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二二話 死の匂い


 壷郷の屋敷は決して大きなものではなかったが、武士の住まいとしての格式だけは備えていた。造られてからのほどよい歳月が木を枯れさせ、落ち着きに満ちているのだが、これほどの惨劇の後。邸内には血の匂いが濃く漂う。
  宗志郎も紅羽も黒羽も全身に返り血を浴びていて、さらに寺の側には十人の死骸。そちらは寺の側から放り込めばいいとして、壷郷の屋敷の側からは四人の死骸。家の中を引きずらないと地下へは降ろせない。その道筋に血が流れ、外戸を締め切っていては匂いを逃がせないのだが、冬の深夜に開け放っておけば不自然すぎる。邸内に吐き気をもよおすような死の匂いが満ちていた。

  床の間のある畳の大部屋に夜具をのべ、地下から救い出した三人の女たちを寝かせてやる。そのうち二人は大人の女で体には傷はなく、与える薬もなかったのだが、檻の中で倒れていた禿髪の娘については、全身に傷がひどいのと憔悴しきって命さえも危ういありさま。くノ一は薬を常に持ち歩く。素裸の娘に対して薬に長けた鷹羽がついて手当てをし、精のつく飲み薬も与えてやる。
  城務めの二人については寝かせたときに意識はあって、布団にくるまりあたたかくなったからか、気を失うように眠ってしまう。ところが檻の中にいた娘についてはぐったり気を失ったまま。体に薬を塗ってやり、飲み薬を口移しで飲ませてやってもぴくりとも動かない。顔色が死人の色。そして、歳の近い哀れな娘のそんな様子をお栗が暗く沈んで見守っている。

  家の中を見てきた鶴羽が部屋へとやってきて、呆然としている暗いお栗に言うのだった。
 「厨に米があるよ。握り飯ぐらいならできそうだ。風呂もいま沸かしてるから、すまないけどお栗はあたしと一緒に」
 「はい、あたしやります、姉様も少し休んで」
  鶴羽は相変わらず忍び装束。それは鷹羽もそうで、ここにいては着替えもない。宗志郎には男の着物があり、結い髪を下ろした男姿の紅羽黒羽にも男物の着物はある。こうなればしかたがない。くノ一二人も男姿になるしかない。明日には艶辰から着替えが届けられる。それまでの辛抱だった。

  さらに一人、母の柳を亡くした娘の葛。こちらは藤色の小袖姿。遠慮がちに部屋の隅に座っていて、けれども吹っ切れたようにさばさばした面色で、皆の動きを見守っていた。
  そんな大部屋へ、顔に浴びた返り血を手ぬぐいで落とし、血を浴びた袴を捨てた紅羽と黒羽がやってくる。袴に覆われる下はともかく、腰から上の着物にも返り血が飛び散っていたのだったが、二人ともに普段の面色に戻っていた。
  黒羽は部屋に入るなり、そのときちょうど立とうとしたお栗に微笑み、それから部屋の隅におとなしく座る葛へと目をやった。紅羽は可哀想な禿娘に寄り添ってやり、鷹羽に向かって言う。
 「助かりそうかい?」
  何とも言えないと鷹羽は首を傾げて目を伏せた。
 「薬は与えました。若い力が残っていればいいけれど」
  紅羽はうなずくと鷹羽の肩に手を置いて言う。
 「鷹も鶴も風呂にして。じきに沸くよ」
 「でも宗さんは?」
 「最後でいいって。向こうにいるよ。あたしらが看てるから行っといで。男の着物しか見当たらないけどね」
  横から鶴羽が言った。
 「厨に米があるから、お栗に握り飯でもって言ってたところ」
  部屋を出て行くお栗の背に目をやりながら紅羽が言った。
 「そうかい、あたしも手伝ってやりたいけどね、そこらじゅう血だらけだ」
  そんなやりとりを聞いていて、葛が静かに立ち上がる。
 「なら手伝う」
  紅羽も黒羽も葛を見たが、葛にもはや敵意はなかった。
  黒羽が言う。
 「母者のこと、我らは約束は守るから。死なば仏」
  葛はちょっとうなずいて部屋を出ていく。そのとき鷹羽も鶴羽も葛の思いはよくわかる。葛も風魔の血を受け継ぐ。母の邪視が哀れに思え、それだから付き従った。忍びは命じられて働くもの。好き好んでやったことではない。

  鷹羽と鶴羽は、姉様二人にその場を任せて部屋を出た。広い部屋に残ったのは紅羽黒羽に、布団に横たわる三人の女。
  しばらくして、川の字に並んで横たわる奥の一人が目を開けた。しかし紅羽も黒羽も気づかなかった。
  紅羽と黒羽が姉妹で話す。
 「これでともかく止められた」
 「ともかくはね。けどまだ終わっちゃいない」
 「許せない。女を虐げるなど許せない」
  そのときだった。
 「救われたのですね、わたくしたちは」
  紅羽黒羽が揃ってそちらへ目を向けた。
  横たわる女は顔を傾け、言うのだった。
 「わたくしは小夜と申します、大奥に務める下女、宿下がりでお城を出て襲われました。こなたは姜と申し、同じく城に務める下女」

