2017年10月10日

流れ才蔵(八話)


八話 なにげない一言


 仁吉がふたたびやってきたのは、その日の夕刻。しかし夕餉を終えた
刻限だった。
 ここから半里ほど先の普請場(建築現場)に飯場を建てて暮らしてい
て夕餉は皆とすませてきたと言った。その手には薄板でくるんだ餅菓子
を持っている。仁吉が来たとき、お香と十吾が膳を片付けだしていて、
小さなお花は、寺で着慣れた粗末な着物に着替えており、才蔵の膝で眠
ってしまっていたのだった。
 才蔵は笑って言った。
「飯の途中で寝ちまったのさ」
「へい。ふふふ、可愛らしいなぁ。疲れ果ててころんでしょ?」
「まったくだ。可哀想に道に迷って歩き回っていたんだろ」
 そう話しているとき奥から十吾が茶を運んでやってきて、ほどなくお
香もそばに座る。狭い本堂でもそれなりに広く、板の間の真ん中あたり
に膝を寄せ合うようになる。三か所に燭台が立っていて太い蝋燭がふら
ふらとした光を投げかけている。
「うめえ! この餅うめえや! 甘えぇ!」
 中に粒あんを入れた白い餅菓子。十吾はほおばって声を上げた

 仁吉は、こうしてあらためて見ると、背丈はそれほどでもなかったが
目のくりっとした若々しい男だった。着物ももちろん着替えていて、風
呂も済ませてきたらしくさっぱりしている。普請場の仕事で陽に焼けて、
いかにも大工といったふうだった。

 小さなお花は、出会ったばかりの才蔵の膝に頭をのせて体を丸くして
寝入っていた。嬉しそうに覗き込む仁吉に微笑んで、お香が言った。
「せっかくねぇ・・けど嬉しいよ。もう会えないと思ってたもん。明日
にでも行って先様と話してこなくちゃね。もう少し小さければよかった
んだろうけど。物心つく前なら」
「そりゃそうですぜ、ここが家だ、寂しくなるのはあたりまえ」
「そりゃそうでも飛び出すこたぁねえだろ。兄ちゃんのおかげで助かっ
たけど、人さらいにでもあったらてえへんだったんだ」
 と十吾は怒るように言い、しかしその十吾もまた戻って来た妹の寝顔
をまんざらでもない面色で覗き込む。
 仁吉が言った。
「おいらももらわれ子、じゃねえや、えーと、預かられ子?」
「なんだそら?」
 才蔵は笑った。
「おいらは越後の出なんで。越後っつっても海じゃねえ、ずっと山だ。
冬になると何もかもが雪に埋もれるそんな土地でさ。おいらがちょうど
そこの、えーと」
 十吾に目をやる仁吉に「十吾」だよとお香が言った。

「ちょうと十吾ぐらいんときに、おっ父の山が崩れちまった。三日続い
たひでえ嵐で雨が続いて崩れたんで。材木はもうだめだってことで暮ら
しが苦しい。そんでおいら、浜町で漁師をやってた縁者の家に預けられ
て育ったんで。そん人がおっ父代わりになってくれた」
「それがどうして大工になった?」
 と才蔵が言い、十吾は仁吉を見つめ、お香はなぜか目をそらせて聞い
ていた。
「あるときシケでおっ父の船が壊れちまったんでさ。新しい船を注文し、
そいでそんとき船大工ってもんをはじめて見た。ただの木や板が、鋸で
引かれ、カンナで削られ、ノミで穿たれ、濡らした板が火であぶられ曲
げられて、そんなふうに見る間に船になっていく。毎日通っておっ父の
船ができていくのを見てたんで」
「すげえと思って?」
 と十吾が訊いた。
「ああ、そうよ、職人てすげえもんだなってわくわくしちまってよ」
 そう言って仁吉は、ふたたび寝入ったお花に微笑み、さらに言った。

