2017年01月05日

DINKS~フリーランサー(七話)


七話


 思ってもみなかった優子との再会が、友紀にバロンと出会った頃のことを思い出させていた。テーマはSM。それがどういうものかは知識としてかじっていても、当時の友紀にとってはほど遠い世界であって、ひどく陰惨な、まさにマニアックな行為ではないかと、内心ちょっと怖かったものだった。
 SMにもそれぞれあって、この二人のそれは主従。一般人からすればあまりにも猟奇的な奴隷調教とは一線を画していたのだが、そんなことは会って話を聞くうちにわかってきたこと。取材といってもリアルなSMシーンを見せられたわけではなく、あくまでSMという男女のスタイルを聞き出しただけのもの。その頃の友紀にとってはノーマルな性のほかは別世界だったのだ。

 優子は主にyuuと呼ばれた。その頃で二十六歳。愛らしい顔立ちのどこにでもいそうな女の子。もちろんちゃんと服を着て、この人たちのどこがSとMなのか、ちょっと不思議な気分になったことを覚えている。SMはいわゆるアダルト動画の素材として極端に描かれすぎだと思ったものだ。
 yuuがバロンのマスターに出会ったのは、そのさらに二年以上も前だった。優子が二十三から四になる狭間だったという。忘れかけていた取材のディティールが鮮明なシーンとなって蘇ってくる。
 優子は、もっとずっと若い頃からSMに憧れを抱いていて、その頃ネット越しに知り合ったM女性とメールで話すようになっていた。その人の仲立ちで、その頃すでにここにあったバロンを訪ねたということだ。
 取材当日、文字通りマスターである細川はほとんど喋らず、yuuばかりが話していた・・。

「身の上に何があったというわけじゃないんです・・トラウマとか、そういうものは一切なかった。私はただただ弱くて、何をするにも自信が持てず、それまでもちろん恋だってしてきたけれど、私なんて捨てられるに決まってるって思ってたし、だからますます萎縮して、なんてダメな私だろうと自分が嫌になっちゃって」
 主と出会って二年ほどが過ぎていて、友紀にはとてもそんな子だとは思えない。明るく若々しい、ほんとどこにでもいる女の子・・そうとしか思えなかった。

「最初はホテルだったんです。ラブホじゃなく私のためにシティホテルをとっていただき、お部屋に行ったんですが、覚悟したつもりでも、そのときになっても私はまだ、私なんて奴隷としたってダメに決まってると思ってました。怖くて怖くて震えていた。だけど、お逢いしてからの最初の二時間で私のすべてが変わったんです」
「二時間で? たったそれだけの間に?」
「脱げとおっしゃられ全裸にされた私は恥ずかしいほどガタガタ震えた。きっと痛い、きっと恥ずかしい、きっと泣いて耐えられず、やっぱり私じゃダメなんだと思うに決まってる。でも違った。お部屋はダブルで大きなダブルベッドが置いてあり、ご主人様はいまにも泣き出しそうな私をベッドへそっと倒されて、寝ようとおっしゃる」
「寝よう・・?」
「それが逆なんです。裸の私が裸のご主人様を胸に抱いて差し上げて、ご主人様は私の胸にお顔を埋めるように眠ってしまわれた。『今日のおまえの役目は主を気持ちよく寝かせることだ、俺はちょっと疲れている』とおっしゃられ、私は子供を抱くようにしてずっとご主人様を抱いていた。これって何だろうと思ってると、しばらくして目を閉じたまま・・『おまえはこんなにも俺の役に立っている。これほど気持ちよく俺を眠らせてくれている。誰の役に立たなくてもかまわない、ただ俺の役に立つことだけを考えなさい』・・そしてほんとに眠ってしまわれたんです」
「・・嬉しいよね」
 そのときのことを思い出して涙をためる優子を見ていて、内心『この変態オヤジがそんなことを言うのか』と、チラと眸をやると、照れたようにそっぽを向いて鼻の頭を掻いていたマスターの姿までをも思い出す。

