2016年12月05日

官能ホラー 黒い霧神(一話)


一 話


美代子の死は私を恐怖に突き落としたわ。目の前での惨劇です。五時の定時を少し過ぎて
私が先にオフィスを出たの。着替えてロッカーを出ようとしたとき、あの子が入って来たんで
す。春の移動でセクションが変わってしまい、顔を合わせることも減っていたけど、私とあの子
は、はっきり言って仲が良くない。美代子とは同期だったのですが、どういうわけか私を毛嫌
いしてくれて、事あるごとににらみ合っていたんです。

入社したての頃はそんなじゃなかった。むしろ逆で仲が良く、休日なんてよく遊んだもので
した。あるとき私が乗馬クラブに通いだし、あの子を誘ったことからおかしくなった。クラブに
素敵な人がいたのよね。ルックスだけならあの子の方が美人です。あの子は彼を好きになり、
なのに彼は私に声をかけてきた。そのへんから女同士の嫌な空気が生まれたわけで・・・。
仕事では私の方がちょっと上かな。同期ですからなおのこと、微妙に開きはじめた差が気に
入らないこともあったのでしょうが、それに加えて彼の存在が決定的な不仲の元。いつの間
にか口もきかなくなっていた。
何かあるとつっかかってくるのは彼女の方で、私は退いていたんです。私はものが言えない
タイプ。下手に言って火に油ではめんどくさいし・・・。

それで結局、乗馬クラブも私が先に辞めてしまい、あの子にしたって、私がいようがいまいが
それきり彼とは進展しないようでした。私は彼をそれほど好きになれなかった。若くハツラツと
しているのはいいのですが、即断タイプで何をやらせてもキレる分、冷たく感じていたからで
す。
私とは無関係なところで勝手にダメになったのに、一度狂った関係は修復できない。女の嫉
妬の怖さですよね。

それはともかく、ロッカーを先に出た私は、地下鉄の駅に向かって一度は交差点を渡ってし
まい、もう駅というところまで来て、ロッカーに忘れ物をしたことに気づいたの。お昼休みに
近くのお店でブラウスを一枚買っていた。それで私は取りに戻り、そうしたら交差点の歩道
の向こうにあの子が立っていたんです。
片側三車線の広い通り同士が交わる交差点。向こうまでには距離があり、帰宅時刻で周り
に人も多くいて、あの子は私に気づいていない。
何となくですが、すれ違いたくない思いがして、私は横断歩道の端っこまで人にまぎれて動
いていたのね。何人かの人たちを前にして隠れるように立っていました。
そして・・・その人たちの肩越しに、近頃妙にお化粧に気合いが入るあの子のことを見てい
たの・・・ただそれだけのことでした。

そのときです。交差点の向こう側にも人は多くて、あの子は一番前に立っていた。仕事帰り
にしては短すぎるスカートスーツ。帰ることに気合いが入る感じがしたわ。彼でもできたのか
なって思ってた。
そのあの子の背後に、もわもわと黒い影・・・それは黒い霧のようでもあり、黒い雲を千切って
背後に漂わせたようでもあり・・・その黒い影が、ひっきりなしにクルマが通る道路をめがけて
あの子の背を押したのです。突き飛ばした感じだったわ。あの子は悲鳴を上げる間もなくて、
つんのめって道路に飛び出し、黄色信号を走り抜けようとした普通トラックに轢かれてしまっ
た。

「きゃぁぁーっ! 嫌ぁぁーっ!」

悲鳴は居合わせた女性のものでした。道のこちら側から見ていて、彼女の体にトラックが乗
り上げるように轢かれていたから、私はきっとダメだと思った。
仲が悪かったといっても、それとこれは話が違う。周りの人が倒れた彼女に群がって大騒ぎ
になっていた。
けれどもです、このときの私は、彼女を突き飛ばして、すーっと横に流れて消えていった黒
い霧で頭がいっぱい・・・怖くて怖くて、しゃがみ込んでしまったの。
「ああ美代子・・・嘘でしょう・・・ああそんな・・・」
普通じゃないもの・・・あれはきっと悪霊よ・・・そうとしか思えません。

そしたら、しゃがみ込んだ私の肩にそっと手が置かれます。
「大丈夫? 知ってる人?」
振り向くと若い男性。ジーパン姿で、学生みたいな・・・それぐらいの若い子です。
「うん、会社の同僚・・・すぐそこがオフィスだから」
「そうなんだ・・・たまりませんね・・・それにしても嫌なものを見てしまった・・・」
「え・・・」
その子、そんなことを、まるで呻くように言うのです。
「君にも見えた?」
「あ、それじゃ、お姉さんにも?」
「黒い霧みたいな・・・」
「ええ、そうです・・・あれは・・・」 と言いかけて彼、周りに人がいることと、しゃがみ込んだ
私を気づかってくれてでしょうけれど・・・。
「どっかでちょっと話しませんか、あれが見えたのなら、その方がいいと思うから」
「うん、いいけど・・・」
それで私は、ふらつく足で彼と歩き、とにかくカフェに入ったのです。セルフのお店で、私
を座らせ、彼がコーヒーを買ってくれ・・・このときの私はきっと顔色もなかったことでしょう。

