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五話 黒羽の震え


 ついいましがた茶屋で休んだ二人だったが、宗志郎と出会ったことでふたたび茶屋での時を過ごす。茶屋と言っても表の道筋からは少し逸れ、客がまとまれば出合茶屋でもないのに小さな部屋ごと貸してくれる、そんな店。しかし安普請。外の道筋にあふれかえる騒がしさは忍び込む。
  ともかくも落ち着ける小部屋で宗志郎と黒羽鷺羽は向き合った。穏やかな声で宗志郎が言った。
 「じつを申さば、こたびの役目と言えど、俺にははじめての役目なのだが、俺はつくづく城務めには向かんと思った。それで今日、このへんにどっかないかと思ってな。で、そなたらとバッタリというわけさ」
  鷺羽が問うた。
 「どっかないかとは?」
 「長屋でもいいし空き家でもあらばそれもよし」
  黒羽が言った。
 「では、お家を出て?」
 「恥ずかしながらそういうことだ。親父殿のしかめっ面も見なければならぬし、あれやこれやと言いつけられそうでたまらんのだ」
  黒羽はちょっと息苦しい。このあたりであるならいつでも会えるし、会いたくなって抑えられなくなるだろう。

 「そんなことでよろしいので?」
  鷹羽が問うと、宗志郎は浅く笑ってうなずいた。
 「四男坊などそんなものよ。兄が三人、しかもその兄たちとは母者が違う身の上ゆえな」
  後添えの子・・それでは居づらいだろうと黒羽は思う。
 「こたびの役目も棟梁に任せておけば大事ない。夕べもそうだが黒・・いや、あやめ殿に末様と呼ばれたとき、まさに末を思って考えてしまってな。旗本などとふんぞり返る暮らしが性に合わんのだ。棟梁を見ていても、あやめ殿や、こなたかきつばた殿を見ていても、町の暮らしがいいと思う。ま、どう繕っても逃げではあるが俺には城務めは向かんのだ」
  鷹羽が言った。
 「では、すぐにでも?」
 「そうだ、すぐにでも。じつはすでに小さな家を見て来てな。それならと棟梁が探してくれた。あやめ殿のそばにもいたいだろうしと言われてな」
  澄んだ目でまっすぐ見つめられる黒羽。

  黒羽は震えるような想いを、ちょっとうつむき噛み締めていた。これほど素直に想いを告げてくれるなどとは思いもしない。
  片や鷹羽も女。そうした黒羽の想いを察した上でほくそ笑み、黒羽の肩をちょっと突いた。
 「それで、どのへんで?」
  と、そう言う黒羽の声がか細くなったと鷹羽は思う。
 「この少し先なんだが、ほんに小さな家でな、いまは古くて汚いが気に入るようなら手を入れてやると棟梁が言ってくれ、手直しぐらいでいいのなら、まずは三日ということだった。いまのままでは厨と風呂が使えぬ」
 「あ、はい、左様で」
  風呂・・ああ、たまらない。黒羽は己の中にこれほどの女の情が眠っていたのかと驚くほど、身震いするような想いを感じていた。つい夕べお座敷で会ったばかり。しかもこちらは売り物の芸者であった。あたしはもう三十路。どうかしてると思っても胸が詰まる苦しさは何なのか。
  宗志郎は言う。
 「さすれば胸内(むなうち)に紅差すお方ともども遊びに来られるではないか」
 「え・・」
  黒羽は驚きの面色で宗志郎を見つめていた。胸内に紅差すお方・・あのときお座敷で赤襟を返していた姉の胸の内までをもくんでくれるお人。そうした物言いが嬉しかったし、なんと粋なお人だろうと思うしかない。

  そしてそんな想いが黒羽を女へと化身させる。腰のどこか奥底が疼くような、いまにも乱れだす性への予感。
  片やの鷹羽。剣を持たせればとても勝てない姉様なのに、その姉様をこれほど見事に変えられる男がいるというのか。そばにいて横目に見るうち、嬉しくなってならない鷹羽であった。
 「では三日でそちらに?」
  もう声もなくした黒羽の代わりに鷹羽は問うた。
  宗志郎は鷹羽に微笑み、それからまっすぐ黒羽を見つめた。目と目が合って黒羽はとてもそらせない。
 「三日というのはそれだけ手直しにかかるということでな。ううむ、四日かな? はっはっは」
  黒目を回すあのときの仕草が童のよう。鷹羽は笑い、黒羽はますます頬が火照ってたまらない。

