女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

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三話 女の闇


  明江はただ呆然とするだけで何も考えられなくなっていた。黒いローテーブルの上で起きていることを信じろというのか。信じるしかない。夢ではない。覚醒した意識の中で確かに思う。そうは思うのだが、あまりの不思議とあまりの恐怖に声も出ない。
  テーブルに置いたはずのたった一本の獣の毛。それがいま明かりを消した闇の中で、仄かに光る青色の光の繭につつまれて、その光の中で小さく可愛い狐の姿に化身してこちらを見ている。手乗りサイズの狐。親指の先ほどしかない小さな頭から、ふさふさした尻尾の先まで体長は二十センチほど。毛は茶色。子猫よりも小さな姿なのだがスマートな大人の狐。小さな貌は大人の狐らしく円錐形に鼻先が尖っていて、二つある目のところにサファイアでもはめこんだように、眸が淡く青く輝いて、小さな体をつつむ青い光は、どうやらその眸が発した光のようだった。
  明江は、一糸まとわぬ裸身の産毛という産毛が逆立つようで、これまでに経験したことがなかった恐怖とともに不思議な感動さえも覚えていた。こういうことが現実にあり、そんな世界へ導いてくれる紀代美という女と出会えたことが嬉しくなった。

  青い光の中の小さな狐は、確かに穏やかな面色で微笑んでいるようだった。二つの青い眸で紀代美を見つめ、それから貌をきっぱり振って明江を見つめる。
  透き通った視線。狐の眸が向けられて明江は性感にも似たゾクゾクする震えが背筋を突き抜け、喉をクゥと鳴らし、それでいて嬉しくて、微笑む視線を可愛い姿の狐に向けた。
  紀代美は開いた両手を合わせて授かり手を差し向けて、そうすると小さな狐はぴょんと跳ねて紀代美の手に乗り移る。
  紀代美が言った。
 「願いをお聞き届けくださり心より感謝いたします」
  そのとき狐の眸は確かに微笑み、次の瞬間、天から注ぐような女声が聞こえた。ゆったりとした女の声。限りなく透明な精霊の声のようだった。
 『どうせよと言うか? その者を殺せと言うか?』
  紀代美が言う。
 「ここにおります明江もまた苦しめられておりますので」
 『そうか、ならば明江とやらに決めさせよう』
  そして狐は宝石のように青く光る小さな眸を明江に向ける。
  紀代美が明江に向かって言った。
 「明江、手を」
 「あ、はい」
  紀代美がしたように明江もまた開いた両手を合わせて授かり手をつくり、小さな狐はぴょんと跳んで手から手へと乗り移る。

  重さを感じない。なのに手が温かい。それは女心が手にのったようだと、このとき明江は嬉しかった。
  開いた両手の上でふさふさした尻尾をちょっと振り、狐は青い眸を向ける。
 『どうせよと言うか? その者の死を望むか?』
  明江は怖い。迂闊に言えばあの女の人生を奪うことになる。あの女への憎しみが、むしろ消えていくような気がした明江。
 「いいえ、そこまでしては可哀想です。私や紀代美が許せると思えるまで心から反省してほしい。あの人にはやさしいところもありますし、ただちょっと意地悪すぎて困るんです」
  手の上の狐はキラキラ光る青い眸で明江を見つめ、そして言った。
 『そなたもそうではなかったか。紀代美を快く思っていなかった』
 「はい、おっしゃるとおりです。なんとなくですけれど怖く思えて。心から反省します、人の心は深くにあるもの。軽率でした」
  狐は微笑む。
 『ではこうしよう、その者をそなたの思うままに操ってやるがよい。すべてはそなたの心ひとつ。それでよいな?』
 「はい、少し思い知らせて許してあげるつもりです」
  すると狐は確かに微笑み、上に向けて開かれた明江の親指の先をちょっと噛んだ。鋭い歯。痛いというほどでもなかったがチクリと針で刺されたような痛みは感じた。
 『私のしもべを嫌った罰。痛みの意味を思い知りなさい』
  そして仄かに青く輝く光の繭ごと闇に滲むように狐は消えた。

