lez520
二話 殺風景


  渋谷にあるK2のオフィスから京王井の頭線で吉祥寺、そこからJRで高円寺というのが河原明江の帰宅ルート。渋谷からJRで新宿をまわってもよかったのだが、K2を知ったきっかけとなった友人の乾沙菜(いぬい・さな)が吉祥寺に住んでいて、時間が合えば一緒に帰ることが多かった。そのルートで定期を買ったということだ。
  高円寺駅の南口を出てロータリーを斜めに突っ切り、少し歩くとチャコールグレーの煉瓦調にデザインされた四階建てのコンパクトなマンションが見えてくる。
  明江の部屋は、その305号。エレベーターを降りた左に各階ともに01号があり、そちらが東南の角ということで間取りは4LDK。エレベーターを挟んで並ぶ四戸はいずれも3LDKの住戸となっている。

  その金曜日、明江がマンションに帰り着いたのは深夜といってもいい十一時をすぎた時刻。エレベーターを降りて歩き出したところで、まるで帰りを待ち構えていたように、303号の玄関へのアルコーブから、ちょっとくすんだワインレッドのワンピースを着込んだ福地紀代美(ふくち・きよみ)が顔をだす。ワンレングスの黒髪は肩ほどまでの長さであったが、もしも髪がロングなら映画にでてくる幽霊そのもの。紀代美は三十歳であるらしい。158センチのスリムなボディ。両手をだらりと垂らしてぼーっと立つ姿だけでも寒気がする。細面の眸の色がとにかく暗い。結婚していて、けれども旦那に逃げられ、このマンションに取り残された。正式な離婚にいたっていないらしく、独り暮らしとなっても旦那の姓を名乗っている。
  くすんで暗い。まさにお化け。旦那に逃げられるはずだわよ・・さまざま噂が飛び交っていた。
  ここに住んで一年半ほどになる明江だったが、そんなお化けと話すのははじめてだったし、足音もさせずアルコーブから出てこられては、あやうく悲鳴をあげるところ。

 「あの女、またいじってた」
 「えっえっ?」
  挨拶もなく前置きもなく、暗い眸で見つめて言う紀代美。
 「ゴミよ。おたくの」
 「ああ、勝呂さんですよね」
 「許せない、陰湿な女だわ」
  湿り気たっぷりの紀代美に陰湿と言われると不思議な気分になってくる。相手はもちろん勝呂陽子(すぐろ・ようこ)。彼女もきっとあの女に何かされた。それで怒っているのだろうと明江は察した。
  そしてまたなんの脈絡もなく紀代美は言う。
 「呪ってみよう。おもしろいことになる」
 「呪う・・?」
  明江は絶句した。まがまがしい言葉と紀代美のムードが一致しすぎて寒気のした明江。いきなりなにを言いだすのやら。
 「来て」
 「えっえっ?」
 「お部屋。話そ」
  会話になっていない。言葉をブツ切りにして並べているだけ。後にも先にもはじめて話し、いきなり部屋へ誘われた。足がすくむほどの恐怖だったが、帰りを待ち構えて言い寄られ、ここで下手に断って敵が増えたらたまらない。同じ相手を敵視するなら紀代美は味方。断るべきでないと思った明江。
  しかしこのとき明江は仕事帰りでスカート姿。新妻らしくスカートでいること。だけどミニすぎてはいけない。そうしたことはオフィスにいるお目付役がいちいち言う。横倉浅里(よこくら・あさり)。オフィスで浅里、家に戻ればさらに面倒な勝呂陽子。女とはどうしてこうかと嫌気がさす明江だった。

  ところが誘われるままに玄関へ一歩入って、明江はハッとして紀代美の横顔を覗き見た。サンダルや靴がきっちり整理されて置かれていて玄関先がすっきりしている。ストーンタイルのフロアにもゴミひとつ散ってない。明るめのワインレッドの玄関マットもきっちり敷かれて曲がっていない。
  この人は几帳面な人。むしろ私の家の方が散らかっていると思ったとき、まんざら悪い人でもなさそうだと思ってしまう。それは明江の母親の口癖だった。玄関を見ればその家の内が知れる。思春期の頃、学校から戻ったときに靴を脱ぎ散らかして怒られたものだと明江は思った。
 「あがって」
 「はい、お言葉に甘えてお邪魔します、遅くにすみません」
  ローヒールのパンプスを脱ぎ、しゃがみ込んできっちり揃える。そんな明江の様子を紀代美は黙って見つめている。違う意味でも怖い。紀代美という女は細かなことに気づく人。迂闊なことはできないと思うのだった。

