女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。


二話 寺の秘密


 ここ草源寺は、飯屋で訊いたままの古く小さな寺だった。三方を浅い
谷に囲まれて背後には鬱蒼とした広葉の森。丘の頂点に建つ、さながら
山寺のような造りなのだ。
 三方の谷向こうには、建てられたばかりの豪壮な武家屋敷が並び、と
ころどころに残された空き地にも新たに屋敷を起こす支度がされはじめ
ている。なるほどここなら目配りにはちょうどいいと才蔵は考えた。

 廃れた寺には門などというものもなく、丸太が二本、左右に立てられ
て境内へとの境をなしている。その境内も狭く、寺の本堂も外を歩いて
ほんの十歩で横切れるほど小さな建物。かなり以前からあるようで、境
内に置かれた庭石にはびっしりと青い苔がついていた。夕刻の迫る刻限
では谷向こうの大工たちの声もなく、ひっそりと静かであった。

 しかし、その丸太を立てた門らしきところの右横に桜の大木があった
のだが、才蔵はその太い幹の陰に潜む者の気配を感じていた。
 気配は女。くノ一であっただろう。ここしばらく尾けられている。わ
かっていながら才蔵からは手を出さない。
「ふふふ、ったく何者なのか・・楓(かえで)ではなさそうだが」
 かすかにつぶやいたとき、本堂の板戸が開けられて、つぎはぎだらけ
の普段着に着替えた十吾が顔を出す。おそらく今日一日歩き回っていた
だろうに童とは元気なもの。声が大きい。
「あがっていいよって姉ちゃんが」
「おう、そうか。ありがとよ」
「お侍さん、さっきいたよね?」
「飯屋にな。うむ、いたいた。歩き回って腹ぺこで、そしたらおまえさ
んらとバッタリだった。ここで会おうとは思ってもなかったぜ」
「うん。さあいいよ、入っとくれ」
「おう、すまぬな坊主」
「おいらは十吾ってぇんだ、坊主じゃねえよ」
「何だと?」
「だって、ここは寺なんだぜ、坊主って言やぁ坊さんのことじゃねえか」
「なるほど、そりゃそうだ、こいつぁ参った。おめえ十吾ってか?」
「そうさ十吾。姉ちゃんはお香って言うんだぜ」
「そうか、お香さんか、わかったわかった。俺は才蔵だ、よろしくな十
吾」
「うんっ、さあ、あがっていいよっ」

 めずらしい客が来て嬉しくてならない。弾むような童の姿が眩しかっ
た。見捨てられた童ばかりが肩を寄せ合って生きている。そういうとこ
ろをなくしてはいけないと才蔵は思うのだった。
 本堂への数段の踏み段を上がって履き物を脱ぐ。長旅で草履の鼻緒も
くたびれてきたと才蔵は思う。江戸など通り過ぎるだけのつもり。留ま
る気もなかったのだが。
 寺の本堂は外見よりも中が広く、しかしがらんとして何も置かれてい
ない板の間だった。二本の柱が屋根を支え、その間に一段高く本尊が置
かれるはずの台だけは造られてある。なのに仏像のかけらもそこにはな
く、掛け軸のような飾りもない。まさに廃れていく寺の姿を物語るよう
でもあった。

 板の間に座布団が敷かれ、才蔵が座ると、十吾は右に置かれた青鞘の
刀を目を輝かせて見つめている。
「青い刀なんてはじめて見た」
「そうか? まあ滅多にねえとは思うがよ。青ってえのは空の色、流れ
者にはちょうどよかろう」
「見てもいいかい?」
「かまわんが抜くなよ、怪我するぞ」
 そして十吾が刀に手をのばそうとしたときに、奥からお香が盆に茶を
のせて姿を見せた。お香のほうは着替えていない。着替える暇もなかっ
ただろうが。
「あ、これっ、お侍様のお刀に触っちゃいけません。大切なものなんだ
から」
 まるで母だと才蔵は思う。この娘もここで育った。皆が家族のように
支え合って大きくなった。小さかった頃のお香の姿が目に浮かぶようだ
った。

