2017年01月06日

DINKS~フリーランサー(九話)


九話


 その日は三浦からのアプローチはなかった。妙に近い距離感を感じさせたくなくて軽々には動けないといったところ。
 今日は帰りにバロンを覗く。夕刻前には電話を入れて、オーダーストップのかかる七時半を狙って行く。もっともバロンの閉店は客が途絶えるその日の成り行き。個人店のいい加減さが魅力でもある。

 新宿駅の西口に出て歩きだし、今夜の友紀はサリナのパンティを穿いていると、なぜか心強い気がしていた。サリナの性器と重なる愛の力が背中を押すようにも思えてくる。この時刻の新宿は人また人が無秩序に行き交って、まさに繁華街といったムード。若いカップルの男性が彼女の尻を撫でながら歩いている。友紀は可笑しくなって笑いを噛んで歩いていた。こうして性が解放されていくというのに、他方、コンセンサスが得られていないという臆病な理由で性表現が自主規制される。妙なアンバランスだと友紀は思う。

 バロン。ドアを開けると店内に客はなく、マスターと優子がカウンターを挟んで向き合っていた。優子はごくあたりまえのジーンズスタイルでマスターとは色違いの濃い紺のサロンエプロン。マスターは焦げ茶のエプロン。舞い戻ったyuuの勤め先が決まるまでウエイトレスをさせている。小さな店に二人でいると、これがハマってムードがいい。
「あ、いらっしゃいませ」
 優子はパッと輝き立とうとしたが、『今日は客じゃない』と友紀は言い、椅子を立ちかけた優子の肩を抱いて隣りに座った。

「さてと、何だろね? わざわざ電話して来るとは、いかなる魂胆?」

 マスターらしい言い回し。ちくちく虐めながら微笑むマスターは、yuuが戻って心持ち顔に艶がある。こちらも愛の力だと友紀は嬉しい。
 次回の企画そして社内での移動から話を切りだし、いよいよサリナへ近づいていく・・。

「サリナのパンティ穿いてるの。夕べそっちで泊まって替えがなかった。いま私サリナのパンティ穿いてるの」
 もの静かに二度同じことを重ねた友紀。隣りにいる優子が横目で微笑み、カウンター越しの主と眸を合わせてうなずき合った。
 マスターは鼻の頭をちょっと掻きながら言う。
「なるほど。じつはもう電話をもらってて」
「そうなんだ?」
「生涯のパートナーに出会えましたって泣いていた。出会いのカタチなどどうでもいい。二人がそうやって生きてくれれば嬉しいね」
 友紀の胸はあたたかだった。
「だからなのよ。彼女、私を女王様って呼ぶし呼びたがってる。私がハンパじゃサリナが迷う。そんなつもりじゃないなんて逃げたくないの。それでねマスター、yuuちゃんも聞いてちょうだい」
 優子が体ごとひねって友紀に向き合った。

 マスターに向かって言う。
「yuuちゃんをお借りしたくてお願いに来たんです。SMがどういうものかも知らないし、これからは傍観者じゃいられない。今度の手記だって私は私を書いてサリナの手記と合わせて出したい。尊敬するサリナのために奴隷の想いとはどういうものかをyuuちゃんに教えてほしい。Mの心を知らないとSにはなれない気がするから」
 そして友紀はyuuに向かう。
「お願いyuuちゃん、調教して」
 yuuは、とんでもないことを言いだした友紀をまっすぐ見つめ、その二つの丸い眸に涙をためて沈黙している。

「あそ・・ふっふっふ、なんたる跳ね馬・・あっはっはっ」

 細川は茶化したが友紀の真顔は崩れなかった。
「マスターにもお願いします」
 細川は、またしても鼻の頭を掻いていて、それは細川の癖らしく、困ったような眼差しをyuuへと向けた。
 優子は細川の愛奴yuuとして微笑んだ。
「そのお気持ちがあれば充分です。唯一無二の人として互いを想い、そのときに愛されたいと願うのがM、愛したいと思うのがS」
 このとき友紀は、yuuの言葉を見極めようとするかのような細川の視線に気づいていた。ただ黙って愛奴の声を聞き分けているというのだろうか。