  あがってすぐ、少しの廊下。カウンター越しの対面キッチンのあるLDKは造りが同じ。部屋を覗いて明江はますます紀代美を見つめた。
  一見して殺風景。呪うなんて言葉とはほど遠い、すっきり整理された無機質な部屋。大理石調のシステムキッチンにも汚れはなく、ガスレンジに置かれたステンのケトルにも指紋ひとつついてはいない。リビングは十二畳ほどのスペースなのだが、フロアにダークグレーのカーペット、白の革張りソファ、それとセットの黒いローテーブル、そのほか白いリビングボード、黒いテレビ台に大きな液晶テレビと、そのどこを見ても乱れは一切感じられず、女性の部屋にありがちな可愛いものも一切ない。一見して殺風景と思える洗練されたインテリア。紀代美という女の素性を物語るようだった。
  明江は言った。
 「綺麗になさってますね。ウチなんてしっちゃかめっちゃかで恥ずかしいぐらいです」
  紀代美は声もなくちょっと笑って、深夜のゲストにソファをすすめた。
 「ジュース飲む?」
 「あ、はい、じゃあいただきます」
  またしても声もなく、にこりともせず、うなずくだけ。紀代美には言葉が足りない。これで普通に話してくれれば理想的な妻だと思う。

  紀代美がカウンターの向こうへまわって、その隙に明江は室内を見まわしたのだが、男の気配も一切ない。逃げたという旦那のこともそうだが、部屋に男を入れている形跡がないのである。紀代美は仕事をしていない。一日家に閉じこもり、いったい何をしてるのだろう。どうして暮らしていけるのか。持ち家だから家賃はなくても、よほどの資産家でもないかぎり働かないとやっていけないはずなのに。
  そのとき気配。ハッとして顔をあげると、いつの間にかテーブルにグラスが置かれてオレンジジュース。お菓子のカゴにカップケーキが積み上げられる。
  明江をロングソファに座らせておき、自分はローテーブルの下に敷かれた白いシャギーマットにじかに横座り。ミディ丈のワンピでもそうやって座ると白い腿まで露わとなる。スリムな紀代美。脚線も細くて肌艶がいい。こうして近くで見ると不健康な印象はしなかった。

  紀代美は言う。
 「わかってるわよ」
 「えっえっ?」
 「ここで私がどう思われて、あなたがどう感じているかもね。不気味、お化け、亭主に捨てられるはずだわよって」
  はじめての長文。会話になった言葉だった。どうやら人見知りが激しいようだ。
 「あなたは河原明江、明江と呼ぶから」
 「あ、ええ、どうぞ」
 「私は紀代美よ、紀代美と呼んでいいからね」
 「え・・あ、はい」
  声が暗いし面色も暗いのだけど、やさしくないわけじゃない。不思議な人。それが紀代美に対する印象だった。
 「見せたいものがある」
  と、そう言って、紀代美はフロアに座ったままの体をひねって、すぐ横に置かれたリビングボードの引き出しを開ける。そしてそのとき部屋着にしているミディ丈のワンピースが尻に張り付き、明江は眸を丸くした。
  ヒップラインにあるはずの下着のラインがまったくない。背中を見てもブラのくびれがまったくない。全裸でワンピ? そうとしか思えなかった。
  本能的な性への緊張。息を潜めていると紀代美は引き出しから何枚かの紙を取り出してテーブルに置くのだった。雑誌のページを破いたものだったりしたのだが。
 「これは・・」
 「あの女よ。ウチの郵便受けにときどきね」
  性器の修正されない裸の女の写真であり、しかもどれもがSM写真。明江は一瞬見て、しかし眸を反らしていた。とても正視できるものじゃない。

