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一話(序章) 無色の沙菜


「いいわよパーフェクト。それぞれ担当の段階でこのぐらいすっきり書いてほしいものだわ、レベルが違う」

 清書されたテキストを刷り出したA4ペーパーを、ひらひら周囲に見せつけるようにして、次長の田崎有希恵(たさき・ゆきえ)は言うのだった。
 それは沙菜にとって嬉しくない褒め言葉。北原沙菜(きたはら・さな)は大卒入社から五年目で、つい先日二十七歳になったばかり。女の多いオフィスでのその歳はポジショニングが難しく、下からは疎まれて上からは牽制される無言の圧力がのしかかってくるもので。同期であっても五年もすれば差が生まれ、それでいて役職としては大差なしといった時期だけに、こうしたあからさまな褒め言葉は敵を増やすだけとなる。

 品川。
 高層ビルの十八階から二十二階までを本社とする、業界では中堅の化粧品メーカー。その広報部に沙菜は勤めていた。部長は男性。しかしその下の次長というのが田崎であって、社内でも一目置かれるやり手の女性。沙菜にとっては直属の上司であり、皆が敬遠しがちな人物から、こうもあからさまに褒められてはたまったものではない。
 広報部では商品全般を売り込むときのアナウンスシートなどをまとめている。商品ごとに担当者はいるのだったが、論理的に考える技術者が集まる開発部から回されるコンセプトシートに書かれた専門用語満載の原文をデパートなどの取引先へ案内するとき、咀嚼して書き直すことができず、つまりは清書が沙菜のところにまわってくるというわけだった。

 沙菜は大学で文学部。それ以上に、高校の頃からポエムやエッセイと言葉で表現することが好きで書きためてきていた。難しいことをさらりと書くのが文章の力。難しいままでは原文の複写に過ぎず、それでは田崎は納得しない。
 さらにまた、広報部の部長、牧原洋介(まきはら・ようすけ)という人物は、バランス感覚に優れて人の扱いも巧みだったが、田崎に対して声を上げない男であった。田崎は女盛りの三十五歳で美しく、離婚経験があっていまは独身ということで、社の重役、専務である吉住遼子(よしずみ・りょうこ)との愛情関係が噂されていたからだ。
 専務と言っても急成長する企業の幹部は皆が若く、吉住は四十歳。スリムで長身、五つ六つは若く見え、元は大手メーカーの美容部員でヘッドハントで招かれていたからルックスも美しい。

 けれど沙菜にとって、そんなオフィス周りの痴話などどうでもいいことだった。関わると煩わしい。定時退社を心がけ、夜の席からも極力距離を置くようガードする。常識的な恋愛結婚からはじまって、上司との不倫、誰と誰がビアンであるとか、嫌な話が飛び交う職場に愛想が尽きて、そろそろいいかと転職を考え出していたところ。とりわけいまは、それどころじゃない事情もあった。

 あれは数か月前のこと、性的な共通項を感じて注目してた若いタレントが命を絶った。LGBTそのほか性的マイノリティとされる『ノンセク』であるとカミングアウトして話題となった美女だったが、赤坂の自宅マンションで首を吊って自殺した。動機など詳しいことは伏せられたまま。二十七歳。ちょうど沙菜と同い年で、それだけにショックだったし、自分のことのようで怖くもなった。

 ノンセク=ノンセクシャルとは、非性愛とも言われるもので、相手に対して恋愛感情を抱くことはあっても性欲を感じない人のことを言う。
 沙菜は自らを、A(エイ)セクシャル=ア・セクシャルだと自認していた。こちらは無性愛者とも言われていて、他人に対して恋愛感情さえ抱かず、性欲も覚えない者のこと。

 若い頃は気にしなかった。恋してくっつき破綻する同性を見ていても、無関係な現象というだけで割り切れた。二十七歳は微妙な年齢。これから恋愛して結婚しなければならないと考えるとタイムリミットのはじまりだと感じてしまう。沙菜にその意思がなくても親からせっつかれる歳となって、沙菜は、自分がいったい何者なのかを確かめてみたいと思うようになっていた。
 恋愛しない、エッチしたいと思わない、そんな結婚に意味はあるのか?
 肉体は正常な女だし、性意識として女であっても、異性を求める気持ちになれない。レズビアンも違う気がする。セックスに興味なし。
 ただ人間嫌いなだけかしら?
 社会に適合できない女?

