終 話
それまでの妻な暮らしが一変しました。日中時間のあるときは外で会い、夜ならまるで夜這
いのように彼のお部屋に降りて行く。主人のことはもちろん嫌いじゃなかったし、それまでだ
って幸せではあったのですが、あのことがあって、周囲には目もくれず彼に突き進んだ私で
す。主人への物足りなさは夜そのものもそうでした。イクのが早過ぎ。浅いアクメに溶けだし
たとき、自分だけスッキリしちゃっておしまいなのね。
彼は違った。スポーツマンで体が強く、筋肉の塊に抱かれるようで、それだけでもクラクラし
たわ。野生。そこが主人とは決定的に違うんです。やさしい人だし、話していても話題が豊
富で楽しい人で。
女って貪欲ですから、自分にないものをたくさん持っててくれた方が燃えるんです。
表向き普段通りの顔をしてても、下着はいつも可愛いみたいな・・・そしてまた、そんな私の
変化は主人との仲を修復することにも役立った。他で満たされていましたから逆に素直にな
れたのか・・・夜だって、可愛い下着を自分のためだと思ってくれて、嬉しそうにしてるんだも
の。
楽しい夏が過ぎて行き、秋になって私の体に変調が・・・生理がない。もともとドンピシャでは
なかったけれど、一月もズレるなんてはじめてでした。
純一の子です。確信めいたものがある。主人とだって、もちろん夜はありましたし、主人の種
じゃないとは言い切れない。でも女って不思議なもので、なぜか違うと思えてしまう。
「ない?」
「そう・・・たぶん純の赤ちゃんよ」
「うむ、そうか・・・ふふふ・・・そうか・・・」
笑ってくれてやさしく抱いてくれたんです。それだけで充分でした。彼とのことはどうしようも
ない想いであって、誰の子だろうが私の子です。
「少し待って」
「・・・とは?」
「物心つくまで子供にはわからないことでしょう」
「別れるつもりか」
「だって・・・純ならどう? もしもおなかの子が主人の種なら・・・後になってそれがわかった
としたら、それでも私を愛してくれる?」
「もちろんさ」
「うん・・・とにかく少し待って・・・」
主人といるより彼との時間が楽しかった。お医者さんに行くまでもなく乳房が張った気がして
た。そしてそうなると、いきなり母の強さを発揮するのが女というもの。私のことよりこの子のた
めにどちらがいいのか・・・答えなんてわかりきってる。
「できた?」
「そうみたい・・・ないのよ」
「そうか・・・できたか・・・はははっ! やったぁ!」
「嬉しいんだ?」
「あたりまえだろ馬鹿、あはははっ! 俺もパパだー! あはははっ!」
主人も喜んでくれてます。私のことが好きみたい。
でもね・・・このとき私、ふと思った。この人が消えてくれたらいいのになって・・・。
マンションのすぐそばを、都会の外れにしては綺麗な川が流れています。その日は夜にな
って少し寒く、日中暖かだった熱を溜めてか、夜になると川面に靄が立ちこめます。川縁に
は桜並木。春には綺麗に咲き揃い・・・その夜は主人も彼も夜勤でいなく、ひっそりとした秋
の夜長だったのです。
私一人で夕食、テレビで映画を見て過ごし、お風呂に入って、ベッドに入ってもなぜか眠れ
ず、起き出してお茶を飲んでた。時刻は深夜の一時を過ぎていました。
どうしよう・・・とにかく産んで・・・小さいうちに離婚して・・・物心つく頃には純がパパというこ
とで・・・だけどそんなにうまくいくかしら・・・どうしよう・・・。
こんこん・・・
「え・・・」
こんこん・・・
ドアがノックされてます。音に張りがないような、ごく弱いノックです・・・こんな時刻にいった
い誰が・・・キッチンのところに小さなモニターがありました。玄関先の監視カメラ。開けて出
なくても誰かがドアに近づけば自動的にスイッチが入ります。
寒気がしたわ・・・私はパジャマの姿です。それでキッチンのモニター画面に取りついて、こ
ちら側のスイッチを入れてみた・・・。
こんこん・・・
音はしてる。なのに何も映っていない・・・全身に怖気がはしります。
まさかいま頃になって・・・いいえ、死神だわ・・・心のどこかで主人に対して消えて欲しいと
思っていたから・・・それを察してやって来たに違いない。
だけど、何としてもこの子だけは守らないと・・・戦おう・・・私はキレた、美代子のことも思い
出し、武者震いに震えてた。玄関先につかつかと歩み寄り、ドアの向こうを怒鳴りつけてや
りました。
「あなたなんか怖くないから! 失せろ死神! 私は死なない! 誰か他をあたりなさい!
