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 存続の掟(二八話)


  月面都市に、やがては冷酷で非人間的なルールができていくことは避けられない。いまはまだ地球からの補給もあって維持できているものも、ムーンシップが旅立ち補給が断たれると、より厳格なルールを適用しなければならなくなる。
  食料そのほか生命維持に欠かせないもののすべてに限りがあり、無駄が一切許されない。五百万人を乗せて旅立つムーンシップには、ほどなく無数の子孫が誕生し、新しい命を生かす一方で処理しなければならない者たちが生まれてくるだろう。
  都市を拡張しながら旅をするとしても、老いて働けなくなった者たちをどうするか。閉鎖的な環境の中で精神に異常をきたす者、犯罪者をどうするか。蛋白源の確保は食用ミミズや昆虫、せいぜい小動物に頼らざるを得なくなり、そこが不足すると健全な肉体の育成に支障をきたす。
  歳月は思うよりも早く、いま月にいる者たちだけでも、すでに現場作業が辛くなった熟年者が増えてきている。事故があって怪我でもすれば、ただ衣食住を浪費するだけの不要な存在と成り下がる。
  これからの命のために不要を間引く作業がいる。
  さらにそうした者たちは栄養源として再利用されていく。
  地球上ではあり得ない蛮行におよぶ日が近づいてきているのだ。

  生殖実験の副産物とも言える胎盤を栄養素として利用する試みは成功している。いまのところは栄養剤という形に生まれ変わるが、やがて、都市に不要となった人体が食肉となることは避けられない。ムーンシップがいかに整備されようと大型の家畜は存在しないし、太陽の恵みすらも失ってしまう。人類は宇宙空間の遭難者となる。そうした意味でも人類が営々と築き上げた文明は決定的な転換点を迎えることになるだろう。
  イゾルデは言った。
 「暗黙のうちに理解していて、だけど誰もそれを言わない。人生に有効期限をつくること。個人差を認めてしまうと不公平の元になり、そうなると暴動が起きることも考えられる。いったい何歳で不要とするのか。それを誰が決めて、どうやって実行するのか。想像するだけで悪寒がするわ」
  月の保育所が完成した。とりあえずはかつて月面地下に埋められた大型輸送船を改造したもの。ホスピタルモジュールのそばに新しい建物が完成すれば保育所も移転する予定であった。
  二十床のベビーベッドで愛らしく元気に育つ子供たちを見渡しながら、イゾルデは心の闇につつまれていた。

  ともに見守る早苗が言った。
 「この子らへの責任を誰がとるのか」
  イゾルデが言う。
 「それは母となる女たちへの責任もね。一人の女性に何人子を産ませ、母としてリタイアした後どうするか。産まれた子らに、いくつになって次の生殖を課していくのか。凍結精子というマストがあるなら、男たち、産まれた男の子の性処理をどうするのか。次世代また次世代同士の交配は、いつかミュータントを生むでしょう。原種の人類を保っていかないとムーンシップの意味がなくなる」
  早苗がため息混じりに言う。
 「そうなるとクローンよね」
 「そういうこと。だからこんな旅には意味がない。ムーンシップに地球の神を乗せられるなら話は別ですけれど」
 「産まれた女子に、次はいつ?」
 「初潮があって安定する歳。十四か十五。男性という意味でバージンのまま精子を植えていくことになる。その次もその次も、それはムーンシップが旅立った後も永久にそれが続くの」
  そしてイゾルデは、産まれた我が子に母乳を与えるグループの一組の母子を見つめた。
 「授乳さえも実験なのよ。母乳で育つ子、ミルクで育つ子、そしてそれは母親のぬくもりを知って育つ子、そうではない子、精神的な成長までも見極めていかなければならないわ。囚人だからという理由で生体実験が許されていいはずがない」

