2016年11月28日

女忍 如月夜叉(終話)


終話~雪のごとく如月夜叉


 この忍び屋敷は、周囲を男の身の丈よりも高い土塀にぐるりと囲まれ、その前庭は駆け回れるほど広くはなかった。その中で多勢に無勢。にもかかわらず嵐の剣さえ白き般若に届かない。
 お紋は白ずくめの忍び装束。対する夜叉は五人ともに足首まである寝間着の姿。脚が開かず着物がまつわりついて、どうしても後手に回る。手裏剣なども持ってはいなく、このままではいかにも危うい。

 白き般若は、鳥・・いいや、まさに天狗のごとく、夜叉の剣をあざ笑うように宙へと舞い、横へ後ろへ宙返り、その刹那、返す刃が襲ってくる。
 嵐の寝間着の袂が斬られ、五尺寸の長棒を持つ江角でさえも寝間着が浅く斬られている。嵐や江角でなければ死んでいた。はじめて相まみえる恐ろしい敵・・おしろい般若。

 嵐の太刀があしらわれ、狐のごとく、くの字に踏み込む白狐・・お菊の剣が跳ね上げられて、攻めのことごとくをかわされる。
 嵐は寝間着の帯を解き、脱ぎ去って白き夜叉と化していた。
 江角も全裸。体の大きな涼風・・お涼も全裸。白狐・・お菊もそうだし、女陰働きの女郎花・・お雪は、豊かな乳房を弾ませる姿となった。
 これで動ける!
 般若がくすりとほくそ笑む。
「どいつもこいつも殺るには惜しい体だよ。傷もない。それも口惜しい。どうしてもやると言うなら受けてやる・・覚悟せい!」

 般若が舞う。夜叉が追う。
 身の丈をはるかに超える般若の飛翔・・振り下ろされる鋭い太刀筋。
 雪のごとく白き五つの女の影が、女陰を晒して地べたに転がり、乳房を弾ませ、江角の棒が般若に向かって突き込まれたとき・・なんとお紋は、その細い棒の上へと蝶のように舞い降りて、棒に立つ。
 なんという身のこなし。それも大きな女であるはずが棒に重みを感じない。
 江角は、とても勝てないと見切っていた。
「まずはおまえからだ、首はもらう!」
 棒に立ったまま般若の金色の剣が横に振られ、江角の首を跳ねようとしたときだ・・。

 キラリと幻影を引きずるように、二本の打ち根(小さな槍状の手裏剣)が天から舞い降り、うち一本が般若の左肩に突き刺さり、一本は江角の足下の地べたへと突き刺さる。
 不意を突かれて般若がひるんだその隙に、江角は棒を捨てて横っ飛びに剣をかわした。間一髪!
 八角棒もろとも地べたに落ちた般若だったが、たちどころに構えをただし、傷は浅い。
 全裸の嵐は如月流の剣を振り、般若を飛ばせておいて、地べたに突き刺さった打ち根めがけてもんどり打って、打ち根を抜くと、そのとき上から般若の剣。 「死ねい!」
「なんの!」
 女の秘部をあからさまに晒すあられもない姿で嵐は横に転がって、般若の太刀筋から逃れながら、下から打ち根を放つ!
「うっ! うむむ!」
 蒼い星明かりにキラと糸を引く手裏剣が般若の右胸に突き立った。
 そしてそのとき、くの字に切れ込む白狐ならではの太刀筋が般若の左胴を切り裂いた。
「セェェーイ!」
 手裏剣を放って立ち上がりざま、猛然と挑みかかる如月の剣の切っ先が心の臓を貫いた。

 白き般若の装束が血に濡れて崩れていく・・しかし・・。

 倒したと思い、四人は剣を下ろし、江角が八角棒を拾い上げたとき・・崩れ去って屍となったはずのお紋が、恐ろしげな笑い声を上げるのだった。
「ふっふっふ、不覚をとったわ・・されど死なぬ・・もはや痛みすらも感じぬわ」
 全裸の夜叉五人が崩れて蠢く般若を囲み、ふたたび斬ろうとしたときに、般若は鳥のように飛び立って、二階・・いや三階ほども高い大屋根へと舞い上がる。
「おのれ妖怪! 降りてこい!」
 お涼が叫ぶも、装束を血に染めた白き般若は確かに笑った。
「今宵はここまで・・いずれ嬲り殺しにしてくれよう・・」
 そしてその女声が、低く響く男の声へと変わっていく。人の声とは思えない。
「お紋など、もはや逝った。いとしき女の体を借りて生きながらえるも、またよしか・・くくくっ・・さらばだ、そなたらの体、楽しませてもらうゆえ・・」

 白き般若・・お紋の姿を借りた『叡山の鬼天狗』が飛ぼうとしたとき、大屋根の背後から襲いかかる黒い影・・鉄錆色の忍び装束・・ざんばら髪、髭面の大きな男が躍り出た。
 彪牙だ!
「そういうことだったか。どおりで探れど見つからぬはず。俺が相手よ、覚悟せい鬼天狗!」
 全裸の夜叉五人が呆然と見上げていた。
 躍り出た男は強かった。さしもの天狗をたじろがせ、大屋根の上を駆け、天狗もろとも転がり飛んで、庭へと降りた。
 ふたたび構える五人の夜叉に手をかざし、おまえたちは退けと言う。

「セイヤァーッ!」
 すさまじい気合い! 鬼神のごとき彪牙の剣! 
 それを受けきり稲妻のごとく金色に糸を引く、天狗の剣!
 土塀を足がかりに真横に飛んだ天狗の剣が彪牙の装束を浅く裂き、そのとき振るった彪牙の剣が、般若の白装束を浅く裂く。
 両者の影がぶつかるように刃と刃が火花を散らし、一瞬後に、鳥のように、猿のように、二つの影は飛び交わし、駆けてはもつれ、地べたに転がり、ふたたび跳ねる。
 すさまじい戦い・・屋敷の中では、お真知、結、お燕の三人が声をなくして見つめている。まさしく男の死闘であった。
「なかなかやるな、ぐっふっふ!」
 天狗が地の底から湧くように笑い、その刹那、金色の剣を振りかざして挑みかかる。
「なんの、それしき!」
 彪牙の剣がギラギラ光り、金色の剣と交わったとき、彪牙の剣が中ほどで折れて飛んだ。
 忍びの剣をへし折った金色の剣が浅く彪牙の腕を斬り、彪牙が飛び退いて転がったとき、江角の八角棒が横から天狗に突き入れられた。
「ハァァーイ!」

 しかし天狗は、ひらりと身をかわしざまに舞い上がり、ふたたび大屋根の上へと飛んで見下ろした。
「これまでよ・・いずれ会う日を心待ちにするがよい・・ぐっふっふ」
 天狗・・いいや白き般若は、大屋根の向こうへと飛び退いて、どこか空のかなたへ飛び去るように姿を消した・・。

「ちっ・・逃がしたか・・」
 斬られた右腕を押さえながら彪牙が立ち上がったとき、全裸の江角がとりすがって傷を見た。
「かすり傷だ・・すまぬ」
 江角は女の眸色で彪牙を見つめた。背の高い彪牙を見上げるようになる。
「どうしてここに?」
「天狗を殺るのが役目・・ふふふ、抱きてえぜ江角・・」
 そのときになって江角は己が全裸であることに気づいたようだ。
 嵐も。お涼やお菊やお雪もまた、両手で自分を抱くように乳房を隠して恥じらった。彪牙は大きい。彪牙は強い。嵐はともかく、江角も皆も体が火照るようだった。
 江角が言った。
「手当する」
「いや、ほんのかすり傷。江角・・俺の子を成す女・・」
「・・嫌だ・・あっ!」
 恥じらう間もなく、彪牙の左腕一本で江角は裸身をしならせて抱かれ、唇をさらわれて、男の無骨な指先が下腹の翳りへ潜り込み女陰へと差し込まれる。
「はぁぁ! あぁーっ彪牙!」
 江角の裸身がぐにゃりと崩れて彪牙の胸へと抱かれていった・・。

「ああ濡れる・・だめ・・溶けそう・・ぅは・・」
「ったく・・『ぅは』って何だい・・この色狂い・・」
 全裸で抱かれる江角を見つめて、お雪がくにゃくにゃになっていた。
 色狂いと言っておきながら、お涼は濡れはじめる女陰に戸惑った。
「・・いい男」
 嵐の横でお菊が小声でつぶやいた・・。
「憎たらしい・・ふんっ・・」
 嵐は笑って、横抱きに全裸のお菊を抱いていた・・。

 尾張徳川家江戸屋敷は、この後、現在の防衛省のある場所に上屋敷が築かれることとなるのだが、江戸幕府が開かれたこの頃は、水戸、紀州の御三家と合わせ千代田城内(江戸城内)に造られていた。
 尾張から江戸詰めを命じられた藩の重臣の一人が、国元から囲い者(妾)を呼び寄せたのだが、藩邸が城内では滅多なことはできない。そこで、この忍び屋敷から二丁(およそ200m)離れたところにあった、ゆかりの寺に女を住まわせ、配下の者十数名に守られながら密会していた。
 警護の厳しい城を出たところを襲われて、妾ともども首を取られて殺されたということだった。
 その知らせは百合花を通じて二日後に聞かされた。しかし探索もそこまで。瀬田は打ち切りを命じられる。深みに行き着き、世が乱れるということだ。

 瀬田はその働きが認められ、後の江戸町奉行にあたる『江戸市中探索方』を率いるよう重い職が与えられた・・。


 それからの香風・・。
 その日は朝から雨だった。いよいよ入梅。梅雨のはじめは雨は冷え、裏庭の木の葉で跳ねて涼しい風を香風に流す。
 濃い紺の法衣をまとった庵主のそばに、二人ともに鮮やかな茄子紺の法衣を着せられて若い尼僧が座していた。お真知と結。結はお真知に髪を委ねて尼僧となった。

 とそこへ、お客だと言ってお燕がやってくる。今日のお燕は真新しい花柄の赤い着物に茶色の前掛け。娘らしい姿であった。
「庵主様、お客様です、男の人がお二人で」
「あら・・それはめずらしい。お通ししなさい」
「はい」
 お燕は去り際、若い二人の尼僧にこぼれるような笑顔を見せて背を向けた。

 通されて覗いたのは、若くても落ち着いた若旦那ふうの一人と、まだほんの小僧と思われる一人。一人は落ち着いた鼠色の着物、若い一人はよく着込まれた紺色の着物。二人ともに町人髷をきっちり結って、庵主の前へと現れた。
「どうぞお座りくださいませ」
「あ、はい、では・・」
 若旦那が座卓を隔てた庵主の正面。若い一人は一歩退いて後ろに座る。
「わたくしは両国の呉服問屋、橘屋の主で、仙吉と申します」
「・・ああ、はい」
 二本松に晒されたお梅という若妻の亭主・・庵主は、あのとき訪ねてきた憔悴しきった女の姿を思い出す。この仙吉の兄の妻。
「そして、こちらに控えますは、入って間もない丁稚の喜介と申し、歳は十六。わたくしは主とは言え、まだ二十三の身の上でして」
「ええ・・確かお兄様の奥様が」
「そうです、姉がこちらでお話をうかがって、おまえも一度覗いておいでと言われていまして、それで今日」

 仙吉という若旦那は顔色もよく、少しは心も癒えたようだ。
「それで庵主様」 と言いかけて、仙吉は、庵主の横に並んで座る二人の若い尼僧に目をやった。
「これは申し遅れましたわね。こちらの二人は、結と真知。僧の姿はしておりますが出家させてはおりません。ともにちょっと過ちを冒しましてね、御仏の教えを学びつつ、こうしてお客様の声を知ることで女としての修行をする身。どうぞお気づかいなくお話ください」
 そのとき、お燕が茶と菓子を持ってやってきて、客の前へ並べて立った。
 若い丁稚の喜介が、そんなお燕をぽーっとなって見つめている。庵主はすぐにそれに気づいた。
「あらあら喜介さんとやら」
「は、はいっ!」
 小僧、緊張してガチガチ。
「この子はお燕、歳は十七。どうやら気に入ったようですね」
「これ喜介!」 と、仙吉は慌てて制したが、喜介は真っ赤になってうつむいてしまっている。
 去ろうとしたお燕に庵主が言った。
「お燕はどう? ごらんなさい、そなたに一目惚れで真っ赤になって・・ふふふ」
「ぇ・・ぁ・・どうって、そんな・・嫌だぁ、恥ずかしい・・」
 顔を覆って走り去るお燕。庵主と仙吉が笑い合い、喜介はますます借りてきた赤い猫。固まってしまっている。

 庵主はそんな喜介に微笑みながら、仙吉に言う。
「それで今日はどのような?」
 仙吉はこくりとうなずいて言った。
「ひとつは姉がお世話になったことへのお礼・・姉さん、それでどれほど癒やされたことか・・それともうひとつ、聞いていただきたいこともあり・・」
 今度は仙吉が赤くなってうつむいた。心の綺麗な若者だと庵主は思う。
「それはどのような? どうぞお話くださいな」
「はい、あの・・お梅のことがあって、わたくしが川っぺりで泣いておりやすと・・その・・店のすぐ近くの・・米屋の娘で・・名はお咲と申しやすが・・あっしのことを親身になって慰めてくれやして・・あっしもこのまま尻尾を巻いて尾張に帰ぇればお梅は犬死だと思いやして、もう一度やり直してみようかと・・」
 言葉がどんどん素直な仙吉へ崩れていく。
「強いお方・・そうですね、その方がお梅さんは喜ぶでしょう」
「はい、姉さんもそれはそう言いやすし・・そいであの・・ですから・・うー」
 仙吉はしどろもどろ。喜介より赤くなって震えている。

「そんでま・・近所の者がお咲ちゃんとあっしの姿を見ておりやして・・お咲ちゃんは十八で・・いっそ一緒になっちまえって・・ですから・・えっえっえっ縁談が」
 汗だく仙吉。
 よかった・・庵主は涙が出そうだった。妻の死から間もないのに、そんなことになっていいものかということだ。
 庵主はちょっと考えると、黒髪を失ったばかりの結に言った。
「結はどう思いますか? お梅さんとは・・ほら二本松であったでしょう・・」
「・・はい」
 結もお真知も胸が裂けそう。泣いて平伏し、謝りたい。
 結もお真知も涙を浮かべ、結が言った。
「もしも私なら・・としか申せませんが、お咲さんは嬉しいと思いますよ。もう少し間を置いて・・ですけどお二人で手を取り合って・・お梅さんも安心して眠ることができるでしょうし・・」
 ぽろぽろ涙をこぼす二人の尼僧に、仙吉までが泣いてしまってうなずいている。
 仙吉が涙声で言った。
「へい・・これから二本松を見てまいりやす・・お梅の奴に手を合わせて・・ぅぅぅ」
 堰を切って泣き声があふれだす。

 大粒の涙をこぼし、手を合わせて震えている結と真知へ、庵主は静かな視線をなげながら、死よりも辛い償いだろうと考えていた。

 仙吉、喜介の二人が帰っていくとき、坂の途中で何度も喜介は振り向いて、竹垣の横からひょこっと顔を覗かせるお燕が手を振った。
 そんなお燕の両肩に源兵衛がそっと手を置いた。大きな手だった。
「ずいぶんと可愛らしい小僧じゃねえか。背格好もおめえにぴったりよ」
「嫌だ・・源さんまでそんな・・ンふふ、けど可愛い・・ンふふ・・」
 源兵衛、高笑い。その声は香風の中まで響いていた・・。


女忍 如月夜叉 『おしろい般若』 完

女忍 如月夜叉(二三話)


二三話~犬耳


 朝には笑って出て行ったお真知が、長かった黒髪を剃り上げて戻ったとき、五人はかける言葉もなく見守っているしかない。お燕までが目を泣き腫らしたひどい顔。
 尼僧の衣を与えられているならともかくも、町女そのものの明るい柄の小袖のまま髪がなければ、なおさら異様な姿に映る。
 お真知は戻るなり小さな仏壇の前の板床にへたり込んで動かない。
 香風で何があったのか、夕餉の支度をしながらお燕に聞かされ、五人の胸中には、たまらないものがこみ上げてくる。

 と・・何を思ったのか、お真知は立ち上がって嵐のもとへとやってきた。
「話していいですか?」 と、お真知は足下の床を見る素振り。
「結だね?」
「はい」
 お真知はきっぱりとした意思のある面色。嵐はちょっと眉を上げて言う。
「わかった、降りよう」
 夕餉の支度も後回しに、お燕まで女たち七人が揃って地下へと降りて、お真知は牢の中の結を覗いた。
 牢に入れられてから一月あまり。その間、まさかすぐ上に仲間だったくノ一が暮らしているなど、結は思ってもいないこと。
「結、あたしだよ」

 結の眸が敵意に底光りして厳しい。
「お真知・・おまえだね、あたしを売ったのは!」
 牢の中で立ち上がり、太い角材を組んだ格子にすがりついて猛然と詰め寄る結。結は見る影もなく窶れていた。それなりに食べてはいるからそう痩せてはいなくても牢暮らしの窶れは隠せない。
「出してやりな」と嵐が言った。
 お雪に牢の口を開けられて、結は踊り出ると、お真知の胸ぐらをつかんで挑みかかる。
「よくも仲間を売ったね!」
 裏切った者には死あるのみ。それが忍び。

「うるさいよ、いい加減にしないか!」
 パシーン!

 地下に淀む空気が震えるほどのお真知の平手打ち。結はふっ飛ばされて転がった。浴衣一枚。腰巻きさえしていない裾が割れて白い尻までめくれ上がった。
「裸にして縛ってやって」
 お真知に言われる通り、お菊とお涼で暴れる結を取り押さえ、浴衣を脱がせて裸に剥いて、二本並ぶ泣き柱に大の字に縛り付けてしまう。
 あのときのお真知そのもの。
 お真知は、そこらに置いてあった細い竹の棒を手にすると、横に立って結の尻を打ち据える。手加減のない拷問打ち。白かった双臀に青痣が浮き立っていく。
 悲鳴、悲鳴・・もがく、もがく・・それでもめった打ち。尻も背も血だらけになっていく。
「畜生ーっ、殺せーっ!」
「まだ言うか!」
 波打つ腹も、ぶるんぶるん暴れる乳房も、打ち据えるごとに血筋が浮かぶ。

「生き直そう結、もう一度やり直そう」

「仲間を売っておいて何を言うか! いっそ殺せーっ!」
 お真知は町女の着物姿。なのに髪を剃り上げたばかりの青い坊主頭。結ももちろん、その意味は察していただろう。
 お真知のあまりの仕打ちに皆は声さえ出せなかった。お燕など怖がって江角にすがりついている。
「結、いまのままじゃ死んだも同じさ、生きよう」
 血と汗と垢にまみれた結の体。お真知は寄り添い、涙を流して抱き締めた。
 しかし結は顔をそむけて取り合わない。
「いまさら遅い・・しくじったくノ一には死あるのみ・・いっそ死にたい」
「まだ言うか!」
 そしてお真知は、あのときの火箸を手に取って太い蝋燭の炎にかざす。赤く焼けた鉄が白い煙を上げている。

「な、何をする・・嫌だ、やめてーっ! 嫌ぁぁーっ!」
「死すなら同じ・・生きようとしないなら同じこと・・」
「ひ、ひ、ひぃぃーっ!」
 結の眸が血走って見開かれ、下腹の黒い翳りに寄せられる焼けた鉄を見据え、内股に脚を閉ざして尻を振って逃げようともがいている。
「静かにしないか! 罪の分だけ罰はある。けどね、罰があるから許される。毛の中なら目立たない。これは仕置だ、覚悟しな!」
 このときお燕は、いまさらながら、あのとき自分がしたことを思い、耳を塞いで目をそむけた。

 この役目をふたたびお燕にさせるわけにはいかなかった。仲間たちにさせるわけにはいかなかった。お真知は心を鬼にした。

 断末魔の悲鳴・・シャァァーッ

 失禁する結。下腹の毛の中に焼け火箸の先が潜り込み、毛と肉を焦がす匂いが満ちた。しかし傷はわずか。火箸の先が触れた程度の傷だった。

 火箸を置いて振り向いて、お真知は涙を流して結を抱く。
「あたしらと一緒に生きよう。いまのまま死ぬなんて可哀想だよ。お願い結、思い直して」
 抱き締めて、棒打ちで痛めた背や尻を撫でまわし、手を血だらけにするお真知。
 それからお真知は、涙に揺れる目で皆を振り向き、自らの帯を解いて着物を脱いだ。襦袢も脱ぎ、腰巻きも脱ぎ去って、お真知も白い女となった。
 黒髪をなくした女体に下腹の翳りだけが妙に黒く浮き立って艶めかしい。
「ごらん結、ほら」
 自らの草むらを分けて、己にもある後悔の焼き印を、結に見せつける。
「あたしだって償ってるんだ。だから許され、ここにいる皆にどれほどやさしくされたことか・・ねえ結、あたしと生きよう」

「・・死にたくないさ・・体が臭い・・吐きそうだ・・助けてお真知・・助けて・・」

 結は、折れた。
 黙って見ていた嵐が歩み寄って裸のお真知を抱いてやる。それから結にも歩み寄り、泣きだした結の顔を覗いて言った。
「人の情がわかるなら、そなたなりの償いはできるはず」
 嵐が結を抱いてやる。
 江角も結を抱いてやる。
 お雪も、お菊も、お涼も・・お燕など泣いてしまって抱いてやる。
 お菊が言った。
「あたしは風魔、白狐。けどいまは菊なんだ。あたしらだってくノ一さ、おまえを殺りたいなんて思っていない」
 結は、力の失せた眼でうなずいた。

 その頃、香風では・・。
 寂びた庭の東屋に並んで座り、雲間に煌めく星を見ていた。

「女の恨み・・内にこもる、どろどろとしたもの・・」
「・・」
「そのために女たちが死んでいく・・」
「うむ・・哀れなものよ」
「・・虚しい」
 百合花は源兵衛に寄り添って月を見上げた。今宵の月は妙に赤い朧月・・。
「抱いて源さん、夢が見たい・・」
 そんな二人のひそやかな抱擁を、夜陰にまぎれて見つめる眸があった。二人はそれに気づかない。百合花と源兵衛の影が重なった。

 香風からなだらかに下る坂道をふらふら歩む人影ひとつ・・。
「男の影などぉ~それはそれぇぇ~恋し恋しやぁ~想い人ぉ~♪~っと・・ふふふ、今宵の月め、恥ずかしがって隠れてやがる・・布団にくるまる百合花のごとく・・ふふふ」

 女ばかりの忍び屋敷に、さらに一つ膳が増えた。牢を出された結は風呂を許され、さっぱりした面色で、板の間の広間に八つ並ぶ膳につく。
 今宵は焼き魚と芋の煮物。江角とお雪がこしらえてお燕が手伝う、穏やかな夕餉であった。
 支度が調い、食べようとしたときに、一際体の大きなお涼が言った。
「けど何だね・・困ったよ」
 お菊がちょっと眉を上げ、お涼はにやりと笑って夕餉に加わる結を横目に言う。
「狭い」
「ふっふっふ、そなたが大きすぎるのさ」
 と江角が笑い、皆が笑った。

 狭くなる。食の席もそうだったが部屋割りにも困る。「雑魚寝もいいさ」とお雪が言って、声を上げて皆は笑った。
 結はすっかり小さくなって、お真知の陰に隠れるように声もない。おそるおそる箸に手を出し、煮物を一口・・手にした煮物の器を見つめながら口へと入れる。
「・・美味い」
 両側を挟んで座るお真知とお燕が目を合わせて微笑んだ。
 そのとき嵐は素知らぬ顔で食べていて、皿に寝そべる焼いた魚に言うようにつぶやいた。
「今宵は結とあたしが下に寝るよ。上は上で好きにしな」

 同じように焼いた魚を箸先で崩しながら、お涼がちょっと微笑んだ。こういうときの嵐のやさしさが嬉しかったからである。

 渡し板で塞がれた囲炉裏を挟んで布団を敷いて、嵐と結が横になる。
 そのとき嵐は、白木の仕込み杖を結に手渡す。結は呆然として受け取った。
「江角のものさ、今宵のところはそれしかない」
「刀をあたしに・・」
「許すとは、すなわち信ずること。おまえは仲間を思うくノ一らしい。明日にでもおまえの剣を用意する」
「・・お頭様」
「その言いようは、よせ。姉様でいいし、名でもいい。あたしは嵐」
「・・噂に聞く、あの如月の霧葉様の・・?」
「娘だよ。よって我らは如月夜叉。だいたい頭はあたしじゃないしね。今宵はもういい、体を休めよ」
 結は、受け取った仕込み杖をそっと布団の横に寝かせて置いた。嵐は嵐で仕込み杖を傍らに忍ばせる。

 眠れなかった。結は心が震えていた。
 そのうち嵐が静かな寝息・・結はそっと目を閉じた。

 ところが・・その深夜。
 結が刀を手にする気配で嵐は目覚めた。

「どうした?」
「しっ・・気配が・・」
「何・・」
「外が騒がしい・・少し遠い・・一丁(およそ100メートル)ほど先かと・・」
「一丁・・それが聞こえるのか?」
「大勢の者たちが駆け回っている・・尋常じゃない」
 しかし嵐には何も聞こえない。
「忍びか?」
「いえ違う・・足音が荒い・・おそらくは侍ども・・来る・・こちらに来る・・」
 それでもまだ聞こえない。
 そのとき結が、ヒュゥイ~ヒュイと犬笛のような口笛を・・人の耳には聞き取りにくく、しかし忍びには聞こえる音。二階に眠るくノ一たちに聞かせるためだ。

 そのわずか後に、ばたばたと駆け回る草履の音が屋敷の前から聞こえだす。
 そのときには、こちらはすべて起き抜けて、広間に集まり、刀や棒を手にしていた。
 そうするうちに今度は、結が広間の天井へと目をやった。天井は板張りだ。
「屋根・・いま何かが舞い降りて・・いや飛んで・・」
 それもまた皆には聞こえない。半信半疑であったが、屋敷の外には確かに大勢の者たちが駆け回る音がする。
 固唾をのむ静寂・・けれど結は刀を置いた。
「・・去った・・遠のいて行く・・」
 皆は結の不可思議な行いを目の当たりに声もない。
「あたしは生まれながらの犬耳・・吹き矢ぐらいしかできないけれど耳では負けない。だからあたしは探りが役目。牢にいて上の声は聞こえていた。お真知がいるとは思わなかったが・・」
 恐ろしい力だと嵐は思った。如月夜叉になかった力。音の嗅覚とでも言えばいいのか・・。

 江角が言った。
「何かがあった・・おそらくそれは般若・・もしくは天狗の仕業」
 嵐は、あのとき万座で白き般若が侍どもに言った言葉を思い出す。
『帰って伝えろ、首をもらいに行くからな』
 ということは、この屋敷のそばに黒幕がいたということになる。
 襲った敵を追いかけて侍どもが右往左往・・そんな絵図が描けていた。

 いっとき静まり、それぞれ立とうとしたときだ。
「静かに・・」
 結がふたたび天井を見上げ、目配せしながら刀をとった。
「屋根・・いま舞い降りた・・この庭だ・・」
 嵐が言う。
「真知と結はお燕を頼む。皆は行くよ!」
 お真知はとっさにお燕をかばい、結と三人で奥へと控える。
 ほかの夜叉五名が、庭への板戸へ忍び寄り、目配せして、板戸をバンと開け放つ。

 大屋根から舞い降りた、全身白装束、白塗りの般若面・・おしろい般若が、片膝をつく姿でそこにいた。
「おや・・気づいたようだね、耳がいいこと。こたびは、しばしかくまってもらおうか。そなたらの成すべきことをしてきたのでね・・ふっふっふ、如月夜叉・・たいそうな顔ぶれだよ」
 白き般若・・いいや、お紋は、すっと立ち、その周りを瞬く間に夜叉五人が取り囲む。江角一人が八角棒、ほかの四人は抜刀し、嵐は右片逆手で切っ先を下げる如月流の剣構え。しかし五人は寝間着姿で動きづらい。
 嵐が問うた。
「黒幕を殺ったのか?」
 白い般若面の目の穴から、にやりと笑うお紋の眼差し。
「いずれわかる。・・ふふん、よせよせ、ここで争うつもりもない。ついでに立ち寄ったまでのこと・・そなたらに倒せるあたしじゃないよ」

 嵐はさらに身を沈め、皆もすり足で間合いをはかり、そんな中で嵐が言った。
「笑止! 覚悟!」
 このとき般若は抜刀せず。
 瞬時に間合いを詰めた嵐の剣が、右斜め下から逆袈裟斬りに般若を襲う。
 しかし般若は鳥のごとし。嵐の身の丈をはるかに超えて舞い上がり、刹那、肩越しに覗く白い鞘から、あのとき万座で煌めいた金色の不可思議な剣を抜き去った。日本刀と青竜刀の間にあるような反りの強い剣である。
 舞い上がり、直線的に上から襲う般若の剣!
 嵐はその太刀筋を読み切って、一の太刀を受けると横に反転、もんどり打って転がって、起き上がりざまに踏み込んで、二の太刀を浴びせにかかる。

 されど般若は人にあらず。飛翔からつま先で着地するなり、後ろへ宙返りして嵐の剣を交わし、そのとき横から斬り込んだ涼風の剣をも同時に跳ね上げて、中腰に身を沈め、金色にギラつく剣を身の右横に瞬時に構える。

 般若は強い! 嵐ですらが、あしらわれてしまっている・・。

女忍 如月夜叉(二二話)


二二話~香風のお真知


 入梅を控え・・というわけでもないだろうが、二日晴れて一日は雨になる。そんなような繰り返しがしばらく続き、半月ほどが流れていた。

 数日前からお真知はお燕と一緒に屋敷を出て香風で働くようになっていた。ついしばらく前に剣を抜いて襲った場所。お真知はそのときのことを忘れられず自ら願い出て働いた。町女の結髪で綺麗な着物に身をつつみ、けれども胸の内は苦しかった。
 忍び屋敷の板の間に小さいながら仏壇を据え、日に何度も向き合っては手を合わせる。時が経って女の幸せを想うほどに、許されてはいけない身の上だと思えてくる。周りが許してくれるほど苦しくなってしまうのだった。
 香風にいたい。庵主のそばで我が身を見つめたいと思うのだ。

「庵主様、お客様でございます」
「うんうん、お通しなさい」
「はい、かしこまりました」
 昼をとうに過ぎた八つ(二時頃)となって、一見して武家と思われる母と娘が訪ねて来た。二人ともに質のいい小袖の姿。頭巾などはしておらず、母は四十代の末あたり、娘はまだ十代で、ちょうどお燕ほどかと思われた。
 二人を庵主の待つ奥の間へと案内し、一度引っ込んで茶とよく冷えた葛餅を整えて、お客の前にそっと置く。
 そんなお真知に庵主は座れと言うのだった。

「この子はお真知と申しましてね、いろいろあってここに置くことにしましたのよ。ご一緒させていただいてよろしいですわね?」
「はい、それは・・はじめまして、お真知さん」
「いいえ、とんでもございません、こちらこそはじめまして、どうぞよろしくお願いいたします」
 心を正したお真知は落ち着いて美しかった。
 法衣をまとって尼僧となった百合花が問うた。
「それで今日はどのような?」
「はい」
 母は武家の品格に満ち、それは美しい女であった。娘ももちろん整った可愛い顔立ちをしている。

 連れて来られた娘の名は、お文(ふみ)。お燕より一つ下の十六であるという。そろそろ婿をと考えだしたとき、じつは屋敷に出入りの植木屋の若衆と好き合っていた。身分が違う。どうしたものかということだった。
 もちろん二人は清い仲でおかしなことにはなっていない。当然のように父は怒り、しかし母は添わせてやりたいと考えている・・ということだ。
「当家は娘ばかり三人がおりまして、この子は末。上の二人はすでに嫁ぎ、残ったのがこの子なのです。主もそれは可愛いがり、名のある家に嫁がせようとしたところ、どうしても嫌だと泣くのです。許されないなら家を出るとまで申します、勘当されてもかまわないと」
 お文は恥じらい真っ赤になってうつむいてしまっている。
「おやおや、愛おしくてならないようですね」
 悟りをひらいた尼僧にやわらかな眸を向けられて、娘はこくりとうなずいた。
 初々しくて可愛いと、そばにいてお真知も思う。

 庵主が問うた。
「命をもいとわない?」
「はい、お慕いしておりまする、それはやさしいお人です」
「そうですか。それでお相手の方は何と?」
 庵主に訊かれ、母が想いを秘めたように微笑んで応じた。
「それがまたきっぷのいい若衆でして」
「江戸っ子なのですね」
 母は口許に手をやって笑いながらうなずいた。そうした若衆なら私でも惚れると言わんばかりの微笑みだった。
「身分の違いに臆することなく主の前に平伏して、浮ついた心ではない、許されないなら斬ってくれなどと申すもので・・この子もこの子で、そんなことになるのなら後を追うなどと。さしもの頑固者も、じつは揺れているのですよ。何も申しませぬが私にはわかります、先の二人のこともありますし一人ぐらい思いのままにさせてやってもいいのではと考えているようで」

 そこで庵主は、顔を上げてお真知を見た。
「お真知ならどう? もしもそなたがお文ちゃんなら?」
 母子二人がお真知を見た。お真知は身の震える思いがする。
「そのような庵主様、私などに・・」
「いいから思うままを言ってごらん」
「・・はい、では申し上げますが」
 お真知は顔色が白かった。
「いいのです、そなたの想いを聞かせておくれ」
 と母にも言われ、お真知は浅くうなずいた。
「女は好いたお方に添うことこそ幸せと申すもの。けれどお文さん」
「あ、はい?」
 鈴の転がるお文の美声。くりくりとした瞳が黒光りして胸の内の期待を物語るようだった。

 お真知は言った。
「お武家様と下々は何もかもが違います。お武家様の娘として町人を迎え入れるようなお考えではいけません。自らが後戻りできないところに立って、好いたお方のもとへと迎えていただく。身分は違えど殿方なのです、何があろうと見下ろすようでは決してうまくいきません。よくよくお考えになられ、それでもと思われるなら、お父上様を何としても説得しないとなりませんね。命を賭してお願いすればきっとわかっていただけると思いますよ」
 母子は、そう言いながらもぽろぽろと涙をこぼすお真知の姿を驚いたように見つめていた。
 そうして嫁いでいったはずの若い内儀を責め殺すことに加担した。胸が張り裂ける思いだった。

 そしてその帰り際、母は目を潤ませてお真知の手を握って帰って行った。

 厨に引っ込んだお真知はさめざめと泣いていた。己などとやかく言える女じゃない。
 そしてお真知は、百合花にあることを願い出た・・。
「髪を?」
「はい・・どうしても・・昔の私を捨てるため・・」
 百合花はうなずき、しかし言う。
「わかりますよ、心根はもちろんわかりますが・・」
 お真知の心は決まっていた。
「それであの、どうしてもお燕ちゃんに落として欲しい。恩人なのです、お燕ちゃんに救われたようなものですから」
 そのとき、お燕も源兵衛もそばにいた。
 お燕は源兵衛に取りすがって涙をぽろぽろこぼしている。
「・・仕方ありませんね。ではお燕、そうしておあげ」
「は、はい・・姉様・・可哀想・・ぅぅぅ・・」
 お燕は泣き崩れ・・それでも百合花から剃刀を受け取って、お真知の結い髪を降ろし、御仏に合掌しながら目を閉じたお真知の肩に手をやって、それから髪に刃を入れた。

