二話 くノ一の目


 才蔵とお泉のふたりが洞穴の湯に溶けていた頃、粗末な小屋のよ
うな家が並ぶ一軒の屋根の下に女たち三人が集められていた。
 女たちは三人ともに歳の頃なら二十代の終わりから三十そこそこ。
最前、千代がくノ一だった者が三名いると言った、その三人だと思
われた。
 千代が言う。静かな声だ。
「まあ楓を救ってくれたんだ、差し迫った敵ではないだろうけど目
を離さないことだね。あのふたりはできる。男のほうは見ず知らず
の我らに囲まれ、刀を委ねていながら平然としていた。イザとなれ
ばいつでも奪い取って抜けるからだよ」
 女たち三人は顔を見合わせてうなずいて、そのうちのひとりが言
った。
「女が持つ杖だって、あれは仕込み。女も強いと見たけどね」
 千代がうなずく。
「我らが束になってもおよばない、あのふたりはそういう者どもだ。
あのときの言いぐさを聞いただろう。『流れ流れた木っ端のトゲが
艶布を引っかけた』・・女のことをツヤ布だよ。浪人の成りはして
いても、かなりな家柄の武士と見た。心しておかねばならぬだろう」
 女たちはふたたびうなずき合って、千代の前を離れて行った。

 そしてそれと入れ替わりに洞穴の湯から駆け戻ったお邦が、にや
にや笑いを噛むような面色でやってくる。
 千代が問うた。
「どうだった? 何が可笑しい?」
「ふふふ、どうもこうも、あのふたりはじめてのようだった、抱き
合うのが」
 千代がちょっと眉を上げた。
「そう見えたかい?」
「女が恥じらって『嬉しい』って言い、男が『俺もだ』と言うと、
女は『ほんと? ほんとのこと?』って甘えてた。男はやさしい。
女のほうから惚れてるって感じでさ、見てて羨ましくなってくる」
 千代はちょっと笑って考える素振りをすると、独り言のように言
うのだった。
「だとすると恋仲、それもはじまったばかりの男と女。それで? 
ほかには?」
 お邦は聞き取れなかったと首を横に振ったのだった。
 千代が言う。
「考えすぎか・・悪い癖だね。まあいい、しばらく様子を見ようじ
ゃないか」
 お邦は笑いながらちょっと頭を下げて部屋を出た。

 洞穴の湯を出た才蔵とお泉だったが、そのときはまだ斜陽には早
い刻限で、傾きだしたお日様が背後の崖の上に浮いている。
 この湯へ来るとき、ある家の裏から回って来たのだったが、洞穴
を出てふと見ると、そちらが表と思われる道筋が見えている。才蔵
を離れてちょっと覗いたお泉が、たちどころにあることに気づいて
いた。
「ごらんよ、家々は道筋の左右に分かれていて真ん中を道が貫いて
る」
「うむ? それが?」
「道は狭いよ。そりゃそうさ、ここはもともと人が住む家じゃない
からね。番屋とは納屋も兼ねるもの。荷車を引くにしても道筋はま
っすぐ通っていたほうがいいはずさ」
 なるほどと才蔵は思う。せっかく筋の通る道すがら、わざと邪魔
をするように、家々の何か所かから別棟となる納屋が造られて道を
遮っているのである。大勢の敵に突き進まれないために。忍びの知
恵でもあったのだろうし、それも兵法。敵への備えをしているとい
うことは戦うときのことを考えるがゆえ。

 お泉は言った。
「考えすぎかも知れないよ、女ばかりの部落だからね、逃げやすい
ようにしてるだけかも知れないし」
 一目で見抜くくノ一の眼力に、才蔵はちょっと笑ってお泉の腰を
すっと抱く。とっさにお泉は腰を振って手を遠ざけた。
「あ・・見られるだろ」
「かまわんさ、だから何だってことじゃねえか」
 おおっぴらに男女の仲を見せていい。これほど嬉しいことはない。
 お泉は唇をちょっと噛んではにかんだ。もうくノ一だったあたし
じゃない。影じゃない。そう思うと崖の上に浮いているお日様が眩
しく見えた。

 崖を西の背にするこの部落のありようだと、お日様が崖に隠れた
とたんに暗くなる。眼前の松林が明るくても家々のならぶ場所だけ
に、いきなり夕刻がやってくる。
 いまはその寸前。湯を出て佇むふたりを目ざとく見つけ、女がひ
とり歩み寄る。背丈はそこそこ。海の仕事で逞しく焼けた肌。髪は
そう長くなく、結わずに上にまとめた姿だった。海女ばかり。そう
言えばここの女たちは、年長の千代のほか髪を結ってはいなかった。
そっけなくまとめただけだったし、潮にやられて髪の毛が赤茶けて
いる。厳しい暮らしを物語るようだった。
「家を用意しました、こちらへ」
「うむ、すまぬな、世話になる」
「いえ・・」
 女は、男の腰の低さにあらためて探るような目を向けて、横を歩
きながら言う。
「あたしは涼、涼しいと書いて涼」
「そうか、お涼さんか。ときに、ここの女たちは髪を下ろしたまま
のかい?」