  宗志郎はふいに言った。いいや、言いかけた。
 「それしても、あやめ殿のあの太刀筋、あれは一刀・・」
  一刀流と言いかけたそのとき茶屋のすぐ表で騒ぎが起きた。男どもの怒鳴り声と若い女の悲鳴が響いてくる。
  宗志郎は傍らに置いた剣を取ると、涼しい面色で座を離れ、黒羽鷺羽の二人がそれに続く。
  外に出てみると、どこぞの藩のご立派な若侍が三人。地べたに崩れた一人の町娘を囲んでいた。娘はまだ十代であったろう。赤い格子の着物を着て、胸を抱くようにへたり込んでしまっている。
  スリだった。ちょっとぶつかり懐から財布を抜き取る。しかし相手が悪すぎる。三人で歩いていて、そのうちの一人が二人と別れて歩き出し、娘はその一人のほうを狙ったようだ。
  男たちは泣いて震える娘を三方から囲んでいて、斬り捨てると言って息巻いている。宗志郎は割って入った。

 「まあまあ、そう責めずとも」
 「何者だ貴様は!」
 「いやいや、この茶屋でしっぽり。それだけの男でござるよ。見ればまだ小娘ではないか。盗られたものも戻ったようだし、このように泣いておる。許してやってはくれまいか」
  穏やかに話す宗志郎だったが侍三人はおさまらない。三人は三人ともに二十代の若侍。それだけに血気盛んで頭に血が上っている。
  宗志郎に対していまにも剣を抜きそうな身構え。取り囲んで見守る多くの町人たち。なのに宗志郎は、しごく平然と三人を見渡して言うのだった。
 「そなたらが許せぬ気持ちはよくわかる。ではこうしよう」
  とそう言うと、宗志郎は地べたに崩れた娘の手を取って立たせ、泣き顔を覗き込んで言う。
 「盗みをしたのはおまえだな?」
 「はい」
 「悔いておるな?」
 「はい」
 「うんうん、ではそこに立っておれ。動くでないぞ」

  刹那、宗志郎の腰から抜き放たれた白刃が目にもとまらぬ速さでツバメが飛ぶごとくキラキラと宙を舞い、立たされた娘の着物をボロ布に変えていく。
  突っ立って見つめる三人の若侍は一歩また一歩と退いていき声もない。三人がかりで手向かっても、とても勝てる相手ではないと見定めた。
  帯を断たれ、袖を切られ、裾を切られ、娘はそのたび露わとなっていく赤い湯文字と若い肌に呆然としながら、泣いて泣いて涙を流す。
  娘の着物をボロ布としておきながら肌には傷ひとつ残さない剣さばき。半裸となった娘が胸を抱いてくずおれて、宗志郎は白刃をくるりと回して鞘におさめ、三人の若侍に向かうのだった。
 「これでどうか? この娘はこうして町中で恥もかき心底悔いておるはずだ。拙者に免じて許してはもらえぬだろうか」
  若侍三人は、宗志郎のあまりの剣に声もないまま、うなずいて去って行く。そして黒羽がすっと歩み寄り、羽織っていた薄い綿入れを脱いで娘の肩に掛けてやる。
  町人たちからやんややんやの拍手が起こり、宗志郎は、泣く娘の肩に手を置いた。
 「二度とやるなよ、よいな、わかったな」
 「はい、ありがとうございました」
 「うむ、もうよい去れ」
  娘は幾度も頭を下げて逃げるように駆け去った。

  末様の太刀筋は柳生新陰流・・いいや少し違うと黒羽は思い、鷹羽は恐ろしく強いと愕然としていた。新陰流にもいくつもの流派があって、柳生の剣とは太刀筋が違うもの。
  宗志郎が、ふむ、と息にのせて、語調を変えて言う。
 「さて。あーあ、なぜにこうなるのやら。しっぽりどころかあんぐりであったろう。みっともないところを見せてしまったな。うむ四日だ。四日したらまた会おう。雲行きも怪しいゆえ今日のところはさらばだ、むふふ」
  ふざけるように笑って歩み去る宗志郎の背を見つめ、黒羽は、末様の女になると確信できた。そしてふと空を見上げ、いつの間にかひろがりだした黒い雲を見回した。