  狐がいなくなっても明江は手を開いたまま。呆然として身動ぎひとつできないでいる。
 「明江」
 「・・」
 「明江ってば」
 「・・ぁ、はい」
 「もういい、お帰りになられました」
  上向きに開いて合わせた両手がすとんと膝に落ちていた。体に力が入らない。
  紀代美が言った。
 「空狐(くうこ)様と言って、三千年を生きた牝の狐の化身なんですけど、天狐(てんこ)様の次の位の妖怪なのよ。恐ろしい神通力をお持ちでね」
 「信じられません、夢なのか幻だったのか」
  そして紀代美は言う。
 「すべては明江にお任せになられたわ。私の意思ではどうにもならない」
  そのとき明江は我に返った。女二人が素っ裸で向き合う異常な世界。いま現実に起きたことを信じないわけにはいかなくなった。
 「私だけ? 私が決めるの?」
 「そうよもちろん、空狐様のご意思ですもの、明江が思うようにすればいい。死ねと念じればそうなるし」

  あの女は許せない。それはそうでも、運命を決めるのは私と考えると怖くなってならない明江。恐ろしい力を持ってしまった。あの女に対して私は死神にでもなれると思うと心も凍る。本心が隠せなくなる。死ねばいいのになんて誰もがちょっと思うこと。願ったところでそうならないとわかっているから思えること。
  明江は自分の心の闇の部分が怖くなる。女は決定権から逃げたがるもの。
  紀代美は明江の手を取った。
 「怖いでしょ?」
 「すごく」
  紀代美はちょっと笑う。
 「私は私が恐ろしい。他人にかかわるのが恐ろしい。私の家系は代々呪術師。いまの毛皮は空狐様ですけど、母に言えばもっと恐ろしい呪いもある。それもこれもいつか私が受け継ぐ定め。だから私は私の中にある黒い心が怖いのよ」
  気持ちはわかる。人を恨んでいられるうちは、むしろ幸せ。その気になれば殺せると思ったとたん悪魔の心が騒ぎだす。
  それで紀代美は暗いんだ。何事も隠しておきたくないから下着さえも拒んでいる。そうした女心が痛いほど理解できた明江であった。

  ハッとする。ハッとして紀代美の貌を見つめる明江。しかしそれは言うべきではなかっただろう。

  逃げたという旦那の行方は不明? 離婚にいたらず夫の名のまますごす妻。
  もしや離婚の対象がすでにこの世にいないのでは? 何かがあって許せなく、命を奪ってしまったのではないか? この人にはそれができる。だから自分を呪って紀代美は暗い。
  そうよ、そうに違いない。もし私なら、もしも夫に裏切られたら許さない。明江は、紀代美だってきっとそうよと確信し、同じ心に苦しむ女に自分を重ね、女の苦悩を共有できる、この世で唯一の分身なんだと考えた。
  K2のオフィスはビアンの巣。私にはできないと思う反面、まるでわからないかといえばそうでもなかった。男女の性とは決定的に違うところがある。同性ゆえに持ち合わせる醜さのすべてを許容し、切ないまでに愛し抜く。他人であって他人でない。男女の性が互いの美点を愛するものなら、女同士の性は互いの醜悪を愛していくもの。明江は、自分よりもひとまわり小柄で華奢な紀代美の裸身を見まわして、紀代美は紀代美で性の予感を察していながら明江の体を見つめている。
  明江は言った。
 「シャワーさせて」
  うなずく紀代美。けれどそのときの紀代美の微笑みは、暗かった紀代美の姿ではなくなっていて、やさしい女に変わっている。
  全裸で立った明江は紀代美の手を引いてバスルームへと誘い込む。同じ間取りで勝手を知る他人の部屋。バスルームも、その前の脱衣、洗面台も、乱れなく綺麗にしている繊細な紀代美。この人はいい加減な人じゃない。

