2016年12月30日

DINKS~フリーランサー(一話)


一話


 引いて開ける古びた木のドアがギィィと啼いた。ところどころ雨沁みが木を変色させていて、ホラー映画に出てきそうなくたびれた洋館のドアを思わせる。ドアにはチリンと鳴るはずのベルがさげられてあったのだが、それも吊り鐘の中の鉄の振り子が毟れてしまってクスンとも音がしない。ドアが動くとぶらぶら揺れるだけで意味のない飾りになってしまっている。

 純喫茶バロンは、さほど古くはない小さなビルに入っていながらレトロを意識した店の造り。いまのマスターの趣味ではなく、以前の店主が体調を崩したとかで次のマスターが居抜きでそのまま引き受けた。そのときカウンターあたりは少し手直ししたそうだが、壁もテーブルも、鳴らなくなったドアベルもそのままに、つまりはなるべく手をかけずに引き継いだ店ということだ。
 バロンという店の名はそのとき生まれたのだが、店の名にはマスターの個人的な思い入れがこもっていた。

 バロンは、新宿西口を駅から離れて歩いて行くと、カメラや家電の量販店、それに夜の街を抜けるあたりの裏路地にぽつんとある。どこへ行くにも駅からだとかなりあり、したがって夕刻のこの時間帯は客が少ない。
 早瀬友紀は、そのあたりの呼吸を知り尽くし、あえてこの時間にやってくる。あえてと言っても、わざわざということでもなくて、神田にある会社を定刻に出てくると、おのずとその時刻になるというわけだ。
 バロンの古びた木のドアにはもちろんガラスがはまっていたのだが、それも長年の煙草のヤニで、さながら古い倉庫の見通せない窓のように汚れていた。禁煙派が主流のいま、スマートにカフェだと思うと遠慮したい店であっても、純喫茶と言われると、それはそれでレトロムードでいいものだ。
 いまどき純喫茶という言い方もめずらしいが、アルコールを出さないという意味でお役所の区分として残っていた。

 ドアが軋んで、明るいグレーにワインカラーのシャドウストライプのスカートスーツを着たレディが入ってきても、カウンターの中にいるマスターはチラと視線をやっただけで背を向けて何やらしている。
 五十代の無愛想な男。白髪を染めていないので一見すると六十代に見えただろう。男は細面で老けて見えるタイプ。今日は濃紺の半袖シャツにブルージーンズ。一昔前の喫茶店を思わせる生成の綿のサロンエプロンをつけている。
 カウンターの中が一段低くなっていてチビのように見えるのだったが、外に出ると162センチある友紀がちょっと見上げるほど背が高い。

 こちらもまた古びたウッドのカウンターに五席。そのほか狭い店内に四人掛けのテーブル席が四つある、それだけの店。現代的なカフェのような解放感はどこにもなかった。
 今夜は客がいない。カウンターの左隅に座った友紀に、まったく無愛想なマスターは背を向けたまま首だけを回して言う。
「ども」
 友紀はちょっと笑ってうなずいた。マスターが言う。
「珈琲?」
「そう」
 向こうを向いた体の陰でポテトサラダを仕込んでいた。オーダーが入ればしょうがないというように振り向いたマスターは、カウンターに並べて置いたいくつかのガラス瓶から、珈琲用のメジャースプーンを使って何種類かの豆をその場でブレンドし、ガーガーうるさいミルにかけて粉にしてドリップのネルフィルターに仕掛けていく。
 いつものことだが、そんな様子を見ていて友紀は呆れたように首を傾げた。

「ねえマスター、訊いていい?」
 ステンの珈琲ケトルから湯を細く注ぎながら、マスターは眉を上げるだけで応えない。
「前から訊いてみようと思ってたんだけど、どうして一杯ずつその場でブレンド? ブレンドはブレンドで置いておけばいいのに。ブレンドも気分次第? それともお客を見て味を変えるためかしら?」
 マスターはちょっと眉を上げた。
「まあ気分でもあるし、客まかせにしないためかな」
 思ったことと逆を言う。客に合わせるのが普通だろう。
「客まかせにしないって? マスターが決めるってこと?」
「ブレンドとして置いておけばラクだからね。ブレンドなんてどうせそんなもんだと思って頼む。美味くなくても、あなたが頼んだんじゃないですかと、こっちとしても言い訳できる。俺の生き方じゃないのでね」

 友紀は、一瞬声を失ってマスターの目を見つめ、細口のケトルから注がれる細い湯の流れを目で追った。コイツ、まったく周囲にいないタイプの男。時代錯誤だと感じながらも不思議な人だと首を傾げる。
「珈琲に責任を持つってこだわりよね? 好みじゃなければ淹れたマスターが悪いってことになる?」
 それきりまた声が途絶え、珈琲ができて、ソーサにのせたカップを差し出しながらマスターは言う。
「ところでどうした? くだらなそうにしているが?」
「わかる?」
「かれこれ二年もこうしてればね」
 友紀はちょっと胸があたたかい。ちゃんと見ていてくれると思う。
「またなのよ、次の企画でもめてるの」
「ふふん、そっちの記事かい」
「そういうこと。私はつねにそっちだわ。すましていてもそっちの記事を見つけると買っていく。あの本て近頃では若い子たちにも人気があって、女性誌の中ではトップクラスの売れ行きなのよ」

