二二話~香風のお真知


 入梅を控え・・というわけでもないだろうが、二日晴れて一日は雨になる。そんなような繰り返しがしばらく続き、半月ほどが流れていた。

 数日前からお真知はお燕と一緒に屋敷を出て香風で働くようになっていた。ついしばらく前に剣を抜いて襲った場所。お真知はそのときのことを忘れられず自ら願い出て働いた。町女の結髪で綺麗な着物に身をつつみ、けれども胸の内は苦しかった。
 忍び屋敷の板の間に小さいながら仏壇を据え、日に何度も向き合っては手を合わせる。時が経って女の幸せを想うほどに、許されてはいけない身の上だと思えてくる。周りが許してくれるほど苦しくなってしまうのだった。
 香風にいたい。庵主のそばで我が身を見つめたいと思うのだ。

「庵主様、お客様でございます」
「うんうん、お通しなさい」
「はい、かしこまりました」
 昼をとうに過ぎた八つ(二時頃)となって、一見して武家と思われる母と娘が訪ねて来た。二人ともに質のいい小袖の姿。頭巾などはしておらず、母は四十代の末あたり、娘はまだ十代で、ちょうどお燕ほどかと思われた。
 二人を庵主の待つ奥の間へと案内し、一度引っ込んで茶とよく冷えた葛餅を整えて、お客の前にそっと置く。
 そんなお真知に庵主は座れと言うのだった。

「この子はお真知と申しましてね、いろいろあってここに置くことにしましたのよ。ご一緒させていただいてよろしいですわね?」
「はい、それは・・はじめまして、お真知さん」
「いいえ、とんでもございません、こちらこそはじめまして、どうぞよろしくお願いいたします」
 心を正したお真知は落ち着いて美しかった。
 法衣をまとって尼僧となった百合花が問うた。
「それで今日はどのような?」
「はい」
 母は武家の品格に満ち、それは美しい女であった。娘ももちろん整った可愛い顔立ちをしている。

 連れて来られた娘の名は、お文(ふみ)。お燕より一つ下の十六であるという。そろそろ婿をと考えだしたとき、じつは屋敷に出入りの植木屋の若衆と好き合っていた。身分が違う。どうしたものかということだった。
 もちろん二人は清い仲でおかしなことにはなっていない。当然のように父は怒り、しかし母は添わせてやりたいと考えている・・ということだ。
「当家は娘ばかり三人がおりまして、この子は末。上の二人はすでに嫁ぎ、残ったのがこの子なのです。主もそれは可愛いがり、名のある家に嫁がせようとしたところ、どうしても嫌だと泣くのです。許されないなら家を出るとまで申します、勘当されてもかまわないと」
 お文は恥じらい真っ赤になってうつむいてしまっている。
「おやおや、愛おしくてならないようですね」
 悟りをひらいた尼僧にやわらかな眸を向けられて、娘はこくりとうなずいた。
 初々しくて可愛いと、そばにいてお真知も思う。

 庵主が問うた。
「命をもいとわない?」
「はい、お慕いしておりまする、それはやさしいお人です」
「そうですか。それでお相手の方は何と?」
 庵主に訊かれ、母が想いを秘めたように微笑んで応じた。
「それがまたきっぷのいい若衆でして」
「江戸っ子なのですね」
 母は口許に手をやって笑いながらうなずいた。そうした若衆なら私でも惚れると言わんばかりの微笑みだった。
「身分の違いに臆することなく主の前に平伏して、浮ついた心ではない、許されないなら斬ってくれなどと申すもので・・この子もこの子で、そんなことになるのなら後を追うなどと。さしもの頑固者も、じつは揺れているのですよ。何も申しませぬが私にはわかります、先の二人のこともありますし一人ぐらい思いのままにさせてやってもいいのではと考えているようで」

 そこで庵主は、顔を上げてお真知を見た。
「お真知ならどう? もしもそなたがお文ちゃんなら?」
 母子二人がお真知を見た。お真知は身の震える思いがする。
「そのような庵主様、私などに・・」
「いいから思うままを言ってごらん」
「・・はい、では申し上げますが」
 お真知は顔色が白かった。
「いいのです、そなたの想いを聞かせておくれ」
 と母にも言われ、お真知は浅くうなずいた。
「女は好いたお方に添うことこそ幸せと申すもの。けれどお文さん」
「あ、はい?」
 鈴の転がるお文の美声。くりくりとした瞳が黒光りして胸の内の期待を物語るようだった。

