デトレフ中佐(二話)
月面に一千万都市を築くという当初のプランから人数を半減させる『ムーンシップ計画』への変更は、プランの縮小などではなく、まさに壮大な拡充を目指す根本からの見直しであった。
太陽系からの脱出。すなわち母星である地球からの補給を前提としない月への永住であり、食料はもちろん工業そのほか必要となるもののすべてを月にいながら完結させられる人工都市でなければならない。月を地球に改造するプロジェクトと言ってもよかっただろう。
電力ひとつを取り上げても、太陽のない暗黒空間を旅するときソーラー発電など使い物にならないとわかっていても、太陽系に留まるいま、まずはそこから拡充しなければならなかった。月面ではすべての設備が電力で保たれる。原発設備を建設するためにも、まず目先の電力確保が欠かせないということだ。
地球上で営々と築き上げてきたものをわずか五十年でフルコピーする。どう考えても無理な計画。しかし躊躇している時間はなかった。
まず必要となるものをリストアップ。地球からの補給を待って作業にかかる。七隻目八隻目の超大型貨物宇宙船が到着し、物資を降ろすなり今度は中身を住居に改造して月面に埋めていく。一隻あたりのキャパシティは限られているから物資を増やせば人が減る。海老沢がジョゼットと出会ってからすでに数か月。八隻目が到着した時点で、それでも総勢わずか六千二百名。その程度の人員でどう急げというのか。プロジェクトリーダーである海老沢は苦しかった。月面での作業は宇宙服に頼らなければならないし地球上での作業よりもはるかに過酷。一人一日数時間が限界の作業ではいっこうに進まない。
「とても足りない。物資はひとまずいいとして次は人員のみの補給だろう」
月面に最初に着陸して地上に据えられた半球形のメインモジュール。屋外での作業から戻った海老沢は疲れ切った面色でジョゼットの肩に手を置いた。
あれからメインモジュールの一部が改造されて口径五メートルの反射望遠鏡が据えられた。呼び名はムーンアイ。まさに月の目。大気の揺らぎのない月面からの観測は地球の終焉をより確実に予言した。太陽の突き進む先に浮く中性子星の引力圏に捕らえられるまで、残された時間は七十二年と確定したのだ。
ジョゼットは言う。
「このところ思うのよ、私たちの世代には無関係なことなんだとね。人間なんてエゴの塊なんだなと思ってしまって。地球の終焉が避けられないとわかってもまるで他人事のようなんですもの」
「まったくだ、こんなところで何をやっているのかと思うことが時々あるよ。どうせ無関係なのなら人生の最期ぐらい地球でのほほんとしていたいと。皆が疲れ切って苛立ってきている。この上何を指示するのかと思うと苦しくてね」
と、そう話しているところへ、八隻目の貨物船とは別の小型の宇宙船でやってきた一人の男が海老沢を訪ね来て歩み寄る。
背が高く鍛えられた肉体がシルバーメタリックに輝く全身フィットのスペーススーツに漲っている。
ここは望遠鏡に付属する観測室。望遠鏡そのものは屋外に設置され、そのコントロールルームであった。天文学者のジョゼット、海老沢、そして訪ねて来た長身の白人男性の三人きり。その男は腰に高エネルギーレーザー銃を携えている。明らかに軍人だ。歳は海老沢よりも少し上の三十代の末あたりかと思われた。
「プロジェクトリーダーの海老沢さんとは?」
ドイツ語。オートマチックトランスレーターで会話が成り立つ。
「私ですが、あなたは?」
しかし男は、すぐそばにいる得体の知れない女へと探りの眸を向けた。内密な話のようだ。
海老沢は言った。
「こちらの女性なら問題ありません。国連から派遣された天文学者のジョゼットです。私たちは同志ですのでお気づかいは無用かと」
「そうですか。では早速」
男はうなずくと、なぜか面色を暗くして言うのだった。
「私はデトレフ・フランツ国連軍中佐、百名の部下とともにやってきました。まあ志願してやってきたクチですがね」
「志願してとは?」
「地球に失望したといったところです」
海老沢とジョゼットは顔を見合わせ、傍らの椅子に座ろうとするデトレフを見つめた。
デトレフが海老沢を見つめて言う。
「人員が足りないということで平時はあなた方の指示に従い、しかし有事には・・つまり我々は月面での警察だと思っていただいてかまわない。トラブルそれに人員を地球へ帰還させる際の判定と言えばいいのか」
おおよそ理解できた。トップシークレットのプロジェクトであるから地球へ戻って喋られては困るということだ。
ジョゼットが問うた。
「私たちを監視するために?」
デトレフはちょっとうなずき、たまりませんよとでも言うように首をわずかに左右に振った。
そして言う。
