女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。


二 話


死神を見てしまった。そしてそのとき、ミツル君に出会った私。このことは、それ以外のありふ
れた日常の中にあるどんな出会いのシーンよりも心に刻まれ、私は運命を感じずにはいられ
なかった。だってそうでしょ、死神なんてこの世のものでないものを二人揃って見たんです。
彼にも私にも、ほんの少し霊能が備わっていたようで、彼の言うように、あのとききっと二人の
念が共振し合って力を増して、だから黒い不吉が見えたんです。

可哀想に美代子はほとんど即死だそうで・・・あれから私は、お寺や神社や、お部屋にいて
もお花を飾って一心に手を合わせたわ。怖くて怖くてなりません。神様でも仏様でもよかった
の。田舎に戻ってお墓にも行き、ご先祖様にも手を合わせた。
人に対して間違っても死ねなんて思っちゃダメ。美代子に対してだって、一瞬でもそれを思
ったことを後悔したし、心から謝っていたのです。

ミツル君に、当時暮らしたマンションまで送ってもらい、それから頻繁に会うようになって、彼
が泊まるようになりました。それほど時間はかからなかった。お部屋に独りでは怖くてならな
い。一緒にいないと気が狂ってしまいそう。
彼はやさしく可愛い人です。三つも下で、その点ではちょっと頼りないけれど、懸命に私を
守ろうとしてくれた。この世の男性で、ほかに誰が一緒に死神を見てくれるでしょうか。運命
なんです。あの黒い霧を遠ざけておくためにも私たちは前を向いて歩いて行くしかないんで
す。

翌年になって彼が卒業。クルマのメーカーに就職も決まり、私たちは結婚しました。生産ラ
インのある工場近くの賃貸マンション。最初は共働きで、二年経って私が辞めて主婦になっ
てた。でもね・・・結婚から三年目になろうとするのに、どういうわけか赤ちゃんに恵まれず、
彼との間にも微妙な風が吹きはじめていたんです。
やさしくていい人ですよ。だけどやっぱり三つも下だと、何かあると私がお姉さんを発揮しち
ゃって、なおさら物足りなくなってくる。
そんなこんなで、それからさらに一年が過ぎて行き・・・あのことも忘れることができていまし
た。

このマンションは、新婚向けの2LDKと単身者向けの1LDKの二つのタイプに分かれてい
たのですが、ある日のこと、専業主婦で家にいた私は、引っ越しのトラックを見てしまう。買い
物から戻った二時頃のことでした。春先で移動のある時期。トラックは引っ越し屋さんのもの
でなくレンタカー。友だちに手伝ってもらっての引っ越しだったのです。
学生さんらしい若い男性が二人、荷物を出すのにトラックにいて、そしたらそのとき、マンシ
ョンから三十代のきりりとした人が出てきます。

「よし次頼む、もうちょいだ、すまんな」
「いいえ、これぐらいどうってことないっす」
「焼き肉でもおごるから頼むわ!」
「あははっ、それは当然!」
「けぇー、これだよ、あはははっ!」

明るい人・・・それにみんないい感じ。お歳は違うけど何かのお友だちだと思ったわ。
そしたら彼が・・・そのときたまたまそちらを見ていた私に気づき、歩み寄って来るんです。背
の高いがっしりしたスリムマッチョ。髪が短く、日焼けして精悍です。
「どうも、こちらの方ですよね?」
「あ、はい」
「お騒がせしてすみません、もう終わりますので。僕は霧原と言います。307です。クラブの
連中に手伝ってもらっての引っ越しですよ」
「クラブ?」
「スキューバです、海をやりますから。僕は転勤なんですが、クラブは千葉で、こいつらみん
な学生だから」
「ああ、はい、そうですの」
今日は平日。彼は引っ越しのためにお休みで、若い子たちは学生だから時間があるという
ことでしょう。
「私、戸川です、702ですわ」
「戸川さん? そうですか、これからよろしくお願いしますね。ご挨拶はまたあらためて。そ
れじゃ、どうも!」

