gei1520

十話 伊豆の白湯


 「さて皆々よ、このような雨の折ゆえ、しっぽり濡れる話をしよう。我ら坊主の修行を行(ぎょう)と言うが、そなたら女人には女人業(にょにんぎょう)とも申すべき業(ごう)がある。それはまた性(さが)とも申すもの」

  芝高輪、湧仙寺。
  芝の南から高輪にかけて寺の集まる一帯があり、そこには名のある大きな寺から、この湧泉寺のようなちっぽけな古刹まで数多くの寺がひしめき合って、したがって町中に僧侶の姿をよく見かける。僧を僧としてあなどってはいけない。かつては僧兵ばかりを集めた寺もあり、また忍びの者どもが僧に化けた寺もあったもの。湧泉寺の住職たる妙玄(みょうげん)も、いまでこそ齢八十二と老いていたが、かつてはそうした僧兵としてならした男。
  艶辰のある本所深川から高輪は少し遠い。男の脚でも一刻(二時間)ほどもかかってしまい、小雨の中、着いてみると、狭い本堂にすでに女ばかり十人ほどが集まっていて、何やら法話の最中だった。女は市井の者ばかり。一見してこのあたりの商家の妻ばかりと思われる。

  妙玄は、ふいに訪れた宗志郎に目でうなずきつつも、かまわず言う。
 「業(ごう)とは人の業であり、業を極めることを修行とするなら行(ぎょう)とも言える。さてここからじゃ。皆々、童どもを思えばよい。己が童であった頃、苦しむことと言えば腹が減っただとか、しょんべんちびっただとか、まあそんなようなものじゃった」
  女たちから笑いが漏れる。
 「しかるにいつ頃からか、女として生きねばならぬ、男として生きねばならぬと思い込むようになり、色というものが生まれてくる。色は欲。嫌よ嫌よ、もっとソコということになるわけじゃな」
  隣り合った女同士が顔を見合わせくすくす笑う。
 「それが女人を苦しめる。同じ女が敵ともなって立派な竿を奪い合う。なんて大きく恐ろしく、されど欲しくてたまらぬ男のイチモツ。拙僧などはもういかん、萎びたままじゃ」
  おもしろいと宗志郎は思う。女たちが食い入るように見つめていて、皆の目がキラキラしている。
 「同じ女でありながら意地を張り合い、遠ざけ合って、隣の家では色よき声もするものの、なんでウチには夜がない、などということになって不仲となる。夫婦の不仲は世への不仲に変わっていって、周りの者としてみれば、なんたる嫌なクソ婆、てなことにもなろう」

 「そこがこそ、そなたら一人一人を不幸にする大元ぞ。童に戻るときがあってもよいというもの。女となる前の心を持って女人を抱く。女同士で湯でも浴びて、一つ布団で眠れるならば、心は濡れて、違うところもきっと濡れよう。よいか皆々よ、女の性とは女の業(ごう)。しかるにそれを修行の行(ぎょう)と思うなら女人は解き放たれて羽ばたける」
 「それは女人同士で交われということでしょうや?」
  女の一人が訊いたとき和尚はうなずいて言うのだった。
 「女人はなぜに女でなければならぬのか。女人はなぜに男と交わらねばならぬのか。女人はなぜに女を想うてはいかぬのか。亭主元気で留守がよい。うむ、それはそうじゃろう。されどそれも亭主に飽きて触れられど濡れもせぬゆえ。それではあまりに可哀想というものじゃが、さりとてそこらじゅうの男にあはんうふんもまずかろう。女房殿は皆々そのように考えて、ゆえに寂しゅうなっていく。嫌な女になってしもうた己を憎み、ますますもって鬼婆。よいか皆々、業を行とすることじゃ。想うて欲しくばまず想うこと。童の心に戻れるならば女人は女でなくなって、人として女を想えるようになろうというもの。ここにおる皆々よ、互いに想うて抱き合って、濡れる女人となるがよい。行と思うて業に臨めば、人を想う女の性は満たされる」
  女たちは皆いい顔をしていると宗志郎は感じた。艶辰の女たちの顔そのままの素直な面色ではないか。