  地球上と何ら変わらない微笑ましい母子の姿を見つめながらイゾルデに笑顔はなかった。
  早苗は言う。
 「その時代の人生でなくてよかった。私たちには、せめて逃げ場があるけれど」
  イゾルデは苦笑した。
 「そう思うわ。もしも私がその時代の医師だったら、とても正常ではいられない。合理的即物的モラルの中で育ったとき人は無慈悲なものとなる」
  このイゾルデがもっとも悲劇的な使命を背負わされた女性かもしれないと早苗は思い、白衣の背をそっと撫でてやっていた。
  しかしイゾルデは、そんなやさしさを振り切るように早苗の手から逃れると、さらに言った。
 「悪魔の実験がはじまるわ。その指示はいずれ来る」
  人生を何歳でリタイアさせ、栄養源としてどう再利用していくのか。ムーンシップ旅立ちまでには答えを出しておかなければならなかった。
  イゾルデはさらに憂う。
 「間接利用もあるでしょうし」
  食用ワームや食用ウジ、昆虫や小動物の餌として、また野菜を育てるときの肥料としてという意味だ。暗黙のうちに理解はしても、それを言える者は少ないだろうと思われる。

 「警察ですか?」
 「我々の下部組織と思えばいいだろう。人員はますます増え、わずか百名の軍では統制できなくなってくる」
 「なるほど、それでスパイをおびき出す?」
 「それもある。募れば寄ってくるだろう。監視する権限を与え、その者たちを我々で監視する」
  軍船での会話であった。デトレフと部下たち。
  デトレフは言った。
 「閉鎖された世界の中の造反は壊滅を意味する。反動分子は処刑する。そのような者に与える資源はないからな」
  軍人と言えど人。部下たちも一様に嬉しそうにはしていない。
  居住モジュール一棟に千名。およそ八万人で八十棟。新設されるモジュールが次々にできていて、そのほかさらにムーンアイもあれば、原発そのほかいくつもの施設に分散している。かつて地下に埋めた輸送船のほとんどは倉庫として活用され、そこにも大量の食料、薬品、資材から下着までが保管される。
  百人足らずの軍では監視しきれない。デトレフは警察とも言える組織を立ち上げようとした。
 「まあそういうことだ。貼り紙でもつくっておけばいいだろう」
 「了解です、ではさっそく」
  軍船を出たデトレフは海老沢を探したが、遠い現場に出ているらしく見当たらない。早苗は保育所、ジョゼットだけがカフェにいた。いまムーンアイは昼の側で観測不能。こういうときジョゼットはターニャと二人でカフェで働く。

  ムーンカフェは非番の者たちで混んでいた。作業はもちろん交代制だ。カウンターを合わせて八十席程度。このカフェもさらなる増築が必要となるだろう。
 「さっきイゾルデがちょっと覗いて」
  と言いながらジョゼットは満席のカウンターを気にし、微妙な目配せでムーンアイへとデトレフを誘うのだった。ターニャが残ってカフェをみる。
  月面望遠鏡のコントロールルームは、部分的なブロンズガラスから太陽光線を染み込ませ、明かりがなくても充分だった。大きなモニタの置かれるデスクとは別の白いテーブルに二人で向き合う。
 「可哀想にイゾルデ」
  その一言でおおよそがうかがえた。デトレフは眸でうなずき、ジョゼットの白い手をそっと握った。
  デトレフが言う。
 「そのうち指示があるだろう」
 「まだ来ない?」
 「いまのところはないね。しかし時間の問題さ。科学的正論ではあっても許せなくなる」
 「ムーンシップは悪魔の船になるって言って落ち込んでたわ、イゾルデ」
 「どだい無理な話だよ。年齢で線引きできないことがわかっていて、それでもルールをつくらなければならない。未来の軍はそれを強制し、反抗すればこれ幸いと葬っていく。ふざけるなと言ってやりたいが論理的はしかたがないこと」
 「それはそうでも私たちって何様なのよ。ご都合で妊娠させ、古くなったという理由で殺して食料? 畜生にも劣る行いだわ」
 「海老沢も言っていたが、俺もさすがに無理がきかなくなった。五年後十年後ならましてそうだ。食料の確保が急務。いつまでも補充に頼っていては地球の家畜に成り下がると海老沢が言っている」
 「わかるけど、それにはまだ時間がかかる。ライフラインの整備が先決」

