十九話~裂けた錦絵


 その日の夕刻、青山の連なる万座の景色は、稜線が影をのばし、斜陽に染まる赤い景観に山型の夜を配っていた。
 嵐、江角、お涼の三人は、麓から幾筋か続く湯治場への山道が絞り込まれて一つになる峠あたりを張り込んでいたのだが、その日は敵らしき者の姿はなかった。雲行きの怪しい湯治場の夜は漆黒の闇。鬱蒼とした森また森。道筋に動く者の気配は皆無であった。獣の気配すらを感じない。

 ちょうどその頃、江戸。
 昨夜からの雨があがり、心地よく冷えた初夏の夜風が流れていた。
 芝高輪の忍び屋敷まであとわずかという道筋に、錦絵侍の姿があった。左肩の欠けた蒼い月を見上げつつ、ふらりふらりと歩いている。
「月は~満ち欠けぇ~愛しやぁ~憎しやぁ~恋心~♪~っと」
 しかし鼻歌はぴたりと止まり、瀬田は茶色鞘の居合刀に手をかけて身を沈めた。
 道すがらの暗がりから侍どもが湧いて出た。十人はいただろうか。皆が浪人の姿を偽ってはいるが、そのきりりとした身のこなし、月代を剃り上げた髪型からも武家の配下の者と思われた。
「瀬田昌利だな」
「いかにも。このような美しき宵に何者か」
「問答無用、死ねい!」
 侍どもが一斉に抜刀し、輪となって取り囲む。瀬田はさらに身を沈めて刀身を横に少し倒し、寄らば斬るぞと身構える。
「ウリャァーッ!」
 キンキーン!
 刃と刃が交錯して火花が飛んだ。前から後ろから次々に白刃が舞い寄せては瀬田の剣に弾かれて、瀬田は囲みを破って輪を出るが、一瞬後にはふたたび囲まれて動けない。多勢に無勢、いかに居合の達人でもいずれ勝負はつくだろうと思われた。

 前からの突きがかり。横からの突きがかり。続けざまに繰り出される切っ先を払ったときに、後ろからの袈裟斬りに背中を浅くえぐられた。
「くっ!」
 一瞬膝が折れたものの、瀬田は斜め前へともんどりうって転がって、片膝となりながらも気迫を切らさず身構える。
「ふっふっふ、もはや勝ち目はない、覚悟せい!」
 群れを率いる大将格の侍が右斜に刃を振り上げ、踏み込みざまに斬り下ろす。しかし瀬田は一の太刀を受けきって横飛に地べたに転がり、起き上がりざまに一人の侍の剣と交錯、刃を跳ね上げ、返す刀で胴を浅く切り裂いた。
 一人が崩れる。しかしそのとき周りの二人が剣を振り上げ、ほぼ同時に踏み込みかけた。
 危ない! さしもの居合も敵の数が多すぎる。

 危機一髪! そのときだった。

「待たんかぁ! こん、たぁけもんどもがぁ、退けぃ!」
 やはり浪人姿に扮してはいるが、こちらもれっきとしたお抱え侍。数はさらに多く、十五人はいただろう。侍たちは一斉に抜刀して駆け寄って、瀬田を囲む十人の輪を蹴散らした。
 そのとき背走する侍の一人が言った。
「なぜだ! なぜ止める!」
 立ちはだかった群れの一人がそれに応じた。
「お指図よ! おみゃぁら家をつぶす気けぃ! 退けぃ!」
 先に襲った十人が顔を見合わせ、刀を収めて駆け去った。
 瀬田の味方ではない。同じ家中の者どもであり血気盛んな一派を諌めようとしている。瀬田と間に立ちはだかった十五人が、いっとき瀬田を取り囲み、しかし刀を収めて、中の一人が敵意に満ちた眼の色で鼻で笑った。
「ふふん、命拾いだったな・・者ども退けぃ!」
 影の波のように侍どもが暗がりへと消えていく。
 瀬田は刀を収め、けれども背を斬られて、女人のごとく白い錦絵顔が苦痛に歪む。

