三十話
二日経った金曜日のこと。その日の友紀は午後から女性誌の編集部に詰めて治子の仕事を手伝っていた。完成を待って出版する書籍と違って雑誌には締め切りがあり、実質的に治子一人の作業では間に合わない。そんなことだろうと覗いてみると治子が一人で悪戦苦闘。友紀の後釜に座るようにそっち系を担当させられ、周囲の者たちは横目で見ていて手伝おうとはしなかったし、そうして追い詰めてミスさせるのがエトセトラの常套手段であるからだ。ほら見ろということ。そしてまた治子も治子で、独りでしょいこみ友紀に声をかけなかった。やり遂げようという気持ちはわかるが、頑張りますとできますは違う。見ていられず手伝った。
テーマは不倫。瀬戸由里子のエッセイをメインに七見開き十四ページにわたるもので、瀬戸のエッセイに見開き二ページを割き、残りを一般からの投稿というカタチにする。ページあたり二人、つまり二十数名からの原稿を扱うわけだが、文章のレベルよりも内容がどうしても似通って、骨子を変えないように書き分けないと、そっくりさんが並ぶことになってしまう。
若い治子では、てにをはレベルの部分修正はできても、文章を一度噛み込んで構成し直すことが難しい。妻たちからの投稿は、案の定、家の中で耐え忍ぶ主婦像、夫はひどい、外に向いてもしょうがないといったあたりからはじまっている。女は性を受け身で語りたがり自分を悪者にはしたくないという心理が働く。
そんなことで治子に指示しながら友紀は友紀で分担して直していくのだが、最初の数人はよくても進んでいくうちに修正の角度を変えていかないと結局似たようなものになる。
「・・ったく、多すぎよ」
「ですよね。瀬戸先生のエッセイが目玉なら売れるってことで、これでもかと詰め込みたがる。何で十四ページも・・」
「そうだけど、ここでそれを言ってもしょうがないわ、やるっきゃないんだもん」
そのまま使える数篇を除いておよそ二十篇。一篇をまとめるのに友紀がやっても一時間はかかる。今日は残業だと腹をくくった。
しかし友紀は、以前のようにギスギスしない自分に不思議な戸惑いを感じていた。サリナという女王様、友紀という性奴隷を身をもって体験した。心でイクという感覚がよくわかる。
あれからホテルで、とりたててSMらしいことがあったわけではなかったが、全裸で平伏した記憶はあまりに生々しく、房鞭で性器を打たれた痛みはあまりに衝撃的で、責められて嬉しくて泣くM女の想いはこういうものかと突きつけられた。
友紀は人妻。陰毛をなくすわけにはいかなかったし、裸身に鞭痕を残すこともできない。サリナはもちろん思いやり、厳しく打っても痕のできない性器を狙い、乳首のクリップで責め、浣腸して排泄を嘲笑した。ただそれだけのM体験だったが、それなりに容赦しないサリナの眸に女の本気を感じ取れ、M女の安堵の意味を悟った気持ちになれる。
体中に鞭が欲しい。泣いても泣いても許さないサリナの心を見せてほしい。私はサリナに対して甘かった。やさしさではなく虐待への責任が負えないと思ってしまった。自分に対して甘かったと落ち込む気分がMに転じ、罰を受けることで楽になれる。
出会ったあの頃、自虐マゾという言葉は未知のもの。観念的にわかるというのと実感できるのとでは質が違う。
サリナに勝てない・・勝つとか負けるとか、そうした思いも軽率だったし、つまらない発想だった。サリナを思うと濡れてくる。心の潤いが性器を濡らす。そう思うと、これこそ愛だと実感できる。
何篇かを終えて横を見る。
「そっちはどう?」
「もう少し・・難しいです」