ふざけるな! 帰ってよ!」
ドアを隔てて、死に物狂いで睨み合う。時間が凍りついたよう・・・。
でも、それきりノックはやみました。退散したのね・・・よかった・・・へなへな崩れそうになる体
を引きずって、リビングにまで戻ったときです。こうこうと照らす明かりがチカチカしだし、南向
きのバルコニーへのサッシのところに黒い霧が立ちこめてる・・・。
私はとっさにキッチンへ走り、一度は出刃包丁を手にします。だけどそんなものを持ったとこ
ろで相手は死神・・・私はガラス越しにモヤモヤと渦巻く黒い霧を、お部屋の背の壁に張り
付いて見ていたの。
そうしたら・・・黒い霧の中に真っ赤な眸が二つ・・・獲物を見据えるように私のことを見てい
ます。血の色をした燃えるような眸・・・とうてい勝てない・・・逃げてもダメね・・・。
それで私は・・・私はどうしてしまったのか、怖くてガタガタ震えていながら、サッシのところへ
歩み寄って行ったのでした。
「あなた死神?」
返事なんてありません。ガラスの向こうで赤い眸が見つめているだけ。そして霧は、サッシの
わずかな隙間からすーっと流れて、入って来ようとするのです。
「・・・わかったわ、待って、いま開けるから」
私は意を決し、サッシのロックを外し、戸を開けてあげたのでした・・・。
黒い霧は濃さを増して、逆巻くようにお部屋の中に流れ込み、まるで黒い人のようにまとまっ
て、人の形になっていく・・・影は徐々に輪郭を露わにし、くっきりとした男の姿になったので
した。
黒いローブ・・・深いフードをかぶっていて、その手には恐ろしい首刈り鎌を持っている。そ
れはまぎれもない死神の姿です。
私は・・・失禁してしまってた。だけどなぜか震えてはいなかった。負けるわけにはいかない
の。おなかの命だけは守らないと・・・フードの奥にメラメラ燃える二つの眸を、私は逆に見
据えていたわ。
「どうして私なの? ねえ教えて、いまどうして私なの?」
「ぐっふっふ・・・」
地の底から響くような声でした。
「ねえ聞いて、おなかに命がいるんです。そんな女を連れてくの? 人なんていずれ死ぬ
わよ・・・だけど私は女なの、これから子供を・・・」 とそう言いかけて、私はあのとき主人が
言った言葉を思い出していましたね。
私はパジャマを脱ぎました・・・全裸です・・・そして輪郭のはっきりした死神に向かって手を
ひろげ、私の方から歩み寄って抱かれていったわ。私は泣いてしまってた。
「・・・抱いて」
黒い影には実体があり、黒いローブの内側には肉体のない硬い骨格を感じるの。ガイコツ
です。骨だけのお体でした。
「お願いですから私はやめて・・・いまはやめて・・・」
「ぐっふっふ・・・殺すには惜しいか・・・ぐっふっふ・・・」
「そうでしょう・・・惜しいでしょう・・・さあ抱いて、犯してちょうだい・・・その代わり・・・ねえ取り
引きしない? 私だっていつか死ぬ、向こうへ行ったらあなたの女になりますから、いまはや
めて・・・その代わり、彼を連れて行けばいい・・・あなたが動くときには必ず一人を連れて行
くって聞いたけど、私じゃなくてもいいんでしょう? 私は嫌よ、彼にして・・・さあ抱きなさい」
