2016年12月05日

官能ホラー 黒い霧神(終話)


終 話


それまでの妻な暮らしが一変しました。日中時間のあるときは外で会い、夜ならまるで夜這
いのように彼のお部屋に降りて行く。主人のことはもちろん嫌いじゃなかったし、それまでだ
って幸せではあったのですが、あのことがあって、周囲には目もくれず彼に突き進んだ私で
す。主人への物足りなさは夜そのものもそうでした。イクのが早過ぎ。浅いアクメに溶けだし
たとき、自分だけスッキリしちゃっておしまいなのね。

彼は違った。スポーツマンで体が強く、筋肉の塊に抱かれるようで、それだけでもクラクラし
たわ。野生。そこが主人とは決定的に違うんです。やさしい人だし、話していても話題が豊
富で楽しい人で。
女って貪欲ですから、自分にないものをたくさん持っててくれた方が燃えるんです。
表向き普段通りの顔をしてても、下着はいつも可愛いみたいな・・・そしてまた、そんな私の
変化は主人との仲を修復することにも役立った。他で満たされていましたから逆に素直にな
れたのか・・・夜だって、可愛い下着を自分のためだと思ってくれて、嬉しそうにしてるんだも
の。

楽しい夏が過ぎて行き、秋になって私の体に変調が・・・生理がない。もともとドンピシャでは
なかったけれど、一月もズレるなんてはじめてでした。
純一の子です。確信めいたものがある。主人とだって、もちろん夜はありましたし、主人の種
じゃないとは言い切れない。でも女って不思議なもので、なぜか違うと思えてしまう。
「ない?」
「そう・・・たぶん純の赤ちゃんよ」
「うむ、そうか・・・ふふふ・・・そうか・・・」
笑ってくれてやさしく抱いてくれたんです。それだけで充分でした。彼とのことはどうしようも
ない想いであって、誰の子だろうが私の子です。
「少し待って」
「・・・とは?」
「物心つくまで子供にはわからないことでしょう」
「別れるつもりか」
「だって・・・純ならどう? もしもおなかの子が主人の種なら・・・後になってそれがわかった
としたら、それでも私を愛してくれる?」
「もちろんさ」
「うん・・・とにかく少し待って・・・」

主人といるより彼との時間が楽しかった。お医者さんに行くまでもなく乳房が張った気がして
た。そしてそうなると、いきなり母の強さを発揮するのが女というもの。私のことよりこの子のた
めにどちらがいいのか・・・答えなんてわかりきってる。
「できた?」
「そうみたい・・・ないのよ」
「そうか・・・できたか・・・はははっ! やったぁ!」
「嬉しいんだ?」
「あたりまえだろ馬鹿、あはははっ! 俺もパパだー! あはははっ!」
主人も喜んでくれてます。私のことが好きみたい。

でもね・・・このとき私、ふと思った。この人が消えてくれたらいいのになって・・・。

マンションのすぐそばを、都会の外れにしては綺麗な川が流れています。その日は夜にな
って少し寒く、日中暖かだった熱を溜めてか、夜になると川面に靄が立ちこめます。川縁に
は桜並木。春には綺麗に咲き揃い・・・その夜は主人も彼も夜勤でいなく、ひっそりとした秋
の夜長だったのです。
私一人で夕食、テレビで映画を見て過ごし、お風呂に入って、ベッドに入ってもなぜか眠れ
ず、起き出してお茶を飲んでた。時刻は深夜の一時を過ぎていました。

どうしよう・・・とにかく産んで・・・小さいうちに離婚して・・・物心つく頃には純がパパというこ
とで・・・だけどそんなにうまくいくかしら・・・どうしよう・・・。

こんこん・・・

「え・・・」

こんこん・・・

ドアがノックされてます。音に張りがないような、ごく弱いノックです・・・こんな時刻にいった
い誰が・・・キッチンのところに小さなモニターがありました。玄関先の監視カメラ。開けて出
なくても誰かがドアに近づけば自動的にスイッチが入ります。
寒気がしたわ・・・私はパジャマの姿です。それでキッチンのモニター画面に取りついて、こ
ちら側のスイッチを入れてみた・・・。

