・・」
 石板をどけて、分厚い木の板の上に残る土をすべて払うと、納屋の
基礎の四角く太い横木があって、そこに長四角の穴が開けられ、ちょ
うどぴったりはまる角材が埋めてある。長い歳月で湿気を吸い、埋め
られた角材が動かない。鉄の釘を打ち込んで才蔵が渾身の力で左右に
揺すると、ようやく少し弛みができてすぽんと抜けた。
 お泉が穴を覗き込み、顔を上げて周りを見ながら言うのだった。

「これこそテコ鍵さ。穴に合うテコ棒があるはずだけど」

 才蔵と二人で見回すも、そんなものがあるとしたらひとつだけ。馬
の手綱を縛る横木しかない。しかしそれはかなり太い丸太であって、
片方が納屋の屋台の柱に埋められ、片方が馬を囲む縦板の小柱に埋め
られる。
「これだね、ちょっと見せて」
 お泉が木の枠組みを見回して、縦板の柵の向こう側、馬の囲い場に
入り込んで、肩で柵を押す。しかし動かない。才蔵が柵をつかんで引
っ張りながらお泉が肩で押す。
「動いた、やはりそうさ、横木の丸太がテコ棒なんだ」
 縦板の柵が柵ごと斜めに傾いて、馬をつなぐ丸太の棒とのつなぎ目
が現れた。こちらが凸、屋台の横木の凹にぴたりと合う大きさと長さ。
 柵を傾け、丸太を引くと、丸太の反対側が納屋の柱からすぽんと抜
けた。

「よくできたからくりだよ、これをこうやって差し込んで」

 一握りもある丸太の棒。地べたの板の横にある基礎の横木の凹に凸
を合わせて差し込んで、反対側の丸太の尻をつかみ、最初左右に回し
てみても動かない。お泉は丸太尻を握り直し、肩を入れて上に向かっ
て持ち上げた。
 ギィィ・・納屋の基礎の横木がわずかに回り、そして同時に地べた
に伏せた分厚い板がガクンと揺れて下向きに折れる。

 人ひとりがやっと通れる地下への入り口。太い丸太で数段の梯子が
組んである。
 地べたにぽっかり開いた四角い闇。思うよりもかび臭くなく、そし
て湿気も少ないようだ。ふたりは顔を見合わせた。
 才蔵が言う。
「古い馬小屋によくも仕込んだものだ」
「これだけのからくりを何のために・・」
 お泉はそう言いながら太い蝋燭に火をつけて、上にいながら手を差
し入れて闇へと明かりを運んでやった。

「太い木で木枠をこしらえ、どこもかしこも石板で固めてある。あた
しが先に降りてみるから」
「うむ、気をつけろ」
「忍びだよ、あたし・・ふふふ」
 蝋燭を才蔵に持たせておいて丸太の梯子を数段下りると、背の高い
お泉の頭がちょうど穴から出るぐらい。深さはそうないようだった。
 蝋燭を受け取って穴の奥へと腰を屈め、奥からお泉の声がした。
「これは・・すごいよ」
「何がある?」
「来てごらんよ、腰が抜けちまう」
 お泉の持つ蝋燭で照らされながら才蔵は梯子を下り、ふたりで入る
と肩を寄せ合うほどの狭さの中で奥を見た。

 黒い千両箱。それも五つが整然と並んでいて、その上にかなり黄ば
んだ紙の束。綴じ紐で閉じられた書き付けのようだった。
 そしてさらにその書き付けの上に、少し新しい文のような紙がきっ
ちりたたんで置いてある。
 書を読むには暗すぎる。書き付けと文を才蔵が持ち、五つある千両
箱のひとつの蓋をお泉が開けて、ふたり揃って覗き込む。
 才蔵が言った。
「大判だ・・慶長大判に違いねえ」
 才蔵が手を入れて取り上げて、封を開けると、きらびやかな金色の
大判が現れた。
「うむ慶長大判・・それも、これを見ろ」
 金地に墨書きされた大判の裏には、その真ん中に大きく丸い葵の紋
が刻印されているのである。
 才蔵は言った。
「これはただものじゃねえ、おそらくは家康が特別につくらせたもの
だろう」
「だとすると、高い?」
 お泉は、才蔵の手にある金色の大判を食い入って見つめていた。

 慶長大判は、慶長六年(1601年)、家康による天下統一の象徴とし
てつくられたものだったが、このように、その裏に大きな葵の紋が施
されたものは見たこともない。大判そのものが流通する貨幣ではなく、
手柄に対する恩賞や贈答のためのもの。つくられた年代や造作によっ
て、十両大判、七両大判と価値が変わり、このようなものであれば、
その価値は計り知れない。

「すべてがそうか?」
 お泉が箱の蓋を次々に開けていき、ふたり揃って呆然と立ち尽くす。
 そうした大判が、おそらくは二千枚。欲しがる者が多ければ価値は
動く。何万両どころではない価値になるのは明白だったし、間違いな
く徳川宗家の家宝ともなるものなのだ。
「ふうう・・震えるぜ、これだけあれば城が建つ」
 坊主どもの狙いが知れた。軍資金の調達だと、このときはそう考え
たふたりだった。
 箱の蓋を閉じ、書き付けと文だけを手にして上に登ったふたり。

 まずは文から。

 やがて暴く者とておるであろう
 そのときため拙僧が一筆したためておこう

 竜星和尚が書いたもの。流れるような達筆だった。

 知ってどうする 暴いてふたたび血をよぶか
 死した将を愚弄するのか愚か者
 人として思い 人として恥ずべきことのないように

 それだけの和尚の言葉。文を静かにたたんで傍らに置き、才蔵は
束となった書き付けをめくっていく。
「なんと・・」
 横にいて覗き込む、お泉の喉がかすかに鳴った。生唾を飲ませる
ほどのものなのだ。

 それは先代将軍、家光の直筆だった。
 政(まつりごと)を進めていく上で、味方となる者、敵となる者、
どちらにもつく怪しい者。御三家と言われる者の中にも敵がいて、
親藩と言えども信じ切れず、外様の中にも味方はいる。それらを見
透かし、家光がしたためたもの。
 そしてそれらに対してどう処遇していくべきか、葬るべき者たち
の名までが記されてあるのだった。
 このようなものがいまの将軍家で暴かれれば世が乱れるは必定。

 さらにその書き付けの最後のところに走り書き。
 才蔵はそれに目を走らせて愕然とした。

 この寺で待つというに そなたは来ぬ
 我が褥(しとね)にともにあれば 
 通じるものとてあるであろうに
 愛しきがゆえ葬らねばならぬ 悲しきや
 ああ悲しきや 弟よ

「これはおそらく若き日の家光公の・・」
 才蔵は膝が崩れる思いがした。
 先代将軍、徳川家光は男色として知られている。ゆえに世継ぎが
危うい。それを案じた春日局(かすがのつぼね)によって大奥はつ
くられて、世継ぎを絶やさぬようにとされたのだ。

 江戸城からもそう遠くはないこの寺で、若き日の家光が、実弟で
ある弟忠長と密会していた。
 我が褥(しとね=布団)でともにありたい。家光は弟を愛してい
たのだ。しかし待てど待てど弟は来なかった。冷たくあしらわれ、
それで弟は駿河に追いやられ、ついには自刃に追い込まれた。
 坊主どもが欲しがったのはこれだと思われた。乱心ではなく、実
の兄を愛せず、世継ぎの敵となったから忠長は葬られた・・。

 林景寺を出た竜星和尚は江戸を快くは思わない。おそらくは密会
の事実をその頃同門だった僧に告げた。しかしその後、和尚は、こ
れは命がけの愛だと悟り、家光、忠長、双方の名誉のために秘密を
守り通そうとした。ふたたび世が乱れぬようにとの願いも込めて。
 
 これらのものは、もしや城中に隠されてあったのではとも考えら
れる。気づいたか、あるいは処理を委ねられたか。
 であるなら家光にごく近い者・・それは正室か側室か。このよう
なものを城には置けない。ゆえにこの寺に葬ったのだ。
 そう考えるとすべてに納得がいく。その方は、寺の恩に報いるた
めに金を届けさせているのだろう。

 これは隠し通さなければならない。ひとりの男の真の姿がここに
あると考えた才蔵だった。

 お泉の背をそっと押して納屋を出た才蔵。本堂から明るい声がこ
ぼれてくる。またそのときパラパラと雨が舞い、古い寺はひっそり
と湿り気を帯びていた。


十四話 舞い込んだ縁談


 女がふたり、お香とお泉。童がふたり、十吾とお花。四人で揃って
買い出しに出て行って、ひとり残った才蔵は、中の廃物がすっかりな
くなった納屋にいて、新しい材でこしらえた棚板を手にしながら薄暗
い納屋の中を見回していた。
 細工があるとすれば地下。藁葺きの屋根は隠し幕をはずしてからの
作業であって、だいたいが納屋に天井などはなく、古い材の太い梁が
組まれてあるだけ。馬の居場所も定まっていて、そこには手が入って
いない。
 そしてまた、こうしてひとりでこもってみると、意味の解せない妖
気のようなものさえ漂う気がしてならない。才蔵でさえも身震いする
不思議な空気に満ちている。
 馬の居場所は縦板柵で囲われていて、手綱をつなぐ横丸太が残り、
それだけで納屋の中のほぼ半分を占めている。残る半分はいまは土間。
おそらくここに昔は板の間が造られてあり、からくりがあって地下に
入れるようにされていた。そう考えるのが自然だったし、暴こうとす
るならば掘り返してみるしかない。
 隠された秘密は、はたしてそれを望むのか。暴かれたがっているの
か拒むのか、ふとそう思ってしまうのだった。

『それを知って何とする?』

 竜星和尚の声が聞こえる気がする。才蔵は数枚の棚板を棚枠に配っ
ていきながら、さて困ったとため息をついていた。
 棚板を並べ終えて外に出る。中とは明らかにちがう白い風。納屋の
中には黒い空気が淀んでいた。
 狭いながらも静かな境内。地べたのあちこちに残っていた血の跡も、
土をかぶせ、雨に打たれて消えている。草源寺。草花の源となる大地
に建つ寺。そういった銘々だろうと考えるほど、ここで二度と斬り合
いなどあってはならないと思うのだった。孤児たちの里。仏に守られ
る童たちの家なのだから。

「まあ待つか」
 独り言をつぶやいて、才蔵は本堂への踏み段に腰を降ろし、穏やか
に晴れて風のない境内を見渡した。桜の木から赤茶けた葉が一枚、は
らはらと舞い落ちた。
 いますぐ暴くわけにはいかない。柵を造って生け垣とする。役人ど
ももやってくれば、その人足どもの中に忍びが紛れていないとも限ら
ないからだ。

 丸太を二本立てただけの門の下から、お花の明るい声がやってくる。
背丈のあるお泉、次にお香、それから小さなふたりの姿が覗く。
 お香がいつもの笑顔で明るい。竹で編んだカゴを抱えて才蔵の元へ
と小走りにやってくる。
「ほらぁ見て、美味そうだろ」
「おぅ、茸かい?」
「シメジ。お泉さんが美味いよって言うからさ。たくさんでも安かっ
たし」
 お泉が横で笑って言った。
「焼いてもいいし汁でも美味いし」
 お泉の里は若狭の山里。食べつけているのだろうと才蔵は思う。
 カゴの中に山盛りにして茸のシメジが詰まっている。軸の太いいい
茸だ。お香は、ふたり一緒にカゴを覗く十吾とお花を右と左に裏口か
ら厨へと入って行き、お泉はそのまま才蔵の座る踏み段の一段下へと
腰掛けた。

 お泉が言う。
「童のときのことを思い出しちまう。あたしだって・・ふふふ、いい
や、思い出したって仕方ないしね、そんな家が嫌で飛び出しちまった
あたしだし」
「似たもの同士か」
「さあ、それはどうだか。けど、あたし」
「何だ?」
「ここへ来てよかったよ。うまく言えないけどね」
「そうか、ならばよかった。やさしい顔してら」
「あたしがかい?」
 と、ふらりと顔が横を向く。細面で鼻筋の通る、女にしては冷たく
感じる顔立ちかも知れなかった。
 才蔵は言う。
「無論そうさ、はじめは目が尖っていたが・・ふふふ」
 そっと手が伸びて肩に置かれる。これまでなら男の手など払いのけ
ていたところ。お泉は心してそっぽを向きつつも、ほんのわずか肩を
寄せてなすがまま。
「柵造りがはじまるだろうぜ」
「そうだね。しばらくは手をつけない?」
「そういうこった。納屋の中に妖気が漂う、そんな気がしてならねえ
のさ」

 お泉は、今度ははっきり横顔を向けて、ほくそ笑みつつ言うのだっ
た。
「ふふん、それが怖いお人でもないだろうに」
 それは、くノ一を定めとして生きてきたお泉が、男に向けたはじめ
ての女らしい横顔だった。
「怖いさ、俺は妖怪じゃねえんだぜ」
「妖怪って言うのなら女にとって男は妖怪」
「おろ? だとすりゃ、俺にとっちゃ女は般若よ、ふっふっふ」
 お泉は唇の角をちょっと噛んで、ぷいとそっぽを向き、才蔵に隠れ
て微笑んでいた。

 気の抜ける寺での暮らし。お泉は日に日にトゲが抜けてしなやかに
なっていく。それはお香もそうだった。才蔵に対してもそうだったが、
四六時中やってくる仁吉に対してはどんどん女の艶が増していく。
 一日また一日。気がつけば十日、また気がつけば十日。季節は移ろ
い、神無月(十月)も終わりにさしかかる。
 新しい杭を打ち、新しい縄で囲った柵ができ、冬でも葉のある木を
配して門のあたりは生け垣。そして門前に『寺社奉行支配 草源寺』
の立て札が立てられた。

 そんなときだ、仁吉が大工の親方に連れられてやってきた。親方と
いう男、歳の頃なら五十年配、仁吉に比べるまでもなく体が大きく、
図太くしかし穏やかといった風体。本堂に通されて、お香が茶を支度
して歩み寄る。
 そのときもちろん、童ふたりも才蔵もそばにいて、お泉だけが、ち
ょっと出てくると言っていなかった。
 茶を出された親方が、お香に向かって座れと言う。意味が解せず、
それでもお香は前掛けを外して正座で座った。
 仁吉と連れだってやってきた。親方の言うことなど知れていた。才
蔵は幼いふたりを左右に座らせ、にやりと笑って仁吉の横顔を見てい
る。
 親方が言った。
「じつはな、お香ちゃん」
「はい?」
「仁の野郎からしつこく聞かされてましてな、お香ちゃんほどやさし
い娘はいねえって、毎日毎日うるさくて」
「ぁ、はい・・」
 お香の頬がかーっと熱を持って赤くなる。
 親方は微笑んで、なおも言いかけたのだが、慌てるように仁吉が割
って入った。
「いやな、お香さん、親方にはおいらから言ったんだ、どうしても一
緒に来てくれって」
 お香は声もなくうなずいて、上目がちに仁吉を見つめている。ふた
りとも大工の姿。木の匂いがぷんぷんする。仕事中に駆けつけたのは
明らかだった。

「おめえが言うか?」
「へい親方」
「おおぅ、言ってみろや、はっはっは」
 仁吉が震えている。才蔵はこらえきれずに十吾の肩をつっついた。
十吾が「くくく」と笑う。十吾でさえ何しに来たかはわかっている。
 仁吉が言う。
「お香さん」
「・・」
「おいらずっとお香さんと暮らしてえ。おいらの嫁さんになってほし
いんだ」
 親方が眉を上げて、にたにた笑う十吾と、目を丸くするだけのお花
に目をやって、それから言った。
「心からだぜ。こいつぁな、お香ちゃん。そこのチビふたりもひっく
るめて面倒みてえって言ってやがる。心底おめえさんに惚れてるのよ」

「おい、ちょいと出るか、あほらしくてやっとれん」
 才蔵は笑って十吾とお花を外に引っ張り出していく。
 歩きながら才蔵は、両脇に従える童ふたりに交互に言った。
「よかったな十吾、お花もな。姉ちゃんいよいよお嫁さんだ」
「よかったぁ! お嫁さんお嫁さん、きゃきゃきゃ」
 お花がはしゃぎ、しかし十吾は戸惑った。
「おらたち邪魔だろ? いないほうがいいんだろ?」
 才蔵は、そうじゃないと首を振ったが、この歳で姉を気づかう気持
ちが嬉しく、十吾の頭を手荒く撫でた。
「そりゃ違うぜ、仁吉はおめえらだって可愛いのよ。何もかもを飲み
込んで、そんで今日はやってきた。なあに父親だと思うことはねえん
だよ、兄ちゃんのままでいい。仁吉はおめえらの生き様にうたれたの
よ。思いやる心を持った十吾のことを誇りに思い、可愛いお花も誇ら
しく、だから今日やってきた」
「うん、わかった」
 涙ぐむ十吾。よくわけもわからずに、そんな十吾を見つめるお花の
小さな目。

「どうでぃ、お香ちゃん、こいつの気持ちをくんでやってはくれねえ
かい? ここで暮らすと言ってるんだぜ、みんな一緒によ」
 お香は泣いてうなずいた。何度も何度もうなずいた。
「ぅっ・・あぅ」
「てめえが泣くなっ、ったくもう! 今日のところは仕事に戻るぞっ、
コキ使ってやっからなっ! がっはっは!」
 親方に肩を叩かれて仁吉は涙をこぼして笑っている。本堂に響き渡
る大きな声が才蔵の耳にも届いていた。

 ほどなくしてお泉が戻り、才蔵に耳打ちした。ここからそう遠くな
い同じような寺に潜んだ坊主どもが消え去った。
「ときに何かあったのかい? お香の目が真っ赤だよ?」
「めでたく嫁さん」
「へええ、仁吉と? 言いに来た?」
 才蔵は苦笑い。
「けっ。親方に連れられてよ、たったいま帰ったばかりさ。あの野郎、
ひとりじゃ言えねえもんだから。ったく、勢いだけで生きてやがる。
ふっふっふ」
「そうかい、よかったねぇ・・あったかい寺だよここは」
 お泉は、厨にこもって夕餉の支度をはじめていたお香のそばへと歩
み寄り、そっと肩を抱いてやる。
 お香が小声で言った。
「ふたつも上なのにね」
 仁吉は歳下だ。
 お泉が小声で応じた。
「ふたつも下なのにね。けど頼れるだろ?」
 お香はこくりとうなずいた。
「あたしあのとき・・」
 才蔵を五人の敵が囲んだとき、板戸のつっかえ棒を握り締めて飛び
出して行ったときのこと。
「この馬鹿って思いながらも男だなぁって・・守ってくれてるって」
「はいはい、わかったわかった、あほらしくてやってられないね」
 パァン!
「あ痛ぁっ! ああん、もうっ、恥ずかしいぃ!」
 お香の尻っぺたをひっぱたいて、お泉はそのまま横に立って支度を
手伝う。

 庫裏から本堂は遠いようでも近い。同じ屋台組みの中にあって声が
響く。
「ちぇっ」
 才蔵は小指の爪先で耳の裏を掻き、斜陽に染まりだした境内を横目
に見ていた。風呂から出た十吾とお花が、まるで小さな夫婦のように
寄り添って桜の木を見上げている。
「そっちもかい・・お花め、お嫁さんの真似してるってか・・」
 坊主どもは消えた。しかしそれは散っただけ。才蔵の眼光は涼しか
った。

 その夜は丸い月が浮いていて星々もきらびやかに瞬いた。夕餉を終
える頃になって仁吉はやってきて、皆に囲まれてやいやいうるさい。
 才蔵はひとり本堂を抜け出して、寺のすぐ裏からはじまる林を抜け、
ほどんどが丸い石を置いただけの墓のある草原に歩み出た。墓石らし
いものもないではなかったが、点在する墓はどれもがここらの貧しい
者たちの墓所であった。和尚が死んで墓石が消え、穴の開いたままに
された墓もある。仏を別の寺の墓所へと移したからだ。
 そんな中、才蔵は、できたばかりの新しい墓の前に立つ。やはり丸
い石を置いただけ。しかしそこには、お香が花をたむけていた。才蔵
の剣に倒れた坊主どもの墓である。
 才蔵はもの言わず、手を合わせるわけでもなく、ただ石を見つめて
佇んだ。

「何者か・・」

 木陰に気配。しかし殺気は感じられず、才蔵の声も穏やかだった。
 少し離れた木の陰から小柄な黒い影が歩み出て、片膝を折って座り、
才蔵を黙って見つめ、何を言うでもなくそのまま闇へと失せていく。
柿茶色の忍び装束。身の丈そして身のこなしから、くノ一だろうと思
われた。礼を尽くして去ったところから敵ではない。

「心せよということか・・何者なのやら・・」

 才蔵は月を見上げてつぶやいた。城中の何者か、おそらく大奥の何
者か、その手の者だと考えた。気配りしておるゆえ心せよ・・そうい
うことであったろう。
 そのとき背後にはっきりとした気配。
「やってられないね」
「だろ?」
「けど、いい若衆だよ」
 お泉。藤色小花を少し散らせた赤茶の着物。風呂上がりで結い髪を
降ろしていて、髪を上に丸めてまとめた、くだけた姿だ。
 才蔵は、たったいま見張られていたことを告げなかった。