 yuuは言った。
「SMは行為じゃない、心だって言いますけれど、そんな体裁なら誰にだって言えること。心を示すための行為がなければ結局自分に言い聞かせているだけの自己満足になってしまう。したり顔で言う人なんてゴマンといます。私はそう思いますけどね。だけどだからと言ってMとして嫌なのは『おまえのためにしてやってる』って感じが見えてしまうこと。私都合じゃないご主人様の想いが勝手気ままに表現されて、私はただ一心不乱に追いかけていく。ですからね友紀さん」
「・・はい」
「女王様の姿を他人に教わろうとすることが甘いと思う。あふれ出る気持ちをぶつけ合って、その中で女同士でせめぎ合う。それでその中から友紀さんのSとサリナさんのMが生まれる。私がもしサリナさんなら、いまの友紀さんを見てて泣いちゃいますね、嬉しく嬉しくて。友紀さんの試行錯誤を追いかけて最高の女王様にしてあげようと思うでしょう」
 友紀は言葉を失った。孤高とはそういうことだと思い知る。

「ふむ・・まあ・・ふふふ」
 鼻の頭を掻きながら眉を上げてyuuを見つめる細川。いつの間にそんなことの言えるM女となれたのか・・眩しいものを見るときの男の面色であることは友紀にも伝わり、ずっと年下のyuuが苦しみもがいて得た女の居場所であることを痛感した。
「珈琲でも淹れよう」 と、細川は二人の前を離れてドリップのセットにかかる。
「おいyuu」
「はい、ご主人様?」
「後でご褒美だ」
「はいっ」
 弾むように笑いながら、yuuはやおら、横から友紀を抱いて唇にキスをした。
「好きです友紀さん、最高だわ」
 yuuのやさしさ。あのころ変態娘ぐらいにしか思っていなかった自分が恥ずかしくてならなかった。

 自宅に戻って時刻は八時半を過ぎていた。夫はいない。じきに戻るとメールを受け取り、夕食をどうしようと思いながらも、このとき友紀は自信をなくしてしまっていた。何もできずにダイニングテーブルに座り込み、ぼーっと虚空を見つめている。
 九時になって玄関に気配。ハッとして時計を見るとその時刻。夕食の支度は何ひとつできてはいなかった。
「ごめん何もしてないの」
「さては何かあったな?」
「いろいろね。自分が自分じゃないみたい」
「ピザでもとるか?」
「そうして。はぁぁ・・目からウロコとはこのことだわ」
 社内での移動、それに女の性を手記として出版すると夫に告げた。

 今夜こそ夫に抱かれたい。奴隷となって奉仕して夫への愛のカタチを再認識したくなる。私はSなのか。むしろMではないのか。自分で自分がわからない。
 ピザをつまみながら話していた。
「しばらく乱れそう。時間が読めないし、今度のことは勝負だから傍観者ではいられない。泊まりだって多くなるし」
 と言ったとき、友紀はサリナのパンティを穿いていることに思い至った。このままシャワーで抱かれたいと思っていたが、繊細な夫は下着の違いに気づくだろう。友紀が持たない鮮やかなパープルのTバック。Tバックなんて人妻の下着じゃないと考える人並みの妻の感情が、いま思えば可笑しかった。

 変化が起きたのは一週間後の火曜日だった。今日はサリナに逢いに行く。渋谷のジムで生徒を教え、そのままホテルをとると言っていた。ダンスのコンクールが終わりルーティンスケジュールに戻っている。
 午後になってデスクを移動。月刊女性生活の編集部は五階にあって、文芸出版部はひとつ上の六階。神尾書房は七階建ての古く小さなビルであり、七階に重役そして社長室が並んでいる。
 文芸畑のセクションは年齢層がかなり高い。雑誌のルームは二十代から三十代が主力で、それより上は監督の役回り。それに対して文芸は三十代で若い部類。女性の数も雑誌に比べて少なかったし、いわゆる古株が陣取っている。低迷していた女性誌をトップに押し上げた友紀のことはもちろん皆が知っていたし、小さな組織だから顔もほとんどの社員が知っている。辣腕三浦が抜いた女性ということで注目されるのはしかたがなかった。

 しかし友紀にとってそんなことはどうでもいい。周囲の環境ではなく私には役目があってここに来た。新たなデスクにつくなり、友紀はパソコンのモニタをにらみつけて作戦を練っていた。これまでの取材で知り合ってきた、いったい誰に声をかけるのか。サリナとのことをどう書けばいいのか。それしか頭になくて、端から見ると結局ぼーっとしているようにしか思われない。

