(下)
指定した道具が翌日には手元にあった。宅配便のシステムは世界に
誇るとつまらないことを考えてみたりもした。結城家に泊まり込んだ
私は、荷物を受け取るとすぐに、机の裏側の目立たないところを彫刻
刀で削ぎ取って顕微鏡にかけてみて、我が目を疑った。
「これは・・」
主が傍らにいて興味津々覗き込んでくる。
「なにか?」
「まさかそんなことが・・ますます信じられませんね。机の黒く錆び
て見える木肌は表層のほんの皮一枚で、その下の細胞は元気に生きて
います。常識外だ。まったく考えられないことです。机から伸びる枝
も正真正銘この机の桜そのものですし」
このとき私も主も、そうやって大の男が二人で夢中になっている姿
を、物陰から孝子に凝視されていようとは思わなかった。
私としてはなにがなんでも机を持ち帰り、徹底的に調べた上で論文
にまとめたいところだったが、どうしても承諾してくれない。主は、
机の存在が公になることよりも、万が一それが災いの種になったらと
危惧したのだ。しかたなく私は仙台を後にした。一度大学に戻り、ス
ケジュールをやり繰りして次には少し長期に観察したいと考えていた。
なにしろ植物学にとどまらずこの地球上に存在する全生物学上考えら
れない大発見なのである。
大学に戻った私は、イライラしながら毎日を過ごしていた。ちょう
ど期末の試験に重なって抜けようにも抜けられない。そんな日々が続
いたある日、昼過ぎになって私のデスクの電話が鳴った。
「徳永ですが?」
「私、結城家で家政婦をいたしております小松と申しますが」
「ああ孝子さんですね」
「はい」
受話器から聞こえる若い声が震えるような緊張を孕んでいた。
「どうかなさいましたか?」
「それが・・」
私は慄然とした。
あの文机から根のようなものが生えてきて、それとタイミングを
合わせるように結城家の長女で東京に出ている加世子という娘が、
昨日の夜、新宿の街中で突然狂ったように暴れ出し、そのまま倒れ
て心臓発作で死んだというのである。
そしてそのショックで家の主までが倒れてしまったらしい。
しかし私が恐れたのは、その事実よりも孝子の電話の背後という
のか、電話の向こうで孝子をつつみこんでいる空気感のようなもの
の中に、このときはじめて、ただならぬ霊気を感じたからだ。
こんなとき霊能に長けた妻がいてくれたら、あるいは対処法があ
ったかも知れない。妻はつい昨日から家を空け、友人たちとヨーロ
ッパを廻る旅に出ていた。
そのさらに二日後、大学を開放された私が駆けつけたときには、
主は入院してしまって家にはいなかった。東京から大介という息子
も戻って来ていた。
主は、娘の死の衝撃で起き上がることもできなくなってしまった
らしい。先だって訪ねたときに私にもし強い霊能力が備わっていた
らと考えると、遅きに失したと後悔される。
あの文机のありさまは短い間にそう変わるものではなかったが、
枝の伸びる机の角のところから長さ一~二センチのヒゲ根が二本生
えかかっていて、すさまじいまでの妖気を発していた。まるで陽炎
が立ち昇るような光の揺らぎが机を取り巻いていたのである。
する術もなく呆然と見ていると、傍らにいた大介と孝子が言うの
だった。
孝子が先に口を開いた。
「先生の霊界散歩、私も楽しみにしてるんですよ。よく霊のことを
ご存じだなと思いましてね・・ふふふ」
大介が言った。
「そうだね、僕も孝ちゃんから聞かされたとき、びっくりしたよ。
年月は人にとっては長くても霊にとっては一瞬でしかない・・って
ところが特に」
私は孝子の変貌ぶりを呆気にとられて傍観していた。明らかに人
格が重なっている。多重露出の画像を見るように二人の孝子が折り
重なっているようだ。
「君たちは・・」
孝子が応じた。
「どうぞ机のことは心配なさらないでくださいね。あの桜は、どこ
かに植えてもらいたがってるだけですから。あれはもちろん桜の板
ですが、お孝さんそのものなんですよ。あの机が私と大介さんを東
京で巡り合わせ、そしてこの家へと導いたんですもの」
大介が言った。
「ふふふ、驚かれましたか先生。僕たちはもう二度と離れたくない
んです。二度と誰にも邪魔されたくはありません。父もまもなく死
ぬでしょう。机に宿って生き続けたお孝さんの怨霊が殺すのです。
これ以上は言っても信じないでしょうけれど、僕の前世は当時の結
城の息子、隆太郎。そして孝ちゃんの前世は伊能の娘、お孝なんで
す」
孝子が大介をやわらかく見つめて微笑んだ。
「お父様や加世子さんには気の毒でしたが、私たちにはどうするこ
ともできません。すべては枝折れの桜が邪魔者を排除しようとして
いるだけですから」
二百余年を経て、それでも添い遂げようとするお孝の情念に、私
は打ちのめされていた。今回の妻の旅行も、妻は私と行きたいとず
っと言っていたのである。それを私は仕事にかこつけて拒んできた。
ただ面倒だったというだけで・・。
女の情念には報いなければと、つくづく思う。
「そうですか。孝子さん・・いいや、お孝さん、そして隆太郎さん、
おめでとう、よかったですね」
大介が言った。
「本当にそう思ってくれますか。だったらいいが・・」
孝子が言った。
「先生が先日おみえになったとき、もしも机を持ち出そうとなされ
たら、いまごろ先生は殺されておいででしたわ。そしてもう一つ、
このことは先生の胸にだけ留めておくと約束していただけると嬉し
いのですが?」
私はうなずいた。無関係な私の身を案じて私を呼び寄せた二人だ
った。
孝子の声が、鈴の音のような響きに変化して、お孝となって現れ
た。
「ほらあれを・・ご覧になって」
文机を振り向くと、立ち昇っていたすさまじい妖気が失せていた。
私は女心のように二百数十年を経て、なお枯れず、机に芽吹いた
桜の若木に手を合わせた・・。