 お真知は言った。
「お武家様と下々は何もかもが違います。お武家様の娘として町人を迎え入れるようなお考えではいけません。自らが後戻りできないところに立って、好いたお方のもとへと迎えていただく。身分は違えど殿方なのです、何があろうと見下ろすようでは決してうまくいきません。よくよくお考えになられ、それでもと思われるなら、お父上様を何としても説得しないとなりませんね。命を賭してお願いすればきっとわかっていただけると思いますよ」
 母子は、そう言いながらもぽろぽろと涙をこぼすお真知の姿を驚いたように見つめていた。
 そうして嫁いでいったはずの若い内儀を責め殺すことに加担した。胸が張り裂ける思いだった。

 そしてその帰り際、母は目を潤ませてお真知の手を握って帰って行った。

 厨に引っ込んだお真知はさめざめと泣いていた。己などとやかく言える女じゃない。
 そしてお真知は、百合花にあることを願い出た・・。
「髪を?」
「はい・・どうしても・・昔の私を捨てるため・・」
 百合花はうなずき、しかし言う。
「わかりますよ、心根はもちろんわかりますが・・」
 お真知の心は決まっていた。
「それであの、どうしてもお燕ちゃんに落として欲しい。恩人なのです、お燕ちゃんに救われたようなものですから」
 そのとき、お燕も源兵衛もそばにいた。
 お燕は源兵衛に取りすがって涙をぽろぽろこぼしている。
「・・仕方ありませんね。ではお燕、そうしておあげ」
「は、はい・・姉様・・可哀想・・ぅぅぅ・・」
 お燕は泣き崩れ・・それでも百合花から剃刀を受け取って、お真知の結い髪を降ろし、御仏に合掌しながら目を閉じたお真知の肩に手をやって、それから髪に刃を入れた。

 黒髪をなくしたお真知は、百合花に平伏し、それから厨へと引っ込んだ。法衣などではもちろんなくて、清楚な小袖を着込んだまま・・。
 そのときのお真知に涙はなかった。道を見据えた強さが滲む。
 お燕は百合花のそばに留まって片づけをしていた。厨に引っ込んだお真知は、源兵衛のそばで黙り込んでただ働く。
 源兵衛が言う。
「偉いぜ、お真知よ、心が震えた・・うむ震えた」
「源さん・・やっと少し・・少しだけ・・」
「うむ、わかる・・辛かろうな」
 源兵衛はお真知の肩に手を置いて、そのまま静かに抱き寄せた。
「源さん・・」
「半分背負うさ」
「え・・」
「半分背負ってやるからよ。わしだって振り向けば似たようなもの。おまえはもう独りじゃねえ、庵主様のもとで励むがいい」

 喉を搾るような慟哭は、そのとき百合花にもお燕にも届いていた。

 客が去ってかぶり物を脱いだ庵主は百合花であった。艶のある黒髪が肩を超えて伸びている。
 百合花はお燕の肩を抱きながら言った。
「髪はやがて戻るもの、私のようにね」
「はい。そうしなければ示しがつかない・・」
 お燕の目は赤いまま、いまにも泣きだしそうだった。
「そうですね、その心根はわかります。ここで働くようになり、女たちの可愛い悩み、苦しい胸の内を知るにつけ、なおのこと己を責めたくなるのでしょう。お真知はもう大丈夫。頃合いを見て女に戻してあげましょうね」
「はい・・そうなると嬉しい・・」
 百合花は、やさしいお燕を横抱きに抱き締めると、結はどうだと問うた。
 お燕はちょっと首を振る。
「もう暴れたりはしませんが、死にたいと言って・・」
「なら殺しておしまい」

 お燕は驚き、百合花の涼しい横顔を見つめた。百合花は微笑んでいる。
「おまえの手で殺しておしまい。お真知のときのように。結という女は甘えたくてならないようね」
 お燕はハッと目を見開いて、嬉しそうに笑うのだった。