  熱めのシャワー。シャワーヘッドで調整できる粗く強い雨が素肌を叩き、見つめ合っていると性の震えがやってくる。
 「紀代美」
 「寂しかったのよ・・抱いて明江」
  歳上でも小柄な紀代美は、ひとまわりパーツの豊かな明江に甘えるようになり、明江はそんな紀代美がとてつもなく可愛い。遠ざけていたものが、知ってみるとじつはそうではなくて愛の対象。
  紀代美を抱いて唇を重ねながら、背を撫でてやり、尻を撫でてやり、手を前にまわして陰毛のない陰唇へと指を這わせていく。
  紀代美は言った。
 「生まれつき毛がないの」
  そんなことはどうでもよかった。
 「好きよ紀代美」
  閉じた陰唇へ指を這わせ、シャワーの流れを手で導いて性器を愛撫洗いしてやる明江。クリトリスが硬くなって飛び出して、紀代美は感度のいい女体を持った牝。紀代美の白い総身がわなわな震えた。閉じた目の眉根が寄せられ、眉間に甘いシワが刻まれて、小鼻がぴくぴく痙攣するようにすぼまり、ひろがり、甘く苦しい息をする。
 「はぁぁ、うぅン明江ぇ、いい、好きよ明江、あぁン」
  尻にまわされた紀代美の両手が明江の白桃を揉み上げて、右手が尻の底へ、左手が前にまわって黒い毛群らをまさぐって陰唇へと忍び込む。右手で揉むようにアナルを愛撫。そうしながら左手の指先が潤って蜜に濡れる肉ビラを掻き分けて体の中へと没していく。
  明江の指が紀代美の膣口をそっと嬲り、ぬむぬむとめり込んだ。

  衝撃的な電流。明江の裸身ががたがた震えだし、一気にピークへ駆け上がる。アナルへめり込む紀代美の指と性器を突き刺す紀代美の指。明江の指が紀代美の膣から抜き去られ、たまらず抱きすがる明江。
 「ああ紀代美紀代美、ダメ、ねえダメぇ!」
  シャワーの温水と体内から放射される熱水とが一緒になって陰唇から噴きだした。失禁、いいや潮を噴いて快楽を叫ぶ明江の牝ビラ。
  信じられない。夫が好き、別れた元カレだって大好きだった。けれどエッチでこれほどもがいた記憶がない。ひとまわり豊かな明江がひとまわり小柄な紀代美に支えられていないと崩れてしまう。犯される性でも犯す性でもない、咲き乱れる女同士のせめぎ合い。相手が紀代美だから乱れていられる。紀代美になら何をされてもいいし、どんなことでもできると思う。相手が男では到達できない女の性の高みなのだと明江は感じた。

  ベッド。かつてきっと旦那と愛し合った大きなベッド。いまそこに男の臭気はまるでなく、女と女が脚を開き合って絡み合う。
  花合わせ。貝キッス。ネチャクチャと醜い声を性器が発し、感じて腹筋を力ませるとブシュっと汁を噴いて膣から空気が押し出され、負圧となった体内の吸引力で陰唇と陰唇が吸い合って、互いの膣汁が吸い出されて濡れが絡む。
  果てる。達する。
  狂ったように腰を入れて性器をなすりつけ合い、苦しくなって離れようとするとシュポッと吸盤が引き剥がされる音がする。紀代美は無毛、もし私もそうならば性器の噛み合いはもっと深いと思えるのに。
 「うはっわぁぁ」
  イクなんて次元を超えた快楽に明江はおかしな声を発し、総身震わせ、たまらず抱き合いむしゃぶりつく。紀代美の舌を吸い出して口の中で舐め回し、乳房を揉んで乳首をつねる。苦痛のようにのたうつ紀代美が好き! 明江は狂った。体中を舐めてやり、M字に開かせた腿の根に醜くある牝のビラ花へと口を尖らせ吸い付いていく。
  小柄な体なのにクリトリスが大きい。鞘をはらった小刀のように包皮を飛び出す肉色の芽。いまにも芽が伸び、そこから別の小花が咲きそうだった。
 「うわぁ! うわぁぁ! 明江、明江ぇ!」
 「もっとよもっと、もっとイケ。ほらイケ紀代美、あなたが好き!」
  拷問を嫌がる女体のように紀代美はのたうち、けれども性器を上向きに突きつけて、さらなる愛撫を求めている。