「お泉よ」
「うん?」
「そろそろ俺たちが邪魔となろう」
「カタをつけるかい?」
「そろそろな。流れ者がつっかかってはしかたがねえや」
「ふふふ、まったくね」
 才蔵は月を見上げて言う。
「・・ともに行くか」

 そのときお泉は一歩退いて立っていた。まさかそんなことを言われ
ようとは思っていない。くノ一は影。それが定め。
 お泉は斜め後ろの才蔵の背にちらと目をやり、わずかだが逆向きに
身をそらす素振りをした。言葉にはならなかった。
「今宵は庫裏でおまえと俺。お香は揃って広間だろうぜ」
 お泉は、才蔵の目の届かぬところで、今度こそしっかりと才蔵の横
顔を見つめ、ちょっとうつむいて微笑んでいた。
「忍びを抜けろ」

 どうしたことか、お泉の立ち姿が流れるように才蔵の背へと溶けて
いく。


十三話 黒い謎


 お泉は今夜のところは帰していた。お泉が夜をどうすごすか才蔵は
知らない。それも忍び。忍びは人知れず存在するものでなければなら
ない。仁吉は留まってお香ら三人と広い本堂で眠っている。才蔵は狭
い庫裏。古くなると多少なりと手の入れられる本堂とは違い、庫裏は
一際狭くてかび臭い。畳にすれば八畳はあるのだが箪笥なども置かれ
てあって足場という意味で狭いのだった。

 この寺の住職だった竜星という和尚は、いつ頃からこの庫裏に暮ら
したのだろうと考える。死んでいった老僧は忠長の名を惜しむように
「乱心などされておらぬ」と言い残した。かつての駿河大納言、徳川
忠長にゆかりの者、そしておそらく由井正雪の倒幕の企てにも荷担し
た者ども。そういった輩が欲しがる秘密とは何だろうと、その一点が
胸のつかえとなっていた。
 先代将軍、家光の実弟である徳川忠長は世継ぎ争いに敗れ、駿河大
納言という地位を与えられるが、それは結局、江戸からの追放だった。
後に乱心を理由に自刃に追い込まれて生涯を閉じている。
 それがもし、あの老僧の言うとおり仕組まれたものであったとした
ら・・配下の者どもがほしがるものにはふたつあると思えてくる。

 ひとつは江戸表に一泡吹かせる何か。もうひとつは亡き主君の汚名
を晴らす何か。才蔵はそのどちらもを満たせるものだろうと考えてい
た。倒幕の企てはつい昨年脆くも崩れた。ふたたび動きがあるとして
も、それに足る力を蓄えてからでないと動けまい。
 とすれば残るは主君の無念を晴らそうとする動き。林景寺の面々は
そのために寺を捨てて江戸に潜んだ。最前の老僧は、この寺の住職だ
った男に歳が近い。その頃はまだしも穏やかだった林景寺にいた同門
の僧に、竜星はあるときこの寺の秘密を漏らしてしまったのではない
か。そのときはよくても後になって老僧は敵となったということだ。
 やがて由井正雪が立ち、倒幕の企てが密かに進む中で、それに乗じ
ていまの江戸表をつぶそうと企んで、竜星から聞いていたある物がど
うしても欲しくなる。
 そうやって話を組み上げていくと辻褄が合うのである。
 斬り殺した五人は無頼の輩ではない。忠義を貫く武士ばかり。そん
な者どもを斬ったからには、隠されたものが何なのかを確かめないま
ま手を引くわけにはいかなった。事実を知り、その上で死んでいった
者どもを供養してやりたい。才蔵もまた武士。関わりなきことではす
まされないと考えていたのである。 

 だが、そうしたこととは別に、ここを家として育てられた童らは守
らなければならない。仁吉もいる。襲った者どもが、はたしてまた来
るのだろうか。敵が多ければ守り切れない。ここはやはり皆を逃がし
ておきたいとは思うのだったが、下手に勘ぐられてそっちを追われて
はひとたまりもなく殺られてしまう。
 先々のためにも是が非にもカタをつけておかなければならないだろ
う。

 その朝、しとしとと小雨が舞い落ちて境内の土は水を含んで黒かっ
た。旅姿の女がふらふら歩みやってきたのは昼少し前の刻限だ。
「急に腹がさしこみまして」
 まあ、それはお泉の一芝居。まんまと寺に取り込んで、皆で笑った
までのこと。このときお泉は白木の仕込み杖だけを手にしていて、弓
矢も忍び装束も携えてはいなった。
 昼が迫り空は急に明るくなって陽射しが注ぐ。寺社奉行の役人ふた
りがやって来たのはそんなとき。才蔵はふと、あることを思いついて
申し出た。

「ほう、囲いを造りたいと申すか?」
「ずいぶん前に賊に入られましてな、本尊さえも盗まれる始末でして」
「ふむ、それは物騒だ」
「とは言え、土塀などでは物々しい。周囲を杭で囲み、縄を張って柵
をつくる。その上できますれば、この寺が寺社奉行支配であることを
示す立て札などをと思っておるのですが。柵はこちらでいたすとして
も立て札だけはどうにもならず。なにぶん女子供の所帯ゆえ、そうで
もしないと心細いこともあり」
「うむ、なるほどのう。よしわかった、その旨を話してみよう、しば
し待て」
 公儀支配を堂々と晒してしまえば手が出しにくくなる。それと大石
の下の秘密を掘り返そうにも、目隠しがないと、三方を囲む浅い谷の
向こうに並ぶ武家屋敷から素通しになってしまうこともある。柵をこ
しらえ、門の周りだけでも木を植えて生け垣とするということだ。

 そして役人どもは、才蔵のはるか後ろでお香らと昼餉の支度をする
見たことのない女に視線を投げた。
「なにやら見ぬ顔が増えておるが?」
 才蔵は笑って言った。
「ここはそういうところでござるよ。旅の途中で病になり、すがって
参った女です。しばらくは養生ということで」
 役人ふたりは顔を見合わせ、そして言った。
「左様か、いやいや、ますます感心するのみ。孤児の世話と言い、よ
くやってくれておる。先の話わかったぞ、柵ともどもこちらでやって
やりたいもの。杭とは言え銭のかかることゆえな」
 人の好い役人だ。才蔵は内心ほくそ笑んで帰って行くふたりを見送
った。

「柵に生け垣? そんなもんでよきゃぁ、あっしがやりますものを」
 話を聞いた仁吉が言った。
 お泉がそれに苦笑して応じた。
「お役人の手を借りてこそなのさ」
「へ?」
「そのとき人足と一緒にお役人に出張ってもらえば目立つだろ。それ
だけ手が出しにくくなるって寸法さ」
 ぽかんとする仁吉の背中を『わからんのか馬鹿』と言うように幼い
十吾がバシンとひっぱたき、皆で声を上げて笑い合う。

 昼餉の支度の途中で、広間でふと才蔵とふたりになったお泉。
「気が抜けちまう、こういう暮らしもあるんだなって。夢のようだね」
 才蔵はちょっとうなずき、そして言った。
「おめえも心得違いをするんじゃねえぞ。手下だなんて思っちゃいね
えし、くノ一だとも思っちゃいねえ。物好きな俺のために苦労をかけ
る、すまぬな」
 肩にちょっと手を置かれ、お泉は声も出せずに才蔵の目を見つめ、
さっと背を向けて厨へと歩み去る。いまにも涙になりそうだった。

 皆が揃って昼餉を終えて、そろそろお香が買い出しに出るという刻
限となり、仁吉が一足先に帰って行った。仁吉は明日からまた普請場
で仕事があり、早めに飯場に帰っておきたい。
 そしてそのとき寺の門前まで送りに出たのが、お香。才蔵はたまた
まそのとき大石のそばに立っていた。桜の木は葉を散らすにはまだ早
く、赤茶けた葉をつけている。
 仁吉を見送って振り向いたお香に、才蔵は言う。
「明日から普請場なんだろ?」
「はい。けど、すぐまた来るからって」
 しかし話の腰を折る、お泉とお花の声がした。
「ほれほれっ」
「きゃぁぁ! あははは! ぁきゃぁーっ!」
 地べたに虫でもいたのだろう。お泉がつまみ上げてお花に突きつけ、
お花が逃げ回っている。
「ったく、何をやっとるか」
 才蔵の言葉が可笑しくてお香は笑い、しかし真顔になって、うつむ
きがちに言うのだった。

「才蔵さん、あの・・」
「おぅ? どした?」
「納屋のこと」
「納屋?」
「あたし知ってるんです。その頃はまだ馬小屋だった納屋は板屋根だ
ったんだけど、そこの石のすぐそばにあったんです。あたしがまだ十
だか十一だかの頃に和尚さんが人手を頼んで動かした。藁葺き屋根に
変えて納屋にしたの」
「そうか、その頃なんだな、いまの所に動かしたのは?」
 お香はここらへんだと大石の境内側に立つのだった。
「石はずっとそこにあったんだな?」
「そう、石は動かせないって」
 才蔵が思う場所とはかなり違った。
「それでそのとき和尚さんは、いろいろ役立ってもらわねえとって」
「いろいろ役立ってと、そう言ったのか?」
「あたしも童だったから、はっきりとは覚えてないけど、確かにその
ように」
「それまでは、ただの馬小屋だった?」
「馬が死んだんです。ここらも拓けてきていて、それでもう馬はいい
ってことになり」
「なるほどな。そんで庫裏に近くして納屋にしようってことか?」
「そうなんです。あの、才蔵さん」
「うむ?」
「黙っててすみませんでした。才蔵さんのこと、あたし・・信じ切れ
ていなかった」
「ふふふ、そりゃそうだ、刀を持った得体の知れねえ流れ者。大金も
置いてあるしな」

 微笑んで肩に手を置く才蔵。お香は唇を噛んでうつむいてしまう。
賊に入られ、次には襲われ、血だらけの惨劇を見てしまった。怖さを
思い知って打ち明ける気になったのだろう。
 そのとき本堂のそばから十吾とお花がはしゃぎながら駆け寄ってき
て、お泉が追って小走りにやってくる。才蔵はお泉に目配せで『向こ
うへ連れてけ』と合図をし、様子を察したお泉は目でうなずいて、童
ふたりを引き戻して去って行く。
「それでそんときのことは覚えてるか? どうやって動かしたとか、
どんなことをやっていたとか?」
「少し覚えてます。板屋根を外して、戸とかも外してしまって、地べ
たに丸太をたくさん並べてよいしょよいしょと動かして、丸太を順繰
りに送っていくんです」
 それがコロ。余分なところを外して軽くしておき押していくという
ことだ。新材で新しい納屋を造ってしまえば、とってつけたようで目
立つから、あえて古く汚い小屋を動かしたと考えられる。

 お香は遠目に納屋に目をなげながら言う。
「それでいまの所に据えたんだけど、そのときあたし、ちょっと不思
議に思ったのは、置き場を決めてから晒しの幕で四方を覆ってしまっ
て」
「幕だと?」
「何て言うのか、芝居の幕みたいな」
 陣幕だろう。戦で本陣を囲う幕のようなものではないか。
「幕で覆って中で何やらトンカチやっていた?」
「そうなんです。何ができるかわくわくしたのを覚えてますから」
 見られてはまずい何かを細工していた。納屋を造るだけなら隠す意
味もないはずだ。
「しばらくして幕が外されて、それから藁葺き屋根がのったんです」
「屋根はそれからなんだな? 幕が外されたときに屋根はなかった?」
「だと思います、屋根は後から造ったような・・」
 才蔵は、お香の肩に両手を置いて目を見つめた。
「納屋の中のことは?」
 お香は首を振るだけでそれ以上を知らなかった。よくできたからく
りならば童に見つけられるはずもない。
「わかった、よく言ってくれたな。やっとどうにかなりそうだぜ。俺
もそこそこ馬鹿だからよ、考えることにゃぁ向いてねえもんな。はっ
はっは」
 お香は役に立てたことが嬉しくて、ちょっと笑った。

 大石の周囲に目を凝らしても地下に細工がありそうには思えない。
たとえば地下に空洞のようなものがあるのなら、こんな大石を置けば
つぶされてしまうだろう。頭を抱えていたところだった。
 しかし納屋にからくりのようなものはない。その頃あったからくり
を和尚は壊してしまったのだろう。
 才蔵はお香の背を押しながら皆の元へと歩み寄り、お香を童ふたり
のほうにそっと押しやりながら、お泉に向かって『来い』と目配せす
る。お香が童に溶け合って、お泉が離れ、本堂へと入っていく才蔵を
追いかけた。
「やはり納屋?」
「うむ、据えてから幕で覆って中で何やらやってたそうだ」
「わかった、すぐにでも調べてみる」
「いや後でいい」
「え?」
「おめえはお香らと買い出しに行きゃぁいい。童らと茶菓子でも喰っ
て来い。お香の奴が俺にそれを言えなかったことを気にしてら。信じ
切れなかったって、しょげちまってる。お香を頼む」
「・・わかった、じゃあそうする」

 呆れる。この人はどこまでやさしい人なのだろう。侍と言えば肩を
怒らせ、そうでなければ、ただ単に弱いだけ。
 お泉は心が震える思いがした。この役目を負わされたときタカをく
くっていたのだったが、付き従うことが誇らしくさえ思えてくる。そ
んな男をお泉はこれまで知らなかった。


十二話 鬼の才蔵


 歳嵩のひとりは別に、四人揃ってかなりな使い手。そう才蔵は感じて
いた。シャランと金輪を鳴らして錫杖の切っ先を突きつけながら男のひ
とりが叫ぶ。
「退けと言うに! 関わりなきは去れ!」
「忠長一派か正雪一派の残党か」
「やかましい、死ねぇい!」
 声高にすごみつつ前から突き込まれる錫杖を、その棒軸を巻き込むよ
うに回りながら交わした才蔵。その刹那、才蔵の右の裏拳が男の顎をガ
ツンととらえ、男が持つ錫杖をともに握りながら才蔵は体をさばき、ほ
かの三人との間に敵ひとりを盾に陣取った。
 歳嵩のひとりが編み笠をしたまま言い放つ。
「やむを得ぬ、殺れ!」
「おおぅ!」
 錫杖を握り合う下から男の急所を蹴り上げて錫杖を奪い取った才蔵が
棒を構えて中腰となり、そのとき残る三人が仕込み錫杖の鞘を払って剣
を抜く。八角棒の棒尻に仕込むための反りのない細い刀身。金輪のある
切っ先と棒尻の剣と切っ先は頭尾にある。
 才蔵に錫杖を奪われたひとりが、法衣に隠した黒鞘の大刀を抜き去っ
た。才蔵が奪い取った錫杖も仕込み錫杖だったのだが、才蔵はその鞘を
払わない。剣と棒の戦いだった。

 そして悪いことにそんなとき、本堂の板戸の隙間から様子を見ていた
仁吉が、板戸のつっかえ棒を握り締めて飛び出してくる。
「やいやい、てめえらっ、五人でひとりを囲むとは汚ぇえぜ!」
 才蔵はとっさに叫んだ。
「退け! おめえは童を守るんだ!」
 しかし遅い。境内に裸足で飛び出した仁吉は、老いたひとりと若い男
のふたりに前後を囲まれ退くに退けない。
「ふふん、ともに死ね小僧!」
 左右から突かれる槍剣を仁吉はもんどりうって転がって除けきって、
立ち上がりざまに老いたひとりの向こうずねを棒先で殴りあげる。
「ぐわぁ! 許さぬ、死ねぇ!」

 まずい。このままでは殺られてしまう。しかし才蔵も敵は三人。前か
らの槍剣、横からの太刀、また横からの槍剣。棒先で払い、棒尻で払い、
そうしながら仁吉を救わなければならなくなった。

 そんなときだ。本堂に置いたままの才蔵の剣。青鞘の大刀だけをひっ
つかみ、幼い十吾は一度奥へと走り去って厨の裏口から外へと飛び出す。
お香が止めるより早く、お香は一緒になって飛び出して行きそうな幼い
お花を抱くのがやっと。
 裏から出た十吾は、薪割り場を駆け抜けて納屋の裏へと回り込み、納
屋の反対側の草陰に潜むように才蔵を見つめている。才蔵はもちろん気
づき、三人の敵とやり合いながらもじりじり納屋へと近づいていく。
「才蔵さん、刀ぁ!」
 後三歩というところで十吾は青鞘の大刀を投げ上げた。
「ちっ、こわっぱめが! 死にくされ!」
 才蔵よりも男のひとりがわずかに十吾に近かった。棒尻の鋭い剣が地
べたを這う十吾に向かって突き込まれ、そしてそのとき才蔵の耳許をか
すめるように赤い矢羽根の弓矢が飛んだ。お泉の矢だ。
 投げ上げられた剣に向かってもんどり打って手をのばす才蔵。

「うわぁーっ!」
 男の棒尻の細い剣先が、とっさに転がる十吾の脛を浅くかすめて紙一
重の地べたに刺さり、その刹那、男の右肩口に赤い矢羽根の弓矢が浅く
突き刺さる。しかし矢はあまりに浅い。
 転がり飛んだ才蔵の手が青鞘の剣をひっつかむ。そして刹那、抜き去
られた才蔵の白刃。肩口を射られても屈強な兵の動きを止めるまでには
いたっていない。地べたを刺した剣先がふたたび十吾に向けられた。

 危ない、十吾!

「セイヤァァーッ!」
 鬼神のごとき才蔵の気迫! 振り抜かれた白刃が、左斜め後ろから男
の背を逆袈裟斬り!
「ぐわぁーっ!」
「死ねぃ外道!」
 背に振り抜かれた一刀が空中で反転し、次には真横に振り抜かれて男
のそっ首を吹っ飛ばす! 血しぶき! 石のごとくごろんと転がる坊主
の首。
 十吾の細い脛に一筋の血が滲む。
「十吾、大丈夫か、よくやったぞ」
「うんっ、どうってことない!」
 十吾に向かって笑った才蔵。しかし刹那、敵に向かって振り向くとき
には鬼の形相!

 そしてその傍らで。
「トゥリャァーッ!」
「なんの! ハァァーイ!」
 仁吉を襲うふたりの男を相手に、紅矢のくノ一、お泉が挑みかかる。
忍び装束でもない町女の着物姿。脚が開かず動けない。それでもお泉は
素早かった。前から横から襲う切っ先を苦もなく交わし、くノ一の剣が
老いた男の胸を貫く!
 お泉は強い!