 黒髪をなくしたお真知は、百合花に平伏し、それから厨へと引っ込んだ。法衣などではもちろんなくて、清楚な小袖を着込んだまま・・。
 そのときのお真知に涙はなかった。道を見据えた強さが滲む。
 お燕は百合花のそばに留まって片づけをしていた。厨に引っ込んだお真知は、源兵衛のそばで黙り込んでただ働く。
 源兵衛が言う。
「偉いぜ、お真知よ、心が震えた・・うむ震えた」
「源さん・・やっと少し・・少しだけ・・」
「うむ、わかる・・辛かろうな」
 源兵衛はお真知の肩に手を置いて、そのまま静かに抱き寄せた。
「源さん・・」
「半分背負うさ」
「え・・」
「半分背負ってやるからよ。わしだって振り向けば似たようなもの。おまえはもう独りじゃねえ、庵主様のもとで励むがいい」

 喉を搾るような慟哭は、そのとき百合花にもお燕にも届いていた。

 客が去ってかぶり物を脱いだ庵主は百合花であった。艶のある黒髪が肩を超えて伸びている。
 百合花はお燕の肩を抱きながら言った。
「髪はやがて戻るもの、私のようにね」
「はい。そうしなければ示しがつかない・・」
 お燕の目は赤いまま、いまにも泣きだしそうだった。
「そうですね、その心根はわかります。ここで働くようになり、女たちの可愛い悩み、苦しい胸の内を知るにつけ、なおのこと己を責めたくなるのでしょう。お真知はもう大丈夫。頃合いを見て女に戻してあげましょうね」
「はい・・そうなると嬉しい・・」
 百合花は、やさしいお燕を横抱きに抱き締めると、結はどうだと問うた。
 お燕はちょっと首を振る。
「もう暴れたりはしませんが、死にたいと言って・・」
「なら殺しておしまい」

 お燕は驚き、百合花の涼しい横顔を見つめた。百合花は微笑んでいる。
「おまえの手で殺しておしまい。お真知のときのように。結という女は甘えたくてならないようね」
 お燕はハッと目を見開いて、嬉しそうに笑うのだった。

女忍 如月夜叉(二一話)


二一話~銭の重み


 香風から戻った、嵐、江角、お涼、三人の風呂上がりを待つように夕餉の支度がされていた。お真知は江角に引けを取らず料理が上手かった。一口食べて嵐は驚く。考えてみればあたしはろくにできない。そう思うと剣に明け暮れた日々が思い出され、すでにない母や父や、如月一族の皆のことを思い出す。
「それでね」
 陽気のいいいま渡し板で塞がれている囲炉裏を囲む席で、いきなり切り出した嵐の言葉に皆は目をやった。
「約束通り、あたしら五人に千両ずつ。それは約束だから五人には一箱ずつ配るけど。けどね、残り九百両のはずが千両ずつ入っている。すでに百両もらってるから、つまりは五百両多いってことになる。そこで皆に相談なんだが、百両ずつ出してくれないか」
「私ならいいよ、なんなら百両だけでもいいぐらいさ」
 江角が言って皆が見た。
「これからの私たちのために使って欲しい。代わる者のない仲間だ、ここを出たらまた彷徨う。もう嫌だ。お紋ではないけれど、もう嫌だよ」
 
「あたしも。千両箱なんて荷が重い」
 と、お菊が言った。
「あたしもだね、怖くなる金子だよ」
 と、お涼が言った。
「・・うーん、ならあたしも」
 未練があるのはお雪らしい。しかしお雪は穏やかに笑ってお燕に目をやりながら言う。
「けどそれじゃ不平が出るね」
「不平とは?」
 と、江角がお雪を見つめた。お雪が言う。
「お燕にはないのかい? それにお真知にも? お真知には身の回りのものだっているだろう。お燕なんて懸命に働いてくれてるんだ」
「いえ・・あたしは・・」
 お燕はとんでもないと言うように目を丸くして首を振る。
「あたしはお店でもらってるから姉様たちのお役に立てて。あたしは身の回りのお世話だけなんだし・・」
 そういうお燕をお雪は見つめ、さらに言う。
「ほらね、健気だろ。だからさ姉様」
 嵐はうなずいて皆を見渡す。
「わかってるよ、ありがとね、お雪。ではお燕にも百両、お真知には・・」
 と言ってお真知に目をやったとき、お真知は言った。
「あたしなんて・・そりゃ着物はいるけれど・・。なら姉様、仏壇が買えるだけくだされば」
「仏壇? ここに置くのかい?」
 お真知はうなずいて、つぶやくように言う。
「一生手を合わせていたいから」
 嵐は皆を見渡した。皆の面色はやさしかった。
「わかったよ、ではそなたにも百両」
「百両・・そんなにはいりませんから」
「いいからもらっときなよっ、姉様方の気持ちじゃない」
 隣りで食べるお燕が、正座で座るお真知の肩をぽんと叩いた。

 嵐はちょっと困ったように小首を傾げて言う。
「さて最後に結だね。どうしたものか・・」
 お菊が言った。
「いっそ殺せとほざいてやがる。可愛げのない女だよ」
 皆は声を出さなかった。

 夕餉を済ませ、上にお燕とお真知を残したまま、五人は地下へと降りていく。 牢の中の結は、牢に入れられてから幾日も風呂など許されず、結った髪もとうに乱れてばさばさで、糞尿の臭いも漂って、それこそまさに獣の匂いに満ちていた。着乱れた浴衣姿で力なく脚を投げ出して座っているのに、目だけはぎらぎらと敵意が宿る。
 嵐は牢の前にしゃがんでそんな結を見つめ、ちょっと睨み合って言うのだった。
「ふうむ・・どうしようもない女だね」
「やかましい、殺せ・・」
「お紋は死んだよ」
「何・・」
「おそらくは好き合った男と刺し違えて一度は死んで、しかし蘇って白き般若となって化けて出た。自刃しても死ねないなんて惨いものだね」
 結はちょっと目を伏せて思いをはせるようだった。
 嵐が言う。
「けどね、そんなお紋も二人の手下もろとも侍どもに襲われたさ。口封じだよ」
 結は目を合わせようともせずに聞いている。うつむいたまま目を上げない。

 そんな結が眸を上げて言う。
「嘘じゃないな?」
 嵐はうなずく。
「おまえに嘘などついてどうする」
 そして嵐は、お雪に言って大きなタライに湯を用意させ、牢の前に置き、それからお菊とお涼の二人に言った。
「出してやりな」
 それから結に向かって言う。
「体を拭け、臭い。その間に誰か牢を掃除してやるんだね」

 牢から引きずり出されて周りを囲まれ、裸となった結は、大きなタライにしゃがみ込んで手拭いを絞っている。体つきはお真知ほど。乳こそ小さかったがくびれて張る男好きする体をしている。肌は若く、目立った傷のない綺麗な体。しかし牢暮らしで痩せ細り、肋が浮き立ってしまっている。
 女ばかりの中、地べたに片膝をつき、体を拭いて、用意された着替えの浴衣を腰巻きをせず裸に着込む。それでも髪までは洗えず、少し匂って臭かった。
 その間にお雪とお菊で牢の中を掃除する。二人が出て、結をすぐには牢に戻さず、ムシロを敷いて座らせる。
 段差のあるわずかばかりの板の間の縁に皆は座り、そんな結を見下ろした。
 蝋燭の灯火はいかにも弱い。

「世をすねてどうする。少しは考えたらどうだ」
 江角が言い、続けてお雪が言う。
「いまのままでは道はない。尼となる資格すらない。お天道様を見ることもできないだろう。まあ、おまえ次第さ。おしろい般若は失せた。我らは公儀の者ではないからね、死罪のどうのと言える身でもないんだよ。死にたいなら匕首をやろうじゃないか。牢の中で惨めに死んでいくがいい」
 答えようともしない結。
 もういい入れと嵐が言い、立って背を向けた結に向かってさらに言う。
「おまえには耳もある、頬も綺麗だ。お紋の苦しみを考えろ。好いた男と刺し違え、それでも死ねず・・天狗とやらの法力だろうが、生き返ったところで修羅の道ぞ」
 それから嵐は皆に向かって言った。
「こやつはだめだ、自ら魔道を選んでいる。しばらくは牢暮らし。それでだめならそのときは・・いたしかたないだろうね」
 それでも結に声はなかった。嵐の言葉を聞きながら牢の口をくぐって入る。
「おまえの役目は探りだね?」
 と、江角が問うた。
「・・そうさ」
 吐き捨てるように言う、結。
「酒膳の親爺も仲間だな? もはや隠す意味もなかろうて」
 結は牢の中に座り直してこちらを向くと、わずかだが弱くなった眼の色で江角を見上げた。
「仲間と言うならそうだろうけど般若じゃない。甲賀の草さ」
「豊臣の手か?」

 結はうなずき、しかしもはや違うと言った。
「・・何もわかっちゃいないんだね。豊臣徳川と二分するが、西方では身を偽る者はごろごろいる。徳川とて豊臣の家来の一人だよ。豊臣に心を残しながら徳川に仕える者は多いし、そのじつどちらでもない者もいる」
「尾張にも入り込んでいるんだろうね?」
「ふんっ・・それだけじゃないさ、小早川の残党もいれば・・あたしらだって生きている。獅子身中に虫だらけ・・けどあたしにはどうでもいいことさ。あたしら一族などおしまいだ。銭のためなら何でもやる」
 そして結は、如月夜叉の頭である嵐を見つめた。
「お察しの通りだよ、尾張に巣食う虫が糸を引く。尾張周辺で関ヶ原の前に寝返った者を探れ。そこまで言えばわかるだろうが、尾張だけのことでもないのでね・・」
「お紋に拾われたんだな?」
 嵐に言われて結はうなずく。
「じかにじゃない、手下どもにさ。商家を探って女をさらう。役目はそこまで・・」
 お真知と同じような下っ端。お真知と違うところは乱世への恨みが強いということで。

 そのとき、万座には行かず屋敷を守ったお菊が言った。
「あたしらで話した」
 嵐と江角がお菊を見て、お涼は、そのときうなずく素振りをしたお雪へと目をやった。
 お菊が言う。
「こやつは喋った。万座と知れたのもこやつが喋ったからだ」
 お雪が言った。
「生きる道もあるんじゃないかってね」
 牢の中から結が目を見開いて見つめている。
 嵐は、そんな二人にちょっとうなずき、ふたたび結を見据えて言う。
「我ら如月夜叉は、女の敵は女が葬る・・そうしたものだ。生きる道が残る者を殺したりはしない。そこをよく考えろ」

 声を失った結を残して上へと上がった五人と入れ替わるように、お燕が握り飯と味噌汁を持って降りて行く。
 嵐は、結ががつがつ獣のように喰っているとは聞いていた。それが望み。生きようとするから喰う。
 そのときお燕は、結が喰う姿を牢の外にしゃがみ込んで見守っていた。
 お燕が言った。
「お紋て人、いっぺん死んで生き返ったそうじゃないか」
 結は握り飯に喰らいつきながら目を上げた。
「女房みたいなもんだとよ」
「女房・・?」
「天狗様に救われたのさ。惨い責めで化け物にされた女なんだよ。恨みの深さがどれほどのものか。あたしだって、そんな頭に救われた」
「どういうこと?」
「銭だよ。それしかないだろ。主家の滅んだ忍びなど地獄。散り散りとなるが常だが、それは仲間から逃げようとするからだ」
「仲間から逃げる? どうして?」
「抜けたいのさ。忍びを抜けて、まっとうに暮らしたい。けどね、そうなると我が身一つ。下働きでは喰えないし銭が欲しくばと体を狙われる。女郎に身をやつす者もいる。まっとうに生きようとすればするほど苦しくなる。銭の重みを身をもって知るんだよ」

 お燕は結を見つめて聞いていて、己の身の上を話して聞かせた。
「けど、あたしなんてどうってことない。お雪の姉様は女陰働きだったって・・敵の枕で破瓜の痛みを知ったと言っていた」
 結の面色が微妙に変わった。お燕の声を聞いている。
「抱いてくれた男が毒にもがいて死んでいく。そうやって役目を果たしても、夜な夜なうなされて苦しんだって・・それであたしね」
「うむ?」
「くノ一に生まれなくて幸せだったんだなって思ったんだ・・いろいろあったけどそこらの町娘なんだもん。姉様方が可哀想・・それは結の姉様も・・」
「・・もういい、つまらん話はするな」
 結は、喰い終わった皿と椀を盆に載せ、突っ返すように差し出した。

女忍 如月夜叉(二十話)


二十話~白き般若


 それからさらに二日を待たなければならなかった。

 山深い湯治場へと通じる道筋に女の影が二つ。時刻は昼の九つ(十一時過ぎ)。女たちは二人ともにまだ若く、三十代のはじめかと思われた。それぞれに髪を結い、辛子色に格子柄、若草色に縞柄と、明るい色香の漂う着物。太花緒の旅草履に脚絆を巻き、編笠と白木の杖を持つ旅姿。ところどころ傾斜のきつい坂道をものともせずに歩き通すいい脚を持っている。
 背丈もこの頃の女としては高く、引き締まった体つきとスキのない目配りからも明らかにくノ一。二人は湯治場へと脚を踏み入れると、迷わずお紋のいた宿へと向かうのだった。

「もしや、さっきの棺桶・・?」
「おそらくね。向かうよ」

 お紋の死を知ると二人はすぐさま引き返し、足早に山を降りて行く。
 お紋と、平九郎と言う鬼のような男の屍は、役人の調べを終えて棺桶に入れられて、一足違いで麓の村との間にある山寺へと運ばれた後だった。ここまで登って来る間にすれ違った棺桶二つを載せた荷車。女たちはお紋を追うつもりなのかもしれなかった。

 小さな山寺には老いた住職が一人。ここら一帯で死人が出ると、運んだ人々自らが穴を掘って埋めていく。山の埋葬は火葬ではない。火は山火事の元として忌み嫌う。棺桶は白木でこしらえた丸い樽。和尚に供養をしてもらい、なだらかな斜面を拓いた墓場に葬って帰るのだった。
 雲のない晴天。すがすがしいまでに透き通った山の空気が陽光に輝く緑の斜面を浮き立たせていた。
 ところどころに目印の樹を残して拓かれた墓地には、夏になって下草が薄くはびこっていた。棺桶を埋めて丸太で作った墓標を立てる、あるいは墓石代わりの石を置く、それだけの墓である。
 お紋にも平九郎にも宿帳に書ける身元などはない。無縁仏は斜面の奥側の寺から離れたところに葬られる。湯治場から荷車で若い男たち三人によって運ばれた。

「うわあぁーっ! 天狗だぁーっ! ぎゃぁぁーっ!」

 かすかな悲鳴が風に乗って寺へと流れる。
 和尚は気づいて寺を出たが、年寄りでもあり坂道では歩みが遅い。仙人のような曲がり杖をつき、やっとの思いで斜面を登ると、棺桶を運んで来た三人が気を失って倒れていた。
 三人のうちの二人は額が割れて血を流す。もう一人は虫の息。三人ともに当て身。棒で殴られたようだったが死んではいない。
 和尚は息を切らせて歩み寄り、倒れている三人と、蓋が開いて横倒しになった棺桶の片方を見渡して呆然とした。男の棺桶は蓋をされて縄掛けされたままである。倒れた棺桶はからっぽ。

 ・・お紋が消えた。

「おい、どうしたんじゃ? 何があった?」
 虫の息の若者は和尚に抱き起こされて、その腕の中で呻くように言う。
「て・・天狗様が・・女が・・女が生き返った・・」
「何ぃ天狗じゃと? 屍が生き返ったと申すか?」
「か、かっ・・烏天狗・・ぅぅぅ・・」
 若い男は気を失った。和尚は倒れた男たちの首筋に手をやって、死んではいないことに安堵すると、墓地の周囲の鬱蒼と茂る原生林を見渡した。

 湯治場からすぐさま取って返した旅姿の女が二人。岩場を抜けて森が豊かになるあたりで、二人の行く手に三人の如月夜叉が立ちはだかる。
 お涼が言った。
「待ちな、おしろい般若のお二人さんよ」
 敵の二人はものも言わず顔を見合わせると、即座にこちらの闘気を受け取って仕込み杖から白刃を抜き去った。編笠を払い身を沈めて身構える。二人ともに目つきが鋭く、かなりな腕と見てとれた。
 嵐とお涼が抜刀し、江角は八角棒。互いに身を沈めて対峙する。

 しかしまさにそんなとき、道筋の坂下から家紋のない着物を着込んだ十余人の侍たちが一斉に抜刀しながら駆け寄って来る。
 侍たちは嵐ら三人と敵二人との間に立ちはだかり、数名が嵐ら三人を取り囲み、残る数名が敵二人へ斬りかかる。嵐ら三人を囲んだ侍たちは足止めさせるだけ。刃を向けるも斬りかかろうとはしなかった。
 男の一人が言った。歳の頃なら三十代の半ばだろう。
「そなたらは退け、関わるなら斬る!」
 嵐ら三人は囲まれて動けない。
 一方の女二人は、侍たちと刃を交えながら山上へと遠ざかって行き、嵐らとの間が開いていく。

 夜叉三人が背中合わせに三方へ向かいながら、嵐が言った。
「口封じってわけだね、般若は用済みってことかい?」
 侍たちの仕切りなのだろう、三十代半ばの男が見下ろすように言う。その男は腕がたつ。静かだが並の気迫ではない。
「詮索は無用ぞ、手を出すな」
 男たちにじりじり間合いを詰められて嵐ら三人は押し返される。討って出て囲みを破れないわけではなかったが、相手は皆弱くはなかった。
 彪牙の言うようになったと嵐は思う。

 そうする間にも二人の般若は追いつめられる。二人ともかなりな腕のくノ一だったが相手は侍、しかも多勢。忍び装束ならともかくも着物姿では動けない。刃と刃が交錯し、女二人は背中合わせに身構えつつも殺られるのは目に見えていた。

「あれは・・」
 取り囲む男たちに向いていた嵐の視線が、男たちを飛び越えて、眩い陽光に滲むような背後の緑から獣のごとく躍り出た白い影に向けられた。

 鳥か! それとも魔物か!

 その刹那、男たちの悲鳴が上がり、嵐ら三人を囲んでいた男たちも一斉にそちらを振り向いた。

 道筋の左・・山側の大木の上から飛び降りた白い影・・白の忍び装束・・白塗りの般若面・・おしろい般若。金色に輝く不思議な刀がギラギラ光る。青竜刀を細身にしたような、武士の刀でも忍びの刀でもないものだ。
 動きが速い! 尋常な人の動きとは思えない!
 人の背丈を軽々飛び超え、猿のように木から木へと飛び移る。
 敵の女二人を囲んでいた男たち数名を、まさしく鳥のように宙を飛び、転がり駆けまわり、目にも留まらぬ速さで首をはねて倒して行く。神がかりと言えるほどの剣の技・・。
 
 嵐も江角もお涼も、それを囲む武士たちも呆然として動けなかった。
 あっという間に数名を斬り殺した白装束の影・・ケタ違いに強い!
 白塗りの般若の目の穴からギラリと光る女色の眼光が侍たちに向けられた。
「ふんっ、そういうことかい、口封じってわけだね。この二人はもらって行くよ、可愛い手下なのさ」
「おのれ! おい者ども、斬れぇーっ!」
「やかましいね! 帰って伝えな! この般若、いずれ首はもらいに行くと!」
 嵐らを離れた男たち数名が一斉に駆け寄るが、敵はくノ一。女三人は鬱蒼と茂る森の中へと消えて行く。

 この場に彪牙はいると嵐は思った。彪牙の敵は天狗のみ。天狗が現れるのを待っている・・。

 嵐が言った。
「退くよ」
「しかし」 と、お涼は言ったが、嵐は刀を収めながら言う。
「追っても無駄さ、もはや人にあらず・・化け物だからね」
 八角棒を降ろしながら江角が言った。
「お紋が生き返ったとでも言うのか・・」
 嵐はさらに「行くよ」と目配せすると、苦笑して言うのだった。
「恐ろしい女・・いずれ相まみえることになる・・」

 百合花が言った。
「そうですか、侍たちがそちらにも・・瀬田様も襲われましてね、そのとき敵が尾張訛りの言葉を発したと」
 嵐が眉を上げて言った。
「尾張・・まさか・・」
 百合花はうなずき、そのとき眉を上げた江角の面色へと視線を流した。
「尾張様とは限りませんよ。三河あたりから尾張、紀伊、京から大阪あたりには不穏の輩が蠢いている。瀬田様を襲ったのは明らかに同じ家中。ご公儀に不満をつのらせた者どもが先走り、私たち夜叉が動き出したと知って、もはや捨て置けぬというわけです。 『お家を潰す気か』と侍の一人が叱責したということですから間違いはないでしょう」
 江角が言った。
「なるほど、ゆえに口封じというわけですか。おしろい般若もまた使い捨て・・」
 百合花はうなずき、悲しそうな面色をした。
「それもまた許せません。お紋とか申す者の身の上も聞きました。反吐の出る裏切り。使うだけ使っておいて、いらなくなると葬り去る。くノ一を何だと思っているのか・・」
 百合花は、まだ見ぬお紋や手下二人の哀れな姿を思いやって目を伏せた。

 万座の湯を離れた数日後、江戸へと戻った三人はその脚で香風へ向かい、引き返して屋敷に向かって歩いていた。せっかく湯治場に出かけておきながら湯を楽しむどころでない。三人の心は傷んでいた。
 日和はよかった。夕刻まで間のある刻限で、薄雲のある今日、やわらかな陽射しが女たちをいたわるように滲んでいる。香風のある丘の上から見渡す海がきらきらと眩いばかりに煌めいた。お燕が坂の上に立って歩み去る三人をいつまでも見送っている。
 しかし三人には役目を終えても笑顔はない。肌を許した男と刺し違え、微笑むように死んでいったお紋・・あのとき確かに死んでいた。
 なのに死ねない。彪牙の言葉を信じていればよかったと嵐は思う。

「海はぁ~眩くぅ~その様はぁ~ぁ、ちょいと~好いたおなごの涙色~ぉぉ~♪おう! そなたら戻ったか」
 瀬田だった。嵐が応じた。
「はい、ご無事で何より」
「もうすっかりな。かすり傷だよ。拙者としたことが不覚をとった。斬られたことより女たちに褌姿を見られたことだ・・ああ、穴があるなら舐めてやりたい」
 相変わらずというのか、今日は桜裏地の茶色の着流し。赤い鞘の刀を腰に差している。お役者そのままのいでたちだ。
 お涼がほくそ笑んで言う。
「これから百合花様の?」
「うんうん、もうだめだ・・愛おしい・・胸が痛む・・乳が揉みたい・・むっふっふ」
「ちぇっ・・よくも言うよ・・」
 あまりの馬鹿馬鹿しさに江角が思わず呟いてそっぽを向いた。
 瀬田もまた眉を上げておどけて笑い、真顔に戻って言う。
「戻ってみよ、あの屋敷にはぬくもりがあふれておる」
 嵐が問うた。
「それは?」
「いいからいいから・・さて、では拙者はこれにて・・」
 瀬田は片目をぱちり。背を向けて歩み去る。
「♪~尼の肌身に身を焼かれぇぇ~錦絵もどきの~宵がくるぅぅ~あ、ちょいと・・はっはっは!」
「・・まったく、お気楽な・・」
 酒に酔うわけでもないのに鼻歌まじりにふらふらと歩いて行く瀬田の姿に、三人は、なぜかたまらないものを感じていた。可愛い男だ。
 江角が言った。
「さ、行くよっ、あんなのにかまってると子ができる」
「あはははっ、こりゃ可笑しい」
 江角らしからぬことを言う。二人は顔を見合わせて、久しぶりに笑った気がしていた。
 そんな江角は・・彪牙を想っているのだろうと、嵐は横顔をちらりと見た。

 そうやって、心が晴れたのか晴れないのかわからないような心持ちでそぞろ歩き、戻ってみると、厨にお雪、お涼、そしてお真知の三人が立っていて、明るく笑い合いながら夕餉の支度にかかっていた。
 中へ入った嵐は、真っ先にお真知の変わりように気づいたが、草履を脱ぎながら板の間への上がり框に座った三人の前に、お菊がお真知を連れてやってきた。何を言うかなどわかりきっている。
「ちょっと聞いてほしいんだ。あたしらで話したんだが・・お燕も入れて皆で話した。このお真知を六人目の如月夜叉にと思ってさ」
 お菊が眩しい。それは、こちらを振り向いて笑うお雪もそうだ。しばらく見ない間に二人は変わったと、三人それぞれに感じていた。
 お真知は黒髪も結い上げて、すっかり町女の姿。両手を前掛けの前に組んで目を伏せて、いまにも泣きそうな顔をしている。
 嵐は、ちょっと睨んだが、そっと手を取ってお真知を引き寄せ、ふわりと抱いた。
「皆でそう決めたなら、とやかく言うことじゃない。よかったね」
「はい、心底悔い改めて励みますので」
「きっとだよ。もういい、忘れるんだね」
 そして嵐は皆の目のある中、さらに抱き締めて目を見つめ合い、唇を重ねていくのだった。

 すぐ後ろに立つお菊・・あの白狐が目頭を押さえていること・・江角は気づき、目でうなずく素振りをした。
 泣いてしまったお真知が嵐から離れたとき、目を赤くしたお菊が嵐に言った。
「ついさっき両国の両替商だという者どもが訪ねて来まして」
「両替商が?」
「とは言うのですが、どこぞのお武家の家中の者ではと・・」
 と言って、二階へ向かって視線をなげる素振りをして、さらに言った。
「見たこともないから怖くて上に隠してあります」
「怖い? わかった。お真知」
「あ、はい?」
「悪いけど風呂にしてな、脚が棒だよ」
「はいっ! いますぐ!」
 このときお真知は、お雪の着物を着せられていた。濃い茶色に青の格子柄。それに茶色の前掛け。黒髪は誰かに結ってもらって清々しい。

 二階へ上がり、嵐と江角は、お涼と分かれて部屋へと入る。襖を開けると部屋の隅に千両箱が五つ、積み上げられてあったのだった。
 江角が笑う。
「ふふふ、なるほどね、これは怖いわ」
「あたしだって怖いさ、見たこともない・・」
 そして嵐が蓋を開けると、前金で百両ずつが配られてあったから、一箱に残り九百両のはずが・・千両ずつ入っている。
「ほんと夢みたいだよ・・人を斬ったわけでもなく・・」
 江角が言って、嵐がそっと蓋を閉ざした。

女忍 如月夜叉(十九話)


十九話~裂けた錦絵


 その日の夕刻、青山の連なる万座の景色は、稜線が影をのばし、斜陽に染まる赤い景観に山型の夜を配っていた。
 嵐、江角、お涼の三人は、麓から幾筋か続く湯治場への山道が絞り込まれて一つになる峠あたりを張り込んでいたのだが、その日は敵らしき者の姿はなかった。雲行きの怪しい湯治場の夜は漆黒の闇。鬱蒼とした森また森。道筋に動く者の気配は皆無であった。獣の気配すらを感じない。

 ちょうどその頃、江戸。
 昨夜からの雨があがり、心地よく冷えた初夏の夜風が流れていた。
 芝高輪の忍び屋敷まであとわずかという道筋に、錦絵侍の姿があった。左肩の欠けた蒼い月を見上げつつ、ふらりふらりと歩いている。
「月は~満ち欠けぇ~愛しやぁ~憎しやぁ~恋心~♪~っと」
 しかし鼻歌はぴたりと止まり、瀬田は茶色鞘の居合刀に手をかけて身を沈めた。
 道すがらの暗がりから侍どもが湧いて出た。十人はいただろうか。皆が浪人の姿を偽ってはいるが、そのきりりとした身のこなし、月代を剃り上げた髪型からも武家の配下の者と思われた。
「瀬田昌利だな」
「いかにも。このような美しき宵に何者か」
「問答無用、死ねい!」
 侍どもが一斉に抜刀し、輪となって取り囲む。瀬田はさらに身を沈めて刀身を横に少し倒し、寄らば斬るぞと身構える。
「ウリャァーッ!」
 キンキーン!
 刃と刃が交錯して火花が飛んだ。前から後ろから次々に白刃が舞い寄せては瀬田の剣に弾かれて、瀬田は囲みを破って輪を出るが、一瞬後にはふたたび囲まれて動けない。多勢に無勢、いかに居合の達人でもいずれ勝負はつくだろうと思われた。

 前からの突きがかり。横からの突きがかり。続けざまに繰り出される切っ先を払ったときに、後ろからの袈裟斬りに背中を浅くえぐられた。
「くっ!」
 一瞬膝が折れたものの、瀬田は斜め前へともんどりうって転がって、片膝となりながらも気迫を切らさず身構える。
「ふっふっふ、もはや勝ち目はない、覚悟せい!」
 群れを率いる大将格の侍が右斜に刃を振り上げ、踏み込みざまに斬り下ろす。しかし瀬田は一の太刀を受けきって横飛に地べたに転がり、起き上がりざまに一人の侍の剣と交錯、刃を跳ね上げ、返す刀で胴を浅く切り裂いた。
 一人が崩れる。しかしそのとき周りの二人が剣を振り上げ、ほぼ同時に踏み込みかけた。
 危ない! さしもの居合も敵の数が多すぎる。

 危機一髪! そのときだった。

「待たんかぁ! こん、たぁけもんどもがぁ、退けぃ!」
 やはり浪人姿に扮してはいるが、こちらもれっきとしたお抱え侍。数はさらに多く、十五人はいただろう。侍たちは一斉に抜刀して駆け寄って、瀬田を囲む十人の輪を蹴散らした。
 そのとき背走する侍の一人が言った。
「なぜだ! なぜ止める!」
 立ちはだかった群れの一人がそれに応じた。
「お指図よ! おみゃぁら家をつぶす気けぃ! 退けぃ!」
 先に襲った十人が顔を見合わせ、刀を収めて駆け去った。
 瀬田の味方ではない。同じ家中の者どもであり血気盛んな一派を諌めようとしている。瀬田と間に立ちはだかった十五人が、いっとき瀬田を取り囲み、しかし刀を収めて、中の一人が敵意に満ちた眼の色で鼻で笑った。
「ふふん、命拾いだったな・・者ども退けぃ!」
 影の波のように侍どもが暗がりへと消えていく。
 瀬田は刀を収め、けれども背を斬られて、女人のごとく白い錦絵顔が苦痛に歪む。

 女たちの忍び屋敷。戸を荒く叩く音。
 お菊それにお真知が刀を手にして立ち上がる。お燕は背後で怯えていた。このときお雪は地下に降りて結を見ていた。
「お燕いるか、俺だ・・」
「・・瀬田様?」
 板戸を挟んだやりとりだった。
「斬られた・・開けてくれ」
「ええーっ! ああ嫌ぁぁーっ!」
 お菊お真知を掻き分けるようにお燕が引き戸を開け、ふらつく瀬田に肩を貸し、瀬田が転がり込んで来る。
 お菊が言った。
「お真知、湯だ! それと酒だよ!」
「はい!」
 今宵の瀬田は黒地に紫富士の浮き立つ着流し姿。その背が斜めに切り裂かれ、血を吸って生地が濡れたようになっている。しかし一見して傷は浅い。

 帯を解いて白い褌だけの裸にし、板の間にうつ伏せに寝かせ、お真知に呼ばれたお雪が地下から飛んできて傷を診る。
「浅いね、よかった。けど動かしちゃだめだよ。お燕、サラシで押さえてな。ありあわせで薬を作る。その間しっかり押さえてるんだ」
「はいっ!」
 お菊がお真知に言った。
「あたしとおいで、庵主様を呼びに行く。仕込みを持て」
「はいっ!」
 お雪は毒使いの名手であり、つまり薬の名手でもある。
 厨に飛んでいったお雪は、深いすり鉢に乾かした薬草を並べ、すりこぎですりつぶして調合する。その間お燕は泣きべそ顔で背中の傷を押さえていた。
 お菊とお真知は走る。遠くはない距離だったが、こういうときは遠く感じる。二人ともに忍び。疾風となって闇を駆ける。

 すり潰した薬草を強い酒で練った茶色黒いものを、お雪は指にすくって傷に塗った。
「む・・むむむ」
「ちょいと沁みるけど血が止まる。紙を貼っての糊代わり。こうして傷を塞ぐんだよ」
「ああ、すまぬ。ぁ痛っっ! うむむ!」
 取り替えた白いサラシをお燕がひろげて傷にかぶせ、ふたたび傷を押さえつける。
 お雪が瀬田の白い肩に手をやって言った。
「しばらくの辛抱だ、血がとまればサラシを巻く。かすり傷だよ」
「ああ・・少し楽になった」
「相手は忍びかい?」
「侍だ、囲まれた」
「何者?」
「さあな、浪人姿だが・・それよりお燕よ」
「はい?」
「恥ずかしいぜ、褌姿を見られちまった」
「あ・・嫌ぁぁん、もう・・ぅぅぅ、よかったー!」
 瀬田は泣き出したお燕の膝に手をやって、鼻歌を。
「泣くなお燕よ~♪~小娘お燕~俺の尻でも眺めてよ~、胸がどきどき揺れていらぁ~・・っと。はっはっは」
「ふざけてる場合なの・・あぁんもうっ、憎たらしい」
 お燕は涙しながら苦笑して、瀬田の白い尻をパシンと叩く。
 そばでお雪は額を掻いて笑っていた。

 などとふざけていると、百合花と源兵衛、お菊とお真知が転がり込んだ。百合花は灰色柄の小袖の姿。落ち着いた色香が漂う。
「ああ瀬田様、大丈夫?」
「おおう、麗しの観音様よ、愛しいなぁ・・」
 斬られたと聞いて顔色を青くしていた百合花は、いつもの瀬田の声に、すぐそばに崩れ落ちるように座り込んだ。
「はぁぁ、よかった・・」
「傷は浅いが、でもよ、しばらくは抱いてやれんなぁ。尻ぐらいは撫でてやれるが・・くくく」
「い、嫌だよ、この人は・・もうっ、こうしてやるっ!」
「あ痛てて! すまんすまん」
 真っ白な男尻をつねりあげる百合花。皆の中にいて、尼僧だとばかり思っていたお真知は目を丸くする。お真知はまだ恋仲の二人のことを知らされてはいなかった。
 このとき、上からのしかかって傷を押さえるお燕と源兵衛が目を合わせ、源兵衛は眉を上げてちょっと笑った。
 百合花がお燕の手を取った。
「お燕、ありがとね、私が代わるからもういいよ」
「はい、よかった・・どうなるかと思ってしまって」
「うんうん、よかったね・・うんうん」
 百合花の瞳が潤んでいた。

 お菊が言った。
「いいもんだろ女って」
「ふふふ・・はい」
「庵主様のいい人なのさ」
「えっ!」
「しっ・・声が大きい・・」
 厨に立っていたお菊とお真知は、薬を作ったすり鉢を持ってやってきたお雪と目を合わせ、お雪は舌を出して笑って言った。
「羨ましいよ、べたべたと・・けっ」
「ほんと。ね、お真知」
「ええ、ちょっと信じられない気がします、尼さんだとばかり・・」
「女は可愛いものなのさ。おまえのしたことをよく考えないとね」
「はい」
 うなだれるお真知を、お菊がそっと抱いてやる。
 いつの間にか源兵衛が消えていた。香風へ戻って行ったのだった。

 お真知は、誰に言われたわけでもないのに、庵主と、横たわる瀬田の前へと歩み出た。
「庵主様」
「おや? そなたは誰でしたっけ?」
「え・・」
 そして白い男背の傷を押さえながら瀬田に言う。
「そうそう、気が動転して忘れていました。あのね瀬田様」
「うむ?」
「この子、如月夜叉の六人目、お真知って言うのよ」
「ほほう、お真知・・そうかそうか、いい女が増えてくなぁ。よろしくな、お真知よ」
「ぁ・・はい・・こちらこそ・・」
 お真知はもう言葉をなくし、ただ震えて泣いていた。
 嬉しいのはお燕だった。厨に来て、いまにも笑顔が弾けそうだ。
 お雪がお菊に向かって小声で言う。
「如月菩薩」
「なんだって?」
「百合花様さ。そっちのほうがいいんじゃない?」