 「そこな若武者よ、いかに思う?」
  問いかけられて皆は振り向き、目が集まる。いつの間にか若く凜々しい武士がいる。女たちは一様に、はにかむような笑顔を見せる。
  宗志郎は言う。
 「何を語っておるのやら、クソ坊主め。はっはっは」
  皆が声を上げて笑い、しかし一様に穏やかな顔をする。宗志郎はふと虎介情介の二人を思った。まさに和尚の言う通り。しかしそれはありきたりに身構える者どもにはむずかしいかと考えた。
  妙玄は言う。
 「くノ一は、くノ一同士で交わるという。明日の命も知れぬ身ゆえ、そのとき想うた己の心に素直でありたい。汚れなき人の姿だとは思わぬか」
  と、突然現れた武士の姿になぞられて持ち出した和尚の話に皆はうなずく。  いい法話だと宗志郎は思う。

 「・・ふうむ、そのようなことがあったとはのう。わしも歳じゃな、とんと俗世に疎うなってしもうたわ」
  妙玄はシワ深い目を雨模様の空へとなげて、しばし考え、そして言った。
 「そのようなことがあるとするなら、それは邪視(じゃし)やも知れぬな」
 「邪視ですと?」
 「そうじゃよ邪視じゃ。このわしとて話として知っておるだけじゃし見たこともないのじゃが、そのようなことがあるというぞ。仙人のごとく修行を重ね得られるもの、また魑魅魍魎、妖怪のたぐいに取り憑かれてしまうもの、天狗のせいじゃと申す者もおるらしいが、平安の頃には禿化け(かむろばけ)と称して、妖力を得た女が童に化けて災いを運んだとか。まあ心眼とも言えるのじゃろうが、見つめるだけで心を抜き取り、邪心を送り込んで人を操る。役目を果たして邪心が抜ければ人は抜け殻。心をなくしてしまうからの」
 「・・ふうむ、されどそのようなことが真にできるものなのか」
 「わからぬ。あるいは生まれ持った特異な才やも知れぬし何とも言えぬわ」

  いまから十五年ほど前、その頃、剣の修行に明け暮れていた十五歳の宗志郎は、柳生の剣の師範に連れられ、この寺を覗いていた。
  当時すでに妙玄は六十代の半ばであったのだが、小柄な体でも槍を持たせれば下手な剣では勝てない強さ。宗志郎の師範が学んだ、そのまた師範のような男であった。以来、宗志郎はときどき寺を覗いていた。
 「されど尊師もお達者で」
 「まったくじゃ。どうやらわしも妖怪天狗のたぐいのようで。はっはっは」
  この時代、四十代から人はばたばた死んでいく。八十をこえる齢は、それだけで仙人のようなもの。

  と、ふいに妙玄は手を叩き、宗志郎を見つめるのだった。
 「そうじゃ悟郎太(ごろうた)がおった!」
 「それは何者?」
 「伊豆は天城あたりを根城とする山賊の頭でな、風魔賀次郎(ふうま・がじろう)が末裔よ」
 「なんと? あの風魔の末裔と申されるか?」
 「いかにも。風魔は死なず、そうして生きておるわい。かつてのわしの弟子じゃがな。うむ、そうじゃ風魔じゃ。かつて風魔に特異な才を持って生まれた男児がおってな。七つじゃったか、その歳にして見つめるだけで人を操ったという。風魔の女が妖怪を生んだと恐れられたものらしい。そのへん訊くなら訪ねてみればよかろうぞ」
  風魔と言えば、江戸時代のはじめに盗賊となって江戸市中を荒らし回り、ことごとくが捕らえられて滅亡したと思われていた。それがいま、八代将軍となった世に生きている。ぜひにも会ってみたいと宗志郎は考えた。

 「邪視」
  と言ったきり、美神にしばし声はなかった。虎介が聞き込んだ話と符合する。
 「さらにまた風魔とは」
  くノ一である鷹羽もまた声をなくし、同じくくノ一の鷺羽鶴羽と目を合わせる。
  美神が言った。
 「じつを言うと虎がそれと似たような話を聞いたとか」
  美神が子細を話すと皆の目が厳しくなった。そうした才を持つ者がいるとすればすべてがうなずける。とりわけ禿化けという言葉がひっかかる。まさかとは思っても虎介が持ち込んだ話そのままではないか。
  美神は言った。
 「その悟郎太とやらに会いに行こう。皆で行く」
 「皆で?」
  と黒羽が訊いて、美神は深くうなずいた。
 「さっそく明日にでも出よう。お光にも支度させるんだ」