言葉に覇気のある、野生を感じる人でした。マンションは七階建てで、三階から下は単身者
向けの間取りです。彼が独身で三十四歳であることを知るまで、それほど時間はかからなか
った。主人の勤める自動車メーカーの一次下請けの社員さんです。立場ではウチの方が上
なのでしょうが、なにせ主人は若過ぎてまだまだ下っ端ですからね。
なのに三つも上の私だけ、いい歳になっていた。あのことがあって他の人には目もくれず結
婚した私です。年上のエネルギッシュな男性には惹かれます。

工場勤務は、カレンダー通りでなく、土日は休みとしても、祝日や、それに平日だって日勤
と夜勤があって、主人など週交代で昼と夜が入れ替わる。そしてそれは彼もそうで、別会社
でもあり勤務がズレることが多かった。主人が日勤のとき彼が夜勤ならば昼間に顔を合わせ
ますし、逆なら夜が合わせやすい。子供でもいてくれれば違ったのでしょうけれど・・・それ
にしたって口喧嘩の元になっていたんです。何年経ってもできません。どっちかが悪いのだ
ろうと思っていました。

そんな日々が続いたその週、主人が休日出勤になってしまった。機械の調子がおかしいら
しく、工作機械のメーカーの人たちとラインが停まる週末に総点検をするらしい。会社に泊
まり込みになるだろうって言うんです。
その前日・・・主人はもちろん仕事で家になく、私は下に降りてクルマを洗ってあげていた。
そしたら彼が、白いステーションワゴンに、見たことのある道具を積み込んでいたんです。重
そうな空気のボンベ、ウエットスーツ、足ヒレなんかを・・・ダイビングに出かけるようで。

「あら海?」
「はははっ、そうそう、明日から千葉で、その準備を」
「いいなぁ・・・海なんてぜんぜん行ってない・・・」 
ふと漏らした一言がすべてのはじまりとなりました。
「明日ご主人は?」
「朝早くに出かけて、ラインのほら・・・聞いてない?」
「ああ、あれか・・・機械の誤動作ですよね?」
「かどうか、そんな話はしてないけれど、それで泊まり込みみたいなの」
「じゃあ、よければ一緒にどうです? 潜らなくても船で遊べますよ」
「でも・・・朝は何時? 主人がいるうちは出られないし・・・」
「僕は夜中に出ちゃいます。でもほらクルマがあれば来られるでしょ。お昼頃に一度港に戻
ってますから、来てくれれば半日遊べる。水着でもいいでしょうし、ないならないで楽しめま
すから。場所は・・・」

でもね・・・そのときはとても無理だと思っていました。ところがその夜、主人とまたちょっと口
喧嘩。朝の六時に送り出し、私はむしゃくしゃしていたんです。不妊検査を嫌がるから。恥
ずかしがって嫌だって言うんだもの。私だけ必死でも夫がそれでは子供はできない。なのに
エッチだけは求めてくる。それでちょっと苛立っていたんです。
主人を送り出して一時間ほどいろいろしていて・・・場所は内房の先端あたり。二時間もあれ
ば行ける距離だと思ったの。
水着なんてデザイン古くて着られません。モーターボートがはじめてだから、そっちの方が
楽しみで、それで私は家を出た。初夏のすがすがしい晴天です。ショートパンツにTシャツ
姿。久々の女の子スタイルで心が浮き立っていましたね。
携帯は相手が海の上では通じません。クラブに電話を入れて伝言を頼みます。無線でしょう
か衛星携帯? 後はひたすら港を目指して走るだけ・・・。

主人に言えないことができてしまった・・・物足りなさを埋めるように彼を愛していたんです。

霧原純一・・・そういえば霧という字がつくのよね。男らしくて凛々しい霧だわ、あのときの不
吉な霧とはぜんぜん違う。
「ううむ、なるほど、不妊検査ね・・・それはちょっとないな、相手は医者なんだから」
「でしょう? 私は間違ってないと思うのよ」
船の上ではクラブの人たち五人に囲まれ楽しくて。そして船を降りたとき、彼は親身になって
話を聞いてくれるのです。
主人にメールをしてみたら今夜はやっぱり泊まりらしい。帰りに二台揃って夜道を走り、途中
でお食事。そこでも彼は逞しく、昼間の厚い胸板が思い出されて、予感めいたものを感じて
いたわ。

