十八話~般若の死


 万座の湯。忍びの脚でも三日。
 幾重にも青山の折り重なった壮大な景観がひろがった。下界では初夏の陽気でも、さすがに山は冷えている。その山の中腹まで如月夜叉は迫っていた。

 外輪の山の緑にくるまれような岩風呂だった。源泉がそこらじゅうで湧き立って雲の中にいるがごとく湯気が舞う。白い雲海越しに眺めるような山々だった。

 女が一人で湯に浸かる。大きな岩風呂の端まで行って山の風で乱れる湯気の狭間から雄大な景色を見ている。黒い髪をまとめて上げて肩まで沈む。この季節、湯は山風に冷まされて長湯するにはちょうどいい温もりだった。 
 立てば六尺はありそうな白い体が湯気に中にうかがえた。
 湯気がぼかす女の背後に、刀を置くチャッという鍔の音。殺気はなかった。
 しばらくして湯の乱れる気配がした。
「邪魔するぞ」
 低く野太い声だった。
 山海に向かって拓かれたこの頃の岩風呂に男女の別などありはしない。広い岩風呂に女と男が二人となった。

「大きな女だ」
「・・」
「そなた責められたようだな・・くノ一か・・」
 男は岩の上に横たえられた白木の仕込み杖に目をやった。反りのない忍び刀だと見てとれる。
 長い黒髪を上げていることで、耳のない左向きの顔が露わとなった。左の頬には、目の横から顎までの火傷があった。肌が引き攣れる惨い傷だ。
「だったらどうなのさ」
「いいや・・わしとて似たようなもの・・」
「似たようなもの?」
 女が振り向くと、男は鬼のように大きな体。体が大きすぎて湯が浅くなり、仁王のような胸板にも、隆々とした肩にも、頬にも額にも、古い刀傷が刻まれる。浅い傷ではなかった。死線をさまよった者であると一目でわかる。
 男は隻眼。左目に眼帯をし、顔は四角く黒く、巌のような風体だ。年の頃なら四十半ば。風魔忍びの頭であった小太郎も、七尺(二メートル)近い大男であったというが、こんな感じかも知れないと女は思った。

「侍だね」
「うむ、敵ではない」
「ふふん・・どうだか・・男に味方などいなかった」
「そうか?」
「ああ、いなかったね」
「耳を削がれたのか」
「乳首もないよ。女陰(ほと)も焼かれた。尻の穴まで。・・化け物にされちまって捨てられた」
「捨てられた?」
「女房だった」
「・・そういうことなら生きてりゃいいってもんでもねえな」
「いいや生きてりゃいいのさ。あたしはくノ一、あんたは侍、死んじまったらおしまいだよ」
「酒も飲めねえしな」
「ふふふ、そうさね・・意趣返しもできなくなる」
「なるほど。男が憎いか」
「憎い。ちゃらちゃらしている女もだけど」
「なら、わしを殺れ」
「え・・」
「もういい・・もういいんだ・・疲れた」
「・・妙な奴だね」

 女と男はどちらに流れるでもなく、湯気越しに見つめ合っていた。
「実の弟を斬った。親父殿も、その親父殿の弟も。わしには妹もいたんだが、その亭主も敵だった。首を飛ばしてやったさ。因果な巡り合わせで敵味方になってしまった」
「関ヶ原かい?」
「小田原城さ。わしは北条に恩義があった」
「家が寝返ったってわけかい?」
「そうだ・・」
 豊臣の大軍勢が相模の北条を攻めたのは、天正十八年(1590年)のことだった。いまから十数年も前になる。
 女は、一度立って体を見せつけ、男のそばへと歩み寄ってふたたび沈んだ。
乳房は薄いが女らしい裸身・・その裸身のそこらじゅうに惨たらしい傷がある。
「いい体だぜ」
「あんたこそ。惨い体だ、あたしと一緒」

 女は男の顔をまじまじ見つめた。髪の毛などばさばさで獣のよう。どこまでが髪でどこまでが髭なのかわからない。黒い雑草の中になんとなく顔がある、そんな感じ。鼻が大きく唇が厚く、目だけがギラついて、まさに鬼面。
「そなた歳は?」
「七になるよ、三十七」
「わしは四十六よ・・ふっふっふ、もういい・・もういいんだ」
 鬼のような男が女の肩に手を回した。六尺近い大女が小さく見えた。
「あたしが欲しいかい・・ひどい体だが女陰はあるよ」
「はっはっはっ、胸のすく言いようだぜ。ならわしも、突っ込む棒は勃つからな」
「ふんっ・・泊まりはどこさ」
「すぐそこだ。ついて来い」
「うん」
 この頃の万座は、湯治場の他に何もない山の中。湯の小屋といって、湯治客を泊める宿が数箇所あるだけ。

 男が言った。
「おまえ一人で来たか?」
「いいや、連れが二人いるが山を降りてる」
「降りてるとは?」
「麓にいるよ。ちょいと訳ありでね」
 部屋に入ると男はすべてを脱ぎ去って・・女は、そんな男の姿を楽しむように見つめながらすべてを脱ぎ去り、獣と獣はまじわった。
 女の悦びを記憶をたどって呼び覚ますように女は果てて、男もまた獣のように果てていく。
 岩のような男の胸で女が言った。
「これよりないね・・いまこのとき・・これよりない。もう一度抱かれようとは夢にも思わなかった」
「まったくだ、この先きっとこれ以上のことはない」