  そして三日後の夕刻前、伊豆は天城山。冬晴れの青空に一片の雲もなく、山の緑も美しかった。
  宗志郎、美神、そして紅羽に黒羽、そのほかくノ一三人だけならともかくも、若いお艶さんの三人衆、男芸者の二人に加えてお光までが一緒だと、途中で二泊しないと歩き切れない。艶辰はじめての皆での旅。物見遊山の気分で楽しめていたのだが、いよいよ山が迫ってくると気を引き締める。
  宗志郎は大小を腰に差した着流しだったが、紅羽黒羽の二人は黒髪を後ろでまとめ袴を穿いて腰に大小を差した男姿。そのほか皆は女の旅姿であったのだが、美神、鷹羽、鷺羽、鶴羽の四人は白木の仕込み杖を持っている。
  海を見渡す表街道を逸れて山へと踏み込むと、いきなり人の気配が絶えて道も細く、右に左にうねっている。
  そろそろ出るか、山賊ども。

 「待ちな! これはこれはぞろぞろと」
  いかにも山賊といった風体のゴツイ男ばかりが八人ほど、森を縫う道筋の前と後ろから現れて挟み打ちというわけだ。粗末な着物にウサギの毛皮でつくったチョッキを重ね、腰には刀、髪の毛などは獣のごとく。
  しかし前に向かって宗志郎と紅羽黒羽、後ろには間に皆を挟んで鷹羽鶴羽鷺羽が陣取り、こちらにも隙はない。皆が仕込み杖に手をかけて寄らば斬るの面色だった。
  宗志郎が男どもに笑って言う。
 「よせよせ、てめらじゃ勝てないぜ」
 「何をしゃらくせえ!」
  男の一人がすごんで声を上げたが、宗志郎は穏やかに言う。
 「悟郎太に会いに来た」
  頭の名を呼ばれて山賊どもは一斉にある一人の男へ目をやった。背が高く胸板が厚く、毛の中に顔があるといったような男。まさに大猿。しかしその腰には剣はなく、代わりに、よく手入れされて光り輝く黒い槍を持っている。

 「俺がそうだが」
  宗志郎はちょっと笑って眉を上げた。
 「妙玄和尚に聞かされて参った者」
 「ほう和尚に?」
 「拙者は葉山宗志郎」
 「なに・・」
  柳生新陰流の若き鬼神とまで言われた男。悟郎太も和尚から聞かされて名ぐらいは知っている。悟郎太は手をかざして手下どもに退けと合図をする。
  しかし悟郎太は宗志郎の背後へ目をやって言うのだった。
 「で、ぞろぞろとか?」
 「皆々が江戸の置屋の芸者でな」
 「ほほう、芸者とはまた。男姿で剣を持ち、仕込みを持つ者もいる。恐ろしい芸者どもよ」
  悟郎太は宗志郎に歩み寄り、「こっちが兄弟子だぜ」と小声で言って笑い、そして手下どもに言い放つ。
 「おいみんな、こいつはよ、弟弟子のくせしやがって俺なんぞよりはるかに強ぇえや。てめえらなんぞ刺身にされるぞ、あっはっは」

  悟郎太は、はるばる訪ねてきた弟弟子と並んで歩く。
 「で、どうしたって?」
 「かつて風魔に邪視を持って生まれた子がいたと聞いた」
  悟郎太は眉を上げて目を見開く。
 「なるほど、わかった。まあ根城に来いや。湯も湧くし、なかなかいいぜ」
  鬱蒼とした樹海の中に、そこだけ森が拓かれて、いまにも朽ち果てそうな小屋がいくつか並び、粗末な姿の若い女も三人いて、さながら山窩(さんか・山の民)の根城のようにされている。雲のない天空から陽射しが注ぎ、森が風を遮るのか、そこだけ春のように暖かかった。
 「まあ気楽にやってくれと言いたいところなんだがよ、なにせ家がちっぽけだ。ごろ寝ってことになる。森の奥に湯もあるし、そこだけは極楽よ」

  五軒ある家の中で少し大きな一軒が頭とその女の家なのだが、とても皆は入りきれない。美神と紅羽黒羽、それに鷹羽が家に入り、鶴羽鷹羽は皆と一緒にほかの家に散っていた。
  訪ねて来た皆を家に上げ、毛皮の敷かれた囲炉裏の周りに座らせておき、悟郎太は、一応は上座にあたるところに敷かれた大きな鹿の毛皮の上にどっかと座った。悟郎太の女らしき者が茶を淹れて配っている。大柄な女であったが笑顔がやさしい。
  話の支度が整うと宗志郎が悟郎太に言う。
 「そちらが江戸の置屋の女将さんでな、こなた男姿の二人も芸者なんだが、ともに武家の出。そこの一人も芸者だが、じつはくノ一」
 「なるほど。まあ、ただの置屋ではあるまいが訊かぬ」
  悟郎太は賢い男。宗志郎はうなずいて、さらに言った。
 「風魔の女が妖怪を産んだとか」
  悟郎太はうなずいた。
 「俺も聞いた話だが我らでは語り継がれる話でな。七つばっかのこわっぱに見つめられ、人は腑抜けとなってしまうのさ。生まれながらの化け物だった」