いつの間にか時刻は七時。すでに一時間の残業。この分だと十時になる。後輩を育てる意味で分担したものは任せたいのだが一定のレベルは保っておきたい。治子の直した原稿をさらに添削して書き直させる。友紀一人のほうが早かっただろう。
「でも友紀さん」
「うん?」
「友紀さんて、これを誰に見せてたのかって・・」
「誰にも。私も独りでやってきたから」
それにしたって二年前で三十二歳の友紀と、いま二十四歳の治子とでは文章に接したキャリアが違う。出版原稿をつくる作業は場数でもあり、あの頃はキツかったと可笑しくなる。
「休もっか? ご飯にしない?」
「ですね、お昼もろくに食べてないから」
ここは雑誌の編集部。様々な記事の担当者が締め切りを前に苦闘している。篠塚のすぐ下の部下がそばに居残り。友紀にとってもはるかに先輩。
「よかったじゃん、早瀬がいなかったらヤバかったろ?」
「ほんとです、大助かり。でもこれぐらいできるようにならないといけませんよね私も。未熟です」
「そういうことだな」
このとき友紀は、自分と同じように人当たりのソフトになった治子の言いように、ケイとの愛が安定していると感じていた。治子はおとなしい女性だったが気持ちが表に出やすいタイプ。それもケイの力だと友紀は思う。
友紀は言う。
「しょうがないよ、いきなり独り立ちなんてキツいもん」
「まったくだ。しかし早瀬、及川はよくやってる。助けてぐらい言ってくれると可愛いんだが、何クソって感じだもんな、ははは。こっちだってヘルプのサインを出さない限り手は出さないし」
治子が言った。
「あら? ヘルプって言ったら助けてくれるんですか?」
「そんときゃ考えるさ。どっかでお茶ぐらいしてくりゃお助けいたしますけれど・・ふっふっふ」
「ミエミエね下心・・ふふふ」
そんなやりとりも自然でいい。治子は少し変わったと友紀は感じ、そして言った。
「二十四の女の子なのよ・・てか私がそれが嫌いだったからね、女扱いされてたまるもんですかって」
「ほんとだよ、可愛げのない女だったが・・でも早瀬」
「おいよ? 何だろね?」
「早瀬を奪われて寂しいなって思ってる」
「おろろ? いいこと言うじゃん。今度いっぺん、ちょいと行く?」
友紀が杯を傾ける仕草をしたことで周囲の何人かが眉を上げて顔を見合わせている。
「友紀さん、なんかちょっとソフトになったような・・」
「そう? だとしたらサリナのおかげよ。私ね治ちゃん」
「はい?」
「サリナ女王に平伏したの」
「えー・・うそ?」
「みんなに責められてるサリナを見てて、いいなぁって思ってしまって。あるときyuuちゃんに言われたのよ。そう思うならサリナさんにお願いすればいいでしょうって」
「女王様になってくださいって?」
「ショックだったわ・・サリナが裸なのに私は下着を脱げないってyuuちゃんが・・そうかも知れないって思っちゃって」
「そしたらサリナさんは?」
「嬉しいって・・私をちょっと責めてから、あべこべにどうにでもしてください女王様って泣かれちゃって。女同士っていいなと思った。ほんとは同性こそ要注意なんですけどね、愛があればレズはいいって思い知ったもん」
歩きながら小声で話していた。幹線道路にクルマが行き交い、女の小声など消してくれる。
治子が言った。
「私もなんですよ」
「ケイ様?」
「ふふふ、そう。じつは房鞭とかも揃えちゃって」
「あらま? ビシビシ?」
「そ、ビシビシ。でも打たれていて嬉しくて・・すがりついていたくなる。そうするとケイ・・ふふふ、あの子はもうダメ、エロ狂い・・」
「あっはっは、そうなんだ? 楽しくていいねー」
「いまさらですけど、愛されることへの感謝というものを思い知ったわ。痛くて泣くと涙と一緒に汚れたものが流されてく・・」
