lez520
  一話 ランチタイム


『黙って聞いて適当に応えてちょうだい』・・と、携帯への着信でした。

  電話を取るなり一方的な早口で、目下の私の儀礼的な言葉を遮った。
  相手は社長。小さなオフィスには耳があり、そのときあの嫌な女もいたことだし、悟られたくない話というわけで・・。

 「あー、はいはい。ごめん、いま仕事中なんだ、手短にね」
  そう言って周りの人たちにちょっと笑うと、案の定、あの嫌な女が嫌味な視線を向けている。
  それが横倉浅里(よこくら・あさり)、三十四歳。このオフィスのナンバーツー。陰湿、意地悪、自分中心でないと気がすまない女ですけど、どこにでもいるタイプとも言える人。個性的な美人と言えたかもしれないけれど。

  気にせず電話。
 『今日はランチ一人でしょ?』
 「うんうん、それでいいんじゃない?」
  私はわざとピントをずらして喋っていた。
 『道玄坂の左に楽器屋さんがあって角を入ったところにカフェがあるから、ちょっといらっしゃいな』
 「あらそ? なんだよソレ。はいはい、わかったわよ、今度また教えてあげるから。じゃあね」
  聞こえよがしというわけではありません。もちろん小声で話していても、なにしろオフィスが狭すぎる。午前中早くに外出した社長が外から電話を入れてきた。ランチタイムの三十分ほど前でした。

  渋谷。
  駅から公園通りへ向かう道すがら、脇道へそれたところにある九階建ての古いビルにオフィスがあります。五年前に起業したネット通販ベンチャー、K2。
  そのケイツーという社名もいかにもベンチャーぽくてスマートなんでしょうが、それにしたって社長の姓名、神白佳衣子(かみしろ・けいこ)の頭文字を並べただけ。社長も含めて社員たった五名。私はパート。ときどきバイトの子が一人いる。ひっくるめたって七人ばかり。
  社長は、もともと郊外にある団地に住んでいて、つまりは団地妻だったそうですが、その頃に同じ団地の奥様たちが手作りするバッグそのほか小物さまざま、いわゆるハンドメイド商品をネットに載せたのがはじまりだったと聞いている。そのうちサイトで扱う商品を募集して日本中から品物が送られてくるようになり、ちょうどその頃の離婚とも重なって会社組織にしたのだとか。
  そんな感じで五年やって会社はこの規模。社長という人には経営の才がなく、会社を大きくしようなんて野心もない。小さいながらもいまの規模で安定させたのはナンバーツーの手腕。それが横倉浅里。実質のボスとも言える人だから取り扱い注意なわけですよ。

  小洒落たカフェ。
  ランチタイムで街中は混んでいても、ここは珈琲専門店。パン料理がちょっとあるぐらいでしたがお昼なんて何でもよかった。
  私が覗くと社長は先に来ていて奥のボックスに座っている。ブレンド珈琲一杯千五百円。静かで落ち着けるはずの店。
 「明ちゃんあなたイジメられてるでしょ。ごめんね、私がよけいなこと言ったばかりに」
  私は河原明江(かわはら・あきえ)、二十八歳。
 「いいえ、それって私だけじゃないみたいですし。いろいろ聞きますから」
 「そうなのよ、困ったものだわ、悪い人じゃないんですけどね。明ちゃん辞めちゃうんじゃないかって心配で。せっかくウエブのわかる子が来てくれたのに」
 「いえいえ辞めるなんてそんな。私はパートなんだし沙菜もいますから」
  社員の一人、乾沙菜(いぬい・さな)、私よりひとつ上の二十九歳。私とは学生時代からのサイクリング仲間で、沙菜の紹介でK2を知った。私はかつてIT企業でウエブサイトの社内デザイナーをやっていました。通販サイトを外注せずにいじれる私だったんです。
  社長は気弱な眸を向けた。
 「そう? だといいけど、ほんとごめん」
  社長はやさしい性格というのか、おとなしくて気が弱く、ごく普通の主婦が何かの間違いで会社をはじめてしまったような人。企業を動かすタイプじゃない。
  私は言った。
 「女ばかりってむずかしいこともありますし前のところでもいろいろありましたから、気にしないようにしています」
 「そうなの? やっぱりあった?」
 「ありましたね、もちろん。私ってイジメやすいタイプみたいで」
 「そんなこともないでしょうけど、それにしたってちょっと・・」
  それきり社長は曖昧に笑っている。

