三話~甘味処 香風


 刻(とき)を少し遡る。

 遠く離れた小さな旅籠で旅の女二人が湯へと向かう、ちょうどその頃・・。
 東海道、品川宿から少しばかり北へと向かった芝高輪との狭間あたりの高台で、緑の丘にぽつんと一軒そこだけある甘味処が店じまいにかかっていた。
 斜陽の紅が丘を染め、遠目にひろがる江戸前の海をも染めている。
 東屋を思わせる鄙びた造り。ここはその昔、尼寺であったものが、人手を経て別邸として造り替えられたもの。その庭園の東屋の意匠をそのまま活かしてさらに手が加えられ、この頃としてはめずらしい茶と菓子を楽しませる店となっていた。いまでいうなら喫茶店といったところ。身分の別なく訪ねて来られる。

「庵主様、そろそろおしまいにしましょうか」
「はいはい、ご苦労様ね」
 深緑に朱色縞の、それこそ町娘の姿をした小柄なお燕(おえん)が明るく言った。
「あのね、お燕、その言い方おやめなさい。おまえが庵主様庵主様って言うから、お客様までそう呼ぶわ」
「ですけど、そのお姿・・ふふふ、やっぱり庵主様です」
「そうね、法衣をまとって頭巾では尼僧のまま。けれどこれは癖のようなもの。いまさら町女には戻れないから」

 と、そう話しているところへ、茶色の作務衣姿の初老の男がやってきた。
 男は体が大きかった。肥ってはいない。身の丈なら六尺(百八十センチ)に迫る大男で町人髷を結っている。四角い鬼のような顔だが、老いたいまとなっては笑顔がやさしい。
「庵主様でよろしいではございませんか。甘いものだけを求めて人が来るわけではない。庵主様のお話が聞きたくて来るのです」
 尼僧そのままの姿をした女は、ちょっと首を傾げて笑った。
「なんですか源兵衛まで。さあさ今日はいいわ、おしまいにしましょう」
「へい。じゃあお燕よ、おめえは客間の掃除だ、俺は厨(くりや=厨房)をやる」
「はーい!」
 若いお燕が走り去り、二人揃ってその背を見つめた。
「明るくなったわね、あの子・・よかった」
「ほんに。それもまた庵主様のお人柄というもので」

 甘味処 香風(かふう)は、庵主様と呼ばれる尼僧がはじめたものだった。
 はじめた当初は、この源兵衛と二人。源兵衛は今年で五十六となり、かつて庵主が照女比丘尼(しょうじょびくに)と呼ばれ、まさしく尼僧であった頃、その寺の寺男として働いてきた者だった。
 寺の名を香風院(かふういん)と言い、小石川にあった尼寺だったが、その名をそのまま店の名としてしまう。
 照女比丘尼は、尼僧から俗世に戻った女であった。
 名を百合花(ゆりな)と言い、四十歳。剃髪していた頭にも黒髪を取り戻し、肩までの垂髪。俗世に戻ってなお尼僧の法衣をまとっており、したがっていまだに庵主様と呼ばれている。
 いくらなんでもいまさら女の艶姿には戻れない。百合花は神仏に背いた身。死ねば地獄と覚悟を決めて生きていた。

「あらら、お役者侍じゃござんせんか! 今宵はどちらへ? またぞろ女を泣かせに行くんでしょ」
 高輪あたりの商家の女中が、暗くなる店表の掃除をしながら一人の男を呼び止めた。
 粋な紫帯の漆黒着物を着流して、月代を剃り上げず、浪人風だが、顔立ちがお能の小面(こおもて=女の面)のように美しい。目鼻立ちもつつましく、そのまま女形をやれそうだ。その腰に、今宵は大小ともに朱色鞘の刀を差している。
 名を瀬田昌利(まさとし)と言い、家康の家臣、いまは亡き井伊直政が配下であった瀬田甚九郎の三男である。歳は三十九にもなるが若侍のように凛々しく歩む。

 香風から源兵衛とお燕が連れ立って近くの長屋に帰って行って、それと入れ替わるように店の裏庭に気配があった。
 店の庭は周囲を広葉の木々で覆い、砂利と石でできた静かな佇まい。春のいま木々の枝には新緑が芽吹き、店に向かって左の一際大きな木の下には、枯れた木の長板に脚をつけた床几(しょうぎ=長椅子)が置かれてある。
 その庭に夢の気配・・家の中にいても百合花は気配を察している。法衣をまとった姿であったが、心は女人となって濡れていた。
 座を立って、外への障子戸に歩み寄り、そっと開ける。

「ンふふ、瀬田様ぁ・・ああ嬉しや・・ねえ早くぅ」
「うんうん。ほらごらん、今宵も月は美しい」
「え・・月がもう?」
 薄墨に塗られた空に見事な三日月が浮いていた。
 庭草履を履いて出た百合花。薄闇に流れるように瀬田に寄り添う。
 両肩に男手を置かれ、しばし目を見つめ合い、くるりと体を回されて背抱きにされて夜空を見上げる。
「あらほんと、綺麗・・」
「そなたの肌のごときすべやかな月よ・・ああ美しや、私の百合花・・」
 男の手が胸元から着物の中へと滑り込む。

「あっ・・嫌ぁぁ恥ずかしい・・ああ瀬田様ぁ・・憎らしや・・尼僧のわたくしに俗世の夢を・・ああ抱いて・・抱いて瀬田様ぁ」
「ふふふ可愛い人よ・・麗しきその女身で私を惑わす魔性の女よ」
「あぁぁ、はぁぁン・・早くぅ・・抱いて・・瀬田様ぁ・・憎くらしや・・わたくしはもうこのように肌が燃え・・」

 身悶えしながらまつわりつくと、お役者侍を引き入れて、障子戸が音もなく閉ざされた。

 尼僧であった照女比丘尼を煩悩に引き戻したのには、お燕が一枚かんでいる。
 お燕はいま十七の娘だったが、元は小石川にあった商家の一人娘。いまから三年ほど前、戦国の乱れに乗じた鬼畜働きの盗賊に襲われて一家は皆殺し。 賊どもに手篭めにされ、ボロ布のようになった赤い腰巻きを素肌に巻いて逃げ出した十四のお燕は、そのとき通りがかった瀬田に救われることとなる。
 瀬田は怒った。瀬田は強い。泣くお燕を背後に盗賊どもと対峙して、たった一人で七人の盗賊を斬り捨てる。
 それからお燕は、同じ小石川にあって遠くはなかった、照女比丘尼のいる香風院へと連れて来られる。

 以来、二日と開けず寺を覗いては可哀想な娘を慰める瀬田の姿に、一度は俗世を捨てた尼僧の心に女の熱がふたたび宿った。
 なんとやさしい・・男らしい・・そしてなんと見目麗しい・・照女比丘尼は、百合花となって男を想い、瀬田もまた尼僧の美に魅入られた。
 百合花がもし俗世の艶姿でいたならば絶世の美女であっただろう。

 折しもその後、古かった寺に落雷があって燃え落ちて、以来、瀬田家の持ち物となっていたこの場所に、甘味処 香風をつくった。
 失った黒髪もやがては戻り、百合花は、時折こうしてやってくる恋い焦がれた男を待つ暮らしをはじめていたというわけだ。

 そのときお燕は、深川にいた縁者の元に一度は戻されたのが、これがまた放蕩者で、十五となったお燕に手を出そうとした。お燕は目のくりくりした可愛い娘。お燕はふたたび瀬田にすがり、ここで暮らすようになる。