それでマンションが近づいて、私が先に駐車場にクルマを置いてお部屋に上がり、しばらく
してから彼が戻る。それだって申し合わせていたんです。同じマンションですからね、闇に
も目がまぎれてる。

お風呂に入って海の匂いをさっぱり消して、それでも電車のなくなる時刻まで待っていて、
それからでした、可愛い下着に着直して電話を入れます。
「大丈夫よ、行っていい?」
「うんおいで、ロックはしてない」
「わかった・・・うふふ・・・いま行く・・・」
エレベーターを使わずに深夜の階段を降りていく。スニーカーは不倫の足音を消してくれた
わ・・・。


一 話


美代子の死は私を恐怖に突き落としたわ。目の前での惨劇です。五時の定時を少し過ぎて
私が先にオフィスを出たの。着替えてロッカーを出ようとしたとき、あの子が入って来たんで
す。春の移動でセクションが変わってしまい、顔を合わせることも減っていたけど、私とあの子
は、はっきり言って仲が良くない。美代子とは同期だったのですが、どういうわけか私を毛嫌
いしてくれて、事あるごとににらみ合っていたんです。

入社したての頃はそんなじゃなかった。むしろ逆で仲が良く、休日なんてよく遊んだもので
した。あるとき私が乗馬クラブに通いだし、あの子を誘ったことからおかしくなった。クラブに
素敵な人がいたのよね。ルックスだけならあの子の方が美人です。あの子は彼を好きになり、
なのに彼は私に声をかけてきた。そのへんから女同士の嫌な空気が生まれたわけで・・・。
仕事では私の方がちょっと上かな。同期ですからなおのこと、微妙に開きはじめた差が気に
入らないこともあったのでしょうが、それに加えて彼の存在が決定的な不仲の元。いつの間
にか口もきかなくなっていた。
何かあるとつっかかってくるのは彼女の方で、私は退いていたんです。私はものが言えない
タイプ。下手に言って火に油ではめんどくさいし・・・。

それで結局、乗馬クラブも私が先に辞めてしまい、あの子にしたって、私がいようがいまいが
それきり彼とは進展しないようでした。私は彼をそれほど好きになれなかった。若くハツラツと
しているのはいいのですが、即断タイプで何をやらせてもキレる分、冷たく感じていたからで
す。
私とは無関係なところで勝手にダメになったのに、一度狂った関係は修復できない。女の嫉
妬の怖さですよね。

それはともかく、ロッカーを先に出た私は、地下鉄の駅に向かって一度は交差点を渡ってし
まい、もう駅というところまで来て、ロッカーに忘れ物をしたことに気づいたの。お昼休みに
近くのお店でブラウスを一枚買っていた。それで私は取りに戻り、そうしたら交差点の歩道
の向こうにあの子が立っていたんです。
片側三車線の広い通り同士が交わる交差点。向こうまでには距離があり、帰宅時刻で周り
に人も多くいて、あの子は私に気づいていない。
何となくですが、すれ違いたくない思いがして、私は横断歩道の端っこまで人にまぎれて動
いていたのね。何人かの人たちを前にして隠れるように立っていました。
そして・・・その人たちの肩越しに、近頃妙にお化粧に気合いが入るあの子のことを見てい
たの・・・ただそれだけのことでした。

そのときです。交差点の向こう側にも人は多くて、あの子は一番前に立っていた。仕事帰り
にしては短すぎるスカートスーツ。帰ることに気合いが入る感じがしたわ。彼でもできたのか
なって思ってた。
そのあの子の背後に、もわもわと黒い影・・・それは黒い霧のようでもあり、黒い雲を千切って
背後に漂わせたようでもあり・・・その黒い影が、ひっきりなしにクルマが通る道路をめがけて
あの子の背を押したのです。突き飛ばした感じだったわ。あの子は悲鳴を上げる間もなくて、
つんのめって道路に飛び出し、黄色信号を走り抜けようとした普通トラックに轢かれてしまっ
た。

