三六話


 深夜になって、重体だったモモもユウを追うように逝ったと連絡を受け、友紀は独りきりの自宅で眠れない夜をすごしていた。このことはサリナには告げていない。出張先の夜、心を乱すだけでどうすることもできないからだ。

 モモこと桃山祐紀(ゆうき)はひとつ重ねて二十七になっていて、ユウはじきに二十四になるはずだった。モモとユウ、細川とyuu、治子とケイ、そして友紀とサリナ、それぞれの愛に前向きに歩んでいたのに、二人の死は暗雲となって心を覆う。いやおうなく自分の愛のカタチを考えさせられる友紀だった。
 ユウと同時期に妊娠したyuuもおなかが目立ち、母親となる幸せに満たされている。おなかの子と家族三人で旅立ったユウの無念を思うと身を裂かれる想いがした。
 子供を持たない生き方は、それでいいのか・・友紀は考えさせられる。

 翌日オフィスに出てみると、誰より先に三浦が来ていて、ユウのデスクに花瓶が置かれ、ピンクと赤、美しい薔薇が二輪、活けられてあった。
 モモ色と、愛に生きた真紅のユウ。そんなことを考えたのだろうと友紀は思った。地味な仏花では若い二人に似合わない。
「このお花、三浦さんが?」
 三浦はうなずきもせず、薔薇となった若い夫婦を見守っているようだった。
 向かい合わせにデスクの並ぶコーナーに、友紀、留美、そしてユウのデスクが並んでいた。友紀の隣りに留美がいて、その対向がユウ。わずかに遅れた留美は泣き腫らした眸を化粧でごまかして出社した。
 三浦は二人の後ろに歩み寄ると黙ったまま二人の肩に手を置いた。振り向く留美は眸が赤く、友紀は放心したように力がない。

 とそこへ、階下のルームに出社した治子がやってくる。治子はデスクの薔薇を見て「ユウちゃん」と言ったきり目頭を押さえて立ち尽くしてしまっていた。
 オフィスに次々に仲間が集まり、皆がユウのデスクを囲んで掌を合わせた。しーんと静まり返った空間に今日はじめての電話が鳴って、それぞれ自分のデスクに散っていく。
「三人とも、ちょっと出よう」
 ここでは話せないと言うように三浦は言った。

 外はせめても気持ちよく晴れていた。揃って歩き出してすぐ、三浦は空を見上げながら言った。
「ポシェットに手帳があって、君たち三人、それに俺の名刺も入っていたそうなんだ」
 うっ・・と、留美のかすかな嗚咽が聞こえた。
「駆けつけようとしたんだが・・それどころじゃなかったよ。他人の入り込む余地はない。双方のご家族に連絡して・・それしかしてやることができなかった。産休の間に小説でも書いてみるって言ってたんだが・・」
 友紀が言った。
「そうですか私たちの名刺を・・仲間だと思ってくれて・・」
「うむ・・ふぅぅ!」
 三浦の声が震えた。ふぅぅっと、ことさら息を荒くして涙をこらえる三浦。
「こういうとき上司とは辛いものでね、後をどうすると考えなければならなくなった。産休もあってそのうちにはと思ってたんだが、いずれにしろ川上君だけでは厳しい。及川君には雑誌のほうで頑張って欲しいし。一言、口惜しいに尽きる」
 ユウの分まで頑張らなくちゃ・・言うまでもなく同じ思いでいた仲間。

 葬儀は月曜と決まり、その前日、本来休みのバロンに、友紀、サリナ、留美、治子にケイと、皆が顔を揃えていた。それぞれ沈痛。ユウの面影を噛み締めている。
 ボックス席に女たちが揃って座り、マスターだけが今日はエプロンをせずに珈琲を支度する。人数分を配って自分はマグカップ。細川が最後に座った。
 声のない空気を見かねて細川が言った。
「思えば、手記というのか、ここから旦那さんのところへ取りに行ったのがはじまりだった」
 友紀は笑った。哀しい笑みだ。
「最初からだわ。モモさんを一目見てときめいてるのがわかったもん。幸せの絶頂だった。いまごろ天国で仲良くしてる。ここで落ち込んでてもあの子は喜ばない。つきなみですけど一家で外国にでも行ったと思って幸せを祈ってあげましょう」
 皆が声もなくうなずいて、そのときサリナが、同席する留美の背に手をやった。留美は振り向き、泣き笑顔をつくってうなずいた。