 その様子を横目で見た才蔵。青鞘から抜かれた見事な白刃が切っ先を
天に向け、弧を描いて中段下まで降ろされて、チャッという鍔鳴りを響
かせて反転し、真横にすーっと動いて止まる。
 これぞ、流れ才蔵の十字剣! 対する男ふたりは身構えながらも才蔵
のあまりの気迫に腰が退けた。
「こ、こしゃくな、死ねぇい!」
 若い男がふたり。ふたりともに剣を抜き、剣対剣。左右に分かれて才
蔵を狙う剣先だったが、左のひとりが斬り込んだ刹那、勝負は決した。
 左からの切っ先を払い落としておきながら、右の男の胴を切り裂き、
返す刃が左からの攻めの一瞬前に男の首を吹っ飛ばし、そしてまたその
返す切っ先が右の男の喉笛を貫いた。
 死んだ男を足蹴にして喉笛から剣を抜き、老いたひとり倒して残った
ひとりと対峙するお泉との間に割って入る。

「十吾を頼む」
「あいよっ」
 お泉とそして仁吉を追いやって、才蔵は残るひとりと対峙した。
「俺が相手よ、女じゃねえぜ」
「ふふん、口は立派だ、受けてみろ!」
 最後のひとりが男たちの中ではもっとも使える。突き突き突きと突き
を使う実戦剣。戦場での剣さばきは才蔵をもたじろがせるほど速かった。
 キィーン、キン、キィーン!
 白刃と白刃が火花を散らして交錯し、互いに退いて互いに斬り込む。
足を払われて才蔵が宙を舞い、宙から斬り下げる剣先を敵が受け流して
もんどりうって転がった。
 追い込む才蔵、しか受けから攻めに転じる敵! 双方、強い!
 キィィーン!
 最後に一度交錯する刃と刃。忍びのように身軽に体をさばく才蔵。
 真横に振り抜かれた切っ先が敵の胴を浅く抉り、敵がひるんだ一瞬、
返す刃が肩口から深々と袈裟斬りに肉を抉った!
「トゥセェェーイ!」
 吼える才蔵! 鬼神の気合い! 噴き上がる血しぶきを浴びた才蔵は、
もはや鬼か!
 男はその眼をカッと見開き、声も発せず朽ち木のようにゆらりと崩れ
て倒れ去る。

 才蔵は強い! 話に聞いていたお泉だったが、震えが来るほど才蔵は
強い。お泉は目を輝かせた。

 しかしそのとき、三方を囲む浅い谷の草陰から逃げ去る男の影ひとつ。
男は百姓姿に化けていた。お泉が気づき、才蔵もそれを察して顎をしゃ
くって『追え』と合図。お泉の姿が一瞬後に消えていた。
「強ぇえ・・おいら驚いちまった」
 たったいま目の前で起きたこと、そして首のない男の死体、また死体。
仁吉は呆然としてふらふら歩み、才蔵のそばへとやってきた。
「よくやったな仁吉、助かったぜ」
 仁吉の役割は大きかった。敵を二手に散らせてくれた。才蔵に肩を叩
かれ、しかし境内のそこらじゅうが血だらけの惨状に、仁吉はへなへな
と崩れてしまう。
 脛に白い晒しを巻かれた姿で十吾が歩み、十吾はそのまま才蔵の腰へ
とすがりつく。
「おめえもだ十吾、立派だった、ありがとよ」
 十吾もまた呆然としてしまって、声もなくうなずくだけ。

「ぅ・うぅぅ」

 お泉の剣に倒れた老僧に息がある。才蔵は傍らにしゃがんで覗き込む。
「忠長一派と見たが?」
「ぅぅ・・乱心など・・されてはおらぬ・・むぅぅ・・家光め・・江戸
など滅ぶがよか・・ろう」
 首がゆらりと崩れて老兵は去った。
 仁吉は目を丸くする。殿上人など身分が違う。才蔵は言った。
「仁吉、十吾もだ」
 へたり崩れた仁吉が見上げ、腰にすがる十吾が下から才蔵を覗き込む。
「敵とは言え、こやつら皆、忠義の者ども。武士とはそういうものぞ。
墓所に葬ってやらねばな。手伝ってくれるよな」
 仁吉は黙ってうなずき、十吾は、たったいま眼前で死んでいった老兵
を見つめて泣いてしまい、かすかに「うん」と呟いた。

 そしてそのとき、お香は幼いお花を抱き締めながら本堂の外廊下に立
っていて、はじめて見るおぞましい光景に震えていた。才蔵の顔も着物
も血しぶきを浴びて真っ赤。鬼の姿に見えたことだろう。
 ふと本堂を見た十吾。身を固くするお香の姿に、何を思ったのか十吾
は才蔵の腰を離れて歩んでいき、そのとき手をのばした姉の手をしっか
り握った。
「男ですぜ、もう」
 仁吉がそんな十吾の小さな背中を見て言った。
「おめえもな、無鉄砲にもほどがあらぁ、ふふふ」
 そう言って才蔵は笑ったのだったが、仁吉は首をちょっと横に振る。
「おいらなんぞ威勢がいいだけ・・へへへ」
 力なく笑う仁吉の手を引いて立たせ、ふたり揃って、境内に散らばっ
た武士どもの亡骸に歩み寄っていくのだった。

 そのとき十吾が、そっちへ行くなと手を握って止めようとしたお香の
手を振り払って歩み出し、勇気を振り絞るように、首を飛ばされて転が
ったその首に小さな手を合わせ、泣きながら持ち上げて、裏の林の墓所
へと運ぶ。
 才蔵も仁吉も黙って見ている。十吾はいまこのとき男になった。ふた
りは目を見合わせてうなずき合っていたのだった。

 その日の夕餉。支度が遅れ外は暗くなっている。
 太い蝋燭が何本も揺れる本堂に、才蔵、仁吉、十吾、お花、そしてお
香が膳を据えて輪になった。しかし静か。幼いお花でさえも皆を気づか
い静かにしている。
 静けさにたまりかねたというわけでもないだろうが、仁吉が口を開い
た。
「こんなこと訊いていいもんやらとは思うけんど」
 問いかけの相手はもちろん才蔵。
「うむ? かまわんが?」
 仁吉はチラとお香と目を合わせつつ言うのだった。
「さっきのお方は? おいらを救ってくださった?」
 才蔵は皆を見渡してちょっと笑い、仁吉の目を見やった。
「お泉と言ってな」
 と、そう言いかけたとき、本堂への踏み段に気配。意図してはっきり
気配を感じさせる歩みである。

「言ってるそばから・・ふふふ、十吾、開けてやってくれ」
「うんっ」
 十吾は力強くうなずいて立ち上がり、本堂を閉ざす板戸の片方を少し
開けた。
 血しぶきを浴びた着物を着替えて現れた、お泉。町女のいでたちで明
るめの黄色茶縞の着物。晒しの脚絆を巻く旅姿。そしてその手に白木の
仕込み杖。才蔵は言った。
「入りな、ご苦労だったな」
 お泉は戸を開けてくれた十吾の頭に手を置いて、皆を見渡しちょっと
頭を下げる素振り。才蔵のそばへと音もなく歩み寄り、そのときお香が
用意した座布団に正座で座った。
 どこか鋭い印象。すさまじいまでの剣さばき。ただの女でないことは
明らかだった。才蔵が言う。
「お泉さんと言ってな、いろいろあって俺の影となって動いてくれる。
辛い役目を負わせていてな」
 お泉は才蔵の姿を横目に見ている。お泉さんと『さん』をつけて呼ば
れたことがない。やさしく思いやった言葉をもらったことがない。

「で、いかに?」
「言っていいんだね、ここで?」
「かまわんさ、おめえが十吾や仁吉を救ってくれた」
「そうですぜ姉さん、恩にきやす」
 仁吉が笑って言うと、かしこまっていたお泉の面色がやわらかくなっ
ている。
「おらもだ、死ぬかと思った、えへへ」
 と、十吾。お泉が笑ってうなずいた。笑うとやさしい女の面色。
「内藤新宿と大久保の境あたりに、ここと似たような寺があってね、奴
らの根城さ。敵は四人残っているが、さてそれだけなのかどうなのか」
「うむ」
「しばらく潜んだ。敵は皆坊主の成りだが若い武士ばかり。ひとまず散
ろうと話していたよ」
 それは才蔵とて察したことだった。こちらから攻める手もあったのだ
が、駿河の者どもと考えるとどれほどの数が潜んでいるとも知れない。

 ふいに、お香が言った。
「お泉さん、夕餉は?」
「いや」
「はいっ、じゃあ支度しますね、今宵はご馳走なんだから」
 そう言ってお香一人が立ち上がり、けれども幼いお花が遅れて立って
厨へ歩むお香を追った。
「ふふふ、いい子だ。十吾もだが。なあ、お泉よ」
 お泉は黙ってうなずいて、そのとき目の合った十吾に言った。
「傷は傷むかい?」
「ううん、もうすっかり」
 お泉が、忍びが用いる傷薬を使い、晒しを巻いてやっている。
「お姉さん、ありがとね」
 お泉は笑ってうなずきながらも、ちょっと目をそらしていた。住む世
界のまるで違う家族の中に迎えられた気がしていた。

「あ、いけない」
 お泉が才蔵の耳許で言う。かつて馬小屋だった納屋は、門に近い桜の
木のそばにあったもの。寺をよく知る村の婆が言っていたと。

 ほどなくして、お香とお花が揃って現れ、お香は膳を、お花はその小
さな手に湯飲みを持って歩み寄り、「はいっ」と言って差し出した。
 お泉は湯飲みを受け取って、お花の頭を撫でてやる。
 才蔵が言った。
「こうなったからには言うが、お泉にはここにいてほしい。明日にでも
一芝居うってもらい客人として迎えるのさ。買い出しそのほか俺ひとり
じゃどうにもならんこともあってな」
 皆に異論のあるはずもなく、ただお泉だけが戸惑っている。
 才蔵が眉を上げて笑いながらお泉を見た。
「本堂は広れぇ、庫裏は狭ぇえ。となりゃぁ俺が庫裏で寝るまでよ」
 そしてまた仁吉に向かって眉を上げる。
「おい仁」
「へ? あっしも?」
「おめえもお香のそばで寝ろ、命がけで守った女だ。ふっふっふ」

 しどろもどろの仁吉と、頬を赤くしてうつむくお香に、皆で笑った。


十一話 美しき月


 その夜、才蔵は本堂へと上がる数段の踏み段に腰掛けて、瞬く星空の
中にくっきり浮かぶ三日月を見上げていた。深夜。寺はひっそり穏やか
に月闇の中に沈んでいる。

「和尚とは何者だったのかと考えているんだが」

 高床の縁の下、さらに闇が濃くなるところにお泉が潜む。才蔵が座る
踏み段の裏側だった。お泉は何も言わず聞いている。
「若かりし和尚もまた僧兵だった。されどその頃の林景寺は江戸に牙を
剥くものでもなかった。世継ぎ争いに敗れた忠長一党、あるいは由井正
雪の息がかりやも知れぬが、そういう者どもが入り込んだがゆえに林景
寺はおかしくなった」
 お泉は呼吸の気配さえも感じさせない。静寂の闇には小声で充分。
「和尚は早くに寺を出ているがゆえにそうした輩とは別物と考えていい
のかも知れぬし、だとすれば本山の異変を快くは思うまい。秘密は隠そ
うとするだろう。その頃あったからくりを壊してでも隠し通そうとする
のではないか。それが表に出れば世が乱れることはわかっておる」

 そこではじめてお泉が言った。
「城中とのつながりはなぜにってこともあるしね」
「うむ、そこも気になる。ある秘密を和尚が守ることを条件に金を届け
させ、それが結局、童らを守ることともなっている」
 才蔵は浅いため息をつきながらちょっと笑い、語調を崩してさらに言
った。
「さて暴いていいものか。ここで俺ごときがしゃしゃり出て化け物を掘
り出してしまったらと思うとなぁ」
「けど坊主どもはきっと来るよ。ここが公儀支配となったと知ったら何
が何でも奪いにかかる。それほどの大事がここにはある」
「そうだな。その大事とは何かってことよ。で、その後は?」
「ないね何も。紀州は動かない。けど、あたしが気になるのは公儀の手
も動かないことなんだ。それほどの大事なら見張りの忍びぐらいは動か
してもいいはずだろ。秘密そのものを葬ってしまえばいいのに、とも思
ってさ」
「それができない何か・・ゆえに薄気味悪いのよ、こそこそ金を届けさ
せ、それはすなわち公儀にとって身内さえも欺く行い。これはえらいこ
とだぞってよ、ますます気味が悪くなる。あるいは亡霊を目覚めさすよ
うなことになりはしねえか・・とな」

 このときもちろん才蔵は才蔵で、お泉はお泉なりに、この寺にあって
探れるところはあたっている。からくりのようなものはどこにもない。
とすると、万一のときのことを思った和尚が、からくりごと秘密を葬っ
てしまったとも考えられる。
 才蔵は言った。
「お香はここで童らと暮らしてえのさ」
 お泉はちょっと眉を上げて微笑んだが、才蔵の座る踏み段の下。
「いい人もできたことだしね」
「ふふふ、そういうこったな。ここで亡霊を怖がって手を引くわけには
いかねえ。秘密を暴くことそのものも隠し通さなきゃならねえし」
「それで納屋だけどね、妙だとは思わないかい?」
「何かあるのか?」
「いや、そういうことじゃなくだよ。下木(基礎部分)だけに新しい材
を使ってるね。石基礎で地べたからの浮きがあるとはいっても下木は腐
る。時期が来れば替えるものなんだけど、気づいたのはそれぐらいだよ。
本堂も庫裏も、縁の下から屋根裏まで調べてみたけど何もない。もっと
たやすいものなんじゃないかって思ってさ」
「たやすいとは?」
「埋めて大石で塞ぐだけとか、そういうことさ」
 境内には苔むした大きな石が置いてある。
「あの納屋、馬小屋だったと言っただろ」
「うむ。それが?」
「風呂の焚き口がすぐそばなんだよ。馬は煙を嫌がるからね」
 才蔵はハッとした。
「馬小屋を動かした?」
「考えられるね。前にも言ったけどコロ(重い物を転がす丸太)を使え
ばあのぐらいのものをずらすことはできるから。武家屋敷じゃあるまい
し馬小屋なら門に近いほうがよくはないかい? それこそ臭いし」

 お泉は境内の隅にとってつけたように置いてある大石を気にしていた。
庭の造作というほど出来の良い庭でもない。
 からくりからくりとむずかしく考えるから見当たらない。納屋はかつ
て馬小屋として門の近くに造られてあり、その地下に何らかの仕掛けが
あった。そう考えると納得できるし、金を届けた女はそれを知っている
から納屋を気にした。
 才蔵は言う。
「となると古い話だ、二十四になるお香が知らない。まあしかし、そう
かも知れぬな」
「訊いてみるよ、そのへんの年寄りに。寺の昔を知ってるだろ」
 それだけ言うとお泉の気配は闇へと去った。
 才蔵は大きな桜の木の下に置いてあるいびつに丸い大石に目をなげた。
 そしてふと見上げると、いましがたまで夜空にくっきり浮いていた三
日月が、深夜となって冷えてきたからか、うっすらと靄に覆われて朧月
に変わっていた。それがまた詫びて美しい。

 翌日はよく晴れて、しかしその次の日には厚い雲が空を覆いだしてい
た。
 寝込んでいたお花も元気になって、十吾とふたり、朝方に訪ねて来た
仁吉と境内を走り回っている。仁吉は普請場の休みで昨夜一度浜町にあ
るという親元を覗いていたのだったが、翌日には普請場にある飯場に戻
り、漁師の家からくすねてきた魚やイカの一夜干しを持って寺にやって
きた。お香のそばにいたいというより童らが気になってしかたがないと
いった様子。童らも喜んで、仁吉をおもちゃにして遊んでいる。
 お香が丸い竹カゴを才蔵に見せて言う。
「今宵はほら、魚やイカや、ご馳走で」
 お香も嬉しそうだった。

 そんなときだ。丸太を二本立てただけの門の下から、丸く大きい坊主
笠をかぶった僧が五人、傾斜を歩んでやってくる。
 一見して、先に立つひとりが歳上、後ろの四人が明らかに若く、それ
ぞれがギラリと光る錫杖(しゃくじょう)を持っている。僧が持つ錫杖
とはすなわち槍。鉄の丸環がついているとはいっても武器になるものだ
った。
 不気味に歩む僧どもの影が近づいて、才蔵は仁吉を手招きしながら、
お香に対しても童らを奥へと小声で言った。
 このとき才蔵は納屋にいて、着物をまくり上げてたすき掛け。庫裏の
物をしまうために新しい板で棚を作っていた。
 才蔵は着物の裾を直しながら矢面に歩み出た。しかし丸腰。青鞘の剣
は本堂に置いたまま。

 物静かだが有無をも言わさぬ足取りで歩み寄る五人の僧。先に立つひ
とりはともかくも後ろの四人はおそらく武士。隙がない。四人ともに背
が高く、黒い法衣から出る腕が隆々として太かった。
 先に立つひとりが坊主笠を少し上げて才蔵を射るような目で見つめる。
六十に近いシワ深い顔立ちだった。
「我ら五人、伊豆の寺から参った者じゃが、そなたは?」
 才蔵は名乗らず言った。
「ゆえあって寺をたたもうと手伝ってはいたんだが、里子に出した童が
戻ってきてしまいましてな。しばらくは寺におくしかなくなった。ゆえ
にいま納屋を手直ししているところ」
「ふむ、左様か。ではこの先も寺はこのまま?」
 後ろの四人は編み笠で面体を隠したまま互いに顔を見合っている。
 才蔵はわずかにほくそ笑みながら語調を変えた。
「ま、てぇことになるでしょうな。ときに伊豆の寺とはどちら?」
「林景寺と申すが、それが?」
「ほうほう、あの樵どもの村にある?」
 先に立つシワ深い男の眼光が鋭くなって才蔵を睨みつけた。

 しかし才蔵はひるまない。
「拙者は流れ者ゆえ伊豆も知る地。林景寺のある村に世話になったこと
がありましてな。しかし、さても妙だ、あの寺では坊主どもが消えたと
聞き及んでおりますが」
 背後の四人が才蔵を囲むようにさっと左右に散ったのだが、先に立つ
老僧が手をかざして四人を制し、言うのだった。
「この寺の亡き住職は我らと同門、預けてあった物もあり、よもや次の
住職がいりようならばと参ったまで」
 才蔵は左右に散った者どもを涼しい眼光で抑えながら言った。
「それは先だって仏像そのほか持ち出されたはずでは? それにいま、
この寺は寺社奉行支配。面倒を起こされるとよろしくないかと・・ふふ
ふ」
「いいからそこをどけ! 斬るぞ!」
 しびれを切らした右横のひとりがすごみ、シャランと金輪を鳴らして
錫杖で身構えた。
「ほほう、斬るぞ? これまた妙だ、斬るぞとは武士の言いざま、坊主
とも思えませんな」
「問答無用!」
 先に立っていたひとりが一歩二歩と退いていき、両横と背後の四人が
丸く大きな坊主笠をむしるように剥ぎ取って、四人それぞれ中腰となっ
て錫杖を構える。四人ともが坊主頭となって僧を偽る姿であった。


十話 頭巾の女


 翌日もよく晴れた。秋といってもまだ長月(九月)のなかばをすぎた
ところ。晴れれば夏、陰れば秋。そのとき才蔵は着物をまくり上げてた
すき掛け。納屋から引っ張り出した腐りかけた木っ端や板を鋸でほどよ
く揃え薪(たきぎ)にしようとしていた。汗だくだった。
 昼下がりの刻限で、お香は童らを連れて買い出しに出ていた。
 寺を囲む浅い谷の草陰にお泉が潜み、顔を上げて笑っている。才蔵の
姿は泊めてもらう代わりにコキ使われる食い詰め浪人そのままだった。
才蔵もお泉の目には気づいていて、片目をつぶって『笑うな』と言って
いるようだった。

 しかしそのとき、お泉の姿が草下にすっと失せ、ほどなく丸太を二本
立てただけの寺の門に、紫頭巾で顔を覆った身なりのいい女が現れた。
 一見して四十代。派手ではなかったが濃い青花の質の良い着物をまと
い、名のある武家の奥様ふう。
 音もなく歩み寄って女が言った。
「もし」
「ああ、はいはい?」
「そなたは? お寺の方々はお留守でしょうや?」
 城中の女だと直感した。言葉の微妙な言い回し、それにほのかだが香
木の香りがする。
「あいにくいま買い出しに。拙者は流れ者なんですが、懐の寂しいこと
もあり数日厄介になっており。旅から旅で歩き疲れてしまいましてな」
「ああ、なるほど左様で」
 このときの才蔵の姿は明らかにサンピン。埃にまみれていた。訪ねて
来た女にも身構える様子はない。
「それで納屋の中を?」
 と言いながら女は板戸が開け放たれたままだった納屋に目をやる。
「まあ寝屋の恩とでも言いますか。庫裏が手狭で、和尚もいなくなった
ってことで、庫裏のものを納屋に移そうとしてましてね。お恥ずかしい
限りですが見ての通り埃まみれだ、はっはっは」
「庫裏が手狭と申しますと?」
「じつはつい昨日のこと、里子に出したはずの童が戻ってきてしまいま
してね。寺をたたむはずだったそうなんですが、まあしばらくはしょう
がないかと。ついては和尚の持ち物など納屋にしまおうってことでして。
平素は男手もなく力仕事はできませぬゆえ」

 そうして話しながらも女は納屋へとチラチラ目をやっている。それは
納屋を気にする素振り。才蔵は、ちょっと妙だと感じていた。
「乗りかかった船でござるよ、根無し草に根が生えるのも可笑しな話ゆ
え、それらこれらを片付けて拙者はおいとましようかと」
「左様ですか、ふふふ、お寺とそれから童らのこともよろしくお頼みい
たしますね」
 女は見事なまでに当たり障りなく接し、白い半紙にくるんだ小判を置
いて去って行く。そしてそのとき、背を向けながらもそれでもチラと納
屋を気にする素振り。はるばる訪ねていながら寺に入ろうともしない。
 秘密はやはり納屋にあるのか。
 香木のほのかな香りを残して女が去り行き、才蔵は草陰から顔を覗か
せたお泉に対して『尾けろ』と顎をしゃくって合図をし、直後に眉を上
げてわずかに左右に首を振る。『深追いはするな』ということなのだが、
お泉のほうではそのぐらいは承知。

「大奥か・・おそらくな」 と才蔵は、かすかな声で呟いた。

 仮に大奥だったとして、女は、その歳格好からもおそらく年寄り格の
者だろう。下っ端であるはずがないし、だとするとますます容易ならぬ
ことになる。大奥こそまさに将軍家のおそば者。秘密とはもしや徳川宗
家を揺るがしかねないものではないか? そしてそれは俺ごときが下手
に暴かず蓋をしておくべきではないか? それがお香や童らのためでは
ないか?
 才蔵は、納屋を見つめながらそう思う。

 半刻(およそ一時間)ほどして戻ったお香に半紙の包みを手渡した。
中には五両。受け取ったときから厚みでうかがえる金額だった。
 それでそのときお香は、女が訪ねて来るのが思うより少し早いと言っ
た。紀州を封じるため寺社奉行に手を回し、その後の様子を見に来たの
だろうと考える。何もかもが見透かせた。

 日が暮れて、いつも通りの穏やかな夜。今宵は仁吉がいない。さすが
にいきなり毎日では気が引けるのだろうと思うと可笑しくなる。
 深夜になって本堂にお泉が忍び込む。
「城だな?」
 お泉は言うまでもないと小首を傾げて微笑むだけ。
「石垣の先は追えないからね」
 そしてお泉は言う。
「赤城屋は止まったよ、紀州屋敷も静かなものさ」
「そうか、ご苦労だったな」
「それとこの寺、あたしが知る限り見張られてはいないというだけで、
それはあたしが知る限り」
 わかっている。お泉がいかに手練れの忍びであっても体はひとつ。
才蔵としても見張りがないなどとは思っていない。