こんこん・・・

音はしてる。なのに何も映っていない・・・全身に怖気がはしります。

まさかいま頃になって・・・いいえ、死神だわ・・・心のどこかで主人に対して消えて欲しいと
思っていたから・・・それを察してやって来たに違いない。
だけど、何としてもこの子だけは守らないと・・・戦おう・・・私はキレた、美代子のことも思い
出し、武者震いに震えてた。玄関先につかつかと歩み寄り、ドアの向こうを怒鳴りつけてや
りました。
「あなたなんか怖くないから! 失せろ死神! 私は死なない! 誰か他をあたりなさい!
ふざけるな! 帰ってよ!」
ドアを隔てて、死に物狂いで睨み合う。時間が凍りついたよう・・・。

でも、それきりノックはやみました。退散したのね・・・よかった・・・へなへな崩れそうになる体
を引きずって、リビングにまで戻ったときです。こうこうと照らす明かりがチカチカしだし、南向
きのバルコニーへのサッシのところに黒い霧が立ちこめてる・・・。
私はとっさにキッチンへ走り、一度は出刃包丁を手にします。だけどそんなものを持ったとこ
ろで相手は死神・・・私はガラス越しにモヤモヤと渦巻く黒い霧を、お部屋の背の壁に張り
付いて見ていたの。
そうしたら・・・黒い霧の中に真っ赤な眸が二つ・・・獲物を見据えるように私のことを見てい
ます。血の色をした燃えるような眸・・・とうてい勝てない・・・逃げてもダメね・・・。

それで私は・・・私はどうしてしまったのか、怖くてガタガタ震えていながら、サッシのところへ
歩み寄って行ったのでした。
「あなた死神?」
返事なんてありません。ガラスの向こうで赤い眸が見つめているだけ。そして霧は、サッシの
わずかな隙間からすーっと流れて、入って来ようとするのです。
「・・・わかったわ、待って、いま開けるから」
私は意を決し、サッシのロックを外し、戸を開けてあげたのでした・・・。

黒い霧は濃さを増して、逆巻くようにお部屋の中に流れ込み、まるで黒い人のようにまとまっ
て、人の形になっていく・・・影は徐々に輪郭を露わにし、くっきりとした男の姿になったので
した。
黒いローブ・・・深いフードをかぶっていて、その手には恐ろしい首刈り鎌を持っている。そ
れはまぎれもない死神の姿です。

私は・・・失禁してしまってた。だけどなぜか震えてはいなかった。負けるわけにはいかない
の。おなかの命だけは守らないと・・・フードの奥にメラメラ燃える二つの眸を、私は逆に見
据えていたわ。
「どうして私なの? ねえ教えて、いまどうして私なの?」
「ぐっふっふ・・・」
地の底から響くような声でした。
「ねえ聞いて、おなかに命がいるんです。そんな女を連れてくの? 人なんていずれ死ぬ
わよ・・・だけど私は女なの、これから子供を・・・」 とそう言いかけて、私はあのとき主人が
言った言葉を思い出していましたね。

私はパジャマを脱ぎました・・・全裸です・・・そして輪郭のはっきりした死神に向かって手を
ひろげ、私の方から歩み寄って抱かれていったわ。私は泣いてしまってた。
「・・・抱いて」
黒い影には実体があり、黒いローブの内側には肉体のない硬い骨格を感じるの。ガイコツ
です。骨だけのお体でした。
「お願いですから私はやめて・・・いまはやめて・・・」
「ぐっふっふ・・・殺すには惜しいか・・・ぐっふっふ・・・」
「そうでしょう・・・惜しいでしょう・・・さあ抱いて、犯してちょうだい・・・その代わり・・・ねえ取り
引きしない? 私だっていつか死ぬ、向こうへ行ったらあなたの女になりますから、いまはや
めて・・・その代わり、彼を連れて行けばいい・・・あなたが動くときには必ず一人を連れて行
くって聞いたけど、私じゃなくてもいいんでしょう? 私は嫌よ、彼にして・・・さあ抱きなさい」

フードを引っ剥がしてやりました・・・死神はドクロだった。唇のない剥き出しの唇を奪ってや
った。
「抱いてよ! あなたの女になるって言ってるのよ! 抱きなさい! その代わり死ぬまで二
度と来ないって約束して! 向こうの世界で再会しましょう! わかったら抱きなさい! 女
が裸になったのよ、可愛がってちょうだいよ!」
全裸の私は、黒い男に抱き上げられて、ふわりと浮いて、お部屋に敷いたシャギーマットに
そっと寝かされ・・・少しカビ臭い、あの世の男に抱かれていたわ。