  紀代美が言う。
 「捨てられないでしょ、いろいろ」
 「ええ、私もやられました。下着を捨てたら物色されて自転車置き場に」
 「それ私も。捨てたパンティを郵便受けに入れられたり、こんな写真だったりね。私って独りで身を持てあましてるでしょ。飢えてるに決まってる。得体の知れない変態女って、そう言いたいに決まってる。ねちねちした眸で私の体を見まわしてるし、飢えてるのはおまえだろって言ってやりたい」
  明江はうなずいた。
  共通の敵、勝呂陽子は、一階上の401号、4LDKに住む主婦であり、三十八歳だったのだが、ちょっと老けて見えるタイプ。旦那はいても子供のない夫婦。社交的で明るい女なのだが、ソリが合わない相手に対して陰険そのもの。
  明江は言った。
 「越してきたときお世話になって、でもそのうちヘンな眸で見られるようになったものですから」
 「レズっぽくでしょ?」
 「そうなんですよ。ゴミを出せば物色されるし、ほかの奥様方にもいろいろ吹聴されてるしで嫌になって、それで私、その頃はまだ専業主婦だったから友だちの誘いにのってパートに出ることにしたんです」

  紀代美はうなずいて言う。
 「私もそうだった。主人がいた頃からねちねちした眸で見られたし、私って暗いから、悩みがあるなら打ち明けなさいって言ってくれたのはよかったけど、そのうち主人がいなくなって、部屋に入りたがってしょうがない。いっぺん入れたら迫られちゃって」
 「迫られた?」
 「熱を持つ据わった眸でジトッと見つめられ、私はもちろんはねつけた。そしたらどうよ、ゴミは漁るわ、こんな写真は入れられるわ。私も最初はゴミ袋だったのよ。袋が薄くて透けるから、わざわざ見せつけるようにSMの本なんかを外に向けて入れられる。まるで私が捨てたみたいに」
  ゴミ置き場には出入りしても他人が捨てた袋までは凝視しない。そんなことがあったなんてはじめて聞いた明江だった。

  話してみると、ごくあたりまえの感覚を持った女性。明江は味方ができたと思ったのだが、紀代美は言う。
 「レズでもいいのよ」
 「え?」
 「それを悪いこととは思わない。真心があるのなら嬉しいことだし」
 「まあ、それはそうかも」
  淡々と話す紀代美。やはりどこか、そこらの女性とは違う感じがする。
 「あの女は違う。あの女は怖い。どうしようもない淫乱なんだし相手かまわず誰でもいい。脈がありそうだと思うと言い寄ってくるからね」
 「脈がありそうって、じゃあ私もそんなふうに思われて?」
 「もちろんそうよ、明江はやさしいし可愛いから。私とはそこが違う。私の場合は暗くて変態的なところがある。レズだってSMだって私はいいのよ、お相手が心からそうしてくれるんだったら濡れちゃう体を持っている」
  こんどこそ息苦しくなってくる。ストレートと言えばいいのか、女同士の気安さもあって会話がナマになってくる。
 「あの女は陰湿、狡猾、傲慢、ありとあらゆる女の嫌なところを備えてる。一方的に想われたってダメなんだし、心には伝え方があるはずよ。あなたが好きを素振りの端々に見せてほしい。その先にベッドがあるなら私は歓迎。ところが違う。誘ってるんだから応えたらどうなのよみたいな傲慢さがたまらない。思うようにならないと嫌がらせは平気でするし」

  確かに。それはそうだと思いながらも、このとき明江は、まるで生気のないお化けのような存在だと思っていた紀代美の中に女の情念を感じ取り、人は付き合ってみないとわからないとつくづく思った。常識的で人一倍女らしい神経を持っていて、ただちょっとムードが暗い。
  明江は言った。
 「わかってくれる人って少ないですからね」
  試してみようとあえてそう言ったとき、紀代美の眸がキラキラ輝く。
  繊細すぎる。臆病すぎる。自分を隠していないと怖くてならない。そんなタイプの人ではないか。どうせわかってもらえないと諦めているような。旦那に逃げられてそうした負の感情が決定的なものとなってしまった。
  きっとそうだと明江は思う。
 「紀代美さんとはお友だちになれそうです」
 「ありがと。そう思ってくれるんだったら『さん』はいらない、呼び捨てて。私は三十」 と、自分の歳を言って眉を上げて尋ねる素振り。
 「二十八です」
 「うん。じゃあ歳も近いし他人行儀にしてほしくないんだよ」
 「はい、じゃあ紀代美って呼びますね」
 「そのほうが安心できる」
  思うよりずっといい人だったと、ほっとして、それだからか緊張の反動で明江は弛んだ。