友紀は治子の腰を抱いてやり、明らかに妙な二人となって夜道を歩いた。
自宅へ戻って十一時を過ぎていた。夫の直道はリビングを暗くしてテレビをつけたまま、ソファに横になって眠っていた。
「もうテレビ・・寝ちゃって・・あーあ」
「・・む・・戻ったか、大変だな」
「マジ大変。今日は雑誌のほうでね、若い子が私の後釜を背負わされてパニクってたから」
友紀はスカートだけをその場で脱ぐと、ソファの下に足を崩して座り、夫のパジャマのズボンの前にそっと頬を擦りつけた。穏やかに眠るペニスの感触が心地いい。
「・・ごめんなさい」
「何が?」
「もうバタバタ、公私ともにバタバタなのよ。女の性(さが)の深さに打ちのめされちゃって」
「うむ・・じつはな友紀」
「なあに? また出張?」
「単身赴任の話が来てる。博多なんだが三月ほど」
「三月も? いつから?」
「先方は早く欲しい、しかしこっちにも仕事があって動けない。てことで、まあ来月」
「来月って・・二週間ほどしかないじゃない」
「たかが三か月なんだがね。俺たちってDINKSだろ。上もそれを知ってるから好都合ってことなのさ。支社の立ち上げを手伝えと」
「わかった、待ってる・・あなた・・」
妻はパジャマから萎えた夫をつまみ出してキスをして、そのままそっと口に含んだ。寝た子を起こした。逞しくなっていく夫にむしゃぶりついて奉仕した。
「奴隷みたいだな」
「馬鹿ね・・あなたにそんなシュミあるの?」
「どうだかね・・人間みんなSかMか、多少どっちかを持ってるって言うけれど、まあちょっとはSっぽいかも」
「私はMっぽいかも。自分でも思うもん、あなたに奉仕したいって」
「友紀、愛してるよ」
「はい、心から感謝いたします、ご主人様・・ってか? うふふ!」
しかしこのとき、これでサリナとの時間が持てると友紀は思った。やさしく強く揺るがない三浦への想いも日増しに強くなっている。
「浮気しちゃうかも・・」
「だったら罰だな、鞭でビシビシ」
「ダメよ、それだと感じちゃって嬉しいだけ」
「そっか・・なるほど」
「そうなったら許せないでしょ?」
「当然だ。そのときは生涯奴隷を覚悟してついてこい」
別れるとは言わない。この人も凄いと妻は夫の顔をまじまじ見つめた。
「それでも妻でいられるの?」
「女を水槽に飼わない、それがDINKSなはずだ」
「・・カッコいい・・うぷぷ、イメージ合わない」
「・・もう寝る」
「シャワーしてくるね」
「そのままスッパで来い」
「はい・・嬉しい」
翌日の土曜日は久びさに夫とデート。目的もなく富士五湖までドライブし、ラブホテルへ連れ込まれて溶けて帰る。
次の日曜、夫は仕事で出て行って、この日はサリナも終日仕事で遅くなる。独りの部屋で家事をして、昼過ぎに買い物へ。これが主婦の暮らしだよねと思いながら歩いていると、二本のメールが舞い込んだ。
一本は夫から、終電になりそうだ、飯はいらんというもの。
「うっそぉ・・ハンバーグにしようと思ったのに・・このお肉どうするのよ・・」
そのときふと思う。専業主婦はこうして夫のために料理を考え、仕事を言い訳にすっぽかされて小さなストレスが鬱積していく。
そしてもう一本のメールはユウからだった。いま新宿にいて、ちょっと会えないかというもの。友紀は即座に電話する。
「いいわよ、どこで?」
「ンふふ・・どっかぁ」
「コラてめえ、子供かよ。わかんないでしょ、それじゃ」
ユウがおかしい。声が弾んで壊れている。
「ンふふ、女王様と一緒なのぉ」
「・・ああ。モモさん夜だもんね仕事?」
「そうそう。それでね・・聞いて聞いて・・ンふふ」
