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二十話 修羅場なり


 艶辰のある本所深川から永代橋を渡って、八丁堀、日本橋、内神田、小川町と、お栗はどんどん小石川に近づいていく。お栗は十五と若く、八王子の山の暮らしで脚がよく小走りで通せるのだが、さしもの宗志郎もこれほどの距離は厳しい。何かを嗅ぎつけて犬が駆け、人がそれを追うようなもの。お栗は時折脚を止め目を閉じて両手をひろげ闇を吸うような仕草をする。邪視を使うとき、それは業火のようなものであり、念を発し続けられる時はそう長くない。しかし念を止めてもかなりの間は残り火のような、まさしく残念が漂うという。あの夜のお栗は久鬼の発するそれをたどって宗志郎の家を嗅ぎつけた。
  宗志郎も紅羽も黒羽も相変わらず半信半疑。妖怪の力というしかなかっただろう。

  それにしても小石川と言えば、御三家、水戸屋敷のあるところ。それだけに人の入り組む場所である。
  御三家のひとつ水戸徳川家は、陸奥国は水戸に水戸藩を構えていたが、その当主は江戸定府として江戸に暮らし、全国諸侯の中で唯一参勤交代を免除されていた家柄。御三家筆頭の尾張家は大納言、次なる紀州家も大納言。比べて水戸家は中納言と、三家の中では格下であったのだが、江戸定府ということでじつはもっとも将軍家に近く、尾張家紀州家ともに動向の気になるところ。ゆえにその屋敷のある小石川の周辺には息のかかった者どもを潜ませて目を光らせていたのである。
  そしてそれはそのほか諸藩にとっても同じこと。外様大名よりもむしろ徳川家により近い譜代にとって、徳川家内の力関係は無視できない。譜代や外様やと言ってみても、それは初代家康、二代秀忠、せいぜい三代家光あたりまでのことであり、八代将軍の今日まで長く太平の世が続くと、狸と狐の化かし合いの様相を呈してもいたしかたのないことだった。その間隙を縫うように外様大名が手ぐすね引いているのだから、水戸屋敷の周辺に思惑が混み合うはずなのである。

  そうしたとき探る側にとって格好の擬態となるのが寺社仏閣。とりわけ寺は、戦国の世から武将どもが己の権力の象徴として築いてきたものが多く、その流れで諸藩諸侯の息のかかった寺が江戸狭しと建立された。寺とは名ばかり。反動の士や忍びの根城となるものも多く、また武器など闇取引の温床ともなるものまでが現れる始末。それらを取り締まるために寺社奉行がつくられ、怪しい寺については幕府によって移転させられることも多かった。

  かなりな脚で駆けていたお栗が止まった。小石川と本郷との境、やや北となるあたり。小さな寺が武家屋敷に混ざって点在するそんな場所。闇も深く、町には人の気配がしない。ひたすらこちら方面へ向かうお栗に、もしや水戸様までがと考えていた宗志郎だったのだが、その場所は水戸屋敷からは遠かった。
  冬の深夜、お栗の息が白い。立ち止まって息を静め、お栗はふたたび両手をひろげて闇を吸う。
 「近い。このへんだけど」
  それからさらに北へと向いて、東、南、西と向きを変えて闇を吸う。そしてさらに少し歩き、それほど古くはない小さな寺の角で立ち止まる。
 深宝寺(じんぽうじ)。背丈ほどの白土塀で囲まれて、その門は屋根のない冠木門。三方を武家屋敷に抱かれるように存在する寺。
  お栗は言った。
 「ここだと思う。けど妙なんだ」
  宗志郎が問うた。
 「妙とは?」
 「念がぼやけて・・寺とそして・・」 と言って、またしても闇を吸う。
  そして、「そこ」と、寺の右隣に建つ武家屋敷を指差すお栗。こちらは黒瓦の屋根のある腕木門に右片脇戸。造りの小ぶりな屋敷であった。
 「寺と両方にいるっていうのかい?」
  黒羽が問うたが、お栗は黙って気を一点に集めているよう。
 「念がぼやけて光の繭のよう。けどここだ、違いはないよ」
  深宝寺そして武家屋敷の表札に『壷郷(こごう)』とある。
  しかし宗志郎にとっては知らぬ名。表札を見上げて宗志郎は黒羽に向かって知らないと首を振る。