「それからですぜ、方々で普請されるお屋敷や町屋を見るたんびに大工
仕事が気になった。じきに十五って歳になって、おいら、おっ父に言っ
たんでさ、大工になりてえ。けど、それはいかんて言われちまって」
「漁師はどうするってかい?」
 仁吉はうなずきながら、チクチクうるさい十吾の頭をちょっと撫でた。
十吾はもういっぱしの口をきく。
「けどおいら、こう言ってやったんで。周りを見てみろ、江戸は普請場
だらけじゃねえか。大工が足りねえ。漁師なんぞ海が荒れたらおしめえ
なんだし、漁に出たって獲れるとは限らねえ。大工なら、いっちょまえ
になりゃぁ引っ張りだこだって。そしたらおっ父がいまの親方を探して
くれた。船大工の頭領とのつながりでよ。親方ん家は牛込でな、そんで
家を出て、そっからずっと飯場にいる。おいらいま二十二だけど、若頭
のひとつ下まで上がってきたんだ。親方んところには二十人ほど大工が
いるが五人ずつ分かれていてよ、それぞれ若頭が率いてる。いまの普請
場もウチからは十人出してやってるんで」
「もういっぱしだな?」
 才蔵が言うと仁吉はこくりとうなずいた。
「ときどきおっ父の顔を見に行き、ちょっとだけど酒も飲む。いまにな
っておっ父は大工にしてよかったって言ってますぜ」
「山にいるおっ父は?」
「前に会ったのはもう三年も前のこと。そっちはそっちでぴんぴんして
ますけどね、木が育つには時がかかる。いまだに雇われて樵の仕事やっ
てるんで。だからおいら・・」
 それでまた仁吉は死んだように眠るお花を見つめて微笑んだ。
「お花ちゃんの心根がよっくわかるんでさ」
 そのときお香がはじめて顔を上げて仁吉を見つめたのだった。
「おいらだって山からいきなり海へ来て、寂しくて寂しくて泣いたもん
で・・へい。だからな十吾も」
「おぅ、何でぃ?」
「お香姉さんみてえなお人がいてくれてよ、それがどんだけ幸せなこと
なんか・・うん、負けちゃいけねえ、うん・・」
 勝手に涙ぐむ仁吉。いい奴だ。お香も目を潤ませている。

「ちぇっ、湿っぽくていけねえや」
「生意気言うんじゃないよっ、ったくもう」
 ちょっとそっぽを向く十吾。お香に頭を小突かれて、舌を出して笑っ
ている。
「ところで、この寺たたむんで?」
 そう仁吉が言って、お香がようやく口を開いた。
「あたしらみんな孤児でね、ここの和尚さんに救われた身なんだけど、
和尚さんが亡くなって、新しい暮らしを探してみようかってことでね。
何人かいた子らにも里親を探してさ、残った十吾とふたり甲斐にでも行
こうって話してるところなのさ」
「甲斐に? うん、それもいいや、どこにいたって姉さんや十吾はその
まんま。いずれ出て行く家なんすから、早いか遅いかだけのこと」
 お香はちょっと笑って寝入ったお花の足を撫でた。お花はぴくりとも
動かない。
 お香は言った。
「それはそうなんだけどね、この子らの行き先を探したことが良かった
のやらって思ってさ。ほかにもいるんだ。いまごろ同じように泣いてる
だろうなって思うと苦しくなっちまう。才蔵さん、あたしね」

 言うことはわかっていた。しばらく様子をみようと思う。ほかに戻っ
てくる子がいるかも知れない。
「あたし明日ちょっと出て来ますね。先様も心配してるだろうし、どう
するか話してこなくっちゃ。こんなんじゃ、また戻ってくるに決まって
ますから」
 そのとき、才蔵が何かを言うより早く仁吉が言うのだった。
「姉さんは間違っちゃいませんぜ」
「え?」
「間違っちゃいません。ここで暮らすのもいいけんど、童はやっぱ親が
いるのがいちばんでさ。おいらには二人ずつおっ父とおっ母がいる。近
頃じゃそう思えるようになりやしたし、おいらを預けた実の親のことに
したって悪く思っちゃいませんから。姉さんひとりで抱えてると姉さん
がつぶれちまう。はじめはそりゃ寂しいだろうけんど、いつかわかる時
が来る。姉さんを恨んだりはしやせんから」
「だといいけど。なんだかねぇ、お花を見てても、あたしのしたことは
鬼の所業かと思っちまって。けどお花は運がいいよ、仁吉さんみたいな
いいお人に出会ってさ」
 そう言って、なぜかお香はちょっと恥ずかしそうに目を伏せた。