 女たちの忍び屋敷。戸を荒く叩く音。
 お菊それにお真知が刀を手にして立ち上がる。お燕は背後で怯えていた。このときお雪は地下に降りて結を見ていた。
「お燕いるか、俺だ・・」
「・・瀬田様?」
 板戸を挟んだやりとりだった。
「斬られた・・開けてくれ」
「ええーっ! ああ嫌ぁぁーっ!」
 お菊お真知を掻き分けるようにお燕が引き戸を開け、ふらつく瀬田に肩を貸し、瀬田が転がり込んで来る。
 お菊が言った。
「お真知、湯だ! それと酒だよ!」
「はい!」
 今宵の瀬田は黒地に紫富士の浮き立つ着流し姿。その背が斜めに切り裂かれ、血を吸って生地が濡れたようになっている。しかし一見して傷は浅い。

 帯を解いて白い褌だけの裸にし、板の間にうつ伏せに寝かせ、お真知に呼ばれたお雪が地下から飛んできて傷を診る。
「浅いね、よかった。けど動かしちゃだめだよ。お燕、サラシで押さえてな。ありあわせで薬を作る。その間しっかり押さえてるんだ」
「はいっ!」
 お菊がお真知に言った。
「あたしとおいで、庵主様を呼びに行く。仕込みを持て」
「はいっ!」
 お雪は毒使いの名手であり、つまり薬の名手でもある。
 厨に飛んでいったお雪は、深いすり鉢に乾かした薬草を並べ、すりこぎですりつぶして調合する。その間お燕は泣きべそ顔で背中の傷を押さえていた。
 お菊とお真知は走る。遠くはない距離だったが、こういうときは遠く感じる。二人ともに忍び。疾風となって闇を駆ける。

 すり潰した薬草を強い酒で練った茶色黒いものを、お雪は指にすくって傷に塗った。
「む・・むむむ」
「ちょいと沁みるけど血が止まる。紙を貼っての糊代わり。こうして傷を塞ぐんだよ」
「ああ、すまぬ。ぁ痛っっ! うむむ!」
 取り替えた白いサラシをお燕がひろげて傷にかぶせ、ふたたび傷を押さえつける。
 お雪が瀬田の白い肩に手をやって言った。
「しばらくの辛抱だ、血がとまればサラシを巻く。かすり傷だよ」
「ああ・・少し楽になった」
「相手は忍びかい?」
「侍だ、囲まれた」
「何者?」
「さあな、浪人姿だが・・それよりお燕よ」
「はい?」
「恥ずかしいぜ、褌姿を見られちまった」
「あ・・嫌ぁぁん、もう・・ぅぅぅ、よかったー!」
 瀬田は泣き出したお燕の膝に手をやって、鼻歌を。
「泣くなお燕よ~♪~小娘お燕~俺の尻でも眺めてよ~、胸がどきどき揺れていらぁ~・・っと。はっはっは」
「ふざけてる場合なの・・あぁんもうっ、憎たらしい」
 お燕は涙しながら苦笑して、瀬田の白い尻をパシンと叩く。
 そばでお雪は額を掻いて笑っていた。

 などとふざけていると、百合花と源兵衛、お菊とお真知が転がり込んだ。百合花は灰色柄の小袖の姿。落ち着いた色香が漂う。
「ああ瀬田様、大丈夫?」
「おおう、麗しの観音様よ、愛しいなぁ・・」
 斬られたと聞いて顔色を青くしていた百合花は、いつもの瀬田の声に、すぐそばに崩れ落ちるように座り込んだ。
「はぁぁ、よかった・・」
「傷は浅いが、でもよ、しばらくは抱いてやれんなぁ。尻ぐらいは撫でてやれるが・・くくく」
「い、嫌だよ、この人は・・もうっ、こうしてやるっ!」
「あ痛てて! すまんすまん」
 真っ白な男尻をつねりあげる百合花。皆の中にいて、尼僧だとばかり思っていたお真知は目を丸くする。お真知はまだ恋仲の二人のことを知らされてはいなかった。
 このとき、上からのしかかって傷を押さえるお燕と源兵衛が目を合わせ、源兵衛は眉を上げてちょっと笑った。
 百合花がお燕の手を取った。
「お燕、ありがとね、私が代わるからもういいよ」
「はい、よかった・・どうなるかと思ってしまって」
「うんうん、よかったね・・うんうん」
 百合花の瞳が潤んでいた。

 お菊が言った。
「いいもんだろ女って」
「ふふふ・・はい」
「庵主様のいい人なのさ」
「えっ!」
「しっ・・声が大きい・・」
 厨に立っていたお菊とお真知は、薬を作ったすり鉢を持ってやってきたお雪と目を合わせ、お雪は舌を出して笑って言った。
「羨ましいよ、べたべたと・・けっ」
「ほんと。ね、お真知」
「ええ、ちょっと信じられない気がします、尼さんだとばかり・・」
「女は可愛いものなのさ。おまえのしたことをよく考えないとね」
「はい」
 うなだれるお真知を、お菊がそっと抱いてやる。
 いつの間にか源兵衛が消えていた。香風へ戻って行ったのだった。