  そしてそのとき、寺とは地下でつながる壷郷の屋敷の奥の間で夜具を並べて寝ていた二人の女のうちの一人がハッとするように目を開けた。柳である。
 「うむ?」
  ただならぬその気配で隣の布団に横たわる女も目を開ける。娘の葛。
 「どうかなさいましたか?」
 「いや、わからぬ。わからぬが、かすかな念を感じた」
 「久鬼様の?」
 「違う。爺様ならはるかに強い。ごくわずか、かすな念・・」
  そして柳は身を起こし、寝間着の上に長綿入れを羽織って立って、薄明かりを通す明かり障子の前へと歩む。
 「うむ、いる。何者かが迫り来る。どうやら念をたどられた。いかん来る!」
  ところがそのとき宗志郎らが踏み込んだのは寺の側。念を感じたという無体な理由で武家屋敷には踏み込めない。
  寺では曲者の気配を察して寝間着姿の僧どもが二人また二人と数を増し、壷郷の屋敷の側でも柳に急を告げられた武士どもが一斉に起き出した。

 「寺が襲われているようです」
 「敵は? その数は!」
 「わかりませぬが多くはないよう」
 「ううむ」 と唸り声を上げた屋敷の主。紀州藩、腰物支配の配下、壷郷光義(こごうみつよし)であった。壷郷は紀州藩の藩士であったが、それほど年配というわけでもない四十代。腰物支配の配下の中では軽輩ながらも特異な経歴を持つ男。元は根来忍びであり、この屋敷は別邸。本宅を四ッ谷に構える男であった。
  深宝寺とは地下でつながるこの別邸に裏のある者どもを囲っているというわけだ。
 「捨ておくわけにはいかぬ、行け、皆殺しとしてしまえ! よもやの時には柳を逃がせ、よいな!」
 「はっ!」
  寺を探られれば地下道は隠しおおせない。知らぬ存ぜぬでは通らない。
  壷郷の屋敷の備えは、主の光義、そして柳と葛のほか配下が七人。一方の寺には住職以下六人。多勢に無勢!

  寺へと踏み込んだ宗志郎、男姿の紅羽黒羽。お栗は塀の向こうの屋敷の陰に隠してある。
  本堂へと続く数段の踏み段を境として、木綿生成りの単衣の寝間着姿の僧ども六人と対峙する宗志郎。
  宗志郎が男どもの中央にいる住職らしき男に言う。住職といっても若い。こちらもまた四十代かと思われた。男ども六人は明らかに僧ではない隆々とした体つき。皆が長身、目つきが鋭く、六人それぞれ、剣が四人に槍が二人。
  宗志郎は言った。
 「ここに柳がおるはずだ、出せ」
 「柳と? ふふふ、知らぬな」
  宗志郎はにやりと笑う。
 「知らぬなら何ゆえ剣と槍を持つ。それこそが偽坊主の証となろうぞ」
 「さてね。ふっふっふ、そなたらは三人、しかも見受けるに女が二人。いかにも無勢! 殺れぃ!」
 「おおぅ!」
  頭の号令で男どもが外廊下から一斉に飛び降りて三人を囲み、問答無用で斬りかかり、槍の一人が黒羽を狙って身構える。

  背中合わせの陣形で剣を抜く紅羽そして黒羽。一刀流の女剣士。
  そしてついに宗志郎の腰から青鞘の白刃が抜き去られた。月光にギラつく怒りの剣!
 「覚悟せい!」
  左右から斬りかかる剣と剣。宗志郎の白刃がこともなげに振り払い、夜陰のごとく体をさばいた刹那、二人のそっ首が胴から離れて地べたに転がる。噴き上げる血しぶき。そして刹那、中腰中段、切っ先を後ろに構える柳生新陰流の構え。次なる敵の男二人を右斜め左斜めにおいて鬼神の気迫!

  黒羽には槍の一人。突き込みを剣で払うも、飛び退きざまに槍は回され、棒尻へ脚を払い、黒羽が飛ぶと、ふたたび回された槍が中段に構えられ、しかしそれよりわずかに速く、
 「おしまいだよ! 覚悟!」
  くの字に踏み込んだ黒羽の剣が槍を持つ敵の両腕を肘下から吹っ飛ばし、男が断末魔の悲鳴を上げる間もなく、返す刃が心の臓を貫いて背中へと突き抜けた。恐るべし黒羽! 一刀流の女神様!

  紅羽には剣の一人。互いに中段、にらみ合い、焦れた男が一瞬先に刀を振り上げ、突き斬りに踏み込んだ。
  ピィィーン
 横に体をさばきつつ敵の剣の横腹へ打ち込む紅羽。敵の剣が中ほどでぽっきり折れて地べたに刺さり、次の一瞬勝負は決した。
  敵の横から後ろへと回り込みながらの横振りの太刀筋!
  チェストォォーッ!
  くそ坊主の毛のない頭を吹っ飛ばし、石ころのように首が転がる。首のない胴体が血しぶきを噴き上げながら朽ち木のごとくばったり倒れる。
  恐るべき姉、紅羽の一刀流! 妹もろとも、女はやっぱり恐ろしい!