見えないものが私の中に入ってくる・・・冷たく硬い男性です。
「ぐっふっふ・・・ぐっふっふ・・・」
「ぁ・・・あ、あ、あ! うふふ・・・ねえもっと・・・ねえシテ・・・可愛いいでしょう私って? 殺す
には惜しいでしょう!」
「ぐっふっふ・・・」
「ねえどっち! 可愛いいって言いなさいよ! ああん! あぁぁ凄い・・・ああ感じるぅ! ね
えもっと・・・もっとシテ・・・ぁぁん、イクぅーっ!」

そしてその翌々日のことでした・・・。
「え・・・死んだ・・・そんな・・・そんなこと・・・」
携帯を握ったまま、私は崩れ落ちていたのです。


月日が流れて行きました。あのときのことが、まるで何もなかったように平穏な時が流れた。
「だぁぁ! ぁきゃきゃきゃ! ンぶぅぅ・・・だぁぁ!」
「あははっ可愛いぃ! 純ちゃん、お元気でちゅねー、ママでちゅよーダ! あはははっ!」
女の子です。大きくなったらさぞ美人・・・それは可愛い子だったわ。
病院で産まれた我が子を乳房に抱いて、彼の子だと直感した。私はB型、主人も彼もAだか
ら、その点でもバレることはないと思った。
純枝(すみえ)と名付けた。純一の字をそのままもらって名付けてあげたの。
夢のような母親の日々でした。娘はすくすく育ってくれて、もう二歳の誕生日。小さなケーキ
に可愛い蝋燭を二本立て、彼と二人で祝ってあげた。

夜勤で彼がいないとき、私はバルコニーにお花を供え、死神さんに手を合わせ、いなくなっ
た彼のことも想ったわ・・・死神の動くとき必ず一人を連れて行く・・・事故でした。
私を抱いて、死神は約束を守ってくれた。私を生かし、代わりに彼を奪って行った。

「ねえ、そろそろ一人欲しいわね」
「うむ・・・もう二歳か・・・早いものだな」
「うふふ、可愛いわぁ・・・この寝顔見て、たまらない・・・妹か弟か、どっちかね・・・」
「そうだな・・・ふふふ、じゃあ・・・」
「ぁン! ううん、もう・・・うふふっ! あ・・・あ! ああ素敵ぃ、ああん!」
「愛してる」
「うん・・・うふふ、もっとシテ・・・ねえミツル、もっとシテ・・・好きよミツル・・・愛してる・・・」


ひとつだけ誤算がありました。海の事故で彼は逝った・・・死神が連れ去ったのは主人では
なかったのです。
私はものが言えない女です・・・あのとき・・・死神に抱かれたあのときに、彼なんてごまかさず
主人を殺してと言ってしまえばよかったの・・・。

でも・・・このままミツルに抱かれていても子供はできない・・・うふふ・・・近頃ちょっと気になる
人ができていました・・・307の住人です。

官能ホラー 黒い霧神(二話)


二 話


死神を見てしまった。そしてそのとき、ミツル君に出会った私。このことは、それ以外のありふ
れた日常の中にあるどんな出会いのシーンよりも心に刻まれ、私は運命を感じずにはいられ
なかった。だってそうでしょ、死神なんてこの世のものでないものを二人揃って見たんです。
彼にも私にも、ほんの少し霊能が備わっていたようで、彼の言うように、あのとききっと二人の
念が共振し合って力を増して、だから黒い不吉が見えたんです。

可哀想に美代子はほとんど即死だそうで・・・あれから私は、お寺や神社や、お部屋にいて
もお花を飾って一心に手を合わせたわ。怖くて怖くてなりません。神様でも仏様でもよかった
の。田舎に戻ってお墓にも行き、ご先祖様にも手を合わせた。
人に対して間違っても死ねなんて思っちゃダメ。美代子に対してだって、一瞬でもそれを思
ったことを後悔したし、心から謝っていたのです。

ミツル君に、当時暮らしたマンションまで送ってもらい、それから頻繁に会うようになって、彼
が泊まるようになりました。それほど時間はかからなかった。お部屋に独りでは怖くてならな
い。一緒にいないと気が狂ってしまいそう。
彼はやさしく可愛い人です。三つも下で、その点ではちょっと頼りないけれど、懸命に私を
守ろうとしてくれた。この世の男性で、ほかに誰が一緒に死神を見てくれるでしょうか。運命
なんです。あの黒い霧を遠ざけておくためにも私たちは前を向いて歩いて行くしかないんで
す。

