七話 小さな家
「そうか、あのときの小娘が転がり込んだか」
「そろそろ十日になりますけどね、よくやってるし皆も新しい風だねって言ってるんです。鷹羽はほら、あのときのことも知ってるから、末様が連れてきたのかも知れないねって」
「そんなことになろうとは思ってもみなかったが・・」
まずは四日かなと冗談交じりに言った宗志郎の家。間に立った藤兵衛が営む材木商、両国の木香屋はもちろん木場に出入りしていて木場と深川は隣り合わせ。藤兵衛は置屋の艶辰をよく知っていて、昼日中にちょいと覗き、ちょいちょいと黒羽を手招きしたというわけだった。
女将の美神も、お光とのきっかけとなった出来事は鷹羽を通じて聞かされていて、それならすぐに行って来いと背中を押された。こうしたとき越した祝いを手に持つものだが宗志郎は酒を一切やらない。立ち直ろうともがくお光の話が手土産のようなもの。宵となって男女が会うとき酒がないというのは芸者稼業の黒羽には嬉しいことだった。紅羽黒羽は艶辰の看板芸者。上客のほかやすやすとは出さないもので今宵の黒羽は体が空いた。
宗志郎の小さな家は、両国橋を渡って広小路、そこから川伝いに少し行くと和泉橋という橋があるのだが、そのすぐ近く。艶辰からも遠くなく、あのときお光を救った場所からも遠くない。お座敷で出会った宗志郎がお光を連れてやってきた。そんな気がしてならない黒羽であった。
話の合間に、宗志郎はふいに名を呼んだ。
「あやめ殿」
「ふふふ、はい。妙な気分だけど嬉しい。あたしにも名はあれど、あたしもまたその名は捨てたい女ゆえ」
「うむ、俺もしかりで、末様さ」
「ですね、うふふ」
小さな家の畳の間で向き合っている。二つ置かれた大きな行灯だったがぼんやり明るい闇の中。こうして男と二人きりになったのはいつ以来のことだろうと思うと可笑しくもあり、黒羽はそちらへ気をやって笑っていたいと思っていた。
あたしはどうしてしまったのか。小娘だった昔に戻ったようで胸が苦しくてたまらない。
「あやめ殿」
「はい末様? 何でしょね?」
ふざけてごまかし、偽って、笑おうとしているのに、そんなに見ないで。名を呼んで見つめないで。黒羽ははっきり震え出す女心に戸惑った。
言わないで。惚れたとか、どうだとか、そんな言葉はいらないから抱き寄せて組み敷いて。汚れのない女の扱いでは怖くなる。どんどん弱くなっていく己の心が怖くなる。
手を取られ、ちょっと引かれて肩を寄せ、そのまま抱かれて崩れていく。
顔を上げて見つめたとき、女の目は据わり、いきなり濡れ出す女陰(ほと)を感じて目を閉じる。
口づけ。浅くはじまり一度離れて目を見つめ、ふたたび触れ合って口づけは深くなる。やさしい末様。けどあたしが最初に欲しいのはそうじゃない。
裾を割って忍び込む男の手。腿を撫で、そっと這って這い回り、女の震えなどに臆することなく来てほしい。壊してほしい。
「はぅ・・んっ・・末様、ああ濡れる末様・・」
さざ波に産毛が逆立ち、肌を掃くように撫でられるとゾクゾクとした震え。男らしい強い指が密生する草むらを掻き分けて、性の谷へと落ちていく。
「ぁん末様、ねえ末様・・あたしおかしい・・ああ末様ぁ」
帯を解こう。着物も襦袢も湯文字も脱ごう。けどもうダメ、間に合わない。畳に手をつき犬のよう尻を突き上げて、着物をまくられ襦袢も湯文字も剥き上げられて尻さえ開き、淫らのすべてを見せつける。
「あぅ! ぁ、ぁ、はぁぁ!」
熱い舌。淫蜜をほしがって舐める舌。尻の穴まで開けひろげ、腰を振り尻を振って喘いでいる。
「あやめ」
「はい、はい末様・・あ! きゃぅぅ!」
熱く硬く太い男が濡れビラを掻き分けてぬむりぬむりとめり込んで来る。
肩も首も、吼えるように上を向く顔も頭も、がたがた震える。
「ふぅぅふっふっ、ふぅぅ、ふぅう・・ああ末様、達します、達してしまいますぅ!」
こんなことがあっただろうか。あまりにすごい喜びに愕然とするように黒羽の白い尻肉がぶるぶる震えた。突き抜かれるたび肉が揺れて波紋を伝え、その揺れがさらにすごい波濤のような喜びを連れてくる。
そのままで腹の奥底を打つような迸りが欲しい。けれどダメ。狂うほどの喜びの中にいて、突き抜かれて去っていく末様。黒羽は振り向き、淫らにぬらめく強いものにむしゃぶりつくと、喉の奥へと突き立てて男の情を待ちわびた。
「あやめ・・むぅう!」