 しばらくして血が止まり、瀬田は二階へ移されて、嵐と江角のいない八畳へと移された。布団を二組並べて敷いて、百合花がずっと付き添っている。
「そうですか尾張の言葉を・・」
「そうに違いねえぜ。おそらくは江戸詰の者たちが勝手な真似をしたんだろう。国元では泡を喰って、人をよこして諌めにかかる・・そんなふうにも思えたが」
「それにしても尾張とは・・」
「いいや、まだそうとは決められねえな。上方はきなくさい。そのじつ大阪つながりのご家来衆ってこともある」
 声が弱くなっていき、瀬田は眠りに落ちていく。
 尾張と言えば徳川御三家。尾張あたりからも商人たちは江戸へと流れて来ていたし、関が原を境に豊臣から寝返った家来衆も多くいて、そのじつ豊臣に心を残している・・敵は皆目霧の中・・。

 百合花はそっと部屋を出ると、まだ下にいる皆のところへ降りていった。
「瀬田様は?」 と、お燕が訊いた。
「おやすみになりました。痛みもなくなったようですね。・・お雪」
「はい?」
「みんなもよ、ありがとう」
 百合花は女たちを見渡してうなずくと、その背後に隠れるようにしているお真知を見た。
「ですけどお真知、すべてはこれからの所業です、許されたと思ってはいけませんよ。心の中で手を合わせ、せっかくの忍びの技を正しいことに向けていく。よろしいですね」
 お真知は情が身に沁みて涙があふれて止まらなかった。
 そんなお真知の背を、お燕が寄り添って撫でている。

 そしてお菊が言うのだった。
「下に一人、結というくノ一が」
「そのようですね」
「どうしようもない性悪で、怒鳴ったり暴れたり。それでお雪が薬をやって落ち着かせてはいるんですが」
「嵐が戻るまで待ちなさい。ここは公儀の場ではありません、皆でよく話して決めればよろしい。改心するなら生かす道はある。でなければ・・まあ嵐に委ねましょう」
「はい、ではそのように」
「ただね、私は尼僧だった女です、そこを少し考えてくれるといいのですが」
「わかりました、そのように伝えます」
 できるなら殺さずにということなのだが、このときお菊は、それを伝えればいいと思っていた。
 ところが百合花は、お菊に歩み寄ると白い指先でお菊の額をちょっとつつく。
「それは違いますよ」
 お菊は伏し目がちに目を見開いた。
「・・と申されますと?」
「あの者たちはいまはいない。そなたらでまず話し、どうするかを心に決めて、それから嵐に告げるようにしなければなりません。でなければ留守を任せられなくなりますからね。頭の言いなりの忍びではいけません。一人ひとりが正義をもって動かないと」
「はい、心得違いをしておりました」
「うんうん、みんないい子・・私は嬉しい」
 百合花はお菊の頬を撫でながら、一人ずつ皆の顔を見渡して微笑んで、それから腰を上げるのだった。

「愛しいお方のおそばにおります・・ではね、おやすみなさい」

 静かに流れて行くような艶花を見送って、お雪がお菊の肩に手をやった。
「・・如月菩薩・・けど怖い・・お見通しだ・・」
 お菊が眉を上げてちょっと笑った。

女忍 如月夜叉(十八話)


十八話~般若の死


 万座の湯。忍びの脚でも三日。
 幾重にも青山の折り重なった壮大な景観がひろがった。下界では初夏の陽気でも、さすがに山は冷えている。その山の中腹まで如月夜叉は迫っていた。

 外輪の山の緑にくるまれような岩風呂だった。源泉がそこらじゅうで湧き立って雲の中にいるがごとく湯気が舞う。白い雲海越しに眺めるような山々だった。

 女が一人で湯に浸かる。大きな岩風呂の端まで行って山の風で乱れる湯気の狭間から雄大な景色を見ている。黒い髪をまとめて上げて肩まで沈む。この季節、湯は山風に冷まされて長湯するにはちょうどいい温もりだった。 
 立てば六尺はありそうな白い体が湯気に中にうかがえた。
 湯気がぼかす女の背後に、刀を置くチャッという鍔の音。殺気はなかった。
 しばらくして湯の乱れる気配がした。
「邪魔するぞ」
 低く野太い声だった。
 山海に向かって拓かれたこの頃の岩風呂に男女の別などありはしない。広い岩風呂に女と男が二人となった。

「大きな女だ」
「・・」
「そなた責められたようだな・・くノ一か・・」
 男は岩の上に横たえられた白木の仕込み杖に目をやった。反りのない忍び刀だと見てとれる。
 長い黒髪を上げていることで、耳のない左向きの顔が露わとなった。左の頬には、目の横から顎までの火傷があった。肌が引き攣れる惨い傷だ。
「だったらどうなのさ」
「いいや・・わしとて似たようなもの・・」
「似たようなもの?」
 女が振り向くと、男は鬼のように大きな体。体が大きすぎて湯が浅くなり、仁王のような胸板にも、隆々とした肩にも、頬にも額にも、古い刀傷が刻まれる。浅い傷ではなかった。死線をさまよった者であると一目でわかる。
 男は隻眼。左目に眼帯をし、顔は四角く黒く、巌のような風体だ。年の頃なら四十半ば。風魔忍びの頭であった小太郎も、七尺(二メートル)近い大男であったというが、こんな感じかも知れないと女は思った。

「侍だね」
「うむ、敵ではない」
「ふふん・・どうだか・・男に味方などいなかった」
「そうか?」
「ああ、いなかったね」
「耳を削がれたのか」
「乳首もないよ。女陰(ほと)も焼かれた。尻の穴まで。・・化け物にされちまって捨てられた」
「捨てられた?」
「女房だった」
「・・そういうことなら生きてりゃいいってもんでもねえな」
「いいや生きてりゃいいのさ。あたしはくノ一、あんたは侍、死んじまったらおしまいだよ」
「酒も飲めねえしな」
「ふふふ、そうさね・・意趣返しもできなくなる」
「なるほど。男が憎いか」
「憎い。ちゃらちゃらしている女もだけど」
「なら、わしを殺れ」
「え・・」
「もういい・・もういいんだ・・疲れた」
「・・妙な奴だね」

 女と男はどちらに流れるでもなく、湯気越しに見つめ合っていた。
「実の弟を斬った。親父殿も、その親父殿の弟も。わしには妹もいたんだが、その亭主も敵だった。首を飛ばしてやったさ。因果な巡り合わせで敵味方になってしまった」
「関ヶ原かい?」
「小田原城さ。わしは北条に恩義があった」
「家が寝返ったってわけかい?」
「そうだ・・」
 豊臣の大軍勢が相模の北条を攻めたのは、天正十八年(1590年)のことだった。いまから十数年も前になる。
 女は、一度立って体を見せつけ、男のそばへと歩み寄ってふたたび沈んだ。
乳房は薄いが女らしい裸身・・その裸身のそこらじゅうに惨たらしい傷がある。
「いい体だぜ」
「あんたこそ。惨い体だ、あたしと一緒」

 女は男の顔をまじまじ見つめた。髪の毛などばさばさで獣のよう。どこまでが髪でどこまでが髭なのかわからない。黒い雑草の中になんとなく顔がある、そんな感じ。鼻が大きく唇が厚く、目だけがギラついて、まさに鬼面。
「そなた歳は?」
「七になるよ、三十七」
「わしは四十六よ・・ふっふっふ、もういい・・もういいんだ」
 鬼のような男が女の肩に手を回した。六尺近い大女が小さく見えた。
「あたしが欲しいかい・・ひどい体だが女陰はあるよ」
「はっはっはっ、胸のすく言いようだぜ。ならわしも、突っ込む棒は勃つからな」
「ふんっ・・泊まりはどこさ」
「すぐそこだ。ついて来い」
「うん」
 この頃の万座は、湯治場の他に何もない山の中。湯の小屋といって、湯治客を泊める宿が数箇所あるだけ。

 男が言った。
「おまえ一人で来たか?」
「いいや、連れが二人いるが山を降りてる」
「降りてるとは?」
「麓にいるよ。ちょいと訳ありでね」
 部屋に入ると男はすべてを脱ぎ去って・・女は、そんな男の姿を楽しむように見つめながらすべてを脱ぎ去り、獣と獣はまじわった。
 女の悦びを記憶をたどって呼び覚ますように女は果てて、男もまた獣のように果てていく。
 岩のような男の胸で女が言った。
「これよりないね・・いまこのとき・・これよりない。もう一度抱かれようとは夢にも思わなかった」
「まったくだ、この先きっとこれ以上のことはない」

「名は?」
「紋だよ」
「平九郎だ」
「平九郎・・」
「そうだ。おかげで苦労ばかりしてきたさ」
「あははは、なるほどね、名が悪いってか?」
「まったくだ。・・いい女だぜ、お紋」
「あんたこそいい男・・けど」
「うむ?」
「あんたは死ねる。あたしは・・死んだっていいけどね・・ふふん」
 その意味が解せなくて、平九郎はお紋の横顔を見つめていた。

 嵐と江角、そしてお涼の三人が湯治場に着いたのは、その夜のことだった。
 道筋に近い宿の一軒をあたり、そうそう混まない宿だから部屋はすぐ取れ、聞き込みも何も、お紋の居所はすぐに知れる。顔に惨たらしい火傷のある大女。そんな女は他にはいない。
 すぐ隣りの宿だと女中は言った。
 岩風呂に出ようとすると女中が言う。
「ああ今宵はおよしな、もう暗い。内風呂があるからさ」
 それもそうだ。いかに目のいい忍びであっても闇の山では動けない。三人顔を見合わせて、しょうがなくて宿の中に引き込んだ小さな湯に浸かっていた。女三人で独占できる、小さな岩で組んだ湯であった。
 嵐が言った。
「今宵は休もう、足が棒だ」
「そうするか・・さすがにキツい」
 あの江角が疲れ果てる。江戸から駆けるようにしてやってきて、最後のところで険しい山だ。

 ところが翌朝・・信じ難いことが起きていた。

 朝餉の前に起き出して、この世のものとも思えない見事な景色に見入っていた。抜けるように青い空。新緑の山々が連なって、視線を下に向けると、いくつものの白湯の岩風呂が点在している。
「わぁぁ綺麗・・お燕でも連れてくれば飛び跳ねるだろね」
 お涼が言ったそのときだった。

「てえへんだーっ! 男と女が斬り合って死んじまってるーっ!」

 お紋がいるはずの隣の宿から若い男が飛び出して叫びはじめた。
 とっさに顔を見合わせて、それぞれに仕込み杖を手にして飛び出した。
 隣の宿などすぐそこだ。お涼が、群がる男の一人に訊いた。
「男と女が斬り合って死んだって? どんな女だい?」
「どんなって、ずっといる女だよ、耳がねえ大女さ」
「何だって・・」
 そこでまた目を見開いて顔を見合わせ、さらに訊く。
「男の方は? 男と一緒にいたのかい?」
「違う。男の方は昨日からの客なんだ」
 三人揃って宿の中へと飛び込んだ。
 男が泊まる宿へ誘われて行ってみたら偶然同じ宿だった・・ということなのだが、嵐ら三人には知る由もないことだ。

 一見して刺し違えた自害。斬り合ったのではない。互いに穏やかな死顔をしている。
 江角が言った。
「お紋に違いないね」
 お涼はうなずきならも「どういうことか?」と言うように目配せしたが、嵐も江角もわからないと首を振った。
 お紋と、まさしく異形の男は、浴衣姿でぎゅっと手を握り合い、互いに心の臓を狙いすまし、折り重なるように死んでいた。部屋には布団が並べて敷かれ、男女のまぐわいがあったことは明らかだった。
 夕べは互いを愛おしみ、夫婦のように一夜を明かし、朝になって自刃した。そうとしか思えなかった。部屋中が血の海だった。
「書き置きがある」
 宿の主人らしき年寄りが言った。
「なになに・・『般若よ去れ』・・だとよ。どういうこった?」
 座卓に置かれた短冊紙に見事な女文字で書かれてあった。忍びは筆と墨を持ち歩く。

 嵐、江角、お涼の三人は、目配せし合ってその場を離れ、己の宿へと戻っていた。
 江角が言った。
「お紋が一人だったね。書きつけを残すってことは手下への指図・・仲間が来るってことさ」
「見張ろう」
 お涼が応じた。
 早く正気に戻ろうとはするものの三人ともに声が失せる。
 あのお紋が自刃・・それもまさに鬼と刺し違えて死んでいった。これはいったいどういうことか。考えなどまとまるはずもなかっただろう。
 お紋を知る江角が言った。
「女の死顔だったね。おそらく抱かれ・・男の方も死に場所を探していて・・」
「そうかも知れない、二人ともに穏やかだった」
 嵐が応じ、ふとお涼を見ると、お涼もまたうなずいて言う。
「夢を見て死んでいった・・そんなふうだった」

 しかしこのとき、嵐は彪牙の言葉を思い出していた。あの夜彪牙に出会ったことを嵐は皆に告げてはいない。『叡山の鬼天狗』など誰も信じていない。死んだ者が生き返るなどあり得ない。
 まさかそんなことが・・嵐ですらが信じ切っていなかった。

 江角が窓に立って、目を細めて景色を見渡しながら囁いた。
「お紋・・女として死ねたんだね・・」
 江角とお紋は一門は違っても伊賀者同士。そして女同士。くノ一の哀れから解き放たれた一人の女の死を想う。

 おしろい般若は消えた。『般若よ去れ』とは、手下どもに去れということだろうと
江角は思った。

女忍 如月夜叉(十七話)


十七話~海の穴ぐら


「ふんっ、とてもじゃないが、おまえたちにお紋は殺せないね。何やら不可思議な術を使うと聞いた。妖術さ。つなぎの女が二人いて・・それがお紋の手下二人なんだが、二人ともに元は甲賀のくノ一でね。追っ手の侍ども二十人ばかしに囲まれたとき、どこからともなくお紋が現れ、それはあたかも鳥のように宙を駆け、次々に首を飛ばしたと言うんだよ。お頭は人にあらずと言っていた。そのほか知らない。知ってることのすべてだよ、わかったかい」
 結は、それきり口を閉ざした。

 全裸とされて牢に放り込まれた結を横目にしながら、誰にともなく江角が言った。
 裸にしてみると、結というくノ一には体にほとんど傷がなかった。乳房は小さかったがしなやかな白い肌は美しい。市井に潜み、探ることを役目としていたに違いなかった。
「万座・・山深いところだと聞く」
「おそらくは三人、それが般若の正体らしい」
 と、嵐が応じた。
「それにしても、あのお紋が人にあらずとはどういうことか・・」
 江角は浅いため息をつきながら、ふたたび結へと目を流した。
「まあいいさ。あたしはちょっと向こうへ」
 嵐はそう言うと、結を見ようともせず江角の背を押し、皆が揃って上と戻った。

 万座と言えば上野国(こうずけのくに=群馬)。標高の高い山の中の湯治場だった。硫黄を多く含む濁った湯で知られ、戦国時代は武将どもが訪れては傷ついた体を癒している。江戸からははるかに遠く、いくら市中を探索しても見つからないはずである。
 それはともかく、お真知は牢から出されていた。地下牢はひとつしかなく狭すぎる。鉢合わせにさせたくない。
 面喰らったのはお真知であった。まさか出されるとは思っていない。
 結は、牢に入れられてからも敵意は失せない。一言も口をきかなかったし、隙あらばと狙う眼光。それで毒使いの名手であるお雪に、気が朦朧とする痺れ薬を作らせて飲ませてあった。

 そんなことでお真知は出されたのだが、結を載せた荷車が戻ったときには深夜。着いてまずはお真知を出して、それから結を閉じ込めた。
 江角が、取り上げてあったお真知自身の忍び刀を持たせてやる。
 お真知は声もなく呆然としていた。
「あたしに刀を・・」
「いいから持ってな、お燕に恥ずかしい真似はできまい」
 江角が微笑む。
 二階の八畳に布団が一組増えていた。嵐、江角と、お真知は同室とされた。 黒鞘の己の刀を拝むように受け取って、お真知は信じられないといった面色をする。江角はすでに寝間着の姿。江角は言った。
「庵主様は、尼となるほかにも生きる道はあるだろうと申されたそうだ。それは女としてという意味でだよ」
「そんな・・とんでもないことをしてしまったあたしなのに・・」

 江角は言った。穏やかな声だった。
「あたしらは如月夜叉。女の敵を葬るために江戸の町に潜む者。すなわちすでに影であって人にはあらず。おしろい般若の片棒を担いだ馬鹿な女は死んだということ。そなたももはや影ぞ。手を貸してくれるだろ?」
「それは・・けど、なんということ・・あたしは恥ずかしい」
「その思いを忘れないことさ。もう寝よう。そなたには、ここに残って備えて欲しい。今度のことには黒幕がいる。どう動くかわからない。手勢は多いに越したことはないのでね」
「・・はい」
 お真知は涙を溜めていた。死罪になってあたりまえ。救われた。お真知は泣いた。

 くノ一ばかりの忍び屋敷。香風には源兵衛がいてくれるが、こちらにはお燕がいて、戦いとなれば足手まといとなるだろう。女ばかりで戦うのは厳しい。六人目の夜叉の存在は頼もしかった。
 江角が笑って言う。
「頭を下げるならお燕だよ、あたしじゃないね」
「はい・・お燕ちゃんの身の上は聞きました・・」
 江角が、お真知の背に手を置いた。
「であるならなおのこと、おまえにとっては恩ある者ぞ」
「はい」
 お真知は泣いて平伏して再起を誓った。

 その頃、香風では・・源兵衛は香風に住み込むこととなっていた。瀬田はそう度々来られない。もちろん部屋を分けた住み込みだった。
 白の単衣・・寝間着姿の百合花が言った。
「そうですか、万座に・・」
「じきに考えを告げに来るでしょう。わしなど影のまた影よ。女の敵を斬ると言うなら真っ先に斬られていい男なもので。ふっふっふ」
「またそんな・・ほほほっ」
「それで庵主様、結とか申す女を牢に入れるため、真知は出されたようですな」
「それもいいでしょう、嵐がそうしたのなら考えがあってのこと。では今宵は・・おやすみなさい」
 百合花は己の部屋へと戻っていった。
 源兵衛がいてくれれば心強い。明かりを消して布団に入り、そっと目を閉じた百合花であった。お真知が改心してくれるなら嬉しい。忍びは所詮銭次第。仕える相手が悪かっただけのこと。

 嵐は闇の中を歩いていた。
 雨があがってもほとんど星のない空は漆黒の海をつくる。香風へのなだらかな登り坂が見えだして、しかし嵐は仕込み杖に手をかけた・・。
「何やつか・・」
 気配はあっても殺気を感じない。
 丘への分かれ道にある林の中から柿錆色の忍び装束・・頭巾をしないざんばら髪、髭面の逞しい男であった。
「どうやらお紋にたどり着いたようだな」
「彪牙・・」
 あのときのことを思いだす。まっすぐ迫る男心を拒めなかった。頬が赤らんでくるようだった。
 彪牙は言った。
「そなたらの敵を教えておこうと思ってな」
「何だって・・」
「お紋はもはや人にあらずよ」
 やはりそうか・・お燕を救ったのは彪牙。つまり見張られていたということだ。
 お燕を救ったからといって味方だとは言い切れない。
 彪牙は、そんな嵐の探る眸をものともせずに、顎でしゃくると「来い」と言った。

 海側へと降りていく。
 鋭利な岩場が連なる先に、入るとすぐに左に折れる浅い洞窟があった。蝋燭が持ち込まれていて、ワラを蒔いた寝床がこしらえてあったのだった。
「ふふふ・・こんなところに潜んでいたか」
「隠れるにはちょうどいい。嵐よ」
「何さ?」
「いい女だ・・」
 黒い影が拒む間もなく流れてきて、左腕一本で嵐を抱き留め、嵐の体がしなり、唇をさらわれた。
「・・江角がいるのに」
「まあな・・ともあれ座れや」
 嵐は言われるままにワラの寝床に腰を下ろした。

「まずは、これを見よ」
 彪牙は、懐から黒い布でくるんだ細長いものを取り出すと、硬い黒檀でつくられた小柄(こづか)のような短剣を手にして、そっと置いた。
 先が鋭い両刃の剣で、握りのところに・・仏の姿が彫られてある。
 嵐はちょっと首を傾げた。
 彪牙は言った。
「叡山の鬼天狗」
「・・鬼天狗?」
「お紋は天狗に身を捧げた女よ。不可思議な法力を授けられ、また天狗に守られているから殺しても死にはしない。人にあらず。もはや妖鬼さ」

 叡山の鬼天狗・・聞いたことのある話であった。
 織田信長の比叡山焼き討ちで、命からがら逃げ延びた若い僧侶が、女子供の別なく惨殺したあまりの非道、あまりの地獄に怒り狂い、黒い嘴と鬼のような角を持つ烏天狗に化身したと言われている。
 恨みに狂った妖怪僧。あの光秀をそそのかし、本能寺で信長にとどめを刺したのは鬼天狗ではないかとも言われている。

 しかしその後、鬼天狗は京の山から姿を消して、木曽山中で見かけたという話が伝わるぐらいで、そんなものがいるなどと信じる者もいなかった。
 蝋燭の炎が揺れて、彪牙の笑みを浮き立たせた。
「その天狗を封じるのがこの剣でな。さる高僧より与えられた剣だが、これをもってしか天狗を封じるすべはない。殺ったところで生き返る。天狗を灰に変える剣だそうだ。お紋のことは江角に聞かされただろうが、お紋はその後、木曽の山で死のうとした。天狗には人の心しか見えない。見目形など目に入らない。崖から飛んだお紋を天狗は救い、情を与えてそばに置いた。女房のように」
「それを信じろと言うのか?」
「ああ信じろ」
 まったくこやつは・・しゃあしゃあと言ってのけ、まっすぐ見つめる熱い視線。
 彪牙は言った。
「お紋を殺ったところで天狗がいる限り生き返る。お紋そのものも江角の知るお紋ではないのだよ。心してかかれ。言っておきたいのはそれだけだ」

 嵐は、それきり黙った彪牙に向かった。
「されど彪牙」
 彪牙は手をかざして嵐の問いを黙らせた。
「お察しの通りでね、天狗とお紋を消せと命じられている。そこまではそなたらの敵ではない。されど、それより深みを探ろうとするのなら・・」
「・・なるほど。今度のことは徳川の身内の企て・・」
「家中で配下の者が突っ走った。鬼天狗を抱き込んだのはそいつらよ」
「それで上は見過ごせなかった・・ということか」
「さあな。それ以上を言わせるな」

「な・・何をする・・」

 彪牙は、すっと身をずらすと嵐の肩を抱いて押し倒した。下になる嵐。見上げると毛玉のような顔の中で彪牙がやさしく笑っていた。
 女は男の眸を見つめたまま問うた。
「ひとつ訊く。江角をどうするつもりだ?」
「いずれ迎えに行くさ。あやつはキラ星のような女でね・・ふふふ」
「なのにあたしを?」
「いまも言った」
「何を?」
「物事には深みもある。考えず抱かれろ」
 嵐は可笑しくなって首を振り、着物の裾を割る男の手を迎え入れて腿を割った。
「江角を粗末にするな」
「おまえもな・・よく濡れるいい女だ・・ほうら、こんなに・・」

「ぁ・・ンふ・・待って」

 嵐は彪牙の太い腕をほどくと立ち上がり、自らすべてを脱ぎ去った。
「襲われるのは嫌・・自ら抱かれたい」
「ふっふっふ・・さすがだ・・」
「ぁ・・彪牙・・ぁンっ・・憎めない奴・・」
 ワラに倒され、組み敷かれ、嵐は体を開いて彪牙の唇を女陰へ誘う・・。

 彪牙・・こんな男にはじめて出会った・・心が溶けていくと感じていた。

女忍 如月夜叉(十六話)


十六話~般若の影


 その夜の二階の六畳。お雪とお燕は間を空けずに敷いた布団に横になり、闇の虚空を見つめていた。明日は雨になるようで黒雲が空を覆い、今宵の窓は暗かった。
「女って、どうしてこうも・・」
 お雪が言い、それにお燕の声が重なった。
「・・哀しい」
 お燕は身をずらしてお雪を向き、そして言った。
「さっきも姉さんに言ったけど、ちょっとしたことで変わってしまう」
「そうだね、ちょっとしたことで、どっちへ転ぶかだよ」
「あたしだって、あのとき瀬田様がほんのちょっと早かったり遅かったりすれば、どうなっていたことか・・お真知さん見ててもつくづく思うし、忍びに生まれなくてよかったって・・あ、ごめんなさい」
「いいさ、その通りだよ・・それはあたしら忍びみんなが思うこと。違う生き方もあったのにって」

 一部屋おいた八畳で嵐と江角。江角が言った。
「強い子だね、しっかりしてる」
「ほんと。参ったよ、ふふふ、あたしらは敵味方で扱いを違えすぎだ、悪い癖さ」
 嵐が応じ、江角が言った。
「お紋か・・いちばん聞きたくない名だったね、元は同じ伊賀だから」
「とにかく明日さ、四ツ谷へ行って、それからだ。硫黄の湯といっても何か所もあるからね。居酒屋だとすると・・女が連れ立って行くのもヘンだし一人だとなおヘンだ」
「源さんでも連れてけば。あたしが香風を手伝うさ」
「いいや、忍びでもない者を巻き込みたくない。もう寝よう」
 嵐の声を最後に静かになった。

 その頃、香風では、源兵衛は眠ってしまい、穏やかな寝息を聞きながら百合花は眠れず悶々とした。
 あのくノ一が真知という名であることも、お燕に救われていたことも、このときの百合花には知る由もなく、忍びの拷問をはじめて見たお燕がどう感じているのだろうかと、そればかりが気になった。
 あのときのことを思い出す。甲斐方の地侍だった父親が寝返ったとき、武田方に攻められ、その兵の中に如月の一派も混じっていた。一家が揃って殺されて、如月忍びの男の剣が己に向いたとき・・あのとき確か十歳だったと百合花は思う。
「待ちな、その子に手を出すんじゃないよ」
 如月の霧葉・・童の目には鬼のようにも思えた女。泣いていた私に手を差し伸べてくれたことをいまでもはっきり覚えている。頭巾をして目だけしか見えなかった。もう泣くなと抱いてくれた。そしてそのまま如月の里に連れ去られ、女の鬼が頭巾を取ったとき・・なんて美しい人だろうとぼーっと見ていた。

 如月の頭の娘として育てられた。剣を仕込まれ槍や弓を教えられ、厳しさに泣くと決まっていつも尻を叩かれ、強くなれと叱咤された。そうするうちに嵐が生まれ、姉妹のように育ってきた。そんな何もかもが昨日のことのようで懐かしい。
 大きくなって如月を離れて一度は嫁いだ。武家だった。しかし夫は討ち死にし、その弟に女体を狙われて斬り殺し、彷徨って・・尼寺に救われた。
 そうした十歳の頃からの女の思い出がいまになって蘇ってくる。
 女を捨て、そしてふたたび女に戻った。瀬田そして源兵衛、お燕、嵐や皆も、かけがえのないものに囲まれていると百合花は思う。
「ちょっとしたこと・・」
 闇の中で囁いた。
 あのとき彷徨った山の中で道が二手に分かれていて、片方は下る道、片方はさらに山へと続く道・・逃げなければと山へと入った。その先に古い尼寺はあったのだった。

 そして翌日。
 店の支度にかかるちょうどそのとき、江角に連れられてお燕が来た。
 百合花は仔細を聞かされた。お燕は源兵衛と厨にこもって支度をしている。
 詫びた庭に、木の葉で砕かれた雨が霧のようにたなびいていた。
「ほう・・そうですか、お燕がそんなことを?」
「あたしも皆も考えさせられてしまいました。嵐なんて苦笑い・・参ったって笑ってましたね」
「ほほほっ、お燕はやさしい子ですからね。でもこれで私の法衣も無駄にならない。しばらくは牢で己を見つめさせておけばいいでしょう。お真知とやらには違う生き方もあるのですが、それもいずれ私が導く」
「よもや我らの仲間にと?」
 店では百合花は法衣をまとった。梳き流したおかっぱの垂髪が黒光りして美しい。百合花はちょっと眉を上げて言う。
「さあ、それはどうでしょう。いいわ、わかりました。四ツ谷は遠いから、こっちの支度が済みしだい源さんを向かわせます。巻き込むも何も源さんは仲間です。嵐には気をつけてと伝えてちょうだい」

 江角は香風を出て坂道を歩きながら、百合花は真知に対して尼となるより女のままで生きる道があるのではと考えている・・と察していた。
 本降りになりだした雨が蛇の目傘をばちばち叩いた。しかし空の西側が明るかった。雲が切れはじめている。

 夜の五つ(七時頃)の四ツ谷。このあたりは芝からは遠いけれども江戸城からはまっすぐな道沿いの街。緑の起伏が幾重にも折り重なる美しいところ。
 その街外れに小さな居酒屋はあった。この先少し行くと人家が失せて、さらに歩くと整備されだした内藤新宿の宿場へと至る。江戸初期のこの頃は七時には人の気配は失せてしまう。まして今宵は雨模様。

 居酒屋、酒膳。街道筋の町外れにある小さな店。
 ここへの途中に聞き込んだところによると、酒膳はずっと以前からある店で、いい歳の親爺が一人でやっているという。一年ほど前にそれまでいた娘が辞め、入れ替わるように『結(ゆい)』という女がやってきた。真知から聞かされたような性悪ではなく、気立てのいい女だということだ。
 それもくノ一としての器量。それだけ人を欺けるということだ。
「あ、いらっしゃい! 今日はもうだめだって話してたところなんですよー。あと半刻ほどで閉めますが、ささ、どうぞどうぞ」
 雨はここへの途中であがっていたが、こういう日は客は動かない。小さな店に客はなく、店主らしき爺さんと結という女が膝を突き合わせて座っていた。

 立ち上がった結は、いかにも客商売らしい鮮やかな黄色格子の着物に茶色の前掛け。背格好はお真知とほぼ同じで五尺三寸(百六十センチ)ほど。細身だったが体はよかった。。町女の髪姿で娘といえるほど若くはないが、それでも二十代の後半あたり。目のくりくりとした愛らしい姿であった。
 客が入って厨(くりや=台所)へとさがった店主は六十代の中ほどか。小柄で髪が真っ白だった。

 それに対して、嵐は青地柄の着物に脚絆を巻いて、市女笠(いちまがさ)と杖を持つ旅姿。そうでもしなければ仕込み杖が持てないからだ。
 源兵衛も三度笠に杖の旅姿。二人は一見して父と娘のようにも映っただろう。途中まで降っていた霧雨のせいで着物が少し濡れていた。
 結という女は手拭いを持って駆け寄ると、源兵衛から先に肩を拭き、嵐の肩も拭いてくれる。そのとき嵐はそれとなく探ったが、結はほがらかで人当たりのいい、愛らしい女であった。見た目ではわからない。
 源兵衛が言う。
「ちょいと一杯だ、肴は見つくろってくれりゃいい。今宵は娘と一緒だ、呑んだくれるとぶっ飛ばされる、こいつは鬼でね、はっはっはっ」
「まあ怖い、うふふ!」
 嵐はふっと片目の眉を上げて視線を流す。
「・・誰が鬼さ」

 そうやって四半刻ほどを過ごして店を探り、一旦店を出て、二人は店を見渡せる物陰に潜んで待つ。源兵衛が言う。
「どう思う?」
「うん、あの爺さんも怪しいね」
「そうか?」
「目配りでわかるのさ。結って女の動きを追う目が速いし、あたしの杖をちらりと見ていた。ずっと前から店をやってるらしいけど、であれば草(くさ=住み着いて探る忍び)だね」
 元が武士の源兵衛には、忍びの微妙なところはわからない。
 嵐が言った。
「東国に徳川が封じられてよりの店・・だとすれば、あるいは豊臣方・・それはいいさ、じきにのれんが下げられる。源さんは裏から、あたしは前から」
 その直後、結が顔を出してのれんをしまう。そのとき嵐が歩み寄った。

「もうおしまい? ちょいとお酒をもらって行こうと思ったんだけど」
 あたりまえに微笑みながらも間合いを一気に詰めた嵐。相手はのれん棒を両手に持って一瞬備えが遅れてしまう。
「なっ、何すんだい!」
「入りな!」
 片手を取って後ろにひねり、もう片手の二の腕を着物ごとつかんで店の中へと押し込んだ。

「てめえ! 妙だと思ったぜ!」
 爺さんがよく研がれた柳刃包丁を手に厨から飛び出ようとした瞬間、裏口から源兵衛が板戸を蹴破って踏み込んで、手にした杖を突きつける。こちらも仕込み杖。抜刀はしていない。
「おっと、おまえさんはじっとしてな」
 嵐は、結をひねりあげたまま、懐へ手を入れて長さ半尺ほど(およそ二十センチ)の黒い筒を抜き取ると、地べたに落として踏み潰す。くノ一が忍ばせる吹き矢である。袖も探るが袖には何も隠していない。
「やっぱりね、吹き矢とは穏やかじゃないね」
 と、嵐が言った。
 一方の爺さんは、源兵衛の気迫に圧されて座り込んでしまっていた。
「おまえ結だね、頭はどこだ?」
「頭? ふんっ、何のことさ?」
「しらばっくれてもだめなんだよ、おしろい般若・・お紋はどこだ!」
 そのとき・・うっと呻いて爺さんの口から血が流れた。舌を噛んだ・・違う、毒を噛んだ。
「おい爺さん! おい!」
「畜生ども・・我らが恨み・・思い知れ・・」
 そのまま倒れ、もがく間もなく動かなくなっていく。猛毒らしい。

 嵐は、とっさに手拭いを手にし、結の口に噛ませてしまう。くノ一は歯に自害のための毒を仕込むことがあるからだ。
「さあ言え! 我らが恨みとはどういうことだ! おまえら何者! 頭はどこだ!」
 猿轡でくぐもる声だったが聞き取れる。
「爺さんは甲賀、あたしは違う。爺さんがなぜここにいるかなんて知らないね」
「爺さんは一味じゃないのか?」
「違うさ。違うが、あたしをかくまってくれている。あたしなんか下っ端だ、深いところは知らないね」
「お紋はどこだ、言え」
「言ったら助けてくれるのかい、ふんっ」
 嵐は白木の丸杖から仕込み刀を抜き去って、女の耳に刃を当てた。
「切り取ってやってもいいんだよ。お紋のようにしてやろうか」

「だから知らないって!」
 結は敵意を剥き出しにそっぽを向いたが、そっぽを向きながら言うのだった。
「あたしはつなぎを待つだけさ。頭などよくは知らない。万座の湯治場にいるって話はちらっと聞いた」
「万座・・それに違いないね? たばかったら殺るよ」
 結はそれきり喋らなかった。
 万座の湯は硫黄の湯。傷にいいと言われていた。

「おまえは何者? 甲賀でないとすれば流派は?」
「もはや流派もくそもないんだよ、駿河が滅びてより我らは散り散り」
「駿河・・今川の手だな?」
「遠い昔さ。親父殿の時代だよ。忍びなど諸流が混じり合うもの。駿河にだって伊賀も甲賀もいたんだぜ。風魔もいるしな」
「おまえは女たちを殺ったのか? 手を下して殺ったのか?」
「殺ってない、かどわかすだけ。殺ったのは頭と、あと二人。それが般若で、あたしらなんぞ般若の髪の毛みたいなもんさ」
「そうか・・立て」
 結を立たせて振り向きざまに、嵐が首筋の急所に手刀を打ち込んだ。
 結いはがっくり崩れて膝をつく。
「源さん、どっかで荷車を。こいつも連れて帰る」