『馬鹿か、おまえは・・』 モモの声が忍び込む。可笑しくなって友紀はちょっと小首を振った。
「へへへ、三人でお茶しないかって女王様がぁ・・ひひひ・・あ痛っ!」
そばからひっぱたかれたようだった。電話がモモに代わる。
「すみません、この馬鹿ったら舞い上がっちゃって」
「みたいね、まるで馬鹿だし・・あははは。それでお話でも?」
「ええ。じつはユウと結婚するの」
「え・・」
「真っ先に友紀さんにお話しておこうと思いまして」
「そうなの? 結婚しちゃう?」
「はい。友紀さんのおかげです。ユウを見てて代わりはいないと思いましてね。愛しちゃった」
「わかりました、いま買い物で一度戻って出ますから。どこにします?」
「ほら、あそこの・・」
東口を出てすぐの高級カフェ。珈琲一杯千五百円。いつも静かで落ち着ける店だったが、そう言えばモモに最初に出会った店だと思い出す。
着替えるといっても友紀はホワイトジーンズにジャケット。モモも似たような姿だったが、ユウは座ると見えそうなマイクロミニ。けれども仕草がしなやかで見違えるほどレディになっている。膝を合わせて横に振りデルタを見せないエロチック。ピンクのブラウスに赤いブラが透けて可愛い。
モモは・・スタイルは普通でも化粧はさすが。長い髪はほとんど金髪にされていて、一見してプロの女性をイメージさせた。仄かな香水もセクシーだったし、背がちょっと高いことを除いて近寄りがたい美女である。
そのモモの横にいて、ユウははにかむように微笑んで、オフィスのユウとは人格までが違ったよう。可愛い妻だと友紀は思う。
モモが言った。
「この子の代わりなんていませんよ。いい子だし素直だし、結婚したいって泣かれたときに震えましたからね」
友紀が視線をやるとユウはとろけそうな眸をしている。
「おめでとうモモさん、ユウちゃんも」
二人で顔を見合わせて微笑んでうなずく。女同士の不思議な結婚で片方が男性だった・・?・・よくわからない二人なのだが、しかし・・。
友紀は言った。
「結婚したら仕事は?」
ユウが応じた。
「もちろん続けます」
「うん、よかった、ユウを失ったら私が困る」
モモがユウへ横目をやって言う。
「それは私もそうなさいって言ってます。妻の羽を毟るようなことはしたくない。輝いていてほしいから・・うふふ」
調子が狂う。ゾクッとするほど妖艶なモモの笑み。見事なお姉さんと、ちょっとイカレた小娘のようにしか見えないのだが・・。
そのモモが静かに落ち着く笑顔で言った。
「サリナさんでしたよね?」
「・・ああ・・ええ、そうよサリナ」
「ユウのヤツが言うんです。サリナさんの姿を見ていて感動して震えちゃった。私もあんなふうに生きていたい。女王様の奴隷として癒やしてあげたいと言ってくれ。私だってサリナさんの想いはわかりますから、この子しかいないって思えちゃって」
「そうですか・・サリナはみんなを変えていく人なんですね」
モモは深くうなずいた。
「女神・・そんなようにユウは言いますけどね・・ま、そういうことで私たち、近々同棲するつもりです。私がほら、こんなですから既成事実をつくるのがどっちを向いてもいいだろうと思いますし」
娘が女性の旦那を連れてきたら親はぶっ飛ぶ。
ユウが真剣な面色で言うのだった。
「だからね友紀さん、お仕事の方は赤ちゃんができるまで・・しばらく休んで復職できればいいんですけど」
「わかった。そうよね、愛するお方がすべて。それでいいと思うわよ」
ここにもある妊娠という言葉・・友紀にとって、やはり考えてしまう言葉。 夫がいてくれて安定した友紀自身より、サリナはそれでいいのだろうかと・・。