「お侍様、ともあれお茶でも。お疲れになられたでしょう」
「うむ、ありがとよ、歩き疲れちまってな」
「どちらから? あ、いいえ・・」
 と思わず訊いて、お香はちょっとうつむいた。立ち入ったことを訊く
べきではなかった。それと女手ひとつの心細さが、才蔵を近いものとし
て感じさせる。お香は自身の心の弱りに気づいていた。
 才蔵は、そんな娘と十吾に交互に目をやって、ちょっと笑った。
「流れ者にどちらもこちらもねえんだよ。脚が向くまま気の向くまま。
江戸など通り過ぎるつもりでいたんだが」
「左様でございますか、立ち入ったことを訊いてしまいました」
「なあに、いいってことよ。それとな、十吾もだが、ふたりとも」
 ふたりは顔を上げて才蔵を見つめた。
「俺は才蔵。そう気を遣うなってことさ。ご丁寧に言われるとそこらが
痒くなる。侍などくだらねえ。嫌気がして家をおん出た身の上さ」
 ふたりは黙って聞いていたが、とりわけお香は面色がゆるんでいた。
悪人ではなそうだと安堵できていたのだろう。

「ときに」と言いながら才蔵は、がらんとした本堂を見渡した。いかに
廃れた寺とは言え、蝋燭立てが残されるぐらいで仏具一切何もない。
「本尊そのほか何もねえんだな?」
 お香がちょっとうなずき、十吾が言った。
「盗まれちまったんだ、買い出しに出た隙にさ」
「盗まれた? 賊でも入ったのかい?」
 それにはお香が応えた。
「盗まれたのか、どうなのか」
「はぁ? どういうこった?」
「それが妙なんですよ、置いてあったお金には目もくれず、まるで家探
しでもするように。ご本尊もそうですし、そこにあった掛け軸とか書箱
そのほか、和尚さんの持ち物だけがそっくりないんです」
「なるほど家探しか。そいつは妙だな、銭には目もくれずってことは盗
人の仕業じゃねえ」
 お香ははっきりうなずいて、けれども口を閉ざしてしまう。才蔵も思
いやって、それ以上は訊かなかった。
 夕餉の支度があるからとお香は立ち、十吾だけが残された。しかし十
吾もお香の態度で察したらしく、よけいなことは喋らない。
「流れ者って、方々へ行ったのかい?」
 このままでは間が持たないと思ったようで、あべこべに質してくる。
賢い子だと才蔵は可笑しくなった。

「行った行った、あっちにもこっちにも」
「ずっと浪人なんだね?」
「そうさな、かれこれ五年になるか。俺はいま三十二よ。家を飛び出し
たのは二十七の頃だった」
「家って?」
 童らしい。訊きにくいことを切り出してくるものだ。才蔵は相手が童
であっても偽るつもりはなかった。
「俺はさる藩の家老の息子でな、三男坊だったんだが、親父殿が家督を
譲るとなったとき兄貴ふたりが争って、そのいやらしいことといったら
ありゃしねえ。くだらん。嫌になった。それで家をとんずらした。三男
坊などどのみち出る幕なんぞありゃしねえ。飛び出してそれっきり。ず
っと遠くの雪国だったさ」
「そうなんだ? じゃあたった独りでずっとなんだね?」
「うむ、たった独り、気楽がいちばん」

「おいら・・それに姉ちゃんもだが・・」

 十吾が小さな口をむっと結んで言いかけた。
「うむ? 何だ、言ってみろ?」
「おいらは捨て子、姉ちゃんもだし、ここにいたほかのみんなも孤児な
んだ。姉ちゃんは盗賊に襲われて親を殺されたそうだけど。おいらなん
て寺の前に捨てられていたんだって」
 童らしい笑顔が失せて、十吾はじっと耐えるような面色になっていく。
 そんなとき、奥から呼ぶ声が響いてきた。狭い寺だ。
「十吾、ちょっとおいでな、薪が足りないんだよ!」
「はぁい、いま行くっ!」
 パッと笑って、弾かれたように立つ十吾。才蔵は情を噛むように微笑
むと、後を追って立ち上がった。