 気を失った結の手足を縛り上げて寝かせておいて、死んだ親爺の骸を店の奥に隠しておく。店の中の血を拭い、しばらくでも時がしのげるよう偽装する。
 裏口から結を担ぎ出して荷車に載せ、二人は夜陰へまぎれていった。

女忍 如月夜叉(十五話)


十五話~夕餉の後に


 今宵はありあわせの夕餉となった。白い握り飯と一夜干しのイカを焼いただけで量も少ない。皆も食べたそうにしていない。お真知の身の上は、ひとつ間違えれば己に降りかかっていたことだと五人のくノ一たちは感じていた。それは嵐でさえがそうだった。主家に仕えることも暮らし向きのため。忍びにとっての正義とは、敵味方のどちらから観るかによって変わるもの。それだけの違いでしかなかったからだ。

「・・あたしちょっと下へ」
 お燕が言った。皿に余りものの握り飯を二つ載せ、イカの残ったところを合わせたものを手にしている。それに茶だ。湯呑みに湯気を上げている。
「あたしも行くよ」 とお雪は言ったが、いいと言って首を振る。
「話してみたいんだ・・もう大丈夫、暴れたりしないと思うから」
 女五人が、肩を落として歩み去るお燕を見ていた。お燕もまた夜盗どもの慰み者にされた身だ。裸にされて責められる女の姿を見るのは辛い。
 地下への降り口は、斜めになった階段の真下の板床に隠し梯子が造られてある。地下は蝋燭が数本灯るだけで暗かった。窓などはもちろんない。
 お真知には、ねずみ色の浴衣が与えられていた。

「姉さん、これ喰って」
「お燕ちゃんだよね?」
「うん、お燕だよ。香風の下働きさ、忍びじゃない」
 刃も持たずに牢を開けて入ってくるお燕のことを、お真知は静かに見つめていた。その気なら素手でも殺れる小娘なのに・・お燕は気を許してくれている。
「お燕て名は、またどうして?」
「つばめ。毎年蔵の軒下に巣を作ってね、その子らがあんまり可愛いからおっ母が・・さ、喰って」
「あたしに飯など・・」
「もういいよ。いいから喰いなって、これからちゃんと生きるんだから」
「・・ありがと」
「うん」
 お真知は握り飯に喰らいつく。イカを喰い、茶も飲んだ。
「・・美味い」
 敵意の消えたお真知には、ただただ孤独がつきまとっているようだった。

「お燕て、いくつ?」
「十七。三年前にお店が襲われて皆殺しさ。あたしだけが残ってしまった」
「・・辛かったんだね」
「ここにいる皆がそうだよ、何かしら抱えてる。だから姉さん」
「姉さんはよしとくれ敵なんだ。・・いまさら逃げるつもりもないけどね」
「いまさらって?」
「逃げたって、どうせ喰い詰めるだけ。あたしは殺っちゃいないけど、あたしらでさらってさ、殺したも同じこと」
「そうだね同じこと。鬼畜の所業さ。けど生き直すことはできる。心底悔い改めて手を合わせて生きるんだ。許されることはなくても背負ったものは降ろせるよ。庵主様は観音様だ、きっと育ててくださるから」
「尼にか?」
「御仏に叱られるつもりで励むんだね、捕らえられれば死罪なんだよ」

 お真知は、哀しげにちょっと笑った。
「御仏に叱られるか・・叱られるぐらいで済めばいいけど。それにしても、あの尼さん・・」
 お真知は、参ったというように首を振って目を伏せた。
「何さ?」
「あれほど剣を使うとは」
「そりゃそうさ、あたしはよく知らないけれど、如月流のお頭様の義理の娘だ。さっきの嵐の姉様のさらに姉様なんだもん」
「あの如月の霧葉の娘・・」
「嵐の姉様はね。庵主様は違うよ。なんでも危ないところを救われて霧葉様に育てられたそうだ。あたしみたいに。あたしも庵主様に救ってもらった。盗賊どもに嬲られて・・あたしなんて死んだ身さ・・汚れちまった」

 牢の中に並んで座って話していた。お真知の素振りからは険は失せ、落ち着いた女の顔となっている。
「お燕ちゃん」
「うん?」
「髪を降ろして。あんたの手で切って欲しい」
「わかった。明日にでも庵主様に話してみる」
「すまないね。それに・・ありがと。もう少し早く会いたかったよ」
「そうだね、人ってそうだよ、そんなもんさ。ちょっとのことで変わってしまう。ねえ姉さん、お願いだからちゃんと生きて、あたしに誓って」
 お真知はこくりとうなずいた。
 それからお燕は皿を手にして上へと戻り、そのまま風呂へ入って行く。

 その間に、先に風呂を済ませた嵐が下へと降りていた。
「静かになったね、殺気が失せた」
「はい・・さっきお燕ちゃんに髪を降ろしてってお頼みしました」
「聞いたさ。泣いて喜んでたよ、よかったって」
 お真知の眸が潤んでくる。
「・・はい。それで嵐様、そういえばちょっと・・」
「何だい?」
「お頭のお紋とか言う女のことで」
「何か知ってるんだね?」
「江戸にはいないと聞いてます。我ら手下の中に鼻のきく女がいて、そういえば言ってたなって・・お頭という人には硫黄の匂いがするって」
「硫黄?」
「火薬じゃなくです。おそらくは湯かと。人知れず潜んでいないとあの傷では目立ってしまう。耳のことは知りませんが左の頬の火傷はひどくてただれているからと聞きました」
「そうか硫黄・・うむ、わかったよ」
「あたしらはつなぎが来て集められる・・あ・・」
 ハッとしたようにお真知は目を丸くした。

「つなぎの女が漏らしていました。四ツ谷あたりの居酒屋に仲間が一人いると言って・・名は確か、結(ゆい)・・そこで女中に化けてるとか。嫌味な女で顔も見たくないってこぼしてましたよ。店の名は何て言ったか・・」
 思い出せないといった様子。嵐は微笑んで肩を叩いて立ち上がった。
「思い出したら教えてな。しばらくは牢にいてもらうが安堵しな。髪を降ろすにしても庵主様に任せればいい。明日の朝、お燕に膳を運ばせる」
 そう言って立とうとしたとき、お真知は目を見開いた。
「・・そうだ、酒膳(しゅぜん)・・酒膳です店の名は。あたしと同じぐらいの背格好で、なんでも土佐の桐生(きりゅう)のくノ一だとか。毒を仕込んだ吹き矢をいつも懐に隠している」

 土佐と言えば山内一豊・・もとよりの統治、長宗我部(ちょうそかべ)は、関ヶ原で豊臣方に味方した。桐生一族は、その長宗我部が抱えていた忍軍である。

「わかった、早速あたろう、ありがとね。そなたのことはあたしからも庵主様に伝えておく。早まっちゃだめだよ」
 嵐は、そっとお真知を引き寄せて抱き締めた。背から尻までそろそろと撫でてやり、『お燕の心根を考えな』 と耳許で囁いた。

女忍 如月夜叉(十四話)


十四話~お燕の怒り


 江角、嵐、そして大柄で見るからに恐ろしげなお涼に囲まれて、人けの失せた宵闇の中、後ろ手に縛り上げられた若いくノ一は引き立てられた。舌を噛ませぬようにと丸棒を噛まされた猿轡もそのままに。
 屋敷に戻り、さらにお菊とお雪、一人だけ様子の違う若いお燕が加わって、若く未熟なくノ一は恐怖に目を引き攣らせた。ここは忍び屋敷。捕らえた敵を責める場はもちろん地下に造られてあり、地下牢なども用意される。

 普通に育った町娘のお燕にとっては、くノ一がくノ一を詮議する場をはじめて見る。忍びとすれば当然のことなのだが、お燕の顔色は青かった。
 着物の上から乳縄をかけられて後ろ手に縛り上げられた女は、地下に降ろされると全裸に剥かれ、泣き柱という二本の丸柱の間に立たされて、手足を開いた大の字に縛り直される。
 二本ある柱は外皮を剥いた太い丸太で、一人を別々に縛ることもできれば、こうして女にあられもない姿をさせることもできるもの。

 素っ裸にひん剥いたくノ一は、膝から下、肘から先はいくぶん陽に焼けていたのだが肌は白い。背中に浅い刀傷。脚や腕にも細かい傷がいくつかあったが、どれもが浅く、引っ掻いたぐらいのもの。百合花に斬られた浅い傷には晒し布があててあったが、剥がしてみると血はすでに止まっていた。
 中背で細身、乳房も小さく、それにしては下腹の翳りが黒々として、熟れた女であることを物語る。その毛むらの上の白い腹には孕み線が残されて、子を産んだことがあると見てとれた。
 女は敵意にぎらつく目で囲む六人を見据えている。剣では未熟であっても忍びを知り尽くしたくノ一であることはうかがえた。

 素っ裸の女を大の字に縛り上げると、まずお菊が無造作に女陰に指を入れて掻き回し、体の中に毒など隠していないことを確かめる。それは尻の穴もそうだった。舌を噛んで死ねないよう丸棒をくわえさせられて猿轡。前にも後ろにも指を入れられ、女はやや長い髪を振り乱し、くぐもった呻きを漏らしていた。
 女は黒髪を結わずに後ろでまとめた下げ髪だった。歳の頃なら二十七、八。五人と同じほどの歳であり、美しい部類に入る。若くして子を持ち、ゆえに忍びの技では未熟ということなのだろう。
 女の二穴を調べたお菊・・いいや白狐が、嵐に向かって何もないよと首を振った。嵐はうなずき、裸の女に歩み寄る。
「観念するんだね、おまえもくノ一なら、あがいたところでどうにもならないことぐらいはわかるだろう」
 しかし女は睨みつけたまま、ぷいと横を向いてしまう。

「ふん、まあいい、訊きたいことがいくつかある。おまえはおしろい般若の一味だね? ねぐらはどこだ? その数は?」
 声を出そうともしない女に、嵐は眉を上げて首をすくめ、それから仲間を見渡してちょっと笑い、そして言った。
「お菊、それからお涼」
 二人は、にやりと恐ろしげに笑ってうなずくと、それぞれが細く長い竹の棒を手に取った。

 それからのことをお燕はとても正視できない。白かった女体に見る間に惨い傷が浮き立った。背にも尻にも腿にも、腹にも胸にも乳房にまで、棒打ちの血腫れが浮いてくる。
 もがき叫ぶ悲鳴は女の声とは思えない。猿轡でくぐもって、さながら獣が吠えるような絶叫だった。
 激痛のあまり女は小便を垂れ流す。

「もういいだろう」
 ふたたび嵐が歩み出て、両方の大きな乳首に鋭い爪先を立ててコネ潰しながら言った。
「言いな。おしろい般若だね?」
「むむう・・殺せ・・」
 猿轡で言葉がはっきりしない。
「そうかい・・しょうのない女だよ。お涼、火箸を焼きな」
「うむ、女陰も乳も焼いてやろうか」
「顔もね。ふふふ、女には惨い責めさ」
 お雪がにやりとほくそ笑む。

 お燕は、ボロ布のようにされていく裸の女を囲む五人の一歩後ろにいて、胸を抱いて震えていた。顔色が血を失って土色だ。

 太い蝋燭の炎にあぶられ、先が真っ赤に焼けた火箸を手に、お涼が、まさに涼しい顔で歩み寄る。鉄が焼ける白い煙が立っていて、その灼熱が女の頬にそっと静かに寄せられた。
「むぅぅ! むむぅーっ! いっそ殺せーっ、殺してくれぇーっ!」
 女は頭を振って嫌がった。大の字に開いた脚の間からおびただしい小便をまき散らす。
「なら言うか!」
 火箸が寸前。お涼の声に江角の声が静かに重なる。
「無駄だね、こやつも忍びぞ。さね(クリトリス)でも焼いてやりな。そうすりゃ口も動くだろう」
「ふふふ、ああ、そうしよう。おい女、これが最後だ、言うか! おまえには子がいるだろう! 母なし子になるんだぞ!」
 焼けた火箸の先が下腹の毛に触れてチリチリと炎を上げた。
「うわぁぁーっ、言うぅ! 言うからぁーっ!」
 女は折れた。恐怖にガタガタ震えている。

 おしろい般若は、こうして三人・・いやお燕を襲った二人を含めて五人を失っても残り数は知れなかった。その都度銭で釣られて集められ、それからのねぐらもそれぞれ散って潜んでいると女は言った。嵐ら同様に諸流の入り混じったくノ一ばかりの集まりらしい。
 お涼が凄む。
「黒幕は! 糸を引くのは誰か!」
「知らん・・知らんのだ。お頭に動けと言われて我らは動く。お頭の居場所さえ我らは知らん、つなぎを待つだけ」
「お頭とは何者ぞ!」
「名は知らん、『耳なし』とつなぎの者が言っているのを聞いたことがある。あたしより一回りは上で、女のくせに六尺(およ百八十センチ)近い大女だ」

 それを聞いて江角が哀しそうに首を振った。
「耳なしとはね・・」
 皆が江角に目をやった。
「伊賀者だよ。名はお紋、あたしより四つ上でね、滅びた一派のくノ一さ。捕らえられて耳と乳首を切り落とされた・・体中を焼かれたそうだ。そのとき同じ一派の中忍の女房だったそうだが、あまりの醜さゆえに捨てられて、だから逆に大手を振って伊賀を去れた。あやつはもはや女の鬼さ」
 そう言って江角は女のもとへと歩み寄る。
「おいおまえ、そやつ体にも酷い傷があるだろう?」
「よくは知らん・・頬に火傷はあるけどね。白粉(おしろい)でごまかしてはいるけどさ」
「なるほどね、それでおしろい般若ってわけかい」
 お雪が言い、江角がちらと目をやって言う。
「お紋と知れたからには心してかからねば。もともと気が荒く、血に飢えた殺し屋だった。女だろうが童子だろうが、にたにた笑って平気で刻むさ。これでわかった、己がされたことを女たちにしてやって楽しんでいるんだろう。お紋は女陰も焼かれていると聞くからね」
 お菊が問うた。
「おまえは殺しに手を貸したのか?」
 女は殺っていないと懸命に首を振り、「かどわかすのが役目」と言った。

 重い無言が少し続き、江角が女の髪を引っつかんで上を向かせた。
「子がいるのか?」
「乳を吸わせたこともないね・・おいてきた」
「おいてきた?」
「大阪にいたのさ。喰えなくて茶屋で女中になった。そのうち商家の爺に囲われた。慰み者さ。子だけ奪われて捨てられた。あたしはおもちゃだったが娘は可愛い。いい歳をした爺でね、その歳でできた娘だから可愛いんだろうさ」
「おまえはいくつだ?」
「六」
 二十六・・それにしては老けて見える。
 お涼が言った。
「それで銭で動いたか?」
「もちろんそうさ、一人かどわかすごとに十両だよ、夢のような大金さ」
 そして嵐が、ため息を漏らしながら言った。
「もういい、牢に入れて匕首を渡してやりな。楽に死なせてやる、勝手に逝け」

 そのときだった。五人の陰に隠れて震えていたお燕が言った。
「待ってよ姉様・・ねえ待って」
 五人がお燕を見つめた。
 そしてお燕は、お涼が地べたに突き刺して手放した火箸を取り上げて、燃える蝋燭にかざしてふたたび焼くと、大の字に縛られたままの女のそばへと歩み寄る。
 お燕が可愛くてならないお雪が止めようとしたのだが、そのお雪に江角が手をかざしてさえぎった。何か考えがあるのだろうと江角は思う。

 素っ裸・・全身打ち痕だらけの女を見据えて、お燕は言った。
「あんた名は?」
「・・真知(まち)」
「お真知さんか・・」
 お燕は、下腹の黒い毛むらの中に焼けた火箸の先を突きつけた。
「な、何をする!」
「うるさい! お仕置するんだ!」
 一気に深く押し付けた。
 声を搾るような真知の悲鳴・・毛の中から肉の焦げる煙が上がった。
 たらたら小便を垂らす真知。
 お燕は言った。
「毛の中なら目立たない。髪を剃って尼になりな。御仏にすがり、あんたたちが殺した娘や女たちに生涯手を合わせて生きるんだ。死んじゃだめだ、二度と刀なんか持たせないからね」

 火箸を捨てて涙を溜めながら裸の真知に抱きすがるお燕。襲った賊の背や腰を撫でながら、お燕は囲む五人に向かって言った。
「姉様方、それでいいだろ? 庵主様に叩き直してもらうから許してあげて、お願いだから・・助けてあげて」
 真知が泣いた。
 それを聞いたお涼が、涙を流す真知に歩み寄って言う。
「いまの言葉を忘れるな。牢で舌でも噛んで死んでみな、そんときゃあたしが殴り殺すよ、わかったかい!」
 嵐が震えるお燕をそっと抱いてお雪に言った。
「手当してやりな、もういい」
「はいよ。でもお涼」
 お雪はふざけるように眉を上げてお涼を見た。
「何さ、その目?」
「死んだら殺すっておかしな話だ」
 目をぱちくりさせながらお雪が笑った。
「・・けっ、馬鹿だね・・言葉のアヤだよ。叩っ斬るよ・・ふふふ」

 お燕は強くなろうとした。生き血をかぶって震えながら、あたしだって如月夜叉だと思ったのかも知れなかった。
 嵐も江角も、ほかの皆も、たまらない気持ちになれていた。強さとは、ときとして許す器を持つことでもある。
 真知というくノ一は明らかに下っ端。殺したところでどうなるものでもなかっただろう。
 誰も口にはしなかったが、忍びとは雇われて動くもの。いずれにせよ銭。そう思うとやるせない。

 お涼とお菊の手で縛りが解かれ、崩れ落ちそうな裸の真知を両側から抱き支えると、お菊が言った。
「ここでは狭い、上へ連れてく。お燕」
「あ、はい?」
「湯を・・いや風呂の支度をしてやんな」
 お菊のやさしい声に、そのとき嵐に肩を抱かれていたお燕はぱっと笑い、元気になって一人先に梯子を登って行く。
 そのお燕に目をやって真知が言った。
「おえん・・?」
 お涼が言う。
「可愛い燕さ。燕みたいにちょろちょろ飛んでら。おい、真知とか言ったね」
「はい」
「人の情けを思い知れ」
「・・はい、きっと」

 真知から敵意が消えていた。お燕の力だと皆は思う。

女忍 如月夜叉(十三話)


十三話~庵主の剣


 二日が過ぎていた。
 その間、五人のくノ一たちは、二人ずつが二手に分かれ、芝から築地、八丁堀、両国あたり、そして川向こうの本所、本所深川と、西国から江戸へと手をひろげた商家を見て回り、それとなく聞き込みを続けていた。
 残る一人は屋敷に残って不測の事態に備えていたが、敵の陣容が知れない限り心細い。

 西国から流れ込む人々を江戸へとつなぐ口入れ屋。呉服商から小間物商、両替商、大工まで、商魂たくましいというのか、これからの江戸をあてこんだ商いは思いのほか多かった。しかし年頃の若い娘や内儀のいる店となるとそう多くはない。
 さらにまた、物盗り夜盗の類であれば押し込む先にあたりをつけて手引きをする『引き込み女』などを潜り込ませておくのだろうが、出かけたところを狙うのだから尻尾のつかみようがない。度重なる酷い殺しに人々は震え上がり、娘や若い妻は閉じこもって出て来ないし、奉公人でさえも若い女は出さないほどの備えをしている。中には用心棒を雇う店まであらわれはじめた。

 そして三日目。江角とお涼、嵐とお菊で二手に分かれ、江角ら二人は品川宿から西側へ、嵐ら二人は神田界隈と、双方ともに海を離れた内側をあたろうとして朝にはすでに出かけていた。屋敷にはお雪が残る。お燕が戻るのは暮れ六つ(六時頃)。それまでには二手に散ったどちらかが戻っていないとならない。屋敷にお雪が一人では危ういからだ。
 今日は江角とお涼が先に戻ることになっていた。身軽な忍び装束ならともかくも小袖に草履では時がかかる。芝あたりから神田は遠い。嵐とお菊は遅くなることだろう。

 甘味処、香風。
 昼過ぎから続けて二人ほど客があり、落ち着いた昼の七つ(三時過ぎ)、訪ねてくる女の影があった。三十そこそこ。目立たない灰色柄の小袖を着て、しかし顔は隠していない。丸髷を結った町人のようである。細身の中背。悩み事があるのだろうか結い髪にわずかながらほつれ毛があって乱れている。今日は風が出ていた。外を歩き回っていたのだろうか。
「あのう・・もし」
「あ、へい」
 そのときは源兵衛が応じた。灰色の作務衣の姿だ。
「こちらにありがたいお話を聞かせてくださる尼さんがおいでだと聞きました。甘いものとお茶もいただけるとか。歩き過ぎて疲れてしまいまして」
「へいへい、どうぞどうぞ。ちょうどいまお一人お帰りになられたところでして。さあどうぞ」

 その女は憔悴しきった面色で生気がまるで感じられない。草履を脱ぐとき足許がふらつく感じさえした。奥へ通すと、庭先の東屋を見渡せる侘びた広間に百合花は座っていた。客を百合花のもとへ案内し、茶の支度に厨に戻ろうとしたときにお燕が顔を見せたのだった。
 源兵衛が言う。
「なんだか哀れだぜ、顔色もよくねえし疲れきってるようでもあってな。茶と甘菓子だ、用意しな。葛の餅でいいだろうよ」
「はいよ」

 そのとき百合花は庵主を装って座していた。店ではやはり法衣でなければお客が話しにくいだろうと、白の単衣に濃い藍色を重ねた尼姿。しかしかぶりものはしていない。髪は短な垂髪で、女は庵主を一目見るなり見とれたようにぼーっとしていた。尼僧と聞いて想像したよりはるかに若く、俗世の女そのままに美しかったからである。
「さあさ、こちらへ。今日はどのような?」
 女は座卓を挟んで向き合って座りながら言うのだった。
「心持ちをどう定めてよいものやら・・わたくしは尾張の呉服屋、橘屋本家の家内です。本家分家と言うほどでもないのですが、うちの人の弟がこちらに居を移しまして商いを。なのについ先だって・・祝言を挙げたばかりの女房を失いましてね・・仙吉は・・いえ、主人の弟なのですが、それきりもう魂が抜けたよう。店をたたんで尾張に戻ると言うのです。しっかりなさいと言ってみても可哀想で見ていられない」
 つい先だっての二本松の惨劇が思い出された。
「そうでしたか。それで今日はあのへんを?」
「そうです、二本松とやらを見て参りました。ここで殺されたんだなと思いましてね、お花をたむけて参りました。じつは・・」
 そのときお燕が茶と菓子を運んできて、一礼して去って行く。

「じつは義弟に江戸を勧めたのはわたくしなんです。殺された女房はお梅と言いますが、元はと言えば本家たるうちの使用人。二人は好き合っておりまして、ではお店を分けてという話になったとき、狭い尾張で兄弟が争うより、いっそ江戸に出たらどうだとあたしが言って・・これからの土地だよって勧めたのです」
「・・そうですか、それは心が痛みますね」
「たまりませんわ。それでなくても江戸へ出ると言うと向こうでは裏切り者のように言われてしまう。皆が江戸江戸と騒ぐもので妬みやっかみが渦巻いているのです。尾張などまだいい方で、大阪や京などでは脅されることもあるらしい。商人は皆で連なって商っているでしょう。歯が抜けるように次々いなくなられるとすたれてしまう」
「商家がそうだとお武家様も困りますからね」
「それもあります。出て行く者にはそれは厳しく・・」
 女はちょっと笑って話を変えた。
「まあそうしたことで、あたしさえ余計なことを言わなければと・・義弟はもう死人のごときありさまで・・」
 かける言葉もなかった。悲しみが深すぎて何を言っても胸には響かず、百合花にすれば、自分はもう尼僧ではないという思いもあって、仏を説く資格はないと考える。

「おしろい般若・・天はきっとお怒りです、夜叉のごとくお怒りだと思いますよ」
 百合花は女の手を取って、座卓を回り込ませて引き寄せると、母が娘を抱くようにそっと深く抱き締めた。
「悲しみを少しでも吸い取って差し上げます・・さあ甘えなさい」
 女は声もなく泣いた。肩を震わせ泣いている。
 百合花は怒りに震える心を抑えることができない。お燕のときもそうだった。許せない。女の敵は許せない。
 瀬田が置いて行った黒鞘の刀が床の間に立て掛けられてある。尼僧でありながら武具へちらりと目をなげた。
 ああ私は道を外した。もはや僧ではないと思うのだった。

 そして暮れ六つ(六時前)。
 源兵衛とお燕は連れ立って店を出て屋敷へと歩いていた。斜陽が町を朱に染めた。
「やさしいお方だ・・やさしいが激しい・・」
 燃える想いのようだと源兵衛は赤い落陽を仰ぎ見た。
 そんな源兵衛を横目に見てお燕が言う。
「好いてるんだろ源さんも・・百合花様のこと」
「馬鹿言え・・わしなどもはや爺さんさ」
「そうかな、五十六なんてまだまだだと思うけど」
「ちぇっ小娘め・・ふっふっふ・・恩人さ、そんなお方のそばにいられるだけでいいんだよ」
 この源兵衛は薩摩の出で、さる武家の婿養子であったのだが、いまから十年以上も前のこと、上役の妻と不義密通。職を追われ、己の妻からも三行半(みくだりはん=離縁状)をつきつけられて流浪の身となっていた。
 何年も彷徨って、刀さえ質に入れて死にかけていたところを尼寺に救われたというわけだ。
「本気で俺を叩いてくれた。抱き締めてしっかりしろと言ってくれた」
「またそれを言う・・何度も聞いたよ、よっぽど嬉しかったんだね」
 お燕は涙ぐんでいた。自分のときと重なるものがあるのだろう。
「泣いたぜ。白い飯と菜っ葉の煮浸しだったが、ありあわせで飯まで喰わせてくれてな。その美味かったこと美味かったこと・・生涯忘れねえ」

 そうやって並んで歩き、もうすぐ、その先の角を曲がれば屋敷が見えるというところまで来たときに、源兵衛は言う。
「あ、いけねえ、包丁忘れた」
「研ぐのかい?」
「そうなんだ、じつは昨日も忘れてな、今日こそって思ってよ、また忘れた」
 お燕は言った。
「ここまで来れば、あたしならいいよ、取っておいでな」
「そだな、ちょいと戻るわ」
 このとき、屋敷の見える最後の角まで後わずか。お燕と源兵衛はそこで分かれた。

 そしてそのとき、見回りから戻った江角とお涼がちょうど屋敷の門をくぐったところ。わずかばかりの前庭を歩いて屋敷に入り、一人残っていたお雪と目を合わせたところだった。
 屋敷の前でバタバタと草履の駆け音。三人が異変を察したそのときだ。
 お燕が板の引き戸を蹴破るように飛び込んで来る。
 お涼が声高に言う。
「お燕! どうした、その血は!」
 お燕は町娘の結い髪だったが、その顔の半分・・肩口から後ろ身にかけて血をかぶったようになっている。お燕が斬られたと皆はそう思ったのだが・・お燕はぴんぴんしていた。
 屋敷に飛び込み、震えながら青ざめた面色でお燕は言う。
「すすす、すぐそこ・・あたし源さんと分かれて・・それで・・」

 背後によからぬ気配がして振り向こうとしたときに、いきなり後ろから血しぶきが降りかかり、町女が二人、血だらけで倒れていたと言うのである。
 江角は震えるお燕の肩を両手でつかんで目を見つめた。
「しっかりしな、もう大丈夫だよ。それで女どもは誰に殺られた? 殺った相手は見なかったのか?」
 お燕は呆然として首を振るばかり。
「わからないの・・振り向いたらいきなり血が雨みたいに・・けど・・」
「うむ? 見たのか?」
「わからないんです。黒い影のような・・うーん・・黒い風のように物陰へ・・」

 源兵衛はお燕と分かれて香風に戻って行ったと言う。それを聞くと江角は、白樫の八角棒をひっつかみ、屋敷にお涼とお雪を残して単身外へと飛び出した。源兵衛がいるとは思うのだったが香風が危ない。それに殺られた二人の女も見ておきたい。
 このとき江角は見回りから戻ったばかりで小袖を着た旅姿。屋敷を出て海側へと走り、角を曲がったすぐのところに死体が二つ転がって、すでに人だかりができていた。
「こいつは惨げぇや・・二人とも喉笛をひと掻きだぜ」
 人々に紛れて死体を覗き込む。女二人はいずれもありきたりの町女の姿だったが白木の仕込み杖を持っており、横からの刃一閃で喉を斬られて死んでいた。
 できる・・恐ろしい手練れ・・。
 背後からお燕を襲おうとしたくノ一どもに剣を抜く間も与えず一瞬にして葬って、お燕にさえ顔を見られず消えている。

 殺った相手も忍び・・彪牙なのか?
 江角はとっさに彪牙の姿を思い浮かべた。これほどの使い手はそこらにいるものじゃない。
 そんな女二人の死に様を見届けると、江角は香風へと走った。小袖の旅姿に太花緒の旅草履。しかし着物がまつわりついて遅い。江角は着物の裾をまくり上げて走りに走った。

 陽は沈みだすと早い。香風のある丘の上に濃い墨が流れだす。
 源兵衛は、なだらかな登り坂を歩きながらふと見上げる。すると、閉めたはずの裏木戸がわずかに開いて揺れていた。

「何者か!」

 そのとき百合花は、忍び寄る者どもの気配を察し、とっさに立てかけてあった黒鞘の剣を手にした。反りのある武士の刀。瀬田の剣だ。
 源兵衛とお燕が帰って行って、庵主は法衣を脱いで百合花に戻ろうとするところ。白の単衣だけの姿。それさえ脱いで襦袢に着替えようとしたときだった。

 相手は三人、いずれも女。着物の裾を短く着て脚絆を巻き、太花緒の旅草履を履いている。髪は結っていないのだろう、頭巾が頭に張り付いている。女たちは仕込み杖を持っていて、それぞれが抜刀していた。くノ一だ。
 黒鞘から剣を抜いて身構える尼僧を見て敵の一人がほくそ笑む。
「ほう、尼が剣をやるとは・・ふっふっふ」
 百合花は臆することなく族を見据えた。
「そなたらよもや、おしろい般若・・」
「ふんっ、無駄口は無用だね・・死ね!」
 三人が庭に散って身構え、受ける百合花も白の単衣の裾を大きく割って庭へと降りて、中腰となり、白刀を片逆手に切っ先を下げて身構えた。嵐そっくりの如月流の剣構え。
「妙な構えだが・・こやつはできる、ぬかるなよ!」

 三人は示し合わせて囲みを絞り、左右から二人が同時に斬りかかる。動きが速い。忍びの身のこなし。
 キィィーン!
 右からの刃を受けて跳ね上げて、瞬時に身をさばいて左からの刃を交わし、右から斬りかかった女の腹を下からの剣で浅く切り裂く。
「ぎゃぅ!」
 斬られた一人は身を屈めて転がった。
「く、くそ、強い・・」
 残った二人が身を沈め、今度こそと気を入れて身構えた。まさか尼僧がこれほ剣を使うとは・・。
「トォォーッ!」
「ハァァーイッ!」
 気合いと気合い・・剣と剣が交錯して火花が飛んだ。
 左から斬り込んだ女の刃が白の単衣のたもとを切り裂き、しかし百合花の白刃が敵の二の腕を浅くえぐる。
 百合花は剣を構え直して、ちょっと笑った。白の単衣の裾が割れて淡い桜色の腰巻きが覗いている。胸元も開いてしまって白い乳房が覗いていた。
「そなたらには斬れぬ・・ふふふ・・如月の百合花を甘く見るな」
 左右に散った敵の二人が目を丸くして見合わせる。
 如月・・その名は最強の忍軍として轟いている。まさかこの庵主が・・。

 裏木戸に駆け寄った源兵衛は、争う気配を察し、裏木戸を閉ざすために置いてある丸木の棒を手にすると、女たちの背後に立ちはだかった。
「待てい! わしが相手ぞ、かかってこいや!」
「源さん」
 百合花は、ふふふ・・と小声で笑った。
「ご無事で?」
 百合花はうなずくと、己の剣先を右の一人に向けて涼しい眸で身構える。乱れた着物を直そうともしなかった。中段に一度構え、その剣が片逆手に握り変えられて切っ先が下を向く。静かだが殺気に満ちた百合花の構え。

 源兵衛は豪放な薩摩武士。やがて薩摩示現流となる古武術の達人だった。
 先手必勝の剛剣。身を沈めて棒を構える源兵衛と百合花に、二人の賊は前後を挟まれ動けない。
「イヤァァーッ!」
「なんの甘いわ! ドリャーッ!」
 突き込まれた女の剣先を横振りの丸棒がへし折って、返す棒が女の額を叩き割る。声もなく一人が倒れ、残る一人は、すでに肩を斬られていた。
 二人との間合いを取りながら身を沈めて構える女は眸は怯えていた。百合花に斬りかかって剣を弾かれ、刹那、踏み込んだ源兵衛の棒が腹に浅く食い込んだ。
「げふっ・・ぐむむ・・」
 剣を取り落とし、膝から崩れる女。しかし死んではいなかった。当て身であった。

 さらに一人・・最初に腹を斬られた女は傷は浅く、このときまでは生きていた。
「不覚・・いまに思い知る!」
 己の剣で首を断って自刃した。
「・・馬鹿者が」
 かぶりものを取ってみると三十前のまだまだ若い女。
 と、そこへ、八角棒を手にした江角が駆け込んで来るのだった。

 腹を打たれて気を失った女を源兵衛は家の中へと運び込み、舌など噛まないよう棒を噛ませて猿轡とし、両手を後ろに縛り上げた。かぶりものを取ってみると、こちらは二十代のはじめ。肩口の浅い傷にサラシを巻いて血を止める。
 女たちは、もちろんくノ一。襲った相手が悪かったのだが、それにしても手練とまでは言えなかった。この女などは若すぎる。
 三人の中での手練は、源兵衛に額を割られた女であった。歳は三十過ぎと思われる。
 女たちは懐に二枚ずつ四方剣の手裏剣を隠していた。百合花がつぶやく。
「四方剣・・流派は・・」
 源兵衛が眉を上げて江角を見つめた。
 江角は百合花に寄り添っていて、言うのだった。
「四方剣というだけではなんとも・・後は我らにお任せください」
 百合花はうなずき、お燕が間一髪だったことを聞かされて、江角に言った。
「備えを怠らないように」
「はい、そのつもりでおります」
 そんなとき源兵衛が笑って言う。
「それにしても庵主様はお強い。ふっふっふ、恐れ入りますでしたな」
 百合花は悲しそうに微笑んで目を伏せた。
「剣までを手にした身、もはや僧ではありません、如月の百合花・・少し習っただけですけどね。嵐ならこんなものではありませんよ」
 それから源兵衛は念のために香風に留まり、見回りから屋敷へ戻って急を聞いた嵐とお涼が駆けつけて、縛り上げた女を引き立て屋敷へと戻って行った。