「月にいてご存じないかとは思いますが、地球ではいま人類史上かつてない愚行が行われようとしています」
ジョゼットが海老沢を見つめ、私は知らないと言うように目配せで告げるのだった。ジョゼットは国連配下。しかしそんなことは聞かされてはいなかった。
デトレフが言う。
「赤道あたりを境にノースランドとサウスランドを分けようとしている」
海老沢が問うた。
「何ですかそれは? ノースランドとサウスランド?」
デトレフはすまなそうにうなずいた。
「それで我々は志願して月へとやってきたというわけです。一定の知的レベルを備えた者たちをHIGHLY=ハイリーと称して北に集め、それ以外をLOWER=ローアーと称して南に集める。北は白人および知的階級。南はそれ以外ということになるわけですが」
海老沢は呆れ果てた。
「くだらない。まさしく愚行だ。人類の存続が危ぶまれるときに、それでもまだ肌の色で差別しようというのですか」
「まったくです、やりきれない。しかし私は軍人ですし下っ端ですから反論の声を持ちません。オゾン層の破壊で北半球がやられてしまった。紫外線に対して白い肌はもっとも弱い。ヨーロッパのほぼ全域、ロシアの全域それにカナダの全域。つまり白人が多いところが壊滅状態になってしまったということで。国連などもはや形だけ。白人に支配されてしまっている。世界人口に占める白人の比率は十五パーセントを割り込んだ。恥も外聞もなく生き残りを図っている。ムーンシップ計画で月に乗り込める五百万人の比率がどうなるかについても、もはや見えていると言えるでしょうね」
世界人口が七十五億だった当時で白人の比率はおよそ三十パーセント。アジア系がもっとも多く、次いで白人、次いでそれ以外ということになるのだった。
デトレフは言う。
「知的階層では人種は問わないと、名目上はそうなっているのですが本音は違う。最期のとき五百万人を選別するため、イザというときになって戦争はしたくない。そこでいますでに選り分けておくということです。五百万人はHIGHLYの中からさらに選りすぐる。LOWERに未来はない。しかし海老沢さん、どのみち救えるのは五百万人だけ。あなたならどうやって選別しますか?」
やりきれない思いはあっても、それを言われると返答できない。優秀かつ完全なる者だけにチャンスが与えられる。リクツでは確かにそうでも、いま地球上で選り分けておくことなのか?
デトレフは言う。
「地球上では太陽系の終焉を知らされてはいないのです。それでもなお生き残りに必死。必然的に弱い者は虐げられ、そうなると暴動がエスカレートしかねない。現実にいま争いだらけだ。LOWERから武器を取り上げ居住区を分けておかないと五十年後など明日のようなものですからね」
重苦しい沈黙。デトレフはさらに言う。
「私はいま三十九歳です。七十年先の末路など無関係なことなのでしょうが、人生のいちばんいい時期に地球は狂ってしまった。結婚もできず生きてきて、さらにいま軍人として人々を選別する役を負う。耐えられない。だから月へ行きたいと志願した。地球のことなど忘れてしまって、ここで未来を築いていたい。あなたがたの使命こそが残された希望なのです」
デトレフの苦悩は海老沢にもジョゼットにも理解できた。海老沢もジョゼットも生涯独身、地球上での幸せを諦めている。子孫を残したところで未来はあまりに残酷だった。
デトレフは言う。
「我々はこちらで人員を監視するのが使命ですが、それは有事の際のみ。人類のために働いて死にたいと皆そう思ってやってきたんだ」
海老沢はうなずいて手を差しのべ、デトレフと握手を交わし、そして言った。
「であるなら女性の警護をお願いしたい。いま女性の総数およそ三百。過酷な作業で疲れ切った男たちが狙っている」
デトレフは「哀しいことだ」と小声で言うと、うなずいた。
自由恋愛というわけにはいかない。圧倒的に男が多く、それを許すとほとんどの者があぶれてしまう。性への欲求をどうするかも月面での課題であった。同性愛以外にないのだから。
いまからおよそ五十年後、幸運にも月に乗り込めた五百万人のうちの八割が若い女性。凍結精子による強制受胎という非人間的な宿命に生きなければならなくなる。
人類もまた地球に生まれた獣の一種。このとき三人はそうした同じ想いにとらわれていた。
「もういいわ、よしましょう、そんな話」
ジョゼットが言い、男二人は曖昧に笑ってうなずいているしかなかった。
そしてその翌日。
メインモジュールに各作業の現場監督クラス三十数名が集められた。監督クラスといっても皆が若く、女性も二人混じっている。それぞれの作業の進捗状況を報告し合うことが主たる目的。加えてデトレフ以下、送られてきた国連軍の役割についても話されたのだが、そのときに女性たちへの不穏な動きのあることが告げられた。