 本堂の奥に庫裏があり、前掛けをしたお香が厨の土間に立っている。
粗末な板戸の裏口がそこにはあって、くぐると、すぐ裏手にワラ葺きの
納屋、そして納屋と庫裏の間に薪割り場。風呂の焚き口もそこにある。
 太い丸太を輪切りにした薪割り台が置かれていて、小さな十吾がナタ
を手に薪を割る。童の力ではたやすく割れない。コンコンと何度も叩き
つけてようやく割れる。
 外は薄暗くなってきていた。才蔵は裏口から覗くと、ちょっと笑って
そばにいるお香を見た。
「いい子じゃねえか。十吾に聞いたぜ、みんな孤児だったって」
 お香は前掛けを両手で握り込むようにして、ちょっと笑って言うのだ
った。
「和尚様に聞かされたことがあるんです。昔はもっと多かったって。江
戸が栄えてきてからはぐっと減ったが、それでも近頃の親はダメだって」
「うむ。ふふふ、さて手伝うとするか。見ちゃいられねえ」
 外に出ようとする才蔵に、お香は引き留める素振りはしたが、そのと
き才蔵がお香の背をぽんと叩き、お香は微笑んで何も言わない。

「どれ、貸してみろ、それじゃおめえ割れねえだろ」
 錆びたナタ。刃先だけが輝く古いものだ。
「いいか、こうして狙いを定め、小さく振り上げてコツンとやるんだ。
ナタが食い込んだら薪ごと振り上げて一気にいく。こうだ」
 才蔵がやると乾いた細い丸太の薪が見事に割れて左右に飛んだ。
「わあ、ほんとだ、一発で真っ二つだね」
「ほれやってみろ」
「うんっ! 才蔵さんは凄いなぁ!」
 大きな男に肩を抱かれて十吾は嬉しくてならない様子。小さかった頃、
あたしも和尚にそうされたとお香は思い、やっぱり男手がなければダメ
だと感じていた。
「わあっ、割れたよ割れたぁ!」
「だろ? 力任せじゃうまくいかねえ、ひとつ覚えたな? はっはっは」
「うんっ、うまく割れるぅ!」
 楽しそうな十吾を見ていて、お香の目が潤んでいた。男の子には父の
ような人がいる。あたしなんかじゃ役に立たないと感じてしまう。

 お香が夕餉の支度をする間、才蔵と十吾は揃って風呂。風呂から出る
と本堂に膳が三つ用意され、メザシと汁代わりの野菜の炊き合わせ、そ
れに白い飯が出た。
 和尚が死んでからかなり経ち、これほどみすぼらしい寺なのに、よく
金がつきないものだと考える。
 夕餉が済んで器を片付け、その頃には一日歩き回ったことで十吾は疲
れ果てて眠ってしまう。厨に立って後片付けをするお香の背を見て、才
蔵は問うた。
「暮らし向きはどうしてる? かれこれ四、五か月だということだが?」
 そのとき片付けを終えたお香が振り向き、本堂へと目配せした。ここ
で話すと十吾に聞かれる。
「お茶でも」
「うむ、すまぬ。何から何まで世話になるな」
「いいえ、そんな。先ほどのお話ですけど」
「うむ?」
「ここにいると不思議なことがあるんです。二月に一度ほどでしょうか、
頭巾で顔を覆った身分のある女の人が訪ねて来まして、そのお方は若く
もなくとそんなような人なんですが」
「ほう女が? それで?」
「皆が暮らせるだけのものを置いていかれるんですけどね」
「銭をか?」
「そうです。和尚さんが亡くなってからも、これで二度ほど。その度に
お金を置いていってくださいます。どこのどなたなのか皆目なんですが、
着ているものを見ても明らかに身分のある方。和尚さんとどういうつな
がりなのかはわかりませんが」

 この寺には何かあると直感した。家探しのように仏像までも持ち去っ
て、かたや金を届ける謎の女・・和尚とはどういう人物だったのだろう
と考える才蔵だ。

「役人に追い立てられているらしいな? 最前言った赤城屋とは何者な
んだ?」
 お香は言っていいものかと迷ったようだったが、どのみちここは出て
行くつもり。十吾のためにいましばらく暮らすだけ。そう考えたお香が
言った。
「お役人なのかどうなのか、身なりのちゃんとしたお武家様なので勝手
にお役人と思い込んでいるだけかもしれませんし」
「うむ。して赤城屋とは?」
「内藤新宿の少し先で材木商を営む大店(おおだな)なんですが」
「ゴロツキどもに追い立てをさせて?」
「いいえ、いまのところはゴロツキなんかじゃありません。お店の番頭
さんだったりしますが、お金をちらつかせて出て行くように言うんです。
あまり強情だとそのうちろくなことにはならないよって、やんわり脅し
て。そうかと思えばその翌日にはお武家様がやってきて、猫なで声で無
理にとは言わないがって、ちょっとやさしくと申しましょうか」

