2016年11月28日

女忍 如月夜叉(十七話)


十七話~海の穴ぐら


「ふんっ、とてもじゃないが、おまえたちにお紋は殺せないね。何やら不可思議な術を使うと聞いた。妖術さ。つなぎの女が二人いて・・それがお紋の手下二人なんだが、二人ともに元は甲賀のくノ一でね。追っ手の侍ども二十人ばかしに囲まれたとき、どこからともなくお紋が現れ、それはあたかも鳥のように宙を駆け、次々に首を飛ばしたと言うんだよ。お頭は人にあらずと言っていた。そのほか知らない。知ってることのすべてだよ、わかったかい」
 結は、それきり口を閉ざした。

 全裸とされて牢に放り込まれた結を横目にしながら、誰にともなく江角が言った。
 裸にしてみると、結というくノ一には体にほとんど傷がなかった。乳房は小さかったがしなやかな白い肌は美しい。市井に潜み、探ることを役目としていたに違いなかった。
「万座・・山深いところだと聞く」
「おそらくは三人、それが般若の正体らしい」
 と、嵐が応じた。
「それにしても、あのお紋が人にあらずとはどういうことか・・」
 江角は浅いため息をつきながら、ふたたび結へと目を流した。
「まあいいさ。あたしはちょっと向こうへ」
 嵐はそう言うと、結を見ようともせず江角の背を押し、皆が揃って上と戻った。

 万座と言えば上野国(こうずけのくに=群馬)。標高の高い山の中の湯治場だった。硫黄を多く含む濁った湯で知られ、戦国時代は武将どもが訪れては傷ついた体を癒している。江戸からははるかに遠く、いくら市中を探索しても見つからないはずである。
 それはともかく、お真知は牢から出されていた。地下牢はひとつしかなく狭すぎる。鉢合わせにさせたくない。
 面喰らったのはお真知であった。まさか出されるとは思っていない。
 結は、牢に入れられてからも敵意は失せない。一言も口をきかなかったし、隙あらばと狙う眼光。それで毒使いの名手であるお雪に、気が朦朧とする痺れ薬を作らせて飲ませてあった。

 そんなことでお真知は出されたのだが、結を載せた荷車が戻ったときには深夜。着いてまずはお真知を出して、それから結を閉じ込めた。
 江角が、取り上げてあったお真知自身の忍び刀を持たせてやる。
 お真知は声もなく呆然としていた。
「あたしに刀を・・」
「いいから持ってな、お燕に恥ずかしい真似はできまい」
 江角が微笑む。
 二階の八畳に布団が一組増えていた。嵐、江角と、お真知は同室とされた。 黒鞘の己の刀を拝むように受け取って、お真知は信じられないといった面色をする。江角はすでに寝間着の姿。江角は言った。
「庵主様は、尼となるほかにも生きる道はあるだろうと申されたそうだ。それは女としてという意味でだよ」
「そんな・・とんでもないことをしてしまったあたしなのに・・」

 江角は言った。穏やかな声だった。
「あたしらは如月夜叉。女の敵を葬るために江戸の町に潜む者。すなわちすでに影であって人にはあらず。おしろい般若の片棒を担いだ馬鹿な女は死んだということ。そなたももはや影ぞ。手を貸してくれるだろ?」
「それは・・けど、なんということ・・あたしは恥ずかしい」
「その思いを忘れないことさ。もう寝よう。そなたには、ここに残って備えて欲しい。今度のことには黒幕がいる。どう動くかわからない。手勢は多いに越したことはないのでね」
「・・はい」
 お真知は涙を溜めていた。死罪になってあたりまえ。救われた。お真知は泣いた。