 なにげなく訊いたとき、お涼は、なぜかそばを歩くお泉へと目を
やって、ちょっと笑って言うのだった。お泉は見事に結い上げた黒
髪だった。
 お涼は言う。
「あたしらみんな海女なんだよ。朝には海に出て働いてる。髪なん
てなくたっていいくらいさ、男がいるわけじゃないんだし」
「採ったものを売ってか?」
「もちろんそうだけど、売るより喰うためって言ったほうがいいだ
ろうね。近くで菜物なんかを仕入れるときに畑のものと交換するっ
て感じかな。たくさん採れたら買い付けの船が来るから売るけどさ。
合図があってね、たくさん採れたら旗を立てるって寸法なんだが、
だいたいは喰うだけ採ったらおしまいにする」
「厳しい暮らしだな」
「それはね。けど、あたしらはそれでいい。身の丈以上のものを求
めない。あたしはくノ一だった。陸奥(むつ 福島~青森あたり)
のさるお武家に仕えていたけど、あたしの役目は色じかけ。哀しく
なって逃げたんだ。抜け忍なんだ、ここのほかでは生きていけない」
「そうか、すまぬ、つまらんことを訊いたな。けどよ、ここのみな
はキラキラしてら」
「え?」
「これほどの海が相手よ、人また人の煩わしさから解き放たれてな。
おめえさんも忘れちまえ。おっと、思い出させた俺が言う台詞じゃ
なかったな。ふっふっふ」

 お涼は何を思ったのか、ふいにお泉に向かって言うのだった。
「楓のこと礼を言うよ。妹分なんだ。あたしだってくノ一だったけ
ど、知ってのようにくノ一にもいろいろあってね。剣もダメ、毒を
盛ったことはあっても毒なんてつくれない。忍び込むのも下手だっ
たし、そうなると奉公してでも入り込むしかないじゃないか。娘の
頃から女中だった。ずっとそうやって生きてきた。年頃になると、
わざと裾を乱してみたり、男どもの気を引くようにさ」
 才蔵は言う。
「それは役目だ、おめえさんが汚れたわけじゃねえからな、心得違
いするんじゃねえぞ」
 お涼はハッとするように才蔵を見つめていた。
「やさしいんだね、ありがと。さあここだよ、じきに夕餉を運ばせ
るから」
 わずかな歩みで家の前。そこもまたちっぽけな小屋だった。引き
戸の板戸がガタピシ開けられ、入ろうとしたときに、となりの家か
ら、お邦が出て来てにやりと笑った。

「あっ、こらてめえ、ぶった斬るぞ、着物の帯をよ」
「へんっ、べーダ! ヤなこった! あははは」
「てめえ、待てこらっ!」
 追いかける素振りをするとお邦はすっとんで逃げていく。
「ふっふっふ、どうしようもねえ娘だな」
 そんな様子を呆れて見ていて、お涼が言った。
「お邦が何かしたのかい?」
「覗きやがったのさ、湯をよ」
「あれま」
 お涼はくすっと笑ってお泉を見たが、お泉はそっぽを向いて、ち
ょっと怒った面色だった。
 お涼は言う。
「そうだったのかい、ふふふ。お邦は十五、いちばん若い。ふざけ
てばかりで、どうしようもないんだよ。許してやっておくれね」
 才蔵は首を振る。
「端から怒ってなどいねえや。平素が女ばかりで男がめずらしいん
だろうぜ。夕餉が済んだら遊びに来いって言っといてくれねえか」
「うん、わかった。じゃあ、じきに夕餉だからね」

 家に入って板戸を閉めて、お泉は呆れて笑って言う。
「たまらないね、会ったそばから魂抜いてる」
 言いながら、お泉は才蔵の胸へと流れて抱かれていった。心がど
んどん崩れていく。この人のためなら何でもできると思えてくる。
「夕餉か、ちと早い気がするが」
「海女は朝が早いから」
「なるほど。そう言やぁ、若狭の海でも暗いうちから船が出たな」
「そうだね。けどもう若狭には・・遠いよね」
「うむ、俺もそうさ、若狭どころか、江戸だろうがどこだろうが、
侍など見たくもねえ」
 そう言って抱きくるまれて、背をそっと撫でてくれる才蔵。今宵
あたしは抱かれると、お泉は心が震えてたまらない。

 小屋の中は、入って土間、一段高くて板の間で、板床の奥のとこ
ろにすり切れた畳が二枚敷いてあり、布団が二組。夜具の間を空け
ることもできなそう。畳にすれば五畳ばかりのいびつな部屋。炭の
燃える大きな火鉢に鉄瓶がのっていて、いまに湯気を噴き上げそう。
厨も厠もない、まさしく小屋だったのだが、お泉は草源寺の狭い庫
裏を思い出し、それより狭いと可笑しくなった。
 つっかえ棒で開けた小窓が造られていて、閉じれば闇がやってく
る。
 部屋に上がったふたりは座布団さえない板の間に申し訳程度に敷
かれた畳に座り、お泉が立って茶を淹れて、ふたたび座った。草源
寺で感じたよりもさらに気の抜ける、ふたりの間合い。
 ほどなく板戸がガタピシいって開けられて、お邦が膳を二つ運び
込む。
「これは美味そうだ、貝に魚か」
「地物の牡蠣だよ、それに冬ならカレイだね。美味いよー」
「おめえの膳はねえのかい?」
「あたしは向こうでみんなとさ。邪魔しちゃ悪いし。ふふふ、姉様
言ってた。お涼の姉様」
「おうよ? 何と?」
「お泉ってお人が羨ましいって。あたしも思うよ、羨ましいって」
「そうか、じゃあ後で来いや。海のことでも聞かせてくれ」
「けどさ・・」
 お邦は上目がちにお泉を見た。
「いいから来い、覗いた罰だ、尻めくってひっぱたく、ふっふっふ」
 チロと赤い舌先を覗かせて、頭を下げてお邦は出て行く。

 このとぼけた間合いは何だろうとお泉は思った。あのとき剣を抜
いた才蔵は鬼神のごとく強かった。なのにいま、まったくそこらの
男に成り下がる。どうしようもなく惹かれていく。お泉の体は火照
っていた。