  クリトリスを吸いのばして噛んでやる。
 「きぃぃ! ひぃぃぃ!」
  ベッドがロデオマシンのように弾んで縦揺れ。二人の裸身がふわふわ揺れて、紀代美はついにくたばった。白目を剥いて口をぱくぱくさせながら、背骨が軋むほど反り返り、一瞬後にばったり崩れた。
  明江は自分で自分を突き刺して、登り詰めて後を追う。壮絶なピーク。決闘のようなセックスだった。くたばり果てた二人の女体は、毛穴という毛穴から愛液そのもののねっとりとした脂汗を搾り出し、汗と汗で接着された二人の女が、もはやぴくりとも動かない。

 「明江」
 「ふふふ、どういうことよ、化け物と化け物のセックスだった」
 「ほんとね、クラゲとイソギンチャクの決闘みたい」
  抱き合って貌を見ると、それが紀代美の素顔なのか、暗かったイメージはどこにもなかった。やさしい女の貌をしている。
  明江は微笑んで頬にちょっとキスをして、抱擁をほどいて仰向けに寝直った。
 「どうしてやろうって思うのよ」
 「あの女を?」
 「そう、あの女を。気が変わった。血の涙を流すまで許さない。もうおしまい、私たち二人のペットにしてやる」
 「ふふふ、怖いことを考えるのね」
 「だって」

  やりすぎ? そう思って紀代美を見ると、紀代美は笑ってうなずいている。

 「私も最初はそうだった。殺したって不可能犯罪なんですもの、罪にはならない。そのうち自分が怖いと思った。どんどん都合よく解釈してく」
  紀代美の声を聞きながら、明江は静まっていく怒りを感じて言う。
 「そうね、ちょっとやりすぎかもね。泣いて土下座をさせるくらい?」
 「それがいいよ。彼女にだっていいところはあるんだから。ただちょっと性格悪すぎ。厳しい罰は必要でしょうけれど」
  明江はちょっとほくそ笑んで紀代美の手を取っていた。そのとき時刻は深夜の二時になろうとした。305号に戻ったところで今夜もまた夫はいない。このまま泊まろう。303号は愛の部屋。明江は紀代美を抱き寄せて眸を見つめた。
 「会社にもね」
 「うん?」
  嫌な女が一人いると言おうとして明江は思いとどまった。まずは勝呂陽子。あの女がどうなるかを確かめて、それからのことだと考えたからである。
 「ビアンがいるのよ二組も。社長とナンバーツーがそうだし、ほかにも二人。バイトの子も入れてたった七人の会社なのによ。まともなのは私と私の友だちだけだって思ってたけど」
 「明江までそうなったって?」
  くすりと笑う紀代美。
 「恥じる世界じゃないって痛感したわ。女を愛せる女は幸せ」

  ちょっとうなずく紀代美を乳房に掻き抱いて、しかし明江の眸は輝いていた。
  嫌な女、横倉浅里。そして社長も。いつかきっと牛耳ってやると明江は思う。

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二話 殺風景


  渋谷にあるK2のオフィスから京王井の頭線で吉祥寺、そこからJRで高円寺というのが河原明江の帰宅ルート。渋谷からJRで新宿をまわってもよかったのだが、K2を知ったきっかけとなった友人の乾沙菜(いぬい・さな)が吉祥寺に住んでいて、時間が合えば一緒に帰ることが多かった。そのルートで定期を買ったということだ。
  高円寺駅の南口を出てロータリーを斜めに突っ切り、少し歩くとチャコールグレーの煉瓦調にデザインされた四階建てのコンパクトなマンションが見えてくる。
  明江の部屋は、その305号。エレベーターを降りた左に各階ともに01号があり、そちらが東南の角ということで間取りは4LDK。エレベーターを挟んで並ぶ四戸はいずれも3LDKの住戸となっている。