 「紀代美っていま」
 「うん?」
 「ワンピの下」
  紀代美はちょっと微笑んで言う。
 「そうだよ裸。いつもそう。それが私の生き方だから」
 「生き方? どういうこと?」
 「私はあるものに守られてる。いまは明江がいるからあれですけど、お部屋の中ではいつも全裸。私を隠すと失礼ですから」
  明江は絶句して紀代美を見つめた。
 「言っても信じないと思うから。それで今日、明江の帰りを待ったのよ。明江がもし私を信じてくれるなら、あの女を懲らしめてやれるから。私だけでもできるけど、それでは効果は私に対してだけですからね。明江の噂もまわってる。もう許せない。だから明江次第なの。私を信じてくれるかしらって思ってね」
  意味が解せない。二人で呪うということなのか。

  紀代美は言った。
 「私は呪術を心得てるの。だけどそれは怖いこと。明江なら助けてくれると思ったから」
  マジ? こんどこそ貌を見る。真剣な面色だったし、やはりちょっと狂っているとは思うのだけど、言うことを聞いてみようとも思えてくる。紀代美には不思議な魅力がありそうだった。
 「よくわからないけど、どうすればいいの?」
 「こうすればいい」
  紀代美はそっと立って明江の目の前でワンピースを脱ぎ去った。白く細身の全裸が美しく、紀代美には陰毛がなかった。処理されていたのか、もともと無毛なのかはわからない。白いデルタに亀裂が覗き、くびれて張って、乳房はBサイズで乳首も小さい。
  明江はとっさに身を固くしたのだったが、だからビアンということでもなさそうだった。

  全裸となった紀代美は、またリビングボードの別の引き出しを開けて、何やら毛皮の切れ端のようなものを手にし、テーブルにそっと置く。褐色で毛足の長い獣の毛皮。毛に艶があって美しい。
 「これよ。これが私の守り神」
 「守り神?」
 「女王様とも言えるわね」
  ああダメだ、狂っている・・とは思うのだったが、独りだけ先に全裸となって見つめる眸が透き通って美しい。
 「私を信じて裸になって。このままお呼びすると女王様は明江を祟る。着衣は心を隠すもの。すべてを晒して平伏す者に女王様は寛容です。あの女を懲らしめてやりましょう、明江と私で」

 「わかりました。じゃあ先にシャワーさせて」
 「必要ない。それだって偽る行為よ、ポーズですもの。女王様はお怒りになられます」
  どうしていいかわからない。
  けれど帰宅を待ってまで呼んでくれた紀代美一人に恥をかかせるわけにはいかない。信じてみよう。そう思えた明江だった。
  今夜の明江は仕事帰りで黒のブラに黒のパンティ。紀代美より背が高く164センチ、ブラはCサイズ。ひとまわり大柄な明江。紀代美に見つめられていながらすべてを脱いで、長い髪に手ぐしを入れて撫でつけて、黒いローテーブルに置かれた不思議な毛皮に向かって裸の女二人で正座。レモンイエローのカーテンが閉ざされたリビングルーム。明かりを消して、カーテン越しに染み出す夜の薄明かり。
  支度がすむと紀代美は毛皮を両手に拝み取り、ふさふさした毛を一本爪先でつまみ上げて抜いてしまう。毛皮そのものはリビングボードの引き出しに戻してしまい、テーブルに茶色の毛が一本。テーブル下のシャギーマットに二人並んで正座をし、明かりが消えたことで、そこにあるのかないのかわからない一本の獣の毛に向き合った。

  紀代美が両手をついて体をたたみ、平伏して土下座をする。明江が真似る。そうしなければ怖いことが起こると、なぜか直感できたからだった。
 「空狐(くうこ)様、紀代美でございます、どうかお姿をお見せくださいませ。今宵はこのように明江もそばでお願いしております。私たちは心より隠すものなどございません。どうか私たちの願いをお聞き届けくださいますよう平伏してお願い申し上げます」
  この人、何を言ってるの? どういうこと? わからないのに怖くてならない。

  と、紀代美が言葉を言い終えたとたん、テーブルの上から青い光が射してくる。仄かな青い光の揺らぎが二人の女の裸身をくるむように照らしてくれる。
  ゾッと全身に寒気、いいや怖気。産毛が逆立ち、息が震え、平伏す裸身の底にある女の性花が本能的な恐怖を感じて疼きだす。
  そっと面を上げる紀代美。そっと面を上げる明江。
 「ああ、嘘よ、そんな・・」
 「空狐様ですよ。ごらんなさい、やさしい面色でごらんになっておいでです」

  まさか、そんなことが・・明江は紀代美が持つ神秘的な力を否定できなくなっていた。