 くノ一ばかりの忍び屋敷。香風には源兵衛がいてくれるが、こちらにはお燕がいて、戦いとなれば足手まといとなるだろう。女ばかりで戦うのは厳しい。六人目の夜叉の存在は頼もしかった。
 江角が笑って言う。
「頭を下げるならお燕だよ、あたしじゃないね」
「はい・・お燕ちゃんの身の上は聞きました・・」
 江角が、お真知の背に手を置いた。
「であるならなおのこと、おまえにとっては恩ある者ぞ」
「はい」
 お真知は泣いて平伏して再起を誓った。

 その頃、香風では・・源兵衛は香風に住み込むこととなっていた。瀬田はそう度々来られない。もちろん部屋を分けた住み込みだった。
 白の単衣・・寝間着姿の百合花が言った。
「そうですか、万座に・・」
「じきに考えを告げに来るでしょう。わしなど影のまた影よ。女の敵を斬ると言うなら真っ先に斬られていい男なもので。ふっふっふ」
「またそんな・・ほほほっ」
「それで庵主様、結とか申す女を牢に入れるため、真知は出されたようですな」
「それもいいでしょう、嵐がそうしたのなら考えがあってのこと。では今宵は・・おやすみなさい」
 百合花は己の部屋へと戻っていった。
 源兵衛がいてくれれば心強い。明かりを消して布団に入り、そっと目を閉じた百合花であった。お真知が改心してくれるなら嬉しい。忍びは所詮銭次第。仕える相手が悪かっただけのこと。

 嵐は闇の中を歩いていた。
 雨があがってもほとんど星のない空は漆黒の海をつくる。香風へのなだらかな登り坂が見えだして、しかし嵐は仕込み杖に手をかけた・・。
「何やつか・・」
 気配はあっても殺気を感じない。
 丘への分かれ道にある林の中から柿錆色の忍び装束・・頭巾をしないざんばら髪、髭面の逞しい男であった。
「どうやらお紋にたどり着いたようだな」
「彪牙・・」
 あのときのことを思いだす。まっすぐ迫る男心を拒めなかった。頬が赤らんでくるようだった。
 彪牙は言った。
「そなたらの敵を教えておこうと思ってな」
「何だって・・」
「お紋はもはや人にあらずよ」
 やはりそうか・・お燕を救ったのは彪牙。つまり見張られていたということだ。
 お燕を救ったからといって味方だとは言い切れない。
 彪牙は、そんな嵐の探る眸をものともせずに、顎でしゃくると「来い」と言った。

 海側へと降りていく。
 鋭利な岩場が連なる先に、入るとすぐに左に折れる浅い洞窟があった。蝋燭が持ち込まれていて、ワラを蒔いた寝床がこしらえてあったのだった。
「ふふふ・・こんなところに潜んでいたか」
「隠れるにはちょうどいい。嵐よ」
「何さ?」
「いい女だ・・」
 黒い影が拒む間もなく流れてきて、左腕一本で嵐を抱き留め、嵐の体がしなり、唇をさらわれた。
「・・江角がいるのに」
「まあな・・ともあれ座れや」
 嵐は言われるままにワラの寝床に腰を下ろした。

「まずは、これを見よ」
 彪牙は、懐から黒い布でくるんだ細長いものを取り出すと、硬い黒檀でつくられた小柄(こづか)のような短剣を手にして、そっと置いた。
 先が鋭い両刃の剣で、握りのところに・・仏の姿が彫られてある。
 嵐はちょっと首を傾げた。
 彪牙は言った。
「叡山の鬼天狗」
「・・鬼天狗?」
「お紋は天狗に身を捧げた女よ。不可思議な法力を授けられ、また天狗に守られているから殺しても死にはしない。人にあらず。もはや妖鬼さ」

 叡山の鬼天狗・・聞いたことのある話であった。
 織田信長の比叡山焼き討ちで、命からがら逃げ延びた若い僧侶が、女子供の別なく惨殺したあまりの非道、あまりの地獄に怒り狂い、黒い嘴と鬼のような角を持つ烏天狗に化身したと言われている。
 恨みに狂った妖怪僧。あの光秀をそそのかし、本能寺で信長にとどめを刺したのは鬼天狗ではないかとも言われている。