  紅羽黒羽は顔を見合わせる。間にあった。城内で騒ぎとなればもはや抑えがきかなくなる。すんでのところで食い止められた。お栗がいてくれなければ大変なことになっていたと二人は思う。姉妹は揃って小夜のそばに座り直し、黒羽は手を取り、紅羽は頬をそっと撫でる。
  小夜は言う。
 「いかにも不覚。いきなり当て身、気づいたときには裸にされていたのです」
  紅羽が言う。
 「もういい、忘れることだよ。我らは悪を憎む者。とにかくいまは体を休めて」
 「はい、ありがとうございます、救われました」
  そして小夜はちょっと笑い、涙を溜めて、眠る目から涙が頬をつーっと伝う。

  眠ろうと目を閉じて、しかし小夜は毅然として言う。
 「武尊なる者の言葉を聞きました。あとさきよくはわかりませぬが、『弟は生真面目すぎる、このような好機はないというに武器も女も喜ばぬ』 すると壷郷なる者がこう申し『よもやのことがあってはならぬ。わかっておるとは思うが兄弟であっても油断はするな』 とまた武尊がこう申し『番頭に見張らせてありますゆえ間違いはござりませぬ。よもやのときには殺せと言ってあり』・・と」
  船問屋の船冨士だ。船冨士の真の主、つまり兄の方が武尊!
  黒羽が問うた。
 「確かなんだね? それが知れればすべてが片づく」
 「確かでございます、どうか根絶やしに」
 「うむ、わかった。すまぬな小夜さん、我らの力およばす探りきれていなかったこと。その旨確かに伝えるゆえ、くれぐれもこたびのことで己を責めることのないように」
  小夜は応えずただ泣いて、顔を横に向けるのだった。

 「ぅぅ、寒いよ、助けてぇ、もう嫌ぁ」

  かすかに呻く禿髪の娘。
  黒羽はとっさに姉と目を合わせ、さっと立って着物を脱ぐと、桜色の湯文字だけの裸となって娘の横へと滑り込む。助かってほしい。死なずに生きてほしい。
  抱きくるんで温めてやる黒羽。
 「可哀想に・・じきに仇はとってやる・・許さない・・」
  娘を抱いて背を撫で腕を撫で腿を撫で、禿髪の頭ごと顔を乳房に抱いてやる。

  その頃、厨の少し奥の風呂場では鷹羽と鶴羽が湯を浴びて、そこから少し離れた厨に、前掛けをしないお栗と葛が立っていた。
  二人には声もなく、互いに顔を見合わせない。
  化け物だった母親を打ち負かす邪視の持ち主。葛はいまだに信じられない。そしてそんな葛の胸中を察したようにお栗は言う。
 「あたしはジ様と一緒に暮らした、久鬼のジ様さ。親を殺され彷徨っていたらジ様に救われたんだ」
 「それで教えられたか」
 「違う。ジ様は教えてくれなかった。けど一緒に暮らすうち、わかるようになったんだ。江戸で柳が目を使った。ジ様は感じ、やめさせようと無理をして死んでしまった。柳のことが許せない。それでまたそのためにあたしを救ってくれた皆が苦しむ。ますますもって許せない」

  葛は黙って聞いていて、料理の手を止め、夢見るように虚空を見つめた。
 「母者が言ってたよ、この目を持つ者は思うよりも多くいる。気づかぬだけだし、気づいたところで使い方を知らんのだとね。女の一念は恐ろしいというが一念とは念の集束。あたしにはできなかったし、それで苦しみ抜いた母者を見ていて哀れでならない。あたしなんかが言うことじゃないけれど、その目、きっといいことに使っておくれね。さもないと・・」
 「言われるまでもない、わかってる。けどあたしは立つよ。いまはまだ童みたいなもんだけど、いつかきっと皆の力になりたくて」

  そしてまた料理の手を動かす葛。今度こそ何かが吹っ切れたような面色だった。
 「化け物でもあたしにとっちゃ母者なのさ。久鬼の爺様の子の子が母者、あたしはその子。母者を葬り、あたしが死ねば、化け物の血がようやく絶える」
  お栗はチラと横目で見たが、そのとき葛はほんの少し笑っていた。
 「葛だったね? あたしは十五。いくつなのさ?」
 「二十八。母者は十六であたしを産んだ。おまえを産んでやれたことだけがあたしの幸だと言ってくれた」
  お栗はうなずくでもなくただ聞いて、手元の野菜に目をやった。
  ちょうどそのとき風呂場から鷹羽と鶴羽が並んで出てくる。濡れ烏の黒い髪を横に流してまとめた姿。二人ともに男の着物を着込んでいて、それはこの屋敷に暮らした若い侍のものだった。
  くノ一二人は、葛がお栗と並んでいることに驚いたのだが、葛に殺気は感じられない。
  お栗に向かって歩み寄りかけ、そのときお栗が唐突と言う。
 「こやつは嫌いだ、卑怯者だ。死んで血を絶やすと言う。あたしは生きる。生きてこの血を絶やさない」
  己の行き先を見据えるようなお栗の強い目。鶴羽も鷹羽も呆気にとられ、いったい何を話していたのかと二人揃って葛を見つめる。