 日頃百合花しか使わない香風の風呂は、源兵衛に尼寺での暮らしを思い出させるものだった。
 寺の風呂もそうだった。靄る湯気に残り香が漂うようでもあり、それが心を癒してくれた。庵主は厳しく、日々叱責。けれどもそれが我が身を洗ってくれたと考える。
 時刻は夜の四つ(十時頃)となっていた。源兵衛は湯船に浸かり、そのとき、すぐそばの脱衣に静かな気配・・。
「庵主様・・なぜ・・」
 一糸まとわぬ百合花は天女のように美しい。細身でありながら乳房は豊か。下腹の性飾も黒々として扇情的だ。
「いまごろあの女がどうなっているのかと思うと眠れません。先ほどは救われましたね、ありがとう」
「しかし瀬田殿が・・」
「ふふふ、私はもうだめ、煩悩に憑かれてしまい、それまで忘れていた分までも欲しくて欲しくてならないの。怖いんです、私がこんなことをはじめたばかりに嵐や皆や、お燕は襲われ、源さんまでも巻き込んで・・いつか誰かが死ぬのではと考えると罪はすべて私にあります。それに・・」
 湯船をまたぎながら囁くように言う。
「殺生への怖さです。女の敵は許せませんが私に裁く資格などはない。なのに私は怒りに任せて如月夜叉をつくってしまった」
「それは違う」
 源兵衛はそれ以上を言わせず、受け止めるように百合花を抱いた。

「抱いて・・寂しいの・・ずっとずっと寂しかった・・」

 そっと目を閉じた白くて弱い面色の中で、薄い唇がふるふると泣くように震えていた。

女忍 如月夜叉(十二話)


十二話~それぞれの寝屋


 忍び屋敷の二階に三つ並ぶ、中の六畳。明かりを消した星闇につつまれて、涼風と呼ばれたお涼と、白狐と呼ばれたお菊は、虚空を見たまま眠れない。
 流派の違うくノ一同士が出会うこととなった身の上を考える。それまでなら考えないよう振り切ってきたことだし、考えたところで誰かに言えるはずもないことだった。

「・・あたしは銭のためだった」
 と、薄闇の中でお菊がつぶやいた。
「そりゃぁね、あたしもだよ」 と、お涼。
 お菊が言う。
「食えるだけやると言われた。女の流れ者じゃ苦しくてね」
「ふんっ、同じようなものさ。あたしなんて夜鷹でもやろうかと思ったぐらいだったが、見ての通りの図体さ。旅籠の女中だったんだ。薪割って風呂焚いて。一日やっていくらになるのさ」
「うん・・けど、そんなことより何のための命かなって・・」
「そうだね。あの尼さんもそうだけど、お燕を見てても思うんだ。女っていいもんなんだなって。うまく言えないけど心が洗える気がするさ。あたしだって女らしくすりゃぁ、ちっとはどうにかなのかなって」
「ふふふ・・寝るか」
 お菊は笑って、男のように体の大きなお涼に背を向けて目を閉じた。

 三つ並ぶ、奥の六畳。今宵はなぜか青く見える星明かりにつつまれて、女郎花と呼ばれたお雪は、若いお燕を抱いて寝ていた。可愛くて可愛くてたまらない。お雪の心はあたたかかった。穢れのない娘を抱いていると、よく熟れた豊かな乳房に母心が満ちてくるようだった。お雪は九つ年上だ。
 お雪の胸でお燕がささやく。
「あたしときどき怖い夢を見るんです、それはいまも・・」
「そのときのことかい?」
「おっ父が斬られ、おっ母があたしを逃がそうとして後ろから斬られて倒れ・・おまえはお逃げ、きっと幸せになるんだよって、おっ母は言って、ことりと首を折って死んでくの。隠れていたけど見つかって・・次から次から男たちに・・」
 お雪はお燕の背を撫でて強くぎゅっと抱き締めた。
「おまえは未通(おぼこ=処女)のままさ。そんなことで穢れたと思わないことだね。獣は人にあらずだよ」
「・・はい」

「あたしなんか・・」
 そう言いかけて静かな涙がお雪を襲った。耐えに耐えてきたものが一気に崩れたようだった。
「姉様・・どうして泣くの?」
「重なるものがあるんだよ、いろいろとね。破瓜の痛みを敵の枕で知ったのさ。あるときは腰元、あるときは芸者に化けて、男どもをたぶらかすんだ。抱かれては心地よさに達しておきながら毒を盛って殺っちまう。もがく男の断末魔をにんまり笑って見ていたさ。女陰働きがくノ一の誉れだって? 冗談じゃないよ。どれほどうなされて苦しんだことか・・愛らしく産まれちまったことを呪ったね」
 互いに寝間着越しに抱き合っていたのだが、お雪は自分の帯を解き、お燕の帯も解いてやって素肌を合わせた。お雪の肌は熱かった。ふわりと膨らむお雪のやさしい乳房が母のように娘をつつんだ。

 お燕の手を取り、しっとりとして温かい熟れた女陰へ導いてやる。お燕はされるままに任せていた。女として先を行く女忍たちがすごく遠くにいるようで憧れを抱いているしかない。女なのに剣を使い槍を使い命を張って生きている。自分からは遠い女の世界を知ってみたいと思っていた。
「姉様、あたしにも・・姉様ならいい・・可愛がってくれそうだから」
「・・お燕」
「あたしね、名うてのくノ一が揃うと聞いて、ちょっと怖かったんだ。恐ろしい人たちかなって思ってた。けど違った、みんなやさしい。だから姉様・・いろいろ知ってみたいんだ、あたしだってもう生娘じゃないんだし・・」
 お雪の手がそっとお燕の草むらに忍び込む。そこは熱く、すでに充分潤っていた。
「ぁン・・姉様ぁ、あたしきっと強くなる、姉様たちにちょっとでも近づきたいもん。もうめそめそしないから」
 お燕は、お雪の美しく熟れた乳房を羨んで、乳首をそっと口に含んだ。
 女同士のこういうことが、お燕にはいけないとは思えなかった。忍びの命が灯火であることはうかがい知れた。誰も信じる者がない。せめて仲間同士で抱き合って眠りたい。
 お雪の口づけを震えながら受け取って、肌を這う口づけが嬉しくて、お燕は腿を割って女陰をお雪に委ねていた。

 三つ並ぶ奥の八畳。ここでもまた妙に青い星明かりに照らされて、嵐と江角は眠れなかった。先ほどのお燕の泣き声が耳について離れない。
 心が滾る。お燕を襲った下手人がいまそこにいるのなら叩き斬ってくれる。怒りで気が立ち眠れなかった。
 江角が言った。
「こうは考えられないだろうか」
「おしろい般若か?」
「公儀はすでに素性をつかんでいる。お抱えの忍軍を動かせば難しいことではないはずだ。表立って動けないというが、表に出ないから忍び・・」
「あるいは深みを知ったのか・・だね。黒幕を暴いてみたらとんでもない奴だった・・それは身内、しかもかなりの重臣で」
「そういうことだね。それで瀬田様を動かして他力で排除しようとした」
「敵を知ってなお手を下せないということは・・」
「下手をすれば徳川が割れかねない。それほどの黒幕だということだし、であれば怖いのは・・」
「・・我らは見張られている」
「そうだ。関ヶ原での報償に不満を持つ者、西国に置き去りにされた武将も面白くはないだろう。豊臣方はもちろんだけど身内にだって不平は当然生まれてくる。信任の厚い一握りの懐刀によって江戸が創られているそうだが、それだってよく思わない者は多いと聞く」
「失脚させるところまではいかないにしても江戸が乱れれば重臣たちは苦しい立場に置かれる・・か」
 
 徳川家康は、関ヶ原の以前より東国である駿府に居を構えていた。かつては甲斐武田の城であったものが、武田家滅亡の後、家康の居城となったもの。
 関ヶ原の後、一度は江戸に入った家康だったが、わずか五年で将軍職を秀忠(ひでただ)に譲り、駿府に隠居。
 徳川の世が安定したのは、さらに後の三代将軍家光となってから。この頃の勢力図にはどちらに転ぶかわからない危うさがあったのだった。
 家康の配下の中で、とりわけ本多正信は、家康、二代将軍秀忠と続く側近中の側近であり、その理路整然とし過ぎる豪腕に異を唱える者どもも多かった。

 嵐が言った。
「動きが筒抜けになりかねない。見張られていると思ったほうがいいだろうね」
 そして嵐は寝返りをうって横寝となって江角に向き、さらに言う。
「けど、そうなると百合花様だよ、そのへんどうお考えなのかと思ってね。そのあたりのことは承知だろうし、その上であたしらを集めたということになる」
「そうだね、あたしもそれを考えた。あるいは瀬田様のため。三男坊ゆえ冷遇される想い人に尽くすため。あたしらが探りを入れだせば敵の動きは止まるだろうし、それだけでも手柄だよ。敵を見つけ出して討ち取ればさらに手柄。公儀の手を借りずにやり遂げたとなれば瀬田様の大手柄となるからね。惚れ抜いた男に出世して欲しい。女なら考えることだよ」
「ふふふ、案外そうかも知れないね。だから私を呼び寄せた。姉妹のようなものだから・・けど江角」
「うむ?」
「もしそうならどうするつもりさ? そんなことのためにこの役目を続けるかい?」
 江角は声もなく微笑んで言う。
「深みは知っても考えない。忍びは主家あっての身の上だ。そのへんもやもやしていては動けないから考えてみたまでさ。主家を失った惨めさは、みんなだって骨身に沁みてる。それにお燕も。あの子のような娘を一人でも減らすためにあたしらはいるんだよ。おしろい般若はその最初に過ぎないんだ。女の敵は女が葬るって言葉がすべてだよ」

 嵐は、そっと布団を抜け出て、わずかな間を空けて敷いてあった江角の布団に滑り込んだ。
 嵐が自分の帯を解き、気配で察した江角もまた帯を解く。
 互いに手練れのくノ一同士。動くとなれば命などは蝋燭のごとし。忍びの定めを知り尽くした二人の女が情を交わした。

 その頃、お雪とお燕の寝屋で・・激しい性のうねりの去った静かな闇の中で裸身を絡め合ったまま、お燕がささやくように言う。
「夢のよう・・ねえ雪様」
「よしとくれよ様なんて。こうして情を交わしたんだ、あらたまったことはいいんだよ。何だい?」
「はい・・あのときあたし・・尼寺へ連れて行かれて・・」
「うん?」
「死にたいって泣いたら、庵主様が毎夜こうして裸で抱いてくださって、あたしは乳を口に含んで・・庵主様はこうおっしゃいました。『私に抱かれるということは、すなわち御仏に抱かれることだと思いなさい。御仏はそなたが大好き。そなたの涙も御仏が吸い取ってくださいますよ』って。・・それからね・・」
「うん? 何て?」
「私がそなたの母になりますって言ってくれた。あたし嬉しくて嬉しくて、その頃十四のあたしは毎夜こうして乳をせがんだ。そしたらお乳が・・ほんとにお乳が」
「出たのかい?」
「気のせいじゃないと思う。そのときあたし女人の凄さに打ちのめされた気持ちになった。瀬田様もそうだった・・二日と空けずお菓子や花やと届けてくれて、
お燕お燕とそれは可愛がってくれたんです。男は怖い。けど瀬田様だけは違った。兄者のように甘えて甘えて・・」

 お雪は思い出し笑いをして言った。
「庵主様に叱られたそうだね、瀬田様」
「それ聞きました? 誰に?」
「瀬田様さ。あのお方は隠さない。あれほど可愛い人も滅多にないさ」
「ふふふ、そうなんですよ。その頃の瀬田様はぷらぷらするだけ・・しっかりしないか、それでも武士かって、庵主様に・・ふふふ。そしたらその後・・」
「瀬田様、何か言ったか?」
「観音様だ・・惚れちまった・・そう言って、ぼーっとしてた」
「うぷぷ・・可愛いじゃないか」
「ほんと・・ふふふ。あたし見ちゃった」
「何を?」
「お寺の裏で・・泣いちゃって・・」
「瀬田様が?」
「そう。毎日毎日やってきて・・しんねりしたいのに庵主様は拒まれて・・そしたら瀬田様が童みたいにぽろぽろ泣いて・・くくく」
「そうかい、そんなだったかい・・いい男だ」
「あたしが見てても可愛くて・・瀬田様の背中をぽんぽんされてなだめておられた・・」
「よしよしって?」
「そう」
「うくく・・あははは! こりゃ可笑しいや、あははは!」
「しっ、声が・・。内緒だからね、ねえ姉様、内緒だからねっ・・あははは!」

 襖を隔てた隣りで、お涼とお菊。そのまた隣りで、江角と嵐。声は襖を突き抜ける。
「・・ったく・・部屋割りが悪かったか・・」
 と、お涼は言って布団をかぶった。

2016年11月27日

女忍 如月夜叉(十一話)


十一話~ひとときの夕餉


 夕刻前になって屋敷の厨に江角とお雪が立っていた。江角は武家の娘として躾けられ、お雪はもともと女らしく、二人ともに料理は上手い。
 米は米屋が届けに来て、芋や野菜は行商が売りに来る。そのほか鍋や釜や、まるで物の置かれていなかった厨にも女たちの暮らしの支度が整った。
 時刻が暮れ六つ(六時頃)となったとき、暗くなりはじめた中をお燕が一人で戻ってきた。源兵衛とは屋敷の前で別れたと言う。道筋が同じであり、源兵衛に送られれば安心できる。お燕は厨に立つ姉様二人のそばへと嬉しそうに歩み寄る。

「あたしも手伝いますから」
「ありがとね、けどこっちはいいよ。それより嵐のところへ行きな、なんだか話があるようだ。二階にいる」
「はいっ!」
 そして背を向けざまに、大きな丸サバの塩焼きが六皿あるのを見て、お燕は弾けるように笑った。今宵は夕餉だけ食べて帰るつもりでいたお燕だった。
 そのとき、嵐それにお涼とお菊の三人は二階にいて、部屋割りを話していた。
「姉様、お呼びだそうで?」
「ああ、お燕、戻ったのかい」
「はい。江角の姉様が上へ行けって」
「うん、ちょっと入りな」
 襖の外で声をかけ、襖を開けたお燕は、女三人が話し込んでいた様子を察して、ちょっと臆病な顔をした。
 嵐は穏やかに言う。

「あのね、おまえ荷は多いのかい?」
「荷? えっえっ?」
「長屋にだよ。持って来るものがあるだろうから、お涼お菊と行っといで。部屋割りのやり直しさ。あたしと江角が八畳、お涼とお菊、それからお雪とおまえだよ、それでいいね? とりあえずはそうしようって話していたところなのさ」
 お燕はきょとんと目を丸くする。
「居ていいの? 今宵から?」
 嵐は笑って微笑んだ。
「瀬田様にああまで言われちゃしょうがない。はいはい、さっさと行って取っといで、夕餉に間に合わなくなっちまう」

 お燕は黙りこくって両手を胸に抱くように、涙をためて三人を見回した。
「ほれ早くっ! 暗くなっちまうだろ!」
「行くよ小娘! よかったね、あはははっ!」
「はいっ!」
 お菊に尻を叩かれて、お燕はぱぁっと笑顔に戻った。

「・・たまらないね」
「ほんとだよ、可哀想に・・」
 一度は二階に上がって行って、三人揃って出て行ったお燕を見送って、階下の厨で江角とお雪が話していた。お燕の目が赤かった。

 お燕の住む長屋は、屋敷からなら海側へと少し下った目と鼻の先。隣戸には源兵衛もいて、布団それから着替えや寝間着と運び出すのを手伝ってくれる。 四半刻(三十分)もしないうちに屋敷に戻り、板の間の広間に六人で膳を囲む。座卓ではない。それぞれに膳が配られて正座で食べる夕餉であった。
「ぁぁ美味しいっ!」
「そうかい?」
 朝市で仕入れてあったアジの焼き物、野菜の焚き物、味噌汁に飯だった。
「できるんですねっ、お料理」
 江角が苦笑した。
「・・あのね、叩っ斬るよ・・ふっふっふ、できます、このぐらい」
 お燕一人が加わるだけで、昨日会ったばかりのくノ一たちは笑顔になれた。  食べながらお雪が言う。
「いまごろきっと百合花様・・うぷぷっ」
「はいっ、先ほどお見えになられて、もうねちゃねちゃと」
「ねちゃねちゃねー・・なるほど、それりゃそうだ」
 お雪が声を上げて笑い、そしてそのついでに江角は言った。

「瀬田様だろ、このお役目の大元は?」
 口を開けて飯をほおばりながら、お燕はちょっと困ったような顔をした。
「言っていいのかな・・叱られそう」
「かまわないよ、仲間同士の内緒話さ」
「そう? なら言うけど・・逆なんだなぁ」
「逆?」
 江角はとっさに嵐に視線をやって探り合う。
「庵・・じゃなくて百合花様は、あたしのこともあるし、押し込み野盗は多いし、今度のことにしたって惨い仕打ちにお怒りで、瀬田様に逆に詰め寄ったそうなのね」
「何とかしろって?」
「そうです。そしたら瀬田様が上にかけあって、面倒な話を持ち込むならおまえがやれって任されたそうなんですよ今度の始末を。でも瀬田様じきじきには動けない。それで百合花様は、それなら私がやる、許せないって。女の敵は女が葬るって。それもあって法衣を捨てるとおっしゃられて」
「・・なるほどね」
 これですっきりした。存分に働けると皆は思った。

 そのとき百合花は、その力量を知り尽くした如月の嵐がどうしても欲しかった。妹であり信頼できる。他の四人は、散り散りとなった名うてのくノ一の所在を公儀の忍びである甲賀衆がつかんでいて呼び集めた。そうに違いないと嵐も江角も考えた。
 お燕が困ったように言う。
「あたしが言ったって言わないでくださいよー」
 お雪が意地悪な眸を向けた。
「言うかもね」
「ええー、嫌だぁーっ!」
「ふふふ、嘘だよ。でもお喋りの罰は・・お皿洗ってもらおうか」
「はいっ! ああびっくりしたぁ!」
 皆がくすくす笑って、身悶えするようにくずる小娘を見た。
 夕餉を済ませてお燕とお涼で片付けて、それから風呂。ここは忍び屋敷であって、つまりは忍びの詰め所であり、風呂も広く造られて大人の男四人が入れるようになっている。

 流しに立って後片付けをするお燕とお涼、それに嵐を除いた他の三人がまず入り、上がったところで三人が湯へ向かう。そのときには寝間着姿で下は裸。脱衣に立って帯を解くだけで女たちは素裸だった。今日は買い出しなどいろいろあって汗をかいた。お燕は一日働いている。それで三人は結い髪も降ろしてしまって、お燕と嵐は長い黒髪を垂らしていた。色気の漂う光景だ。体の大きなお涼一人が江角よりも髪は短い。
 そしてそのとき嵐もお涼も、お燕の若くみずみずしい姿に目をやった。十七となり、いつでも嫁に行ける歳。尻は張って乳房も膨らみ、下腹の毛も黒々と揃っている。肌が白い。傷などどこにも見当たらない。嵐にも目立った傷はない。
 それに対してお涼には脚や腕に小さな傷が無数にあった。草原を駆け抜けるときにイバラで深く引っ掻いたような傷である。イバラは鋭く針のようだ。

 洗い場で掛け湯を使うとき、嵐はお燕をしゃがませて、手桶ですくった湯を流してやる。張り詰める若い肌が湯を弾くようだった。
 この子といくつも違わない娘や若い妻たちが惨殺される。許せない。嵐もまた思うところは同じ。
 お燕が言った。
「嬉しいなぁ・・夢のようだ」
 お涼が言った。
「そうかい? 可哀想に、辛かったんだもんね」
 お燕は正直にちょっとうなずいた。
「あたしなんかそうでもないけど・・瀬田様に救われて百合花様に救われて。けどあたし、やっぱり独りで・・おっ母が恋しくて・・」
 お燕は涙を浮かべて肩を震わせる。
「おいで、もう泣かないの」
「はい・・」

 立たせたお燕を、お涼が大きな体で抱きくるむ。えーんえーんと子供のような泣き声が屋敷中に響いていた。湯船に浸かり、お涼と嵐の二人で抱いてやる。
「今度のことだけじゃないからね、おまえを泣かせた奴らだって、あたしらが許さないから」
 お涼は言い、お燕の頭を手荒く撫でた。
 この子が絆をつくってくれる。如月夜叉は、これでまとまると嵐は感じた。
 それにしてもお涼とは、見た目は男のようでも心がやさしい。はじめて会ったあのときから、お涼は変わったと嵐は思った。
 嵐が訊いた。
「おまえ、好いた人は?」
「ううん、いません、そんな。瀬田様がそのうち世話してやるって言ってくれて」
「ほう? あらそ?」
「はい・・へへへ」
 お燕は恥ずかしそうに舌を出し、「姉様たちは?」 と思わず言って、しまったというように俯いてしまうのだった。
「あたしは・・もう昔のことさ・・忘れたね男なんざ」
 お涼が言った。
 それを聞き流して嵐が言った。
「あたしは天に任せっきりさ。こればかりはねぇ。くノ一などいつどうなることやら。そう思うと諦めようとしてしまう」
「・・ごめんなさい、余計なことを言いました」
「いいんだよ、あたしら強いから。そんなものに潰されてるようではやっていけない・・これまではそうだった」
 お涼が言って、嵐が同じことを言う。
「そうだね・・これまではそうだった」
 それから嵐は明るく言った。
「けど・・これからは違うよ、もう潜むだけの忍びじゃない。みんなまだ若い。百合花様をごらんよ、憧れるほどの女だもん。あたしらだって負けてはいないさ」
「はいっ」
「だからお燕、あたしらを身内と思って強くなるんだ、いいね」
「はいっ! ああ姉様、ありがと・・あたしだめ、泣いちゃうから・・」

 風呂場のすぐ外でお雪が盗み聞いていた。お雪も目を潤ませた。
 江角もお菊も心が震える。
 お燕が絆をつくってくれる。江角も同じことを考えていた。くノ一ばかり。なまじ腕が立つだけに、いつか互いを牽制し合う。役目のためではなく、いとしい者を守るために戦う。これほど強い絆はないと思うのだった。

女忍 如月夜叉(十話)


十話~錦絵侍


 百合花が去って、ほどなくしてお燕が嬉しそうに駆け込んでくる。店のほうは、いましばらくは源兵衛一人で事足りる。どのみち客が入りだすのは昼過ぎから。それまではいいと言われたとお燕ははしゃぐ。
 日陰を歩んだ五人にとって、お燕は眩しい存在だった。素直で気立てのいい娘といると自分までが穢れ(けがれ)を祓えたような心持ちになれる。
 六人で町へと繰り出した。今宵からは屋敷の厨で飯をつくる。揃えなければならないものがたくさんあった。五人ともに忍び。このような日和のいい日に小袖姿で連れ立って市場を覗いてまわるなど、これまでなかった暮らしである。

 この頃の品川宿から芝にかけての道筋は、江戸前の海にも近く、武家屋敷よりも寺と更地、野原が目立ち、関ヶ原の戦いからいよいよ江戸に移るということで、そこらじゅうで武家の家が造られはじめていたのだった。江戸の大工だけではまったく足らず、そういう意味でも人々が流れ込んでくる。活気にあふれる後の大江戸への創世期であった。

 お燕を加えた六人でそぞろ歩く。海沿いに造られた市場には、荷車や担ぎでやってきては店を開く行商も入り混じり、活気に満ちて騒がしい。このあたりにはもともと魚屋と八百屋が並んでいて、米屋やよろず屋が荷車でやってきたのがはじまりだったと言う。いまでは毎朝市が立ち、暮らし向きに必要なもののほとんどがここで揃う、お店街となっている。お客は寺の者、武家の者、それらの下働きから町人まで身分の別なく集まってくる。ほとんどが女たちだ。
「よーよー、こりゃまたぞろぞろ、いい女! 安くしとくぜ、覗いてけ!」
 ねじり鉢巻の若衆だった。二十代の漁師らしい。よく陽に焼けて、まくりあげた着物から覗く腿まで黒い。
 女郎花=お雪が応じた。色仕掛けを役目としたお雪は男の扱いに慣れている。
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか、あんたもいい男だよ。うまそうな魚だねっ」
「おうよ! 今朝方オラが獲ったもんさ、うめえうめえ! おめえさんもうまそうだがよ! はっはっはっ!」
「あたしゃ高いよっ、おまえさんじゃ手が出せないねー、あっはっはっ」
「おうおう、言う言う! あっはっはっ! 気に入った、持ってけ盗人!」

 丸々と肥ったアジやサバや黒鯛や、イカもタコも並んでいる。
 お燕が眸をキラキラさせて行商の荷車に取り付いた。店を構えた魚屋よりもこういうところが安いもの。しかしろくに買い物などしたことのなかった五人にとってはそんなものかと思うだけ。あたりまえの女の暮らしが眩しく思えた。
「いいアジだねっ、いくらだい?」
「おうよ、一匹一文! 三匹二文だ! あんたら六人、六匹で五文でいいぜ!」
 小娘と活きのいい魚屋とのやりとりが面白く、五人は囲んで笑い合う。
「ええー、それヘンだぁ!」
「何がヘンでい?」
「だってさー・・じゃあさ!」
「おうよ! 言ってみ、べっぴん小娘!」
 お燕はお雪の袖を引きながら喰ってかかった。
「あたし三匹、こっちの姉様も三匹、そうすりゃ四文でいいんだろ!」
「むっ・・むむむっ・・むむむーっ」
「違うってかい! ソロバン入れてみ! うひひひっ!」
「あっはっはっ、困ってる困ってる、あっはっはっ!」
 大声で笑いながら、お雪は心の中で泣きそうだった。解き放たれた女の幸せなど、とうに諦めたはずだった。

 そのときだ。少し先に人だかりができていて、争う声が聞こえだす。

「尾張のもんだとこらぁ! なもん、ここらで売るな、けえれけえれ!」
 一見して三十代とまだ若いが、粗末な身なりをした担ぎ女(行商人)が、道端にムシロを敷いて店をひろげ、西国で仕入れたという小間物を売っていた。それにごろつきどもがからんでいる。若い男が三人、地回りらしい。それもまだ小僧であった。
 何事かと六人が近寄ると、荷車で餅を売っていた年増の女が言った。
「ここらの元締めが死んじまって代替わりしてからこうなのさ。よそ者を虐めるようになっちまった」
 五人は顔を見合わせて、お燕まで六人でさらに歩み寄る。助けてやるのは容易だが目立つことはしたくない。
 商いの女は弱そうで、苦しい日々にやつれたようにも思われた。

 さて、どうしたものか・・。

 しかしそのとき、周りを囲んだ女たちから声が上がった。
「わぁぁっ、錦絵侍だぁ、いいところへ来たよー、助けてやってなー」
 ハッとしたようにお燕が顔を上げ、人混みの中にその侍を見つけて、ぱぁっと笑う。
「ああ瀬田様ぁ、助けてあげてー!」
「おろ? お燕じゃねえか、こんなところで」
「はいっ! うふふっ!」
 人混みから歩み出た侍は、まさしく錦絵(後の浮世絵)から抜き出たような男であった。
 紫帯の白い着物。品のある白い草履。細面で色白。月代(さかやき)を剃り上げず、それにまた鮮やかな朱色鞘の大小を腰に差して、どこから見てもお役者のよう。芝居の女形がそのまま歩いているようだ。歳は三十九であったが、とてもそうは見えなかった。若い。
 お燕が五人にこそっと言った。
「あのお方です、庵・・じゃなくて百合花様のいい人」
「ああ・・そうなのかい・・」
 惚れ惚れするいい男・・嵐や江角はともかくも、お雪もお菊もお涼も、皆がぽーっとなって見とれている。

 瀬田と呼ばれた錦絵侍は、ごろつきどもと女の間に割って入る。
「おいおい、いいじゃねーか、見ての通りで小商いだ、ケチくせぇことするんじゃねえ」
「何だとてめえ! 気色悪い女面でしゃしゃり出て来やがって! おい、やっちまえ!」
 ごろつきども三人が長ドスを抜いて襲いかかった次の一瞬、勝負はあっけなくついていた。目にもとまらぬ速さで身をさばき、朱色鞘から抜き去られた白刃がキラリと舞って、ごろつきどもの町人髷をふっ飛ばし、男たちはざんばら髪。そしてまた一瞬後に刃は鞘に収まっていた。
 頭に手をやって、なくなった髷を探り、目を吊り上げる男たち。
 瀬田は涼しい眸で言い放つ。
「二度と来るな、次には殺るぞ」
「ひええーっ、逃げろーっ!」
 尻に火がついたようにすっ飛んで消えていく。
「おととい来やがれ、クソちんぴらー! あはははっ!」
 町女たちが囃し立て一斉に錦絵侍に群がったが、しかし瀬田は、そんな女たちを掻き分けると、因縁をつけられていた商い女の前にしゃがみ込み、肌の荒れた女の手を取る。

「おまえさん、怪我はねえな」
「はい、ありがとうございましたお武家様」
「なあに、いいってことよ。ときにおまえさん、どっからだい?」
「はい、あたしは尾張商人の売り子です」
「ほほう、売り子? てえことは、その商人が仕入れたもんを売っている?」
「はい左様で。親方が上方で仕入れたものを、こうしてあちこちで」
「売り子はほかにもいるんだな?」
「はい、二十人ほどが方々に散ってます」
 瀬田はうんうんとうなずきながら女の手を撫でてやり、立ち上がりざまに言う。
「せいぜい励みな、じゃあな」
 瀬田が女を離れると、待ってましたと町女たちが群がった。
「ああんもう、やさしいんだからぁ・・ねえねえ抱いとくれよー」

「・・居合だね」
「うむ。それも並みの手合じゃない・・強い」

 嵐と江角が小声で言った。
 まつわりつく女たちの尻を撫でたりしながらキャーキャー騒がせ、小憎らしいほどの流し目で囲みを抜けて、瀬田はまっすぐお燕に歩み寄る。
「久しいな、お燕」
「ええー、一昨日会ったぁ! あははは、嬉しいなぁ!」
「ほうかほうか、一昨日会っても嬉しいか? ふふふ。おめえもいい娘になりやがって。脱がせりゃさぞかし香しい。舐めて甘く、ほおばりゃ、ほっペが落ちちまう」
「嫌ぁぁん、もう、恥ずかしいぃ・・」
 そして・・お天道様の真下ですっぽりお燕を抱いてやる。若いお燕が腕の中でしなるほど。

 キザったらしい・・いかにも江戸の小粋さだ。

 しかしその振る舞いはあっけらかんと、まさしく芝居のようでイヤミがなかった。 お燕は崩れそうな笑顔で間に立って五人を引き合わせ、それから七人でそぞろ歩いて屋敷へ戻る。
 瀬田は五人の女たちには微笑むぐらいで、屋敷への道筋をさっさと先に歩いて行く。
 百合花から聞かされているのだろうと、このとき皆は考えた。
 どことなく彪牙に似ている。江角も嵐も、くしくも同じことを考えていた。
 お燕が袖を引いて甘えた声で言う。
「あ、そうだ、ねえ瀬田様からもお願いして。あたしねっ、姉様たちと一緒にいたいんだ、いいでしょう」
「あの屋敷にか?」
「そうだよもちろん。ねえ瀬田様ぁ、庵・・じゃなくて百合花様はね、みんながいいならいいよって言うんだよー」
 べたべたに甘えるお燕。瀬田は大げさに眉を上げて首を傾げる。
「わかったわかった、頼まれれば嫌とは言えねえ錦絵侍・・しかしな、お燕よ」
「はい?」
「そろそろ童じゃあるめえし、人にものを乞うときには、それなりの見返りってえものがいる。ちょいと向こうを向きな」
「向こう? こうかい?」

 後ろを向かせ、小娘の尻を両手でそろりと撫でまわす。
「ぁきゃ! もうっ助平ーっ! あはははっ!」
 そして瀬田は五人に向かって眉を上げた。
「ま・・てえことでよ、考えてやっちゃくれねえか。お燕は寂しいのよ、ひとつ頼むぜ」
 そのとき嵐は、それには答えず、眉だけをちょっと上げて微笑んだ。
「わぁぁ、やったぁ!」
 そんな様子に飛び上がって喜ぶお燕。皆はただ唖然とするだけ。
 ますます彪牙を思い出す、江角と嵐。
 そしてお燕は屋敷には寄らず、そのまま香風へと去りかける。
「じゃあたし、お店があるから」
 瀬田が呼び止めた。
「お燕」
「あ、はーい?」
「今宵・・そう伝えてくんな」
「あいよっ! 喜ぶよー、庵・・じゃなくて百合花様! あはははっ!」
 童のように走り去って行ってしまう。

「・・よかった」

 そんなお燕を目を細めて見送る瀬田の横顔を、このとき嵐は見つめていた。 鼻筋の細く通った女のような美顔。かすかだが香木の香りがした。
 気配に気づいた瀬田が言う。
「あんとき丸裸に腰巻きを巻き付けてやがってな。膨らみだした乳まで見えた。可哀想に泣いて泣いて・・たった独りになっちまった」
 やさしい男・・五人の女たちは眸を流し合う。瀬田は臆することなく屋敷に上がり、茶を出されて、女五人に囲まれた。
「お初だな、みんな」
「はい」 と、嵐が応じた。
「そなたらのことも聞かされたさ。哀しいものよ、くノ一とは。だがそれも、これからは幸せってもんだぜ」
「どうして? どうしてそう言える?」
 白狐=お菊が斜め視線を投げかけた。お菊は芝居がかった男が得意ではなかった。

 瀬田は目を伏せてちょっと笑う。睫毛までが女のように長かった。
「だってよ・・」
「百合花様に率いられてか?」
「そうそう、それもある。俺にとっても観音様でな」
「惚れてるんだね」
「ああ惚れてる。こう見えても家康様の腹心、いまは亡き井伊直政様の家臣でな、俺の親父殿がよ。六十七だがぴんぴんしてら。しかして俺など三男坊、いてもいなくてもいい身の上。それでふらふら放蕩三昧ってぇ訳だが。そんときにお燕と出会い、たまたまそこにあった尼寺を覗いてみた。庵主はやさしく、お燕を抱いて涙していた。・・ふふふ、叱られたもんだぜ」
「叱られた?」
「こっぴどくな。錦絵なんたらと知られていたからな。いい歳をして情けない、それでも武士か・・娘を救うなんていいところもあるんだから、ちゃんとしろって怒鳴られた」

 皆は黙って瀬田を見つめた。思い出すような面持ちに百合花への想いが滲んでいる。
「惚れたね・・法衣をまとう尼さんを押し倒し、着物をまくって女陰を舐めてやったのよ」
「んまっ! 恥ずかしくないのかい、しゃあしゃあと」
 お雪だった。お雪は眸を輝かせている。お涼もそうだしお菊もそうだ。
「恥ずかしいものか、女に惚れるは人の常。そんとき庵主はこう言った。ともに地獄へ堕ちてくれるなら煩悩に戻ろうと・・女に戻ろうと言ってくれた。尼に対して不埒にも勃つものを庵主はしゃぶってくれてな・・嬉しいよって泣いてくれた。観音様さ・・百合花がすべてよ」
 女たち五人は胸が熱く、女陰が濡れだすような心持ちとなれていた。

 この時代の侍で、人前でここまで性愛を言える者などいない。
「愛おしい・・それはそれは美しい肌身でな・・ふふふ、ああ百合花、逢いたいなぁ」
 馬鹿馬鹿しいほど純な奴・・嵐はそう思って見つめていた。
「お、そうだ、ときにお燕のことだがよ」
「ええ?」
 それには嵐が応じた。
「置いてやってくれねえか。襲われれば足手まといとなるだろうが、お燕はそれをもいとわねえ。生きる喜びを見つけたのさ。江戸のために働くそなたらをちょっとでも支えたい、そのことで亡くした親に報いたいし、親代わりとなってくれた百合花にも報いたい。そう思っているんだぜ」