 しかしその後、鬼天狗は京の山から姿を消して、木曽山中で見かけたという話が伝わるぐらいで、そんなものがいるなどと信じる者もいなかった。
 蝋燭の炎が揺れて、彪牙の笑みを浮き立たせた。
「その天狗を封じるのがこの剣でな。さる高僧より与えられた剣だが、これをもってしか天狗を封じるすべはない。殺ったところで生き返る。天狗を灰に変える剣だそうだ。お紋のことは江角に聞かされただろうが、お紋はその後、木曽の山で死のうとした。天狗には人の心しか見えない。見目形など目に入らない。崖から飛んだお紋を天狗は救い、情を与えてそばに置いた。女房のように」
「それを信じろと言うのか?」
「ああ信じろ」
 まったくこやつは・・しゃあしゃあと言ってのけ、まっすぐ見つめる熱い視線。
 彪牙は言った。
「お紋を殺ったところで天狗がいる限り生き返る。お紋そのものも江角の知るお紋ではないのだよ。心してかかれ。言っておきたいのはそれだけだ」

 嵐は、それきり黙った彪牙に向かった。
「されど彪牙」
 彪牙は手をかざして嵐の問いを黙らせた。
「お察しの通りでね、天狗とお紋を消せと命じられている。そこまではそなたらの敵ではない。されど、それより深みを探ろうとするのなら・・」
「・・なるほど。今度のことは徳川の身内の企て・・」
「家中で配下の者が突っ走った。鬼天狗を抱き込んだのはそいつらよ」
「それで上は見過ごせなかった・・ということか」
「さあな。それ以上を言わせるな」

「な・・何をする・・」

 彪牙は、すっと身をずらすと嵐の肩を抱いて押し倒した。下になる嵐。見上げると毛玉のような顔の中で彪牙がやさしく笑っていた。
 女は男の眸を見つめたまま問うた。
「ひとつ訊く。江角をどうするつもりだ?」
「いずれ迎えに行くさ。あやつはキラ星のような女でね・・ふふふ」
「なのにあたしを?」
「いまも言った」
「何を?」
「物事には深みもある。考えず抱かれろ」
 嵐は可笑しくなって首を振り、着物の裾を割る男の手を迎え入れて腿を割った。
「江角を粗末にするな」
「おまえもな・・よく濡れるいい女だ・・ほうら、こんなに・・」

「ぁ・・ンふ・・待って」

 嵐は彪牙の太い腕をほどくと立ち上がり、自らすべてを脱ぎ去った。
「襲われるのは嫌・・自ら抱かれたい」
「ふっふっふ・・さすがだ・・」
「ぁ・・彪牙・・ぁンっ・・憎めない奴・・」
 ワラに倒され、組み敷かれ、嵐は体を開いて彪牙の唇を女陰へ誘う・・。

 彪牙・・こんな男にはじめて出会った・・心が溶けていくと感じていた。

女忍 如月夜叉(十六話)


十六話~般若の影


 その夜の二階の六畳。お雪とお燕は間を空けずに敷いた布団に横になり、闇の虚空を見つめていた。明日は雨になるようで黒雲が空を覆い、今宵の窓は暗かった。
「女って、どうしてこうも・・」
 お雪が言い、それにお燕の声が重なった。
「・・哀しい」
 お燕は身をずらしてお雪を向き、そして言った。
「さっきも姉さんに言ったけど、ちょっとしたことで変わってしまう」
「そうだね、ちょっとしたことで、どっちへ転ぶかだよ」
「あたしだって、あのとき瀬田様がほんのちょっと早かったり遅かったりすれば、どうなっていたことか・・お真知さん見ててもつくづく思うし、忍びに生まれなくてよかったって・・あ、ごめんなさい」
「いいさ、その通りだよ・・それはあたしら忍びみんなが思うこと。違う生き方もあったのにって」

