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人として死す(終話)


  そのとき早苗はダフネと二人で食品プラントを視察していた。
  地下にひろがるその場所は、ファームというより、まさしく食の生産工場。食用ワーム、食用ウジ、食用ゴキブリ、カエルやネズミまで繁殖力旺盛な動物性蛋白源を育て、水耕栽培の野菜、茸の類までが整然と並ぶ最先端の育成施設。
  そしてそれらの餌や肥料に、処理された者たちの肉体が再利用されている。  今後ますますこうしたプラントは拡張されていくだろう。五百万人の命を支える食のため、そうしなければ維持できない。人一人が必要とする酸素や水も数百人数千人ともなれば膨大な量となる。ムーンシップの旅は地獄への旅立ち。そのほんの一部がいまこうして形となった。

  早苗は事実を公表し、そんな早苗を守ったのはダフネであった。イゾルデもそうだ。生殖実験で産まれた女児が十五歳になったとき、イゾルデにとっても残酷な実行のときが来る。片やグループにバージンのまま凍結精子を植えて妊娠させ、片やグループには、月で生まれた男児の精子を植えていく。凍結精子は原種の人類から採取したもの。月で生まれ育った男児の精子は第二世代のものであり、遺伝子の変異を監視していかなければならないからだ。
  早苗とイゾルデ、二人の女医を、ダフネは何としても守ろうとする。地球の意思であることよりも、人として、二人の苦悩はよくわかる。

 「隔世の感だわ」
  事故に備えて区画ごとに気密されるプラントを見渡して早苗が言うと、五十代となって建設現場をはずされ、軽労働に転用された女が笑う。
 「これでも三十万人規模なんですよ。まだまだこれから」
  月へと送られた最初の頃からしばらくは、食料といえば地球からの補充であって、レトルト食品、缶詰、乾燥食品、そして栄養剤しかなかったものだ。月面地下にこれほどの牧場と農場ができるなどとは想像すらしていない。
 「それから先生、一言いいですか?」
 「もちろんいいわよ、どうぞ」
 「みんなわかってますからね、ご自分を責めないで」
 「ありがとう。どうしても地球のモラルから離れられないのよ。私は死神、そう思ってしまうんです」
  そばにいてダフネが言う。
 「そうじゃない。そのために送られた私の責務を背負ってくださる。早苗さんを尊敬するわ、なんて強い人なのかって」
  表面上は平静でいられても心はもがき苦しんでいる。早苗やイゾルデの苦悩をわからない者はいない。消されていく同志に手を合わせながら、月面の皆は痛みを共有して生きていた。

  しかし早苗もイゾルデも独りのときには泣いてしまう。泣き腫らした眸はごまかせない。それだけに皆は情を寄せる。人体の再利用に造反する者などいなかったし、自分もやがてはそうなると覚悟ができて、むしろさばさば生きていける。
  地球のそれとは違うムーンシップに生きる人類の文明が、そうしてつくられていくのだろう。

  核廃棄船の帰還まで、残り四年と余月。廃棄船はすでに動力部の故障でUターン。太陽の引力に引き戻されて月への進路をたどっていた。そしてそれは地球上の観測施設でももちろん探知されていて、地球や月に近づくようなら迎撃せよと命じられていたのである。
  反旗を翻すのはそのときだ。地球の意思に逆らえば軍が送られ、デトレフ部隊は戦わなければならなくなる。送り込まれたスパイたちも動き出す。月面上で内乱となるのは明白かと思われた。
 「とりわけ残り一年をきってからの人員補充に気をつけなければならないだろう。輸送船を偽った軍船であることが考えられるからね」
  デトレフのそんな言葉にうなずきながら海老沢は言った。
 「そのとき民衆がどちらにつくかだ。それで決めてもいい気がする」
  月面車ムーンカーゴにデトレフと海老沢の二人きり。
  デトレフは言う。
 「民衆ね。月でその言葉を使おうとは思わなかった。月のことは月に任せろでどこまで押し通せるか。民衆と言うならそれも正しい選択さ。皆が存続を望むなら我々が消えるだけ。じきに六十五だぜ。もはや余生よ」
  六十二歳となった海老沢はちょっと苦笑してうなずいた。判断の基準は地球にはない。月面の皆の想い。最後の最後で二人には迷いがあった。実行すれば人類は宇宙の塵となって消えていく。