  その金曜日、明江がマンションに帰り着いたのは深夜といってもいい十一時をすぎた時刻。エレベーターを降りて歩き出したところで、まるで帰りを待ち構えていたように、303号の玄関へのアルコーブから、ちょっとくすんだワインレッドのワンピースを着込んだ福地紀代美(ふくち・きよみ)が顔をだす。ワンレングスの黒髪は肩ほどまでの長さであったが、もしも髪がロングなら映画にでてくる幽霊そのもの。紀代美は三十歳であるらしい。158センチのスリムなボディ。両手をだらりと垂らしてぼーっと立つ姿だけでも寒気がする。細面の眸の色がとにかく暗い。結婚していて、けれども旦那に逃げられ、このマンションに取り残された。正式な離婚にいたっていないらしく、独り暮らしとなっても旦那の姓を名乗っている。
  くすんで暗い。まさにお化け。旦那に逃げられるはずだわよ・・さまざま噂が飛び交っていた。
  ここに住んで一年半ほどになる明江だったが、そんなお化けと話すのははじめてだったし、足音もさせずアルコーブから出てこられては、あやうく悲鳴をあげるところ。

 「あの女、またいじってた」
 「えっえっ?」
  挨拶もなく前置きもなく、暗い眸で見つめて言う紀代美。
 「ゴミよ。おたくの」
 「ああ、勝呂さんですよね」
 「許せない、陰湿な女だわ」
  湿り気たっぷりの紀代美に陰湿と言われると不思議な気分になってくる。相手はもちろん勝呂陽子(すぐろ・ようこ)。彼女もきっとあの女に何かされた。それで怒っているのだろうと明江は察した。
  そしてまたなんの脈絡もなく紀代美は言う。
 「呪ってみよう。おもしろいことになる」
 「呪う・・?」
  明江は絶句した。まがまがしい言葉と紀代美のムードが一致しすぎて寒気のした明江。いきなりなにを言いだすのやら。
 「来て」
 「えっえっ?」
 「お部屋。話そ」
  会話になっていない。言葉をブツ切りにして並べているだけ。後にも先にもはじめて話し、いきなり部屋へ誘われた。足がすくむほどの恐怖だったが、帰りを待ち構えて言い寄られ、ここで下手に断って敵が増えたらたまらない。同じ相手を敵視するなら紀代美は味方。断るべきでないと思った明江。
  しかしこのとき明江は仕事帰りでスカート姿。新妻らしくスカートでいること。だけどミニすぎてはいけない。そうしたことはオフィスにいるお目付役がいちいち言う。横倉浅里(よこくら・あさり)。オフィスで浅里、家に戻ればさらに面倒な勝呂陽子。女とはどうしてこうかと嫌気がさす明江だった。

  ところが誘われるままに玄関へ一歩入って、明江はハッとして紀代美の横顔を覗き見た。サンダルや靴がきっちり整理されて置かれていて玄関先がすっきりしている。ストーンタイルのフロアにもゴミひとつ散ってない。明るめのワインレッドの玄関マットもきっちり敷かれて曲がっていない。
  この人は几帳面な人。むしろ私の家の方が散らかっていると思ったとき、まんざら悪い人でもなさそうだと思ってしまう。それは明江の母親の口癖だった。玄関を見ればその家の内が知れる。思春期の頃、学校から戻ったときに靴を脱ぎ散らかして怒られたものだと明江は思った。
 「あがって」
 「はい、お言葉に甘えてお邪魔します、遅くにすみません」
  ローヒールのパンプスを脱ぎ、しゃがみ込んできっちり揃える。そんな明江の様子を紀代美は黙って見つめている。違う意味でも怖い。紀代美という女は細かなことに気づく人。迂闊なことはできないと思うのだった。

  あがってすぐ、少しの廊下。カウンター越しの対面キッチンのあるLDKは造りが同じ。部屋を覗いて明江はますます紀代美を見つめた。
  一見して殺風景。呪うなんて言葉とはほど遠い、すっきり整理された無機質な部屋。大理石調のシステムキッチンにも汚れはなく、ガスレンジに置かれたステンのケトルにも指紋ひとつついてはいない。リビングは十二畳ほどのスペースなのだが、フロアにダークグレーのカーペット、白の革張りソファ、それとセットの黒いローテーブル、そのほか白いリビングボード、黒いテレビ台に大きな液晶テレビと、そのどこを見ても乱れは一切感じられず、女性の部屋にありがちな可愛いものも一切ない。一見して殺風景と思える洗練されたインテリア。紀代美という女の素性を物語るようだった。
  明江は言った。
 「綺麗になさってますね。ウチなんてしっちゃかめっちゃかで恥ずかしいぐらいです」
  紀代美は声もなくちょっと笑って、深夜のゲストにソファをすすめた。
 「ジュース飲む?」
 「あ、はい、じゃあいただきます」
  またしても声もなく、にこりともせず、うなずくだけ。紀代美には言葉が足りない。これで普通に話してくれれば理想的な妻だと思う。