  K2でパートしだして五か月たちます。パートといっても一時間おそく出勤するというだけで連日ラストまでのフル勤務ですから実質的には社員のようなもの。待遇もそれなりのものはもらっていました。
  私が入って一週間ほどして歓迎会のようなことがあり、その席で私はお箸をごくあたりまえに使いこなした。お座敷で食べる、かなり値の張る和食のお店。そのとき社長がちょっと口を滑らせたのです。
  お箸を綺麗に使う~美味しそうに食べる~育ちのいい素敵な新妻さんだこと~と、その程度の褒め言葉だったのに、あの女は気に入らない。

  社長バツイチを筆頭にウチには結婚で幸せになった女がいない。そんな思いもあるのでしょうし、アイツは箸さえまともに使えない。
  だけどアイツの敵意はそうしたものとは質が違った。
  社長は言った。
 「ひどいようなら言ってねって言いたいところですけれど、いまのウチがあるのはあの子の力。私一人じゃずるずるになるだけなんだし」
  それだけですか? 白状なさいよ社長さん、とは思いましたが、まさかそこまでは言えません。
 「いろいろあった人なのよ、元は舞台女優でね、ちょっと言えないようなひどいこともあったみたいで」
 「ええ、それなら少し」
 「あら聞いてる? 沙菜ちゃんから?」
  社長のそういうところが憎めないのですが、三十八歳にもなって子供だと思います。いまこの場で話の出所を名指ししてどうするのよって思ってしまう。
 「旦那は舞台の演出家なんですけど、ほとんど家にいないのよ。公演で飛び回っているでしょう」
  それも違った。旦那という男は、そこら中に女だらけのチャラチャラ野郎で、つまりは仮面の夫婦。そのぐらいのことは知っていました。
 「そんなこともあって性格が曲がっちゃったって本人もわかってる。少し大目に見てやって、お願いだから」
 「はい、ですから気にしないようにしてますので。でもストッキングの色までいちいち言われると癇に障るところもありますし、まあ・・」
  話すうちにムカついてくる。言わなければよかったとは思いましたが、社長らしくない彼女の物腰についつい私も弛んでしまった。

 「ウチを会社にしたことを後悔した時期があってね。私に経営なんて無理だもん。ちょうどその頃、浅里と出会って、一緒にやろうかってことになった」
 「そうらしいですね」
 「当時の私は離婚して精神的にもどん詰まり、浅里も似たようなものだった。お互い孤独にもがいていたの。それであるとき・・」
  と、彼女は上目使いに私を見つめて眉を上げて微笑みます。
 「気づいてるとは思うけど、私たちってそうだから、よけい言いにくくて、仕事のことでも任せっきりになっちゃうし」
  もういいわよ社長さん。アイツのことは横目に見ておき、あなたに免じて許してあげるとこのとき思った。
  社長と浅里はべたべたのビアンです。誰もが知っていて誰もが話題にしないこと。アイツは社長がほかの女を褒めると嫉妬する。それだけのことなんです。

  さらにビアンと言うならもう一組。奥山梨香(おくやま・りんか)、三十三歳。彼女は、かつては劇団にいたダンサーらしく、離婚するまではジャズダンスのインストラクターをやっていた。梨香もバツイチ。そしてその教え子に、まだ学生の坂田裕美(さかた・ゆみ)がいて、裕美はバイトでK2を覗いている。裕美はいま二十歳。芸大生でミュージカルダンサー志望。芸術畑だからか性にはオープン。バイトでヌードモデルを平気でやる子。梨香が性的ペットを呼び寄せたということです。

  さらにさらに、もう一人。女の愛憎どろどろのややこしいオフィスに、梅野はるかがやってきた。こちらは二十四歳、未婚で彼はいないと言いますが、性的に砕けた感じで、浅里が気にする素振りをしている。
  業績が伸びてくるとオフィスに女ばかりが増えていく。社長も浅里も梨香もビアンですから気になるわけです。
  どうでもいいや、かかわり合いになりたくない。嫌なアイツのことも社長が気にしてくれているとわかるとちょっとは気楽でいられそう。