翌年になって彼が卒業。クルマのメーカーに就職も決まり、私たちは結婚しました。生産ラ
インのある工場近くの賃貸マンション。最初は共働きで、二年経って私が辞めて主婦になっ
てた。でもね・・・結婚から三年目になろうとするのに、どういうわけか赤ちゃんに恵まれず、
彼との間にも微妙な風が吹きはじめていたんです。
やさしくていい人ですよ。だけどやっぱり三つも下だと、何かあると私がお姉さんを発揮しち
ゃって、なおさら物足りなくなってくる。
そんなこんなで、それからさらに一年が過ぎて行き・・・あのことも忘れることができていまし
た。

このマンションは、新婚向けの2LDKと単身者向けの1LDKの二つのタイプに分かれてい
たのですが、ある日のこと、専業主婦で家にいた私は、引っ越しのトラックを見てしまう。買い
物から戻った二時頃のことでした。春先で移動のある時期。トラックは引っ越し屋さんのもの
でなくレンタカー。友だちに手伝ってもらっての引っ越しだったのです。
学生さんらしい若い男性が二人、荷物を出すのにトラックにいて、そしたらそのとき、マンシ
ョンから三十代のきりりとした人が出てきます。

「よし次頼む、もうちょいだ、すまんな」
「いいえ、これぐらいどうってことないっす」
「焼き肉でもおごるから頼むわ!」
「あははっ、それは当然!」
「けぇー、これだよ、あはははっ!」

明るい人・・・それにみんないい感じ。お歳は違うけど何かのお友だちだと思ったわ。
そしたら彼が・・・そのときたまたまそちらを見ていた私に気づき、歩み寄って来るんです。背
の高いがっしりしたスリムマッチョ。髪が短く、日焼けして精悍です。
「どうも、こちらの方ですよね?」
「あ、はい」
「お騒がせしてすみません、もう終わりますので。僕は霧原と言います。307です。クラブの
連中に手伝ってもらっての引っ越しですよ」
「クラブ?」
「スキューバです、海をやりますから。僕は転勤なんですが、クラブは千葉で、こいつらみん
な学生だから」
「ああ、はい、そうですの」
今日は平日。彼は引っ越しのためにお休みで、若い子たちは学生だから時間があるという
ことでしょう。
「私、戸川です、702ですわ」
「戸川さん? そうですか、これからよろしくお願いしますね。ご挨拶はまたあらためて。そ
れじゃ、どうも!」

言葉に覇気のある、野生を感じる人でした。マンションは七階建てで、三階から下は単身者
向けの間取りです。彼が独身で三十四歳であることを知るまで、それほど時間はかからなか
った。主人の勤める自動車メーカーの一次下請けの社員さんです。立場ではウチの方が上
なのでしょうが、なにせ主人は若過ぎてまだまだ下っ端ですからね。
なのに三つも上の私だけ、いい歳になっていた。あのことがあって他の人には目もくれず結
婚した私です。年上のエネルギッシュな男性には惹かれます。

工場勤務は、カレンダー通りでなく、土日は休みとしても、祝日や、それに平日だって日勤
と夜勤があって、主人など週交代で昼と夜が入れ替わる。そしてそれは彼もそうで、別会社
でもあり勤務がズレることが多かった。主人が日勤のとき彼が夜勤ならば昼間に顔を合わせ
ますし、逆なら夜が合わせやすい。子供でもいてくれれば違ったのでしょうけれど・・・それ
にしたって口喧嘩の元になっていたんです。何年経ってもできません。どっちかが悪いのだ
ろうと思っていました。

そんな日々が続いたその週、主人が休日出勤になってしまった。機械の調子がおかしいら
しく、工作機械のメーカーの人たちとラインが停まる週末に総点検をするらしい。会社に泊
まり込みになるだろうって言うんです。
その前日・・・主人はもちろん仕事で家になく、私は下に降りてクルマを洗ってあげていた。
そしたら彼が、白いステーションワゴンに、見たことのある道具を積み込んでいたんです。重
そうな空気のボンベ、ウエットスーツ、足ヒレなんかを・・・ダイビングに出かけるようで。