「造ってるのはお武家の屋敷なのかい?」
 湿っぽいのが嫌というより、聞いていると捨て子だった我が身を思っ
て泣きたくなる。十吾は話を変えようとした。十吾も大人びてきている
と才蔵は思う。辛いことに耐えてきた分、そこらの九つ坊主ではなかっ
た。
 仁吉は面色を明るくして言った。
「おうよ武家屋敷よ、そりゃおめえ、でっけえお屋敷でな、ウチのほか
にもたくさん大工が入ってらぁな」
「もうできるのかい?」
「いんや、まっだまだ、この先二年はかかるだろうぜ。それはすげえ屋
敷でな、どこぞのお殿様の家なんだ。それをおいらたち町人が造ってら。
ちょいと胸を張れる気分だぜ」
 仁吉はきらきらしている。顔立ちに幼さの残る若者なのだが、その手
はいかにも大工のゴツい手で、仕事の姿が思い描けた。才蔵はふと我が
手と見比べた。侍の手など刀を持つだけ。恥ずかしくなってくる。
「お武家の屋敷ってよ、いろいろあるんだろ?」
「は? いろいろって何がよ?」
「ほら、抜け穴とか、からくりとかが?」
 十吾がなにげに訊いたことで話が思わぬ方へひろがった。

「いやいや、ねえことはねえが口外無用。てか、そっちは藩のお抱え大
工の仕事でな、おいらたち町大工はそういうところは造らねえ。幕を引
いてこそこそやってら。おいらたちは知らん」
「でもあるんだろ、抜け穴とか?」
「だろうぜ、きっと。そりゃそうさ、隠しておきたいものだってあるだ
ろうしよ」
「なるほどな、そんなもんさ、どこの屋敷にもあるだろうぜ」
 才蔵が言うと仁吉はうなずいて、それから十吾に向かって言った。
「おいらがやった仕事でよ、ある町屋の造作なんだが、テコ棒とかテコ
鍵とか、そういうのは造ったな」
「テコ棒にテコ鍵? 何だそりゃ?」
 十吾との話を才蔵は違う耳で聞いていた。
「テコ棒はそのまんまよ、切り欠きなんぞに棒先を突っ込んでよいしょ
とやりゃぁ、普段閉じてる蓋が開くとかそういうもんでな」
「うん?」
「そんでテコ鍵ってえのはよ、たとえばほれ、そこの柱みてえな・・」
 と言って仁吉は本堂を支える二本の太い柱を指差した。

「ま、ここの造作にそんなもんはねえけんど、床の間の柱とかよ、そこ
の柱もそうだがツルツルした柱を磨き丸太ってえんだが、普段は丸棒な
んかを横に差したりしてあって、桟とか棚とか手すりみてえにしてある
わけよ。そんでイザって時にそいつを引っこ抜いて太さの同じ長い棒を
差してやると、よいしょとやりゃぁ柱が回って床が開くとか天井が開く
とかするわけさ」
「へええ、からくりなんだね?」
「おうよ。短けえ棒じゃ鬼がやっても動かねえ。けど長い棒ならたやす
く動かせるって寸法さ」
「落とし穴とか造ったんか? 落ちたら死ぬぞって? うひひっ」
「なもん造るかっ。あのな坊主、忍び屋敷じゃねえんだぞ。忍び屋敷じ
ゃねえけんど、そいつをテコ鍵って言ってな、それだって大工の技よ。
そのほか隠し梯子に隠し階段、ドンデン返し。町屋にだってそんぐらい
の仕掛けはあらぁな。お宝なんぞ隠しておかねえと盗まれちまう」