「きゃぁぁーっ! 嫌ぁぁーっ!」

悲鳴は居合わせた女性のものでした。道のこちら側から見ていて、彼女の体にトラックが乗
り上げるように轢かれていたから、私はきっとダメだと思った。
仲が悪かったといっても、それとこれは話が違う。周りの人が倒れた彼女に群がって大騒ぎ
になっていた。
けれどもです、このときの私は、彼女を突き飛ばして、すーっと横に流れて消えていった黒
い霧で頭がいっぱい・・・怖くて怖くて、しゃがみ込んでしまったの。
「ああ美代子・・・嘘でしょう・・・ああそんな・・・」
普通じゃないもの・・・あれはきっと悪霊よ・・・そうとしか思えません。

そしたら、しゃがみ込んだ私の肩にそっと手が置かれます。
「大丈夫? 知ってる人?」
振り向くと若い男性。ジーパン姿で、学生みたいな・・・それぐらいの若い子です。
「うん、会社の同僚・・・すぐそこがオフィスだから」
「そうなんだ・・・たまりませんね・・・それにしても嫌なものを見てしまった・・・」
「え・・・」
その子、そんなことを、まるで呻くように言うのです。
「君にも見えた?」
「あ、それじゃ、お姉さんにも?」
「黒い霧みたいな・・・」
「ええ、そうです・・・あれは・・・」 と言いかけて彼、周りに人がいることと、しゃがみ込んだ
私を気づかってくれてでしょうけれど・・・。
「どっかでちょっと話しませんか、あれが見えたのなら、その方がいいと思うから」
「うん、いいけど・・・」
それで私は、ふらつく足で彼と歩き、とにかくカフェに入ったのです。セルフのお店で、私
を座らせ、彼がコーヒーを買ってくれ・・・このときの私はきっと顔色もなかったことでしょう。

「話には聞いていたけど見たのははじめて・・・お姉さんて霊は見える人ですか?」
「ううん、とんでもない、怖いこと言わないで」
「そっか・・・僕も違う。なのに揃って見てしまった」
「うん・・・それはそうね・・・」
「だとしたらきっと、お姉さんの念波と僕の念波が共振し合って二人に同時に見えたんです
よ。あれはたぶん・・・」
「うん? 何なの?」
「死神です」
「死神・・・まさか・・・」
「いえ、おそらくそうだと思います。死神は、ときとして人の姿で、ときとして黒い影となって、
ああして現れては人を死の世界へ連れて行く・・・悪霊などよりはるかに強い存在で、死の
世界の神ですからね・・・狙われたら最後、よほどのことをしないと去ってはくれない。あの
人・・・轢かれたあの女性・・・」
「うん? 彼女が何かしたの?」
「てゆーか、はっきり言って心が良くなく・・・すいません」
「ううん、いいの・・・続きを言って」
「はい、つまり生かしておくと災いを生むだろうと・・・うーん、そうかどうかはわからないけど、
死神に狙われてしまったんです。だけど僕が嫌なのは・・・」
「・・・それを見てしまったこと?」
「です。死神なんて、特別な能力とか、あるいは神父さんみたいに神に仕える人でもない限
り姿の見えるものじゃない」
「そうなんだ・・・」
彼は真剣です。彼だって顔が青いわ。目の澄んだ童顔タイプで、悪い子ではなさそうでし
た。

それで彼、飲まれないまま冷えてしまったコーヒーに口をつけ、息を整えるように言うんです。
「もしや警告かも」
「警告? 私たちに? でもどうして?」
「あのですね・・・怖がらないでくださいよ」
「うん」
「警告というのは僕にではなく、たぶんお姉さんに対してです。お姉さん、あの人を知ってる
でしょ、同じ会社で・・・もしや何かあったのではって・・・」
「な、何かって?」
「仲が悪くて憎み合ってるとか・・・それはつまり女同士のもつれだったりしますけど・・・そん
なようなことが度々あって、死神はそれを見ていて、心の良くない方を連れ去った・・・そして
そのとき、死神はお姉さんのこともちゃんと見ていて、たまたま居合わせた僕との念波が共
振し合って、その姿が見えてしまった・・・決して姿を見せないはずの死神がこっちを見てい
た・・・僕ではなくてお姉さんを・・・おまえのことも見ているぞ、心しておけ・・・そんなふうな
感じでしたか・・・」