  と、そのとき、思いのほか早く海老沢が戻り、ムーンアイへとやってくる。その面色を一目見て二人は眸を見合わせた。海老沢の瞳が輝いていたからだ。
  ジョゼットが言った。
 「どうしたの? 笑いを噛み殺してるみたいよ?」
 「大地にクラックが見つかった。いま地盤調査をさせている」
  デトレフも眸を丸くする。
 「大規模なものか?」
 「ああ、かなりなものでね、亀裂は地平線までのびている」
  月にも地震はあり、月震と言う。昼夜で二百八十度にもなる寒暖差と、地球の潮汐力との両方で大地が歪み地震を引き起こすもの。
  月は楕円を描いて地球の周りを周回している。地球に近いときでおよそ三十五万キロ、遠いときでおよそ四十万キロ。すなわち地球から受ける引力の差が生まれ、それだけ大地が歪むということ。大地が歪めば裂け目ができても不思議ではない。
  海老沢は言った。
 「問題はクラックの深さなんだが、地表のそれは少なく見積もっても径百キロはありそうだった。クラックが深部にまで届いているなら・・ふふふ」
  岩盤の亀裂にありったけの核兵器を埋め込んで爆破させれば、球体から岩盤を巨大なブロックとして引き剥がし、地球に落下させることができる。
  恐竜そのほか生命の大多数を絶滅に追いやった隕石の大きさは、それでも直径十キロ~十五キロほどのサイズであったと言われている。
  海老沢は言った。
 「径二十キロは欲しいところ。海面の上昇具合からしても、それだけあれば地球はおしまい。それより小さなものでも雨あられと落下すればそれでもいい」
  人類滅亡のプランが決まった。

  MC5-L9、イゾルデの部屋は静かな涙に満ちていた。
  控え目なノックがしたのは寝入る前の時刻のこと。戸口に立ったイゾルデは淡いピンクの紙の下着。
 「はい?」
 「デトレフです、いいですか?」
 「あ、はい、しばらくお待ちを」
  月面に送られて一年半が過ぎていて、その間イゾルデは軍部の誰とも関係を持っていなかった。イゾルデにとって軍は恐怖。地球上で暴虐の限りをつくす軍政の怖さを知っていたからだ。ましてデトレフは月面軍の司令官。歳も離れている。
  イゾルデはシルバーメタリックのスペーススーツを着直して、寝乱れたベッドを折りたたみ、それからドアロックを解除した。
  デトレフは大きく逞しい。スペーススーツの胸板が恐ろしいほど。どきどきしていた。しかしデトレフは一目で泣き顔を見破って、やさしく微笑む。
  イゾルデは言った。
 「地球から指示でもありました?」
 「いや、そうじゃなく。それはまだない」
  ほっとする素振りでイゾルデの重圧がうかがえる。
 「男としてやってきた、それだけさ」
 「ぁ、はい」
  そうではあるまい。デトレフと早苗やジョゼットの仲は聞かされていたし、気づかってくれているのはわかっている。
  そしてまた今夜のデトレフにとって、この女がスパイであるのかどうなのか、そんなこともどうでもよかった。
 「子供たちに罪はない。母親たちにも罪はない。そしてイゾルデ」
 「はい?」
 「君にも罪はないんだよ。もっとも苦しい任務を志願した君を尊敬する」

  デトレフの眸を見つめるイゾルデの瞳が見る間に水没して涙に揺れる。そっと開かれた強い腕の引力にイゾルデは引きつけられて胸に飛び込み、精悍な顔を見つめて濡れる瞼をそっと閉じた。
  見え透いた言葉のないやさしいキス。深くなって舌がからみ、イゾルデは全身の力が抜けていくのを感じていた。
  イゾルデは脱がされるまま。デトレフもされるがまま。やさしく裸身が重なって静かにつながるセックス。イゾルデは溶けるように眠っていった。月へ送られてはじめて穏やかな気持ちで眠りにつけたイゾルデだった。