集められた中に、現場のスタッフとは別に女医の雪村早苗が同席した。
月面での医療にあたる若き名医。もちろん旧日本国籍の女性である。シルバーメタリックのスペーススーツがよく似合う、三十歳の女医であった。
女性への性的暴行が危惧されるとして海老沢が語った後のこと、雪村が手を挙げた。
「異議ありとまでは申しませんが、それで軍に処罰させるのは残酷過ぎると思いますよ」
集まった皆が雪村を見つめ、海老沢が問うた。
「どういうことだね? じゃあ君は自由恋愛でいいと言うのか?」
雪村は皆を見渡し静かな声で言うのだった。
「そうしたモラルはかえって人を苦しめます。ここは月面、皆が命を賭して働いている中で、個人的な愛ではなくて人間愛が生まれてもおかしくはありません。極限の世界なんですよ。生存できるぎりぎりに生きていて、せめて女の悦びぐらいは感じていたいと、そう思う女がいても、それこそ人というものではありませんか。せめてぬくもりぐらいは欲しいと思う。苦労する男性のために何かをしてあげたいと思うのは女だからなんですよ。男性だって苦しむ女性を可愛がってやりたいと思うでしょうし」
海老沢もジョセットも、デトレフも、その場に居合わせる女たちも。皆がハッとするような面色となっている。
雪村は穏やかに問いかけた。
「いかに人類のためとはいっても、それは五十年後の話です。犠牲になるだけの人生ではあまりに惨いとは思われませんか」
海老沢は言う。
「しかし、それはそうでも個人的な愛でないなら、すなわち公娼を意味するのだよ。それをいま許可しろと言うのか?」
雪村は言う。
「ですからそうしたモラルは開かれた文明社会でのこと。かつてはどの国にもあったはずの公娼が禁じられ人権が尊重された。なるほど正しい。けれどいまこの状況で作業に疲れ苛立った者たちが、せめてもの救いとして女性に迫ることがあったとして、それをどう処罰するのでしょう? 見せしめの死刑でしょうか? そちらの方が非人間的だと思われませんか。満たされない生活では作業能率も低下するに決まっているし、女性の側にだって、せめて夢ぐらいはと思う人はいるはずです。もちろん強制したりはいたしません。それでもいいと思う者だけ。避妊は私の職務として行えばいいことで。月面にいる皆は若いのですよ海老沢さん」
ジョゼットが言った。
「では雪村さんはそれでいいと? 自ら抱かれる覚悟はおあり?」
雪村はちょっと笑ってうなずいた。
「寂しいの。それが私の本心です。何をするにも意欲も失せる。同性愛か自慰以外に許されない女の人生は苦しいものよ。ええ、私は許します。せめていまこのときを生の実感とともにありたいから」
ジョゼットは雪村に微笑んで海老沢に向かう。
「リーダーは海老沢さんです。私も幸村さんに同感するわ。私は何のために女となって生まれてきたの。寂しいという彼女の気持ちはよくわかる」
ジョゼットにまでそう言われ、しかしそれでも海老沢は即断できない。最先端プロジェクトのリーダーに人間の性生活までを決めろというのか。
デトレフがはじめて口を開いたのはそのときだった。
「人類の穢れのないこの月に死刑台をつくるぐらいならベッドルームの方がはるかにいい」
海老沢は、そんな言葉をたどるようにデトレフへと眸を向けた。地球でいま何が行われているのか。HIGHLYとLOWER。時代を逆行する蛮行が横行しようとしている。
海老沢は言った。
「わかった、雪村君にお任せしよう。女性たちとよく話し合って決めてくれ。哀しい。ただただ哀しい」
それは地球上での差別も含めて湧き上がる感情だった。
確かにこのままでは危うい。男たちが殺気立ってきている。しかし海老沢にとって女性もそうだとは思えなかった。性欲は愛の根源。リクツではない切羽詰まった欲情が渦巻いているのである。
ミーティングが終わってジョゼットは望遠鏡に向かい、少し遅れて海老沢がやってくる。
「雪村君には頭が下がるよ。女性は女神だ。それができるなら万事うまくいくだろう」
「そうだと思うわ。私はあなたが好きよ。抱かれたい。地球上ではポーズぐらいはするでしょうけど、ここでは違う。死と隣り合わせ。セックスも今日を生きる意味なんだから」
「そうだね。まさかの解決法に愕然としたよ。しかしそれは公娼とは違う。断じて違う。そのとき相手を愛して抱くんだ」
「そうよ、その通り。それを問題とするのなら旅立つ月は人間牧場。誰のものとも知れない精子を受け取って、でもね、女にとってそれでも産まれてくるのは可愛い子供なんですもん」
海老沢は、椅子に座って機器に向かうジョゼットの肩に手を置いて、そのとき振り向いて涙をためるジョゼットが愛おしく、はじめて唇を重ねたのだった。