 お真知は、誰に言われたわけでもないのに、庵主と、横たわる瀬田の前へと歩み出た。
「庵主様」
「おや? そなたは誰でしたっけ?」
「え・・」
 そして白い男背の傷を押さえながら瀬田に言う。
「そうそう、気が動転して忘れていました。あのね瀬田様」
「うむ?」
「この子、如月夜叉の六人目、お真知って言うのよ」
「ほほう、お真知・・そうかそうか、いい女が増えてくなぁ。よろしくな、お真知よ」
「ぁ・・はい・・こちらこそ・・」
 お真知はもう言葉をなくし、ただ震えて泣いていた。
 嬉しいのはお燕だった。厨に来て、いまにも笑顔が弾けそうだ。
 お雪がお菊に向かって小声で言う。
「如月菩薩」
「なんだって?」
「百合花様さ。そっちのほうがいいんじゃない?」

 しばらくして血が止まり、瀬田は二階へ移されて、嵐と江角のいない八畳へと移された。布団を二組並べて敷いて、百合花がずっと付き添っている。
「そうですか尾張の言葉を・・」
「そうに違いねえぜ。おそらくは江戸詰の者たちが勝手な真似をしたんだろう。国元では泡を喰って、人をよこして諌めにかかる・・そんなふうにも思えたが」
「それにしても尾張とは・・」
「いいや、まだそうとは決められねえな。上方はきなくさい。そのじつ大阪つながりのご家来衆ってこともある」
 声が弱くなっていき、瀬田は眠りに落ちていく。
 尾張と言えば徳川御三家。尾張あたりからも商人たちは江戸へと流れて来ていたし、関が原を境に豊臣から寝返った家来衆も多くいて、そのじつ豊臣に心を残している・・敵は皆目霧の中・・。

 百合花はそっと部屋を出ると、まだ下にいる皆のところへ降りていった。
「瀬田様は?」 と、お燕が訊いた。
「おやすみになりました。痛みもなくなったようですね。・・お雪」
「はい?」
「みんなもよ、ありがとう」
 百合花は女たちを見渡してうなずくと、その背後に隠れるようにしているお真知を見た。
「ですけどお真知、すべてはこれからの所業です、許されたと思ってはいけませんよ。心の中で手を合わせ、せっかくの忍びの技を正しいことに向けていく。よろしいですね」
 お真知は情が身に沁みて涙があふれて止まらなかった。
 そんなお真知の背を、お燕が寄り添って撫でている。

 そしてお菊が言うのだった。
「下に一人、結というくノ一が」
「そのようですね」
「どうしようもない性悪で、怒鳴ったり暴れたり。それでお雪が薬をやって落ち着かせてはいるんですが」
「嵐が戻るまで待ちなさい。ここは公儀の場ではありません、皆でよく話して決めればよろしい。改心するなら生かす道はある。でなければ・・まあ嵐に委ねましょう」
「はい、ではそのように」
「ただね、私は尼僧だった女です、そこを少し考えてくれるといいのですが」
「わかりました、そのように伝えます」
 できるなら殺さずにということなのだが、このときお菊は、それを伝えればいいと思っていた。
 ところが百合花は、お菊に歩み寄ると白い指先でお菊の額をちょっとつつく。
「それは違いますよ」
 お菊は伏し目がちに目を見開いた。
「・・と申されますと?」
「あの者たちはいまはいない。そなたらでまず話し、どうするかを心に決めて、それから嵐に告げるようにしなければなりません。でなければ留守を任せられなくなりますからね。頭の言いなりの忍びではいけません。一人ひとりが正義をもって動かないと」
「はい、心得違いをしておりました」
「うんうん、みんないい子・・私は嬉しい」
 百合花はお菊の頬を撫でながら、一人ずつ皆の顔を見渡して微笑んで、それから腰を上げるのだった。

「愛しいお方のおそばにおります・・ではね、おやすみなさい」

 静かに流れて行くような艶花を見送って、お雪がお菊の肩に手をやった。
「・・如月菩薩・・けど怖い・・お見通しだ・・」
 お菊が眉を上げてちょっと笑った。