「ときに、お泉よ」
 テコ棒やテコ鍵。お泉はもちろん知っていて、ちょっと考え込む素振
りをした。
「何を隠すかだよ。テコ鍵といっても筆尻を差す仕掛け書箱から、長い
丸太で小屋ごと動かすものまであってね」
「小屋ごと動かす?」
「そうだよ。床下にコロが仕込んであって、小屋ごと回したりズラした
りするんだけど、それには基礎ができてないとならない。ここの納屋は
地べたに石基礎だからそこまでの仕掛けじゃないだろうね。裏の墓所は
探ってみたけど何もなかった。よく調べたわけじゃないけど本堂それに
庫裏の下にもおそらく何もないだろう」
 隠してあるものが密書ぐらいなら壁や床や天井やと仕掛ける場所はど
うにでもなる。そのほかからくりにも様々ある。かなり手の込んだ仕掛
けだろうとお泉は言った。

 二日待てば仁吉が三人を連れ出してくれる。そのはずだったのだが、
翌日になってお花が熱を出して寝込んでしまった。寺に戻れたことでは
しゃぎすぎ、風邪をひいてしまったらしい。
 その夜も仁吉はやって来て、夕餉の席にいないお花のことを気にして
いた。
「あれま、熱をかい?」
 お香が苦笑してうなずいた。
「あの子って弱いから」
「なあに幼子のうちはそんなもんださ。浜町がなくなわけじゃねえから
な、いずれまた行こうじゃねえか」
 面白くないのは十吾。ふてくされている。
「ちぇっ、ったく」
 お香は十吾だけでも連れて行ってやってと言ったのだったが、十吾は
ふてくされていながらも、また一緒に行こうと言った。
「妹なんだぜ、おらだけじゃ可哀想ってもんじゃねえか」
「へっ、いっぱしの口ききやがって。はっはっは」
 仁吉に頭を手荒く撫でられて十吾ははねつけ、お香は笑って才蔵に言
うのだった。
「えらいだろ十吾って。こういう子なんだもん。お花のことが可愛くて
ならないの。ねえ十吾」

 童らを里子に出してしまったことを悔やむような面色。才蔵はちょっ
とうなずいて、座るお香の膝をぽんと叩いた。
「十吾は男よ、いつまでも童じゃねえ。お花のそばにいてやらねえと姉
ちゃんひとりがしょいこむことになっちまう。気配りのできる男ってこ
とじゃねえか」
 才蔵の言葉が嬉しかったのか、十吾はそっぽを向いてはいたが笑いを
噛み殺しているようだった。
 仁吉が言った。
「まったくですぜ、十吾もそうだけんど、面倒をみてるお香さんにも頭
がさがる思いでさ」
「だから惚れたんだもんなぁ仁吉は?」
「へい。えっえっ? あ、いやいや・・」
 なにげに応じ、とたんにしどろもどろの仁吉、赤くなるお香。その両
方を交互に見て、十吾は機嫌を直して笑って言った。
「けど兄ちゃんも嬉しいだろ?」
「どういうこってぃ?」
「お花はどうしたお花はどうしたって、お花をダシに毎晩来れら、でれ
でれと猫撫で声で。ひひひっ」
「おいてめえ・・ったく、クソ餓鬼が」
 と横目で睨みながら苦々しく笑ったものの、仁吉は言うのだった。
「おいらもそうでさ、山から海にやってきて寂しかったおいらに、いま
のおっ母さんはよくしてくれやしたし、おっ父にしてもそれはそうで、
よく船に乗っけてくれたもんでした。ただおいらには兄弟がいねえ。で
すからね、ここへ来ると嬉しいんでさ。十吾やお花を見ていると我が身
のことのようでたまらねえ。おいらは孤児じゃあねえけんど餓鬼の頃は
寂しくてね。ここで育ったみんなの心根がよっくわかる。あ?」
 ふと十吾に目をやると、わかったわかったとでも言うように小さな十
吾に膝をぽんぽん叩かれて、そんな姿にお香も笑った。
 十吾が言った。
「兄ちゃんなんぞ幸せなんだよ、親がいっぱいいるじゃねえか。山にい
る親にしたって、いっときたりと忘れちゃいねえや。おらたちみんなは
よ、そのことは考えないようにしてるんだ」
「うん、だよな、うん。十吾は強ぇえぜ、姉ちゃんだって支えてら」
「そりゃいかん」
「は? いかん?」
「姉ちゃんのことはおいらが支える、ぐれえのことが言えないもんか」

「てめえ、いっぺん殺すぞクソったれ!」
「だははは! くすぐったいだろ! だははは!」
 とっくみあいでじたばたしている仁吉と十吾に呆れ果て、才蔵とお香
はやさしい笑みを浮かべ合った。どっちも子供だ。
「いい奴だぜ仁吉は」
 小声で言って目を合わせると、お香は素直にうんとうなずいて、そん
なやりとりを横目に見た仁吉が、組み伏せてじたばたさせている十吾に
言った。
「どれ、お花みてこようか、可哀想によぉ」
「うんっ!」
 お花は奥の庫裏で寝ている。仁吉と十吾のふたりは若い父と子のよう
に連れだって奥へと消えた。

 蝋燭の明かりが灯る畳の小部屋。小さな布団にくるまって額に濡れ布
巾をのせられ、お花はよく眠っていた。
「ふふふ、可愛いなぁ」
「おらさぁ」
「おぅ?」
「お花の奴が戻って来たとき嬉しかったんだ。おらたち仲がよくてなぁ。
いなくなって寂しかった」
「うむ」
「兄ちゃん、ありがとな。兄ちゃんが見つけてくれなきゃ、どうなって
たかしれねえだろ。お花も大好きだぜ兄ちゃんのこと。今宵兄ちゃん来
るかなぁって、おらに訊くしよ」
「うん・・そうか・・うん」
 仁吉は額の布巾を取り上げて、傍らに置かれたタライの水で冷やして
絞り、そっと額にひろげてやる。熱は少し引いているようだったが、頬
が桃のように赤かった。

 十吾が言った。
「おらたちよ・・姉ちゃんとおらだけんど」
「うん?」
「甲斐に行こうって話してたんだ。おらはここが好きだけど、みんなを
外にやっちまってよ、残ったのはおらと姉ちゃん」
「そうだな」
「姉ちゃん辛そうだったからさ。おらの親も探してくれたけど見つから
んし、けど見つかれば、姉ちゃん独りになっちまうだろ。そんとき才蔵
さんが来てくれて、姉ちゃんどれほどほっとしたか。そいで次には兄ち
ゃんさ。お花を連れてきてくれたしよ。苦しかった姉ちゃんのことを仏
様はみててくれたなって思うんだ」

 仁吉は、わずか九つの十吾がとっくに大人だと感じていた。姉さんを
想い、お花や、いなくなった皆のことも想っている。
「十吾はもう弟だ・・うん、弟だ・・」
 十吾の小さな肩を抱く。細い蝋燭だけの薄闇が仁吉の潤む目を隠して
いた。


九話 寺の日々


 朝からお香のいない一日。十吾は戻って来た妹お花と一緒になって駆
け回っていて、才蔵ひとりが納屋の中をホウキで掃いて掃除をする。
 十吾は手伝うと言ったのだったがお花がちょろちょろしていてはうる
さくてしかたがない。遊ばせておくほうがはかどるというものだ。

 夕べのテコ鍵の話。才蔵は納屋の中を細かく見たが、確かにそんなよ
うなものはあっても丸い棒は埋め込まれてビクともしない。だいたいが、
それが造られてあるのが板壁の際であって、ここが動いて何が開くのか
と考えると違うと思うしかないものだった。
 本堂にも庫裏にもそんなようなものはなく、寺の裏手にわずかにある
墓所へ回ってみても、どう見たって林の中の墓であり、丸く大きな石が
置いてあるだけのもの。結局何も見つけられずにいたのだった。
 そうするうちにお香が戻り、そのとき納屋で埃だらけになっていた才
蔵を見て笑っただけ。

「参った参った、どんだけ放っといたのか、掃いても掃いてもキリがね
えや」
「すみません、お侍様にとんでもないことをさせちゃって」
「なあに、かまわねえって。そんでお花のことは?」
「はい、先様では気に入ってくれてもう一度ってことなんですけど、し
ばらく様子を見た方がいいだろうって。どうせまた逃げ出すに決まって
るし、少し待ってわかるようになってからでいいとおっしゃって」
「いい人みてえじゃねえか」
「それはもう。だからお花を預けたんだもん。仏様のような方々で、お
花が無事でよかったとそればかりをおっしゃって。で才蔵さん、何か見
つかりました? テコ鍵とか言うものとか?」
「いんや、さっぱりだ。夕べはもしやと思ったんだが、けっ、ダメだ」

 その言い方が可笑しかったらしく、お香は笑って、相変わらず境内で
遊ぶ兄弟へと目をやった。
「うるさかったでしょ? ずっとこうなんですよ、みんながいた頃には、
わーわー収拾がつかないぐらい」
「まあな、元気なのはいいが、さすがにちょいと疲れちまう。しかし十
吾は嬉しそうだぜ、お花お花ってそばを離れねえ」
「もともと仲がよかったもん。あの子だってじつは寂しくてならなかっ
た。さあ! じゃあ夕餉の支度にかかりますね」
 気分を変えるようにそう言って、お香はわーわーうるさい二人に目を
やった。
「こらふたりとも! 姉ちゃん夕餉の支度するから十吾はお風呂沸かし
てあげて! 才蔵さん埃まみれじゃない!」
「へーい」
「へーいじゃない! 才蔵さんが出たらお花をお風呂に入れてやるんだ
よ、わかったね!」
「はぁーい!」
 いい光景だと才蔵は思う。公儀の秘密だか何だか知らないが、それさ
えなければ素晴らしい寺なのに。そう思うと腹が立ってくる。

 才蔵が風呂から出て、入れ替わりに十吾とお花が入っているとき、本
堂に歩み寄る気配がした。じきに暗くなってくるそんな刻限だったのだ
が、仁吉がすっきりした顔で現れたのだ。風呂もすませたといった感じ。
「おぅ仁吉、やけに早ぇえな? それは?」
 仁吉はその手に大きな風呂敷包みを提げていた。
「親方がみんなにって。寿司ですよ」
「寿司?」
 風呂敷越しの外見にも二段に重ねられた大きな寿司折り。
「そんで夕餉に間に合うように持ってけって、おいらだけ今日はいいか
ら行って来いって言われやして」
 つい先刻、普請場であったことを仁吉は才蔵に告げた。才蔵は風呂敷
包みを受け取ると奥に向かって声を上げ、粗末な着物に前掛けをしたい
つもの姿でお香が飛び出してきたのだった。
 仁吉はお香を一目見ると、明らかに照れた面色でぺこりと頭を下げ、
お香はお香で、いかにもバツが悪そうにちょっとだけ頭を下げて応じて
いる。
「このお寿司、親方さんが?」
「そうなんだ、どうしてもって。おめえも一緒に喰って来いって、だか
らおいらも飯はまだ」
「わかったよ、支度してるからちょいと待ってて。ありがとね」
 妙な間合いだ。よそよそしくしたかと思えば、話したとたん、お香は
パッと笑って応じている。包みを手に奥へと消えたお香。

 そうした様子に才蔵は、ちょっと髷をいじって苦笑した。
「さては、おめえら・・ふふん、そういうことかい?」
「あ、いや、あやや」
「あややじゃねえ! てめえ惚れたな?」
 仁吉は、そのとき親方が妙なことを言い出したばっかりに、大工仲間
に冷やかされたと苦笑した。そして微笑みながら言う。
「さっき普請場で見かけたとき、おいら仕事をおっぽり出して叫んじま
った。お香さんはいいなぁって・・うん」
「うんとは何だ、言ったそばからてめえで納得するんじゃねえや、あっ
はっは!」
 今度こそダメだと才蔵は思った。江戸に惚れた男ができれば山奥なん
ぞに行きたがるはずもない。
 それでまた、風呂から出て来たお花が真っ赤な顔して仁吉を一目見る
なり、きゃーきゃー叫んで駆け寄ってくる。
「おぅ元気になったかいっ」
「うんっ! 兄ちゃん好きっ! きゃきゃきゃ!」
 仁吉の手を引いて本堂へと連れ込む妹に、十吾もぽかんと口を開けて
いて、才蔵と目を合わせて首を竦める素振りをする。
「ちぇっ、すっかりもうおなごだもんなぁ」
 いっぱしの口をきく。
「ふっふっふ、ぞっこんみてえだな。仁吉はもはや仏様みてえなもんだ
ろうぜ」
「これでまた甲斐に行けなくなっちまったぃ、ああクソっ」
 問題はそこだ。才蔵は頭を抱えていた。寺を一度空にして、お泉に探
らせたいところなのだが、どうにもうまくいかない。

 夕餉は寿司と、お香がこしらえた魚の煮付け、それに汁。寺では質素
を通していて寿司など喰えるものではなかったようだ。十吾もお花も目
を輝かせてむしゃぶりついた。
 そんな童らを見守る仁吉とお香の視線が、ときどきチラとぶつかって、
揃って微笑む。
 仁吉が言った。
「二、三日すればしらばく休みが入るんだ」
 お香が問うた。
「休みって?」
「あれだけデカくなると普請はウチだけでやってるわけじゃねえからな。
あるところができねえとこっちは動けねえってことがある。ウチはほら
親方の腕がいいから仕事が早ぇえのさ。それでおいら、久びさ浜町を覗
こうかと思ってよ」
「浜町なら海だろ?」
 と十吾が言い、まだよくわからないお花が海だ海だと騒ぎ出す。
「馬鹿か、てめえは。おらたちが行くわけじゃねえんだぞ」
 ちょっと寂しそうにするお花を察して、仁吉が言った。
「じゃあよ、連れてってやってもいいぜ。海っつうか川の出口なんだが
よ。おっ父の船で海に出てみるか?」
 童たちは船なんてはじめてだった。小さい二人は食べながらはしゃい
でいるし、それを見ているお香もまた面色が輝いている。
 寺での暮らしは安穏なのだが、寺だけに派手な遊びをしたことがない。

 才蔵は言った。
「泊まれるのか、おめえん家?」
「泊まれる泊まれる、三人ぐらい平気だよ。小っこくても網元だからな。
ちょっと遠いけんど朝発てば暗くなる前に着けるだろ」
 三人と聞いて、お香はまたうつむいて微笑んでいる。
「親方もさ・・あ・・」
 と言ったきり、チラとお香を見て声もない仁吉。
 才蔵が眉を上げて横目に見た。
「なんでぃなんでぃ、親方がどうしたって? ほれ言ってみろ」
「いや、だからその・・ここのことを気にしてくれて、おいらにもよく
してやって言ってくれてさ」
 なるほど、親方はお香を気に入った。それで仁吉の背を押している。
そういうことだろうと才蔵は思うのだった。
 人一倍気を使うお香が何かを言い出す前に、才蔵は勝手に決めてしま
う。
「ウシっ、じゃあ頼んだぜ、チビどもに海を見せてやってくれ。お香も
一緒に行きゃぁいい。寺は俺がみててやる」
「あ、はい、あたしが一緒でいいなら・・」
 赤くなるお香。ふと見ると仁吉も眸の向きがおどおどしている。

 これで二日の時ができる。それだけあれば充分だろうと考えた。


八話 なにげない一言


 仁吉がふたたびやってきたのは、その日の夕刻。しかし夕餉を終えた
刻限だった。
 ここから半里ほど先の普請場(建築現場)に飯場を建てて暮らしてい
て夕餉は皆とすませてきたと言った。その手には薄板でくるんだ餅菓子
を持っている。仁吉が来たとき、お香と十吾が膳を片付けだしていて、
小さなお花は、寺で着慣れた粗末な着物に着替えており、才蔵の膝で眠
ってしまっていたのだった。
 才蔵は笑って言った。
「飯の途中で寝ちまったのさ」
「へい。ふふふ、可愛らしいなぁ。疲れ果ててころんでしょ?」
「まったくだ。可哀想に道に迷って歩き回っていたんだろ」
 そう話しているとき奥から十吾が茶を運んでやってきて、ほどなくお
香もそばに座る。狭い本堂でもそれなりに広く、板の間の真ん中あたり
に膝を寄せ合うようになる。三か所に燭台が立っていて太い蝋燭がふら
ふらとした光を投げかけている。
「うめえ! この餅うめえや! 甘えぇ!」
 中に粒あんを入れた白い餅菓子。十吾はほおばって声を上げた

 仁吉は、こうしてあらためて見ると、背丈はそれほどでもなかったが
目のくりっとした若々しい男だった。着物ももちろん着替えていて、風
呂も済ませてきたらしくさっぱりしている。普請場の仕事で陽に焼けて、
いかにも大工といったふうだった。

 小さなお花は、出会ったばかりの才蔵の膝に頭をのせて体を丸くして
寝入っていた。嬉しそうに覗き込む仁吉に微笑んで、お香が言った。
「せっかくねぇ・・けど嬉しいよ。もう会えないと思ってたもん。明日
にでも行って先様と話してこなくちゃね。もう少し小さければよかった
んだろうけど。物心つく前なら」
「そりゃそうですぜ、ここが家だ、寂しくなるのはあたりまえ」
「そりゃそうでも飛び出すこたぁねえだろ。兄ちゃんのおかげで助かっ
たけど、人さらいにでもあったらてえへんだったんだ」
 と十吾は怒るように言い、しかしその十吾もまた戻って来た妹の寝顔
をまんざらでもない面色で覗き込む。
 仁吉が言った。
「おいらももらわれ子、じゃねえや、えーと、預かられ子?」
「なんだそら?」
 才蔵は笑った。
「おいらは越後の出なんで。越後っつっても海じゃねえ、ずっと山だ。
冬になると何もかもが雪に埋もれるそんな土地でさ。おいらがちょうど
そこの、えーと」
 十吾に目をやる仁吉に「十吾」だよとお香が言った。

「ちょうと十吾ぐらいんときに、おっ父の山が崩れちまった。三日続い
たひでえ嵐で雨が続いて崩れたんで。材木はもうだめだってことで暮ら
しが苦しい。そんでおいら、浜町で漁師をやってた縁者の家に預けられ
て育ったんで。そん人がおっ父代わりになってくれた」
「それがどうして大工になった?」
 と才蔵が言い、十吾は仁吉を見つめ、お香はなぜか目をそらせて聞い
ていた。
「あるときシケでおっ父の船が壊れちまったんでさ。新しい船を注文し、
そいでそんとき船大工ってもんをはじめて見た。ただの木や板が、鋸で
引かれ、カンナで削られ、ノミで穿たれ、濡らした板が火であぶられ曲
げられて、そんなふうに見る間に船になっていく。毎日通っておっ父の
船ができていくのを見てたんで」
「すげえと思って?」
 と十吾が訊いた。
「ああ、そうよ、職人てすげえもんだなってわくわくしちまってよ」
 そう言って仁吉は、ふたたび寝入ったお花に微笑み、さらに言った。

「それからですぜ、方々で普請されるお屋敷や町屋を見るたんびに大工
仕事が気になった。じきに十五って歳になって、おいら、おっ父に言っ
たんでさ、大工になりてえ。けど、それはいかんて言われちまって」
「漁師はどうするってかい?」
 仁吉はうなずきながら、チクチクうるさい十吾の頭をちょっと撫でた。
十吾はもういっぱしの口をきく。
「けどおいら、こう言ってやったんで。周りを見てみろ、江戸は普請場
だらけじゃねえか。大工が足りねえ。漁師なんぞ海が荒れたらおしめえ
なんだし、漁に出たって獲れるとは限らねえ。大工なら、いっちょまえ
になりゃぁ引っ張りだこだって。そしたらおっ父がいまの親方を探して
くれた。船大工の頭領とのつながりでよ。親方ん家は牛込でな、そんで
家を出て、そっからずっと飯場にいる。おいらいま二十二だけど、若頭
のひとつ下まで上がってきたんだ。親方んところには二十人ほど大工が
いるが五人ずつ分かれていてよ、それぞれ若頭が率いてる。いまの普請
場もウチからは十人出してやってるんで」
「もういっぱしだな?」
 才蔵が言うと仁吉はこくりとうなずいた。
「ときどきおっ父の顔を見に行き、ちょっとだけど酒も飲む。いまにな
っておっ父は大工にしてよかったって言ってますぜ」
「山にいるおっ父は?」
「前に会ったのはもう三年も前のこと。そっちはそっちでぴんぴんして
ますけどね、木が育つには時がかかる。いまだに雇われて樵の仕事やっ
てるんで。だからおいら・・」
 それでまた仁吉は死んだように眠るお花を見つめて微笑んだ。
「お花ちゃんの心根がよっくわかるんでさ」
 そのときお香がはじめて顔を上げて仁吉を見つめたのだった。
「おいらだって山からいきなり海へ来て、寂しくて寂しくて泣いたもん
で・・へい。だからな十吾も」
「おぅ、何でぃ?」
「お香姉さんみてえなお人がいてくれてよ、それがどんだけ幸せなこと
なんか・・うん、負けちゃいけねえ、うん・・」
 勝手に涙ぐむ仁吉。いい奴だ。お香も目を潤ませている。