 と・・なんとなく気配を感じ、そしたら次の瞬間、デスクトップPCのモニタの陰から三浦がにゅっと湧いて出た。
「うわっ・・もう、やめてくださいよ編集長、びっくりしたなぁ」
 三浦には思いのほか子供っぽいところがあるようだ。周りの何人かがそっぽを向いて笑っていた。
「どうした、ぼーっとして? 借りてきた跳ね馬だな?」
「・・跳ね馬って・・ぼーっとなんてしてません、エッチで頭がいっぱいで。・・あ」
 つい三浦と二人のような気がしてしまい、思わず言って固まった。周りがくすくす失笑している。
 三浦が言った。
「聞いたかみんな、我がセクションにはなかった人材だ。間抜けにもほどがある、はっはっは」
 畑違いのセクションになじませてやろうとしてふざけている。友紀は嬉しい。

 しかしその三浦がちょいちょいと手招きした。編集長の席の後ろに小さな会議室が三つ並び、そのひとつへ友紀を誘う。
 応接セットのテーブルを挟んで向き合ったとき、今日の友紀は新しいセクションということでスカートスーツを選んでいて、ミニがますますミニになる。さりげなくスカートを引っ張ってチラと眸をやると、胸の内などお見通しの三浦は笑う。
「あの話だよ、及川君の」
「あ、はい? どうでした?」
「向こうと話したが、ちょっと待ってくれと言われてしまった。二人一緒に失うと辛いというわけさ。次回の移動まで待てと及川君には言ってある」
「そうですか次回の移動で?」
「それは篠崎に確約させた。半年の辛抱だよ。及川君とはじめて話したが、彼女は彼女で欲しい子だね。まあ、ということなんだが、じつは一人育てて欲しい子がいてね」
 三浦が内線電話を取り上げると、会議室のパーテーションを隔てた向こうで電話が鳴る音が聞こえてくる。
 ほどなくして、やはりライトブルーのミニスカートスーツを着た若い女性がノックをして入って来る。小柄でスリム。栗毛のロングヘヤーで眸の綺麗な子だと友紀は感じた。

「木戸優子君と言ってね、二十三歳、バスト40ウエスト40ヒップ40」
「・・それじゃ針金です」 と、友紀はじろりと三浦をにらむ。三浦と木戸という女子が一緒になって微笑んだ。
「去年の新卒なんだが妙な子なんだよ。作家志望で学生の頃から官能小説を書いてるんだが、まぁーひどいもんだ、文章になっとらん。アハンだけで一行をついやすなと言うんだが、まあ叩き直してやってほしいんだよ」
 木戸はちょっと拗ねたような顔をして笑いを噛み殺した。明るい子だろうと思わせる。友紀はなにげに木戸に言う。
「官能小説ってどっち方面?」
「て言うかぁ、M女小説なんですけどぉ」
 あちゃー・・天然が入っていると友紀は思わず三浦を見た。かんべんしてくれ。
「そうなんだ? SMに興味あり?」

「Mだもん、あたしぃ」

 呆れて顔を見た。どうしてそういうことをこの場で言えるのか、常識を疑ってしまう。ドMなんて言葉が流行りだしてから風紀が乱れだしている。
 三浦が言った。
「ところがなんだよ。書いたものを見てくれって言うからダメ出ししてやったら、翌日また翌日、それでも翌日また持ってくる。それでもダメだと突き放すと泣いてまで持ってくる」
「・・なるほど・・扱いあぐねて私にってことですね?」
「おおぅ、そうそう、わかってくれるか! かんべんしてくれ・・ふふふ、冗談はさておいて、及川君もそうだが君の力になると思うよ」
「はいはい・・お引き受けいたします」

「わぁぁ嬉しっ! あたしのことユウって呼んでくださいね」

 コラ・・ひっぱたくよ。
 しかしその一言で友紀はまじまじ顔を見た。そう言えば・・。
「ユウコの字は?」
「優れた子です、馬鹿だけど。くくくっ」
 字まで同じ。このときyuuにも重なる何かを感じた友紀だった。
 後は頼むと席を離れた三浦。取り残された友紀は天然娘と二人きり。
「M女性の気持ちはわかりそう?」
「わかります、私ほんとにマゾですから。身も心もと言いますが、心を主にあずけてしまってカラダだけの牝になる。心があるから苦しくなる。そんなものだと思ってますけど。よろしくお願いします私のこと」
「う、うん・・」

 おい?
 口調までが違う。素直な自分を怖くて出せず、だからお茶目を偽っている。友紀は愕然としたし、バロンのyuu、もちろんサリナを思い描いて、女の闇の深さを突きつけられたような気分になった。 

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