 「マリンバもすっかりお婆ちゃんね」
 「そうですね、タイパンのクイーンのままなら私は化け物になっていた。マリンバとなれた幸せな人生でした」
 「何を言ってるの、マリンバはまだまだよ」
 「ほんとにそう思います。じきに六十七なんですよ。この歳になって体を求められる幸せなんてあり得ない。バートも様もそうですし、ボスだって抱いてくださる。
とんだマゾ婆さんです」
  スキンヘッド。陰毛さえも生涯拒んだマリンバの人生。
  そのとき留美も五十歳となっていて、病の床に伏せっていた。
  留美は懐かしむように言う。
 「ふふふ、そうかも知れない。私もいい人生だったわよ。LOWER社会に堕とされて、レイプまたレイプの日々。だけどそんな中から新しい私が生まれ、よくよく考えてみるとそれは牝にとっての至上の幸福。仲間たちに囲まれて、可哀想なマリンバを楽しんで。それまでの私のままならつまらない人生だったと思うのよ。文明は人の前にレールを敷くわ。私は私のレールに生きてきた」
 「縁起でもないですボス、生きてもらわなければ困ります」
 「どうかな。そろそろいいわって思えちゃう。あなたが殺した亮のところへ行きたいなってね。月は月でひどいことになってるみたい」
 「そうなんですか?」
 「よくはわからないけど地球を相手に戦争みたいよ。これ以上の無理難題は受け付けない。月のことは月に任せろ。月の民衆は反旗を翻した」

  そしてそれから半年経った冬のある日。
  地球のジョエルからの無線に、デトレフは声も発せず聞いている。
  留美が逝った。五十一歳。子宮がん。葬ってしまいたいLOWERたちに定期検診などというものはなく、不調を訴えたときには手遅れだった。
  デトレフは言った。
 「こちらは多少のトラブルはあったものの、民衆は我らについた。地球の横暴が許せない。酷使するだけ酷使して期限が過ぎれば処理される。囚人の女たちには子を産ませ、さらに産ませ、さらに産ませ、その子らにも生殖実験。論理的正論などクソくらえ。ふざけるな。人は尊厳をもって死んでいくべき。皆の想いは共通していた」
  ジョエルは言う。
 「いよいよ決行?」
 「そういうことだ。月面上のクラックは径およそ四十キロ、深さ二百メートルまでボーリングし、あとは核を仕掛けるだけ。まずは宇宙ステーションを攻撃する。そのタイミングでおまえたち同志が決起する。混乱した地球は月にかまっていられない。その間に核を仕掛け、時限装置のスイッチをオンとするだけ」
 「了解しました。やってやろうじゃありませんか」
 「宇宙ステーションの破壊が合図だ」
 「幸運を。これまでありがとうございました。ご一緒できて光栄です」
 「こちらこそ。さようならジョエル」

  超大型輸送船よりも巨大な核兵器廃棄船が、そのグレーの船体をぐいぐい月面へと近づけていた。人類最大の汚点である核兵器。それも戦略核クラスの水爆と原子爆弾を満載している。
  月の意思を図りかねた地球からの大型軍船が向かっている。
  デトレフは号令した。
 「レーザー砲を準備せよ、最初のターゲットは軍船、続いて宇宙ステーション。さらに続いて地球上の軍本部を攻撃する」
 「了解しました」
  このときデトレフは齢七十になろうとした。老体に鞭打った最期の反抗。それは部下たちも同様で、六十代、若くても五十代となっている。
  大型軍船には二千名の兵が乗り、もちろん高エネルギーレーザー砲を搭載していたのだが、戦艦搭載型であるためにレーザー砲の有効射程は三十万キロ。対して地上配備型の月面砲のそれは五十万キロ。パワーが違う。
 「一号砲、放て!」
  オレンジ色というより七色に眩く輝く光束が天空に浮く地球めがけて放射された。ターゲットは軍船。二千名の悲鳴が闇の空間に吸われて消え、続いて宇宙ステーション。地球の静止軌道上に浮く宇宙ステーションは巨大であり、そこには三万人を超える者たちが駐留している。
  デトレフは感情のない鬼となる。
 「二号砲だ、放て!」
  光となった殺人者が天空へと射出された。宇宙ステーションはあまりに巨大で弾薬庫も兼ねているため、青い地球のすぐそばで赤く輝く光の球となって現れる。
  続いて攻撃。かつてのアメリカ大陸、水没をまぬがれるテキサスの丘陵地帯に設けられた国連正規軍本部は、すなわち国連機能の集束体。
 「一号二号、同時に放て!」