そのとき黒羽は目を見開いた。喉の奥を焼くような熱いもの。男が嫌い侍が嫌いと心して己を偽った真っ赤な嘘を思い知る。男が好き、もっともっと壊してほしい。脈打ってとめどなく襲う精の迸り。無我夢中で飲み込んだ。そしたらそのとき女の頂が見えてくる。夢のような喜びだった。夢のような高みにある性の頂点。そんなふうに思える女心があたしにあった。嬉しくてならない黒羽だった。
情を放って穏やかに萎えていく末様を、あやめは涙目で見つめていた。
一糸まとわぬ白き黒羽となれたこと。
一糸まとわぬ強き男に抱かれていること。
「夢のよう」
末様は何も言わず抱きくるんでくださる。惚れた女に向かうとき言葉を失う男が好き。あやめの手が萎えた末様を握り込んで放さない。
強く張る胸板越しに声がした。
「数日前のことだがな、俺の剣の友に北町の同心がおるのだが、そいつに聞いた話よ」
「はい」
「市ヶ谷あたりの口入れ屋が何者かに襲われた。そこは表向きこそ口入れ屋なんだが裏ではかなりな悪だということ。奉行所として探ろうとはするのだが、どういうわけか差し止められる。上の上の息がかかるということらしい」
「はい」
「人吉とか申すその場には十人ほどの悪がいて、そのことごとくが消されてしまった。中には用心棒もいたらしく、しかしそやつも、ものの一刀、そっ首を吹っ飛ばされて倒れていた」
「はい」
「中には幾条もの斬り筋のできる妙な武器で殺られた者もいれば、何やら鞭のようなもので打たれて死んだ者もいる。こうしたものは忍びの武器よ。しかしそやつは言うておった、一刀で首を飛ばされた浪人者の屍があまりに見事と。襲った者どもの中にそれほどの剣の使い手がいたということさ」
「はい」
「そのような者どもがいてくれる江戸は心強いと思ったものだ。裁けぬところにこそ悪は潜むものゆえな」
「はい」
「そのときふと、俺はあの夜の黒羽の剣を思い出した。乱れなき一刀流の太刀筋。黒羽という芸者、武家の出ではないか。あれほどの剣を女が身につけるということは、さぞかし何ぞあったのだろうと」
「はい」
あやめの裸身が少し反り、仰向けに寝る末様を見つめて言った。
「その黒羽と申す者、恐ろしい女です」
しかし末様は虚空を見上げ、そっと手を回してあやめを引き寄せ、抱き締めた。
「娘どもが売られるらしい。可哀想に土左衛門となって浮くらしい。そのようなことあらば俺などさらに鬼神となろう。斬り捨てるが人のため」
「ふふふ、はい。ねえ末様」
「うむ?」
「女将さんがいっぺん連れて来いって言ってます。男嫌いでならした艶辰の黒羽が惚れた男が見てみたいと」
「お光もいるしな」
「それにしたって末様が救った娘。あたしのことも救ってくださり・・ふふふ」
「あやめには惚れたが、黒羽という女には・・」
しばしの沈黙。黒羽は男の胸板に頬を委ね、目を閉じて微笑んで、そして言った。
「・・黒羽という女には?」
「この俺に惚れてほしいと願うのみ」
「ぅくっ・・ふふふ、末様らしい物を言う・・」
見抜かれている。しかし、それならそれでいいと思う。
黒羽の透けるように白い裸身は男の肌を這い降りて、憎らしいそこのところを指先でちょっと弾いて口に含んだ。
そして黒羽は末様を口に含んだまま、裸身をずらして男の胸をまたぎ、いまだぬらぬらと淫らに咲いているはずの女の素性を見せつける。
「どう末様? 惚れた惚れたと泣いてませぬか?」
何も言わず口づけが花弁にちょっと触れ、けれど黒羽は腰を振って逃げて笑った。
ちょうどその頃、艶辰で、お光は美神の寝所に呼ばれていた。眠る刻限ではない。美神も着物、お光も着物。正座をして背を正すお光を見つめて美神は言った。
「虎介に聞いたよ、おまえ剣を習いたいそうだけど、何のために?」
「はい。朝のお稽古を見ていて思ったんです。ここに置いてくださって夢のような暮らしの中で生きていられる。習えるものがたくさんあって、ならばできる限りのことをしてみたい。あたしはあたしの弱さと向き合っていたいから」
この子は賢いと美神は思うが、しかしそれも悲しいこと。十七歳は悟りに遠いところに立つから輝くもの。
「おまえ十四で男に犯されたのかい?」
「そうです」
「どうだったか言ってごらんよ。おまえの言葉でおまえの思いを」
お光は、はいと言ってうなずいて、目を輝かせて言うのだった。