「あら海?」
「はははっ、そうそう、明日から千葉で、その準備を」
「いいなぁ・・・海なんてぜんぜん行ってない・・・」 
ふと漏らした一言がすべてのはじまりとなりました。
「明日ご主人は?」
「朝早くに出かけて、ラインのほら・・・聞いてない?」
「ああ、あれか・・・機械の誤動作ですよね?」
「かどうか、そんな話はしてないけれど、それで泊まり込みみたいなの」
「じゃあ、よければ一緒にどうです? 潜らなくても船で遊べますよ」
「でも・・・朝は何時? 主人がいるうちは出られないし・・・」
「僕は夜中に出ちゃいます。でもほらクルマがあれば来られるでしょ。お昼頃に一度港に戻
ってますから、来てくれれば半日遊べる。水着でもいいでしょうし、ないならないで楽しめま
すから。場所は・・・」

でもね・・・そのときはとても無理だと思っていました。ところがその夜、主人とまたちょっと口
喧嘩。朝の六時に送り出し、私はむしゃくしゃしていたんです。不妊検査を嫌がるから。恥
ずかしがって嫌だって言うんだもの。私だけ必死でも夫がそれでは子供はできない。なのに
エッチだけは求めてくる。それでちょっと苛立っていたんです。
主人を送り出して一時間ほどいろいろしていて・・・場所は内房の先端あたり。二時間もあれ
ば行ける距離だと思ったの。
水着なんてデザイン古くて着られません。モーターボートがはじめてだから、そっちの方が
楽しみで、それで私は家を出た。初夏のすがすがしい晴天です。ショートパンツにTシャツ
姿。久々の女の子スタイルで心が浮き立っていましたね。
携帯は相手が海の上では通じません。クラブに電話を入れて伝言を頼みます。無線でしょう
か衛星携帯? 後はひたすら港を目指して走るだけ・・・。

主人に言えないことができてしまった・・・物足りなさを埋めるように彼を愛していたんです。

霧原純一・・・そういえば霧という字がつくのよね。男らしくて凛々しい霧だわ、あのときの不
吉な霧とはぜんぜん違う。
「ううむ、なるほど、不妊検査ね・・・それはちょっとないな、相手は医者なんだから」
「でしょう? 私は間違ってないと思うのよ」
船の上ではクラブの人たち五人に囲まれ楽しくて。そして船を降りたとき、彼は親身になって
話を聞いてくれるのです。
主人にメールをしてみたら今夜はやっぱり泊まりらしい。帰りに二台揃って夜道を走り、途中
でお食事。そこでも彼は逞しく、昼間の厚い胸板が思い出されて、予感めいたものを感じて
いたわ。

それでマンションが近づいて、私が先に駐車場にクルマを置いてお部屋に上がり、しばらく
してから彼が戻る。それだって申し合わせていたんです。同じマンションですからね、闇に
も目がまぎれてる。

お風呂に入って海の匂いをさっぱり消して、それでも電車のなくなる時刻まで待っていて、
それからでした、可愛い下着に着直して電話を入れます。
「大丈夫よ、行っていい?」
「うんおいで、ロックはしてない」
「わかった・・・うふふ・・・いま行く・・・」
エレベーターを使わずに深夜の階段を降りていく。スニーカーは不倫の足音を消してくれた
わ・・・。

官能ホラー 黒い霧神(一話)


一 話


美代子の死は私を恐怖に突き落としたわ。目の前での惨劇です。五時の定時を少し過ぎて
私が先にオフィスを出たの。着替えてロッカーを出ようとしたとき、あの子が入って来たんで
す。春の移動でセクションが変わってしまい、顔を合わせることも減っていたけど、私とあの子
は、はっきり言って仲が良くない。美代子とは同期だったのですが、どういうわけか私を毛嫌
いしてくれて、事あるごとににらみ合っていたんです。

入社したての頃はそんなじゃなかった。むしろ逆で仲が良く、休日なんてよく遊んだもので
した。あるとき私が乗馬クラブに通いだし、あの子を誘ったことからおかしくなった。クラブに
素敵な人がいたのよね。ルックスだけならあの子の方が美人です。あの子は彼を好きになり、
なのに彼は私に声をかけてきた。そのへんから女同士の嫌な空気が生まれたわけで・・・。
仕事では私の方がちょっと上かな。同期ですからなおのこと、微妙に開きはじめた差が気に
入らないこともあったのでしょうが、それに加えて彼の存在が決定的な不仲の元。いつの間
にか口もきかなくなっていた。
何かあるとつっかかってくるのは彼女の方で、私は退いていたんです。私はものが言えない
タイプ。下手に言って火に油ではめんどくさいし・・・。