  核廃棄船は、その悪魔的な船体にオレンジ色の逆噴射をかけ、静かに月面裏へと降りて行く。地球を攻撃したデトレフ部隊は即座に軍船で向かい、核爆弾を回収しては起爆装置をセット。月面地上のクラックに沿って準備されたボーリングホールへと仕掛けていく。
  最期の手段として軍船に水爆三発を置いたまま、あるだけの核をすべて用いる。径四十キロ、深さ二百メートル以上をブロックとして吹き飛ばす。それだけでも時間のかかる爆破準備。完了するまで数か月はかかってしまう。デトレフは最期の力を振り絞り、爆薬セットを見届けて倒れていった。
  ホスピタルモジュールのベッドの上で愛した早苗に看取られて眸を閉じる。
  このときダフネそのほか内乱で敵対した者たちは、かつて埋められた輸送船の居住モジュールに監禁されていたのだった。その数、およそ千名。
  早苗は眠るデトレフにやさしく言った。
 「さようならデトレフ、先に行ってて、私も後を追うからね。愛してる。あなたの子供が欲しかった」

  ムーンカフェ。
  いまではジョゼットカフェの面影はなく、二人はムーンアイへと逃れるように手を取り合って、テーブル越しに見つめ合っていたのだった。
  海老沢六十六歳、ジョゼット六十六歳。知り合っておよそ三十年の人生は夢のようだと話していた。この段階でムーンシップの旅立ちまで、さらに三十年を残している。
  海老沢は言った。
 「ムーンシップは完成しない。リーダーとしては心残りではあるがね」
 「これでいいのよ。やるべきことはすべてやったわ。あのエイリアンも人類を認めてくれるでしょう。どこかで道を誤った生命種に幕を引く。どうなるかは神のみぞ知るだわよ」
  そのとき早苗が肩を落としてやってくる。早苗に涙はなかった。
 「デトレフが逝ったわ。最期まで手を握り、眠るように死んでいった」
 「そうか。彼こそ偉大な男だったよ」
  海老沢が肩を抱くと、そのとき早苗は涙を溜めた。
 「行くの?」
 「うむ。そろそろ出ようかと話してたところ。早苗もおいで」
 「ううん、私はいい。デトレフといる。イゾルデも可哀想だし、みんなといる」

  核爆発が起きても月には空気がないから衝撃波は伝わらない。月面都市そのものを破壊する訳ではないから、まだしばらく生きてはいける。総人口およそ三十万人。それが人類最期の大地となる。
  海老沢と早苗、そしてジョゼットと早苗。それぞれが抱き合ってキスをして、揃って泣いて、別れのとき。海老沢とジョゼットはムーンカーゴに二人で乗り込み、ムーンアイを後にした。中性子星に遭遇する確率99%に変化はなかった。
  そのとき月面都市は半月の昼の側。ムーンカーゴに二人で乗り込み、果てのないドライブへと旅立った。月面には道路がかなり整備され、ムーンカーゴのパワーダウンの一瞬まで二人は愛の時間を楽しむことになる。
  核爆発は、いまから十時間後に迫っていて、二人はそれを見届けたい。岩盤ごと吹き飛ばされるさまを見届けられる月の丘の上に車を停めた。

 「月で孤独だった俺を救ってくれたのは君だった。出会えたことに感謝するよ」
 「私だって、それはそう。セックスフリーなんて思ってもみなかったから戸惑ったけど、HIGHLYの鎧を捨てたとき私は淫婦だったと自覚した。デトレフにも抱かれたし、クリフを泣かせて楽しんだ。女に生まれたことに感謝する。愛してるわ」 ジョゼットはそっと男の肩に寄り添って、胸に頬をあずけたまま顔を上げてキスを交わす。
  心に届く声がしたのはそんなとき。ジョゼットにしか聞こえないエイリアンの言葉であった。

 『地球人は滅びない。我らのもとで今度こそ穏やかに生きていく』

  ジョゼットは、その声が聞こえたことを海老沢に告げようとはしなかった。
 「どうしてるかなぁ早苗」
  かすかにささやき、ふたたび男の胸に抱かれていく。

 「これで楽になれるわ」
 「そうとも言えるけど、何のための妊娠だったのか何のための人生だったのか、私は彼女たちに顔向けできない」
 「それを言うなら私だって。多くの者たちに何のための死を与えたのか。私たちはいずれにせよ悪魔です」
  早苗の部屋で二人は裸身をからめていた。残り数時間、残り数分。月では音は地中を伝わり地鳴りとなって襲ってくる。激震が襲うことも予想できた。
  そのとき二人は性の悦びの中にいた。人生最後の快楽の中にいて、無我夢中で死んでいきたいと考えていた。

