終話 波濤の村


 師走もなかばになろうとした。冬としては温かいおかしな冬では
あったのだが、それでも風は冷えてきていた。
 才蔵とふたり、旅姿のお泉は、表街道を避けて海沿いを行き、常
陸の国(ひたち 茨城あたり)の白波立つ海を見ながら歩いていた。
草源寺を出てふらりふらり。三日ほどが過ぎていた。
 江戸から少し離れるまでは表街道を行きたくない。江戸への出入
りに巻き込まれるのはまっぴらだった。それゆえに東海道は避けた
かったし、こんなことのあった後だけに駿府に近い伊豆というのも
気乗りがしない。役人どもの姿さえも見たくない。海沿いには旅籠
などない漁師の部落が点在していて、そうした家々に一夜の宿を借
りて歩みを進めた。

 北へ行こう。そうは思っても、なにぶん冬。常陸でもよし、陸奥
(むつ 福島から青森あたり)でもよし。どのみち行くあてのない
旅だ。雪が来る前に行けるところまで行こう。江戸より北は才蔵に
とってもお泉にとってもはじめての地であった。
 お泉は思う。北は遠く雪は白い。くノ一であった身の上を消し去
って、これまでの汚れを白い雪で覆い隠す。そんなことができれば
いいと願っていた。
 このままもう少し海べりを歩き、江戸から離れたところで陸側に
向けば奥州街道に入って行ける。旅籠もあれば湯もあって、忍びの
役目ではないゆるりとした旅路に酔っていける。夢を抱いて歩いて
いた。

 そこはわずかな砂浜。人の背丈の倍ほどの岩の崖が左にあって、
右は海。白波立つ冬の潮が押し寄せて、若狭の海を思い出す。冬の
若狭は鉛色。寒風が吹き寄せて海が荒れる。しかし見渡す限りの大
海は、空が青く、海が青く、白波が絵のように美しい。
 役目を忘れてふたりで行ける。お泉にとって目にするすべての景
色が光り輝いていたのだった。
 砂浜は岩の崖の凹凸に沿って左にゆるやかに曲がり、崖に隠され
ていた行く手の浜がひろがりだしたところで、才蔵もお泉もほぼ同
時に、崖下に倒れる人影を目にしてしまう。
「行くぞ」
 走りたくても砂に足を取られ、北からの向かい風がなおいっそう
邪魔をする。

「おい・・おい! どうした、誰にやられた!」
 粗末な成りの若い女。崖から落ちたことで裾がまくれ、腿の中ほ
どまでが陽に焼けた女の肌が露わ。背中に袈裟斬りの刀傷、しかし
浅く息がある。
「ぅぅ・・ぅむむ・・む、むらさめ・・きょうだい」
「村雨か? 村雨兄弟と言ったか?」
「ああそうだ・・うぅむ」
 そしてそのとき、崖裏から急傾斜を滑るように大勢の者たちが降
りてくる。前から五名、後ろから七名、いずれもが若い女どもで、
着物は粗末。毛皮のチョッキ、手に手に漁具の銛(モリ)や長ナタ、
木でできた船の櫂(かい)や長い棒を手にしている。
 その成りからも、ここらの部落の女どものようだった。

「てめえ、村雨だな! よくもやりやがったぜ、おおぃみんな殺っ
ちまえ!」
「おおぅ!」
 一斉に中腰となって身構える女ども。才蔵は、瀕死の女をお泉に
診させておきながら、囲む女たちに立ちはだかる。
「待て待て、村雨兄弟とは何者だ、我らは違う、旅の途中、通りが
かっただけの者」
 そしてそのとき女の傷を診たお泉が言った。
「浅いよ、早くしないと」
 才蔵はうなずくと囲む女たちに言う。
「聞いた通りだ、早く運べ、女は助かる」
 囲む女どもは顔を見合わせ、姉貴格と思われるひとりが、切っ先
のギラつく銛をそれでも構えながら問う。
「まこと村雨兄弟ではないのだな?」
 才蔵は声を荒らげた。
「くどい! 問答してる暇などねえ! 早く運べ!」
 女どもは顔を見合わせ、手にした武器を一斉に降ろすと、倒れた
女の元へと駆け寄った。
「楓! 死ぬな楓!」
 楓・・お泉は配下だった同じ名の女をとっさに思い、才蔵もまた
よく知る楓の姿を思い出す。

 斬られた楓は若かった。明らかに十代。海での暮らしで着物から
出るところが褐色に焼けている。
 倒れた楓に女たちは群がるが、ひとりで背負うには足場が砂で悪
すぎた。
「どけ、俺がおぶる」
 才蔵は青鞘の大小を腰からひっこ抜くと女のひとりに手渡して、
瀕死の楓を背におぶる。
 崖を回り込み、急坂をジグザグに登る道筋を歩き、崖の上に上が
ってみるとそこは松の林。松林を抜けて歩くと、そそり立つ岩と岩
の間に粗末な家が数軒並ぶちっぽけな部落があった。
 楓をおぶって才蔵は走り、家の一軒に運び込むと、そこから先は
お泉の出番。くノ一は傷の薬を携えている。

「うわぁぁ痛いぃーっ」
「手足を押さえな! 手ぬぐいを噛ませるんだ! 楓と言ったね、
沁みるけど我慢だよ!」
「うわぁぁーっ!」
 壮絶な悲鳴が粗末な家に響いていた。