 才蔵の面色が真顔に変わっていると、ふと目をやったお香は感じた。
 しかし才蔵は黙って聞いているだけだった。この若者を巻き込むこと
になってしまう。

 そしてまた翌日だった。朝いちばんで小石川に出かけたお香は、夕餉
の支度もあって買い出しを済ませ、野菜をカゴに入れた姿で大きな普請
場の前を通りがかった。土塀などはまだなくて杭を打って縄で仕切り、
広々とした更地に基礎ができて建て込みがはじまっている。敷地の端か
ら端までを歩くだけでも大変なほどのお屋敷だった。
「姉さん! お香姉さん!」
 ねじり鉢巻きをした仁吉が駆け寄ってくる。空はすっきり晴れていて、
まるで光の中から飛び出してくるようだった。
「ここ?」
「そうそう、どうでぃ、すげえお屋敷だろ?」
 と立ち話をしているところへ五十年配の大きな男が歩み寄る。それが
仁吉の親方だった。背は高いし体もゴツい鬼のような男である。
「おう仁よ! そちらは?」
「へい、昨日の童の・・ほら寺のお方でして」
「そうかいそうかい。けどよかったぜ、うずくまってる童を仁の奴が見
つけてな、わんわん泣くし、みんなでおろおろしちまった」
 お香は身を折って頭を下げ、夕べも訪ねてくれてお花を可愛がってく
れたと告げた。親方は堂々と笑い、仁吉の背中をバシンと叩いた。
「けど何だ、こりゃまたべっぴんさんじゃねえかっ、なあ仁よ」
「あ、親方・・そんなことをいま」
 それでもかまわず親方は、お香に面と向かって言うのだった。
「いえね、仁の奴にゃぁ、いい人なんていませんわ。ああ寂しい。これ
からもよろしくお頼みしてえぐれぇです・・ってか? あっはっは!」
「ちょちょ親方ぁ! ったく何を・・ああん、もうっ!」
 親方はそっくり返って大笑いし、仁吉をお香に向かって押しやって去
って行く。
 お香は真っ赤になってうつむいていた。このときお香は赤茶縞のよそ
行きの着物を着て、ほかの大工たちも横目にするほど目立っていた。

「よ、よかったら今宵も・・お花だって喜ぶだろうし」
 それだけ言ってお香は背を向け、駆け出した。

2017年10月09日

流れ才蔵(七話)


七話 朝靄の剣


「紀州がそれで手を引くのか・・」
 とお泉が言って、才蔵はちょっと眉を上げるも、うなずいた。
「赤城屋とのつながりなど隠せるものじゃねえからな。ゆえに赤城屋は
退散した。しかし俺が気にするのはそこじゃねえ。寺の秘密とは公儀が
外に対して隠しておきたいもの。そんなものを手にできれば紀州にとっ
てはまたとない攻め手となろう。しかるにやり方が手ぬるい。残された
女子供を相手に取り上げることもできただろうに、なぜそうしないのか」
「よもや知らないなんてことは?」
 才蔵は笑ってうなずく。
「それだな、おそらく。当初ここに目配り処をつくろうという話は公儀
の役人どもの間であったのだろう。昨年には正雪の乱もあり弛んだタガ
を締め直そう。しかしその程度のことは紀州に筒抜けよ。ゆえに先に奪
ってしまいたい」
「そしてその紀州の動きを知った殿上人が寺社奉行を動かした?」
「そういうことだ。こんなボロ寺、取り壊されるのは明白ゆえな。紀州
と言えば根来忍び。寺は見張られているとみるべきだ。そこで公儀とし
ては紀州を刺激せぬよう木っ端役人の動きをいっとき止めて、逆に上の
寺社奉行を動かした・・ってことなんだが、であるなら、寺に入った賊
は何者かってことになる。根来衆ではあるまいと、じつはそこを考えて
いたんだが、お泉の手柄で見当がついた」
「坊主どもってことだよね」
「盗まれたものは仏像、掛け軸、書箱そのほか和尚の持ち物。本堂も庫
裏も納屋も物色されているわりには探し方が腑に落ちん。忍びであれば
からくりなどは見抜くだろうし盗賊に見せかけるなら小判など持ち去る
はず。書き付けか、もしや錠前の鍵のようなものではなかったか」
「密書であるとか?」
「そういうことだ。世に出れば将軍家が危うくなるような。そして、そ
ういうものであるとしたら徳川の身内に対しても知られたくはねえだろ
うから下手にじたばたしたくない」

「探してみようか?」
 お泉は目を輝かせたが、才蔵はうなずくわけでもなく小首を傾げて微
笑むだけ。
「ここはやはりお香らふたりを甲斐に出そう。寺をたたむ素振りをする。
俺たちは何も知らない。あけっぴろげに片付けのフリをしたほうが勘ぐ
られまい。坊主どもは必ずまた来る」
 お泉が言った。
「次の住職を送り込んでしまえばいいものを」
「それができない訳あるのよ。よもや正雪の乱にかかわった者どもであ
れば追われているってこともある。坊主どもは十数人いたそうだが、お
そらく散っているだろうぜ」
 才蔵はこう考えた。
 この寺の和尚、竜星は、ずいぶん前にやってきた。その頃は伊豆とも
つなぎをとっていた。孤児たちを引き取るようになり、いつ頃からか謎
の女が金を届けるようになる。あるいは和尚が隠されたものを知ったが
ゆえに金が届くようになったのかと。