「ちぇっ、湿っぽくていけねえや」
「生意気言うんじゃないよっ、ったくもう」
 ちょっとそっぽを向く十吾。お香に頭を小突かれて、舌を出して笑っ
ている。
「ところで、この寺たたむんで?」
 そう仁吉が言って、お香がようやく口を開いた。
「あたしらみんな孤児でね、ここの和尚さんに救われた身なんだけど、
和尚さんが亡くなって、新しい暮らしを探してみようかってことでね。
何人かいた子らにも里親を探してさ、残った十吾とふたり甲斐にでも行
こうって話してるところなのさ」
「甲斐に? うん、それもいいや、どこにいたって姉さんや十吾はその
まんま。いずれ出て行く家なんすから、早いか遅いかだけのこと」
 お香はちょっと笑って寝入ったお花の足を撫でた。お花はぴくりとも
動かない。
 お香は言った。
「それはそうなんだけどね、この子らの行き先を探したことが良かった
のやらって思ってさ。ほかにもいるんだ。いまごろ同じように泣いてる
だろうなって思うと苦しくなっちまう。才蔵さん、あたしね」

 言うことはわかっていた。しばらく様子をみようと思う。ほかに戻っ
てくる子がいるかも知れない。
「あたし明日ちょっと出て来ますね。先様も心配してるだろうし、どう
するか話してこなくっちゃ。こんなんじゃ、また戻ってくるに決まって
ますから」
 そのとき、才蔵が何かを言うより早く仁吉が言うのだった。
「姉さんは間違っちゃいませんぜ」
「え?」
「間違っちゃいません。ここで暮らすのもいいけんど、童はやっぱ親が
いるのがいちばんでさ。おいらには二人ずつおっ父とおっ母がいる。近
頃じゃそう思えるようになりやしたし、おいらを預けた実の親のことに
したって悪く思っちゃいませんから。姉さんひとりで抱えてると姉さん
がつぶれちまう。はじめはそりゃ寂しいだろうけんど、いつかわかる時
が来る。姉さんを恨んだりはしやせんから」
「だといいけど。なんだかねぇ、お花を見てても、あたしのしたことは
鬼の所業かと思っちまって。けどお花は運がいいよ、仁吉さんみたいな
いいお人に出会ってさ」
 そう言って、なぜかお香はちょっと恥ずかしそうに目を伏せた。

「造ってるのはお武家の屋敷なのかい?」
 湿っぽいのが嫌というより、聞いていると捨て子だった我が身を思っ
て泣きたくなる。十吾は話を変えようとした。十吾も大人びてきている
と才蔵は思う。辛いことに耐えてきた分、そこらの九つ坊主ではなかっ
た。
 仁吉は面色を明るくして言った。
「おうよ武家屋敷よ、そりゃおめえ、でっけえお屋敷でな、ウチのほか
にもたくさん大工が入ってらぁな」
「もうできるのかい?」
「いんや、まっだまだ、この先二年はかかるだろうぜ。それはすげえ屋
敷でな、どこぞのお殿様の家なんだ。それをおいらたち町人が造ってら。
ちょいと胸を張れる気分だぜ」
 仁吉はきらきらしている。顔立ちに幼さの残る若者なのだが、その手
はいかにも大工のゴツい手で、仕事の姿が思い描けた。才蔵はふと我が
手と見比べた。侍の手など刀を持つだけ。恥ずかしくなってくる。
「お武家の屋敷ってよ、いろいろあるんだろ?」
「は? いろいろって何がよ?」
「ほら、抜け穴とか、からくりとかが?」
 十吾がなにげに訊いたことで話が思わぬ方へひろがった。

「いやいや、ねえことはねえが口外無用。てか、そっちは藩のお抱え大
工の仕事でな、おいらたち町大工はそういうところは造らねえ。幕を引
いてこそこそやってら。おいらたちは知らん」
「でもあるんだろ、抜け穴とか?」
「だろうぜ、きっと。そりゃそうさ、隠しておきたいものだってあるだ
ろうしよ」
「なるほどな、そんなもんさ、どこの屋敷にもあるだろうぜ」
 才蔵が言うと仁吉はうなずいて、それから十吾に向かって言った。
「おいらがやった仕事でよ、ある町屋の造作なんだが、テコ棒とかテコ
鍵とか、そういうのは造ったな」
「テコ棒にテコ鍵? 何だそりゃ?」
 十吾との話を才蔵は違う耳で聞いていた。
「テコ棒はそのまんまよ、切り欠きなんぞに棒先を突っ込んでよいしょ
とやりゃぁ、普段閉じてる蓋が開くとかそういうもんでな」
「うん?」
「そんでテコ鍵ってえのはよ、たとえばほれ、そこの柱みてえな・・」
 と言って仁吉は本堂を支える二本の太い柱を指差した。

「ま、ここの造作にそんなもんはねえけんど、床の間の柱とかよ、そこ
の柱もそうだがツルツルした柱を磨き丸太ってえんだが、普段は丸棒な
んかを横に差したりしてあって、桟とか棚とか手すりみてえにしてある
わけよ。そんでイザって時にそいつを引っこ抜いて太さの同じ長い棒を
差してやると、よいしょとやりゃぁ柱が回って床が開くとか天井が開く
とかするわけさ」
「へええ、からくりなんだね?」
「おうよ。短けえ棒じゃ鬼がやっても動かねえ。けど長い棒ならたやす
く動かせるって寸法さ」
「落とし穴とか造ったんか? 落ちたら死ぬぞって? うひひっ」
「なもん造るかっ。あのな坊主、忍び屋敷じゃねえんだぞ。忍び屋敷じ
ゃねえけんど、そいつをテコ鍵って言ってな、それだって大工の技よ。
そのほか隠し梯子に隠し階段、ドンデン返し。町屋にだってそんぐらい
の仕掛けはあらぁな。お宝なんぞ隠しておかねえと盗まれちまう」

 才蔵の面色が真顔に変わっていると、ふと目をやったお香は感じた。
 しかし才蔵は黙って聞いているだけだった。この若者を巻き込むこと
になってしまう。

 そしてまた翌日だった。朝いちばんで小石川に出かけたお香は、夕餉
の支度もあって買い出しを済ませ、野菜をカゴに入れた姿で大きな普請
場の前を通りがかった。土塀などはまだなくて杭を打って縄で仕切り、
広々とした更地に基礎ができて建て込みがはじまっている。敷地の端か
ら端までを歩くだけでも大変なほどのお屋敷だった。
「姉さん! お香姉さん!」
 ねじり鉢巻きをした仁吉が駆け寄ってくる。空はすっきり晴れていて、
まるで光の中から飛び出してくるようだった。
「ここ?」
「そうそう、どうでぃ、すげえお屋敷だろ?」
 と立ち話をしているところへ五十年配の大きな男が歩み寄る。それが
仁吉の親方だった。背は高いし体もゴツい鬼のような男である。
「おう仁よ! そちらは?」
「へい、昨日の童の・・ほら寺のお方でして」
「そうかいそうかい。けどよかったぜ、うずくまってる童を仁の奴が見
つけてな、わんわん泣くし、みんなでおろおろしちまった」
 お香は身を折って頭を下げ、夕べも訪ねてくれてお花を可愛がってく
れたと告げた。親方は堂々と笑い、仁吉の背中をバシンと叩いた。
「けど何だ、こりゃまたべっぴんさんじゃねえかっ、なあ仁よ」
「あ、親方・・そんなことをいま」
 それでもかまわず親方は、お香に面と向かって言うのだった。
「いえね、仁の奴にゃぁ、いい人なんていませんわ。ああ寂しい。これ
からもよろしくお頼みしてえぐれぇです・・ってか? あっはっは!」
「ちょちょ親方ぁ! ったく何を・・ああん、もうっ!」
 親方はそっくり返って大笑いし、仁吉をお香に向かって押しやって去
って行く。
 お香は真っ赤になってうつむいていた。このときお香は赤茶縞のよそ
行きの着物を着て、ほかの大工たちも横目にするほど目立っていた。

「よ、よかったら今宵も・・お花だって喜ぶだろうし」
 それだけ言ってお香は背を向け、駆け出した。


七話 朝靄の剣


「紀州がそれで手を引くのか・・」
 とお泉が言って、才蔵はちょっと眉を上げるも、うなずいた。
「赤城屋とのつながりなど隠せるものじゃねえからな。ゆえに赤城屋は
退散した。しかし俺が気にするのはそこじゃねえ。寺の秘密とは公儀が
外に対して隠しておきたいもの。そんなものを手にできれば紀州にとっ
てはまたとない攻め手となろう。しかるにやり方が手ぬるい。残された
女子供を相手に取り上げることもできただろうに、なぜそうしないのか」
「よもや知らないなんてことは?」
 才蔵は笑ってうなずく。
「それだな、おそらく。当初ここに目配り処をつくろうという話は公儀
の役人どもの間であったのだろう。昨年には正雪の乱もあり弛んだタガ
を締め直そう。しかしその程度のことは紀州に筒抜けよ。ゆえに先に奪
ってしまいたい」
「そしてその紀州の動きを知った殿上人が寺社奉行を動かした?」
「そういうことだ。こんなボロ寺、取り壊されるのは明白ゆえな。紀州
と言えば根来忍び。寺は見張られているとみるべきだ。そこで公儀とし
ては紀州を刺激せぬよう木っ端役人の動きをいっとき止めて、逆に上の
寺社奉行を動かした・・ってことなんだが、であるなら、寺に入った賊
は何者かってことになる。根来衆ではあるまいと、じつはそこを考えて
いたんだが、お泉の手柄で見当がついた」
「坊主どもってことだよね」
「盗まれたものは仏像、掛け軸、書箱そのほか和尚の持ち物。本堂も庫
裏も納屋も物色されているわりには探し方が腑に落ちん。忍びであれば
からくりなどは見抜くだろうし盗賊に見せかけるなら小判など持ち去る
はず。書き付けか、もしや錠前の鍵のようなものではなかったか」
「密書であるとか?」
「そういうことだ。世に出れば将軍家が危うくなるような。そして、そ
ういうものであるとしたら徳川の身内に対しても知られたくはねえだろ
うから下手にじたばたしたくない」

「探してみようか?」
 お泉は目を輝かせたが、才蔵はうなずくわけでもなく小首を傾げて微
笑むだけ。
「ここはやはりお香らふたりを甲斐に出そう。寺をたたむ素振りをする。
俺たちは何も知らない。あけっぴろげに片付けのフリをしたほうが勘ぐ
られまい。坊主どもは必ずまた来る」
 お泉が言った。
「次の住職を送り込んでしまえばいいものを」
「それができない訳あるのよ。よもや正雪の乱にかかわった者どもであ
れば追われているってこともある。坊主どもは十数人いたそうだが、お
そらく散っているだろうぜ」
 才蔵はこう考えた。
 この寺の和尚、竜星は、ずいぶん前にやってきた。その頃は伊豆とも
つなぎをとっていた。孤児たちを引き取るようになり、いつ頃からか謎
の女が金を届けるようになる。あるいは和尚が隠されたものを知ったが
ゆえに金が届くようになったのかと。

「出方をみるしかあるまい。お香らを逃がすのが先よ」

 その夜の明け方。薄靄にかすむ境内に青鞘を抜き放たれた白刃が舞っ
ていた。着物の上をはだけ、刃と語らう、舞いのごとき剣さばき。切っ
先が天に向けられ、半月を描くように斜め下に流れ下った剣先が、チャ
と鍔を鳴らして切り替えされて、次には横に半月を描く。
 着物をはだけた才蔵の腹は締まり、胸板は厚く、男にしては白い肌か
ら気迫が湯気となって揺らいでいた。
 わずかに開けられた本堂の板戸の隙間から、まだ寝間着姿のお香が板
戸になかば隠れるように見つめている。才蔵と出会ってよりはじめて見
る武者の姿。心地よい震えのような想いが衝き上げてくるのだった。

 シャァ!

 かすかな気合いが耳に届き、刹那、宙を十文字に切り裂くような白刃
の舞いを見せて、剣はチーンと鍔鳴りの音をさせて鞘におさまる。
 凜々しい姿とは思うものの、剣はやはり恐ろしい。身近にいてくれる
やさしい男ではあっても才蔵は武士なのだと、不思議に心地よい距離感
を悟るお香だった。
 剣をおさめて着物を正し、才蔵は本堂へと歩み寄る。お香が微笑んで
顔を見せた。
「おぅ、すまぬ、起こしちまったか?」
「いいえ、起きる刻限ですので。じつは夕べ」
「うむ?」
 本堂への踏み段に座る才蔵。お香が二段ほど降りて横に座った。
「十吾とよく話したんですけど、やはり一度ここを出ようかと」
「そう決めたのなら思うがままよ、十吾とて嬉しかろう?」
「そうなんです、才蔵さんから甲斐のことを聞いて、あの子はここしか
知りませんから違う土地へ行ってみたいってきかないんです。しばらく
出て、それでどうなるか。お寺への想いだけは忘れませんが、きらきら
してる十吾の目を見ていると、弟が喜ぶならいいかと思って」
「そうだな、それがよかろう。俺もそろそろ。根無し草に根が生えちま
う」
 お香がちょっと笑って立ち上がり、才蔵が言う。
「いずれ様子を見に行くぜ。江戸はもういい、俺には向かぬ」
 お香はひときわ笑って小走りに奥へと消えた。

 夜が明けて、メザシと汁、それに夕べの残りの野菜の炊き合わせで朝
餉をすませ、それから三人で寺の片付けにかかっていた。本堂や庫裏は
少しずつだが片付けは進んでいて、才蔵がいるうちに男手がなければで
きない納屋の始末をはじめていた。
「馬小屋だったようだな?」
「そう聞いたことがあります。昔は板屋根だったそうなんですが腐って
しまって、それでワラ葺きにして納屋にしたんだと。このへんはちょっ
と前まで畑や草原。馬がないと買い出しにもいけないところだったそう
なんです」
 寺と庫裏は高床続きであったが、庫裏の中の厨と厠(かわや・便所)、
そしてもちろん納屋の中は地べたにじかに建っている。かつて馬小屋だ
った納屋は思ったよりも広く、小屋の半分ほどを板で仕切って馬をつな
ぐ丸太が横にはしっている。残りの半分が土間であり、いまでは使われ
ていない農具のようなもの、板や棒の切れっ端、小さな童らに行水させ
た大きなタライ、ワラ縄の束、腐っていそうな馬の鞍まで、どれもこれ
も雪のような埃をかぶって置かれてあった。
「ここも荒らされてはいたんだろ?」
「はい少しは。けどこんなところを探ったってしょうがないと思ったの
か、そんなに手はつけてなかったようですよ」
「なるほど。まあそうだろうな、触るだけで痒くなりそうだぜ」
 とは言ったものの、だからこそ怪しいとも言える。

 ともあれ中のゴタ物を外に積み上げ中を空にしてみると、ますます納
屋は広くなる。馬一頭に馬具をおさめて、なおかつ納屋として使えそう
だ。畳にすれば八畳相当、もっとあるかと思われた。
 小さな十吾ひとりが宝探しのようなもの。はしゃぎ回って邪魔をして
いる。お香は手ぬぐいで姐さんかぶり、才蔵は着物をまくり上げてたす
き掛け。何かを持ち出して放り出すだけで煙のような埃が舞い上がる。
「うわっ、たまらん、俺には忍びは向かんと思い知る」
「なんでだよ」
 と十吾が言って、綿埃を投げつけて笑っている。
「屋根裏に潜むなどまっぴらごめんてことじゃねえか、あっはっは」

 しかし、そんな様子を坂下の草陰に潜んで見守る目のあることに、こ
のとき誰も気づかなかった。粗末な百姓姿の男がひとり。目の厳しいが
っしりした体つき。男はしばし様子を探り、にやと笑うと草陰へと消え
ていった。

 夕刻前まで片付けて、才蔵は十吾とふたり風呂の焚き口に火を入れる。
お香は姉さんかぶりを脱いではたき、もうもうと舞い上がる埃に顔をそ
むけながら笑う。
 そしてちょうどそんなとき、寺の前から、妙な若造が小さな娘を連れ
て上がってくる。
「ここかい?」
「うん、ここぉ!」
 小さな娘は五つかそこら。赤い花柄の着物を着せられ可愛い姿にされ
ていた。
「わあっ、お姉ちゃんだぁ! お姉ちゃぁん!」
「花? お花じゃないか! どうしておまえが・・」
 何だ何だと才蔵が立ち上がると、そばにいた十吾が口を尖らせて言う
のだった。
「お花ってぇんだ。歳は五つ。せっかく姉ちゃんが親を探してきたのに
よ、逃げてきたに決まってらぁ」

 そしてお花の手を引いた若い男が、駆け寄るお香に向かって声高に言
う。
「おい、どういうこってぃ! ずっと先の軒下にうずくまってるからよ、
訊いたらここだって言うじゃねえか。探し回って連れてきてやったんだ。
どういう了見か知らねえけどよ、こんな童を置き去りにしたってか!」
 落ち着き先を見つけてもらったまではよかったが、寂しくなって飛び
出した。小石川の料理屋だと言う。小石川といえば遠い、迷うのもしか
たがなかった。おそらく朝から歩き回っていたのだろう。

 事情を話すと男は落ち着いた。町人というより大工の若い衆か、それ
でもなければ魚屋のように、着物をまくり上げて尻まで出して、きっぷ
がいい。二十歳そこそこの若者だった。
「寺をたたむ? そんで里親を? こいつ孤児なんで?」
 お香に腰を低く謝られ、事情を聞くうちに若者は涙ぐんでしまってい
る。いかにも江戸っ子。胸のすく男である。
 可愛い姿をさせられたお花だったが、ここにいたいと言ってお香の胸
で泣きじゃくった。

 しかし参ったと才蔵は思う。これでまた甲斐行きがのびるだろう。童
が増えれば襲われたとき守りに困ることもある。
「やれやれ、根無し草に根が生える・・ちぇ」
 苦笑するしかない才蔵だった。
 お花を抱いて庫裏へと歩むお香と入れ替わりに、才蔵が歩み寄る。
「すまなかったな若いの、礼を言うぜ」
「お武家さんは?」
「見てのとおりで手伝いよ。ちょっとゆかりの者でな」
「へえ左様で。おら仁吉(じんきち)ってえもんで」
「仁吉か」
「へい、この先でお屋敷造ってますわ」
「すると大工?」
「左様で。十五んときからやって、いま二十二、これでもいっぱしなん
ですぜ」
 大工・・だとすればからくりに気づいてくれるかも。そう考えた才蔵
だった。
「俺は才蔵、よろしくな」
「とんでもありやせん、こちらこそってやつですぜ。けどよかった、材
木担いで外に出たら軒下で丸くなってやがって。迷子かとも思ったんす
が放っとけなくて」
「恩人だな、ありがとよ」
「あ、じゃあおらはこれで、仕事がありますんで」
「おぅ、よければ飯でも食いに来い、お花も喜ぶだろう」
「左様ですかね?」
「喜ぶさ。お香さんにしたって手を合わせてるに決まってる」
 若者はこくりこくりとうなずいて、頭を下げて帰って行った。


六話 かすむ庭園


 そしてちょうどその頃。

 江戸を遠く離れた緑の中に、山寺にしては見事な造作の寺があった。
 境内へと続く門の前には作務衣を着た寺男のようなふたりが竹箒で門
前を掃いていたが、ふたりともに目配りに隙がなく、明らかに武士か忍
びかと思われる。
 そんな寺の深み。空を厚い雲が覆い尽くし、詫びた庭の木々さえもう
っすらと靄がつつんでいる。庭を囲む木々は濃く、中にいては外界を見
渡すことはかなわなかった。

「ふっ・・紀州のぅ」

 かすむ景色を見つめながら、法衣をまとい白い尼頭巾をかぶった姿の
ほどよく老いた女性(にょしょう)がつぶやいた。
 そしてその傍らに、歳の頃なら四十代かと思われる、これもまた明ら
かに身分のある女が控えている。派手さのない着物ではあるが、見事に
結い上げた黒髪といい、並の者なら臆するほどの女である。
 控える女が静かに言った。
「そればかりではござりませぬ、得体の知れぬ者どもも暗躍するよし」
 尼僧姿の女性が、庭を見つめたままかすかにうなずき、そして言った。
「守らねばならぬ。こそこそせず表立って寺社奉行を動かすがよかろう
ぞ。こちらが正面切って動けば紀州ごとき手は出せぬ。あのようなもの
が世に知れれば一大事よ。どこぞへ動かすにせよ、すぐにというわけに
もいかぬゆえな」
「かしこまりましてございます。しかし桂昌院様、得体の知れぬ者ども
はいかにいたしましょうぞ?」
「そこじゃな。寺を押さえるまではよしとしてもじゃ、身内であっても
知られてはならぬこと。相手が何者であるかじゃが、さてどうしたもの
かのぅ」

「かしこまりました、ちと思案してみますで」
「うむ、そうせよ。良きにはからえとしか言えぬわ。されどそのとき、
寺におるという童らには決して累がおよばぬよう。なんぞあって村人ど
もに注視されてもよろしくないゆえ」
「あ、はい、それは重々心得ておりますれば」
「そっとそのまま続くのなら、それもまたよかろうに・・」
 尼姿の女性はそれきり口を開かず、ますます濃くかすんでいく庭の木
々を見渡していた。