 嵐より先に、お菊が言った。
「わかってるよ、いい子だからね。女の寂しさなど、あたしら一人残らず知り抜いてるさ」
「寂しいか・・そうか・・」
 そして瀬田は、そのときそばにいたお菊の手を取って、そっと引き寄せ、手の甲に口づけをする。
「な・・何をする・・ンふ」
 お菊はどきどきしていた。見れば見るほど美しい男。侍に対して美しいなど、これほど食い違う言葉もないのだが、白い能面のやさしみのような、たまらない微笑みだった。
「おめえの名は?」
「菊だよ」
「お菊か・・ふふふ、風呂入ろ」
「な、何を言うかっ! 怒るよーっ!」
 お菊は赤くなっている。
「あっはっはっ! おっといけねえ、長居しちまった。みんな幸せに暮らすんだぜ、あばよ」
 眉を上げ、小首を傾げて、刀を手にひらりと身を翻す。あまりにも芝居がかり、五人が呆然とする中で、瀬田は風のように去って行った。

 お雪が囁くように言う。
「・・どうしよう」
「何がさ?」
 お菊が横目をやった。
「濡れちまった・・きっともうヌラヌラ・・」
「い、嫌だよ、もうっ! どいつもこいつも!」
 皆で笑う。
 いましがた一閃した、あの居合の技。瀬田は強い。それだけに皆は男の悲哀を感じずにはおれなかった・・のだが・・。

「どうやら知れたね、あたしらの雇い主が」
「おそらくね」

 嵐と江角の声に、大柄でも賢そうなお涼が言った。
「そうだろうね。いくら庵主様でも口が軽いと思ってさ」
「井伊様のご家来筋か・・一人千両なんて、そうでもなければ用意できない」
 瀬田は公儀の側にあり表立っては動けない。このとき皆は、上からの指図が瀬田を通じて庵主に降りたものだと思っていた。

 家康の腹心中の腹心、井伊直政は、『井伊の赤備え』と言われる赤い甲冑で敵を震え上がらせた猛将だったが、関ヶ原で受けた傷がもとで二年ほど前に逝っている。
 瀬田の父がその直政の家臣。その線で与えられた役目ではないかと皆は思った。

女忍 如月夜叉(九話)


九話~哀しい寝言


「ああ寂しや・・瀬田様・・憎らしや・・」

 闇の中で目が開いた。五人のくノ一を集め、この日を境に法衣と訣別すると誓ったとたん、百合花の中の女の情念は燃え上がる。
 甘味処 香風の奥の間に独りきり。明かり障子越しに星明かりの忍び込む青い闇の底で寝間着に手を入れ、まさぐった。
 ねちゃ・・濡れている。
 少しでも瀬田を想うと熟れた体が牝となって情を求める。
 五人のくノ一・・とりわけ可愛い妹同然の嵐までを戦いの中に送り出そうとしていることに胸が痛み、押しつぶされそうに苦しくなって、だから瀬田に甘えたくてたまらない。
 くちゅちゅ・・指先が熱を持って濡れそぼる女の中へと入っていく。
「ぁぁん、欲しい・・はぁぁ欲しい・・わたくしはどうしようもない女です・・」
 浅く達しながら涙が伝った。

「ぅぅ・・むうう・・むぅうう!」
 涼風・・お涼の苦しげな呻きにお雪は目を開けた。真夜中だった。可哀想に眠りの中で鬼となっているのだろう。私もそう・・幾度夢で斬られて死んだか。
「ちくしょう・・殺せ・・」
 涙が出そうだった。お雪は布団をめくって起き抜けて、そのままお涼の横へと滑り込む。そこはくノ一、気配には本能が反応する。
「姉様・・うなされてた」
「・・嫌な夢をね。あたしは以前・・」
「うん?」
「これでも惚れた男がいたけれど、敵に囲まれたあたしを守ろうとして斬り殺されて・・その頃のあたしは未熟だった。挑んでも敵が強くて勝てなくて、捕らえられたがあたしは小娘・・裸にされて嬲られたのさ・・」
「うん、もういい・・もういいよ」
 お雪は帯を解いて寝間着をはだけ、お涼の寝間着もはだけてやって、自分の乳房に引き寄せて抱き締めた。耐えに耐えていたものが崩れ、お涼は泣いて抱かれていた。
 お涼二十九歳、お雪二十六歳。三つも下の母の乳房で泣くように涙が止まらない。お雪は、静かに泣くお涼をやわらかな乳房に受け止めて、背を撫でてやりながら、乳首を口許に近づけた。
 そんなお雪のやさしさに、体の大きなお涼の心は崩れていた。

 眠ると朝がやってくる。あたりまえのことなのだが、それもくノ一にとっては、安堵であり新たな苦のはじまりでもある。
 お菊は、そんな二人の様子をもちろん察しながら、一人背を向け、唇を噛んでいた。泣くもんか。あたしは強い。泣くもんか。唇を固く結んで畳の目を見つめていた。

 外が白む。
 嵐は素裸のまま素裸の江角を抱いていた。嵐が三十歳、江角は二つ上。
 なのにこちらでも年上の江角が嵐の乳房に隠れたがるよう顔を埋めて眠っていた。嵐はそっと江角の垂髪を撫でつけて、抱き寄せて、そのとき気配で江角が薄く目を開けた。
「・・朝か?」
「まだいいよ、もう少し」
 それから嵐は乳首をそっと差し出して、しかし江角は首を振って微笑んだ。
「懐かしい・・母者がよくこうして抱いてくれたさ・・母者を想ってあたしが泣くと、もう一人の母者が抱いてくれたんだ。乳を見せて吸えと言った・・」
 この江角もやさしい女。しなやかな女心を軋ませて、やさしみを振り切って、自分は忍びだと言い聞かせる。そして夜ごと静かに泣く。それがくノ一。

 哀しいぬくもりを抱き締めて嵐が言った。
「あたしはまだ幸せだった・・一族の頭の娘。母者は強い。強い母者の背を見て育った。あたしをこうして抱いてくれたのは姉様だったさ」
「百合花様か?」
「そう姉様。あたしとは十違う。姉様は女、あたしは童。母者は厳しい人だった。長(おさ)の娘たるもの凛としろと言われ続けた。来る日も来る日も剣の稽古で痣だらけ。そんなあたしに姉様は乳首を差し出し、泣いていいと言ってくれた」「やさしい姉様だ・・。けど、そんな百合花様がどうして離れた?」
 嵐は江角をさらに抱き締め、肩越しに言うのだった。
「十年ほど前のこと。あたしらの里が襲われることがあった。忍びじゃない、敵は山賊だったんだ。食い詰めた浪人どもさ」
「浪人・・」
「深い深い山の中、我らは隠れ住んでいたからね。敵は二十人はいただろう。こちらはひと所に数人ずつが分かれていた。総勢四十ほどの一族だったが、頭も母者もそのときは留守だった。男が二人、女が五人。それで敵はあなどった」
「相手にならなかったろ?」
「それはね。蹴散らしてやったさ。けれどそのとき姉様は敵の童を斬ってしまった。十二、三のほんの童を。敵は剣を持ってはいたが、あたしにもっと度量があれば殺さずにすんだはずと姉様は苦しんだ。それでそのとき、あたしらの山の麓には寺があって、姉様は出家したいと言い出した。・・それがはじまり」
「それで江戸へ?」
「その寺は名のある尼寺で修行のために方々の尼たちも出入りしていた。そのお一人を姉様が慕ってね、ついて行ったというわけさ。しばらくして文が来て、江戸に落ち着いたということだった。それきり姉様と会えなくなった。いかにも遠い」

「寂しかったね」・・と、今度は江角が寝直して、嵐を乳房に抱き締めた。
「けど、それでよかったんだ・・よかったのさ」
 嵐はちょっと笑って目を見合わせ、そっと目を閉じ、江角の乳首を口に含んだ。


 時刻が朝の五つを過ぎた頃(七時頃)、お燕が朝餉を持って弾むようにやってきた。握り飯と魚の干物を焼いたもの。自分の分も持ち込んで一緒に食べたがっている。囲炉裏端に女が六人。
 江角が訊いた。
「ときに源さんは?」
「もうお店へ。仕込みなんかがありますから。じきに庵主・・じゃなくて百合花様がお見えになられると思いますよ」
 そのときには、くノ一五人、それぞれに美しい小袖を着込んで髪も整え、さながら花園のような雰囲気となっていた。これが女たちの素顔。名うてのくノ一たちの素顔を知って、お燕もほっとしたようだった。
 お燕は言う。
「姉様方にお話があるそうです。それから一緒に買い出しに行きましょうね。すぐ近くに市が立つんです」
 若い女たちが増えてお燕は嬉しくてならないようだ。
 一人だけ一回りも歳の違うお燕を囲んで朝を済ませ、お燕は一度香風に戻って源兵衛を手伝う仕事があった。
 お燕がいなくなってすぐ、頃合いを計ったように百合花が屋敷を覗きに来た。

 その姿を一目見て、皆は息をのんで見とれてしまう。

 日本髪を結えるほど長くはない髪は、短な垂髪(垂髪=おかっぱ)でそのままだったが、淡い赤紫地に青墨で描かれた山水の柄が胸元と裾にある、それは美しい小袖姿。唇に薄く紅までさしていて、とても尼僧であったとは思えない。 うっとりするほど美しい。
 人が五十代で死んでいく時代にあって百合花は四十にもなる歳だったが、こうして見ると瑞々しく、熟れた色香が蒸れるようだ。
 しかし皆がそうして見とれる間にも、百合花は、白狐、女郎花、涼風の様子が微妙に変わっていることに気づいていた。その眸から険しさが失せている。何があったのかは知らないが、嵐や江角という格上の女たちの人柄だろうと考えた。

「綺麗・・」
 女郎花・・お雪が思わず憧れるように言い、百合花がちょっと微笑んだ。
「うふふ、狂い咲きよね、いつまで女でいられるか・・どう? 似合う?」
 江角がうなずき、目を細めて言った。
「お聞きました、好いたお方がおいでとか。女は永久(とこしえ)に女のまま。憧れてしまいます」
「嫌だわ、お燕でしょ? 余計なことばかり・・ふふふ。でもそうね、人を愛しむことは女の命。わたくしなど尼僧を捨てての色狂い、死せば地獄ですけどね」
 けれども、それからの百合花は真顔になって皆に言った。
「敵のことを伝えておくから皆お座り」
 板の間の広間に座布団を並べて座る。
 そのとき嵐も江角も、このお方は命を賭けたと感じていた。これからの如月夜叉に命を捧げ、女であることを誇ろうとした。散る覚悟の裏返し。

 百合花は皆を見渡した。
「昨年あたりから、これで四件。最初とその次が続けて廻船問屋(かいせんどんや=船商人や船宿)の娘さん、それから上方の物を扱う小間物商(雑貨商)の若いお内儀、そして先だっての呉服問屋の若いお内儀と、まるで同じやり口で殺されているんです。盗人ではないからお店(たな)を襲うわけではなく、出かけたところを待ち伏せて責め殺す。そして骸を酷くも晒して『おしろい般若』などと書き置きを残していく。御公儀としてももちろん探索はしておりますが一向に進まない。けれど足がかりがないわけではないんです」
「それはどういった?」
 嵐が訊き、百合花はまた皆を見渡す。敵への怒りが潜むようなピンとした緊張を孕んでいた。

 百合花は言った。
「先の廻船問屋は二軒とも大阪より江戸へと手をひろげた商家です。次の小間物商は京よりで、京のお店から人手を送り込んで江戸で一旗と思ったところを狙われた。先だっての呉服問屋は尾張よりのお店です。このように西方から江戸へと手をひろげようとしたところを狙われている。江戸は怖いところだぞと脅しているわけですね」
「なるほど・・徳川の世となって江戸へと要が移ったことで、足下がすたれては困るということでしょうか」
 嵐の言葉に百合花はうなずく。
「こぞって出て行かれては、商人だけではなく向こうの諸公も困ります。ですけどそこが足がかり。西方から手をのばす商家を見張ればよい。ですがそう言うと皆はこう思うでしょうね、それがわかっていてなぜ御公儀は動かないのかと」
 
 チラと目を流した百合花の素振りに江角もまたうなずいた。
「表立っては動けないのです。関が原からわずか三年なのですよ。尾張から西方には、まだまだ豊臣方がくすぶっている。武家だけではなく商家もそうですし人心もまたしかり。さらにはまた徳川方の仕業ということも充分あり得る」
「内輪もめ?」
 お雪が問い、百合花がちょっと苦笑した。
「関ヶ原の功労への処遇に不満を持つ者もいるでしょうし・・といったように考えようはいくらでもあるのです。家康様は、信長の楽市楽座で岐阜がいかに潤ったかを見てきておられる。江戸への人や産物の流れ込みは歓迎。そしてそれに抗う者は除きたい。ですがそれをいま公儀のご威光でやってしまえば敵の思うツボということもあるからです」
「逆は考えられませんか? 江戸の側が上方を排除しようとしているとは?」
 嵐の問いに百合花は少し首を振った。
「ないとは言い切れませんが薄いでしょうね。西方は栄えに栄え、江戸はこれから。交易が盛んとなれば江戸は潤い、商家も潤う。よしんばよく思わない者がいたとしても殺し方が酷すぎます。明らかに見せしめですから」
「・・それは確かに」

 嵐が応じて、百合花は嵐へ目をなげた。
「でもね嵐、それから皆もよ」
「はい?」
「わたくしにとって、そのようなことはどうでもよろしい。そなたらを御公儀の手先にするつもりもありません。罪もない女を殺す鬼畜どもが許せない。その惨い殺し方が許せない。裸にした娘に対してあそこまでの非道ができるのは同じ女をおいてないでしょう。これは女と女の戦いなのです。女の幸せは女が守る。これからもそうですよ、女の敵に対してのみ如月夜叉は怒るのです。おそらく敵も手練れのくノ一かと思われますが、であればなおのこと、ご公儀の殿方では太刀打ちできない」 
 百合花の言葉に皆は胸を熱くした。女の幸せは女が守る。政略の都合で人生を壊されてきた女忍にとっては心に響く言葉であった。

「さて、伝えることはそれだけですが、西方より出向いた商家などはもちろん調べてありますからね。目を光らせておいて欲しいのですが、くれぐれも慎重に、独りでは動かないこと。相手をまず見切り、動くのはそれからです。ほぼ一年の間に四件ということは三月に一度。それは人々の心が手が緩むから。つい先だってあったばかりで、今度こそ役人たちも目の色を変えている。ほとぼりの冷めるまではないと思っていいでしょう。皆はまず江戸の街を知ることです」
 百合花は座を離れようとした。
「では、わたくしはこれで。ほどなくお燕が来ると思うわ。あの子ったら、ついさっきも言われましたよ、皆と一緒に暮らしていいでしょうと。あの子なりに悪は許せないと思っていますからね。それについては皆が許すなら・・と言ってあります。あの子も寂しいのですよ、考えてあげてちょうだいね」

 百合花というまさしく大輪の花が去って行き、忍び屋敷に静かな色香が残るようだ。
 お燕が転がり込んで来る・・あのとき嵐が言ったようになると、皆はちょっと可笑しかった。
 意味深な真顔で嵐が言う。
「部屋のこと。誰が誰とと決めるのはやめようね。この一夜、抱き合いたい者もいる・・ふふふ」
 
 お涼、お菊、お雪の三人はバツが悪そうに顔を見合わせた。
 朝になってその三人の様子が違うことなど、嵐も江角もとっくに見切っていたことだ。
「そこにお燕が加わるわけだね・・ひっひっひ」
 ニヤと笑うお雪の尻を、大きなお涼が蹴り上げて、皆で声を上げて笑い合う。

女忍 如月夜叉(八話)


八話~新しい夜具


 その頃、中の部屋を空けた六畳で、少し間を空けて敷いた布団に女二人が横になり、しばし声のない時を過ごしていた。
 今宵は風もなく静か。月を隠した斑雲が流れたようで、その流れに合わせるように青白い月光が部屋の造りを浮き立たせる。忍び屋敷。柱が太くがっしりしている。

「下を見てきたが・・」 と、江角が言った。
 嵐は静かに目を開けた。
「地下牢がある」
 と、嵐が言う。
「責め場もね・・」 と江角は言い、哀しげに笑ってそれから言った。
「この館は古くない。男の匂いがする。夜具も新しく、あたしらのために用意されたもの。武具も着物もすべてがね」
「うむ・・だろうね」
「これからの江戸への備えとして造られた忍びの館をあたしらのために差し出した。今度の役目にはよほどの御仁が動いている。あるいは身内の中に不穏があるなら下手に配下は動かせない」
 嵐は横寝になって江角を見た。
 江角は上を向いて薄闇の虚空を見つめている。横顔が美しい。

 嵐が応じた。
「そういうこともないとは言えない。敵は敵とは限らない。身内であれば察していても手が出せない。あたしら一人に千両なんて大き過ぎるよ。あたしもそれは考えた」
「気になるのは彪牙のことさ」
 そう言いながら、江角もまた横を向いて嵐を見つめた。
「出来過ぎてると思わないか。人の少ないあんなところに、なぜ彪牙がと考えると・・あやつとは同門だが、二年ほど前に別れてより行き方知れず」
「そうなのか?」
「あたしは伊賀上野の出だが、ほんの童の頃に、ゆえあって遠江の武家の家に預けられた。かつてあたしの父とつながりのあったお方でね。その頃まさに乱世だろ。我が子をくノ一にしたくないということさ。あたしには兄が二人いて働き手には困らない。末の娘はなかったことにしておこう。母者はあたしに女の道を歩ませたかった。後で知った話だが、彪牙は、あたしの兄たちが鍛えた男。それであたしによくしてくれた」
「・・なるほど。けど、そんなそなたが何故忍びに戻ったんだい?」
「話しておきたかったのはそこだよ。今度の役目にかかわりがあるとは言えないが・・」

 嵐は夜具をずれて江角の布団にくるまった。身の上話になる。辛いことも話さなければならないだろう。嵐はそっと江角を抱いた。
 江角もちょっと抱き返し、嵐のやさしさを受け取って言う。
「あたしの一門は豊臣方に仕えていた。一門と言っても伊賀は大きい。同じ豊臣方というだけで武将それぞれ、一門皆が通じているわけじゃない。あたしの一派は寧々(ねね)様の息がかりで、後の秀秋様に仕えていた」
「・・小早川」
「そうだ。けど古いことは、あたしにとっちゃ知らないことでね。あたしが忍びとなったのは関ヶ原の後のこと。小早川家はもとより豊臣方で、その縁で秀秋様を迎え入れた。我が子可愛さゆえの秀吉めの思惑だよ。ところが関ヶ原で寝返った。小早川は乱れに乱れた。旧来の家臣は豊臣方であり、秀秋様の側近たちは徳川方と思い込む。そこで寧々様は、秀秋様のおそばで見張る者が欲しかった。忍びではいけない。旧来の小早川家にも忍びはいて、忍び同士が睨み合うこととなるだろう」
「それで江角が?」
「そういうことだ。あたしの育ての父は、かつては前田利家様に仕えた者で豊臣方。若き日の寧々様もよくご存じの武士だった。あたしなど、とっくに伊賀から消えた身で、武家の作法も心得て薙刀も使える。おそば付きの腰元とするにはちょうどいいということでお呼びがかかった。彪牙とはそこで出会った。兄たちはもちろんあたしを覚えていて、彪牙め、守ってやってほしいと言われていたようだ。関ヶ原以降、小早川の家は危うかった」

 静かに江角の背中を撫でつけながら、嵐は言う。
「誰が敵で味方やら・・」
「ふふふ、まさに。枕を高く寝られない。けどまあ、関ヶ原での働きで小早川は岡山藩五十五万石の大大名。不平を持ちつつどうにか平穏は保たれていた。寝返えらなければ滅びたいたやも知れぬでね。ところが・・」
「・・改易か」
「うむ」
 小早川秀秋は、関ヶ原のわずか二年後の慶長七年(1602年)、二十一歳の若さで変死している。子はなかった。徳川の世となって世継ぎなくば改易(お家取りつぶし)と定められたが、その適用第一号が小早川家であったのだ。

 小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室、寧々の甥であり、豊臣家の継承権を持っていた。関白まで上り詰め、いっとき豊臣の家督を継いだ秀次は兄同然で、後に秀吉に嫡子秀頼が産まれたことで葬り去られた経緯を見ている。
 養子として小早川家に迎えられたことで生きながらえた秀秋だった。

 嵐に抱かれながら江角は言った。
「ほれ見よさ。旧来の家臣たちはおさまらない。秀秋など入れたばかりに豊臣を裏切ることとなり、いままたお家は取りつぶし。路頭に迷うか、さもなくば徳川の都合で方々の家中に組み入れられることとなる。豊臣に戻る者、徳川に平伏す者、どちらもイヤだと出奔する者。その中で忍びどもももつれ合った。改易となってあたしは去った。腰元の中でもあたしは寧々様の息がかり。もっともおそば近くにいたからね。それでなくともあたしらは内情を知りすぎた。喋られては困ることを知っている。豊臣は死んではいないということさ」
「それがあの刺客ども?」
「そうだ。中の二人が顔見知り。お城の警護の者どもだった」

 あのときの年増侍二人がそうだろうと嵐は思った。居場所が見張られていたか、街道筋を見張っていたのか・・忍びは蛇のようにつきまとう。
「逃げようとして囲まれちまった。得体の知れない男や女・・痺れ毒の吹き矢をくらった。捕らえられて裸にされようとしたときに・・彪牙・・あやつに救われた。けどその彪牙が、なぜいまになって現れるのか? あやつとはそのとき限りで、あやつはあやつで生きる道を探すと言っていた。あやつももはや伊賀ではないはず」

 嵐はぽんぽんと背を叩いて微笑んだ。
「・・うん、よく言ってくれた、もういいよ。それを思ったところでどうにもならない。ただの通りすがりではなかっただろうが、今度のことにかかわりがあるのならいずれ知れる。あたしらの敵は『おしろい般若』さ」
「その黒幕だよ気になるのは。彪牙は誰の命で動いているのか・・」
「ねえ江角」
「うむ?」
「今夜はもういい、寝よう。抱いて姉様・・」
 嵐は寝間着の帯を解き、江角の帯も解いてやって、白い肌に抱かれていった。あたたかい乳房に甘える嵐。つつましやかな乳首をそっと口に含む。
 江角はちょっと笑うと嵐の頭を掻き抱き、言った。

「惚れた男は?」

 嵐は乳首を含みながらわずかに首を横に振った。
「小娘の頃に一人・・若いお侍様でね・・身分が違うよ」
「・・すまぬ」
「ふふふ、いまさらもう・・忘れたことさ。合戦で討ち死にしたと聞いた」
 江角は布団をめくり、嵐の裸身を上向きに横たえると、恥じらうように乳先を尖らせる嵐の裸身に唇を這わせていく。大きくはないが形のいい乳房を揉み上げながら、腹へ、その下の黒い翳りへ、口づけを這わせていく。
 江角が言った。
「あたしは・・ふふふ、縁談が壊れちまった。話があって顔を見る前に相手が逝った。武士は嫌いだ・・身勝手に死んじまう・・」
 口づけが翳りの中の女の谷へと降りていく。
「ぁ・・江角・・ぁぁ・・」
 嵐は膝を立てて腿を割った・・。

 中の部屋を空けた八畳で、男のように逞しいお涼の裸身が震えていた。
 手を出したのはお雪だった。邪念のない性の戯れ。お雪は哀しい女心を振り払うように、心からのやさしさをお涼に向けた。
「はぁぁ・・雪・・あっ・・」
「しっ、静かに・・聞かれちまうよ。ふふふ・・ほうら濡れる・・こんなに濡れる」
 闇の中、裸の女三人で抱き合っていて、ふいにお涼が言ったのがはじまりだった。「濡れてこその女人・・お雪はいいね、愛らしい」・・と。
 素手の格闘でも強い大柄なくノ一。けれど体の大きさは見た目だけ。男どもが臆して近寄らないことがお涼は哀しい。
 お雪の指が女陰を捉えた。お涼は涙をためて腿を開き、お雪の心を受け取った。押し寄せてくる波の中でお涼は、お雪それに戸惑っていたお菊の女陰に手をやった。

 濡れていた。くノ一三人の女陰は泣くように濡れていた。

 お涼はお雪と抱き合って、次には二人がかりでお菊を愛した。乳房を舐め合い、あふれる蜜さえ舐め合って、お菊が最初に達していった。
「嬉しい・・生きる道が見えてきた・・はぁぁ・・涼・・雪・・はぁぁ・・」
 いかにも気が強うそうなお菊の頬に涙が伝った。甘く震えて動かなくなっていく。お涼もお雪も、そんなお菊を左右から抱き締めて、互いの女陰を慰め合った。
「あたしは恨んだ・・愛らしく産まれたことを恨んだよ」
 お涼は黙ってただうなずいて、濡れるお雪の中へと指先を沈めていった。

 その頃また六畳で。
 静かに深く達し合った白い裸身が絡んでいた。
 江角が言った。
「いまごろ向こうは・・」
「向こう?」
「八畳」
「ああ・・ふふふ、さあね・・」
 微笑んで抱き合って、互いの濡れる女陰に手をやりながら、嵐も江角も目を閉じた。

女忍 如月夜叉(七話)


七話~抱き合う夜


 そして夜も更け、皆で二階に上がったとき、嵐は三つある部屋を見て考えた。部屋割りをどうしよう。顔ぶれを見渡してちょっと考え、それから言った。
「女が五人、部屋は三つ。六畳六畳八畳さ。中を空けて二人三人で分かれようか。中の部屋は・・ふふふ、そのうちお燕が飛び込んでくるだろうね」
 可愛い小娘を思い出し、皆それぞれにくすりと笑い、しかし如月夜叉の束(たばね)として嵐がどうするかに聞き入った。出会ったばかりのくノ一同士。互いの器を探り合う。
「そっちの六畳に江角と涼風、後は私と八畳で」
 疑うわけではなかったが、会っていきなり信じ切れるはずもない。
 そんな中で江角だけは修羅場をともに戦って一つ部屋で一夜を過ごした仲。年上で落ち着いた江角のこと・・また涼風は他の三人の中ではおとなしく感じられ、江角ともやっていけると嵐は思う。

 白狐は、死に場所を探しに来たと言った。女郎花も、哀しい道を歩いてきている。そっちは私が引き受けよう。見張るというより心を通わせておきたかった。
 そしてそんな嵐の差配を江角は察し、危うい二人を背負うなど、さすが嵐だと感じていた。
 しかし江角は言うのだった。
「それでいいけど、ねえみんな、今宵だけは嵐と二人にしてくれないか。話しておきたいことがある」
 異論などあるはずもなく皆は穏やかにうなずいた。

 そうやって中部屋を空けて二部屋に分かれ、布団を敷いて、蝋燭を燃やす行灯の明かりを消した。時刻は夜の四つ(十時頃)となっていた。今宵は話し込んでいて遅くなった。皆は皆で新しい明日を思い、気が立って眠れない。
 八畳間に川の字に布団を敷いて、中で横になったお涼が言った。二階にはもちろん窓があり、明かり障子越しの頼りない月明かりが忍び込む。

「二人とも今日は遠くからかい?」
 涼風・・いいや、お涼の声に対して闇の中で身をずらし、女郎花・・いいや、お雪が先に言う。風呂に入って女三人、ともに髪を降ろして後ろにまとめて横になった。
「あたしは紀州の出だけれど、もともと深川に潜んでいたからね、すぐそこだよ」
 次に白狐・・いいや、お菊が、上を向いて寝たまま言った。
「さっきも言ったが相模の風魔さ、もとより遠くはないからね。そう言う姉様はどうなんだい? 九紋流は加賀のはずだが?」
 大柄なお涼は二十九で、この中では年長だった。お菊二十八、お雪は二十六と若かった。
 お涼が言った。
「大阪だよ、よく歩いた。九紋とは字のごときで、九つの一族が束ねられた忍びでね、それぞれ諸国に散っていた。あたしら一族は尾張だったが、関ヶ原のちょっと前からおかしくなった。豊臣方徳川方と寝返りが相次ぐ中で我らは方々に潜んでいた。身を引かねば九紋同士で斬り合うことにもなりかねない。ゆえに散り散り。あたしは大阪の片隅に潜んでいた」

「ふうん、そうなのか・・揉んでやろうか?」
 お涼は意外だった。まさか白狐からそれを聞こうとは思わない。白狐は、お涼ほではなかったが背は高く、一見して気が強そうな女であった。一方のお雪は五人の中では背が低く、愛らしい童顔で乳房も大きく、やさしそうに見えるのだったが・・。
 お涼が笑う。
「いいよ、そんな」
「仲間じゃないか。お近づきのしるしにと思っただけさ」
「うむ・・ありがとね、お菊」
「ふふん、お菊か・・なんだか忘れた名前だなぁ」
 しばし静かだったお涼だったが、布団をめくりながら言う。
「じゃあ少し甘えてみるよ」

「え・・」

 お菊とお雪がほぼ同時に声を上げた。布団をめくったお涼は寝間着の帯を解いてしまい、脱ぎ去って全裸となった。
 素裸でうつ伏せとなるお涼。体が大きい分、乳房も豊かで逞しい。
 それぞれ枕元に匕首(あいくち)を置いているとは言え、これほど無防備な姿もない。信頼の証であった。
「じゃあ、あたしも。揉んであげるねっ、うくくっ」
 全裸のお涼の左右から青鈍色(あおにびいろ=青みがかった濃い灰色)の寝間着姿の二人の女が寄り添って、お菊は足先から、お雪は首筋から、浅黒いお涼の肌に手を触れた。

 お菊が言った。
「綺麗な肌だけど肩にも背にも傷があるね」
 そっとなぞる、お菊。
「斬られたんだよ」
「あたしにもあるよ、背中に」
「そうかい」
「槍が浅くかすったのさ。相手は男、死ぬかと思った」
「・・うん」
 そのとき、お雪が背中を揉みさすりながら言うのだった。
「そこいくとあたしは・・ほら、女陰(ほと=女性器)働きは色仕掛け、傷ができてはできないからね。仲間に守られていたからさ」
「うん」
「けどそれで、あたしを逃がすために仲間のくノ一が死んでいったよ」
 お涼が言った。
「くノ一なんて明日をも知れない身の上さ。正直言って忍びの世じゃなくなって嬉しかったね。一門一族は散り散りだけど、それぞれ人として生きて行ける」
 お菊が言った。
「そうだね。風魔なんてまさにそう・・ふんっ、山賊野盗に身をやつす者まで現れる始末だよ。抜けられてよかった。こうして仲間もできたことだし」

 言いながらお菊の手が足先から這い上がり、腿の裏まで来たときに、お雪の手は逆に下がって腰へ来ていた。
 お涼は裸身をずらして仰向けに寝直した。豊かな乳房はふわりとひろがり、肌に触れられたことで大きな乳首が乳輪ごとすぼまって勃っている。浅黒いが伸びやかな女の裸。すぼまった腰の下にすべやかな腹があり、その下腹に黒々と女体飾りが密生して性の谷のはじまるあたりを隠していた。
「ありがとね二人とも、心地よかったよ・・おいでな」
 お涼は両手をひろげて二人を誘う。大きな女だ。さながら男に寄り添うようになる。

「うん・・ふふふ」
 お雪は脱いだ。抜けるように白い肌が、なにしろ若い。
 性を武器としたお雪には普通のことでも、お菊はちょっと戸惑った。女同士で肌を合わせるなど考えたこともない。
「お菊もだよ脱ぎな。抱き合って寝よう」
「・・うん・・けど恥ずかしいよ」
「いまこのときを生きている。お菊はさっき死に場所を探しに来たと言ったけど、あたしだって似たようなもの。くノ一なんてそんなもんだよ。あたしは見た目がこうだから強いようだが皆に出会えて嬉しいのさ、ずっと独りだったから」
 お菊が言った。
「それはそうだ・・あたしも嬉しい・・どうやら生きていられそうだし・・」
 お雪が言った。
「・・あたしだって」

 お菊は鍛えられて締まった体、お雪はふわりと柔らかく乳房も張ってやさしい体。何をするでもなかった。ただ素裸で三人抱き合い、互いに生きる実感を想いながら目を閉じた。

女忍 如月夜叉(六話)


六話~隠れ家


 芝高輪。江戸初期のこのあたりは寺と武家屋敷が入り混じる、夜には静かな土地柄だった。
 そんな中に、向かって左と後ろに大きな寺が迫り、右側が小川に沿う草原、前に道という位置取りで古く小さな屋敷があった。品川宿からやや江戸寄りにある香風からも遠くはなく、女の脚でもそうはかからない。
 四方を白塀に囲まれていて、一見して小さな武家屋敷なのだが、源兵衛に連れられて中に入った四人は、訊くまでもなく忍び屋敷と見抜いていた。しかもつい少し前まで人のいた気配が残る。この役目のために、しかるべき御仁の力で空け渡されたものだろうと思われた。

 小ぶりの四脚門を入ると狭いながら前庭があり、庭木が見事に植えられる。大きな母屋の右手横の奥まったところには馬小屋を兼ねた納屋があり、それだけで武家屋敷であることを物語る。
 母屋の表口には引き戸があり、入ると中は凹字状となっていて、左右に土間が奥へと続く。右の土間には竈(かまど)と流しがあって厨(くりや=台所)とされた。
 左側の土間が幅があって広く、その奥側に、まるで家の中に小屋があるように板で仕切られた別棟があり、風呂と厠(かわや=便所)とされていた。
 そして凹字の中央が、畳二十枚ほどの広さの板の間となっていて、広間の中央に囲炉裏(いろり)が切られ、季節のいいいまは板を伏せて隠してあった。
 さらにその正面奥が階段となっていて二階へ上がる。二階には六畳が二間、八畳が一間、襖で仕切られるだけの三部屋が連なる。

 しかし屋敷は、外見上の大きさと中の広さが微妙に食い違っているようだ。ドンデン返しや隠し梯子、隠し部屋、武器庫などが偽装されていたからだ。
 隠し梯子には上へ通じるものと地下へ降りるものとがあり、地下から納屋へとつながって、さらに土塀を超えて外へも出られるように地下道が続いている。
 階上へと抜ける梯子の先には三畳ほどの隠し部屋。屋敷は二階建てであったが一階の天井がかなり高く、その隠し部屋は屋根裏部屋で実質の三階に相当した。見張りのため、そして銃眼の穴が巧みに偽装されて奇襲に備えた造りとなっている。
「忍びどもの隠れ家だったのさ」
 源兵衛は言い、皆もそれで納得した。どの流派とは言わないが、徳川であれば甲賀もしくは伊賀の一派。訊くまでもないことだ。
 この役目は公儀の忍びさえも操れる何者かが仕組んだもの・・しかし、であるならなぜ、こうして他流を集めるのか。お抱え忍びのくノ一を使えばいいだけのこと。このとき皆はそう考えたが余計な口は開かなかった。

 四人の女を案内して、家の中や武具のありか、着替えなどを説明すると源兵衛は去って行き、ほどなくして今度は、お燕に連れられて嵐が着いた。嵐もまた一目で忍びの館と見抜いていた。
「ねぐらだったらしいよ、おそらくは甲賀だろう」
 白狐と言われた女が言った。嵐が着いたときには皆が着替え、今宵はもう寝るだけということで、それぞれが浴衣の姿となっていた。
「いまお風呂とお茶の支度をしますね、しばらくお待ちください」
 お燕が微笑んで言うと、江角が訊いた。
「そなたもここで暮らすのかい?」
「いいえ。そう申し上げたんですけど庵主・・いえ百合花様がお許しになりません。あたしと源さんは、このすぐ近くの長屋に住んでいるんです。いま源さんが夕餉の支度をしてると思う。今宵はおむすびぐらいでしょうが、それもしばらくお待ちくださいね」

 そう言って厨のある土間へと降りていくお燕を見送りながら、江角は顔を揃えた皆を見渡した。皆が皆の名を知るわけではなかったが、集められたのは手練れのくノ一ばかり。忍びの役目には危うさがつきまとう。お燕をこの場におかないことも、襲われることなどあれば普通の娘では戦えないし、足手まといとなってしまうからだった。