  紀代美がカウンターの向こうへまわって、その隙に明江は室内を見まわしたのだが、男の気配も一切ない。逃げたという旦那のこともそうだが、部屋に男を入れている形跡がないのである。紀代美は仕事をしていない。一日家に閉じこもり、いったい何をしてるのだろう。どうして暮らしていけるのか。持ち家だから家賃はなくても、よほどの資産家でもないかぎり働かないとやっていけないはずなのに。
  そのとき気配。ハッとして顔をあげると、いつの間にかテーブルにグラスが置かれてオレンジジュース。お菓子のカゴにカップケーキが積み上げられる。
  明江をロングソファに座らせておき、自分はローテーブルの下に敷かれた白いシャギーマットにじかに横座り。ミディ丈のワンピでもそうやって座ると白い腿まで露わとなる。スリムな紀代美。脚線も細くて肌艶がいい。こうして近くで見ると不健康な印象はしなかった。

  紀代美は言う。
 「わかってるわよ」
 「えっえっ?」
 「ここで私がどう思われて、あなたがどう感じているかもね。不気味、お化け、亭主に捨てられるはずだわよって」
  はじめての長文。会話になった言葉だった。どうやら人見知りが激しいようだ。
 「あなたは河原明江、明江と呼ぶから」
 「あ、ええ、どうぞ」
 「私は紀代美よ、紀代美と呼んでいいからね」
 「え・・あ、はい」
  声が暗いし面色も暗いのだけど、やさしくないわけじゃない。不思議な人。それが紀代美に対する印象だった。
 「見せたいものがある」
  と、そう言って、紀代美はフロアに座ったままの体をひねって、すぐ横に置かれたリビングボードの引き出しを開ける。そしてそのとき部屋着にしているミディ丈のワンピースが尻に張り付き、明江は眸を丸くした。
  ヒップラインにあるはずの下着のラインがまったくない。背中を見てもブラのくびれがまったくない。全裸でワンピ? そうとしか思えなかった。
  本能的な性への緊張。息を潜めていると紀代美は引き出しから何枚かの紙を取り出してテーブルに置くのだった。雑誌のページを破いたものだったりしたのだが。
 「これは・・」
 「あの女よ。ウチの郵便受けにときどきね」
  性器の修正されない裸の女の写真であり、しかもどれもがSM写真。明江は一瞬見て、しかし眸を反らしていた。とても正視できるものじゃない。

  紀代美が言う。
 「捨てられないでしょ、いろいろ」
 「ええ、私もやられました。下着を捨てたら物色されて自転車置き場に」
 「それ私も。捨てたパンティを郵便受けに入れられたり、こんな写真だったりね。私って独りで身を持てあましてるでしょ。飢えてるに決まってる。得体の知れない変態女って、そう言いたいに決まってる。ねちねちした眸で私の体を見まわしてるし、飢えてるのはおまえだろって言ってやりたい」
  明江はうなずいた。
  共通の敵、勝呂陽子は、一階上の401号、4LDKに住む主婦であり、三十八歳だったのだが、ちょっと老けて見えるタイプ。旦那はいても子供のない夫婦。社交的で明るい女なのだが、ソリが合わない相手に対して陰険そのもの。
  明江は言った。
 「越してきたときお世話になって、でもそのうちヘンな眸で見られるようになったものですから」
 「レズっぽくでしょ?」
 「そうなんですよ。ゴミを出せば物色されるし、ほかの奥様方にもいろいろ吹聴されてるしで嫌になって、それで私、その頃はまだ専業主婦だったから友だちの誘いにのってパートに出ることにしたんです」