 おそば付きの女が桂昌院と呼んだ。
 桂昌院は先代将軍家光の側室であり、五代将軍綱吉の生母である。家
光亡き後、筑波の山に身を退いてひっそりと暮らしていた。

 翌々日の草源寺。
 二日ほども続いた雨もようやくあがり、寺では戸という戸をすべて開
け放って風を入れた。寺は本堂から続く庫裏まですべてが高床で、地下
に何かを造れるものではなかった。覗き込んでも土があるだけ。傾斜の
せいか、これほど雨が続いても縁の下の土は乾いたままだ。
 お香の旅立ちの支度も整って、いつ出てもいいというところまで中は
整理されている。

 昼前のことだった。お香が厨で昼餉をつくり、才蔵は元気な十吾と庭
で遊ぶ、そんなとき・・。
 商家の番頭ふうの小柄な男が手下らしき者どもを三人連れてやってく
る。寺に若侍がいることで、男たちはちょっとたじろぎ、しかし逆に手
下どもは肩を怒らせ踏み込んで来たのだった。
 十吾が男どもを睨みつけ、小声で才蔵に言う。
「赤城屋だよ」
「うむ、わかった。おまえは中へ、ほれ行け」
 と言って才蔵は十吾の尻を叩き、お香の元へと追いやった。走り去る
十吾を見送って、才蔵はわずかな微笑みをつくって男どもを振り向いた。
「赤城屋の番頭でございますが、失礼ながらあなた様は?」
 番頭は腰が低い。しかし傍らの手下三人は目つきが厳しい。
「ふっふっふ、絵に描いたような脅しだな」
『やかましいサンピン』と背後の手下が言ったが、番頭が手をかざして
遮った。才蔵が言う。
「和尚とちょっと縁があってな。寺をたたむってことで支度を手伝って
いるだけだが、いけなかったか?」

 番頭はちょっと笑って言った。
「ではいよいよ? 立ち退いていただけるってことですね?」
「そのつもりだ。しかしてめえらに指図されることじゃねえ、とっとと
失せろ。どこぞのお屋敷に駆け込んで報告するこった」
 手下の三人はいまにも飛びかからんばかりだったが、番頭が間に入っ
て制している。
 そしてちょうどそんなとき、左右に二本、丸太を立てた門の下から奉
行所の羽織を来た身なりのいい侍がふたり、境内へと踏み込んで来たの
である。

「おや? 取り込み中と見えるが?」
 才蔵は眉を上げてちょっと横に首を振った。
 赤城屋の面々は何事かと一歩退いて見つめている。
 役人は、一人が上役で歳上、一人が若者。その上役がちょっと笑って
言う。
「寺社奉行からのお達しでな。そちは寺の者か?」
 才蔵は先ほどと同じように寺をたたむ片付けを手伝っていると言った。
「左様か、まあよいわ。さっそくだが、この寺のことだが」
「どうしろと?」
「たったいまから御公儀の支配とする。継ぐ者のない寺ゆえ、今後は我
らが取り仕切っていくと決まった」
「何かをお造りに?」
「いや、そのへん拙者にはわからぬが、このままならそれでもよいとい
うことだ。聞けば身寄りのない童らを世話しておるとか。そういったも
のは欠かせぬゆえな。住職のことはまた考えるとして、いまのままなら
それでもよいということだ」
「それでは今後、御公儀で支配なさるというだけで?」
「いかにも左様。ゆえに今後は我らも巡回して見守るゆえ不穏でもあら
ば申すがよいぞ」

 才蔵はにやりと笑い、突然のことに突っ立つ赤城屋どもに横目をなげ
た。
「しかし、たったいまそこの赤城屋と申す者どもが百両で譲れと言って
まいったところ」
「何? 百両で?」
 小柄な番頭は青ざめた面色で即座に割って入った。
「あ、いやいや、わたくしどもはあくまで商いでございまして。ご公儀
でそうお決めになられたのなら、わたしくどもは結構でございます」
 赤城屋の四人は泡を食って飛び出していった。もはやどうにもならな
い。即刻紀州屋敷へ報告に走ったことだろう。

 いつの間にか才蔵の背後にお香と十吾が並んで立って聞いている。役
人はもちろん気づき、お香に向かっても言うのだった。
「そなたも寺の?」
「はい、左様でございます、あたしはここで育ち、いまでは童の世話も
して」
「そうか。そなたもいま聞いたとおりだ。立ち退くならそれもよし、い
まのままならそれもよし。身寄りのない童どもを世話するなど我らとし
ても感心するのみ。住職のことなど、あらためて手配してやってもよい
のだが、今日のところはそれだけだ。ではな」
 公儀らしい堂々とした言い回し。寺社奉行配下を示す黒い羽織りも本
物とみてよかっただろう。
 役人ふたりを見送って、才蔵は振り向き、そのとき涙を溜めていたお
香に言った。
「これで赤城屋もニセ役人も手は出せねえ。お香さんの思うようにすり
ゃぁいいのよ。甲斐に行くならそれもよし。しばらく山の空気を吸って
戻るならそれもよしさ」
「はい」
「よかったな」
「はい!」
 十吾ははしゃぎ、その十吾をしっかり抱いてお香は泣いた。

 しかし、その夜。寝静まる刻限となって本堂に忍ぶ女の影。
「何? 寺がない? もぬけの殻だと?」
「聞けば昨年のほら」
「正雪の乱か?」
「そのときを境に十数人いた坊さんどもが消えたって。日々木刀の音が
聞こえ、境内には弓の的もあったそうだから僧兵の集まりと思っていい
だろうね」
「やはりな。して竜星なるこの寺の和尚とのつながりは?」
「そこまではわからない。わからないけど、ここの和尚が林景寺を出た
のはいつ頃なのか。林景寺はもともと家康ゆかりの寺らしいよ。後にな
って忠長も参拝に訪れたってことだけど、いつの頃からか僧侶の顔ぶれ
が少し変わったって地元の者が」
「坊主どもが入れ代わった?」
「皆ではないらしいけどね、地元の者はそう言っていた。伊豆の山の中
で樵たちの部落の中にある。あたしはその部落の長老に訊いたんだけど」

 消えかけた不穏が、にわかに黒い影となって漂いはじめた。
 才蔵は昼にあったことを泉に告げて、考え込む素振りをした。
「ううむ、釈然としねえ。お上が仕切ると言っておきながら、どうなり
と好きにせよ。要り用な金はくれてやる。それに赤城屋もあっさり引き
下がる」
「相当な力が動いてるね?」
「寺社奉行をたやすく動かせる誰か。さらにだ、この寺で長い歳月隠し
おおせた何かを、いまさら掘ってどうするといったやり口」
「並の秘密じゃない?」
「そういうことかも知れぬな。和尚が死ねば知る者はない。そうふんで
金だけ与えて暮らさせる。役人どもが出入りすりゃ、それも盾となるだ
ろう。いずれ頃合いをみて持ち去ればいいだけの話。思案するほど寒気
がしてきやがるぜ」

 そしてしばらく声が途絶えた。


五話 輝く小判


 闇の中に雨音が忍び込む。雨の夜は雲が厚く月も星もないところから、
寺の本堂は暗く沈んで音もない。その分雨音が響くのかも知れなかった。
 才蔵がうとうととしはじめる頃になり、雨はばらばらと叩きつけるひ
どい降りへと変わっていった。眠りに落ちる寸前の乱れ雨は意識を引き
戻して目が冴える。
 奥の庫裏から続く板廊下がかすかな軋みを伝えたのはそんなとき。廊
下と本堂の板床は縁の下の同じ骨が支えているから伝わるのだろう。
「才蔵さん」
「おぅ、どうした?」
「雨がひどくて眠れなくて。もうお休みですよね?」
「いいや俺もさ。嵐のごとき降りだな」
「ちょっと入っていいですか? お話が」
「かまわんよ」
 本堂には襖などはなく、庫裏へと入るところに片引きの襖がある。す
ーっと音もなく開いて蝋燭の明かりが漏れ出し、お香がそばへと歩み寄
る。そしてそのとき本堂の小窓越しに空がパッと明るくなった。ほどな
くして遠くでわずかな雷鳴。
 お香は地味な灰色の寝間着の姿。雨は南風が運んだようで寺の中は蒸
していた。

「ちょっとご一緒に。見せたいものがあるんです」
 そう言うとお香は庫裏へと引き返すように背を向けた。才蔵は夜具を
抜けて立ち上がり、そんなお香の後を追う。
 厨。そこにはすでに別の蝋燭の明かりがあった。土間の真ん中あたり
に石盤でこしらえた流しがあり、その向こうに棚。同じような大きさの
カメがいくつも並んでいる。
 お香は棚の下からそんなカメのひとつを重そうに取り上げた。蓋のあ
る焼き物で、焼き模様の黒が茶色の粘土に混じるもの。
「これなんですけど」
 蓋を取ると、小ぶりのカメの中ほどまでに光り輝く小判が無造作に入
れてある。
「ほう小判か。謎の女が持ち込むという?」
「そうです。これだけで五十両はあると思いますが、ここから小出しに
使ってますから」
「二月に一度だったな?」
「はい。そのたびに十両とか、子らがたくさんいたときにはもっとたく
さん。お寺ですから質素にしていると余ってしまって」
「うむ。どこの誰なのかだな」
「そうなんですよ。こうしてもらっておきながらあたしたちだけが甲斐
に行くなんて、そんなことでいいのかなって思うんです。これをどうし
ようかと」
「ちょっと見てもいいか?」
「もちろんです、どうぞ」

 カメに手を入れて数両の小判を取り上げ、才蔵はすぐにあることに気
づいていた。どれもが封を切られたばかりの新しいものばかり。小判と
いうもの、銅銭よりも柔らかく使えば傷もつくし角もすり減る。これら
の小判はどれもが造られたばかりの新しいもの。こういうものを手にで
きる輩は限られるものである。
「持ち込む女はいつも決まって同じなのか?」
「はい、いつも決まって。お歳はそうですね四十前ほどかと。言葉遣い
も丁寧ですし、明らかにお武家様、それも並のお方ではないかと。風の
ように歩まれますし」
 才蔵はうなずいて小判をそっとカメに戻した。
「そう思うぜ、並の相手じゃねえだろうな。小判を見ればわかるもんだ」
「そうですか? どこがどう?」
「どれもが造られてすぐの使われる前のものばかり。傷もなければ手垢
ひとつついてねえ」
 お香はハッとしたようにカメの中を覗き込む。
「ああ、そうですね、綺麗なものばかりです」

「こんな刻限に話すついでに、訊きたいことがあるんだが」
「はい、あたしならかまいませんけど」
 それでふたたび本堂へと戻り、才蔵は夜具に座り、お香は座布団を敷
いて正座で座る。両手を膝にのせて才蔵と向き合った。
「まずは和尚の生前だ。おまえさんは一度出て、戻り、ふたたび出たそ
うだが、おまえさんの知る限り、寺に妙な輩は出入りしてなかったか?
侍だとか僧侶だとか、あるいは妙な女だとか?」
「いいえ、そんなことは一度も。外の方をお泊めしたこともありません
し、怪しい感じの人は見たこともありませんが」
「訪ねて来る者どもは?」
「まったくなかったわけではありませんが、ほとんどが町人か、ここら
の村人ばかりでしたし、心当たりのようなものもありませんね」

 外とのつなぎという意味で訊いたのだったが、童らを欺くぐらいはた
やすいことだし、密談があるのなら和尚の方から外に出ればいいだけの
こと。

「次に和尚が死んだときのことだが、はじめに来た役人どもは、どこか
ら来たと言っていた? 寺社奉行とか、そういうことさ」
「いえ何も。お上の御用で参ったのだがと、お武家様がおふたりで」
「立ち退けと言ったんだろう?」
「そうですけど、継ぐ者がない寺ならそうしてほしいと。御用のため造
りたいものもあるしとおっしゃられ」
「目配り処とは言わなかったのか?」
「そうですね、言われてみればそのときは。御用向きで造りたいものも
あることだし、暮らしには困らぬようにしてやるとも」

 公儀の手であれば下々の者に対して目配り処などと目的は明かさない。
最初の者どもは公儀の配下とみていいだろうが、それにしては手ぬるい
言い方。金と引き替えに立ち退けと命じてもいいはずだ。

「そしてまた別の役人どもがやってきた?」
「そうなんです、数日してからだったでしょうか。先のおふたりとはな
んとなく感じが違って、妙にくだけてと言うのか、立ち退いてくれると
嬉しいのだが。五十両で不足なら百両出してやってもいいんだぞって」
「額まで言ったか?」
「はい、そのときはじめて金額を」
「なるほど。そして間を置かず赤城屋の者たちがやってきた?」
「そうです。何度もみえて、強情張るとろくなことにはならないよって、
やんわりと」
「うむ。でその次、またしても侍が?」
「はい、やっぱり数日してからで、お金の他に望みでもあるなら言って
みろと猫撫で声で」
「それで? お香さんはどう言った?」
「しつこくされても、いますぐにはダメです、子らのことが片づいたら
言われなくても出て行きますからって。お金なんていりませんとも言っ
てやったし」

 次に現れた侍どもは紀州の藩士とみていいだろう。赤城屋と結託して
追い出しにかかっている。時の問題で明け渡すつもりでいると知って、
だから執拗には迫ってこない。

「そしてまた先の役人どもか?」
「いいえ、そう言われると最初のおふたりはそのときだけだったような
気がします。それからは赤城屋と交互ですから」
 才蔵は首を傾げた。それもまた妙な話だ。

 とすると公儀が動いたのは一度きり? それはなぜなか? 目配り処
は早くできるに越したことはないはずだ。
 公儀としても忍びを放ち、紀州の動きぐらいは筒抜けになってしかる
べき。そうなるとなおのこと先手を打とうとするはずだ。

 そこで考えられることはひとつ。この寺に金を届けさせる何者かが城
中にいて、公儀の動きを止めた。役人を止めることができる上役である
ということで、もしや大奥・・飛躍して考えると辻褄は合うのだが、で
は紀州の味方だというのだろうか? それも違うだろう。追い立てたい
なら大金を届けたりはしないはずだ。

「それと、もうひとつ」
「あ、はい?」
「和尚が亡くなって伊豆の寺の者がやってきたそうだが、その者どもは
ここをどうしろとは言わなかったか? 次の住職を置くとか、そういう
ことも?」
「いいえ、そうしたことは一切。お経をあげて戻っていかれただけです
し、そのときもあたしは、子らの行く末さえ決まればここを出ますって
言いましたし」
「年寄り一人と若い坊主がふたりだったそうだな? 三人とも法衣だっ
たか? 林景寺から来たと言ったのか?」
「もちろんそれは。三人とも法衣でしたし林景寺の者だとはっきり。で
も若いふたりがちょっと。目つきが良くなかったし、きょろきょろ見回
していましたし。うまく言えませんけど怖い感じがしたんです」

 ここは家康以前から続く寺。和尚は寺を守れと言った。寺に秘密があ
るのなら同門の僧侶なら知っていてもおかしくないし、まして駿河とつ
ながる者どもであるなら見捨てるようなことをするだろうか。
 年寄りはともかくも若いふたりは僧侶なのかどうなのか。化けている
だけということもあるだろうが、はっきり寺の名を口にしている。僧兵
と考えると辻褄は合ってくる。

 もやもやとだが、からくりが見えはじめた。公儀の中にふたつの異な
る力。紀州と赤城屋の結託。さらに駿河の何者かの動きも見える。
 残るは、この寺に隠された何か。忍びどもでさえ見つけられなかった
何か。必ずどこかに隠されているはずだ。

 才蔵は微笑んで言った。
「小判はそっくりいただきよ。十吾とふたり、要り用なこともあるだろ
う」
「そうですか? 持って出ていいものやらと?」
「かまわんさ、相手はただ者じゃねえ、はした金を返せとは言わねえだ
ろうぜ」
 お香はほっとしたように肩の力を抜いて言う。
「できればずっとここでと考えたんですが、あの子とふたりの暮らしを
つくっていく方があの子のためなのかなって。でも寂しい。ここで育っ
た昔のことが忘れられるのかなって思うんです」
 才蔵はうなずいた。
「まあ、今生の別れじゃあるめぇよ、とりあえず出てみることだ。十吾
の思いもあるだろうし、今度のことが片付いてそれでも寺があるような
ら戻ってくればいい話。いまはまず身のためを考えねえと。童を巻き込
むことになる」
「そうですね、明日から支度をはじめます。才蔵さんもそうしてくださ
い、あたしらがいなくなったらここいることもないでしょうし」
「わかった、そうしな。一筆書いてやるから持っていけばいい。やさし
い村だ。江戸なんぞとはまるで違う」

 笑って立ち上がったお香に才蔵は言った。
「それからな、もしも俺のことを訊かれたら、和尚の知り合いの者が
寺をたたむ支度に来ていると言えばいい。いずれにしろ寺を空けると
なりゃぁ、相手だって手は出さねえ」
 お香は安心したようで、ちょっと膝を折って頭を下げ、奥へと戻っ
て行った。

 お香と話せたことで降りしきる雨の音が気にならなくなっていた。
翌日も雨は降り続き、寺には穏やかな時が流れていた。


四話 糸口なのか


 お香と十吾が揃って買い出しから戻ったのは、その少し後の刻限だっ
た。そのとき寺に泉の姿はすでになく、才蔵一人で乳飲み子の守をして
いた。守といっても要領を得ず、泣いていてもただ見守っているしかな
い。こういうとき男はおろおろするだけで使えない。

 戻ってみるとこんなことになっている。童らの里親探しに奔走してよ
うやくここまでこぎ着けたお香、とりわけ同じような境遇だった十吾が
どう感じるのか、才蔵はそこを気にした。
 ところが。
「あらら可愛らしいねー、ほいほい、可愛らしいねー。おしめだよねー、
ちょいとお待ちよ、いまさっぱりさせてあげるからねー」
 お香は才蔵の思いなど意に介さず、紅葉のように小さな手をバタつか
せる乳飲み子に心を奪われ、それは母そのものの接し方。
「十吾、お光さんのところへ走っておくれ。もらい乳できるお人を探し
てくれるよう言うんだよ」
「うんっ!」
 駆け出す十吾の小さな背中を声で追う。
「あ、それからおしめも! おしめ! 支度してって!」
「わかったよ!」

「お光さんとは?」
「産婆さんです、すぐ近くだから」
「なるほど。はぁぁ参った、どうしていいやらわからんし」
 お香は笑いながら、とにかくまずあり合わせの晒し布をおしめ代わり
に替えてやり、それですっきりしたのか赤子は泣きやんで笑っている。
女の子。目のぱっちりした愛らしい顔。
「ほうら笑ったぁ。だぁ、だぁ、ふっふっふ、可愛らしいねー」
 慈愛に満ちた母の面色で赤子をあやすお香を見ていて、女とはすごい
ものだと才蔵は心が揺れた。
 赤子を抱き上げながらお香が言った。
「こういうことがよくあったそうなんですよ、昔は多かったらしいから。
ふふふ、こんなもんです、ここがなくなると、この子らはどうなるんだ
ろうって考えたりもしますしね。十吾だってどうなっていたことやら」
「うむ、わかるがしかし、あと一息だったのにな」
「ううん、この子は大丈夫。十町ほど(およそ1km)先に尼寺がありま
すから、女の子だし、そこへ連れて行こうかと。和尚さんのいない寺で
はいずれにしろ面倒をみるわけにもいきませんし」
「尼寺か、引き取ってくれればいいが」
「きっと大丈夫。鐘風院(しょうふういん)というお寺ですけどね、そ
こでもこういう子らの面倒をみておいでで、ウチの和尚さんとも行き来
のあったお寺だもん。ここにいるよりずっといい。ふふふ、ほら笑った。
可愛らしいなぁ」

 ほどなく十吾が駆け込んでくる。
「姉ちゃん、いいって。すぐにでも連れておいでって。もらい乳できる
人もいるってさ」
「そうかい、ありがとね」
 お香もまだ二十四、五のはずなのだが、慣れた手つきで赤子を胸にす
っぽりくるむようにして小走りに出て行った。
 十吾は見送っただけで寺に残る。才蔵は小さく細い肩を抱いてやった。
「おいらもきっと、ああだったんだ」
 つぶやくように小声で言い、十吾は唇をむっと結んで、歩いて行くお
香の姿を追っている。
「ああしてお香に抱かれてな」
「いや、おいらんときは姉ちゃんじゃなかったよ」
「どういうことだ?」
「姉ちゃんいま二十四だ。姉ちゃんは十四のときに奉公に出たんだよ。
おいらは九つなんだから」
「そうか、なるほど、十四で奉公にな?」
「和尚さんが探してきてな、品川あたりの呉服屋なんだそうだけど、親
代わりになって面倒みるからってことでさ」
「うむ」
「けどさ、そこの大旦那さんが死んじまって、ふたりいた息子らが継い
でからおかしくなった。そんとき姉ちゃんは十九か、そんくらいだった
んだけど、兄弟で取り合いになったんだって。言い寄られて困ったらし
いよ。それでそのお店を飛び出して、いっぺんここに戻ったんだけど、
それからまた内藤新宿の先の旅籠で働いたんだ」
「そんな矢先、和尚さんが亡くなった?」
「そういうこった。その旅籠でもいろいろあったらしいんだ、縁談とか
さ」
「まあ、そうだろうな、年頃なんだから」
「うん。姉ちゃんだっていろいろ考えてたらしいんだけど、和尚さんが
こんなことになっちまって、おいらたちのことを放っとけないって」
「いい人だ、救われたな」
「そうだよ。だからおいら、ずっと姉ちゃんといたいんだけど、でもさ
ぁ」
「でも?」
「邪魔だろ、おいらなんて。一緒にいたいって言っても、それはダメだ
って言うんだよ」