  地球上ではジョエル以下わずかな反乱軍が正規軍に包囲され、最期の戦いを挑んでいた。ところがだ。絶体絶命であったにもかかわらず、敵兵が退いていく。月の異変を感知したということか。ジョエルは空を見上げたが、あいにく今日は夜の月。夕刻では月はなかった。
 「終わったのか、どうなのか」
  問いかけても答えはない。

  破滅への核爆発は思惑通りに岩盤を吹き飛ばし、巨大なブロックとして地球滅亡の使者を宇宙空間へと放っていた。宇宙空間へ出た岩盤は地球の引力に捉えられ、大小合わせた隕石群となって降り注ぐ。
  ムーンカーゴごと振り回されるような地震が起き、そのフロントウインドウに浮き上がる岩盤を目にしたとき、海老沢はジョゼットをしっかり抱いて眸を閉じた。
  
  激震は月面都市に恐ろしい地鳴りを伝え、早苗とイゾルデは全裸で抱き合ったままベッドから転がり落ちていた。
 「やったわ、ついにおしまいよ」
 「そうならいいけど。結末は神のみぞ知るだわ」
 「余生よね、ほんとに余生。月面都市の機能が失われるまでしっかり生きていたいもの」
 「地球はパニックですよね?」
 「当然の報いです。潔く終焉を受け入れることができていれば幸せな七十年となったはずなのに。私たちに残されたわずかな時間、私たちは最高に幸せよ」
  ベッドから転げ落ち、そのままフロアでもつれ合って、貪り合った。


  月面の凹凸をものともしないストロークの長いサスペンションを持つ
 ムーンカーゴが横倒しになるのではないかと思えるほどの激震。
  隣りのジョゼットを抱き締めながら、そのときの私は一瞬意識を失った
 ように感じていたのかも知れなかった。

  ほんのひととき断ち切られた意識が戻りかけたとき、ムーンカーゴの
 フロントウインドウに想像を超えた巨大な岩盤が浮遊していて、
  私は地球の最期を確信しながら、どういうわけか、突如として香る
 ジョゼットの女の匂いに、くらくらする性欲を覚えていたのだ。

  人生の最期に発する女の匂い。私はジョゼットを見つめ、涙に揺れる
 ジョゼットの二つの瞳が私を見つめる。
  この人に出会えた人生がいま終わる。そう思うと不思議な達成感に
 支配され、ジョゼットとともに逝ける至上の幸福に、ペニスは狂った
 ように勃起をはじめた。死が二人を分かつと言うが、私たちは分かつ
 ことなく死んでいく。愛しています女神様。女神の発する人生最後の
 牝の匂いに私は正常ではいられない。

  同時に私は父の面影をも追いかけた。地球外知的生命を探し続け、
  狂人と言われようが、どうだろうが、命をかけた父親が誇らしく思え、
  エイリアンは確かにいたよと墓前で言ってやりたい想いがこみ上げる。
  父は正しかった。さすが父だと唸るような気分になる。

  感情は失せていた。意識が白く、それなのにジョゼットの匂いと父の
 面影だけがリアルなものとして迫ってきている。
  月面でのカーセックス。まあそんなところだろうが、人生の最期を
 体をつなげて迎えていく、それはきっと私と女神の結婚式だったの
 だろう。総身震えて射精をし、総身震えてジョゼットは受け取って、
  それから二人で、黒い空に浮遊して去って行くいくつもの巨大な
 岩盤を見送った。
  月を揺るがす核爆発は、あるいは月の軌道を変えてしまい、月その
 ものが地球に落下するかも知れない。そうなれば月と地球は最期に
 寄り添い消えていける。

  しかし地球の最期をこの目で見たいとは思わなかった。青い星が
 死んでいくのは耐えられない。宇宙ステーションという中継点が壊さ
 れて、地球と月は長く寄り添った蜜月を脱して分断された。
  月面都市の余命も、おそらく数か月。地球の滅亡はさらに早くやって
 きて、人類は宇宙の塵となって消えていく。

  けれどそれでも私はこのとき、人類は心から悔い改め、一縷の望みに
 かけて欲しいという想いがなかったわけではない。中性子星をスルー
 できる確率は1%残されている。

  地球に言ってやりたくなった。月の怒りを受け取るがいい!

  私はジョゼットという女神と微笑みを交わしつつ、親友の形見となった
 軍用銃をムーンカーゴのフロントウインドウに向けておき、いよいよ
 最期のキスの途中で引き金を引いていた。

  六十六年の幸せな人生だった。


 TIMES UP 完