  紀代美はうなずいて言う。
 「私もそうだった。主人がいた頃からねちねちした眸で見られたし、私って暗いから、悩みがあるなら打ち明けなさいって言ってくれたのはよかったけど、そのうち主人がいなくなって、部屋に入りたがってしょうがない。いっぺん入れたら迫られちゃって」
 「迫られた?」
 「熱を持つ据わった眸でジトッと見つめられ、私はもちろんはねつけた。そしたらどうよ、ゴミは漁るわ、こんな写真は入れられるわ。私も最初はゴミ袋だったのよ。袋が薄くて透けるから、わざわざ見せつけるようにSMの本なんかを外に向けて入れられる。まるで私が捨てたみたいに」
  ゴミ置き場には出入りしても他人が捨てた袋までは凝視しない。そんなことがあったなんてはじめて聞いた明江だった。

  話してみると、ごくあたりまえの感覚を持った女性。明江は味方ができたと思ったのだが、紀代美は言う。
 「レズでもいいのよ」
 「え?」
 「それを悪いこととは思わない。真心があるのなら嬉しいことだし」
 「まあ、それはそうかも」
  淡々と話す紀代美。やはりどこか、そこらの女性とは違う感じがする。
 「あの女は違う。あの女は怖い。どうしようもない淫乱なんだし相手かまわず誰でもいい。脈がありそうだと思うと言い寄ってくるからね」
 「脈がありそうって、じゃあ私もそんなふうに思われて?」
 「もちろんそうよ、明江はやさしいし可愛いから。私とはそこが違う。私の場合は暗くて変態的なところがある。レズだってSMだって私はいいのよ、お相手が心からそうしてくれるんだったら濡れちゃう体を持っている」
  こんどこそ息苦しくなってくる。ストレートと言えばいいのか、女同士の気安さもあって会話がナマになってくる。
 「あの女は陰湿、狡猾、傲慢、ありとあらゆる女の嫌なところを備えてる。一方的に想われたってダメなんだし、心には伝え方があるはずよ。あなたが好きを素振りの端々に見せてほしい。その先にベッドがあるなら私は歓迎。ところが違う。誘ってるんだから応えたらどうなのよみたいな傲慢さがたまらない。思うようにならないと嫌がらせは平気でするし」

  確かに。それはそうだと思いながらも、このとき明江は、まるで生気のないお化けのような存在だと思っていた紀代美の中に女の情念を感じ取り、人は付き合ってみないとわからないとつくづく思った。常識的で人一倍女らしい神経を持っていて、ただちょっとムードが暗い。
  明江は言った。
 「わかってくれる人って少ないですからね」
  試してみようとあえてそう言ったとき、紀代美の眸がキラキラ輝く。
  繊細すぎる。臆病すぎる。自分を隠していないと怖くてならない。そんなタイプの人ではないか。どうせわかってもらえないと諦めているような。旦那に逃げられてそうした負の感情が決定的なものとなってしまった。
  きっとそうだと明江は思う。
 「紀代美さんとはお友だちになれそうです」
 「ありがと。そう思ってくれるんだったら『さん』はいらない、呼び捨てて。私は三十」 と、自分の歳を言って眉を上げて尋ねる素振り。
 「二十八です」
 「うん。じゃあ歳も近いし他人行儀にしてほしくないんだよ」
 「はい、じゃあ紀代美って呼びますね」
 「そのほうが安心できる」
  思うよりずっといい人だったと、ほっとして、それだからか緊張の反動で明江は弛んだ。

 「紀代美っていま」
 「うん?」
 「ワンピの下」
  紀代美はちょっと微笑んで言う。
 「そうだよ裸。いつもそう。それが私の生き方だから」
 「生き方? どういうこと?」
 「私はあるものに守られてる。いまは明江がいるからあれですけど、お部屋の中ではいつも全裸。私を隠すと失礼ですから」
  明江は絶句して紀代美を見つめた。
 「言っても信じないと思うから。それで今日、明江の帰りを待ったのよ。明江がもし私を信じてくれるなら、あの女を懲らしめてやれるから。私だけでもできるけど、それでは効果は私に対してだけですからね。明江の噂もまわってる。もう許せない。だから明江次第なの。私を信じてくれるかしらって思ってね」
  意味が解せない。二人で呪うということなのか。