 あのとき私は微妙に揺れたと友紀は思い、二人が再会してくれてよかったと感じたとき、次の一瞬、リナの哀しい姿が脳裏に浮かんだ。
 これで想いは届かない。二人の女を行き来するほどマスターという人は器用じゃない。
 サリナに会いたい。これでサリナと私は互いに占有し合える関係へと進んでいけると友紀は思い、そして同時に、たった一度のサリナとのベッドがこれほどまでに私を揺さぶったと、ちょっと信じられない思いもした。夫への不満ではなく友紀は自分のセックスに新しい可能性のようなものが生まれたことが嬉しかった。
 バロンを出て、今日こそちょっと遅くなって時刻は八時。歩きながら携帯を手にした友紀。
「うん、いま新宿よ、ちょっと寄って終わったところ」
「俺もいま戻ったところさ」
「ご飯まだでしょ。たまには外でどう? 十分ほどで駅だと思うわ」
「わかった、じゃあ出ようか。改札にいるから」
 夫と外で食べるのは週末を除いて多くはなかった。夕食ぐらいはゆっくりさせてあげたい。ろくなものはできなくても二人の時間は大切にしたいと思う。夫婦という基盤があっての自分だと思っていた。

 その翌々日の友紀は朝から社を出て二か所ほどを回っていた。女性誌をつくる仕事は、もちろん性的なことだけでなく他にやることはいくらでもある。ファッション、料理、インテリア、手芸などまで、それぞれ別の社内スタッフ、外部のライターなどと組んで取材する。取材は相手があることでもあり予定が平気で動いてしまう。今日など朝スタートして二か所を終えてみると時刻は四時を過ぎていた。最後の取材先が自由が丘。それから小一時間をかけて神田のオフィスに戻ったところでほどなく定時。といって直帰するには早すぎた。
 リナのいるフィットネスジムは都内それに横浜に何か所かのジムを持っていて、リナクラスの指導員になると掛け持ちで回っている。自由が丘から近いところでは渋谷だったが、今日は横浜だと朝のメールでもらっていた。
 それがためにというわけでもないだろうが、リナは東横線の菊名に住んでいる。大都市でクルマの移動はロスがあり過ぎ電車を使う。どちらへ出るにも便利なところ。

 その同じ東横線の自由が丘まで来ていて、行ってみようかとも思うのだったが、はじめて訪ねるのにいきなりキイを使って上がり込むわけにもいかない。駅に立ってメールだけはしておこうと言葉を飛ばし、逆向きに乗って代官山を過ぎるあたりで返信。思ったとおり忙しく、部屋に戻れば八時は過ぎるということなのだが、そのメールの末尾に友紀はちょっと苦笑した。

『ごめんなさい女王様、サリナはちょっと忙しすぎよ・・イジメテ』

 カタカナで『イジメテ』・・そんなことを言いながらきっとウインクしてるでしょうねと思うと逢いたくなってならないし、どのみち近々押しかけていかなければならなくなる。自虐マゾという今度の企画。リナの手記というカタチがいいだろうと思い、その下書きを友紀がする。ヒナ型をつくっておいて読んでもらい本人に加筆させるということだ。手記といっても文章の素人相手に何か書いてとは言えないもの。記事はそうやってできていくものなのだ。

 ほどなく渋谷。乗り換えようと構内を歩いていると携帯に電話が入り、その着信を一目見て、友紀はドキリとしてしまう。相手は三浦。三浦とはあの日以来で連絡先など教えていない。社内で調べてかけてきている。友紀は夕刻の雑踏には少し早い構内で、それでも多い人の波を逸れたところで歩みを止めた。
「いきなりすまん」
「いいえ、何かありました?」
「いまどこだ?」
「渋谷ですけど、三浦さんは?」
「社だよ。ちょっと話があってそっちへ行ったら今日はたぶん戻らないだろうってことだったから。そうか渋谷か・・じゃあ中を取って・・うーん」
「ふふふ、急ぎなんですね?」
「いや別に」
「は?」
「逢いたくなっただけだ」
「ま・・嘘ばっかり」
「えーとだね・・浮かばん。じゃあいい、そこにいろ、すぐ向かう」
「ふふふ、はい、どっかカフェでつぶしてますから」
「そうしてくれ。ハチ公に五時半な」
 笑える。私もこうして押しかけていくタイプ。互いに知らないところで待ち合わせるとロスが生まれる。こっちから行ったほうが話が早い。とっさに浮かばんと言ってたたみかける感じがそっくりだと友紀は思った。