 一部屋おいた八畳で嵐と江角。江角が言った。
「強い子だね、しっかりしてる」
「ほんと。参ったよ、ふふふ、あたしらは敵味方で扱いを違えすぎだ、悪い癖さ」
 嵐が応じ、江角が言った。
「お紋か・・いちばん聞きたくない名だったね、元は同じ伊賀だから」
「とにかく明日さ、四ツ谷へ行って、それからだ。硫黄の湯といっても何か所もあるからね。居酒屋だとすると・・女が連れ立って行くのもヘンだし一人だとなおヘンだ」
「源さんでも連れてけば。あたしが香風を手伝うさ」
「いいや、忍びでもない者を巻き込みたくない。もう寝よう」
 嵐の声を最後に静かになった。

 その頃、香風では、源兵衛は眠ってしまい、穏やかな寝息を聞きながら百合花は眠れず悶々とした。
 あのくノ一が真知という名であることも、お燕に救われていたことも、このときの百合花には知る由もなく、忍びの拷問をはじめて見たお燕がどう感じているのだろうかと、そればかりが気になった。
 あのときのことを思い出す。甲斐方の地侍だった父親が寝返ったとき、武田方に攻められ、その兵の中に如月の一派も混じっていた。一家が揃って殺されて、如月忍びの男の剣が己に向いたとき・・あのとき確か十歳だったと百合花は思う。
「待ちな、その子に手を出すんじゃないよ」
 如月の霧葉・・童の目には鬼のようにも思えた女。泣いていた私に手を差し伸べてくれたことをいまでもはっきり覚えている。頭巾をして目だけしか見えなかった。もう泣くなと抱いてくれた。そしてそのまま如月の里に連れ去られ、女の鬼が頭巾を取ったとき・・なんて美しい人だろうとぼーっと見ていた。

 如月の頭の娘として育てられた。剣を仕込まれ槍や弓を教えられ、厳しさに泣くと決まっていつも尻を叩かれ、強くなれと叱咤された。そうするうちに嵐が生まれ、姉妹のように育ってきた。そんな何もかもが昨日のことのようで懐かしい。
 大きくなって如月を離れて一度は嫁いだ。武家だった。しかし夫は討ち死にし、その弟に女体を狙われて斬り殺し、彷徨って・・尼寺に救われた。
 そうした十歳の頃からの女の思い出がいまになって蘇ってくる。
 女を捨て、そしてふたたび女に戻った。瀬田そして源兵衛、お燕、嵐や皆も、かけがえのないものに囲まれていると百合花は思う。
「ちょっとしたこと・・」
 闇の中で囁いた。
 あのとき彷徨った山の中で道が二手に分かれていて、片方は下る道、片方はさらに山へと続く道・・逃げなければと山へと入った。その先に古い尼寺はあったのだった。

 そして翌日。
 店の支度にかかるちょうどそのとき、江角に連れられてお燕が来た。
 百合花は仔細を聞かされた。お燕は源兵衛と厨にこもって支度をしている。
 詫びた庭に、木の葉で砕かれた雨が霧のようにたなびいていた。
「ほう・・そうですか、お燕がそんなことを?」
「あたしも皆も考えさせられてしまいました。嵐なんて苦笑い・・参ったって笑ってましたね」
「ほほほっ、お燕はやさしい子ですからね。でもこれで私の法衣も無駄にならない。しばらくは牢で己を見つめさせておけばいいでしょう。お真知とやらには違う生き方もあるのですが、それもいずれ私が導く」
「よもや我らの仲間にと?」
 店では百合花は法衣をまとった。梳き流したおかっぱの垂髪が黒光りして美しい。百合花はちょっと眉を上げて言う。
「さあ、それはどうでしょう。いいわ、わかりました。四ツ谷は遠いから、こっちの支度が済みしだい源さんを向かわせます。巻き込むも何も源さんは仲間です。嵐には気をつけてと伝えてちょうだい」