 友紀は、東京神田に本社のある中堅出版社、神尾書房に勤めていた。 神尾書房は本来文芸を主体に扱う出版社だったのだが、若年層の本離れが著しく、また読んでしまうと邪魔なだけの紙の本より、いまは電子出版の時代。ますます売り上げが落ちていき、それまで他社への横並び発想でやっていた女性月刊誌に力を入れようということになるのだが、古くからいる文芸畑の編集者たちは雑誌など鼻で笑って取り合わない。
 そんなことで、いまから二年と少し前、社内の移動で友紀がその編集部に配属されて、いきなり企画室へと組み込まれた。
 二年前以前のその頃で友紀は三十二歳、結婚三年目。子供を持たないDINKSだと公言していたこともあって、頭の固い上層部から新しい女の生き方に通じていると思われたのかもしれなかった。
 女性向け雑誌の編集は、次また次と新しい企画を仕掛けていって、その如何によって売り上げが大きく変動する。なりふり構わず売っていかないと会社が傾くというのに、上はかつての栄光にすがりついていたいものらしい。

「しかしレズとは・・あのね早瀬君、ウチとしてそこまでやるかね・・」
「それだけじゃありませんわ、SMだっていいでしょうし、ニューハーフを取り上げたって人気のある世界ですから。うわべだけ舐めていてもダメなんです。女の本音に迫っていかないと。性的なマインドですしライターの腕次第だと思いますが」
 移動で回された企画室でいきなり成果を求められ、半ばやけくそだった提案。力説のあまり、そこまで言うならおまえが主導しろということになってしまう。

 最初のテーマはレズだった。女同士の結婚がテレビで話題になっていてタイミングがちょうどいい。社内の情報筋を通じて女性の同性愛者にコンタクト。取材をかけたのがはじまりだった。
 いわゆるアダルトジャンルへの興味といったうわべの注目ではなく、女が女を愛するという心に迫った内容が多くの女性の共感を呼んで、それまで業界七位だった『月刊 女性生活』が、翌月また翌月と躍進し、またたく間に月刊誌トップに躍り出る。
 そしてそうなると、成果発想しか頭にないサラリーマン上司は小躍りし、以来、編集長補佐という役職が与えられて、そっちの企画はすべて友紀に回ってくる。

 最初のレズから半年ほどして次はSMを取り上げようということになったとき、神尾書房出入りの業者から紹介されたのが、この喫茶バロンのマスターだった。
 川上将則(まさのり)、その頃で五十二歳。リアルでS、しかもSM小説を電子出版で出している。この店ともそれ以来の付き合いだった。

「珈琲おいしい」
 マスターは穏やかに微笑んでちょっとうなずき、しかしまったく無口であった。
「落ち着くなぁ、ここへ来ると。どうしてなのか・・」
「で? 次の企画は?」
「それがさぁ・・各社が真似をしはじめてウチとして何か考えないとと思ってるけどテーマがね・・一通りやっちゃったし、まあレズとかSMを取り上げると売れるは売れるんだけど、どう言えばいいのか、ハートの部分もそうだけど女の生き様みたいなものが滲んでいないと。エロ雑誌じゃないんだから」

 話しているうち、いつの間にかタメ口になってきていると友紀は気づいていた。
「なるほど、それでヘコんでるわけか」
「ヘコんでないよ別に。ヘコんでる暇なんてない。なんだか別枠でエッセイ集を出そうって話もあるし、まったく二匹目のドジョウもいいところだわ」
「ほほう、それもそっち系?」
「そうなのよ。そういうものを読みたがるの。M女性だとか同性愛者・・まあいろいろ。素人文をそのまま載せてリアリティを出したいみたい。売れそうだと思うと上は渋々目をつむる」
「そんなものさ。おんぶにだっこ。ダメなら責任だけはなすりつける」

「ねえ何かない? すました顔した人妻さんがドキリとするようなもの?」
 マスターはまた眉を上げて言う。
「それを俺が言っていいのかな? 俺の仕事になっちゃうぞ?」
「わかってる。いまではあの本に愛着もあるからね。たいして売れてなかった雑誌を私がここまでにのし上げたんだから」
 それにしても、マスターのそういうところが好ましいと友紀は常々思っていた。女だからという理由でやさしくしない。すり寄らない。自分で決めて責任は自分で負え。冷たくも思えるが、それは力に期待されているからこそ。

「女の生き様というなら知り合いに一人いるが」
「誰? どんな人?」
「フィットネスクラブでジャズダンスを教えてる。確か三十五、六のはずだが。バイセクシャル、自虐マゾ」
「自虐マゾ・・」
 友紀は身を乗り出した。自虐というのはこれまでになかったテーマである。
「バイではあっても男より女に尽くしていたいタイプかな。自分をサイテーの女だと思ってる素敵な人だ」

 強がりを言っておきながら友紀は追い詰められていた。先駆けは常に猛追されるものであり、ありきたりのラインでは大手出版社のネットワークに勝てなくなる。
 とにかく会ってみよう。その先またどんな出会いがあるかもしれない。
「ありがとマスター」
「おいおい早とちりするな、電話を教えるだけで間に立ったりしないから口説き落としてみるんだね。恐ろしいほど孤高、恐ろしいほど孤独だし、恐ろしいほどオンナだよ」

 とそう聞かされて背筋に寒気がはしるような、わけのわからない怖さを感じた。雑誌を売りたいからちょっと付き合ってくれないかでは取り合ってはもらえない。ギャラの額では動かない。今回もまた体当たりするしかないと思うのだった。

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