 五時半、ハチ公。
 夕刻が近づいて若者たちの待ち合わせが増えている。仕事で渋谷というとき友紀もここを使ったが、相手が三浦だとドキドキする。こんな気分はどれぐらいぶりだろう。取材の後で今日の友紀はパンツスタイル。それでちょっとは安心できた。
 あのとき思わず夫を引き合いに出してしまった。三浦が相手だとちょっと怖い。

「お!」
「はい・・ふふふ」
「何が可笑しい?」
「だって、これじゃまるでデートです」
「そうだもん」
「・・もう、油断ならない」

 憎めない。「お」と言ってちょっと手をあげ歩み寄る。まったく手ぶらでスーツ姿。仕事を終えた上司と部下の不倫・・そう思われてもしかたのない図柄だった。今夜の三浦は質のいいグレーのスーツに黒い靴。颯爽としていて惹かれてしまう。
「飲むか飯か?」
「お任せします」
「へええ珍しい」
「どして?」
「飲まないけどいいですかって言ってのけるくせに」
「・・うるさい・・そういう気分なんです・・」
 いけない、心が崩れてきていると自覚する。楽しい。友紀は心が浮き立った。

 イタリアンレストラン。ピークタイムの少し前で店内は空いていたのだったが、それでも妙なカップルが多い。明らかに上司と部下の若い女性というパターンだ。不倫を特集したとき、そうしたパターンのだいたいがそんなものだと学習した。そしていま私自身がそのパターン・・。
「何をニヤニヤしてる」
「いいえ別に。いろいろ思い出すことがあるんです」
 オーダーしてすぐ三浦は本題を切り出した。
「じつは社内で会議があって、その席で篠塚の野郎が言うんだよ」
 篠塚。月刊女性生活の編集長で四十七歳。直属の上司だったがもっとも苦手なタイプだった。
「売れるのはいいとして、それにしてもそっち系で売れるというのはいいことではないだろうと。そっちはそっちでいいとしても、本来の品位は保っておきたいと。つまりだね、レズぐらいまではともかくもSMだとかニューハーフなんて行き過ぎじゃないかってことなんだ」
「・・何言ってんだか。そうしてありきたりにやってきて売れないからこっちは苦労してるのに」
「だからだよ。若い君が主導して回復している。社としてもヤツより君に注目している。面白くないんだろうが目的は成果だからね」
「そうですよ。それで横槍を入れたってことですか?」
「まあね。僕としては下手に干渉にしてもと遠慮しつつ、それで成果が見込めるならいいんじゃないかと言っておいた。でね早瀬」
「はい?」

 三浦は眉を上げて微笑んだ。
「次回のテーマだが」
「自虐?」
「それだ。すでに進めているんだろうが、あんな雑誌のためじゃなく、こっちで受け持つ手記やエッセイ集としてやってみないか?」
「それってエッセイ集ですよね、ウチで進めることになっていた?」
「そうだよ。あんなもんパワハラさ。聞いていてカチンと来たもんだから、それなら文芸畑で取り上げたっておかしくない。窓際野郎に任せておけない、俺がやる」
 愕然としたし、それならむしろ胸を張ってリナを描ける。リナだけじゃなくこれまでのテーマで知り合った人たちに角度を変えてアプローチしていける。三浦の狙いはそこだと思った。

「そこで君の人脈が欲しいわけさ。じつを言うと会議の後にボスに電話をしてあって早瀬をくれと言ってある。近々移動があるだろう」
 声も出ない。
 ボスとは社長ではない。社長を退いた会長職。まさにトップ。
「どうだ早瀬、これからこっちでやってみないか。人それぞれの愛がテーマ。おまえの好きにやってみろ、タブーなど設けない」
 真っ向からおまえと言われたことで、友紀は震える思いがした。
 このことを一刻も早くサリナに伝えたい。
 店を出て分かれてすぐ、友紀はふたたびサリナにメールを入れてやり、夫に対しても一報を入れておく。急な仕事で泊まりになると・・ライフワークになっていくと友紀は思った。

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