  その日は金曜日。明日明後日と休み。定刻よりも少し早く社を出た私は、今日風邪で休んだ沙菜の部屋へと向かっていました。沙菜が休みだったからランチで私が一人になると社長は電話をくれたのです。
  私は新婚二年。主人は二つ歳上で、前の会社で社内恋愛。結婚して私が退いたということで。大企業を相手にするIT関連ベンチャーの企画開発セクションに所属して、技術のわかる営業として飛び回っている人ですから。
  昨日からまた出張でしばらくは戻って来ない。私たちの住まいは高円寺にあるマンションでしたが、主人がいないと独りきり。オフィスにいるより頭を抱えることがあったもので帰りたくない。沙菜は吉祥寺に住んでいて帰りに寄るにはちょうどよかった。
  十月中旬。今年は秋晴れが続かない。私は結婚でやめていましたが沙菜はバツイチ独身で子供なし。未婚に戻った彼女はサイクリング復活。急な雨で風邪をひいてしまったということで。

 「あらそう? 社長が気にしてくれてるんだ?」
  部屋を覗いてみると沙菜はもうすっかり元気。声が明るい。若い頃からスポーツで鍛えた体は強いもの。ちょっと熱っぽくて寝てはいても、さっと起きてお茶の支度をしてくれます。
 「だけどおもしろい会社だなって思うわよ。いわくつきの女ばかりでビアンの巣」
 「ほんとよね、あたしも含めて男には懲り懲りなんだし」
 「あら沙菜も?」
 「は? 違う違う、あたしはオトコよ、いまのクラブにいいのがいるの」
  サイクリングクラブのことです。
 「あそ? カッコいいんだ?」
 「むふふ」
 「あ、ばーかコノぉ、想像してんじゃないわよ。進んでる?」
 「こんど二人で走ろうって。いい人なんだわこれが」
 「キスとかは?」
 「まだ。そのうちそうなる」
 「はいはい。心配して来てバカくさくなってきた」
  オフィスにいて、まともなのは沙菜一人。学生の頃から仲良しでしたし、沙菜には幸せを見つけてほしいと思っていました。

  沙菜は言います。
 「加えて、はるかよね」
 「言える」
  梅野はるか。入社して一月ちょっと。こいつがまたルーズな感じで、浅里が手ぐすね引いて狙っている。
  沙菜は言った。
 「梨香と食事に行ったみたいよ」
 「そうなんだ? 浅里が狙ってるのに新たな火種か」
 「ところがそうでもないみたい。これがさあ、ふふふ」
  沙菜は呆れたというような面色で眉を上げてほくそ笑む。
 「どういうこと?」
 「ドMなんだって。行為そのものじゃなく、ほら、浅里ってちょっと怖いでしょ」
 「高圧的で」
 「そうそう。睨まれると怖いんだけど、お姉様って感じになって、まんざらでもないみたい。梨香はビアンだけどS女じゃないわ」
  そのとき私は、社長たる神白佳衣子はどうなのだろうと考えてしまいます。浅里はいかにもSっぽく、佳衣子はなすがままといったタイプ。
 「まさか社長もMってことはないでしょうね?」
 「あり得るわよそういうことも。だから浅里に頭が上がらないってこともある」
  私は眉を上げて沙菜を見た。
 「凄いところに誘ってくれたわよ、ふんっ」
  沙菜は他人事のように笑ってくれる。沙菜に誘われたからK2に入った私です。

  私は主人とのノーマルな日々に不満はなかった。平均的な女を生きて、結ばれて、子供がほしいと考えている。
  なのに私の周囲では、あっちもこっちも出戻り組で、ビアンべたべた、加えてMっぽい子が来ればどうなっていくのやら。
  さながら女子校の様相です。赤裸々が常。危険性の持ち主ばかりに囲まれてしまっている。危険なセックス。ゆえに危険『性』ということで。
  そして沙菜が話の向きを変えてきた。
 「こっちはともかく、そっちはどうなの? 相変わらず?」
  そのとき私は、首を横にちょっと振って、深いため息をついたと思う。