 お香は十吾の先々を思って言っている。お香とすれば辛いだろうと才
蔵は考えた。十吾は賢いし強い子だが、それにしたって九つでは幼すぎ
る。
「尼寺でも童らの面倒をみているそうだな」
「うん、いっぱいいるよ」
「いっぱい? そんなにか?」
「尼寺だから娘っ子ばっかだけど、いま五人ほどだって。ここにはもっ
とたくさんいて、多いときには七人とかさ」
 その暮らし向きを支えていたのが、時折金を届けにやってくる謎の女。
そうまでしてこの寺を守る理由とは何なのか。
「ときに十吾、和尚って人は伊豆あたりの寺で修行した坊さんなんだっ
て?」
「みたいだね。よくは知らんけど、そこで武芸の修行もしたって言って
たよ」
「ほほう武芸を?」
 才蔵の面色が変化した。
「棒とかさ、弓も引いたって」
「うむ、棒や弓をな。おまえも習ったのか?」
「ううん、ちょっと話してくれただけ」
 そう言えば住職の名も知らない。
「ときに和尚の名は?」
「竜星って言うんだよ、竜星和尚さ」
「りゅうせい和尚?」
「りゅうは昇る竜だし、せいは星さ。坊さんなのに勇ましい名だろ?」
「そうだな勇ましい。いくつで死んだ?」
「六十三だか四だか。そんときだって坊さんが三人やってきてさ」
「伊豆からか?」
「そうみたい。年寄り一人と若い坊さんがふたり。若いのはがっしりし
てて、ちょっと怖かったもん」

 もしや僧兵? 考えられることだと才蔵は思った。
 伊豆と言えば駿河とのつながりも深いだろうし、かつて家康が居城と
したのも駿府である。
 さらにまた、その後そこには先代将軍家光の実弟、忠長がいて、家光
との世継ぎ争いに敗れた忠長は、駿河大納言としていっときその地を治
めるも、後に乱心を理由に家光によって自刃に追い込まれているのであ
る。
 この寺は家康以前から続くという。であるなら、あるいはそのへんに
端を発する何かがあるのではないか。和尚という男がかつて忠長配下の
僧兵であったとしたら・・。
 そのへんだと才蔵は考えた。

 そしてふと境内を見渡した才蔵は、ふたたび十吾に問うた。
「しかし何だな、寺にしては墓がねえが?」
 十吾は、いっちょまえに右手の親指を立てて寺の裏を指差した。
「裏の林にちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「林って言っても山じゃねえし、お墓もそうはねえんだよ」
「ふうむ、そうなのか。寺に賊が入ったとき墓はどうだった? 荒らさ
れたりしたのか?」
「ううん、ぜんぜん。ここらの村の人のお墓ばっかりなんだし、丸い石
を置いただけだったりするし。荒らされたりはされてなかったようだけ
ど」
 寺に秘密があるならば見落とすはずもないところ。それも妙だと才蔵
は考えた。

 一刻(いっとき・およそ二時間)ほどして、赤子を抱いて出たお香が
手ぶらになって戻って来た。才蔵の顔を見るなりちょっと笑ってうなず
いて、それから十吾を後ろから抱き締める。
「赤ん坊は尼寺でみてくれます」
「そうか、よかったな」
「いまのあたしらじゃとてもとても。庵主様もこちらの事情はご存じで
すし、一目見るなり観音様みたいに笑っていらした。それであたしも考
えたんだ、この子のこと」
 後ろから抱いてやって小さな体を揺すりながら、お香は笑う。
「あたしだってここで育った。十吾は弟。この子と暮らすことを考えよ
うかなって」
「わあっ、ほんと姉ちゃん」
「いまの子見てても思ったんです。乳飲み子ならともかくも十吾ぐらい
になってから離れるなんて厄介払いみたいなもんだと。いい子なんだし、
あたしは姉ちゃんでいなければって」
 十吾の目に涙があふれ、振り向いてしがみつく姿を見ていると、よか
ったと胸を撫でる想いがする。
「この子を連れてどこか知らない土地に行こうかなって。和尚さんには
悪いけど、この子にだって怖い思いはさせたくないし」
 そう言って、しがみつく十吾の涙を拭ってやるお香。気楽に暮らせる
なら何よりだ。

「甲斐ではどうだ?」
 才蔵が言うとお香は顔を上げ、十吾は振り向いて濡れた目を向けた。
「俺は流れ者よ。いつだったか、その山里の庄屋の家に世話になったこ
とがあってな。俺の名を出しゃあ悪いようにはしないと思うぜ」
「山里なんだね?」と十吾が訊いて、そのときお香はきらきらと輝く眸
をして才蔵を見た。
「ああ山里だ、見事な景色だったっけ。村人も大勢いるし、やさしい人
らばっかりでな。そこにも小さな寺があって、その和尚も人の好い爺さ
んだったよ」
「行ってみたい、ねえ姉ちゃん、行ってみようよ、ねえ」
 このとき才蔵は、このふたりを早くここから離しておきたいと考えて
いた。ここは狙われている。いずれ白刃の舞うときがこないとも限らな
い。

 その日の深夜。十吾もお香も床についた刻限となって、本堂に忍び込
む女の気配があった。お泉である。町女のいでたちで脚絆を巻いた先ほ
どの姿のまま。
「赤城屋と言う材木商は思ったとおり紀州の手」
「やはりな。こんなところに目配り処なんぞつくられてはたまらない。
そんなところだろうぜ」
「そこまではわからないけど、だとすると忍びは根来」
「うむ、だろうな、気にはしておく」
「いまのところ、知れたのはそこまでで」
「それで充分、ご苦労だった。してお泉よ、ご苦労だが伊豆の山奥にあ
るとかいう林景寺(りんけいじ)をあたってみてくれねえか。どうやら
僧兵の集まりらしいんだ」
 僧兵と聞いてお泉の眼が厳しくなった。
「伊豆なら駿河?」
「そういうこった。おそらくつながりがあるだろう。駿河と言やぁ由井
正雪(慶安の変)のことがあったばかり。家康と秀忠(二代将軍)の確
執、家光と忠長の世継ぎ騒動と、駿河と江戸には火種がくすぶる」
「わかった探ってみる。あーあ、姉様の気持ちがよくわかる。なんでこ
うなっちまうのか」
「ふっふっふ、すまぬな、これも性分、しかたがねえのさ」
 お泉が言った。
「誰か呼ぼうか? あたしだけじゃ不足だろ?」
「いや、それはいい。おめえも深入りするな」
「よく言うよね、深入りしてるさ、もう充分・・ふふふ」
 薄闇の中の気配は風のように失せていた。

 赤城屋と紀州がつながっていた。紀州の藩邸はここからそう遠くなく、
すなわちお抱え忍びの根来衆が散っていると思わなければならないだろ
う。
 他方、公儀はこの地に目配り処をつくって、その紀州一派を見張ろう
としている。紀州としては当然面白くない。しかし、であるならなおの
こと公儀は公儀の威光でこんな寺など奪えるはず。しかるにそうはして
いない。威光を振りかざせない何かがあるのか?
 紀州としても、将軍家のお膝元で手荒なことはできないだろう。赤城
屋と、おそらくは役人に化けた配下の者をうまく使ってやんわりとぶん
どりたい。

 それにしても和尚はなぜ寺を守れと言ったのか。伊豆の寺から次の住
職を送り込めばいいものを。
 それとやはり、こんなボロ寺を物色する意味がどこにあるのか。考え
るほど結局そこに戻ってしまう。

「・・わからん」

 ぼそりと呟いて才蔵は目を閉じた。お香と十吾を早く出さないと危う
いと、それだけを考えた。


三話 影の女


 そして翌朝。

 空が崩れる予兆のような風はあったが雲はまばらで陽射しは注ぐ。
 才蔵は寺に一夜のはずであったが、才蔵みずから出て行くとは言わず、
お香もまたどうするとも訊かなかった。
 軽い昼餉を済ませてから、お香は十吾を伴って買い出しに出て行った。
才蔵だけが寺に残り、やることなどもとよりなくて、夕刻のために薪で
も割っておこうとしたのだったが、寺を出た二人が充分離れる頃合いを
見計らったかのように一人の女が訪ねてきた。

 その女は身の丈、五尺六寸ほど(およそ170センチ)と女としては
背が高く、細身で涼しい顔立ちだった。歳の頃なら二十七、八。黒髪を
町女そのままに結ってはいたが目配りにも隙がない。灰色がかった地味
な着物に晒しの脚絆を巻いた旅姿。手には編み笠と白い杖を持っている。
 そのとき才蔵は本堂下の踏み段に座って空を見ていた。こんなところ
で足止めをくらうなどとは思っていない面色で。
「あのう、もし」
「うむ、あいにくといま・・」
 しずしずと歩み寄る女に、才蔵はそう言いかけたものの、互いに見透
かし合う仲におかしくなって頭を掻いた。
「ついに化けの皮が剥がれたか。おまえだな、ずっと俺を尾けてやがっ
た」
 女はわずかに眉を上げて、浅く膝を折って頭を下げる。
「楓はどうした? その代わりか?」
「姉様は母様が亡くなられ」
 才蔵の面色が真顔に変わった。
「そうか母者が・・それで里に?」
「左様でございます。それで誠士郎様のおそばにはわたくしが」
 才蔵は、ちょっと睨む目つきで笑い、寺男が客を迎えるように本堂へ
と女を導いてやったのだった。見張られているやも知れない。少し話し
て中へと引き込む。それが客人に対する自然な扱いだっただろう。

 閉ざされていた板戸を開けて本堂に上げると、静かに板戸を閉ざし、
座るように目配せしながら才蔵は言う。
「その名を二度と口にするな。俺は流れ者の才蔵さ、他の誰様でもねえ
んだよ」
 女はくすりと笑ってうなずいた。
「紅矢(あかや)の泉(せん)と申します」
「セン?」
「泉と書いて」
「なるほど泉でセンか。しかしお泉ではちと笑うな。湯のごとき名じゃ
ねえか」それで才蔵はわずかに笑うも、ため息をつき、「ったく、いつ
までつきまとわせるつもりなのやら。母者にも困ったものよ」と、座っ
て見上げる泉に向かって小首を傾げて笑うのだった。
「楓の指示でか?」
「いえ、そうではありません。あたしは紅矢の頭、辰平太(たつのへい
た)の娘です」
 とそう聞いて、才蔵は目を見開いた。楓など配下のくノ一にすぎない
身分。この娘が格上だ。

「ほほう、頭の娘と? これはまた笑えるな、頭がわざわざ俺のために
よこしたか?」
 泉はちょっと苦笑した。
「いいえ、それも違います。あたしなんて、はぐれ者。生来男が大っ嫌
いで、その上侍どもが大嫌い。とても一族の中にはいられないと家を出
てはいたんですが、姉様の母様にはそれは可愛がっていただいた。知ら
せを聞いて戻ってみると、どうせ出ておるならおまえが行けと頭に言わ
れて」
「ふっふっふ、なるほどな、厄介払いというわけだ? 正々堂々と抜け
忍でいられることでもあるし」
「まったくです。姉様にも頼むと言われてしぶしぶ参ったというわけで」
「しぶしぶかい? ふっふっふ、ますますいいや、似た者同士ってこと
じゃねえか。ま、よろしく頼むぜ、お泉さんよ」
 泉は、なかば拗ねたように横を向いてちょっと笑い、真顔に戻った。
鼻筋の通った氷のような顔立ち。長身で細身。白木の杖はもちろん仕込
みで、この女なら刀も使えるだろうと思い描けた。

 紅矢衆(あかやしゅう)は、かつて加賀の前田家に仕えた忍びの一族
であったのだが、もともとは加賀と越中を隔てる白山系に生きる狩猟の
民。狩りに用いる特有の赤い矢羽根の弓矢から『紅矢衆』と呼ばれ、獣
を捕るときに仕掛ける巧みな罠が野戦に使えるということで前田家に取
り立てられた一族だった。山の民は山賊どもとも戦わなければならず、
剣でも強い。

 しかしその後、豊臣から徳川へと世は移ろい、外様大名ゆえの注視を
逃れるために前田家を放逐されて、それ以降、若狭国小浜に移り住んで
いまに至る。剣もさることながら弓では右に出る者がないと言われるほ
どの忍びの一族だったのだ。

 若狭国小浜と言えば、徳川家大老、酒井忠勝が領地。その小浜藩の家
老職にある佐々貞親(さっささだちか)が三男こそが、誠士郎すなわち
才蔵その人だった。
 才蔵には兄がふたりいたのだったが、才蔵一人が母が違う。ゆえに家
督相続の争いなどは蚊帳の外。そんなこんなでいまから五年ほど前に才
蔵は家を飛び出した。
 才蔵の母は佐々の家の後添いであり、かつては小浜一帯で名をはせた
武将の家柄。加賀を追われた紅矢衆が次に身を寄せた家こそが才蔵の母
の生家であったのだ。
 母が違うというだけで家を見限らなければならなくなった男児を不憫
に思ったのか、いつの頃からか紅矢衆きってのくノ一、楓を身辺に忍ば
せたということだ。

「それで誠士・・いいえ才蔵様は、家のことはもう?」
 楓に聞かされてはいても本当のところを確かめておきたい。そうした
気持ちはよくわかる才蔵だ。
「いまも言ったとおりだ、二度と言うな、二度とごめんだ。侍なんぞく
だらねえ。未練もねえ。方々を旅して回って俺には根無し草が性に合う。
身分など一切無用。薪割りでも何でもしてやるぜ」
 泉はまじまじと見つめ、「わかりました、二度と申しません」と、し
おらしく言ったそばから、ほくそ笑むように笑うのだった。
「うん? 嫌な笑いだ」
「ふふふ、お節介がすぎますから」
「ここのことか?」
「お人好しにもほどがあります。この寺には何かある。離れて見てるだ
けでもおかしいと気づきます」
 才蔵はちょっとうなづくと、見聞きしたすべてを泉に話した。
「家探ししてまでというのが解せませんね」
「まさに。そのほか金を届ける謎の女もそうだし、赤城屋という材木商
もそうだしよ。この寺には秘密がある。しかしそれをあぶり出すのはど
うでもいいのさ、良からぬ輩が好きにすりゃあいいことよ。お香と十吾
に、せめていい思いを残す寺であってほしい。捨て子の気持ちを思うと
胸が裂ける」
「ふふふ、これだもん・・おかしな人」

 気を許したらしく、泉の言葉に丁寧さが失せていく。
「姉様が言ってましたさ」
「ほう? 何を?」
「いろいろと探らされて参ったって。家来になったみたいだって笑って
た」
「うむ、それはそうだ、ずいぶんコキ使ったものよ。楓には世話になっ
た。ともかくも里に戻れたのならよかったぜ。くノ一なんぞやめちまえ
って言ってやったことがある」
「聞いたよそれも。見てると放っとけない人だって笑ってた。さっそく
探ってみましょうか?」
 才蔵はうなずいた。
「まずはこの寺だ。からくりでもどっかにあるのか、そっからだな。赤
城屋と侍どものつながり、その侍どもの素性もあるし、それに金を届け
る謎の女。和尚という人物も得体が知れねえ。さっぱりわからねえ。も
う嫌だ、俺の性分」
「あっはっは、こりゃ笑える、あっはっは!」

 泉は思った。このあたしを高笑いさせてくれた男なんていなかった。
指図がなくとも動いてやりたくなる男。妙なヤツだし、その妙な男に惹
かれる自分も信じがたい。
 泉は言った。
「それとなく見てた限りでは見張られてはいないようです。そういうこ
とならあるいは、家探ししてみたがここにはないと踏んだのか」
「考えられるな。十吾は童だし、お香は和尚が死んで戻った身。忍びで
も放って探らせればわかること」
 泉は言った。
「家探しもそれはそうで、賊が忍びの者ならからくりなどは見抜いてし
まう」
「だろうな。よってますます、さっぱりわからん。・・ん?」

 話の途中で泉が手をかざして声を切った。
「声が・・赤子?」
「うむ、みてえだな」
 かすかだったが寺への口のあたりから乳飲み子の泣く声が流れてくる。
 才蔵と泉は二人で出て、丸太を立てただけの門のところへ行ってみる
と、野菜を運ぶような使い古しの竹カゴに、粗末な綿入れにくるまれた
赤子が顔を真っ赤にして泣いていた。そしてカゴの中に、ひら仮名で書
かれた紙切れがのっていて、『どうかどうか、この子をどうか』とだけ
書かれてあった。

 才蔵は思わず言った。
「なんてこった、新入りだ」
「ひどいことを」と泉が言うと、才蔵はそうじゃないと首を振った。
「そうでもしなきゃならねえ事情があるのよ。ところでお泉よ」
「はいよ?」
「おまえ、乳出るか?」
「出るか、そんなもんっ!」

 寺の探索どころではなくなった。才蔵は乳飲み子を抱き上げてあやし
てみたが泣きやまない。


二話 寺の秘密


 ここ草源寺は、飯屋で訊いたままの古く小さな寺だった。三方を浅い
谷に囲まれて背後には鬱蒼とした広葉の森。丘の頂点に建つ、さながら
山寺のような造りなのだ。
 三方の谷向こうには、建てられたばかりの豪壮な武家屋敷が並び、と
ころどころに残された空き地にも新たに屋敷を起こす支度がされはじめ
ている。なるほどここなら目配りにはちょうどいいと才蔵は考えた。

 廃れた寺には門などというものもなく、丸太が二本、左右に立てられ
て境内へとの境をなしている。その境内も狭く、寺の本堂も外を歩いて
ほんの十歩で横切れるほど小さな建物。かなり以前からあるようで、境
内に置かれた庭石にはびっしりと青い苔がついていた。夕刻の迫る刻限
では谷向こうの大工たちの声もなく、ひっそりと静かであった。

 しかし、その丸太を立てた門らしきところの右横に桜の大木があった
のだが、才蔵はその太い幹の陰に潜む者の気配を感じていた。
 気配は女。くノ一であっただろう。ここしばらく尾けられている。わ
かっていながら才蔵からは手を出さない。
「ふふふ、ったく何者なのか・・楓(かえで)ではなさそうだが」
 かすかにつぶやいたとき、本堂の板戸が開けられて、つぎはぎだらけ
の普段着に着替えた十吾が顔を出す。おそらく今日一日歩き回っていた
だろうに童とは元気なもの。声が大きい。
「あがっていいよって姉ちゃんが」
「おう、そうか。ありがとよ」
「お侍さん、さっきいたよね?」
「飯屋にな。うむ、いたいた。歩き回って腹ぺこで、そしたらおまえさ
んらとバッタリだった。ここで会おうとは思ってもなかったぜ」
「うん。さあいいよ、入っとくれ」
「おう、すまぬな坊主」
「おいらは十吾ってぇんだ、坊主じゃねえよ」
「何だと?」
「だって、ここは寺なんだぜ、坊主って言やぁ坊さんのことじゃねえか」
「なるほど、そりゃそうだ、こいつぁ参った。おめえ十吾ってか?」
「そうさ十吾。姉ちゃんはお香って言うんだぜ」
「そうか、お香さんか、わかったわかった。俺は才蔵だ、よろしくな十
吾」
「うんっ、さあ、あがっていいよっ」

 めずらしい客が来て嬉しくてならない。弾むような童の姿が眩しかっ
た。見捨てられた童ばかりが肩を寄せ合って生きている。そういうとこ
ろをなくしてはいけないと才蔵は思うのだった。
 本堂への数段の踏み段を上がって履き物を脱ぐ。長旅で草履の鼻緒も
くたびれてきたと才蔵は思う。江戸など通り過ぎるだけのつもり。留ま
る気もなかったのだが。
 寺の本堂は外見よりも中が広く、しかしがらんとして何も置かれてい
ない板の間だった。二本の柱が屋根を支え、その間に一段高く本尊が置
かれるはずの台だけは造られてある。なのに仏像のかけらもそこにはな
く、掛け軸のような飾りもない。まさに廃れていく寺の姿を物語るよう
でもあった。

 板の間に座布団が敷かれ、才蔵が座ると、十吾は右に置かれた青鞘の
刀を目を輝かせて見つめている。
「青い刀なんてはじめて見た」
「そうか? まあ滅多にねえとは思うがよ。青ってえのは空の色、流れ
者にはちょうどよかろう」
「見てもいいかい?」
「かまわんが抜くなよ、怪我するぞ」
 そして十吾が刀に手をのばそうとしたときに、奥からお香が盆に茶を
のせて姿を見せた。お香のほうは着替えていない。着替える暇もなかっ
ただろうが。
「あ、これっ、お侍様のお刀に触っちゃいけません。大切なものなんだ
から」
 まるで母だと才蔵は思う。この娘もここで育った。皆が家族のように
支え合って大きくなった。小さかった頃のお香の姿が目に浮かぶようだ
った。