 脅しとすり寄り。見え透いた手だと才蔵は考えた。
「それで立ち退くにあたってはいかほどやると?」
「それは身の立つようにしてやるからって。さしあたって五十両もあれ
ばいいだろうが不服なら百両出してやってもいいって言うんです。けれ
どあたしは和尚さんにこう言われているんです。『わしの身に何かあっ
てもこの寺だけは守りなさい、いつか幸いすることがあるだろう』って
ことなんですけど、子供らのことはそれとは違う話だし」
「そうだな、落ち着き先を探してやりたいもんだ」
「はい。残ったのは十吾だけ。いい子なのにどうしてって思うんですけ
ど、なかなかうまくいかなくて。十吾の行く末さえ決めてやれれば、あ
たし一人どうしたって生きていけます。和尚さんには悪いけど、お寺の
ことなんてどうでもいいんです。いつか怖いことになりそうで」

 こんなボロ寺に百両とは、いかにもおかしな話である。だいたい幕府
の役人であれば、必要とあらば追い出すぐらいはたやすいこと。暮らし
向きを考えてやるにせよ、どこぞの土地に家を世話してやればいい。
 このあたりには徳川御三家のひとつ紀州家が藩邸を構え、その取り巻
きどもがはびこりだしているという。
 ますますおかしい。この寺には何かあると確信できる話であった。

「寺のいわれは? 何かわかるか?」
 お香は知らないと首を振った。
 この草源寺は、かつて家康が関東に出張る以前からあるもので、和尚
という人物は、伊豆の山奥にある林景寺(りんけいじ)という寺で修行
した僧侶であるらしい。よもやのことでもあればそこを頼るようにと言
われているというだけで、お香はそれ以上を知らなかった。


一話 消えゆく草原


 明け方からの北風がぴたりとやんだ、穏やかな初秋の夕刻前だった。

 起伏豊かな畑地のひろがる裏道沿いに、古くからある縄のれんの飯屋
があった。あたり一帯にどこにでもある百姓家の軒先に縄のれんをぶら
さげただけのような造りの小さな店は、爺さん婆さんが二人で営む。
 そんな店を、年端もゆかぬ小さな男の子を連れた若い女が出て行った。
女は歳の頃なら二十四、五か。黄色格子の町女のいでたちだったが、太
い鼻緒の旅草履。男の子のほうは粗末ながらもそれなりの身なりをさせ
られて、八つか九つ。女の歳からも二人は母子というわけでもなさそう
だった。

「もらわれて行くなんて嫌だっ。姉ちゃんといたらいかんのか」

 狭い店では声が通る。たまさか居合わせた一人の男が、店を出て行く
二人の後ろ姿をちらりと見た。
 男は若かった。三十そこそこ。細身で背が高く、月代を髪草で覆った
浪人髷の侍だったが、そこらにあぶれるサンピンのようでもない。布地
にツギハギのない濃い紺色の着流し姿。目にも鮮やかな青鞘の大小を腰
に差す。凜々しい顔立ちを薄い髭が覆っている。育ちのいい素浪人とい
うのも変な話だが、妙に爽やかな侍だった。

 男の子の手を引いて女が出て行き、店のお婆が厨(くりや・厨房)の
中で連れ合いの爺さんに言う。
「十吾(とおご)ちゃんも可哀想にね、里親探しって言ったって、あの
子はぼちぼち九つだろ、ちょっと大きくなりすぎさ。お香ちゃんも大変
さね、あと一人なんだけどねぇ」
「違いねぇ、三つ四つなら先様でなじみもするんだろうがなぁ」

 夕餉には少し早い飯をたいらげ、男は茶を頼むと言いながら、出て来
た婆さんに目を向けた。涼しい眼をしている。
「ちと立ち入ったことを尋ねるが」
「あ、へいへい?」
「いまのは? もらわれて行くのは嫌だと言っていたが? あと一人と
はどういうこった? 童どもを世話して回っているのか?」
 婆さんは、とっさに奥を見て爺さんと顔を合わせたが、その男は悪人
でもなさそうで、ちょっと困った面色ながらも口を開いた。