  その夜、艶辰に女将の美神が戻ったのは、夕刻前よりかなり遅い暮れの六つ(七時頃)。時につれて本降りとなった雨に道がぬかるみ、そうそう早くは歩けない。美神は戻ってすぐ、そのとき迎えに立った鶴羽に言った。
 「おや、いたのかい?」
 「はい。お呼びはかかったのですが、この雨でまたにすると」
 「だろうね、外はびしゃびしゃだよ。他は?」
 「お艶さん三人だけ。他はおります」
  お艶さんとは美介彩介恋介の三人衆。色を求める客には雨などさしたることでもないようだ。美神は笑い、紅羽そのほか四人を集めるようにと言った。
  紅羽黒羽の姉妹に、鷺羽と鷹羽、それに鶴羽が顔を揃えて大きな火鉢を取り囲む。
  美神が言った。
 「ようやくつかんだ、市ヶ谷に『人吉(ひとよし)』って口入れ屋があるんだが、そこが根っこよ」
  鷺羽が言う。
 「人吉か。まさしく人を喰った名だこと」
  それに美神は笑ってうなずき、さらに言う。
 「表向きはちゃんとした口入れ屋なんだが裏ではあこぎなことをやってやがる」

  それが美介を遊郭に売り飛ばした輩である。女衒(ぜげん・人買い)の出入りする口入れ屋であり、仕入れたモノによって、遊郭に売り飛ばしたり、美形であれば色狂いの武家の家へ法外な値をふっかけて売り飛ばす。そうした娘らの中から川に浮く土左衛門が出るに至って、放っておくわけにはいかなくなったということだ。
 「相手は総勢十人ほどだが用心棒のような痩せ侍もいるってことだから、心してかかるんだよ。明日にでも早速始末しておしまい」
  置屋の艶辰はときとして休みとなる。そういう事情があったからだ。

  ところがそんなとき、慌ただしく戸を叩く音がする。
  皆で顔を見つめ合い、そのときは鷹羽が立って戸口へ向かった。
 「ああ、いたいた、鷹ちゃん大変なんだよ、すぐ来ておくれ」
  浅草寺そばの馴染みの蕎麦屋の女房だった。
 「いますぐ?」
 「すぐにだよ。ほら昼間のあの小娘がさ」
  昼間、宗志郎が救った小娘が着の身着のまま、あの茶屋に飛び込んで来たという。娘は顔を手ひどく殴られていて、目の周りが青ざめていて、飛び込んで来るなりばったり倒れてしまったらしい。
  どうやらあの騒ぎを取り囲んだ町人たちの中に鷹羽を知る者がいたらしい。茶屋と蕎麦屋はすぐ近所。それで蕎麦屋の女房が駆けつけたということだ。
  戸口で大きな声を張り上げるものだから、美神そのほか皆が出て来て、黒羽が昼間にあった事の子細を美神に告げた。
  盗みにしくじって折檻されたのだろう。
 「わかった、行っておやり。ここに連れて来るんだよ」
  美神に言われて黒羽と鷹羽、それに鷺羽の三人が雨具を着込んで飛び出した。

  あのときの小娘は、名をお光(みつ)と言って、まだ十七歳の娘であった。顔をこれでもかと殴られていて、鼻血がひどく、全身濡れねずみ。泥だらけの着物は蕎麦屋で着替えさせてもらっていたが、裸足で走った足は泥だらけ。町娘の結い髪など乱れに乱れた姿であった。
  美神の見守る前でお光は裸にさせて体を拭かれ、寝間着を与えられて横になる。若い裸身に傷はなく、皆はちょっとほっとした。
  お光の姿を黒羽も鷹羽も覚えていたが、お光はそれどころではなかった。見ず知らずの女ばかりに囲まれて怯えきっているようだ。
  手当てをされて晒し布を鼻にあてられ、お光は息も絶え絶えだった。
  青ざめた面色で横たわる床のそばに美神は座り、怯えのせいか冷えたせいか震える頬にそっと手を置く。
 「お光と言ったね? 十七だとか?」
 「はい光です、歳も、はい」
 「うむ。おまえスリを働いたって? それが生業かい?」
 「はい、あたしら皆、見張られて働いて・・スリもだし置き引きとかも」
 「しくじって折檻された?」
 「そうです、はい。あたしら、しくじるといつもそう」