 「禿として使ったのでは?」
  と美神が訊いて、悟郎太はあまりにも美しい美神を見つめる。
 「そこの女将のように魂を抜かれる女はいるものさ。まあ、そんなようなもの。あまりに恐ろしいこわっぱゆえ、その頃の頭も困り果てた。よもや敵とならば一族は滅ぶ。そこでこわっぱのうちに放り出した。その母とともにな。生きていける金を握らせ、どこぞで好きに暮らせというわけさ」
  宗志郎が問う。
 「それきりなのか?」
 「それきりだ。ああしたものは血だ。こわっぱを産んだ女に妖怪でも取り憑いたかということで、母もろとも放り出す。悪さでもして叱ろうものなら、七つのこわっぱに見つめられておかしくなる。そうなりゃ放り出すしかあるめえよ」
 「そうかい、それきり行き方知れずってことなんだね?」
  美神を見つめながら悟郎太は話し、だから美神がそう言った。
  江戸で妙な事件が起こっていると宗志郎が告げると、悟郎太はまたうなずいて言うのだった。
 「だとすりゃあ血よ。こわっぱの血かも知れねえし、その頃まだ若かった母者がまた別の子を成したとも考えられる。剣では勝てねえ、ともかく目を見ねえことだ。言えるのはそれだけよ」

  黒羽が問うた。
 「そうした者が確かにいると言うんだね?」
  悟郎太は、こちらもまた美しい黒羽を目に入れて、それから宗志郎に向かうのだった。
 「いる。偽り話を伝えてどうする。心を抜き取り、どうにでも操る。そうしたやり口であるなら決まり事をつくっておくのさ。犬猫の声でもいいし記号(しるし)のようなものでもよかろう。見る聞く触れる、何でもよいのだ。そのとたん人が変わってしまう。話に聞く陰陽師のようなものもそのうちだろうが、呪いだと思えばよかろうな。呪いを持って産まれた化け物。もはや人ではあるまいに」
  そして鷹羽が問うた。
 「ずっとここに隠れ住んできたのかい?」
  それには悟郎太は笑う。
 「風魔は北条、北条は相模、相模は海よ。ここらはもともと我らが土地でな」
  鷹羽は黙ってうなずき、それから口を開かなかった。忍びは皆同じ。主家が滅ぶと戻る場所をなくしてしまう。

 「さて皆々、今宵はどうするつもりよ。冬のいまなら、じきに陽が暮れよう。旅籠といっても遠いぞ」
  と悟郎太は言い、女将の美神をじっと見つめた。
  そしてそのとき宗志郎が袂から封を切らない二十五両の包みを取り出して悟郎太の前にそっと置いた。
 「これで頼む、今宵一晩」
 「ふふん、ずいぶんと張り込んだものだ、つまらねえ話を聞くためによ。わかった、どうにかしたいがどうにもならん。ここが広いゆえ、ここを空ける。まあ湯にでも浸かって来いや」
  と、そこで美神が言った。
 「じゃあ、あたし一人が先に行く。お頭と一緒にね」
  悟郎太は目を丸くする。美神が言った。
 「銭で買ったと思われてはあたしの名折れ。気持ちだということをわかって欲しい」
  悟郎太は呆気にとられて宗志郎を見つめた。
 「ふっふっふ、気に入った・・気に入ったぞ、はっはっは」
  悟郎太は立ち上がり、美神の手を取って引き抜くように立たせていた。並んで立つと悟郎太は大きい。

  そして森に抱かれるようにある湯へと向かう。
  山肌が岩に変わったすぐのところ。周りは鬱蒼とした緑また緑。十人ほども入れそうな大きな岩風呂。脱衣などというものはなく、悟郎太は湯の縁まで美神をそっと押しやると、岩に座り込んで背を向ける。
 「どうしたんだい、入らないのかい?」
 「気持ちはもらった、ありがとよ姐さん。されど、ならば俺にも気持ちはある。ここらには腹を空かせた犬が出るゆえ」
  美神は歩み寄って悟郎太の前に回り、目を見つめ、そのままそっと抱かれていった。

 「嬉しいよ悟郎太、いいから入ろ」
  野獣のような男にまともに見られていながら一糸まとわぬ裸身となった美神であった。