  そのとき宗志郎は二人を相手に身構える。一方は剣、また一方は槍。槍を持つ男が住職、いいや頭であった。
 「強い。その構えは柳生新陰流。名は?」
  しかし宗志郎はほくそ笑む。
 「末様」
 「何ぃ?」
 「ふっふっふ、末っ子ゆえな」
 「しゃらくさい!」
  左から斬りかかる剣を払い、右からの槍の突きを紙一重で交わした宗志郎。槍が回され、それを目くらましとするように剣を持つ一人が踏み込んだ。
  ピキィィーン
 剣と剣が交錯し、敵の剣が大きく欠けるも宗志郎の剣は無傷。そうして二人を相手としながら宗志郎は黒羽に言う。
 「ここは俺が。中を探れ」
  ところがそのとき、寺の側ではなく寺の門を回って武士ども四人が斬り込んでくるのだった。寝込みを襲われて皆が灰色の寝間着の姿。皆が若く、宗志郎の敵ではなかったが、数が多い。さらに次なる敵はいずれも武士。刀ではかなり使うと思われた。

  宗志郎には僧が二人に武士が一人、紅羽と黒羽を残る三人で取り囲む。
  まずい。ここで手間取ると柳に逃げられる。斬り込んだ四人とは別の一人が取って返して報告する。
 「敵は三人なれど尋常ならず! 強い!」
 「柳を逃がす。屋敷を捨てるぞ。それから地下の女どもも斬り捨てろ」
 「はっ、そのように!」
  そんなことは遠く離れた宗志郎には伝わらない。
  交錯する剣と剣が境内狭しと火花を散らし、敵はばたばた倒れていく。残ったのは槍を持つ住職と、武士の二人。宗志郎にたじろいで踏み込んでは退きを繰り返し、一方を深追いすると後ろから襲われる。
  その傍らで三人の武士に囲まれた紅羽黒羽だったのだが、一瞬の間隙をついて黒羽が囲みを破り、同時に紅羽が一人を倒し、黒羽は二人を相手、しかしその片方を後ろからの紅羽の剣が仕留め、そのとき同時に黒羽の剣が残る一人の首を飛ばす。
  これで三対三。宗志郎を囲む陣形が崩れ、その刹那、宗志郎の鬼神の剣が二人を倒す。残るは槍を持つ住職一人。
  宗志郎は言う。
 「二人は中へ。柳の目を見るな」
  紅羽黒羽は顔を見合わせ、互いに剣を振って血を飛ばすと、抜刀したまま踏み段を駆け上がって本堂へとなだれ込む。しかし無人!

  槍を中段に身構えて相手の喉笛へと向ける男。動きが速い。おそらく忍びをと見切った宗志郎。
 「根来か」
 「笑止! 覚悟せい!」
  キエェーイ!
  すさまじい気合い。突き突き、嵐の突き。右に左に顔を振って交わすも、左の頬をかすかにかすって一条の血筋。男は強い。にやりと笑ってふたたび身構え、突き突き、そして槍を回しながら体をさばき、棒尻で頭を狙うと見せかけて踏み込んで蹴り。宗志郎が崩れると見るや、振り上げた槍が地べたを突き!
  宗志郎は横っ飛びに転がりながら、下からの振り上げ剣で脚を狙う。
  セェェーイ!
  闇を裂く男の悲鳴。右足の膝下が消えていた。刹那立った宗志郎の袈裟斬りが男の肩口から切り裂いて勝負は決した。
  宗志郎は刀を振って血を飛ばすと、一瞬寺を見たのだったが、背を向けて門へと走り、すぐ隣の壷郷の屋敷へと回り込む。そしてそのとき、物陰に潜んだままのお栗と目が合う。
  凄い・・お栗は声も出なかった。宗志郎の全身が、顔までも、返り血を浴びて真っ赤! がたがた足の震えるお栗だった。

 「地下だ」
 「うむ!」
  寺の奥の庫裏へと通じる廊下に隠し階段。黒羽が先に続いて紅羽が降りる。しかしそこで二人は怒り狂う光景を目にしてしまう。
 「待てぃ! 許さぬ!」
  とっさに黒羽は腰の小刀を抜いて投げつけておき、投げながら小刀の軌跡を追うように駆け寄ると、
 「串刺しにしてくれる! くそ畜生めが!」
  逃げようと背を向けた若い武士の左の背から心の臓を貫いた!

  くそ畜生とは・・黒羽は美形ぞ。言葉に気をつけねばならぬだろう。

 「なんてことを・・惨い・・」
  遅れて駆け寄った紅羽がその光景を目にし、愕然として吐くようにつぶやいた。