 江角は香風を出て坂道を歩きながら、百合花は真知に対して尼となるより女のままで生きる道があるのではと考えている・・と察していた。
 本降りになりだした雨が蛇の目傘をばちばち叩いた。しかし空の西側が明るかった。雲が切れはじめている。

 夜の五つ(七時頃)の四ツ谷。このあたりは芝からは遠いけれども江戸城からはまっすぐな道沿いの街。緑の起伏が幾重にも折り重なる美しいところ。
 その街外れに小さな居酒屋はあった。この先少し行くと人家が失せて、さらに歩くと整備されだした内藤新宿の宿場へと至る。江戸初期のこの頃は七時には人の気配は失せてしまう。まして今宵は雨模様。

 居酒屋、酒膳。街道筋の町外れにある小さな店。
 ここへの途中に聞き込んだところによると、酒膳はずっと以前からある店で、いい歳の親爺が一人でやっているという。一年ほど前にそれまでいた娘が辞め、入れ替わるように『結(ゆい)』という女がやってきた。真知から聞かされたような性悪ではなく、気立てのいい女だということだ。
 それもくノ一としての器量。それだけ人を欺けるということだ。
「あ、いらっしゃい! 今日はもうだめだって話してたところなんですよー。あと半刻ほどで閉めますが、ささ、どうぞどうぞ」
 雨はここへの途中であがっていたが、こういう日は客は動かない。小さな店に客はなく、店主らしき爺さんと結という女が膝を突き合わせて座っていた。

 立ち上がった結は、いかにも客商売らしい鮮やかな黄色格子の着物に茶色の前掛け。背格好はお真知とほぼ同じで五尺三寸(百六十センチ)ほど。細身だったが体はよかった。。町女の髪姿で娘といえるほど若くはないが、それでも二十代の後半あたり。目のくりくりとした愛らしい姿であった。
 客が入って厨(くりや=台所)へとさがった店主は六十代の中ほどか。小柄で髪が真っ白だった。

 それに対して、嵐は青地柄の着物に脚絆を巻いて、市女笠(いちまがさ)と杖を持つ旅姿。そうでもしなければ仕込み杖が持てないからだ。
 源兵衛も三度笠に杖の旅姿。二人は一見して父と娘のようにも映っただろう。途中まで降っていた霧雨のせいで着物が少し濡れていた。
 結という女は手拭いを持って駆け寄ると、源兵衛から先に肩を拭き、嵐の肩も拭いてくれる。そのとき嵐はそれとなく探ったが、結はほがらかで人当たりのいい、愛らしい女であった。見た目ではわからない。
 源兵衛が言う。
「ちょいと一杯だ、肴は見つくろってくれりゃいい。今宵は娘と一緒だ、呑んだくれるとぶっ飛ばされる、こいつは鬼でね、はっはっはっ」
「まあ怖い、うふふ!」
 嵐はふっと片目の眉を上げて視線を流す。
「・・誰が鬼さ」

 そうやって四半刻ほどを過ごして店を探り、一旦店を出て、二人は店を見渡せる物陰に潜んで待つ。源兵衛が言う。
「どう思う?」
「うん、あの爺さんも怪しいね」
「そうか?」
「目配りでわかるのさ。結って女の動きを追う目が速いし、あたしの杖をちらりと見ていた。ずっと前から店をやってるらしいけど、であれば草(くさ=住み着いて探る忍び)だね」
 元が武士の源兵衛には、忍びの微妙なところはわからない。
 嵐が言った。
「東国に徳川が封じられてよりの店・・だとすれば、あるいは豊臣方・・それはいいさ、じきにのれんが下げられる。源さんは裏から、あたしは前から」
 その直後、結が顔を出してのれんをしまう。そのとき嵐が歩み寄った。

