二話


 新宿駅からここまで離れると帰りは京王線の初台から乗って笹塚で降りることになる。
 友紀は笹塚に住んでいた。駅を出て甲州街道を渡ってすぐの九階建て中層マンション、その707号。結婚してほどなく越して来た。中古だったが分譲であり間取りは3LDK。子供を持たないと決めた夫婦には充分なスペースだった。

 友紀の夫は峰岸直道と言って、ひとつ下の三十三歳。大学を出て葵書房に勤めだし、その翌年の夏の海で知り合った。大手電機メーカーのシステムエンジニア。妻の友紀は三十四歳。知り合ったのはおよそ十年前だったが、それから五年ほど付き合って結婚した。子供はいならいという点でも相性は良かったし、穏やかでやさしいところが好ましく、わかり合えるのはこの人だと踏み切った。
 友紀は仕事上、早瀬友紀と旧姓を名乗っていたのだが、もちろん夫の籍に入っていて峰岸友紀というのがほんとのところ。夫婦別姓を認めない国だからしかたがないが、仕事上でずっと早瀬だったわけだから、名前が変わりましたといちいちプライベートを明かして回ることもなかっただろう。

 今夜の友紀は定時に神田を出たものの、バロンで話し込んでて遅くなる。マンションに帰り着いて時刻は八時前だった。いつものようにキイを挿してみて、いつになく鍵が開いている。ドアを開けるとカレーの匂いが流れてきた。夫が戻り、レトルトカレーで済ませようとしていたようだ。
 LDKのオープンカウンターの中に、すでにパジャマ姿で直道は立っていた。シャワーしたばかりのようで髪が濡れ、石鹸の香りが漂っている。

「早かったのね、めずらしい」
「今日はね。夕方からの会議が先方の都合で明日の朝にズレたんだ。週末また出張になるだろう」
「あそ、わかった。カレーにしたんだ?」
「ああ。おまえ飯は?」
「まだだよ、もちろん。帰りがけにちょっと寄ってて遅くなっちゃった。あたしもそれでいい、カレーにする」

 互いに仕事を持っていて、妻は時間の読めない編集畑、夫はクライアントの通常業務が停まる休日に忙しくなるシステムエンジニアでは、どうしたってスレ違いが多くなる。結婚以来ずっとそうだし、友紀がいまのセクションに配属されてからはなおさらそうだ。
 電子レンジディナーが多くなる。しかしそれでも了解し合って文句は言わない。最高のパートナーだと互いに思った。
「いいよ、たまにはあたしやるから座ってて」
「うむ、すまんな」
「あ・・もう・・ねえってば・・」
 カウンターへの出入りですれ違ったとき、夫はさりげなく妻を抱いて唇が重なった。目を閉じて抱かれていながら妻の手が夫のパジャマの前へと降りていき、夫の大きな手がブラウスの上からブラ越しに乳房をつつんでそっと揉む。

「愛してる」
「うん・・ふふふ、お風呂入っちゃったのね」
「さっとね。後でゆっくり」
「うんっ。いいから座ってて。スープつくるっ」
 珈琲を淹れるのと兼用で使っている細口の珈琲ケトルに水を入れてIHの上に置く。ここはオール電化マンションだからガスはない。ブゥゥンと電気的なノイズ。ほどなくケトルがカタカタいって湯気が昇がる。
 互いにキャリアを持つ都会の夫婦の夕食なんてこんなもの。休日でも夫の帰宅が遅い日には、結局レトルトだったり冷凍食品になってしまう。冷蔵庫もそのために冷凍庫の大きなものを買い揃えた。