 そのサリナが言った。
「あのときと同じだわ。人にはこういうことがある。だから女はそのとき燃えていないと可哀想・・」
 あのとき? 皆は淡々と話すサリナの面色を見つめていた。
「何年か前のこと。劇団にいた私は、若くて注目されてる後輩に役を奪われたことがある。その子は美人で踊りもできて役づくりにふさわしい。だけどもちろん口惜しくて・・だけどそんな矢先、同じような事故で彼女は消えた。死にはしなかったけど復帰できないだろうと言われたの。それでその役が私に戻り、そのとき私はやったと思った。『やった! これで舞台に立てる!』・・ひどい話なんだけど、それがプロというものよ。嫌な景色をさんざん見ながら、それでも笑顔で舞台に立ってる」
 自虐はそのへんの鬱積だろうと、もとより友紀は想像していた。サリナは本質のやさしい人。振り切っていても心の咎めはいつか自分を押しつぶす。

 サリナは言った。
「閃光を放って消えていったユウちゃんと知り合えたことを誇りに思うわ。彼女の想い、ここにいる皆の想いに囲まれて私は生きていられるの。だからね、ユウちゃんだってきっとそう、皆の想いを天国で感じていてくれるでしょうし、若くて綺麗なままずっと笑っていられるんだよ。いつまでも落ち込んでるとユウちゃん怒る・・きっと怒る」
 言いながら声の震えるサリナの手を留美とケイがぎゅっと握った。
 友紀は、あのとき作家の瀬戸由里子が言ったことを思い出す。『奴隷は
女王などよりずっと強い生き物よ』・・サリナこそ誇りだと友紀は思った。

 葬儀のあった月曜の夜に友紀の夫、直道は戻ってくる。昼過ぎのフライトで、そのまま社に顔を出し、普段よりずっと早く家に着く。葬儀を終えて友紀が戻ったとき直道は家にいて、黒いスカートスーツの妻を見て、そっと肩を抱き寄せた。
「喪服じゃないか、何があった?」
 友紀はちょっと夫の眸を見て視線をはずした。
「部下の子が交通事故で消えちゃった。おなかに赤ちゃんがいたのに家族三人揃ってね。彼女って二十三だったのよ」
「・・辛いな」
「ううん、もう大丈夫。皆もちろん泣いてたけど心で笑って送り出してあげたから。遺影の中であの子だって笑ってた。可愛い子なのよ天然で・・あなた・・可哀想で・・どうしてユウが・・」
 夫の強い胸で泣き崩れる友紀。直道はそっと抱きくるみ背を撫でてやっている。

 しばらくぶりに見る夫。少し痩せた気がしていた。
 愛する彼の子を残さなくていいのだろうか・・いまならまだ間に合う。
 ユウのことがなければ振り切れていたことが友紀の中で逆巻いていた。私は悪い妻ではないか・・別れてあげたほうがいいのではないか。そうすれば夫は新しい人と家族をつくっていけるだろう・・抱かれていながら良心の咎めのような感情が衝き上げてくる友紀だった。

「・・ねえ」
「うむ?」
 直道は妻の眸を覗き込み、ちょっと笑って額を小突いた。
「こう考えてるだろ、この人の子供を残さなくていいのかって」
「だって・・」
 直道はガツンと妻を抱き締める。
「そういうときいちばんマズイのは生き方を変えることだぞ。感情に流されて変わっていけばいつかきっと後悔する。信念があってDINKSと決めた。俺はそうだしおまえもそうだ。おまえはいい妻なんだ。俺がそれを求めない限り考えなくていいことなんだ」
「・・はい、ありがと」
 寄せられる唇から妻は顔をそむけて言う。
「喪服だだから着替えちゃう・・お帰りなさい、待ってたよ」
「うむ。明日は休みだ」
「そうなの? 私はダメ、数日仕事が手につかなくて溜まってるし」
 夫の手をするりと抜けて友紀は夫に背を向けた。

 主人に抱かれる。三月の間、私を離れた夫の体が戻ってくる。
 鞭痕の綺麗に失せた白い肌で夫に抱かれ、私は、私に対す
 るサリナの愛を思い知る。ユウのことがあってサリナとも逢えて
 いなかった。いちばんマズイのは生き方を変えること。夫に強
 さをもらった私は、今度こそ愛に生きたいと考えた。

 娼婦のように夫に尽くした。奴隷のように夫の心に応えてあげ
 たい。貫かれてあられもない声を上げ、突き抜けるピークへ向
 けて駆け上がる。ああイクわ・・イッてしまう。主人の想い、主人
 への想いを確かめるようなセックスに、私は満たされる女の性
 (さが)を感じている。

 多淫なのかもしれないと思うのですが、あふれでる女心はとめ
 られない。サリナもそうした女だし、留美なんて、サリナと私に
 自分を貸し出すと言ってくれ、三浦さんへの想いだって燃えて
 いる。ユウを送って泣いてくれた三浦さんを誇りに感じ、妻の
 気ままを許容する夫のことも心から尊敬できる。