「もうおしまい? ちょいとお酒をもらって行こうと思ったんだけど」
 あたりまえに微笑みながらも間合いを一気に詰めた嵐。相手はのれん棒を両手に持って一瞬備えが遅れてしまう。
「なっ、何すんだい!」
「入りな!」
 片手を取って後ろにひねり、もう片手の二の腕を着物ごとつかんで店の中へと押し込んだ。

「てめえ! 妙だと思ったぜ!」
 爺さんがよく研がれた柳刃包丁を手に厨から飛び出ようとした瞬間、裏口から源兵衛が板戸を蹴破って踏み込んで、手にした杖を突きつける。こちらも仕込み杖。抜刀はしていない。
「おっと、おまえさんはじっとしてな」
 嵐は、結をひねりあげたまま、懐へ手を入れて長さ半尺ほど(およそ二十センチ)の黒い筒を抜き取ると、地べたに落として踏み潰す。くノ一が忍ばせる吹き矢である。袖も探るが袖には何も隠していない。
「やっぱりね、吹き矢とは穏やかじゃないね」
 と、嵐が言った。
 一方の爺さんは、源兵衛の気迫に圧されて座り込んでしまっていた。
「おまえ結だね、頭はどこだ?」
「頭? ふんっ、何のことさ?」
「しらばっくれてもだめなんだよ、おしろい般若・・お紋はどこだ!」
 そのとき・・うっと呻いて爺さんの口から血が流れた。舌を噛んだ・・違う、毒を噛んだ。
「おい爺さん! おい!」
「畜生ども・・我らが恨み・・思い知れ・・」
 そのまま倒れ、もがく間もなく動かなくなっていく。猛毒らしい。

 嵐は、とっさに手拭いを手にし、結の口に噛ませてしまう。くノ一は歯に自害のための毒を仕込むことがあるからだ。
「さあ言え! 我らが恨みとはどういうことだ! おまえら何者! 頭はどこだ!」
 猿轡でくぐもる声だったが聞き取れる。
「爺さんは甲賀、あたしは違う。爺さんがなぜここにいるかなんて知らないね」
「爺さんは一味じゃないのか?」
「違うさ。違うが、あたしをかくまってくれている。あたしなんか下っ端だ、深いところは知らないね」
「お紋はどこだ、言え」
「言ったら助けてくれるのかい、ふんっ」
 嵐は白木の丸杖から仕込み刀を抜き去って、女の耳に刃を当てた。
「切り取ってやってもいいんだよ。お紋のようにしてやろうか」

「だから知らないって!」
 結は敵意を剥き出しにそっぽを向いたが、そっぽを向きながら言うのだった。
「あたしはつなぎを待つだけさ。頭などよくは知らない。万座の湯治場にいるって話はちらっと聞いた」
「万座・・それに違いないね? たばかったら殺るよ」
 結はそれきり喋らなかった。
 万座の湯は硫黄の湯。傷にいいと言われていた。

「おまえは何者? 甲賀でないとすれば流派は?」
「もはや流派もくそもないんだよ、駿河が滅びてより我らは散り散り」
「駿河・・今川の手だな?」
「遠い昔さ。親父殿の時代だよ。忍びなど諸流が混じり合うもの。駿河にだって伊賀も甲賀もいたんだぜ。風魔もいるしな」
「おまえは女たちを殺ったのか? 手を下して殺ったのか?」
「殺ってない、かどわかすだけ。殺ったのは頭と、あと二人。それが般若で、あたしらなんぞ般若の髪の毛みたいなもんさ」
「そうか・・立て」
 結を立たせて振り向きざまに、嵐が首筋の急所に手刀を打ち込んだ。
 結いはがっくり崩れて膝をつく。
「源さん、どっかで荷車を。こいつも連れて帰る」

 気を失った結の手足を縛り上げて寝かせておいて、死んだ親爺の骸を店の奥に隠しておく。店の中の血を拭い、しばらくでも時がしのげるよう偽装する。
 裏口から結を担ぎ出して荷車に載せ、二人は夜陰へまぎれていった。