  翌日の昼過ぎになり、さっそく募集定員いっぱいの五十名がムーンカフェに集められた。男が三十九名、女が十一名。デトレフ以下五名の兵員たちと向き合った。
  デトレフが言う。
 「警察というより監視のためと理解してほしい。軍の下でということでなく人員すべてのガードマンとして見つめてくれたまえ。行動は二人一組。武器など不要としたいのだが警棒程度は必要となるかも知れない。何かあれば軍の誰かに真実を報告する。軍船への立ち入りも必要ならば許可するが、辛い立場になることもあると理解しておいてほしい。反動分子を生かしておく余裕は月にはない。そういう意味でなら警察よりも軍に近い存在だ」
  志願した者たちは、上は四十代から下は二十代の半ばまで。それぞれが真剣な面色で聞いている。
  若い女の一人が問うた。
 「質問はよろしいですか?」
 「うむ、何だね?」
 「もしも現場で何かがあって報告する余裕のないときはどうすればよろしいのでしょう? たとえば不審なシーンを目撃したとか?」
  デトレフはその若い女にちょっとうなずき、志願者全員を見渡した。
 「この計画の意味を考えて行動することだ。ムーシップ完成のため、そして旅立つときのため。取り除くべき者はいたしかたない。その場で取り押さえ、事後こちらで調査する。我々は人類の未来のために生きていると心に刻んで行動すればいいだろう」
  この中にスパイが紛れ込んでいる。月に送られて間のない者たちの中にいるとは言い切れない。すでに潜り込んでいる者もいるとみなければならなかった。それもこれもを含んだ上で、あえてデトレフは放任しようと考えた。
  腰に巻くベルトと電気ショックを与える警棒が支給されて散開した。

  その頃また海老沢は各セクションのリーダーたちに指示を出す。
 「言うまでもなく月でのライフラインとは命綱そのもの。居住モジュールに優先してそちらをさらに拡充したい。月で働く皆に安息をもたらす基本となる食料生産関連、オフタイムを過ごせる施設はムーンカフェの拡張からはじめたいし、子供らの保育所そのほかホスピタルモジュールの付帯施設も早急に整備したい。いま月にいる者たちが不幸では話にならない。地球のそれのように月には月で完結する人間らしい環境がいるからね」
  ハードを受け持つセクションからの質問。
 「製鉄それに樹脂生産、ムーンカーゴの増産そのほか、ハード部分も足りませんが?」
  海老沢は応じた。
 「居住モジュールも含め、それらと並行してということだが、いましばらくは人間周りの設備が優先さ。人員が疲弊しては結局のところ進まない」
  皆は一様にうなずいてそれぞれの持ち場へと散っていく。

  そのホスピタルモジュールで。
  早苗が受け持つ一般診療とイゾルデの産婦人科は基本的には別室であり、地下に埋められた輸送船を改造した新生児室とも言える区画は、その母親二十人の個室を含めてイゾルデが担当する区分に続くスペースだった。
  その接点となる部分に守衛室が設けられ、それまでは軍の管理下にあったのだが、今日から女性の警備員が二人常駐することとなっていた。女たちはどちらもが三十代のベテランで、早苗との付き合いも古く信頼できる相手。
  生殖実験に臨む母親たちは囚人であり、地球上でLOWER社会に落とされる者たちばかりが送られてきている。それぞれに与えられる個室も、部屋とは名ばかりの牢獄のようなもの。第一子を出産し体を休める時期のいまは、全裸に紙のネグリジェが与えられ、母乳で育てるグループでなくとも新生児室を覗けるようにされている。本来ならば施錠される牢獄なのだが、イゾルデがそれを解放した。
  月に送られた女たちのほとんどは地球の終焉を知らないまま連れて来られ、生体実験としての妊娠だと当初は思っていたのだが、それもイゾルデは隠さず真実を話し、納得させた上で精子を植えて妊娠させた。

  しかし、その先に問題があった。母乳で育てるグループとミルクで育てるグループに分けられたことで、論理的にどうであろうが納得できない母親たちが生まれてしまう。軍管轄であれば声も出せない。しかし警備役のしかも女性ということで不満が声となって出はじめる。
  回診に来たイゾルデは言う。
 「聞き役になってあげて。私だってそのつもりですけれど、実験の張本人ですから言いにくいはずよ」
  監視する二人も女性。イゾルデの苦悩も理解でき、しかし一方、母親たちの怒りもわかる。人類のための女神などという見え透いた慰めは通用しない。それが母の情というものだ。そのときも母乳を与えることを許されない一人の母親が看守二人を相手に話し込んでいた。険悪とは言えなかったが、二人が慰め、母親は憤懣やるかたないといった面色。
  担当医のイゾルデが回診でやってきた。悪魔の試験官のようでもあり、その母親はじろりと睨んで沈黙した。
 「回診の時間です、順に回りますからお部屋に戻っていなさい」
  ふんっ。声にせずとも、そんな気持ちは素振りに表れ、看守二人はイゾルデに向かって苦笑するしかなかった。