「お侍様、ともあれお茶でも。お疲れになられたでしょう」
「うむ、ありがとよ、歩き疲れちまってな」
「どちらから? あ、いいえ・・」
 と思わず訊いて、お香はちょっとうつむいた。立ち入ったことを訊く
べきではなかった。それと女手ひとつの心細さが、才蔵を近いものとし
て感じさせる。お香は自身の心の弱りに気づいていた。
 才蔵は、そんな娘と十吾に交互に目をやって、ちょっと笑った。
「流れ者にどちらもこちらもねえんだよ。脚が向くまま気の向くまま。
江戸など通り過ぎるつもりでいたんだが」
「左様でございますか、立ち入ったことを訊いてしまいました」
「なあに、いいってことよ。それとな、十吾もだが、ふたりとも」
 ふたりは顔を上げて才蔵を見つめた。
「俺は才蔵。そう気を遣うなってことさ。ご丁寧に言われるとそこらが
痒くなる。侍などくだらねえ。嫌気がして家をおん出た身の上さ」
 ふたりは黙って聞いていたが、とりわけお香は面色がゆるんでいた。
悪人ではなそうだと安堵できていたのだろう。

「ときに」と言いながら才蔵は、がらんとした本堂を見渡した。いかに
廃れた寺とは言え、蝋燭立てが残されるぐらいで仏具一切何もない。
「本尊そのほか何もねえんだな?」
 お香がちょっとうなずき、十吾が言った。
「盗まれちまったんだ、買い出しに出た隙にさ」
「盗まれた? 賊でも入ったのかい?」
 それにはお香が応えた。
「盗まれたのか、どうなのか」
「はぁ? どういうこった?」
「それが妙なんですよ、置いてあったお金には目もくれず、まるで家探
しでもするように。ご本尊もそうですし、そこにあった掛け軸とか書箱
そのほか、和尚さんの持ち物だけがそっくりないんです」
「なるほど家探しか。そいつは妙だな、銭には目もくれずってことは盗
人の仕業じゃねえ」
 お香ははっきりうなずいて、けれども口を閉ざしてしまう。才蔵も思
いやって、それ以上は訊かなかった。
 夕餉の支度があるからとお香は立ち、十吾だけが残された。しかし十
吾もお香の態度で察したらしく、よけいなことは喋らない。
「流れ者って、方々へ行ったのかい?」
 このままでは間が持たないと思ったようで、あべこべに質してくる。
賢い子だと才蔵は可笑しくなった。

「行った行った、あっちにもこっちにも」
「ずっと浪人なんだね?」
「そうさな、かれこれ五年になるか。俺はいま三十二よ。家を飛び出し
たのは二十七の頃だった」
「家って?」
 童らしい。訊きにくいことを切り出してくるものだ。才蔵は相手が童
であっても偽るつもりはなかった。
「俺はさる藩の家老の息子でな、三男坊だったんだが、親父殿が家督を
譲るとなったとき兄貴ふたりが争って、そのいやらしいことといったら
ありゃしねえ。くだらん。嫌になった。それで家をとんずらした。三男
坊などどのみち出る幕なんぞありゃしねえ。飛び出してそれっきり。ず
っと遠くの雪国だったさ」
「そうなんだ? じゃあたった独りでずっとなんだね?」
「うむ、たった独り、気楽がいちばん」

「おいら・・それに姉ちゃんもだが・・」

 十吾が小さな口をむっと結んで言いかけた。
「うむ? 何だ、言ってみろ?」
「おいらは捨て子、姉ちゃんもだし、ここにいたほかのみんなも孤児な
んだ。姉ちゃんは盗賊に襲われて親を殺されたそうだけど。おいらなん
て寺の前に捨てられていたんだって」
 童らしい笑顔が失せて、十吾はじっと耐えるような面色になっていく。
 そんなとき、奥から呼ぶ声が響いてきた。狭い寺だ。
「十吾、ちょっとおいでな、薪が足りないんだよ!」
「はぁい、いま行くっ!」
 パッと笑って、弾かれたように立つ十吾。才蔵は情を噛むように微笑
むと、後を追って立ち上がった。

 本堂の奥に庫裏があり、前掛けをしたお香が厨の土間に立っている。
粗末な板戸の裏口がそこにはあって、くぐると、すぐ裏手にワラ葺きの
納屋、そして納屋と庫裏の間に薪割り場。風呂の焚き口もそこにある。
 太い丸太を輪切りにした薪割り台が置かれていて、小さな十吾がナタ
を手に薪を割る。童の力ではたやすく割れない。コンコンと何度も叩き
つけてようやく割れる。
 外は薄暗くなってきていた。才蔵は裏口から覗くと、ちょっと笑って
そばにいるお香を見た。
「いい子じゃねえか。十吾に聞いたぜ、みんな孤児だったって」
 お香は前掛けを両手で握り込むようにして、ちょっと笑って言うのだ
った。
「和尚様に聞かされたことがあるんです。昔はもっと多かったって。江
戸が栄えてきてからはぐっと減ったが、それでも近頃の親はダメだって」
「うむ。ふふふ、さて手伝うとするか。見ちゃいられねえ」
 外に出ようとする才蔵に、お香は引き留める素振りはしたが、そのと
き才蔵がお香の背をぽんと叩き、お香は微笑んで何も言わない。

「どれ、貸してみろ、それじゃおめえ割れねえだろ」
 錆びたナタ。刃先だけが輝く古いものだ。
「いいか、こうして狙いを定め、小さく振り上げてコツンとやるんだ。
ナタが食い込んだら薪ごと振り上げて一気にいく。こうだ」
 才蔵がやると乾いた細い丸太の薪が見事に割れて左右に飛んだ。
「わあ、ほんとだ、一発で真っ二つだね」
「ほれやってみろ」
「うんっ! 才蔵さんは凄いなぁ!」
 大きな男に肩を抱かれて十吾は嬉しくてならない様子。小さかった頃、
あたしも和尚にそうされたとお香は思い、やっぱり男手がなければダメ
だと感じていた。
「わあっ、割れたよ割れたぁ!」
「だろ? 力任せじゃうまくいかねえ、ひとつ覚えたな? はっはっは」
「うんっ、うまく割れるぅ!」
 楽しそうな十吾を見ていて、お香の目が潤んでいた。男の子には父の
ような人がいる。あたしなんかじゃ役に立たないと感じてしまう。

 お香が夕餉の支度をする間、才蔵と十吾は揃って風呂。風呂から出る
と本堂に膳が三つ用意され、メザシと汁代わりの野菜の炊き合わせ、そ
れに白い飯が出た。
 和尚が死んでからかなり経ち、これほどみすぼらしい寺なのに、よく
金がつきないものだと考える。
 夕餉が済んで器を片付け、その頃には一日歩き回ったことで十吾は疲
れ果てて眠ってしまう。厨に立って後片付けをするお香の背を見て、才
蔵は問うた。
「暮らし向きはどうしてる? かれこれ四、五か月だということだが?」
 そのとき片付けを終えたお香が振り向き、本堂へと目配せした。ここ
で話すと十吾に聞かれる。
「お茶でも」
「うむ、すまぬ。何から何まで世話になるな」
「いいえ、そんな。先ほどのお話ですけど」
「うむ?」
「ここにいると不思議なことがあるんです。二月に一度ほどでしょうか、
頭巾で顔を覆った身分のある女の人が訪ねて来まして、そのお方は若く
もなくとそんなような人なんですが」
「ほう女が? それで?」
「皆が暮らせるだけのものを置いていかれるんですけどね」
「銭をか?」
「そうです。和尚さんが亡くなってからも、これで二度ほど。その度に
お金を置いていってくださいます。どこのどなたなのか皆目なんですが、
着ているものを見ても明らかに身分のある方。和尚さんとどういうつな
がりなのかはわかりませんが」

 この寺には何かあると直感した。家探しのように仏像までも持ち去っ
て、かたや金を届ける謎の女・・和尚とはどういう人物だったのだろう
と考える才蔵だ。

「役人に追い立てられているらしいな? 最前言った赤城屋とは何者な
んだ?」
 お香は言っていいものかと迷ったようだったが、どのみちここは出て
行くつもり。十吾のためにいましばらく暮らすだけ。そう考えたお香が
言った。
「お役人なのかどうなのか、身なりのちゃんとしたお武家様なので勝手
にお役人と思い込んでいるだけかもしれませんし」
「うむ。して赤城屋とは?」
「内藤新宿の少し先で材木商を営む大店(おおだな)なんですが」
「ゴロツキどもに追い立てをさせて?」
「いいえ、いまのところはゴロツキなんかじゃありません。お店の番頭
さんだったりしますが、お金をちらつかせて出て行くように言うんです。
あまり強情だとそのうちろくなことにはならないよって、やんわり脅し
て。そうかと思えばその翌日にはお武家様がやってきて、猫なで声で無
理にとは言わないがって、ちょっとやさしくと申しましょうか」

 脅しとすり寄り。見え透いた手だと才蔵は考えた。
「それで立ち退くにあたってはいかほどやると?」
「それは身の立つようにしてやるからって。さしあたって五十両もあれ
ばいいだろうが不服なら百両出してやってもいいって言うんです。けれ
どあたしは和尚さんにこう言われているんです。『わしの身に何かあっ
てもこの寺だけは守りなさい、いつか幸いすることがあるだろう』って
ことなんですけど、子供らのことはそれとは違う話だし」
「そうだな、落ち着き先を探してやりたいもんだ」
「はい。残ったのは十吾だけ。いい子なのにどうしてって思うんですけ
ど、なかなかうまくいかなくて。十吾の行く末さえ決めてやれれば、あ
たし一人どうしたって生きていけます。和尚さんには悪いけど、お寺の
ことなんてどうでもいいんです。いつか怖いことになりそうで」

 こんなボロ寺に百両とは、いかにもおかしな話である。だいたい幕府
の役人であれば、必要とあらば追い出すぐらいはたやすいこと。暮らし
向きを考えてやるにせよ、どこぞの土地に家を世話してやればいい。
 このあたりには徳川御三家のひとつ紀州家が藩邸を構え、その取り巻
きどもがはびこりだしているという。
 ますますおかしい。この寺には何かあると確信できる話であった。

「寺のいわれは? 何かわかるか?」
 お香は知らないと首を振った。
 この草源寺は、かつて家康が関東に出張る以前からあるもので、和尚
という人物は、伊豆の山奥にある林景寺(りんけいじ)という寺で修行
した僧侶であるらしい。よもやのことでもあればそこを頼るようにと言
われているというだけで、お香はそれ以上を知らなかった。


一話 消えゆく草原


 明け方からの北風がぴたりとやんだ、穏やかな初秋の夕刻前だった。

 起伏豊かな畑地のひろがる裏道沿いに、古くからある縄のれんの飯屋
があった。あたり一帯にどこにでもある百姓家の軒先に縄のれんをぶら
さげただけのような造りの小さな店は、爺さん婆さんが二人で営む。
 そんな店を、年端もゆかぬ小さな男の子を連れた若い女が出て行った。
女は歳の頃なら二十四、五か。黄色格子の町女のいでたちだったが、太
い鼻緒の旅草履。男の子のほうは粗末ながらもそれなりの身なりをさせ
られて、八つか九つ。女の歳からも二人は母子というわけでもなさそう
だった。

「もらわれて行くなんて嫌だっ。姉ちゃんといたらいかんのか」

 狭い店では声が通る。たまさか居合わせた一人の男が、店を出て行く
二人の後ろ姿をちらりと見た。
 男は若かった。三十そこそこ。細身で背が高く、月代を髪草で覆った
浪人髷の侍だったが、そこらにあぶれるサンピンのようでもない。布地
にツギハギのない濃い紺色の着流し姿。目にも鮮やかな青鞘の大小を腰
に差す。凜々しい顔立ちを薄い髭が覆っている。育ちのいい素浪人とい
うのも変な話だが、妙に爽やかな侍だった。

 男の子の手を引いて女が出て行き、店のお婆が厨(くりや・厨房)の
中で連れ合いの爺さんに言う。
「十吾(とおご)ちゃんも可哀想にね、里親探しって言ったって、あの
子はぼちぼち九つだろ、ちょっと大きくなりすぎさ。お香ちゃんも大変
さね、あと一人なんだけどねぇ」
「違いねぇ、三つ四つなら先様でなじみもするんだろうがなぁ」

 夕餉には少し早い飯をたいらげ、男は茶を頼むと言いながら、出て来
た婆さんに目を向けた。涼しい眼をしている。
「ちと立ち入ったことを尋ねるが」
「あ、へいへい?」
「いまのは? もらわれて行くのは嫌だと言っていたが? あと一人と
はどういうこった? 童どもを世話して回っているのか?」
 婆さんは、とっさに奥を見て爺さんと顔を合わせたが、その男は悪人
でもなさそうで、ちょっと困った面色ながらも口を開いた。

「この道沿いの少し先に草源寺(そうげんじ)というお寺がありまして
ね・・」
 婆さんによれば、その寺では孤児や門前に置き去りにされた乳飲み子
を引き取っては育てていた。しかしいまから四月ほど前のこと、その和
尚が死んで寺を継ぐ者がいない。それでそのときお香と言う先ほどの娘
が寺に戻り、四人ほど残っていた童らの落ち着き先を探しているという
ことだった。
「ほら、貧しい家の子らばかりで放っておくとろくなことにはなりませ
んからね。和尚様もウチにはよくお見えでしたが、近頃の親は薄情でい
けないと嘆いておいででしたし」
「うむ、なるほどな。それで里親探しってわけかい?」
「そうなんです、へい。女の子二人はすぐに見つかり、男の子のうちの
二人は三つ四つのほんの童で、これもほどなく見つかりました。そんな
ことでいまの子一人が残ってしまい、あの子は大きくなっていて、いま
さら親だ子だと言われてもなじめないってことなんでしょうけどね」
「それで方々をあたって?」
「左様でございます。ああやって江戸中を歩き回り、探してはいるんで
すが、なかなかねぇ。奉公に出すとなるとまだ小さく、さりとて我が子
となるとちと大きい。ここらの者らも見てるだけで何もしてやれなくて。
早くしないとならないのに」

 男はうなずきつつも、なおも言った。
「早くしないとならないとは?」
「お寺ですよ。継ぐ者のいなくなった寺ですし、それに混み合いだした
お屋敷に囲まれて。なんでもお役人からできれば立ち退くように言われ
ているということでして」
「役人が、なぜまた?」
「へい、聞くところによれば目配り処をつくるんだそうで」
「目配り処?」
「方々の藩の江戸屋敷を見張るにはちょうどいいってことらしいんです。
お寺は三方を浅い谷に囲まれる猫の額ほどの土地。お屋敷を建てるには
狭すぎて向かず、周囲をお屋敷に囲まれだしているんです」
「そうか、なるほどな、小さな番屋ならできるってことかい?」

「へい左様で。けれどそれもお香ちゃんは乗り気でない。お寺はそのま
ま育った家のようなもの。廃れても寺社仏閣ということでお役人として
も無理にとは言えない。立ち退くなら暮らし向きに困らぬようにしてや
ると言われているそうなんですが、お香ちゃんはなぜか譲らないんです
よ。和尚さんとの約束があるとかで」
「ほう約束が? それはいったい?」
 婆は力なく首を振った。
「わかりません。訊いても言おうとしませんし。けどいまのままでは暮
らしが苦しくなるばっかりで。継ぐ者のない寺からは檀家だって離れて
いきますし、もともとたいした檀家でもない。ちょっとぐらい蓄えがあ
ったとしても、そんなものはすぐになくなる。これでかれこれ半年です
からね。村の者らも和尚さんにはよくしていただいてますから、どうに
かしてやらないとって言ってますけど、中には追い出しちまえって惨い
ことを言う輩もいるもので。ここらはもうよそ者の土地になってしまい
ました」

 男はちょっとうなずいて立ち上がり、袂から銭を出して婆さんの皺手
に握らせた。男が立つと小さく枯れた婆さんは真上を見上げるようにな
る。
「すまぬな、立ち入った話をさせた。馳走になった」
 浪人でも相手は武士。婆さんは身を屈めて銭を受け取り、そして言っ
た。
「お武家様は、それをどうして?」
「なぜ訊くかって?」
「あ、へい」
 男は白い歯を見せて微笑んだ。
「最前より声だけは聞こえていてよ、身売りとかそういう話かと思って
な。この太平の世にあって、江戸でもそういうことがあるものかと気に
なっただけのこと。それだけだ、ありがとよ」
 男は婆の細い肩にそっと手を置き、縄のれんをくぐって出た。


 承応(じょうおう)元年(1652年)、その初秋、長月(九月)なかば
の江戸のこと。
 斜陽には少し早い刻限に、草原の残る道筋を一人歩む若き浪人の姿が
あった。ここは四谷と千駄ヶ谷の間あたり。宿場町として賑わう内藤新
宿からも遠くはない。

 江戸が江戸らしく整備されていったのは三代将軍、徳川家光の頃であ
った。町奉行所や関所の整備、日本橋を基点とする五街道の整備もある
し、城中に大奥がつくられたのもこの頃のこと。
 そうした中で江戸の町を劇的に変えたのは、家光が定めた参勤交代の
制度であった。諸藩藩主の正室および世継ぎとなる子息を江戸に住まわ
せ、実質的な人質として諸藩を牛耳る。藩主は一年おきに江戸と国元を
行き来しなければならなくなって、江戸城に近いところに次々に江戸屋
敷ができていく。大藩ともなれば上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷と、
いくつもの屋敷を構えたものだ。
 そのため、それまで畑地や草原だった原風景が見る間に様相を変えて
いき、江戸城下へと発展してきたのである。

 その家光が四十八歳の若さで没し、将軍職を継いだのが四代将軍、徳
川家綱。しかしこのとき家綱は、わずか十一歳、慶安四年のことであり、
その同じ年、世継ぎで停滞しがちであった幕政の弛みをついて由比正雪
一派が倒幕を企てた『慶安の変』が起きている。
 慶安から承応へと年は移ろい、慶安の変の翌年のいま。したがって幕
府は、将軍家お膝元の江戸の不穏を見張ろうと要所に目配り処を置こう
とした。そのひとつが草源寺であったというわけだ。

 空を漂うちぎれ雲が斜陽に赤く染まっていた。じきに九つになるとい
う十吾の手を引き、お香が草源寺に戻ったとき、小さな寺の本堂前の踏
み段に濃い紺色の着物を着た若い侍が座っていた。その傍らに日頃ちょ
っと見ない鮮やかな青鞘の刀が立てかけてある。
 お香はとっさに十吾の手をしっかり握り、身を固くして男を見つめた。
 男は踏み段に腰掛けたままちょっと笑った。
「よかったぜ、この寺にも人はいたようだ」
 お香は、さきほど飯屋にいた男だとは気づかなかった。
「なんべん来たって動きませんから、お帰りください」
 男は目を丸くして眉を上げた。
「何のことやらよくはわからねえが、そうじゃねえさ。俺は才蔵と言っ
てな、まあ流れ者なんだがよ、歩き回ってくたびれちまった。銭もそう
は持ってなく、寺ならと思ってよ。納屋でいいから今宵一晩、頼めねえ
かと思ったまで」
 お香はにわかに信じない。十吾を後ろから抱くようにして歩み寄ろう
とはしなかった。

「姉ちゃん、この人さっき飯屋にいたお侍さんだぜ」
 気づいたのは童の方だ。お香は十吾の横顔を覗き込み、それから才蔵
と名乗った、まだ若い流れ者の顔を見た。
「あなた様は本当に、その、流れ者なのですね? 赤城屋の手先ではな
いんですね?」
「赤城屋? さあ知らねえな。俺は江戸に着いたばかりの身。そう言や
ぁ、さっき飯屋で見かけたような気もするが。なけなしの銭で飯食って、
歩き出したはいいが脚が棒になっちまってる。すでに夕刻、今宵はどこ
ぞの橋の下と思ったところ、この寺を見つけたってわけなんだ」
 お香はちょっとうなずくと、それでも笑顔をつくれなく、才蔵の横を
抜けて裏手に回ろうとしたのだった。

「あいにく和尚様が亡くなられて、ここはもう寺ではございません。け
どそういうことならお武家様を納屋でなんて、あたしが和尚様に叱られ
ます。どうぞおあがりくださいまし。支度いたしますので、いましばら
くお待ちくだされば」
「うむ、すまぬな。薪割りなどいりようなら言ってくれ。女手ひとつで
は辛かろう」
「いいえ、まさかそんな、旅のお侍様に薪割りなどとんでもございませ
ん。では支度したしますので」
 お香はようやくちょっと微笑み、十吾を連れて裏手の庫裏(くり・住
職の住まい)へと入って行く。
 手を引かれる十吾のほうは、侍の客などめずらしいらしく、しきりに
振り向いては笑っている。不遇な身の上なのに元気ないい子だと、才蔵
はほほえましい。

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