フードを引っ剥がしてやりました・・・死神はドクロだった。唇のない剥き出しの唇を奪ってや
った。
「抱いてよ! あなたの女になるって言ってるのよ! 抱きなさい! その代わり死ぬまで二
度と来ないって約束して! 向こうの世界で再会しましょう! わかったら抱きなさい! 女
が裸になったのよ、可愛がってちょうだいよ!」
全裸の私は、黒い男に抱き上げられて、ふわりと浮いて、お部屋に敷いたシャギーマットに
そっと寝かされ・・・少しカビ臭い、あの世の男に抱かれていたわ。
見えないものが私の中に入ってくる・・・冷たく硬い男性です。
「ぐっふっふ・・・ぐっふっふ・・・」
「ぁ・・・あ、あ、あ! うふふ・・・ねえもっと・・・ねえシテ・・・可愛いいでしょう私って? 殺す
には惜しいでしょう!」
「ぐっふっふ・・・」
「ねえどっち! 可愛いいって言いなさいよ! ああん! あぁぁ凄い・・・ああ感じるぅ! ね
えもっと・・・もっとシテ・・・ぁぁん、イクぅーっ!」
そしてその翌々日のことでした・・・。
「え・・・死んだ・・・そんな・・・そんなこと・・・」
携帯を握ったまま、私は崩れ落ちていたのです。
月日が流れて行きました。あのときのことが、まるで何もなかったように平穏な時が流れた。
「だぁぁ! ぁきゃきゃきゃ! ンぶぅぅ・・・だぁぁ!」
「あははっ可愛いぃ! 純ちゃん、お元気でちゅねー、ママでちゅよーダ! あはははっ!」
女の子です。大きくなったらさぞ美人・・・それは可愛い子だったわ。
病院で産まれた我が子を乳房に抱いて、彼の子だと直感した。私はB型、主人も彼もAだか
ら、その点でもバレることはないと思った。
純枝(すみえ)と名付けた。純一の字をそのままもらって名付けてあげたの。
夢のような母親の日々でした。娘はすくすく育ってくれて、もう二歳の誕生日。小さなケーキ
に可愛い蝋燭を二本立て、彼と二人で祝ってあげた。
夜勤で彼がいないとき、私はバルコニーにお花を供え、死神さんに手を合わせ、いなくなっ
た彼のことも想ったわ・・・死神の動くとき必ず一人を連れて行く・・・事故でした。
私を抱いて、死神は約束を守ってくれた。私を生かし、代わりに彼を奪って行った。
「ねえ、そろそろ一人欲しいわね」
「うむ・・・もう二歳か・・・早いものだな」
「うふふ、可愛いわぁ・・・この寝顔見て、たまらない・・・妹か弟か、どっちかね・・・」
「そうだな・・・ふふふ、じゃあ・・・」
「ぁン! ううん、もう・・・うふふっ! あ・・・あ! ああ素敵ぃ、ああん!」
「愛してる」
「うん・・・うふふ、もっとシテ・・・ねえミツル、もっとシテ・・・好きよミツル・・・愛してる・・・」
ひとつだけ誤算がありました。海の事故で彼は逝った・・・死神が連れ去ったのは主人では
なかったのです。
私はものが言えない女です・・・あのとき・・・死神に抱かれたあのときに、彼なんてごまかさず
主人を殺してと言ってしまえばよかったの・・・。
でも・・・このままミツルに抱かれていても子供はできない・・・うふふ・・・近頃ちょっと気になる
人ができていました・・・307の住人です。