  私と主人が新居に選んだマンションのこと。高円寺にある四階建て全十七戸のコンパクトな物件で、戸建ての並ぶ低層住宅街とは路地を隔てた立地。築十年とそれほど古くはなかったし、チャコール煉瓦で造られた可愛いマンションだったのです。私はその305号。いまから一年半ほど前ですが、私の姉夫婦が暮らした家を譲ってもらった。姉の旦那はアメリカ人。向こうへ移住してしまったからです。
  都心型の設計で、一階にエントランスとビジタールームが造られて、その奥に住戸が二戸。そしてその階上にそれぞれ五戸ずつで全十七戸なんですが、その小さな空間にオフィスにいるより深刻な問題があったのです。
 「最悪だわ。旦那がいないと帰りたくない感じ」
 「あらま。いまでもゴミとか漁られる?」
 「どうなんだか。だけど捨てられなくて困るのよ」

  引っ越したとき、一階上の奥様によくしてもらった。勝呂(すぐろ)さん。最初のうちは遊びに行ったり来たりで交流はあったのですが、そうするうちにネトっとした眸の色が不気味に思えて距離を置きたくなったんです。明らかな性的誘惑。明らかなレズ視線。その頃の私は専業主婦で家にいて、それもあって沙菜に相談したところK2へ来ないかってことになる。
  よくしてあげたのに逃げたと思われ、それは憎しみに変わっていく。向こうは子供じゃありません。四十歳ぐらいでしょうか。何食わぬ顔で接していながら、ねちねち虐める。
  最初はゴミでした。一階裏にゴミ置き場がありますが、ゴミ袋が物色されて、捨てた私の下着が引っ張り出されてコンクリートフロアに晒されていた。主人との愛のために私を飾った赤いパンティ、ブラもあったし。
  まあいやらしい新妻だこと。夜な夜なあられもなく悶えてるみたいよ。なんて噂が回っていると別の人からそれとなく聞かされた。

  問題ありな、もう一人、福地(ふくち)さん。こちらはただただ不気味な女。同じ階の302号の住人ですが、彼女はいま三十歳であるらしく旦那に逃げられて取り残された女だとか。
  とにかく暗い。ひょろっとスリムで存在感がない感じ。たまに見かけてもにこりともせず、こちらが挨拶したって暗い眸でじっと見据えられ、黙ったままちょっと頭を下げて幽霊みたいに去って行く。いつも決まってミドル丈のワンピースを着込んでいて、ぼーっと陰が滲むように立っている。ワンレンの黒髪は肩ほどまでの長さですけど、もう少し長くしたらまさしく映画で見たお化けのよう。昼間でも廊下はそれほど明るくない。ばったりかち合うと、ヒッと喉に悲鳴がこもるほどのムードなのです。
  ただ、この福地さんという人は、私に嫌がらせをする勝呂さんとは犬猿の仲らしい。そういう意味では、敵の敵は味方と言えなくもないのですが。

  小さなマンションほど人間関係は微妙なもの。面倒にはかかわらないのが都会の生き方ですからね、なんとなく私だけが孤立してしまったような気にもなり、と言ってそう簡単に出るわけにもいかない。賃貸にしておけばよかったと思っても、若干三十歳の主人にすれば、その歳で持ち家ですから会社にいたって鼻も高いはずですし。
  沙菜の部屋でさんざん時間をのばしにのばし、しょうがないから帰ることにしたのですが、戻ってみるとあのお化けにでっくわす。
  四階建てでもエレベーターはちゃんとあり、降りたところは三階フロア。エレベーターの向こうに301号、エレベーターを挟んで部屋が住戸が四つ並ぶ造りですが、まるで私の帰りを待っていたように303号のドアへのアルコーブから、滲むように現れたワインレッドのワンピース。そのとき時刻は十一時で、もはや夜中。
  ゾッとして寒気がはしった私です。

  つっけんどんに彼女は言います。
 「あの女、またいじってた」
 「えっえっ?」
  挨拶もなくいきなり何だよ、とは思ったのですが。
 「ゴミよ、おたくの」
 「ああ、勝呂さんですよね」
 「許せない、陰湿な女だわ」
  あなただって充分湿ってますけどね、とは思いましたが、いままで声をかけてくれたことなんてありません。彼女もきっと何かされた。それで怒っているのだろうと思ったのです。
  そしたら彼女、私をじっと見据えて言う。
 「呪ってみよう。おもしろいことになる」
 「呪う・・?」

  おいおい何だよこのマンション。ホラーじゃんと思ったとたん、こんどこそ寒気がした私です。