 才蔵は同じ家の中にいて、部屋を離れ、女ども数人に囲まれてい
た。剣は持たない。大小ともに委ねたまま。
 ほどなくして、四十前ほどの年増女がやってきて、才蔵の前に腰
掛けた。年増であっても体は締まり、海の仕事で焼けている。
 女は才蔵の目をしばし見つめると、刀を委ねられた若い女に言う
のだった。
「返しておやり、このお方は違うようだ」
 囲む女たちの怪訝な面色が一斉にやわらいで、女が青鞘の大小を
才蔵の座の前にそっと置く。そのとき女は小声で言った。
「すまなかったね」
「うむ、かまわんさ、楓とかいう娘はきっと助かる」
 女はこくりとうなずいて数歩退いて控えている。
 そしてそのとき、奥の部屋から若い女がやってきて、才蔵に向き
合う年増の女に耳打ちした。
「ほう、見事なものだと・・」

 年増の女はちょっと笑うと才蔵に向かって言った。
「おふたりは旅の途中で?」
「そうだ、三日前に江戸を出たばかりでな」
「左様で。あたしは千代、こう見えても元はくノ一。この部落は女
ばかり。身売りが嫌で逃げて来た者、奉公先で男どもに嬲られた者、
あたしのようにくノ一だった者もいる。これで五人目。楓は助かり
そうでよかったけれど、ほかの四人は遅かった」
「遅かったとは?」
「惨い手口さ、ひと思いに殺りはしない。苦しませ、手当が遅けれ
ば死んでしまう」
「相手は村雨兄弟とか言ったが?」
「そう呼ばれているけどね。兄と妹の二人連れで、頭巾で顔を覆っ
ているが、年格好ちょうどおまえ様方のようなもの。どちらも剣を
使い、兄は武士ふう、妹の方は得体が知れない」

 才蔵が問うより先に千代は言った。
「ときに、おまえ様の連れのお方は? 傷の手当てが見事だそうだ
けど?」
「お泉と言ってな、くノ一だ。いまは違うが」
 千代は眉を上げて納得し、そのときちょうど傷の手当てを終えて
お泉が部屋へとやってくる。
「傷は浅いが毒の刃」
「毒?」
「ありきたりのやり口さ。毒消しを施してある。手当が早かったか
ら、おそらく持ち直すと思うよ」
 才蔵はうなずいて、すぐ横に腰を降ろしたお泉の膝にそっと手を
置く。千代も、そのほかの女たちも、そうした才蔵の振る舞いを見
つめていた。
 千代がお泉に向かって言った。
「礼を言うよ、ありがとね」
 お泉はちょっと頭を下げたが笑みはすぐに真顔に変わった。

 才蔵が千代に問うた。
「どういうことだ? なぜ狙われる?」
 千代は、周りを囲む女たちを見渡して、浅いため息をつくのだっ
た。
「少し前のことだけど、手傷を負って逃げていたお侍をかくまった。
傷が癒えて逃がそうとしたときに追っ手がやってきて、お侍は逃げ、
その後どうなったかは知れないが、あたしらが狙われるようになっ
たんだ。お侍はどうやら何らかの密書を携えていたようなのさ。け
どそんなものはあたしらは知らない。預かった覚えもないしね」
「密書を出さぬなら殺るぞってことか?」
 千代はうなずく。
「村雨兄弟は金で人を殺る殺し屋なのさ。チクチク針で刺すように
惨いことをする。殺しを楽しむようにね。あたしら総勢十四名。四
人殺られてその数だし、襲って一気に皆殺しってやり方じゃないん
だよ。ここらのどこかに潜んでて、ひとりずつ嬲るように手にかけ
る」

 妙な話だと才蔵は考えた。密書などというものを押さえたいなら
大挙してやって来て総ざらえが常道だろう。
 この部落にも何かがありそうだ。やれやれ・・またしても流れ者
の流れが澱んでつっかかる。そう思うと可笑しくなった。

 千代は言う。
「あたしのほか、くノ一だった者は三人いてね、それぞれが甲賀で
も伊賀でもなく流派とてない名もなき一族の末路だよ。あたしは親
父様の代までは風魔。けどあたしが生まれる前に滅亡した」
 そこまで言うと千代はお泉に控えめな目を流し、なおも言った。
「その残党などてんでに散って、なのにあたしは忍びとして育てら
れた。ふたりいた兄が死に、ようやっと独りになれたあたしは、こ
こで女ばかりの部落をつくった。と、そういうことでね」
 奥の部屋から、また先ほどの女がやってきて、今度ははっきり声
に出して言う。
「ひどい熱なんだ、どうしよう」
 千代より先にお泉が言った。
「毒消しが効いてきたんだよ、体を冷やしておやり、傷が開かない
ようにしてれば大丈夫」
 それを聞いた千代が女に向かってうなずいて、女は、お泉に浅く
頭を下げて奥へと消えた。

 千代が言う。
「さて、足止めしちまって悪かったね、どこへなりと行くがいいよ。
楓のこと、ありがとね」
 才蔵が言う。
「てえ訳にはいかねえな、せっかく救った楓とやらが、ふたたび斬
られてはたまらねえ」

 そう言うと思っていた。お泉は、きらきら輝く才蔵の目を横から
見つめた・・。


『流れ才蔵』完  
引き続き、追って『続・流れ才蔵』を短篇としてスタート。
次作は、R18ではありませんが少しだけ艶っぽく。