 「そんなことをお栗が?」
  と、紅羽が目を丸くする。
 「いったい何を話したことやら」
  大部屋へと戻った鶴羽と鷹羽。そのとき黒羽が布団に潜って禿髪の娘を抱いて、紅羽は小夜に寄り添い、布団の上から小夜の胸を撫でてやっている。
  禿髪の娘を抱きながら黒羽が言った。
 「武尊が知れたよ。船冨士の主が武尊。番頭はその手下で、兄に反対する弟を見張ってる」
  これで葛を生かしておく意味がなくなったと、くノ一二人は考えた。だからこそお栗の言葉が重い意味を持ってくる。
 「代わろう姉様、あたしが抱く」
  鷹羽は湯文字さえもしていない。忍び装束の下は男同様ふんどしを穿くもので。鷹羽は素裸。桜色の湯文字を巻いた半裸の黒羽と入れ替わる。
  紅羽黒羽の二人が厨の後ろを通りがかり、お栗が明るい目を向けた。
 「厨にいろいろあったから、ちゃんとしたものができそうです。葛も手伝ってくれてはかどって」
  黒羽は微笑んでうなずくと、お栗のそばで戸惑う素振りの葛に言った。
 「聞いたかい。お栗はおまえを許したんだ。武尊が知れた。もはやおまえに用はない。殺してやりたいぐらいだけどね、お栗が許すならあたしたちだってそうするしかないんだよ。償い方にはいろいろある。死んじまったら楽だからね」
  怒ったように言い捨てて、二人は風呂場へ入って行った。

 「そうだよ葛、ジ様はおまえたちを殺そうとしたわけじゃないんだよ」

  そんなお栗の声は風呂場にまで聞こえている。お栗は変わった。強くなったし大人になった。黒羽も紅羽もそれが嬉しく、互いの背中を流し合う。
  お栗と葛の二人は別に、最後に宗志郎が風呂を済ませ、その頃には外はすっかり明るくなって、つまりは朝餉。大部屋に女三人はぐっすり眠り、死の淵を彷徨った禿髪の娘も顔色がよくなった。
  厨にいろいろあったといっても握り飯と味噌汁にするぐらい。膳を置かず畳の上に盆をならべて皆で囲む。その中には葛も混じる。
 「味噌汁は葛がつくった。美味いよ」
  と、お栗は言い、それだけでもお栗の気持ちは皆に伝わる。
  宗志郎が汁の椀に口をつけ、椀を置きながら部屋を見回し言うのだった。
 「縁の下は柳の墓よ」
  その言葉に葛は宗志郎へと怪訝そうな目を向けた。
 「まあ、てなことにしてはどうかと思ったまで」
  宗志郎は葛を見据えた。
 「母者のしたことなれど、その責めはおまえにもある。突き出せば死罪。されどだよ、これだけの屋敷があれば禿遊びの哀れな娘どもも救えるし、尼寺に預けたままの娘らも多くいる」
  それは、あのときのお光の友もそうだし、天礼寺で救った三人もそうだった。寺に託したままとなっている。その上さらにこの屋敷で救った禿髪の娘もいる。

  皆は宗志郎が決めるならそれでいいと思って聞いていた。
  宗志郎は言う。
 「これだけの家屋敷があれば大勢で暮らせるだろうぜ。どうだい葛、おまえが姉様となって守ってやるならお天道様も許すだろう。この屋敷、誰が返せと言うもんか。騒げば墓穴を掘るだけよ。おい葛」
 「はい?」
  宗志郎に見据えられて葛の声は小さかった。
 「飯がすんだらお栗と二人、湯でも浴びて、お栗の背でも流してやれ」
  皆は微笑んだまま目を伏せて異論はなかった。
  お栗が明るい面色で言う。
 「おまえのために生きるんじゃない。皆のために生きて償う」
  おお! いっぱしのことを言いやがると皆は可笑しく、宗志郎もまた笑って言った。
 「ちぇっ、もはや頭も上がらんな、お栗に睨まれればおしまいだ。はっはっは」

  そう言われてもなお戸惑う素振りの葛に向かって鷹羽が言った。
 「おまえは母者のことばかりを言うけどね、久鬼のジ様は、娘の葛だけは救ってやってほしいと言った。あの子は悪くないと言い残して逝ったんだよ」
  その言葉を追いかけて、またしてもお栗が言う。
 「悪くないわけじゃないけどね。ふふふ」
  混ぜっ返すなコノ馬鹿と言うように、隣りに座る鶴羽に頭を小突かれるお栗であった。