「この道沿いの少し先に草源寺(そうげんじ)というお寺がありまして
ね・・」
 婆さんによれば、その寺では孤児や門前に置き去りにされた乳飲み子
を引き取っては育てていた。しかしいまから四月ほど前のこと、その和
尚が死んで寺を継ぐ者がいない。それでそのときお香と言う先ほどの娘
が寺に戻り、四人ほど残っていた童らの落ち着き先を探しているという
ことだった。
「ほら、貧しい家の子らばかりで放っておくとろくなことにはなりませ
んからね。和尚様もウチにはよくお見えでしたが、近頃の親は薄情でい
けないと嘆いておいででしたし」
「うむ、なるほどな。それで里親探しってわけかい?」
「そうなんです、へい。女の子二人はすぐに見つかり、男の子のうちの
二人は三つ四つのほんの童で、これもほどなく見つかりました。そんな
ことでいまの子一人が残ってしまい、あの子は大きくなっていて、いま
さら親だ子だと言われてもなじめないってことなんでしょうけどね」
「それで方々をあたって?」
「左様でございます。ああやって江戸中を歩き回り、探してはいるんで
すが、なかなかねぇ。奉公に出すとなるとまだ小さく、さりとて我が子
となるとちと大きい。ここらの者らも見てるだけで何もしてやれなくて。
早くしないとならないのに」

 男はうなずきつつも、なおも言った。
「早くしないとならないとは?」
「お寺ですよ。継ぐ者のいなくなった寺ですし、それに混み合いだした
お屋敷に囲まれて。なんでもお役人からできれば立ち退くように言われ
ているということでして」
「役人が、なぜまた?」
「へい、聞くところによれば目配り処をつくるんだそうで」
「目配り処?」
「方々の藩の江戸屋敷を見張るにはちょうどいいってことらしいんです。
お寺は三方を浅い谷に囲まれる猫の額ほどの土地。お屋敷を建てるには
狭すぎて向かず、周囲をお屋敷に囲まれだしているんです」
「そうか、なるほどな、小さな番屋ならできるってことかい?」

「へい左様で。けれどそれもお香ちゃんは乗り気でない。お寺はそのま
ま育った家のようなもの。廃れても寺社仏閣ということでお役人として
も無理にとは言えない。立ち退くなら暮らし向きに困らぬようにしてや
ると言われているそうなんですが、お香ちゃんはなぜか譲らないんです
よ。和尚さんとの約束があるとかで」
「ほう約束が? それはいったい?」
 婆は力なく首を振った。
「わかりません。訊いても言おうとしませんし。けどいまのままでは暮
らしが苦しくなるばっかりで。継ぐ者のない寺からは檀家だって離れて
いきますし、もともとたいした檀家でもない。ちょっとぐらい蓄えがあ
ったとしても、そんなものはすぐになくなる。これでかれこれ半年です
からね。村の者らも和尚さんにはよくしていただいてますから、どうに
かしてやらないとって言ってますけど、中には追い出しちまえって惨い
ことを言う輩もいるもので。ここらはもうよそ者の土地になってしまい
ました」

 男はちょっとうなずいて立ち上がり、袂から銭を出して婆さんの皺手
に握らせた。男が立つと小さく枯れた婆さんは真上を見上げるようにな
る。
「すまぬな、立ち入った話をさせた。馳走になった」
 浪人でも相手は武士。婆さんは身を屈めて銭を受け取り、そして言っ
た。
「お武家様は、それをどうして?」
「なぜ訊くかって?」
「あ、へい」
 男は白い歯を見せて微笑んだ。
「最前より声だけは聞こえていてよ、身売りとかそういう話かと思って
な。この太平の世にあって、江戸でもそういうことがあるものかと気に
なっただけのこと。それだけだ、ありがとよ」
 男は婆の細い肩にそっと手を置き、縄のれんをくぐって出た。


 承応(じょうおう)元年(1652年)、その初秋、長月(九月)なかば
の江戸のこと。
 斜陽には少し早い刻限に、草原の残る道筋を一人歩む若き浪人の姿が
あった。ここは四谷と千駄ヶ谷の間あたり。宿場町として賑わう内藤新
宿からも遠くはない。