  美神はなんてことかと首を振って皆を見渡す。
 「それで逃げて来たんだね? どっからだい?」
 「下谷」
  下谷なら近い。
 「下谷? 下谷のどこさ?」
 「神田との境のへんに『我門(がもん)』て言う組があり・・あの、ここはどこ?」
  星のない雨の夜。裸足で死に物狂いに走り、それから黒羽らに両脇を抱えられてやっとの思いでここまで来た。両国橋を渡ったことさえ覚えていないようだった。
  鷹羽が言う。
 「本所深川だよ」
 「なら近い。下谷広小路の通りから一本向こうの路地に入り、少し行くと左に小さなお稲荷さんの赤い鳥居。その角を左に入ってすぐのところ」
  あのとき騒ぎのあった場所からも遠くない。
  美神が問うた。
 「やくざ者なんだね?」
 「はい。親分は女の人で、名は里(さと)って言う恐ろしい女。そこであたしら見張られて暮らしてて」
 「手下の数は?」
 「五人です、皆が若く、はみだし者ばかり」
 「おまえはどうしてそんなことになったんだい? いつから盗みを働いてる?」
 「あたしは下野(しもつけ)の山里の出で、妹たちが二人いて喰えなくて、それで売られそうになったから逃げたんです。十四のとき。それで彷徨ううちに江戸にいて、けどやっぱり喰えなくて親分さんに拾われた」
 「じゃあ十四のときからずっと盗みを?」
 「はいずっと。けどあたしらの中には十三の子もいて」
 「十三・・それで娘らはどれほどいるんだい?」
 「あたしのほか四人です。上でも十八。一人がしくじると皆が叩かれ、だから逃げられなくなるんです。あたしら仲がいいから」
 「男どもに体は?」
 「それは、あの・・」
  お光は唇を噛んで声もない。
 「だろうね」
 「だからあの、それもあって逃げられなくて」
 「どういうことだい?」
 「はみ出し者でも、あたしらみんな生娘だったし、甘えられたりして可愛いところもあるんだし・・」
  これには皆が声をなくした。最初の男を想ってしまう娘心が可愛いし、哀れでもある。それにしても十三歳の童にまで・・。

  美神はため息をつきながら、わずかに首を横に振った。
 「なんてこった、あっちでもこっちでも」
  たったいま、それとよく似た別の件を話したばかり。美神は呆れ果て、しかしその刹那、怒りに満ちた眸の色で皆を見渡した。
  しかしこうしたとき、組をつぶすのはたやすくても、それでは結局、娘らが路頭に迷うことになる。美神はちょっと考える素振りをすると鷹羽に言った。
 「不忍池の向こうに妙香院(みょうこういん)て尼寺がある。下谷広小路ならすぐそこさ。このあたしが言ったって言やぁ娘らの面倒をみてくれる。鷹、鷺、それに鶴、ご苦労だけどすぐにかかりな。殺るまでのことはないよ、こっぴどく痛い目みさせてやりゃあいいだろう」
  三人は互いに顔を見合わせてさっと立ち、奥へと消えて、そのまま艶辰から姿を消した。

  怖くてならないお光。すぐそばで恐ろしいことを言い放った、あまりにも美しい美神を見上げて言うのだった。
 「あの、女将様」
 「なんだい?」
 「ここはどういったところ? あたしのこと番屋へ?」
  美神は微笑み、冬の雨に冷え切ったお光の額をそっと撫でて言うのだった。
 「しばらくはここにいな。それからのことはおまえ次第さ。ウチは置屋だよ」
 「置屋? 芸者さんの?」
 「そうさ芸者の置屋。あたしはその女将ってこと。おまえなんぞ突き出したって寝覚めが悪くなるだけよ。死の者狂いでやるなら置いてやる。ただし下働きからだよ」
  お光は目を丸くする。
 「置いてくれるんですか? あたし盗人なのに・・」
 「もういい言うな、今宵は寝ろ、ひでぇ面だぞ」
  男っぽい物言いでも頬を撫でてくれる手がすべやかで温かい。お光はそれでようやく力が抜けて、抜けたとたんに眠ってしまう。疲れ果てているのだろう。

 「この雨の中を裸足でさ・・可哀想に・・」
  額や頬を撫で続ける美神。よかったと黒羽は思う。
  あのとき末様に救われて、逃げようとしたときにとっさにあの場所を思ったのだろうと考えた。人の情をはじめて知ったあの場所を。
  そしてそんなとき、別棟にいた男芸者の二人が顔を出す。姉様たちが慌ただしく出て行く気配に、何かあったと気づいたのだろう。美神は二人の顔を見るとちょっと考える素振りをして言うのだった。
 「この子はお光、まだ十七だよ。おまえたちの部屋で面倒をみてやるようにね」
  二人はきょとんとして顔を見合わせていた。黒羽には、そうした美神の想いはわかる気がした。