 3LDKという間取りにもこだわった。互いに干渉しないそれぞれの部屋が欲しい。そのどちらにも横になれるロングソファが置いてあり、寝ようと思えばいつだって分かれて眠れる。もちろん夫婦の寝室にはダブルベッド。愛し合うとき互いに徹底的に貪り尽くす。
 男女の暮らしにメリハリが欲しい。それも話し合って決めたこと。人対人でいるときと男女でいたいとき、そのバランスを大切にしたいと思い、互いに子供は望まない。
 夫の直道はしごく合理的に、こんな時代に子を残すなど親のエゴだと言い切るが、妻はそこまで難しく考えていなかった。仕事も続けたいし家に縛られない妻でいたい。女には素敵な可能性があると思っていたし、それは高校の頃から憧れた生活だった。

 互いに愛し合い、けれども互いに自由でいたい。子供は嫌いではなかったけれど、そのために奪われるものが多すぎる。
 そしてやはり、結婚して母親になっていく友人たちを見ていても、それで幸せなのかと疑問に思うことがある。
 DINKSと決めたのも、時代に感化されたということでなく、妻にとってはただそれだけのことだった。
 レトルトのライスにレトルトのカレー。湯を注ぐだけのスープ。それもまた時間の使い方だと割り切った。時間があるとき妻は料理をつくったし、夫だってそれなりの料理をこしらえる。
 東京の生活から逆算したライフスタイル。それこそがDINKSだと夫婦で決めた日々だった。

 テーブルに向き合って食べはじめても仕事の話は滅多にしない。互いに畑違いであったし、仕事を家に持ち込まないというのも共働きの秘訣。聞けば言いたくなることもあるだろうし無益な諍いをしても意味がない。
 個人主義。合理主義。その点でも相性は最高だった。

「ンっ・・ぁぁ感じる・・」
 
 残念ながらマンションのバスタブはラボホテルのように広くはない。シャワーの下に裸身を寄せ合い、後ろから乳房をくるまれて、体をひねってキスを貪り、男女の手が互いの性器を求めてまさぐり合う。
 夫の激しい勃起が愛の証。妻は白い裸身をしならせて尻の谷に勃起を感じ、夫の指が前に回って毛むらの奥底に忍び込み、激しい濡れをおびき出す。
「ねえ来て・・」
 浴室の壁に手をついて尻を上げ、迫り来る夫の切っ先を感じると、片足を少し浮かせてさらに性器を差し出して、甘美な侵入を許す妻。

「あン! 愛してる・・ねえ愛してるのよ」
「わかってる」

 熱い夫に突き抜かれ、妻は口吻を剥き上げて牙を見せ、性の波濤に裸身を震わせる。互いに理解し合っていても、ときどきこうして、あなたの子供が嫌なわけじゃないんだよと言いたくなる。
 男の射出より一瞬早く抜かれたペニスに、妻はしゃがんで口で受け取る。放たれる愛の樹液は胃の中で質のいいタンパク質と化していた。

 子供を望まないなら結婚せずに恋人のままでいいという発想もあるだろうが、友紀は、それは違うと思っている。
 他人同士には打算がつきまとう。互いに仕事で一線に立つ者同士が気の抜けない都会を生きる。そのとき夫婦としての安定こそがピュアな愛を長続きさせる力になると考えていたし、いずれ別れることがあったとしても後腐れなくすっきり独身に戻れることにも安心できる。
 それは自分のためにではなく子供のために。男女のエゴに付き合わされる子供ほど哀れなものもないのだから。

 ただしかし。このごろちょっと考えることがある。
 自分の中に微妙なブレのようなものが生まれてきていると、友紀は気づいていた。三十四歳。妊娠限界が迫ってきていて、このままでいいのだろうかと考えてしまうのだ。
 この二年、仕事上で性の臭気がまつわりつく多くの人に出会ってきた。ビジネスと割り切っていても、自分にはできそうもない性に憑かれた人たちの生き様に感化されそうになる。他人は他人、私は私と切り分けてきたつもりだったが、さまざまな女の生き様に接するにつれ、女の生き方に正解なんてないんだとつくづく思う。
 子を残すという本能の最後のあがきなのかもしれないが。
 ベッドで夫のぬくもりを感じながら静かに目を閉じ、どっちにしたって妊娠を経験しない男はいいと考えてしまうのだった。