「話には聞いていたけど見たのははじめて・・・お姉さんて霊は見える人ですか?」
「ううん、とんでもない、怖いこと言わないで」
「そっか・・・僕も違う。なのに揃って見てしまった」
「うん・・・それはそうね・・・」
「だとしたらきっと、お姉さんの念波と僕の念波が共振し合って二人に同時に見えたんです
よ。あれはたぶん・・・」
「うん? 何なの?」
「死神です」
「死神・・・まさか・・・」
「いえ、おそらくそうだと思います。死神は、ときとして人の姿で、ときとして黒い影となって、
ああして現れては人を死の世界へ連れて行く・・・悪霊などよりはるかに強い存在で、死の
世界の神ですからね・・・狙われたら最後、よほどのことをしないと去ってはくれない。あの
人・・・轢かれたあの女性・・・」
「うん? 彼女が何かしたの?」
「てゆーか、はっきり言って心が良くなく・・・すいません」
「ううん、いいの・・・続きを言って」
「はい、つまり生かしておくと災いを生むだろうと・・・うーん、そうかどうかはわからないけど、
死神に狙われてしまったんです。だけど僕が嫌なのは・・・」
「・・・それを見てしまったこと?」
「です。死神なんて、特別な能力とか、あるいは神父さんみたいに神に仕える人でもない限
り姿の見えるものじゃない」
「そうなんだ・・・」
彼は真剣です。彼だって顔が青いわ。目の澄んだ童顔タイプで、悪い子ではなさそうでし
た。

それで彼、飲まれないまま冷えてしまったコーヒーに口をつけ、息を整えるように言うんです。
「もしや警告かも」
「警告? 私たちに? でもどうして?」
「あのですね・・・怖がらないでくださいよ」
「うん」
「警告というのは僕にではなく、たぶんお姉さんに対してです。お姉さん、あの人を知ってる
でしょ、同じ会社で・・・もしや何かあったのではって・・・」
「な、何かって?」
「仲が悪くて憎み合ってるとか・・・それはつまり女同士のもつれだったりしますけど・・・そん
なようなことが度々あって、死神はそれを見ていて、心の良くない方を連れ去った・・・そして
そのとき、死神はお姉さんのこともちゃんと見ていて、たまたま居合わせた僕との念波が共
振し合って、その姿が見えてしまった・・・決して姿を見せないはずの死神がこっちを見てい
た・・・僕ではなくてお姉さんを・・・おまえのことも見ているぞ、心しておけ・・・そんなふうな
感じでしたか・・・」

ゾーッと背筋が冷えました。あの子のことは好きではないし、それはね、死ねばいいのにと
思ったこともありますよ。家に帰ってそこらのものを叩きつけて「死ね」なんて叫んだこともあり
ました。だけどその程度の感情ならば、およそ誰でも持つものでしょう。

「あ、そうだ」
「え?」
「僕、戸川です、戸川ミツル、二十三です、なのにまだ学生で・・・二浪しちゃって・・・えへ
へへ」
「ああ・・・うん、うふふ、そうよね、お互い自己紹介もまだだった、沢村彩子よ、歳は少し上
かな。お話してくれてありがとう。人のことを悪く思っちゃダメなのね」
「ええ・・・でもまさか死神を見ようとは・・・死神は死という感情を嗅ぎ分けて寄って来るって
言いますよ。人に対して死ねだとか、最悪なのは死にたいとか、ちょっとでも思うとそれを嗅
ぎつけて近寄って来るんです。そして一度動くと一人は必ず連れていく・・・」
「もうやめて・・・怖いから・・・」

それで顔を見合わせて席を立とうとしたときに、彼は言います。

「お姉さんて、これからどちらへ」
「どちらへって・・・帰るわよ」
「一人で大丈夫? 怖いでしょう?」
「それはね・・・怖いって言うか、足が震えちゃって動けない・・・」
「うん、じゃあ送りますよ。僕いまクルマ。向こうに停めて来てるから」
「クルマ? 学生さんなのにクルマなの?」
「いえいえ姉のです、ちょっと借りて出て来たから。ですからどうぞ、送りますよ」
「でも・・・」
「送り狼になったとしても死神よりは怖くない、あははは!」
「まあ・・・うふふ・・・そう? じゃあお願いしていい?」

それが私と主人との出会いとなりました。私は三つ上の二十六歳。大学を出て美代子と同
期で入社して四年目になろうとした。ミツル君とのお付き合いがこのときはじまり、彼の卒業
を待って結婚することとなったのです。

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