 だったら生きる意味なんてないじゃない!

 共感を抱いていたタレントの自殺は、沙菜に究極の問いを突きつけた。
 このままでは何かが狂う。そう感じた沙菜は、ともかくネットをあたってみようとしたのだが、その中で、また別の若い女優が綴ったエッセイにめぐりあう。
 映画女優の千草(ちぐさ)マリア、いま三十三歳。若い頃から清純派のイメージでありながら、M女などのきわどい性シーンを演じられる女優として知られた人だが、いまから数年前に私はBよ=バイセクシャルとカミングアウトして非難を浴びた時期があった。
 そしてその文中で、カミングアウトに至るまで裸の自分を見つめる時間をくれた中伊豆のペンションについて触れていて、そこでの出会いが私を導いてくれたと語っている。

 中伊豆の山の中・・白い洋館・・ビアンカップルがオーナー。

 それだけわかれば調べようはあったし、検索しだしてあっさり見つけることができていた。性的マイノリティを自認する人々が口コミで広めていて、そちらからあたればカンタンにヒットしたということで。

 ペンション、『ツインベル』

 もちろん健全な宿泊施設で一般客も多いのだったが、口コミで広まりだしてからは特に性的少数派が集まるペンションでもあるらしい。
 そうした情報はネット上の個人の言葉で、ペンションそのものの公式ホームページでは触れられていないこと。写真で見るツインベルは古典的な洋館をイメージした一部二階建てのペンションで、フロント周りのロビーも、全室バルコニー付きの部屋も、露天の岩温泉も、陰湿なムードはどこにもなくて、すっきり明るい。おとぎの国の館のようだ。
 沙菜は一目で気に入った。周囲は伊豆の自然林。ペンション裏手が岩場で浅い崖となり、綺麗な小川が流れている。宝石の翡翠を名にあてるカワセミが多くいて、枝葉が陽射しを散らす見事な景色に目を奪われる。

 レミとルミ。

 ペンションのオーナー二人も隠れず姿を見せていて、その意味でも安心できた。写真だからかどちらも小柄で、ヘアースタイルも揃ってアッシュカラーのベリーショート。表向きかも知れないが揃って花柄のロングドレスを着込んでいて、どちらも若く美しい。一見して三十代前半の美女二人。揃ってビアンかと思えば、それらしくも感じられた。

 迷わなかった。とにかく動いてみなければ。

 予約は九月半ば。三連休に一日足した土日月火の三泊四日。予約は電話でと考えたのだが、さすがに最初はホームページの予約フォーム。
 そしてそのコメント欄に、『女優の千草マリアさんのエッセイで知りました』と補足を書いて送信した。その一言で通じるものがあると思う。
 そしたら即座に確認の電話。携帯電話がフルートの音色を奏でるような女声であった。
「北原沙菜さん、お一人で、九月十四日から十七日までの三泊でよろしいですね?」
 聞き惚れる甘い声。ぼーっとする。沙菜は息さえ苦しくなった。
「あ、はい、それで結構です、よろしくお願いします」
「うふふ、これはご丁寧にどうも。素敵なお方のようで嬉しいですわよ。かしこまりました、ご予約は承りましたので当日はどうぞお気をつけられて。山道もございますのでね」
「わかりました、ありがとうございます。では当日・・」

 電話を切って、そのとたんに胸が高鳴る。
 素敵なお方のようでというくだりに、あなたを想像しています・・といったニュアンスを感じた沙菜。自分のことよりむしろ素敵な同性の愛のカタチがどういうものか、そのことへの興味が息を乱してゾクゾクしていた。

 こんな気持ちははじめてよ・・体が反応しだしてる・・。
 私は無色だったはず・・沙菜は戸惑う。