「出方をみるしかあるまい。お香らを逃がすのが先よ」

 その夜の明け方。薄靄にかすむ境内に青鞘を抜き放たれた白刃が舞っ
ていた。着物の上をはだけ、刃と語らう、舞いのごとき剣さばき。切っ
先が天に向けられ、半月を描くように斜め下に流れ下った剣先が、チャ
と鍔を鳴らして切り替えされて、次には横に半月を描く。
 着物をはだけた才蔵の腹は締まり、胸板は厚く、男にしては白い肌か
ら気迫が湯気となって揺らいでいた。
 わずかに開けられた本堂の板戸の隙間から、まだ寝間着姿のお香が板
戸になかば隠れるように見つめている。才蔵と出会ってよりはじめて見
る武者の姿。心地よい震えのような想いが衝き上げてくるのだった。

 シャァ!

 かすかな気合いが耳に届き、刹那、宙を十文字に切り裂くような白刃
の舞いを見せて、剣はチーンと鍔鳴りの音をさせて鞘におさまる。
 凜々しい姿とは思うものの、剣はやはり恐ろしい。身近にいてくれる
やさしい男ではあっても才蔵は武士なのだと、不思議に心地よい距離感
を悟るお香だった。
 剣をおさめて着物を正し、才蔵は本堂へと歩み寄る。お香が微笑んで
顔を見せた。
「おぅ、すまぬ、起こしちまったか?」
「いいえ、起きる刻限ですので。じつは夕べ」
「うむ?」
 本堂への踏み段に座る才蔵。お香が二段ほど降りて横に座った。
「十吾とよく話したんですけど、やはり一度ここを出ようかと」
「そう決めたのなら思うがままよ、十吾とて嬉しかろう?」
「そうなんです、才蔵さんから甲斐のことを聞いて、あの子はここしか
知りませんから違う土地へ行ってみたいってきかないんです。しばらく
出て、それでどうなるか。お寺への想いだけは忘れませんが、きらきら
してる十吾の目を見ていると、弟が喜ぶならいいかと思って」
「そうだな、それがよかろう。俺もそろそろ。根無し草に根が生えちま
う」
 お香がちょっと笑って立ち上がり、才蔵が言う。
「いずれ様子を見に行くぜ。江戸はもういい、俺には向かぬ」
 お香はひときわ笑って小走りに奥へと消えた。

 夜が明けて、メザシと汁、それに夕べの残りの野菜の炊き合わせで朝
餉をすませ、それから三人で寺の片付けにかかっていた。本堂や庫裏は
少しずつだが片付けは進んでいて、才蔵がいるうちに男手がなければで
きない納屋の始末をはじめていた。
「馬小屋だったようだな?」
「そう聞いたことがあります。昔は板屋根だったそうなんですが腐って
しまって、それでワラ葺きにして納屋にしたんだと。このへんはちょっ
と前まで畑や草原。馬がないと買い出しにもいけないところだったそう
なんです」
 寺と庫裏は高床続きであったが、庫裏の中の厨と厠(かわや・便所)、
そしてもちろん納屋の中は地べたにじかに建っている。かつて馬小屋だ
った納屋は思ったよりも広く、小屋の半分ほどを板で仕切って馬をつな
ぐ丸太が横にはしっている。残りの半分が土間であり、いまでは使われ
ていない農具のようなもの、板や棒の切れっ端、小さな童らに行水させ
た大きなタライ、ワラ縄の束、腐っていそうな馬の鞍まで、どれもこれ
も雪のような埃をかぶって置かれてあった。
「ここも荒らされてはいたんだろ?」
「はい少しは。けどこんなところを探ったってしょうがないと思ったの
か、そんなに手はつけてなかったようですよ」
「なるほど。まあそうだろうな、触るだけで痒くなりそうだぜ」
 とは言ったものの、だからこそ怪しいとも言える。