「おなかが空いてお蕎麦を食べたんです。けどお金は持ってなく、逃げようとしたときに、たまたまそこにいた親分さんに捕まった。組に連れていかれ丸裸にされて男たちに嬲られた。次から次に犯されて、あたし未通女(おぼこ)だったから血だらけにされたんです。来る日も来る日も犯されて、そうするうちに良くなって声を上げて達していけるようになっていた。そのときあたしは十五でした。逆らえば怖いけど、あたしから身を開けば男たちはやさしくなると思い知ったんです。お乳に甘えるみたいにしてくれて、いつかそれが嬉しくなった。せめてそのときぐらいは幸せでいたいと思ったし。盗みを働き首尾良くいくと男たちが褒めてくれる。褒めてくれて次々に抱いてくれ、あたしはもっと達していける」
「自ら体を開いたんだね? 嬉しくて?」
「そうです、はい。いつの間にかあたしは甘え、そうすれば生きていけると思ったから。どんどん狡くなっていく。それでここのみんなの剣の稽古を見せられて思ったんです。あたしはあたしを斬り捨てたい。昔を斬って今度こそ胸を張って立ちたいと思ったんです」
「芸者衆を見ていてどう思う?」
「下働きからいろいろ覚えていきたい思いです。芸者さんなんて夢。まさかと思った遠い夢。夢に向かってあたしは己を責めていきたい。皆様が許してくださるまで責めていたいと思うんです」
そのへんのことについては鷹羽に聞かされていた。罰がほしい、そうでないと苦しいと。この子なりに考えたことだろうと美神は思う。
「いっぱしの口をきくんなら、そうなれるまでにくじけると許さないよ。痣だらけになる覚悟があるのなら紅か黒に言うことだね」
「はい、そうします!」
笑顔で美神の部屋を出たお光は、そのまま紅羽黒羽の部屋へと向かったのだが、もぬけの殻。壁の陰で聞いていた紅羽がお光と入れ替わるように美神の元へとやってくる。
「聞いたかい、しょうのない小娘だよ」
「振り払おうと懸命なんですよ」
そう話し合って二人で笑い、紅羽が言った。
「虎や情が戻ると、あの子ったら平伏して迎えるそうなんです」
「知ってるよ聞いた聞いた。着替えでも堂々と裸になるし風呂まで一緒。一つ夜具で抱き合って寝てるって言うじゃないか。どうぞあたしを抱いて寝てくださいって、あやつめ裸で寝るそうだ」
「ええ、あたしも聞いてます。色を売る辛さを身に染みて知っている。いい子じゃありませんか」
「ふふふ、さてどうだか。じゃあ紅、明日から早速しごいてやりな」
紅羽がうなずくと美神はちょっと眉を上げて首を傾げ、そして言った。
「ときに黒は?」
紅羽は目でうなずき、ちょっと笑った。
「今宵は戻らないかも知れないって出て行きました。よかったと思ってますよ、あの子を組み敷ける男なんていないって思ってましたから」
「会ってみたいもんだねぇ、お光にしたって元はと言えばそうなんだし、あの鷹までがイカレちまってるって話じゃないか」
いまごろ妹は抱かれて喘いでいるだろうと姉は思い、胸があたたまる思いでいた。
そしてまた同じ頃、宗志郎の小さな家の風呂場では。
新調された真新しい湯船に浸かり、黒羽は末様の胸に頬を委ねて抱かれていた。
「ふふふ可笑しい」
「うむ? なぜ笑う?」
「小さな家なのに湯船が大きい」
「うむ、そうなんだ、棟梁のはからいさ。ちょいと大きくしときましたって笑ってやがった」
「・・粋な棟梁」
ちょっと笑って触れる口づけを交わし、それからまた末様の胸に頬を委ねる。
黒羽はこのとき、察していながら踏み込まない末様を思い、それと同じように察するだけの美神という女の謎を考えていた。
美神はときとして朝出かけ、夕刻までは戻らない。そしてそのたび何らかの動きを指図する。美神も武家の出。そのぐらいのことはわかりきった話だったし、出かけるたびに誰かに会って指図を受ける。それもまたわかりきった話だったが、ならばその相手はと考えると、深く入りすぎてはいけないと思うのだった。
奉行所でも手に負えない一件をさばくとすれば相手はかなりな御仁だろう。だからこそ深くは入らないし知りたいとも思わない。
さらに、お光もそうだ。そういったいきさつで連れて来られ、どうやら組は仕置きされたと感づいているだろう。芸者の置屋でありながら二日に一度は剣の稽古。この人たちは何者だろうと考えないはずはない。
そう思うと可笑しくなる。人にはそれぞれ立ち入らない方がいい深みがあるもので。
そしてまたそう思うと、末様ほどのお方を見抜けなかった女ばかりじゃないだろうとも思えてくる。どういった女を抱いて来たのだろうと気にすることは、それだけあたしが女となった証のようなもの。
考えることがさまざまあって、だから可笑しくなって笑えてしまう。人の世は妙なものだと黒羽は思う。