女忍 如月夜叉

 差配 如月の百合花、四十歳

 束(たばね) 如月の嵐=あらし・三十歳

 江角=えずみ・三十二歳 伊賀の出であり武家の娘

 白狐=しらぎつね・二十八歳 相模の風魔流 名はお菊

 涼風=すずかぜ・二十九歳 加賀の九紋流 名はお涼

 女郎花=おみな・二十六歳 紀州の神明流 名はお雪

 嵐と江角はそのまま本名であったが、他の三人はもちろん違う。それもやがて知れること。皆は口を閉ざし、しかし穏やかに接していた。乱世が去って世の片隅へと追いやられた忍軍ばかり。まして女。互いの胸の内は察し合う。

 一人遅れて着いた嵐は、お燕に案内されて一度二階へ上がって着替え、薄紫の藤柄の浴衣を着て現れた。板伏せされた囲炉裏を囲んで座る。お燕が皆に茶を出して五人に混じって嵐のそばに座り込む。
 世のために戦うこととなる五人の女たちに混じり、お燕は緊張していたが、その目は輝いていた。くノ一など、はじめて接するお燕であった。
「姉様たち、どうぞよろしくお願いしますね。あたしにできることは何でもしますので申し付けてくだされば」
「うん、ありがと」
 嵐がお燕の膝をぽんと叩いて、それから訊いた。
「おまえはずっと百合花様と一緒に?」
「はいそうです。十四のときにお店(たな)が賊に襲われて、あたしだけが生き残って・・そのとき庵主様のお寺で救われまして、それからずっと。・・けど先ほど庵主様は申されました」
「何て?」
「今日をもって法衣は捨てると・・あの子たちと修羅の道を生きるのだからと。あのお方はいまでも庵主としてお客様を癒しておいでで、まるで観音様のようなお人です」
「なぜだい? なぜ尼を捨てる?」
 大柄な涼風が訊いた。

 それに対してお燕は、両手を胸に組んでたまらないといったように目を輝かせ・・それは女としての憧れのようにも皆には映った。
「好いたお方がおいでなのです」
 嵐が目を丸くした。そんなこととは知らなかった。
「お店が襲われた夜・・その・・逃げ出したあたしを救ってくれたお侍様がおいでなのですが、そのお方を百合花様は想われて、死せば地獄と覚悟をされて煩悩の世界に戻って来られた。そこまで人を想えるなら女は本望・・」
「ふうん・・そうかい、女なんだね」
 と、涼風。それとなく江角と目を見合わせる嵐。
 お燕は言う。
「はい、それはもう。お客様の悩みを聞いて差し上げ、いまではひっきりなしに女人のお客様がやってくる。一人の方に恋い焦がれ、その心はあたしよりも娘のようで。あたし、百合花様のおためであれば、いつだって死ねますから」
 わずか十七の小娘の言葉。そのとき五人のくノ一たちは静かに聞いて目を伏せた。いつだって死ねる・・命のやりとりを知らず口だけなら誰にも言えることだろう。

 しかし、お燕はちょっとうつむき涙を浮かべて言うのだった。
「・・あの夜、まだ十四だったあたしは賊に・・男たちがよってたかって・・」
 穏やかに聞いていた女たちの面持ちが静まった。
「おっ父もおっ母も、それに店の者たちまでが殺されて・・あたしは奥の間の押し入れに隠れていたけど見つかって・・恐ろしい男たちが次から次に・・それであたし隙を見て腰巻きだけをつかんで逃げ出したんです。男たちが刀を持って追ってくる。秋も深まる夜でした」
 隣りに座る嵐が、泣き出してしまった娘の背を撫でている。
「そのとき通りがかってくださったのが瀬田様なんです」
「瀬田様・・」
 嵐が言うと、お燕は泣き顔で嵐の顔を見てうなずいた。
「百合花様の想い人です。それでそのとき、腰巻きを巻き付けただけの裸のあたしを背に回し、七人もいた賊たちを瀬田様お一人で・・可哀想に可哀想にって抱いてくれ、同じ小石川で庵主様のいた香風院に連れて行ってくださったんです。ですからあたし、百合花様のおためなら死んでもいい。どうせあのとき死んだ命・・百合花様は観音様だと思いました」

 嵐はお燕の肩を抱いてやって言う。
「そうかい、辛かったんだね・・でもね、お燕」
 言葉を明るくして嵐が言う。
「あ、はい?」
「あのお方も、ああ見えても剣は使うし槍でも強いよー。あたしの母様に仕込まれているからね。童だったあたしにとっちゃ、それこそ姉様そのものなのさ。童のあたしは姉様に仕込まれたもんだよ」
 嵐が言って、それに江角がうなずいた。
「羨ましいね、あたしなどずっと独りさ。信じるに足る者などいなかった」
 江角が言い、聞いていた白狐がさらに言った。
「あたしだって・・それを言うなら、くノ一などたいがいそうさ」
 ふふふと声に出して女郎花は笑い、そして言った。
「お燕、あたしなんざ十五のときだよ、破瓜の痛みを敵の枕で知ったのさ。はじめて抱かれ、抱いてくれたその男に毒を盛って殺っちまった。そんときさ、お雪って娘が死に、女郎花って恐ろしい女が生まれた。それからは地獄だったね、いっそ死にたいと思ったものさ。おまえの気持ちは痛いほどわかるから」
「・・はい・・ぅぅぅ・・」
 声を上げて泣くお燕。嵐が横抱きに抱き締めた。

 それにしても哀しい・・皆はくノ一としての互いの道を思いやり、ここにこうして集えたことが喜びだと考えた。人並みに生きてきた女たちとは超えられない一線があり、心からは打ち解けない。このとき皆はそれぞれに同じことを考えていた。皆に対してもそうだが、お燕にそういう昔があるのなら、この娘とも打ち解けていけるだろうと。
 白狐が言った。
「あたしは菊だよ。けどそんな娘はとうに死んだね。幾人も殺ってきたからね」
 大柄な涼風が言った。
「あたしはまだ幸せだったさ。あたしは涼、そのまま風をつけただけ。けどさ、冷えた風のごとく多くの敵を騙してきたし、数こそ少ないが殺ってもきた。修羅の道だよ、くノ一は」
 じっと涼風を見つめていたお燕がいきなり声を上げた。
「うあっちゃ! いけねー、お風呂っ! 煮立っちまう! あははは!」
 ドタバタとお燕が走り去り、そのときちょうど引き戸が開いて、先ほどの作務衣姿のままの源兵衛が夕餉を運んで来たのだった。

 糸昆布でくるんだ握り飯と鳥肉と野菜の炊合せ。タクアンがついている。
 一抱えの大皿に積み上げたようになっている。
「たらふく喰ってくれや。今宵はわしがやったが明日からは好きにしなよ、よろしくなみんな」
 皆と微笑み合い、そして源兵衛は、風呂を整えたお燕を呼んで今宵は帰ろうと言うのだった。それぞれ旅路を経て出会ったばかりのくノ一同士、今宵はのんびり・・そうした思いやりであったのだろう。
 お燕はすっかり元気になっている。
「さあさ食べて食べてっ、源さんの飯はうまいよー! 源さんは庵主様のお寺の寺男だったんだ、そこらの板さんより料理は上手いからねっ。その昔いろいろあって源さんも庵主様に救われたんだぁ」
「こらてめえ! このお喋りめ・・行くぞ」
「はーい!」
 ちょっと首を竦めて舌を出し、お燕と源兵衛は去っていった。

「死に場所を探して来てみたけれど、どうやらそうでもないらしい。あったかい家ができた気がするよ」
 白狐という恐ろしげな二つ名を持つ女が、去ってゆく二人を横目にしながら陰のある笑みを浮かべた。

 そうそう、女忍 如月夜叉にあと二人。

 源兵衛 五十六歳 元は薩摩武士。新陰流から分派した薩摩タイ捨流(後の薩摩示現流)の使い手。

 お燕 十七歳 気立てのいい、ちゃきちゃきの町娘。

女忍 如月夜叉(五話)


五話~夕刻の密会


 その同じ朝、早くに旅籠を発った嵐と江角は、穏やかな春の陽射しの下、ゆくりなく出会った友のように二人でそぞろ歩き、整備が進んで活気にあふれた内藤新宿を素通りして夕刻前には品川宿に迫っていた。内藤新宿あたりからいよいよ江戸らしくなってくる。並みの女なら歩ききれる距離ではなかったが二人ともに忍び。ここまで来てしまえば慌てることもなく、物見遊山のつもりで品川宿が迫るまで平然と歩いていた。
 江角が言った。
「そろそろ品川宿だね、人が多い」
 嵐はうなずく。
「うむ。あたしちょっと寄るところがあるから、このへんで」
「そうか。楽しかったよ、ありがとね。また会える?」
「きっとまた」
「うむ、ではここで」
 寄るところがあると言って離れたのは嵐の方だ。立ち寄り先などはなかった。ただちょっと茶店で時をやり過ごし、別々に品川宿に入りたかった。

 東海道ではないこちらからなら、品川宿を少し過ぎたあたりの二本松・・あれだ、あった。そのそばに目指す場所があるはずだった。
 緑に囲まれた小高い丘、甘味処 香風。
 空を見上げる。斜陽が消えゆき薄い墨が流れ出す。教えられた通りの道筋を行き、なだらかな坂を登り切ったところ。香風のひなびた佇まいの前に、嵐は立った。

 ひっそりと佇む尼寺のような造り・・玄関などはなく、竹垣の奥を隠す垣添の木に隠れるようにして、裏庭と建物の間を抜けて中へと入るようになっている。門に立って人目につかないよう工夫された茶店。それは忍び屋敷にも共通した造り。さすが照女比丘尼だと嵐は思った。
 建物の造りは古いが板戸はするする開いて滑りがいい。よく手入れされている。
「あのう、もし・・」
「あ、はいっ。失礼とは存じますが・・?」
 若いお燕が迎えに立った。今宵は甘味処の商いをとっくに終え、特別な集まりのために支度を整えていた香風であった。
「嵐です」
「ああ、はいっ、如月の嵐様ですね、どうぞこちらへ、皆様お待ちかねですよ」
「皆様?」
 嵐はちょっと眉を上げた。今日のこの刻、香風を訪ねよ。それ以外のことを聞かされてはいなかった。時刻は暮れ六つ(六時頃)になろうとした。

 薄茶に赤い格子柄、それに錆茶色の前掛けをした娘髷の可愛い娘に案内されて奥の間へと連れて行かれる。
 その部屋はそう広くはなかったが、座卓などは置かれてなくて座布団が配られるだけ。余計な物のないゆったりとした空間だった。
 嵐が通されると、そこにはすでに四人の女たちが顔を揃え、奥の上座に庵主が濃い紺の法衣をまとって座している。頭巾はしない。市松人形を思わせる梳き流したおかっぱ髪。色白で鼻筋の通った、それは美しい尼僧である。
 客人一人一人の前に膳が配られ、葛菓子(くずがし)と茶が用意された。
 部屋を覗いて見渡して、嵐はくすりと笑ってしまった。
 やはりそうか・・お遍路姿の江角が女の中に混じっている。
 江角もまたしかり。やっぱりね・・といった面持ちで眉を上げて微笑んで、そしてすぐに真顔になった。

 嵐の顔を見るなり、庵主・・いいや百合花は、たまらないといった笑顔を見せた。我が子を見るようなやさしく煌めく眸であった。
「ああ嵐や、よく来てくれましたね、もう何年ぶりでしょう」
「はい百合花姉様、お元気そうで何よりです」
 そして百合花は手招きする。
「こっちへ来て顔を見せて」
「はい・・うふふ」
 庵主は腰を浮かしながら歩み寄る嵐の両手を握り締める。嵐の顔をまじまじと覗き込む。
「なんと・・嵐や・・ますます母上様に似てきますね、ああ美しや・・」
「姉様こそ少しも変わっておられません」
「おほほ、またそんな、もう四十なんですよ。さあさ座って嵐、早速話をはじめましょう」
 嵐の座は、上座の庵主のすぐ隣に整えられてあった。庵主とほぼ横に並ぶ感じで、他の四人は皆下座ということになる。
 庵主は、皆を見渡して言うのだった。

「ではお話しましょうか。わたくしが照女比丘尼、いまはもう百合花と名乗っておりますが、かつては尼僧、いまは違う。皆は庵主と呼びますが、どうとでも呼んでくださいね」
 嵐を除く四人の女たちが浅く首を折って会釈した。
 そして庵主は、嵐の膝に手を置いて皆に言う。
「分け隔てするようですが、こなたにおるは、皆も名ぐらい承知でしょうが、戸隠の流れをくむ最強の忍軍と言われた如月一族のお頭様の娘、嵐です。母はかの如月の霧葉様。すでにこの世にはおられませんが言い伝えとなるほどのくノ一でした」
 江角も含めた四人の視線が嵐に集まった。
「わたくしは、いまは亡き信玄様配下の血筋の者。信玄様亡き後、勝頼様の時代となる頃、わけあって、その頃まだ童だった私は厳しい立場に置かれることとなり、そのときに嵐の母様たる霧葉様に救われました。こなた嵐は生まれたばかり。この嵐と共に霧葉様を母様代わりにしてきたものです。今日こうして集まってもらったのは、いずれも名のあるくノ一ばかり。そちらから・・」
 と言って庵主は嵐に横目をやって、左手前に座る女から順に指差していくのだった。

「まず最初に、こなたが江角。伊賀の流れをくみ武家に育てられた者で、薙刀と槍、そして棒の達人です」
 江角はまた眉を上げて、ちらりと嵐を見ると、皆に浅く頭を下げた。

「次にそちらは白狐(しらぎつね)。相模の風魔流であり、吹き矢と毒使い、それに打ち根(小さな槍のような手裏剣)の名手です。
 白狐と紹介された女は、見た目で二十代の末あたり。嵐同様に質素な町女の姿であったが、眼光鋭く、すさまじい気迫を秘めている。美しいというよりも凛々しいと言えただろう。肌が雪のように白い。背丈はちょうど江角ほどか。

「さらにそちらは涼風(すずかぜ)、加賀の九紋流であり、鎖鎌と弓、それに素手での格闘ではちょっとしたもの」
 涼風は四人の中ではいちばん大柄。短く刈り揃えた黒髪はおかっぱの庵主よりも短くて、偽装のため貧しい農民の姿をしている。肌が浅黒く、しかし目つきは穏やかだった。歳の頃なら三十あたりか。この者は強いと皆は思った。体つきが男のようだ。

「そして最後に女郎花(おみな)。毒でならした紀州の神明流であり、毒もさることながら女陰働き(ほとばたらき=色仕掛けの暗殺)で名をはせた。『毒蜘蛛』という二つ名でも知られている。皆もくノ一ならわかるでしょうが、女陰働きができるということはくノ一の誉れ。若くして剣も槍も使いこなす手練れです」
「よろしくね、うふふ!」
 女郎花は明らかに若い。二十代の中頃だと思われたが、それにしても女の匂いがぷんぷんする。子猫のように愛らしい童顔で、長い髪をさらりと流し、江角同様にお遍路姿に化けている。胸が大きく張り出して女身の豊かさを物語る、男好きするくノ一だ。

「そして皆に言っておきます。こなた嵐は、母様ゆずりの如月流剣法の達人であり、並みの武士では勝てないでしょう。槍や棒を持たせても女人離れした技を持ち、弓の達人でもあります」

 そうやってひと通り皆をめぐり、話を戻して庵主は言った。
「とは言え、皆々すでに、いまはもう散り散りとなった忍びの一派ばかりですし、それぞれにやさしい女の心を持っている。そうであって欲しいと思う。皆のそこを役立てて欲しいのです。皆もあるいは聞いたことがあるやもですが、ここのところ江戸は鬼畜に悩まされておりましてね。『おしろい般若』と申し、つい先だっても、このすぐそばで酷い殺しをやってのけた。この一年に四人の娘あるいは若い奥方が殺されているのです。裸にされて逆さ吊り。脚を開かれ女陰に杭を打ち込まれて殺される。乳首は削がれ女陰や尻の穴まで焼かれてです。可哀想に体中が傷だらけ。そして女陰を貫く杭に、これみよがしに『おしろい般若』と印までを残していく」
「それなら知ってるよ、あたしは相模さ、すぐそこだ」
 と、白狐が言った。

 それにうなずき、庵主は言った。
「そこで皆を集めたわけです。御公儀としても、もちろん探索はしてはおりますが一向に進まない。それは敵が女であり、女にしか入り込めない場所にいるからやと。廓(くるわ)かも知れませんし出逢い茶屋かも知れない。どこぞの武家に腰元として入り込んでいるやも知れぬ。男の役人では太刀打ちできないわけですね」
 黙って聞いていた嵐が言った。
「あたしも聞いたことはありますが、それを我らに探索せよと?」
 百合花は違うと首を振って真顔で嵐を見つめた。
「探索ではありません、根絶やしです。見つけ出して消してしまう。敵の目的は江戸を騒がすこと。敵には黒幕もいるでしょうが、そうでもしておかないと見せしめになりません。場合によっては黒幕までを葬り去る。この香風を拠点として動いてほしいということです。一人千両の報酬をまずは約束いたしましょう」
「ひゅぅぅ、千両とはまた・・」
 くだけた雰囲気の女郎花が口笛を吹いて言った。
「以降のことは成り行きです。このお役目は御公儀のさるお方からの厳命でもあり報酬は間違いのないところ。さしあたって一人百両、この場で差し上げましょう。お燕や」
「はい庵主様」
 呼ばれ、そしてお燕が丸い盆に小判の包みを重ねて置いてやってきた。すぐ後ろに灰茶色の作務衣姿で源兵衛も控えている。

「皆にも紹介しておきましょうね、この子はお燕。乱世をいいことに押し込みに親を殺された孤児(みなしご)で、以来そばに置いているんです。それからそちらに控えるは源兵衛と申し、かつての私の寺の寺男だった者ですが、何かと面倒を見てくれます。元は気骨ある薩摩武士で剣でも強い」
 お燕の手で五十両ずつ二包みの小判がそれぞれの前に置かれて、話は終わった。

 庵主がそのやさしい眸をキッと涼しくして言った。
「敵が般若を名乗るなら、こちらは夜叉・・皆には悪いけれど私の一存で如月夜叉(きさらぎやしゃ)と命名することとしましょうか」
「如月夜叉・・強そうね」
 女郎花がにやりと笑い、江角が言った。
「私に異論はないよ、いいのではないか。この役目は嵐が束(たばね)さ。如月の嵐様がお頭っていうことだ」

 ここに、最強のくノ一忍軍が生まれることとなった。

 百合花は言った。庵主を偽るのもこの場限り。百合花と呼べと皆に言う。
「ねぐらは別に用意してあり、芝高輪、このすぐ近くですので案内させましょう。皆の着物や忍び装束、武具一式、すべてそちらに揃えてあります。今宵はまず旅の疲れを癒してもらい、くわしくは明日また、わたくしの方から出向きましょう。では源兵衛、案内して差し上げて」
「へい、じゃあ行きましょうか」
 皆が座を立ち上がる。
「嵐はちょっと・・」
「あ、はい」
 嵐一人を残して四人は源兵衛に連れられて出て行った。

 お燕もいなくなった静かな部屋で、百合花は嵐の手を取って涙をためた。
「嵐・・ああ嵐や、立派になって」
「姉様こそ、お綺麗です」
「ほんに可愛いことを言う。ああ懐かしや、見れば見るほど母様にそっくりね。ああ嵐・・会いたかった」
 抱き締めた。百合花は長身の嵐より、三寸(十センチ)ほども背が低い。大きな嵐に抱かれるようになってしまう。
 妹の嵐を抱いて背を撫でながら百合花は言った。
「許せない・・しゃあしゃあとおしろい般若などとは胸くそ悪い。けれどそのためにおまえまでを呼び寄せることになろうとは。許してね嵐、こうするよりなかったの」
「いいえ、お気持ちはもちろんわかります。あたしは忍び。役目ですので」
「うむ、そうね、それでこその如月一族。頼んだわよ、何が何でも見つけ出して消しておしまい。殺された女たちの恨みを晴らしてやって。・・ああ懐かしい、いい女となりましたね、ああ嵐や・・可愛いわ」

 姉妹として育った仲。信玄からの離反者の身内として葬られるところを、嵐の母、如月の霧葉に救われた百合花であった。

女忍 如月夜叉(四話)


四話~密やかな喘ぎ


「はぁぁ・・おぞましきかな女人の性(さが)よ・・死せば地獄・・わたくしなど死せば鬼の慰み者・・はぁぁ・・あ、あ、くぅぅン」

 男を下に、屹立する強いものを濡れそぼる女陰に喰らい、素裸となった白い百合花は、腰を振り立て達していった。男の手に熟れた乳房をくるまれて揉みしだかれ、腰を浮かせては打ち付ける激しい性に耽溺する。
 けれども声は穏やかだった。くぅぅン・・と子犬が甘啼きするように密やかな喘ぎを漏らし、がっくりと裸身を折って崩れていく。

「そなたとは死してなお夫婦でいよう。共に逝こう。地獄であるならそれもよい。愛しきおなごよ、ああ百合花・・」
「嬉しいわ瀬田様、抱いておくれ、もう一度・・幾度でも夢の中へと誘って・・」
 二度目の性は穏やかだった。瀬田昌利は数えでひとつ下の三十九。いきり勃つ若さから穏やかな勃起へと変わりゆく頃。
 それに比べてひとつ上の百合花のほうが、あさましく性を貪って、樹液を喰らう獣のように果てていく。
 昌利は、そうした百合花が愛おしく、二度果ててなお裸身を抱き、手放そうとはしなかった。

「まただそうだな」
「ええ・・今度は呉服問屋の若いお内儀。酷いやり口が許せない」
「おしろい般若とは人を喰った名だ、許せぬ」
「おそらく女の仕業でしょう。弱い女を相手にあれほど酷いことをやってのけられるのは女をおいてありません」
「女は怖い・・そなたもそうか?」
「はい、わたしくしも・・ふふふ・・ああ瀬田様ぁ、愛おしや、愛おしや、わたくしの瀬田様ぁ・・」
 むしゃぶりついて百合花は抱かれた。裸身を絡めて抱きすがり、そのまま闇へと転がるように眠ってしまう。
 瀬田昌利は三男ながら、登城して江戸のために働く男。月に数度の逢瀬が夫婦としての時だった。尼僧から煩悩に憑かれた女であり、ましてや身分の知れない年増の女では妻として到底認められるものではなかった。

 しかし百合花は、それを悲しく思わない。一度は捨てた女人の性に戻れたことが何より嬉しく、死してよりの地獄をも苦にならない現世の愛に浸っていた。
 安堵して深く眠り、けれども涙が頬を伝った。
 気づいた男がそっと指でなぞって拭いて、その涙を舐めてやる。
 もうしばらく・・いずれ許されるときがくるのなら、昌利は職を辞して隠居となり、百合花と共に暮らすつもりでいた。

 翌朝になり。
 甘味処 香風のはじまる朝の四つ(十時頃)の、さらに一刻ほど前の刻限となって、瀬田はいつの間にか消えている。
 次はいつ逢えるのだろう。一人きりの店にいて、決まってこのとき百合花は涙を浮かべるのだった。
 そうするうちに源兵衛とお燕がやってきて、いつもどおりの朝がはじまる。
 その日は昼過ぎになって、紫頭巾で顔を覆った若い女がやってきた。武家の若き御新さん(妻)。悩みがあってやってくる。通称庵主様は口伝てにひろまっていて、またこの頃の甘味など婦女子しか口にしないものでもあって、お客は大半が女であった。

「庵主様、どうぞお頼み申します」
「これはどうも、どうぞこちらへ。今日はまた何かおありで?」
「それが・・主が少し変わっております」
「と申されますと?」
「あのときに・・夜のその・・」
「・・ああ、はい。それでどのような?」
「いやらしいものをしゃぶれと申しまして・・それからあの、お尻の・・不浄の穴に入れようとまでするのです」
「まあまあ・・おほほ、仲睦まじくてよろしいではございませんか」
「そうなのですか? わたくしなど尋常ではないと思うのですが?」
「いいえいいえ、仲睦まじいことですわ。それは少しもおかしなことではありませんよ」

 この頃の武家の妻は厳格な家に育てられ、そういうことをほとんど知らずに未通(おぼこ)のまま嫁いでくる。
 香風を訪ねてくる女たちの悩みは、武家や町人の別なくだいたいそうだ。若ければ性的な趣向のことや姑との不仲。歳が進めば不貞であったりもする。主の不貞よりも自身のそれに苦しんで、話し相手を求めてやってくる。
 女たちは皆、相手は尼僧だと信じていた。百合花は日中頭巾をかぶって髪を見せない。剃髪していると思う者も多かった。

 百合花は若き妻の手を取って微笑んだ。
「殿方とはそういうものです。そうやって妻を愛おしみ、さらにまた愛おしさをつのらせていく。恥ずかしがったり、ときには怒るふりもして、上手に操っていきませんとね」
「けれどもあの・・白き精を飲めなどと・・ああ言葉にするのも恥ずかしや」
「うふふ、うぶなお方ですこと。初々しくてそれはそれでよろしいのですが、わたくしとて、かつては女人の性(さが)に悩んだもの」
「庵主様がですか?」
「そうですとも。わたくしとて生まれながらの尼僧ではありませんゆえね。愛おしさがつのればどのような性技にも応えてあげられるはずですわ」
「ではそれも尋常なことだと?」
「夫婦の営みとはそうしたものです。お二人の密技ですので求めに応じてあげればよろしいかと。ふふふ、可愛らしい御新様ですこと」

 そうやって誰にも言えないことを打ち明けて、さっぱりした気持ちで夫に抱かれて達していく。庵主のいる香風へ行けば人に言えない悩みが言える。口伝てにひろまって、苦しい女たちが次々にやってくる。
 しかし・・。
 そうして女の幸せを支えながら、一方では惨殺されていく女たちに何もしてやることができない。庵主としてではなく百合花という一人の女として、許せない気持ちになる。この妻も健気で愛らしい女だ。

 よほど恥ずかしいのか若い妻は頬を真っ赤に染めていた。庵主は一度放した白い手をふたたび取って、座卓を回り込ませ、若く細い体をそっと引き寄せて膝に寝かせる。
 若き妻はきょとんとして法衣の膝から庵主の微笑む顔を見上げていた。
「よろしいですか御新様、夫婦の営みというものは、旦那様のため妻は娼女となるものです。素股と申しますが腿に硬くなる旦那様を挟んであげたり、乳房に挟んで導いてあげたりもいたしますし、お口にいただくこともおかしなことではありませんよ。わたくしなど月のものが参りますと手を絡めてしごいて差し上げ、うっとりとされるお顔を楽しませてもらったほど・・お尻もまた同じかと」
「さ、左様なものでございますか・・ではわたくしがいけなかったのかも・・」
「旦那様は粗暴なお方ではありませんよね?」
「はい、それはもう・・実直きわまりない、それはおやさしいお方です。ただ夜のことだけが気がかりで・・」
 庵主はうんうんとうなずいて若い妻の背を撫でて言う。
「殿方は童なのです、こうして膝枕をせがんでくるもの」
「ええ、それは・・膝に甘えて・・うふふ」
「そうでしょう? ですからね、妻はもっと淫らでよろしいのです。そのほうが旦那様はお喜びになられるでしょう」
「はい・・かしこまりましてございます・・ああ恥ずかしや・・このようなお話をするなどと・・ああ恥ずかしや・・」

 若き妻は今宵の床を想うように穏やかな面持ちとなって帰っていく。

女忍 如月夜叉(三話)


三話~甘味処 香風


 刻(とき)を少し遡る。

 遠く離れた小さな旅籠で旅の女二人が湯へと向かう、ちょうどその頃・・。
 東海道、品川宿から少しばかり北へと向かった芝高輪との狭間あたりの高台で、緑の丘にぽつんと一軒そこだけある甘味処が店じまいにかかっていた。
 斜陽の紅が丘を染め、遠目にひろがる江戸前の海をも染めている。
 東屋を思わせる鄙びた造り。ここはその昔、尼寺であったものが、人手を経て別邸として造り替えられたもの。その庭園の東屋の意匠をそのまま活かしてさらに手が加えられ、この頃としてはめずらしい茶と菓子を楽しませる店となっていた。いまでいうなら喫茶店といったところ。身分の別なく訪ねて来られる。

「庵主様、そろそろおしまいにしましょうか」
「はいはい、ご苦労様ね」
 深緑に朱色縞の、それこそ町娘の姿をした小柄なお燕(おえん)が明るく言った。
「あのね、お燕、その言い方おやめなさい。おまえが庵主様庵主様って言うから、お客様までそう呼ぶわ」
「ですけど、そのお姿・・ふふふ、やっぱり庵主様です」
「そうね、法衣をまとって頭巾では尼僧のまま。けれどこれは癖のようなもの。いまさら町女には戻れないから」

 と、そう話しているところへ、茶色の作務衣姿の初老の男がやってきた。
 男は体が大きかった。肥ってはいない。身の丈なら六尺(百八十センチ)に迫る大男で町人髷を結っている。四角い鬼のような顔だが、老いたいまとなっては笑顔がやさしい。
「庵主様でよろしいではございませんか。甘いものだけを求めて人が来るわけではない。庵主様のお話が聞きたくて来るのです」
 尼僧そのままの姿をした女は、ちょっと首を傾げて笑った。
「なんですか源兵衛まで。さあさ今日はいいわ、おしまいにしましょう」
「へい。じゃあお燕よ、おめえは客間の掃除だ、俺は厨(くりや=厨房)をやる」
「はーい!」
 若いお燕が走り去り、二人揃ってその背を見つめた。
「明るくなったわね、あの子・・よかった」
「ほんに。それもまた庵主様のお人柄というもので」

 甘味処 香風(かふう)は、庵主様と呼ばれる尼僧がはじめたものだった。
 はじめた当初は、この源兵衛と二人。源兵衛は今年で五十六となり、かつて庵主が照女比丘尼(しょうじょびくに)と呼ばれ、まさしく尼僧であった頃、その寺の寺男として働いてきた者だった。
 寺の名を香風院(かふういん)と言い、小石川にあった尼寺だったが、その名をそのまま店の名としてしまう。
 照女比丘尼は、尼僧から俗世に戻った女であった。
 名を百合花(ゆりな)と言い、四十歳。剃髪していた頭にも黒髪を取り戻し、肩までの垂髪。俗世に戻ってなお尼僧の法衣をまとっており、したがっていまだに庵主様と呼ばれている。
 いくらなんでもいまさら女の艶姿には戻れない。百合花は神仏に背いた身。死ねば地獄と覚悟を決めて生きていた。

「あらら、お役者侍じゃござんせんか! 今宵はどちらへ? またぞろ女を泣かせに行くんでしょ」
 高輪あたりの商家の女中が、暗くなる店表の掃除をしながら一人の男を呼び止めた。
 粋な紫帯の漆黒着物を着流して、月代を剃り上げず、浪人風だが、顔立ちがお能の小面(こおもて=女の面)のように美しい。目鼻立ちもつつましく、そのまま女形をやれそうだ。その腰に、今宵は大小ともに朱色鞘の刀を差している。
 名を瀬田昌利(まさとし)と言い、家康の家臣、いまは亡き井伊直政が配下であった瀬田甚九郎の三男である。歳は三十九にもなるが若侍のように凛々しく歩む。

 香風から源兵衛とお燕が連れ立って近くの長屋に帰って行って、それと入れ替わるように店の裏庭に気配があった。
 店の庭は周囲を広葉の木々で覆い、砂利と石でできた静かな佇まい。春のいま木々の枝には新緑が芽吹き、店に向かって左の一際大きな木の下には、枯れた木の長板に脚をつけた床几(しょうぎ=長椅子)が置かれてある。
 その庭に夢の気配・・家の中にいても百合花は気配を察している。法衣をまとった姿であったが、心は女人となって濡れていた。
 座を立って、外への障子戸に歩み寄り、そっと開ける。

「ンふふ、瀬田様ぁ・・ああ嬉しや・・ねえ早くぅ」
「うんうん。ほらごらん、今宵も月は美しい」
「え・・月がもう?」
 薄墨に塗られた空に見事な三日月が浮いていた。
 庭草履を履いて出た百合花。薄闇に流れるように瀬田に寄り添う。
 両肩に男手を置かれ、しばし目を見つめ合い、くるりと体を回されて背抱きにされて夜空を見上げる。
「あらほんと、綺麗・・」
「そなたの肌のごときすべやかな月よ・・ああ美しや、私の百合花・・」
 男の手が胸元から着物の中へと滑り込む。

「あっ・・嫌ぁぁ恥ずかしい・・ああ瀬田様ぁ・・憎らしや・・尼僧のわたくしに俗世の夢を・・ああ抱いて・・抱いて瀬田様ぁ」
「ふふふ可愛い人よ・・麗しきその女身で私を惑わす魔性の女よ」
「あぁぁ、はぁぁン・・早くぅ・・抱いて・・瀬田様ぁ・・憎くらしや・・わたくしはもうこのように肌が燃え・・」

 身悶えしながらまつわりつくと、お役者侍を引き入れて、障子戸が音もなく閉ざされた。

 尼僧であった照女比丘尼を煩悩に引き戻したのには、お燕が一枚かんでいる。
 お燕はいま十七の娘だったが、元は小石川にあった商家の一人娘。いまから三年ほど前、戦国の乱れに乗じた鬼畜働きの盗賊に襲われて一家は皆殺し。 賊どもに手篭めにされ、ボロ布のようになった赤い腰巻きを素肌に巻いて逃げ出した十四のお燕は、そのとき通りがかった瀬田に救われることとなる。
 瀬田は怒った。瀬田は強い。泣くお燕を背後に盗賊どもと対峙して、たった一人で七人の盗賊を斬り捨てる。
 それからお燕は、同じ小石川にあって遠くはなかった、照女比丘尼のいる香風院へと連れて来られる。

 以来、二日と開けず寺を覗いては可哀想な娘を慰める瀬田の姿に、一度は俗世を捨てた尼僧の心に女の熱がふたたび宿った。
 なんとやさしい・・男らしい・・そしてなんと見目麗しい・・照女比丘尼は、百合花となって男を想い、瀬田もまた尼僧の美に魅入られた。
 百合花がもし俗世の艶姿でいたならば絶世の美女であっただろう。

 折しもその後、古かった寺に落雷があって燃え落ちて、以来、瀬田家の持ち物となっていたこの場所に、甘味処 香風をつくった。
 失った黒髪もやがては戻り、百合花は、時折こうしてやってくる恋い焦がれた男を待つ暮らしをはじめていたというわけだ。

 そのときお燕は、深川にいた縁者の元に一度は戻されたのが、これがまた放蕩者で、十五となったお燕に手を出そうとした。お燕は目のくりくりした可愛い娘。お燕はふたたび瀬田にすがり、ここで暮らすようになる。

女忍 如月夜叉(二話)


二話~香る一夜


 そしてそれから数里をろくに休みもせずに歩き通し、二人は甲州街道筋の旅籠に入った。内藤新宿のずっと手前の宿だった。
 できはじめたばかりの宿場町は、なぜかこの日ひっそりとした。片やお遍路、片や町女のいでたちの女二人の妙な旅には都合がいい。二階の六畳、ひとつ部屋に一緒となった。
 その旅籠は新しく、部屋に木の香と青畳のすがすがしさが漂っている。紙が白くて真新しい明かり障子を開けると宿の裏には大河が流れる、そんな宿。

 部屋に入って、互いに背を向け合って宿の浴衣に揃って着替え、それから振り向き顔を合わせる。一人は町女の結髪で、一人は肩までの垂髪で・・二人ともに若く美しい姿であった。
 如月と伊賀。素性の違うくノ一同士が身分を明かし合うなど少し前なら考えられないことだった。役目を背負った一人旅は仲間のほかはすべてが敵。気を張って目配りしているものなのだが、このとき女二人は穏やかだった。
 関ヶ原の戦いが武将の居場所を激変させて、その武将に仕えていた忍びたちもまた掻き回されてしまったからだ。主家を失い、あるいは追われ、離散した忍びの者は多かった。