  ルーム1から順に回診。肉体の様子を観察し、次の妊娠のタイミングを見極めていくのだが、問題の女はルーム5。囚人ということで母親たちに名前はなく、マザー何号と呼ばれている。立場をわきまえさせておくためにも表向きはそれも必要。わかっていてもイゾルデは辛い。
  ルーム5のドアを開けると、跳ね上げ式のベッドを倒してマザー5号は座る。
 「次は母乳で育てる側よ。それだけは言っておきます。脱いで寝なさい」
 「私たちはモルモットじゃないんだよ」
 「いいえモルモットのようなもの。でも幸せ」
 「え?」
 「月にいる女のすべてに妊娠は許されない。私もそうだし、みんなもそう」
  不満はあっても5号はそれで口を閉ざし、全裸となって横たわる。ベッドのそばへ椅子を引いて、イゾルデは白人の白い肢体を見回した。母となる女たちは皆と同様にショートヘヤー。イゾルデは5号の髪をそっと撫でるが、5号はそっぽを向いて反抗的。
 「許してバーバラ、次にはきっと」
 「嘘じゃないね?」
 「ええ約束よ。やがてあなたのような母親が四百万人生まれることになる。愛もなく即物的に妊娠させられ、でも我が子は可愛い。それが女。あなたの気持ちはよくわかる。でもねバーバラ」
 「わかってる。逆らえないもん。地球にいたらもっとひどいことになる。それもわかってる。だけど先生、乳汁が垂れているのに捨てなければならない母の無念を考えて」

  イゾルデは、診察のためにひろげられた股間を覗き、穏やかに回復した女性器にちょっとキスをした。名はバーバラ。バーバラは驚いたように顔を上げ、そのとき涙を溜める女医の姿に癒やされた気分となれた。
 「泣いてくれるの?」
 「私だって女です。私はねバーバラ、二十人の母親たちとその子らを生涯かけて愛していくわ。だけどそれとこれとは次元が違う。反抗されると処刑しなければならなくなる。わかってバーバラ。私と一緒に家族として暮らしてほしいの」
 「家族? 囚人じゃなく?」
 「そんなふうには思っていません。月の皆は家族です。次にはきっと母乳で育てる幸せをあげるから」
  バーバラは涙ぐんでイゾルデの手を握った。まだ若い二十歳そこそこの母親。その人生に何があったのかイゾルデは知らなかったし、知りたいとも思わない。
  イゾルデが言った。
 「月そのものが牢獄なのよ。地球へ向かって飛び立てる船は軍船だけ。この意味わかるでしょ」
  バーバラは言った。
 「ほんとなのね、地球が終わるって?」
 「99%の確率だそうよ。中性子星の強大な引力で太陽系そのものが壊されてしまうんです。ねえバーバラ」

  言いながらイゾルデは、子を産んで張る乳房をそっと揉んでやる。色素の増えた乳首から白い乳汁がにじみ出す。
 「ムーンシップに四百万の女性を乗せるとして移送に何年かかると思う? 輸送船には物資もあるから一隻千人がリミットだわ。五隻ついなだとしても五千人」
 「十年とか?」
 「もっとかも知れないし、そのときになってみないとわからない。仮に十年として考えたって旅立ちのときに女たちのタイミングを合わせておきたい。この意味わかるかしら?」
 「いえ。どういうことですか?」
 「旅立ちのときに妊娠可能な初期の娘を揃えたい。旅立ちの十年前に十七歳では困るってことなのよ」
 「七つかそこら?」
 「そうなるでしょうね。まだ幼い娘らを十年後の妊娠に備えて積み込んでいく。旅立ち前の便ならば十七歳でもかまわない。それって牧場の発想よ。とても人間のやることとは思えない。まだあるわ。私はいま三十歳。旅立ちのときに老人は不要であり、それを地球へ送り返す無駄をしている余裕はない。あなたもそうだし、いま月にいる人々も皆そうだわ」
 「犠牲になる?」
 「だから私たちは月面人なの。荒廃する地球から離れていられる幸せを謳歌して死んでいきたい。いまちょっと考えてることがあるのよね」
 「それは?」
 「二人目の出産の後、期間を区切って避妊薬を与えるつもり。月に男は大勢いるわ。恋愛しましょ」

  バーバラは呆然として女医を見つめ、明るさの戻った眸で、やさしく乳房を揉んでくれる女医の手を笑って見ていた。