ゾーッと背筋が冷えました。あの子のことは好きではないし、それはね、死ねばいいのにと
思ったこともありますよ。家に帰ってそこらのものを叩きつけて「死ね」なんて叫んだこともあり
ました。だけどその程度の感情ならば、およそ誰でも持つものでしょう。

「あ、そうだ」
「え?」
「僕、戸川です、戸川ミツル、二十三です、なのにまだ学生で・・・二浪しちゃって・・・えへ
へへ」
「ああ・・・うん、うふふ、そうよね、お互い自己紹介もまだだった、沢村彩子よ、歳は少し上
かな。お話してくれてありがとう。人のことを悪く思っちゃダメなのね」
「ええ・・・でもまさか死神を見ようとは・・・死神は死という感情を嗅ぎ分けて寄って来るって
言いますよ。人に対して死ねだとか、最悪なのは死にたいとか、ちょっとでも思うとそれを嗅
ぎつけて近寄って来るんです。そして一度動くと一人は必ず連れていく・・・」
「もうやめて・・・怖いから・・・」

それで顔を見合わせて席を立とうとしたときに、彼は言います。

「お姉さんて、これからどちらへ」
「どちらへって・・・帰るわよ」
「一人で大丈夫? 怖いでしょう?」
「それはね・・・怖いって言うか、足が震えちゃって動けない・・・」
「うん、じゃあ送りますよ。僕いまクルマ。向こうに停めて来てるから」
「クルマ? 学生さんなのにクルマなの?」
「いえいえ姉のです、ちょっと借りて出て来たから。ですからどうぞ、送りますよ」
「でも・・・」
「送り狼になったとしても死神よりは怖くない、あははは!」
「まあ・・・うふふ・・・そう? じゃあお願いしていい?」

それが私と主人との出会いとなりました。私は三つ上の二十六歳。大学を出て美代子と同
期で入社して四年目になろうとした。ミツル君とのお付き合いがこのときはじまり、彼の卒業
を待って結婚することとなったのです。


(下)

 指定した道具が翌日には手元にあった。宅配便のシステムは世界に
誇るとつまらないことを考えてみたりもした。結城家に泊まり込んだ
私は、荷物を受け取るとすぐに、机の裏側の目立たないところを彫刻
刀で削ぎ取って顕微鏡にかけてみて、我が目を疑った。
「これは・・」
 主が傍らにいて興味津々覗き込んでくる。
「なにか?」
「まさかそんなことが・・ますます信じられませんね。机の黒く錆び
て見える木肌は表層のほんの皮一枚で、その下の細胞は元気に生きて
います。常識外だ。まったく考えられないことです。机から伸びる枝
も正真正銘この机の桜そのものですし」
 このとき私も主も、そうやって大の男が二人で夢中になっている姿
を、物陰から孝子に凝視されていようとは思わなかった。

 私としてはなにがなんでも机を持ち帰り、徹底的に調べた上で論文
にまとめたいところだったが、どうしても承諾してくれない。主は、
机の存在が公になることよりも、万が一それが災いの種になったらと
危惧したのだ。しかたなく私は仙台を後にした。一度大学に戻り、ス
ケジュールをやり繰りして次には少し長期に観察したいと考えていた。
なにしろ植物学にとどまらずこの地球上に存在する全生物学上考えら
れない大発見なのである。

 大学に戻った私は、イライラしながら毎日を過ごしていた。ちょう
ど期末の試験に重なって抜けようにも抜けられない。そんな日々が続
いたある日、昼過ぎになって私のデスクの電話が鳴った。

「徳永ですが?」
「私、結城家で家政婦をいたしております小松と申しますが」
「ああ孝子さんですね」
「はい」
 受話器から聞こえる若い声が震えるような緊張を孕んでいた。
「どうかなさいましたか?」
「それが・・」

