一話 消えゆく草原


 明け方からの北風がぴたりとやんだ、穏やかな初秋の夕刻前だった。

 起伏豊かな畑地のひろがる裏道沿いに、古くからある縄のれんの飯屋
があった。あたり一帯にどこにでもある百姓家の軒先に縄のれんをぶら
さげただけのような造りの小さな店は、爺さん婆さんが二人で営む。
 そんな店を、年端もゆかぬ小さな男の子を連れた若い女が出て行った。
女は歳の頃なら二十四、五か。黄色格子の町女のいでたちだったが、太
い鼻緒の旅草履。男の子のほうは粗末ながらもそれなりの身なりをさせ
られて、八つか九つ。女の歳からも二人は母子というわけでもなさそう
だった。

「もらわれて行くなんて嫌だっ。姉ちゃんといたらいかんのか」

 狭い店では声が通る。たまさか居合わせた一人の男が、店を出て行く
二人の後ろ姿をちらりと見た。
 男は若かった。三十そこそこ。細身で背が高く、月代を髪草で覆った
浪人髷の侍だったが、そこらにあぶれるサンピンのようでもない。布地
にツギハギのない濃い紺色の着流し姿。目にも鮮やかな青鞘の大小を腰
に差す。凜々しい顔立ちを薄い髭が覆っている。育ちのいい素浪人とい
うのも変な話だが、妙に爽やかな侍だった。

 男の子の手を引いて女が出て行き、店のお婆が厨(くりや・厨房)の
中で連れ合いの爺さんに言う。
「十吾(とおご)ちゃんも可哀想にね、里親探しって言ったって、あの
子はぼちぼち九つだろ、ちょっと大きくなりすぎさ。お香ちゃんも大変
さね、あと一人なんだけどねぇ」
「違いねぇ、三つ四つなら先様でなじみもするんだろうがなぁ」

 夕餉には少し早い飯をたいらげ、男は茶を頼むと言いながら、出て来
た婆さんに目を向けた。涼しい眼をしている。
「ちと立ち入ったことを尋ねるが」
「あ、へいへい?」
「いまのは? もらわれて行くのは嫌だと言っていたが? あと一人と
はどういうこった? 童どもを世話して回っているのか?」
 婆さんは、とっさに奥を見て爺さんと顔を合わせたが、その男は悪人
でもなさそうで、ちょっと困った面色ながらも口を開いた。

「この道沿いの少し先に草源寺(そうげんじ)というお寺がありまして
ね・・」
 婆さんによれば、その寺では孤児や門前に置き去りにされた乳飲み子
を引き取っては育てていた。しかしいまから四月ほど前のこと、その和
尚が死んで寺を継ぐ者がいない。それでそのときお香と言う先ほどの娘
が寺に戻り、四人ほど残っていた童らの落ち着き先を探しているという
ことだった。
「ほら、貧しい家の子らばかりで放っておくとろくなことにはなりませ
んからね。和尚様もウチにはよくお見えでしたが、近頃の親は薄情でい
けないと嘆いておいででしたし」
「うむ、なるほどな。それで里親探しってわけかい?」
「そうなんです、へい。女の子二人はすぐに見つかり、男の子のうちの
二人は三つ四つのほんの童で、これもほどなく見つかりました。そんな
ことでいまの子一人が残ってしまい、あの子は大きくなっていて、いま
さら親だ子だと言われてもなじめないってことなんでしょうけどね」
「それで方々をあたって?」
「左様でございます。ああやって江戸中を歩き回り、探してはいるんで
すが、なかなかねぇ。奉公に出すとなるとまだ小さく、さりとて我が子
となるとちと大きい。ここらの者らも見てるだけで何もしてやれなくて。
早くしないとならないのに」

 男はうなずきつつも、なおも言った。
「早くしないとならないとは?」
「お寺ですよ。継ぐ者のいなくなった寺ですし、それに混み合いだした
お屋敷に囲まれて。なんでもお役人からできれば立ち退くように言われ
ているということでして」
「役人が、なぜまた?」
「へい、聞くところによれば目配り処をつくるんだそうで」
「目配り処?」
「方々の藩の江戸屋敷を見張るにはちょうどいいってことらしいんです。
お寺は三方を浅い谷に囲まれる猫の額ほどの土地。お屋敷を建てるには
狭すぎて向かず、周囲をお屋敷に囲まれだしているんです」
「そうか、なるほどな、小さな番屋ならできるってことかい?」

「へい左様で。けれどそれもお香ちゃんは乗り気でない。お寺はそのま
ま育った家のようなもの。廃れても寺社仏閣ということでお役人として
も無理にとは言えない。立ち退くなら暮らし向きに困らぬようにしてや
ると言われているそうなんですが、お香ちゃんはなぜか譲らないんです
よ。和尚さんとの約束があるとかで」
「ほう約束が? それはいったい?」
 婆は力なく首を振った。
「わかりません。訊いても言おうとしませんし。けどいまのままでは暮
らしが苦しくなるばっかりで。継ぐ者のない寺からは檀家だって離れて
いきますし、もともとたいした檀家でもない。ちょっとぐらい蓄えがあ
ったとしても、そんなものはすぐになくなる。これでかれこれ半年です
からね。村の者らも和尚さんにはよくしていただいてますから、どうに
かしてやらないとって言ってますけど、中には追い出しちまえって惨い
ことを言う輩もいるもので。ここらはもうよそ者の土地になってしまい
ました」