それで結局、乗馬クラブも私が先に辞めてしまい、あの子にしたって、私がいようがいまいが
それきり彼とは進展しないようでした。私は彼をそれほど好きになれなかった。若くハツラツと
しているのはいいのですが、即断タイプで何をやらせてもキレる分、冷たく感じていたからで
す。
私とは無関係なところで勝手にダメになったのに、一度狂った関係は修復できない。女の嫉
妬の怖さですよね。

それはともかく、ロッカーを先に出た私は、地下鉄の駅に向かって一度は交差点を渡ってし
まい、もう駅というところまで来て、ロッカーに忘れ物をしたことに気づいたの。お昼休みに
近くのお店でブラウスを一枚買っていた。それで私は取りに戻り、そうしたら交差点の歩道
の向こうにあの子が立っていたんです。
片側三車線の広い通り同士が交わる交差点。向こうまでには距離があり、帰宅時刻で周り
に人も多くいて、あの子は私に気づいていない。
何となくですが、すれ違いたくない思いがして、私は横断歩道の端っこまで人にまぎれて動
いていたのね。何人かの人たちを前にして隠れるように立っていました。
そして・・・その人たちの肩越しに、近頃妙にお化粧に気合いが入るあの子のことを見てい
たの・・・ただそれだけのことでした。

そのときです。交差点の向こう側にも人は多くて、あの子は一番前に立っていた。仕事帰り
にしては短すぎるスカートスーツ。帰ることに気合いが入る感じがしたわ。彼でもできたのか
なって思ってた。
そのあの子の背後に、もわもわと黒い影・・・それは黒い霧のようでもあり、黒い雲を千切って
背後に漂わせたようでもあり・・・その黒い影が、ひっきりなしにクルマが通る道路をめがけて
あの子の背を押したのです。突き飛ばした感じだったわ。あの子は悲鳴を上げる間もなくて、
つんのめって道路に飛び出し、黄色信号を走り抜けようとした普通トラックに轢かれてしまっ
た。

「きゃぁぁーっ! 嫌ぁぁーっ!」

悲鳴は居合わせた女性のものでした。道のこちら側から見ていて、彼女の体にトラックが乗
り上げるように轢かれていたから、私はきっとダメだと思った。
仲が悪かったといっても、それとこれは話が違う。周りの人が倒れた彼女に群がって大騒ぎ
になっていた。
けれどもです、このときの私は、彼女を突き飛ばして、すーっと横に流れて消えていった黒
い霧で頭がいっぱい・・・怖くて怖くて、しゃがみ込んでしまったの。
「ああ美代子・・・嘘でしょう・・・ああそんな・・・」
普通じゃないもの・・・あれはきっと悪霊よ・・・そうとしか思えません。

そしたら、しゃがみ込んだ私の肩にそっと手が置かれます。
「大丈夫? 知ってる人?」
振り向くと若い男性。ジーパン姿で、学生みたいな・・・それぐらいの若い子です。
「うん、会社の同僚・・・すぐそこがオフィスだから」
「そうなんだ・・・たまりませんね・・・それにしても嫌なものを見てしまった・・・」
「え・・・」
その子、そんなことを、まるで呻くように言うのです。
「君にも見えた?」
「あ、それじゃ、お姉さんにも?」
「黒い霧みたいな・・・」
「ええ、そうです・・・あれは・・・」 と言いかけて彼、周りに人がいることと、しゃがみ込んだ
私を気づかってくれてでしょうけれど・・・。
「どっかでちょっと話しませんか、あれが見えたのなら、その方がいいと思うから」
「うん、いいけど・・・」
それで私は、ふらつく足で彼と歩き、とにかくカフェに入ったのです。セルフのお店で、私
を座らせ、彼がコーヒーを買ってくれ・・・このときの私はきっと顔色もなかったことでしょう。