「名は?」
「紋だよ」
「平九郎だ」
「平九郎・・」
「そうだ。おかげで苦労ばかりしてきたさ」
「あははは、なるほどね、名が悪いってか?」
「まったくだ。・・いい女だぜ、お紋」
「あんたこそいい男・・けど」
「うむ?」
「あんたは死ねる。あたしは・・死んだっていいけどね・・ふふん」
 その意味が解せなくて、平九郎はお紋の横顔を見つめていた。

 嵐と江角、そしてお涼の三人が湯治場に着いたのは、その夜のことだった。
 道筋に近い宿の一軒をあたり、そうそう混まない宿だから部屋はすぐ取れ、聞き込みも何も、お紋の居所はすぐに知れる。顔に惨たらしい火傷のある大女。そんな女は他にはいない。
 すぐ隣りの宿だと女中は言った。
 岩風呂に出ようとすると女中が言う。
「ああ今宵はおよしな、もう暗い。内風呂があるからさ」
 それもそうだ。いかに目のいい忍びであっても闇の山では動けない。三人顔を見合わせて、しょうがなくて宿の中に引き込んだ小さな湯に浸かっていた。女三人で独占できる、小さな岩で組んだ湯であった。
 嵐が言った。
「今宵は休もう、足が棒だ」
「そうするか・・さすがにキツい」
 あの江角が疲れ果てる。江戸から駆けるようにしてやってきて、最後のところで険しい山だ。

 ところが翌朝・・信じ難いことが起きていた。

 朝餉の前に起き出して、この世のものとも思えない見事な景色に見入っていた。抜けるように青い空。新緑の山々が連なって、視線を下に向けると、いくつものの白湯の岩風呂が点在している。
「わぁぁ綺麗・・お燕でも連れてくれば飛び跳ねるだろね」
 お涼が言ったそのときだった。

「てえへんだーっ! 男と女が斬り合って死んじまってるーっ!」

 お紋がいるはずの隣の宿から若い男が飛び出して叫びはじめた。
 とっさに顔を見合わせて、それぞれに仕込み杖を手にして飛び出した。
 隣の宿などすぐそこだ。お涼が、群がる男の一人に訊いた。
「男と女が斬り合って死んだって? どんな女だい?」
「どんなって、ずっといる女だよ、耳がねえ大女さ」
「何だって・・」
 そこでまた目を見開いて顔を見合わせ、さらに訊く。
「男の方は? 男と一緒にいたのかい?」
「違う。男の方は昨日からの客なんだ」
 三人揃って宿の中へと飛び込んだ。
 男が泊まる宿へ誘われて行ってみたら偶然同じ宿だった・・ということなのだが、嵐ら三人には知る由もないことだ。

 一見して刺し違えた自害。斬り合ったのではない。互いに穏やかな死顔をしている。
 江角が言った。
「お紋に違いないね」
 お涼はうなずきならも「どういうことか?」と言うように目配せしたが、嵐も江角もわからないと首を振った。
 お紋と、まさしく異形の男は、浴衣姿でぎゅっと手を握り合い、互いに心の臓を狙いすまし、折り重なるように死んでいた。部屋には布団が並べて敷かれ、男女のまぐわいがあったことは明らかだった。
 夕べは互いを愛おしみ、夫婦のように一夜を明かし、朝になって自刃した。そうとしか思えなかった。部屋中が血の海だった。
「書き置きがある」
 宿の主人らしき年寄りが言った。
「なになに・・『般若よ去れ』・・だとよ。どういうこった?」
 座卓に置かれた短冊紙に見事な女文字で書かれてあった。忍びは筆と墨を持ち歩く。

 嵐、江角、お涼の三人は、目配せし合ってその場を離れ、己の宿へと戻っていた。
 江角が言った。
「お紋が一人だったね。書きつけを残すってことは手下への指図・・仲間が来るってことさ」
「見張ろう」
 お涼が応じた。
 早く正気に戻ろうとはするものの三人ともに声が失せる。
 あのお紋が自刃・・それもまさに鬼と刺し違えて死んでいった。これはいったいどういうことか。考えなどまとまるはずもなかっただろう。
 お紋を知る江角が言った。
「女の死顔だったね。おそらく抱かれ・・男の方も死に場所を探していて・・」
「そうかも知れない、二人ともに穏やかだった」
 嵐が応じ、ふとお涼を見ると、お涼もまたうなずいて言う。
「夢を見て死んでいった・・そんなふうだった」

 しかしこのとき、嵐は彪牙の言葉を思い出していた。あの夜彪牙に出会ったことを嵐は皆に告げてはいない。『叡山の鬼天狗』など誰も信じていない。死んだ者が生き返るなどあり得ない。
 まさかそんなことが・・嵐ですらが信じ切っていなかった。

 江角が窓に立って、目を細めて景色を見渡しながら囁いた。
「お紋・・女として死ねたんだね・・」
 江角とお紋は一門は違っても伊賀者同士。そして女同士。くノ一の哀れから解き放たれた一人の女の死を想う。

 おしろい般若は消えた。『般若よ去れ』とは、手下どもに去れということだろうと
江角は思った。