 私は慄然とした。
 あの文机から根のようなものが生えてきて、それとタイミングを
合わせるように結城家の長女で東京に出ている加世子という娘が、
昨日の夜、新宿の街中で突然狂ったように暴れ出し、そのまま倒れ
て心臓発作で死んだというのである。
 そしてそのショックで家の主までが倒れてしまったらしい。
 しかし私が恐れたのは、その事実よりも孝子の電話の背後という
のか、電話の向こうで孝子をつつみこんでいる空気感のようなもの
の中に、このときはじめて、ただならぬ霊気を感じたからだ。
 こんなとき霊能に長けた妻がいてくれたら、あるいは対処法があ
ったかも知れない。妻はつい昨日から家を空け、友人たちとヨーロ
ッパを廻る旅に出ていた。


 そのさらに二日後、大学を開放された私が駆けつけたときには、
主は入院してしまって家にはいなかった。東京から大介という息子
も戻って来ていた。
 主は、娘の死の衝撃で起き上がることもできなくなってしまった
らしい。先だって訪ねたときに私にもし強い霊能力が備わっていた
らと考えると、遅きに失したと後悔される。
 あの文机のありさまは短い間にそう変わるものではなかったが、
枝の伸びる机の角のところから長さ一~二センチのヒゲ根が二本生
えかかっていて、すさまじいまでの妖気を発していた。まるで陽炎
が立ち昇るような光の揺らぎが机を取り巻いていたのである。
 する術もなく呆然と見ていると、傍らにいた大介と孝子が言うの
だった。

 孝子が先に口を開いた。
「先生の霊界散歩、私も楽しみにしてるんですよ。よく霊のことを
ご存じだなと思いましてね・・ふふふ」
 大介が言った。
「そうだね、僕も孝ちゃんから聞かされたとき、びっくりしたよ。
年月は人にとっては長くても霊にとっては一瞬でしかない・・って
ところが特に」
 私は孝子の変貌ぶりを呆気にとられて傍観していた。明らかに人
格が重なっている。多重露出の画像を見るように二人の孝子が折り
重なっているようだ。
「君たちは・・」
 孝子が応じた。
「どうぞ机のことは心配なさらないでくださいね。あの桜は、どこ
かに植えてもらいたがってるだけですから。あれはもちろん桜の板
ですが、お孝さんそのものなんですよ。あの机が私と大介さんを東
京で巡り合わせ、そしてこの家へと導いたんですもの」
 大介が言った。
「ふふふ、驚かれましたか先生。僕たちはもう二度と離れたくない
んです。二度と誰にも邪魔されたくはありません。父もまもなく死
ぬでしょう。机に宿って生き続けたお孝さんの怨霊が殺すのです。
これ以上は言っても信じないでしょうけれど、僕の前世は当時の結
城の息子、隆太郎。そして孝ちゃんの前世は伊能の娘、お孝なんで
す」
 孝子が大介をやわらかく見つめて微笑んだ。
「お父様や加世子さんには気の毒でしたが、私たちにはどうするこ
ともできません。すべては枝折れの桜が邪魔者を排除しようとして
いるだけですから」

 二百余年を経て、それでも添い遂げようとするお孝の情念に、私
は打ちのめされていた。今回の妻の旅行も、妻は私と行きたいとず
っと言っていたのである。それを私は仕事にかこつけて拒んできた。
ただ面倒だったというだけで・・。
 女の情念には報いなければと、つくづく思う。
「そうですか。孝子さん・・いいや、お孝さん、そして隆太郎さん、
おめでとう、よかったですね」
 大介が言った。
「本当にそう思ってくれますか。だったらいいが・・」
 孝子が言った。
「先生が先日おみえになったとき、もしも机を持ち出そうとなされ
たら、いまごろ先生は殺されておいででしたわ。そしてもう一つ、
このことは先生の胸にだけ留めておくと約束していただけると嬉し
いのですが?」
 私はうなずいた。無関係な私の身を案じて私を呼び寄せた二人だ
った。

 孝子の声が、鈴の音のような響きに変化して、お孝となって現れ
た。
「ほらあれを・・ご覧になって」
 文机を振り向くと、立ち昇っていたすさまじい妖気が失せていた。
 私は女心のように二百数十年を経て、なお枯れず、机に芽吹いた
桜の若木に手を合わせた・・。

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