 江戸が江戸らしく整備されていったのは三代将軍、徳川家光の頃であ
った。町奉行所や関所の整備、日本橋を基点とする五街道の整備もある
し、城中に大奥がつくられたのもこの頃のこと。
 そうした中で江戸の町を劇的に変えたのは、家光が定めた参勤交代の
制度であった。諸藩藩主の正室および世継ぎとなる子息を江戸に住まわ
せ、実質的な人質として諸藩を牛耳る。藩主は一年おきに江戸と国元を
行き来しなければならなくなって、江戸城に近いところに次々に江戸屋
敷ができていく。大藩ともなれば上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷と、
いくつもの屋敷を構えたものだ。
 そのため、それまで畑地や草原だった原風景が見る間に様相を変えて
いき、江戸城下へと発展してきたのである。

 その家光が四十八歳の若さで没し、将軍職を継いだのが四代将軍、徳
川家綱。しかしこのとき家綱は、わずか十一歳、慶安四年のことであり、
その同じ年、世継ぎで停滞しがちであった幕政の弛みをついて由比正雪
一派が倒幕を企てた『慶安の変』が起きている。
 慶安から承応へと年は移ろい、慶安の変の翌年のいま。したがって幕
府は、将軍家お膝元の江戸の不穏を見張ろうと要所に目配り処を置こう
とした。そのひとつが草源寺であったというわけだ。

 空を漂うちぎれ雲が斜陽に赤く染まっていた。じきに九つになるとい
う十吾の手を引き、お香が草源寺に戻ったとき、小さな寺の本堂前の踏
み段に濃い紺色の着物を着た若い侍が座っていた。その傍らに日頃ちょ
っと見ない鮮やかな青鞘の刀が立てかけてある。
 お香はとっさに十吾の手をしっかり握り、身を固くして男を見つめた。
 男は踏み段に腰掛けたままちょっと笑った。
「よかったぜ、この寺にも人はいたようだ」
 お香は、さきほど飯屋にいた男だとは気づかなかった。
「なんべん来たって動きませんから、お帰りください」
 男は目を丸くして眉を上げた。
「何のことやらよくはわからねえが、そうじゃねえさ。俺は才蔵と言っ
てな、まあ流れ者なんだがよ、歩き回ってくたびれちまった。銭もそう
は持ってなく、寺ならと思ってよ。納屋でいいから今宵一晩、頼めねえ
かと思ったまで」
 お香はにわかに信じない。十吾を後ろから抱くようにして歩み寄ろう
とはしなかった。

「姉ちゃん、この人さっき飯屋にいたお侍さんだぜ」
 気づいたのは童の方だ。お香は十吾の横顔を覗き込み、それから才蔵
と名乗った、まだ若い流れ者の顔を見た。
「あなた様は本当に、その、流れ者なのですね? 赤城屋の手先ではな
いんですね?」
「赤城屋? さあ知らねえな。俺は江戸に着いたばかりの身。そう言や
ぁ、さっき飯屋で見かけたような気もするが。なけなしの銭で飯食って、
歩き出したはいいが脚が棒になっちまってる。すでに夕刻、今宵はどこ
ぞの橋の下と思ったところ、この寺を見つけたってわけなんだ」
 お香はちょっとうなずくと、それでも笑顔をつくれなく、才蔵の横を
抜けて裏手に回ろうとしたのだった。

「あいにく和尚様が亡くなられて、ここはもう寺ではございません。け
どそういうことならお武家様を納屋でなんて、あたしが和尚様に叱られ
ます。どうぞおあがりくださいまし。支度いたしますので、いましばら
くお待ちくだされば」
「うむ、すまぬな。薪割りなどいりようなら言ってくれ。女手ひとつで
は辛かろう」
「いいえ、まさかそんな、旅のお侍様に薪割りなどとんでもございませ
ん。では支度したしますので」
 お香はようやくちょっと微笑み、十吾を連れて裏手の庫裏(くり・住
職の住まい)へと入って行く。
 手を引かれる十吾のほうは、侍の客などめずらしいらしく、しきりに
振り向いては笑っている。不遇な身の上なのに元気ないい子だと、才蔵
はほほえましい。

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