 男はちょっとうなずいて立ち上がり、袂から銭を出して婆さんの皺手
に握らせた。男が立つと小さく枯れた婆さんは真上を見上げるようにな
る。
「すまぬな、立ち入った話をさせた。馳走になった」
 浪人でも相手は武士。婆さんは身を屈めて銭を受け取り、そして言っ
た。
「お武家様は、それをどうして?」
「なぜ訊くかって?」
「あ、へい」
 男は白い歯を見せて微笑んだ。
「最前より声だけは聞こえていてよ、身売りとかそういう話かと思って
な。この太平の世にあって、江戸でもそういうことがあるものかと気に
なっただけのこと。それだけだ、ありがとよ」
 男は婆の細い肩にそっと手を置き、縄のれんをくぐって出た。


 承応(じょうおう)元年(1652年)、その初秋、長月(九月)なかば
の江戸のこと。
 斜陽には少し早い刻限に、草原の残る道筋を一人歩む若き浪人の姿が
あった。ここは四谷と千駄ヶ谷の間あたり。宿場町として賑わう内藤新
宿からも遠くはない。

 江戸が江戸らしく整備されていったのは三代将軍、徳川家光の頃であ
った。町奉行所や関所の整備、日本橋を基点とする五街道の整備もある
し、城中に大奥がつくられたのもこの頃のこと。
 そうした中で江戸の町を劇的に変えたのは、家光が定めた参勤交代の
制度であった。諸藩藩主の正室および世継ぎとなる子息を江戸に住まわ
せ、実質的な人質として諸藩を牛耳る。藩主は一年おきに江戸と国元を
行き来しなければならなくなって、江戸城に近いところに次々に江戸屋
敷ができていく。大藩ともなれば上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷と、
いくつもの屋敷を構えたものだ。
 そのため、それまで畑地や草原だった原風景が見る間に様相を変えて
いき、江戸城下へと発展してきたのである。

 その家光が四十八歳の若さで没し、将軍職を継いだのが四代将軍、徳
川家綱。しかしこのとき家綱は、わずか十一歳、慶安四年のことであり、
その同じ年、世継ぎで停滞しがちであった幕政の弛みをついて由比正雪
一派が倒幕を企てた『慶安の変』が起きている。
 慶安から承応へと年は移ろい、慶安の変の翌年のいま。したがって幕
府は、将軍家お膝元の江戸の不穏を見張ろうと要所に目配り処を置こう
とした。そのひとつが草源寺であったというわけだ。

 空を漂うちぎれ雲が斜陽に赤く染まっていた。じきに九つになるとい
う十吾の手を引き、お香が草源寺に戻ったとき、小さな寺の本堂前の踏
み段に濃い紺色の着物を着た若い侍が座っていた。その傍らに日頃ちょ
っと見ない鮮やかな青鞘の刀が立てかけてある。
 お香はとっさに十吾の手をしっかり握り、身を固くして男を見つめた。
 男は踏み段に腰掛けたままちょっと笑った。
「よかったぜ、この寺にも人はいたようだ」
 お香は、さきほど飯屋にいた男だとは気づかなかった。
「なんべん来たって動きませんから、お帰りください」
 男は目を丸くして眉を上げた。
「何のことやらよくはわからねえが、そうじゃねえさ。俺は才蔵と言っ
てな、まあ流れ者なんだがよ、歩き回ってくたびれちまった。銭もそう
は持ってなく、寺ならと思ってよ。納屋でいいから今宵一晩、頼めねえ
かと思ったまで」
 お香はにわかに信じない。十吾を後ろから抱くようにして歩み寄ろう
とはしなかった。

「姉ちゃん、この人さっき飯屋にいたお侍さんだぜ」
 気づいたのは童の方だ。お香は十吾の横顔を覗き込み、それから才蔵
と名乗った、まだ若い流れ者の顔を見た。
「あなた様は本当に、その、流れ者なのですね? 赤城屋の手先ではな
いんですね?」
「赤城屋? さあ知らねえな。俺は江戸に着いたばかりの身。そう言や
ぁ、さっき飯屋で見かけたような気もするが。なけなしの銭で飯食って、
歩き出したはいいが脚が棒になっちまってる。すでに夕刻、今宵はどこ
ぞの橋の下と思ったところ、この寺を見つけたってわけなんだ」
 お香はちょっとうなずくと、それでも笑顔をつくれなく、才蔵の横を
抜けて裏手に回ろうとしたのだった。

「あいにく和尚様が亡くなられて、ここはもう寺ではございません。け
どそういうことならお武家様を納屋でなんて、あたしが和尚様に叱られ
ます。どうぞおあがりくださいまし。支度いたしますので、いましばら
くお待ちくだされば」
「うむ、すまぬな。薪割りなどいりようなら言ってくれ。女手ひとつで
は辛かろう」
「いいえ、まさかそんな、旅のお侍様に薪割りなどとんでもございませ
ん。では支度したしますので」
 お香はようやくちょっと微笑み、十吾を連れて裏手の庫裏(くり・住
職の住まい)へと入って行く。
 手を引かれる十吾のほうは、侍の客などめずらしいらしく、しきりに
振り向いては笑っている。不遇な身の上なのに元気ないい子だと、才蔵
はほほえましい。