 ともあれ中のゴタ物を外に積み上げ中を空にしてみると、ますます納
屋は広くなる。馬一頭に馬具をおさめて、なおかつ納屋として使えそう
だ。畳にすれば八畳相当、もっとあるかと思われた。
 小さな十吾ひとりが宝探しのようなもの。はしゃぎ回って邪魔をして
いる。お香は手ぬぐいで姐さんかぶり、才蔵は着物をまくり上げてたす
き掛け。何かを持ち出して放り出すだけで煙のような埃が舞い上がる。
「うわっ、たまらん、俺には忍びは向かんと思い知る」
「なんでだよ」
 と十吾が言って、綿埃を投げつけて笑っている。
「屋根裏に潜むなどまっぴらごめんてことじゃねえか、あっはっは」

 しかし、そんな様子を坂下の草陰に潜んで見守る目のあることに、こ
のとき誰も気づかなかった。粗末な百姓姿の男がひとり。目の厳しいが
っしりした体つき。男はしばし様子を探り、にやと笑うと草陰へと消え
ていった。

 夕刻前まで片付けて、才蔵は十吾とふたり風呂の焚き口に火を入れる。
お香は姉さんかぶりを脱いではたき、もうもうと舞い上がる埃に顔をそ
むけながら笑う。
 そしてちょうどそんなとき、寺の前から、妙な若造が小さな娘を連れ
て上がってくる。
「ここかい?」
「うん、ここぉ!」
 小さな娘は五つかそこら。赤い花柄の着物を着せられ可愛い姿にされ
ていた。
「わあっ、お姉ちゃんだぁ! お姉ちゃぁん!」
「花? お花じゃないか! どうしておまえが・・」
 何だ何だと才蔵が立ち上がると、そばにいた十吾が口を尖らせて言う
のだった。
「お花ってぇんだ。歳は五つ。せっかく姉ちゃんが親を探してきたのに
よ、逃げてきたに決まってらぁ」

 そしてお花の手を引いた若い男が、駆け寄るお香に向かって声高に言
う。
「おい、どういうこってぃ! ずっと先の軒下にうずくまってるからよ、
訊いたらここだって言うじゃねえか。探し回って連れてきてやったんだ。
どういう了見か知らねえけどよ、こんな童を置き去りにしたってか!」
 落ち着き先を見つけてもらったまではよかったが、寂しくなって飛び
出した。小石川の料理屋だと言う。小石川といえば遠い、迷うのもしか
たがなかった。おそらく朝から歩き回っていたのだろう。

 事情を話すと男は落ち着いた。町人というより大工の若い衆か、それ
でもなければ魚屋のように、着物をまくり上げて尻まで出して、きっぷ
がいい。二十歳そこそこの若者だった。
「寺をたたむ? そんで里親を? こいつ孤児なんで?」
 お香に腰を低く謝られ、事情を聞くうちに若者は涙ぐんでしまってい
る。いかにも江戸っ子。胸のすく男である。
 可愛い姿をさせられたお花だったが、ここにいたいと言ってお香の胸
で泣きじゃくった。

 しかし参ったと才蔵は思う。これでまた甲斐行きがのびるだろう。童
が増えれば襲われたとき守りに困ることもある。
「やれやれ、根無し草に根が生える・・ちぇ」
 苦笑するしかない才蔵だった。
 お花を抱いて庫裏へと歩むお香と入れ替わりに、才蔵が歩み寄る。
「すまなかったな若いの、礼を言うぜ」
「お武家さんは?」
「見てのとおりで手伝いよ。ちょっとゆかりの者でな」
「へえ左様で。おら仁吉(じんきち)ってえもんで」
「仁吉か」
「へい、この先でお屋敷造ってますわ」
「すると大工?」
「左様で。十五んときからやって、いま二十二、これでもいっぱしなん
ですぜ」
 大工・・だとすればからくりに気づいてくれるかも。そう考えた才蔵
だった。
「俺は才蔵、よろしくな」
「とんでもありやせん、こちらこそってやつですぜ。けどよかった、材
木担いで外に出たら軒下で丸くなってやがって。迷子かとも思ったんす
が放っとけなくて」
「恩人だな、ありがとよ」
「あ、じゃあおらはこれで、仕事がありますんで」
「おぅ、よければ飯でも食いに来い、お花も喜ぶだろう」
「左様ですかね?」
「喜ぶさ。お香さんにしたって手を合わせてるに決まってる」
 若者はこくりこくりとうなずいて、頭を下げて帰って行った。