「話には聞いていたけど見たのははじめて・・・お姉さんて霊は見える人ですか?」
「ううん、とんでもない、怖いこと言わないで」
「そっか・・・僕も違う。なのに揃って見てしまった」
「うん・・・それはそうね・・・」
「だとしたらきっと、お姉さんの念波と僕の念波が共振し合って二人に同時に見えたんです
よ。あれはたぶん・・・」
「うん? 何なの?」
「死神です」
「死神・・・まさか・・・」
「いえ、おそらくそうだと思います。死神は、ときとして人の姿で、ときとして黒い影となって、
ああして現れては人を死の世界へ連れて行く・・・悪霊などよりはるかに強い存在で、死の
世界の神ですからね・・・狙われたら最後、よほどのことをしないと去ってはくれない。あの
人・・・轢かれたあの女性・・・」
「うん? 彼女が何かしたの?」
「てゆーか、はっきり言って心が良くなく・・・すいません」
「ううん、いいの・・・続きを言って」
「はい、つまり生かしておくと災いを生むだろうと・・・うーん、そうかどうかはわからないけど、
死神に狙われてしまったんです。だけど僕が嫌なのは・・・」
「・・・それを見てしまったこと?」
「です。死神なんて、特別な能力とか、あるいは神父さんみたいに神に仕える人でもない限
り姿の見えるものじゃない」
「そうなんだ・・・」
彼は真剣です。彼だって顔が青いわ。目の澄んだ童顔タイプで、悪い子ではなさそうでし
た。

それで彼、飲まれないまま冷えてしまったコーヒーに口をつけ、息を整えるように言うんです。
「もしや警告かも」
「警告? 私たちに? でもどうして?」
「あのですね・・・怖がらないでくださいよ」
「うん」
「警告というのは僕にではなく、たぶんお姉さんに対してです。お姉さん、あの人を知ってる
でしょ、同じ会社で・・・もしや何かあったのではって・・・」
「な、何かって?」
「仲が悪くて憎み合ってるとか・・・それはつまり女同士のもつれだったりしますけど・・・そん
なようなことが度々あって、死神はそれを見ていて、心の良くない方を連れ去った・・・そして
そのとき、死神はお姉さんのこともちゃんと見ていて、たまたま居合わせた僕との念波が共
振し合って、その姿が見えてしまった・・・決して姿を見せないはずの死神がこっちを見てい
た・・・僕ではなくてお姉さんを・・・おまえのことも見ているぞ、心しておけ・・・そんなふうな
感じでしたか・・・」

ゾーッと背筋が冷えました。あの子のことは好きではないし、それはね、死ねばいいのにと
思ったこともありますよ。家に帰ってそこらのものを叩きつけて「死ね」なんて叫んだこともあり
ました。だけどその程度の感情ならば、およそ誰でも持つものでしょう。

「あ、そうだ」
「え?」
「僕、戸川です、戸川ミツル、二十三です、なのにまだ学生で・・・二浪しちゃって・・・えへ
へへ」
「ああ・・・うん、うふふ、そうよね、お互い自己紹介もまだだった、沢村彩子よ、歳は少し上
かな。お話してくれてありがとう。人のことを悪く思っちゃダメなのね」
「ええ・・・でもまさか死神を見ようとは・・・死神は死という感情を嗅ぎ分けて寄って来るって
言いますよ。人に対して死ねだとか、最悪なのは死にたいとか、ちょっとでも思うとそれを嗅
ぎつけて近寄って来るんです。そして一度動くと一人は必ず連れていく・・・」
「もうやめて・・・怖いから・・・」

それで顔を見合わせて席を立とうとしたときに、彼は言います。

「お姉さんて、これからどちらへ」
「どちらへって・・・帰るわよ」
「一人で大丈夫? 怖いでしょう?」
「それはね・・・怖いって言うか、足が震えちゃって動けない・・・」
「うん、じゃあ送りますよ。僕いまクルマ。向こうに停めて来てるから」
「クルマ? 学生さんなのにクルマなの?」
「いえいえ姉のです、ちょっと借りて出て来たから。ですからどうぞ、送りますよ」
「でも・・・」
「送り狼になったとしても死神よりは怖くない、あははは!」
「まあ・・・うふふ・・・そう? じゃあお願いしていい?」

それが私と主人との出会いとなりました。私は三つ上の二十六歳。大学を出て美代子と同
期で入社して四年目になろうとした。ミツル君とのお付き合いがこのときはじまり、彼の卒業
を待って結婚することとなったのです。