  紀代美は言った。
 「私は呪術を心得てるの。だけどそれは怖いこと。明江なら助けてくれると思ったから」
  マジ? こんどこそ貌を見る。真剣な面色だったし、やはりちょっと狂っているとは思うのだけど、言うことを聞いてみようとも思えてくる。紀代美には不思議な魅力がありそうだった。
 「よくわからないけど、どうすればいいの?」
 「こうすればいい」
  紀代美はそっと立って明江の目の前でワンピースを脱ぎ去った。白く細身の全裸が美しく、紀代美には陰毛がなかった。処理されていたのか、もともと無毛なのかはわからない。白いデルタに亀裂が覗き、くびれて張って、乳房はBサイズで乳首も小さい。
  明江はとっさに身を固くしたのだったが、だからビアンということでもなさそうだった。

  全裸となった紀代美は、またリビングボードの別の引き出しを開けて、何やら毛皮の切れ端のようなものを手にし、テーブルにそっと置く。褐色で毛足の長い獣の毛皮。毛に艶があって美しい。
 「これよ。これが私の守り神」
 「守り神?」
 「女王様とも言えるわね」
  ああダメだ、狂っている・・とは思うのだったが、独りだけ先に全裸となって見つめる眸が透き通って美しい。
 「私を信じて裸になって。このままお呼びすると女王様は明江を祟る。着衣は心を隠すもの。すべてを晒して平伏す者に女王様は寛容です。あの女を懲らしめてやりましょう、明江と私で」

 「わかりました。じゃあ先にシャワーさせて」
 「必要ない。それだって偽る行為よ、ポーズですもの。女王様はお怒りになられます」
  どうしていいかわからない。
  けれど帰宅を待ってまで呼んでくれた紀代美一人に恥をかかせるわけにはいかない。信じてみよう。そう思えた明江だった。
  今夜の明江は仕事帰りで黒のブラに黒のパンティ。紀代美より背が高く164センチ、ブラはCサイズ。ひとまわり大柄な明江。紀代美に見つめられていながらすべてを脱いで、長い髪に手ぐしを入れて撫でつけて、黒いローテーブルに置かれた不思議な毛皮に向かって裸の女二人で正座。レモンイエローのカーテンが閉ざされたリビングルーム。明かりを消して、カーテン越しに染み出す夜の薄明かり。
  支度がすむと紀代美は毛皮を両手に拝み取り、ふさふさした毛を一本爪先でつまみ上げて抜いてしまう。毛皮そのものはリビングボードの引き出しに戻してしまい、テーブルに茶色の毛が一本。テーブル下のシャギーマットに二人並んで正座をし、明かりが消えたことで、そこにあるのかないのかわからない一本の獣の毛に向き合った。

  紀代美が両手をついて体をたたみ、平伏して土下座をする。明江が真似る。そうしなければ怖いことが起こると、なぜか直感できたからだった。
 「空狐(くうこ)様、紀代美でございます、どうかお姿をお見せくださいませ。今宵はこのように明江もそばでお願いしております。私たちは心より隠すものなどございません。どうか私たちの願いをお聞き届けくださいますよう平伏してお願い申し上げます」
  この人、何を言ってるの? どういうこと? わからないのに怖くてならない。

  と、紀代美が言葉を言い終えたとたん、テーブルの上から青い光が射してくる。仄かな青い光の揺らぎが二人の女の裸身をくるむように照らしてくれる。
  ゾッと全身に寒気、いいや怖気。産毛が逆立ち、息が震え、平伏す裸身の底にある女の性花が本能的な恐怖を感じて疼きだす。
  そっと面を上げる紀代美。そっと面を上げる明江。
 「ああ、嘘よ、そんな・・」
 「空狐様ですよ。ごらんなさい、やさしい面色でごらんになっておいでです」

  まさか、そんなことが・・明江は紀代美が持つ神秘的な力を否定できなくなっていた。

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