「先に湯にするかい?」
 嵐が問うと、江角は女らしい微笑みを浮かべてうなずき、言った。
「今宵は何かの縁ということさ。彪牙に救われた女二人。同じ男を想う女が二人と言ったほうがいいのかも・・ふふふ、けど互いを探らない・・」
 江角の静かな視線に敵意はなかった。お互い詮索するのはやめようということだ。嵐はちょっと笑ってうなずいた。
「同じ男を想うか・・そうだね唇を・・」
「抗わず許していたね。肝が据わってるよ」
 嵐は違うと苦笑しながら首を振った。
「ちょっと震えた」
「そうは見えなかったが?」
「なぜなのか拒めなかった・・あやつの眸さ、深く澄んでやさしい・・あんな男ははじめてだから。しゃあしゃあとあんたを抱いてさ・・それでいて、はじめて会うこのあたしに『いずれは俺の女だ』と言い放った。それも憎たらしく笑ってさ」
「惚れたか?」
「いいや。惚れたのではなく濡れた・・わけもなく、あたしを女にしてくれた」
 江角は真顔で嵐を見つめて、ちょっと唇の隅を噛み、口惜しそうな面持ちをする。どうしようもない女としての面持ち。
「殺してやりたい・・ふふふ・・さあ行くよ」
 そう江角は言うと背を向けた。
 江角は八角棒を部屋に置き、嵐は仕込み杖を部屋に残す。しかし二人とも白木の鞘に収まった匕首(あいくち)を胸元に忍ばせた。

 湯殿は宿の裏手に一度出て、そのすぐ際に造られている。男女に分かれる小さな湯殿で、新しい宿にふさわしく檜風呂とされていた。
 檜の香りに充ちた脱衣に立って、まず先に、浴衣の下の腰巻きを脱ぐ。嵐は町女に化けていたのであたりまえの赤い腰巻きだったのだが、江角は遍路姿で、なのに下には丈の短い桜色の腰巻きを身につけていた。くノ一でも武家の素性を物語るようにである。
 浴衣をはだける。二人ともに乳白の美しい立ち姿。互いにそれとなく裸身を見たが、どちらの素肌にも傷らしきものはない。
「綺麗な肌」
 と、江角が言うと、嵐もまた同じことを言う。
「運がよかっただけさ。あたしら如月はとうの昔に忍びを捨てた」
「それを言うならあたしだって。あたしは遠江(とおとうみ)の武家の家に預けられて育ったのさ。くノ一じゃなかった。武家の娘として育てられた。ゆえに殺し合ったことがない。二年ほど前まではね」
「そうなのかい・・互いに運がよかったわけか」
「そうだね、運がよかったとしか言えまい」

 長身の嵐のほうがわずかに胸が薄い。江角は乳房の張ったやさしい女の体をしている。二人ともに抜けるように色白で、ゆえになおさら下腹の翳りが黒く際立つ。体毛も髪の毛も江角のほうが少し赤みがかっている。
 檜の湯船はそれなりに大きくて、かけ湯をして、女二人で向き合った。底に尻をつけば乳房の上まで深さがあり、湯は汚れなく透き通っている。湯は少しぬるかった。湯殿は湯気に満たされて、それが互いの過去を覆い隠すようだった。
 互いに静かに見つめ合って微笑んでいる。そのうち嵐のほうから流れて行って、江角が腕を開いて流れた女をそっと抱く。
「いい女だよ嵐は」
「江角だって・・あやつ・・彪牙・・」
「うん?」
「女を見る目はありそうだ」
「ふふふ・・うん・・口惜しいけれどね・・あのとき」
 抱かれていながら嵐は顔を振って江角を見た。湯に火照ったほんのり赤い江角の顔が扇情的だ。それは武家の女の性の美だった。

「あのとき?」
「寄らば殺すと言ってやった」
「ああ・・それで?」
「殺るなら殺れ、刃で向き合えばおまえに勝てないと言ってね・・おまえのようないい女は殺れないし、抱かれて殺られることを俺は望むと。生きていたってどのみち忍び、明日の命は知れないからな・・と」
 嵐は見上げていた江角の顔から視線をその白い乳房に静かに降ろし、片手でそっと豊かな乳房をくるんで言った。
「・・濡れるよね、そこまで言ってくれるなら女になれる」
 江角は、乳房に甘えるような嵐をさらに抱き締めて、夢見るように言う。
「もういいとあたしは思った。あたしだって忍びの定めを背負ってしまった。追っ手がかかり、そのときはじめて何人もを殺って逃げた。敵とは言え年端もいかない若侍も薙刀で斬り倒した。あたしは鬼畜・・泣きたいほど心が荒んだ」
「武家で安穏と育ったのならなおさらだよね」
「それだけじゃない。それよりむしろ、敵味方が入り乱れて、誰が味方で誰が敵かが知れなくなったことのほうが、あたしにとっては辛かった・・ねえ嵐」
「うん?」
「もう出よう、のぼせる」
「ふふふ、うん出よう」

 部屋へと戻る。このとき嵐も髷を降ろした洗い髪。浴衣を透かして立ち昇る女の香りがまたたく間に部屋に満ちる。
 火照りがおさまる頃になって夕餉が運ばれ、二人は大きな座卓に向き合って食べる。血の匂いから解き放たれた、くノ一にとっては信じがたいやさしい夜。
 歩ける間を開けて夜具をそれぞれ自分で敷いて、揃って身を横たえた。
 今宵は月夜か、明かり障子越しに青白い光が滲んでいる。風もなさそう。音のない穏やかな闇だった。
 静か。しかしほどなく嵐の夜具から衣擦れの音がして、江角の夜具からも応じるように衣擦れの気配。江角の布団に嵐が流れて、抱き合った。
 浴衣越し、女同士で抱き締め合った。それは哀れな自分を抱くように、自分とは違う体を掻き抱く抱擁だったのかも知れない。一夜限りの甘え合う相手。互いに求めた抱擁だった。

 江角が嵐の背を撫でながらささやいた。
「とうに忍びは捨てたと言ったね?」
「忍びは忍びさ。されど主家を持たなければ如月はただの山の民」
「・・なるほど」
「あたしは三十になるんだよ」
 嵐はそう言いながら浴衣の帯を解いていく。
「二つ上だね、あたしのほうが」
 江角もそう言いながら浴衣の帯を解いていく。
 淡い月光の下、白い女が溶け合った・・唇を求め合う。
 唇が離れ、それから嵐は夜具を滑って江角の乳房に顔を埋めた。江角は娘を抱くようにそっと腕に絡め取る。
「あたしら如月は、その昔、戸隠あたりの山に棲み着いた山伏からはじまったそうなんだ。先代、先々代の、そのまた前に」
「・・うむ」
「ゆえに元からの忍びではない。ひと所に棲まず山から山へと動いて生きた。獣を狩り、山の物を喰い、そうやって生きてきた。先々代の頃になって、そのとき我らは甲斐の山中にいたらしい」
「甲斐・・」
「山には甲斐も信濃もないね。行く先々で生きるのみ。それで、如月には『惑わし山』と言う術があってね」
「惑わし山? はじめて聞く」
 嵐は人差し指を立て、その爪先で江角の素肌を山に見立てて、道筋を描くように滑らせた。
 かすかにピクと江角が揺れて、肌に細かなぶつぶつが浮き立ってくる。

「道さえない深い山にこうして道筋をつくっていく。似たような景色の中に似たような道をつくっていき、偽りの標(しるべ)を立てておくんだよ。下手に入り込むと出られなくなり、動けば動くほどに山に迷う」
「・・恐ろしい」
「そう、恐ろしい術さ・・こうしてね・・ふふふ」
 鋭い爪先が触れるか触れないかのやさしさで、江角の二つの乳房を谷を隔てて這い回り、その先端でしこり勃つ濃く色づく乳首を捉えて、つつくように、つまむように・・。
「・・ん・・ふぅぅ・・ん・・」
「ほうら心地いい心地いい・・ふふふ・・」
 江角の裸身がふるふる震え、嵐はそれがいとおしくて掻き抱いた。同じ定めに生き、同じ女の性(さが)に濡れる体。そう思うと江角がいとおしくてたまらない。

「それでその惑わし山に、あるとき若侍が迷い込んだ。供の侍を二人連れた、まだほんの小童(こわっぱ)だったと言うのだが」
「う、うん・・助けたんだね?」
「先々代の頭がね。あたしの父の、そのまた父だよ。それが若き日の晴信様だったんだ」
「晴信・・信玄公・・」
「やがて晴信様は甲斐を背負い、そのときになって、山に長け、雪をものともしない我らに声がかかった。宿敵上杉との間にも山はあり、甲斐は周りじゅう山だらけ。雪に閉ざされるとどうにもならない。我らは違う。元より山の民であり、雪兎の毛でつくった装束で吹雪をものともせずに動けるからね」
「それが如月のはじまりか」
「そういうことさ。如月という名も晴信様から頂戴したものと聞く」
「そ、そう・・なのか・・ぁ」
 話の合間に性のさざ波が江角を乱す。吐息が燃えるように熱かった。

「先々代はまだ山伏、名は更木善十(さらぎ・ぜんじゅう)と言うが、『さらぎ』ではいかにも呼びにくい。そなたらは雪の忍軍、如月(きさらぎ=二月)はまた衣更着(きさらぎ)とも書き、もっとも雪深き折り・・ゆえに如月ではどうかと。汚れなく白い響きがあると申されて」
 言いながら、嵐は身をひねって江角に上を向かせると、ふわりとひろがる乳房の先に唇を寄せていく。しこって固い乳首に舌先を這わせ、目を閉じて感じ入る女の顔を楽しむと、ふたたび人差し指の爪先を裸身くまなく這わせていく。
「ぁ・・んーっ・・嵐ぃ」
「ふふふ・・ほうら濡れてきた・・そうして晴信様からお呼びがかかり、そのときになって先々代は『惑わし山』の術を話した。晴信様は大笑いされたそうだ。こうやって山に道筋をつけていき・・ふふふ」
 江角の裸身が細かく痙攣しはじめた。嬲るように焦らすように鋭い爪先が這い回り、乳房から白い腹へ・・つつましやかな臍の周りで輪を描き、さらに滑り降りて黒い草むらへと爪が這う。二つの乳房に鳥肌がざわめいて、二つの乳首が尖り勃って、背が逆に反り返る。

「ほうら、こうして毛むらに迷い込むと人は谷へと落ちていく・・こうやってぬるりと滑って沼へと沈む・・ほうらこうして・・ぬるりと」
 黒い草を掻き分けた指先に一気に力が込められて、白い女指が燃える女谷へと落ちていく。
「あぅっ、嵐、嵐・・ああーっ!」
 江角は大きく腿を割って性技を許した。背が反り返って裸身ががたがた震えだす。虚空をもがくような江角の手が、嵐の裸身を求めてすがり、抱き締めて引き倒すと、次には江角の指先が嵐の濡れる沼へと沈んでいく・・。
 白い女が互いに体の中までまさぐり合って絡み合う。逆さになってまたがり合って、自分そっくりの濡れそぼる女花を舐め合った。
 いまはまだ生きている女の喜びを分かつように、あえぎ、のたうち、声を噛んで果てていく。そのとき夜空で雲が月を隠したらしく、意識が遠のくように絡み合う白い女体が濃い闇につつまれた。

 揺れて開く胸が静まり、気がつけば、二つ年下の嵐が江角のやさしい裸身を抱いていた。
「そうやって信玄様に仕えたのだが、ちょうど勝頼様の代となる頃、我らは身を退いていた。先々代はとうにいない。あたしの父も早くに病に倒れて逝ってしまった。あたしの母者が如月を継ぐ形になったのだが、新しい男ができた」
「男?」
「それが若い侍でね・・ふふふ・・母者の前では骨抜きだったそうなのさ。我ら一族をよく思わない織田方続きの地侍の配下の者で、襲ってきたのさ。我らは強い。返り討ちにしてやったんだが、そんな中でその侍は、まだ若かった母者を一目見て惚れちまった。刀を捨てて、死ぬ前に一度でいいから想いを遂げたいと母者にすがった」
「まるで彪牙だ」
「そう、彪牙のように。いまだから言うけれど、だからあのとき、あたしは彪牙を拒めなかった。命を賭して迫られた母者の幸せを知っているから」

 女同士の激しい性が去ったとき、二人の女は、巡り巡って彪牙を想ってしまう胸の内に、密かに笑う。
 嵐と江角は素裸で抱き合ったまま目を閉じた。
 江角が言った。
「あたしのことは訊かないようだね?」
「言えるのか? あたしはただ如月のいわれを話しただけ。あたしのことは話していない」
「うん・・知らない方が溶け合っていられるね・・」
 唇を重ね合い、抱き合って、互いの女陰へと手を滑らせて、そのまま眠りに落ちていく・・。

女忍 如月夜叉(一話)


一話~山の刺客


 そうした惨劇のあった二日後のこと。

 昼下がりになって新緑も美しい山の中の道筋に女の陰がひとつある。
 黄色格子の小袖を着て、黒髪をきっちり結い、市女笠(いちまがさ)と白木の杖を持った旅姿。歳の頃なら三十そこそこ。色白で目鼻立ちのくっきりした美しい女人であった。
 この頃の女の中では背が高い。まず五尺五寸(百六十五センチほど)はあっただろうか。太花緒(はなお)の草履を履き込んだ旅女のいでたちだったが、それにしてはおかしい。ここは八王子の山の中の、そのまた裏街道。関所を通らない道筋だ。
 関所と言っても、この頃はまだ江戸への表通りとも言える東海道でさえも関所は手薄で、軍事的な目的で存在する見張り場がある程度。女一人の旅ならまず通してくれるのだったが、なのになぜ裏道を行くのだろう。
 その女は、三尺半(一メートル)ほどの白木の丸杖を持っている。そのへんに秘密がありそうだった。

 深い山の裏道は、荷車がやっと通れるほどの荒れ道が山の中の方々から葉脈のように交わって、峠を越えれば表道の甲州街道と合流する。
 その峠にさしかかり、道なりに大きく左へと曲がる見通しのきくところまであと一歩と迫ったとき、その女はハッとしたように道筋の草むらへと姿を消した。

「待っていたぞ江角(えずみ)、おとなしくしろ」
「おのれ、しつこいぞ。密書など携えてはおらぬ。密命なども帯びてはおらぬ」
「ならば何ゆえ江戸へと下る。その姿はどうしたことだ、何ゆえ身を偽るのか。さらにここは山の中の裏街道、女一人が行く道ではあるまいて」

 後追いするように歩いていた町女が草むらに消えたところの少し先。
 やはり一人旅らしい若い女が七人の侍どもに囲まれてしまっていた。男たちは皆、家紋のない着流し姿だったが、その月代も見目美しく、乱れのない風体から、どこぞの家中の武士たちだと思われた。男七人のうちの二人が年増で三十半ば。残りの五人は二十代の若侍だ。
 そして一方の囲まれた女は、背丈は五尺三寸(百六十センチほど)と、草陰に隠れた町女よりも少し低いが、それでもこの頃としては長身だった。旅姿ではあっても、こちらはお遍路姿の白装束白袴。やや深い小ぶりの編笠を手にしていて、長さ五尺ほど(百五十センチあまり)の白樫の八角棒を持っている。
 黒髪は肩ほどまでの垂髪で、こちらもまた目鼻立ちの整った、それは美しい女人であった。

 七人の侍どもが囲む輪を絞り、若侍五人が抜刀して脅しにかかる。年増の二人は一歩退いてにやにや笑う。若侍の刀はいずれもよく手入れされ、昼下がりの陽光にギラついて輝いていた。
 それに対して、お遍路姿の女は、大きく腿を割って腰を落とし、棒を構え、やりあうつもりでいるらしい。
「ほう、いい構えだ・・」
 と、つぶやいて、草陰から様子を見切る町女。女一人に追っ手が男七人というのもうなずける。女は強い。

 年増侍の一人が抜刀した若侍どもに言った。
「殺すなよ、いい女だ。裸にすれば一興、これも役得というものよ。ふっふっふ、おい江角、そなたも楽しんで死ねる方がよいだろう。可愛がってやるからな。はっはっは!」
 若侍どももほくそ笑み、刹那、左右から二人の剣が女を襲った。
「なんの! セェェーイ!」
 中腰に長棒を構える女は、気合い一閃、まるで臆することなく棒先の前後で左右からの剣を払い、左の敵には喉を突き抜き、回して返した棒先で右からの敵の頭を割る。一瞬にして二人の男が崩れ去った。
「あの構えは・・薙刀(なぎなた)か・・あやつは強い」
 草陰に忍んだ町女は小声で言った。

 二人の手下をひねるがごとく退けられて、年増の男二人が抜刀した。
「退いておれ、おまえたちの勝てる相手ではなさそうだ」
「惜しいのう江角よ、そなたの女陰(ほと)を拝みたいところだが・・」
 抜刀した年増二人が口々に言いながら歩み出て、若い三人が剣を構えたまま一歩退いて取り囲む。
 年増の二人は明らかにできる。前と右から次々に斬りかかる。若侍のようにはいかない。女の棒が一人の剣を跳ね上げるも、一人の剣先が白装束の上着を浅く切り裂いた。女は地べたにもんどり打って剣を交わすと、囲む若侍どもを蹴散らして数歩走り、谷斜面を背負って立って身を沈めた。
 このあたりの道筋は向かって左が山斜面、右が急な谷斜面となっていて、背後につかれないよう女は陣取ったということだ。それもまた手練れの見切り。
 しかし危ない。一人だけならともかくも手練れが二人では、いかに女が強くとも女に利はない。

「もう一度言う、おとなしくしろ。事と次第によっては助けてやらないでもないんでね。ふっふっふ」
「やかましいね下郎ども!」
「ならば死ねや!」
 年増の二人が前と左から白刃を振り上げた。囲む若侍どもも中段に構えて女を逃がさない陣取りだ。

 そのときだった。
 草陰から躍り出た町女。黄色格子の小袖を着た、これまた美しい女が、手にした白木の丸杖から白刃を抜き去って疾風のごとく駆け寄った。右片逆手で剣先を下げる不思議な構え。何者なのか。
「待ちな!」
 町女は駆け寄りざま、突然の加勢に面食らって振り向き構える若侍二人の剣をいともたやすく跳ね上げると、江角と呼ばれた女と向き合う年増一人の剣をもたやすく払い、囲みを破り、女二人が背を合わせて身構える。
 やおら現れた妙な女に江角が言った。
「何者か。かかわりなきは退け。助太刀など無用!」
 しかし町女は剣を構えたままちょっと笑う。その刃と、右片逆手の不思議な構えを江角は見た。町女の仕込み杖は反りのない忍び刀。男たちの剣より少し短く、しかし刃幅がやや厚い。

「何者かは知らぬが味方がおったとは・・」
 と、男の一人がほくそ笑みながら言うと、町女は涼しく笑った。こちらも江角よろしく色白で整った、薄化粧も美しい女であった。
 町女が言った。
「連れじゃないよ、勘違いするな。女一人に侍どもがよってたかって。裸にして可愛がると聞こえたが・・そういう輩が許せなくてね! 助太刀する!」
「しゃらくせえ! 共々死ねやーっ!」
 江角に対して右から、町女に左から、年増二人の鋭い剣が襲いかかる。
 江角は棒先で剣を跳ね上げ、町女は下げて構える切っ先を振り上げながら、男の横へともんどり打って転がって、まず先に背後の若侍の一人を斬り倒し、返す刃で年増の剣をふたたび払うと肩口を浅く切り裂いた。
 その白刃は目にもとまらず速い! 身が軽く、恐ろしく強い!
 その片やで男二人とやり合いながら江角は目を丸くした。女の刀は忍びが用いる直刀。くノ一だ。自分でさえ手間取る手練れの武士と互角以上。いったい何者。これほど使うくノ一をはじめて見た江角だった。

 しかし男たちは、いっとき女の敵をあなどった。年増二人も目の色を変える。二人が二人、腰を大きく沈めて中段に身構え、着物の前がはだけてしまって白いふんどしの前垂れが覗く。
 年増男の一人が苦笑した。肩口の着物を斬られた男だった。
「拙者としたことが不覚よのう。ふっふっふ、やるな女よ。されどそなたらに負ける拙者ではない! 覚悟せい!」
 残る敵は年増が二人、半歩退いて若侍が二人。
 中腰に八角棒を構える江角。右片逆手に切っ先を下げ、小袖の前が割れてしまって赤い腰巻きも露わに身構える町女。

 ところが、そのとき。

 荷車がやっと通れるほどの山道の江戸側より、青黒い・・それはちょうど作務衣のような不思議な上着と袴を穿いた姿の男が・・まさに風・・つむじ風のように流れて来る。背が高い。身の丈にして六尺(百八十センチ)はゆうに超え、その髪は肩より長い垂髪のざんばら髪。髭面。それでいて細身。その眼はらんらんと煌めいてる。掘りの深い顔立ちだった。
 男は、いまで言う地下足袋のような、なにやら獣の皮でこしらえた不思議な履き物を履いていた。
「俺が相手よ、覚悟せい!」
 その男の手にも仕込み刀。こちらも反りのない忍び刀で、黒檀の杖に仕込まれているものだった。
 風雲がごとく駆け寄った、なんと言えばいいのか、野獣のような男の剣が、まず立ちはだかった若侍二人の首を跳ばし、手練れと思われた年増二人と相対する。
「・・彪牙(ひゅうが)」
 江角は棒を構えたまま呆然と立ち尽くす。美しい黒目が輝き、目が丸い。
 毛の中の野獣の顔が微笑んだ。
「おう。久しいな江角よ。それからそっちの女もだ、退いてろ」

 手練れ武士の一人が言った。
「次から次に・ええい何者! かかわりなきは去れ!」
 彪牙と呼ばれた野獣が笑う。
「どうしてどうして、大いにかかわりありでね」
「何ぃ!」
「こなた遍路女は俺の女。その女陰は俺の穴よ」
「な・・何を言うか・・」
 江角は一瞬にして女の色を湛えていた。あまりの恥ずかしさに身が竦んでいるようだ。
「そこな女も、いずれはいただく俺の女さ、あっはっは!」
 野獣に目を向けられて、町女は呆れて目を見開いたが、こちらもまた、その瞳は女の色に輝いていた。

 勝負はまばたきの間に決着した。彪牙は強い。それは魔物のような剣さばき。ギラリと刃が一閃した刹那、手練れ二人が朽ち木のように崩れ去る。江角はともかく町女は目を見張った。男は忍び。手練れの中の手練れ。震えるほどの男だった。

 忍び刀の血糊を倒した男の着物で拭うと、彪牙は黒檀の鞘に刀を収めて、まずは江角に歩み寄る。決して小さな女でなくとも野獣に寄られると江角はか弱い。
「無事でよかった」
「う、うむ・・けど、どうしておまえが?」
「いろいろあるのよ、野暮は言うな・・ふふふ・・いい女だ」
 彪牙は棒先を降ろして立つ江角にぐいぐいと迫り寄ると、左腕一本で江角を抱き締め、もがくように暴れる江角の目を見つめてやさしく笑い、左へ右へと顔を振って避けようとする江角の唇に唇を重ねていった。
「ばっ、馬鹿者・・嫌だ、見られてる・・嫌だ・・」
 そんなことを言いながらも江角の体から力が抜けた。丸太のような獣の腕一本でしなるように抱かれている。

 見せつけられた町女はほくそ笑む。人前でしゃあしゃあと。呆れて声も出なかった。
 腕の中の江角に微笑みながら、彪牙は横目に町女の姿を偽るくノ一へと視線をなげた。
「助太刀すまぬな。ふっふっふ、それにしても右片逆手に切っ先を下げて構えるそなたの剣・・」
 直線的に見つめられて、町女はちょっと笑った。
「何さ?」
「噂に聞く如月剣法と見た。それも並のくノ一じゃねえ、おまえは強い」
「如月の剣・・」
 野獣の胸板越しに江角もまたつぶやいて、探るような視線を町女に向ける。
 町女は微笑むだけで応じない。
 すると野獣は、掻き抱いた江角をそっと放し、刀をしまった白木の仕込み杖を手にした町女へと歩み寄る。

 抱くまで一歩の間合い。女は少しもたじろがない、長身の町女だったが迫られると真上を見上げるようになる。そばで見ると野獣は三十代の半ばのようだ。
「いい女だ・・うむ、おまえもそれは美しい」
 そっと左腕が背に回り、そのとき女は微笑んで目を閉じた。睫毛の長い美しい性の顔。
「ほう・・覚悟はいいか・・さすが如月・・」
「違うね、そうじゃない・・伊賀の彪牙に感じ入っただけ・・その名ぐらいは知っている」
 二人は、しばし無言で見つめ合う。

「・・そうだよ、あたしは如月の嵐」
「やはりな。俺の女を救ってくれて・・ふふふ・・いい女だ」
「ふん・・なにさ、しゃあしゃあと・・」
 唇が重なった。嵐と名乗った女の体から力が抜け落ち、しなり、抱かれた。

 嵐を離れた彪牙は、別れ際に江角へと歩み寄り、穏やかな面持ちで眉を上げて言うのだった。
「惜しくてならんが今日のところはここまでだ、また会おう」
「どうしておまえがここにいる?」
「なあに、こちとらだって事情はある」
「おまえも江戸へ?」
「さあな・・もう言うな」
 彪牙は、ふたたび江角を、今度は両腕に抱き締めると、やおら両方の女尻をわしづかみにした。
「ああ! こっ、この馬鹿者っ!」
「あっはっは! おまえの女陰が懐かしいぜ。よく洗って手入れしておけ」
「ええい言うな! たたっ斬るよっ!」
 江角は頬が赤い。大声で笑ったかと思うと彪牙は背を向け、江戸とは逆向きに歩み去る。恐ろしく大きな背・・大きな男尻・・そして蒸れるような男の臭気。  女二人は声もなく、消えていく姿を追っていた。

 寄り添うように二人で立って、嵐が言った。
「・・いい男」
「口惜しいけどね・・ふんっ・・恥ずかしい・・けど」
「うん?」
「よもや如月の嵐とは・・知らぬ者のない名だからね」
「昔のことさ。いまとなっては昔のこと・・そう言うあんたこそ・・あの棒は棒ではあるまい。薙刀さ。武家で仕込まれた技と見た。それも強い」
 江角は笑って空を見渡す。抜けるように青かった。
「あたしだって昔のこと・・伊賀の江角、それがあたし。彪牙とは同門でね。けどそれさえ昔のことさ。まさかここで会おうとは・・」
 嵐はちょっとうなずいて、江角の白装束の背を押した。
「これから江戸だね?」
「ちょっとあってね・・そうさ江戸だよ。こんな山ん中で手間取っちまった」
 薄汚れたお遍路姿の江角、それに品のいい町女の二人連れ。妙な取り合わせだったのだろうが、二人は揃って歩きだす。

 二人とも声には出さない。互いを探る邪念もない。
 そんなことより、一瞬の風となって通り過ぎ、唇をさらっていった野獣の匂いを感じていたい。二人ともに互いを見ない。すがすがしい女の横顔。

「・・彪牙か」
 ふいに嵐がつぶやいた。
「・・彪牙だよ」

 江角はつぶやき、ちょっと笑って言うのだった。
「その昔、危ないところを救われた。二人で逃げて山の中の寺に潜み・・三日ほどだったけど夫婦のように過ごしたのさ・・ふふふ、あのときもそうだった」
「え?」
「あのときも闇の中で・・寄らば殺すとあたしが言ったら・・その前に抱かせろ、いい女だって言ってくれてね・・あたしは濡れた・・」
 嵐は声もなくうなずいて足を運んだ。

女忍 如月夜叉(序章)


序章~二本松の惨劇


 慶長五年(1600年)十月の関ヶ原の戦いから四年あまり。徳川幕府の開かれた翌年のことである。

 関が原に勝利し、江戸の春を迎えたとは言え、ゆえにいきなり太平の世が訪れたわけではなかった。西方には豊臣勢が依然としてくすぶっており、憂いを祓って江戸らしくなるまでには、慶長二十年(1615年)、かの大阪夏の陣までさらに十余年を待たなければならなかった。
 幕府が開かれたこの頃は江戸に不穏が満ちていた。たとえば東海道だけをみても江戸への出入りを監視する関所などはなく、江戸市中における町奉行所などが機能したのは三代将軍家光の時代となってから。後の繁栄を支えた日本橋を起点とするいわゆる五街道と、その宿場の整備も、その頃になって形になりはじめたもの。
 上方から江戸へと国の要は動いても、武家の都合で人心は動かず、この頃の江戸はどちらに転ぶかわからない危うさに満ちていた。徳川に遺恨を持つ者、逆に傘下(かさした)で一旗あげてやろうと目論む者・・さまざまな思惑を胸に人々が流れ込み、江戸の闇は黒かった。


 慶長九年、夏初月(なつはづき=四月)、陽光にぬるむ昼どき前の街道筋が重い沈黙につつまれていた。
 品川宿まであとわずかという道沿いに二本松と言われる場所がある。江戸へ向かって右が海、左が緑豊かな小高い丘となっていて、その丘の駆け上がりに見事な黒松が二本、枝ぶりを競うように生えている。駆け上がりを少し登ると江戸前の海を見渡せる、そんな場所であったのだ。

「なんと惨い」
「・・鬼の仕業さ」
「今年になって二人目だよ。この一年に四人も殺られてるんだもん」
 通りすがりの旅人も、町人も、百姓たちも、男も女も、顔色を青くして見事に張り出す松の太枝を見上げている。
 そのときになってようやく改め方(あらためがた)と称される役人が数人ぞろぞろとやってきた。
「これ、そこを空けよ」
「ううむ、またか・・」
「惨いことをしおってからに・・」
 役人どももまた呆然と見上げていた。

「あんたたちがしっかりしないからだよ! こんなことが続くんじゃ、あたしら大手を振って歩けないね!」
「おおよ、そうだそうだ! 徳川様は何してやがる! 下手人を捕らえてもらわねえと、こちとらおちおち商いもできやしねえ!」
 人々の声にも役人たちは黙したまま返す言葉もないありさま。

 二本並ぶ左の松の太枝に、無残に責め殺された若い女の骸が吊るされていた。
 女は素っ裸。片足吊りでだらしなく足を開かされて逆さに吊るされ、後ろ手に縛られて乳縄を打たれ、両方の乳首は抉り取られ、大きく開かされた腿の間の女陰(ほと=女性器)には、先を鋭く尖らせた太い木の杭が打ち込まれているのである。
 下腹の黒い翳りからも、乳首をなくした乳房からも、血がしたたって乾いている。
 真っ白な裸身には惨たらしい刃物の傷や火傷の痕。そして垂れ下がる顔の中で眼をカッと見開いたまま絶命している。もがき苦しみ死んだのだろう。
 役人たちは足首を吊るす縄を断って骸を横たえ、着ていた羽織を体にかけて、死に顔の瞼を閉ざしてやった。手を合わせて成仏を祈るが、このありさまで報われるはずもない。

 惨たらしく女陰を貫く丸太の杭には、四角く白い晒し布が小柄(こづか)で打たれ、朱色墨で「おしろい般若」と書かれてあった。この一年に四人の女がこうして殺され、決まって同じ文言が残されているのである。
「おしろい般若か・・ええい、くそ」
 役人の一人が思わずそう漏らし、別の一人が取り囲む人々を見渡して言う。
「誰ぞ、この女を知る者はおるか?」
「それを調べるのが役目だろうよ!」
「ほんとだよ、まったくもう! 白粉(おしろい)だか紅だか知らないけどさ、あたしゃ腹が立ってしかたがないね! なんとかしなよ役人だろ!」
 役人の問いに対して荒れた声があがったとき、取り巻く人々を押しのけるように一人の商人らしき男が進み出た。歳の頃なら四十過ぎ。旅の帰りらしく三度笠を手にしている。身なりのきっちりした男であった。

「もしや・・」
「うむ? 知っておると申すか?」
「へい。あ、いや、まだそうと決まったわけでは・・ちょいとよろしいすか」
 そう言ってさらに骸に歩み寄り、役人を押しのけるようにして死に顔を覗き込む。
「ううむ・・そうだ・・ああそうだ、違いねえ」
「知っておると申すのだな? 何者か申してみよ?」
「へい、両国の呉服問屋、橘屋(たちばなや)さんのお内儀ではと」
「お内儀だと? 娘ではなく女房だと言うのだな? 両国の呉服問屋か?」
「へい。つい先だって祝言を挙げたばかりでして。あっしも呉服商いで仲間なもんで祝言に出ておりやすから。・・ああ、そうだ、お梅さんに違いねえです」
「名をお梅と申すのだな?」
「へい左様で。お梅ちゃんに違いありやせん。歳は十八、つい一月前の祝言ですぜ」
「十八・・なんと・・まさに惨い」
 役人たちは顔を見合わせ、旅姿の男に言った。
「おめえ、ちと手間取らせるが一緒に来な、くわしく訊きてえ」
「へい、そりゃあもう。可哀想に、なんてことしやがる・・」

 女の骸は荷車で品川宿まで運ばれて、医者が呼ばれて検分される。
 この頃にはまだ奉行所などは定められておらず、改め方と言われる同心のようなものができはじめたばかり。その番屋が整備されだしたところであった。
 骸が運び込まれると、控えていた役人も含めて七名の侍が骸を囲み、その中で年老いた医者が裸の骸を調べていく。
「打ち込まれた杭は、女陰より入りて胃の腑にまで達しておりますな。切り取られた乳首はおそらくは鋏かと」
「鋏だと? 刃ではなく鋏なのだな?」
「いかにも。このように肌を挟んだ痕が残っております。それと火傷は・・惨いですな、女陰から尻の穴まで焼かれておりまする。腹にも尻にも火傷が残る。おそらくは焼いた鉄か、あるいは木か・・」
「ふうむ・・して、死するはいつ頃と観る?」
「さほど時は経ていないかと・・まあ一日か二日でしょうな」

 状況からして二本松のあるあの場で殺されたとは思えない。別の場所で責め殺されて、運ばれて吊るされたものだと思われた。
 この一年に、これで四人。まったく同じ手口で殺されている。「おしろい般若」という文言もまったく同じ。朱墨で書かれた女文字だと思われた。
 老いた医者が呻くように言う。
「可哀想に・・さぞ苦しんだことでしょうな」
 役人の一人が吐くように言った。
「許せん。許せんが、しかし・・」
 同心や岡っ引きという組織がなく、調べようがないというのが実情だった。
 骸に晒し布をかけ、改め方の役人たちは目を伏せた。

 医者が帰って二刻(四時間)ほどして・・早馬で知らせを聞いた橘家の若旦那が年増の手代を連れて番屋に飛び込んで来たのだった。歳の頃なら二十二、三か。激しく息を切らせている。両国から品川まで走り通してきたのだろうか。
「あっしは両国の橘屋でございやす」
「うむ。若旦那だな?」
「へい、仙吉と申しやす」
「そうか・・そこだ、確かめよ」
 役人に指差され、若旦那は体を覆う白布を剥がすことを躊躇して、けれどもう泣きながら覆いをめくり・・。
「ああ、お梅・・なんてことだ・・へい、お役人様、女房に違いありやせん。可哀想にお梅ーっ! うわぁぁーっ!」
 その場に居合わせた皆が顔をそむけた。役人も人。涙を浮かべる者もいる。

 数日前、お店(おたな)の用で出かけたきり戻らない。両国あたりの改め方に届けを出したところだったと、若い亭主は泣き崩れた。