 私はきっと濡らし続けて生きていく・・どうしようもない悪女なん
 だと自覚しながら、体の中で下向きに咲く牝花の声に逆らえず
 に生きていく。
 奴隷サリナに君臨する女王の準備はできていた。相手が奴隷
 なら女王に徹し、相手が主人や三浦さんなら奴隷になれる。

 女のセックスとは、なんて素晴らしいものでしょう・・。

「濡らすことをテーマとしたらどうかと思って」
 二人きりの会議室で留美が言った。
「それは?」
「オナニーや妄想でもいいでしょうし、たとえば露出とか、エッセイなんかを書きながら濡らすとか。こういうときに女は濡れるだとか、それがプラトニックなものであってもいいと思うんです、エロ本じゃないんだから」
「せつない想い? ときめきとか?」
「そうです。心が濡れるからアソコが濡れるみたいな、とにかく『濡れる』をテーマとするんです。手記でもいいし、よくある告白ブログみたいなものでもいい。あんな感じで濡れる性器に迫るというのか」
「そうするとタイトルは、たとえば何?」
「うーん、そこまでは・・『花の蜜』とか?」
「うん、それじゃ抽象的すぎるでしょうね。『性に潤う女たち』・・書店に立ってドキリとさせて手に取らせるものじゃないとダメ。読者は女性なんだし濡らしていたい願望を持っている・・ストレートに『女でいたい女たちへ』なんていいかも知れないよ」
 留美がやる気になっていると友紀は思う。階下では治子が燃えていると三浦から聞かされる。ユウへの想いが火柱を上げていると三浦も言った。

 今日は金曜。夫は早速忙しく、今日も泊まりだろうと言っていた。
「雑誌と違って時間はあるから持ち帰って考えましょ。濡れるなんてテーマはいいと思うわよ、具体的に何を取り上げるか、もうちょっと考えてみればいい」
「はい、そうします」
「で留美、今日これからサリナの部屋へ行くんだけど一緒にどう? 自分を貸し出してみる気ある? サリナは休みでお部屋にいるわ」
「あ・・はい・・はぁぁン、息が急に・・」
「ふふふ、馬鹿なんだから・・よければ覚悟していらっしゃいな」
「はい・・ンふ」
 心が性の側へと傾斜して艶めかしく笑う留美。女はこの瞬間が美しいと友紀は感じ、『濡れる濡らす』をテーマとするのはいいと思った。
「サポートはするから思うようにやってごらん。ユウが乗り移ったみたいにがむしゃらに」
 友紀は、ミニスカートで出社した留美の尻をバシンと叩いた。

 奴隷の待つサリナの部屋。ドアに立って友紀は言った。
「サリナさんなんて言っちゃダメよ、呼び捨ててやればいい」
「はい・・ドキドキしちゃう」
 ノックする。
「私よ」
「はい、しばらくお待ちを」
 わずかのタイムラグ。全裸となる時間差でドアが開けられ、紫色の首輪をした白いサリナが平伏して女王を迎えた。
「今日はお客様も一緒よ。さ、入って」
「はい、お邪魔します」
 背後から留美が覗くと、サリナはふたたび平伏して、ところが留美はたまらないといった面色で取りすがった。

「サリナさん可愛い、大好き・・ねえ好きなの・・」
 取りすがって全裸のサリナに抱きついて、キスをねだる留美。友紀は可笑しくなって留美の背中をひっぱたく。
「ちぇっ、これだよもう、やさしい子なんだから」
 留美は舌を出して振り向くと、穏やかに微笑むサリナにむしゃぶりついてキスをした。
「おやさしい留美様・・ありがとうございます、幸せです」

 玄関先に二人を残して友紀はすり抜け、ダイニングテーブルに並べられた夕食の支度を見渡した。大きなボウルに生野菜のサラダが置かれ、キッチンでは大きな鍋が湯気を上げる。
「パスタを茹でればいいだけにしてあります」
「それでいいわ、留美の分もね」
「はい、女王様」
 のびやかな白い裸身に黒のサロンエプロンがよく似合う。留美はダイニングテーブルの椅子に上着をかけると手伝うと言ってきかない。友紀は苦笑してリビングのソファに座る。キッチンから二人の明るい声が流れてくる。

 友紀は言った。
「サリナ! 仲良しなのはいいけれど留美はお客様ですからね。奴隷の体をたっぷり楽しんでいただくのよ」
「はい、女王様」
 そしてそのとき留美は言った。
「嫌ぁぁン、素敵すぎて震えちゃいます。お二人を見てると涙が出そう。羨ましいなって思っちゃうし私もMになりたいなって・・ああダメ、くにゃくにゃになりそう」

「はいはい」
 友紀は可笑しくてちょっと首を振り、ソファにごろりと横たわる。
「そのうちまた別荘でも借りて調教しましょ。治ちゃんケイちゃんももちろん呼ぶし・・」
 ユウ・・それにモモがいればと考えて、友紀は静かに眸を閉じた。