女の陰影

女の魔性、狂気、愛と性。時代劇から純愛まで大人のための小説書庫。

lez520
二話 殺風景


  渋谷にあるK2のオフィスから京王井の頭線で吉祥寺、そこからJRで高円寺というのが河原明江の帰宅ルート。渋谷からJRで新宿をまわってもよかったのだが、K2を知ったきっかけとなった友人の乾沙菜(いぬい・さな)が吉祥寺に住んでいて、時間が合えば一緒に帰ることが多かった。そのルートで定期を買ったということだ。
  高円寺駅の南口を出てロータリーを斜めに突っ切り、少し歩くとチャコールグレーの煉瓦調にデザインされた四階建てのコンパクトなマンションが見えてくる。
  明江の部屋は、その305号。エレベーターを降りた左に各階ともに01号があり、そちらが東南の角ということで間取りは4LDK。エレベーターを挟んで並ぶ四戸はいずれも3LDKの住戸となっている。

  その金曜日、明江がマンションに帰り着いたのは深夜といってもいい十一時をすぎた時刻。エレベーターを降りて歩き出したところで、まるで帰りを待ち構えていたように、303号の玄関へのアルコーブから、ちょっとくすんだワインレッドのワンピースを着込んだ福地紀代美(ふくち・きよみ)が顔をだす。ワンレングスの黒髪は肩ほどまでの長さであったが、もしも髪がロングなら映画にでてくる幽霊そのもの。紀代美は三十歳であるらしい。158センチのスリムなボディ。両手をだらりと垂らしてぼーっと立つ姿だけでも寒気がする。細面の眸の色がとにかく暗い。結婚していて、けれども旦那に逃げられ、このマンションに取り残された。正式な離婚にいたっていないらしく、独り暮らしとなっても旦那の姓を名乗っている。
  くすんで暗い。まさにお化け。旦那に逃げられるはずだわよ・・さまざま噂が飛び交っていた。
  ここに住んで一年半ほどになる明江だったが、そんなお化けと話すのははじめてだったし、足音もさせずアルコーブから出てこられては、あやうく悲鳴をあげるところ。

 「あの女、またいじってた」
 「えっえっ?」
  挨拶もなく前置きもなく、暗い眸で見つめて言う紀代美。
 「ゴミよ。おたくの」
 「ああ、勝呂さんですよね」
 「許せない、陰湿な女だわ」
  湿り気たっぷりの紀代美に陰湿と言われると不思議な気分になってくる。相手はもちろん勝呂陽子(すぐろ・ようこ)。彼女もきっとあの女に何かされた。それで怒っているのだろうと明江は察した。
  そしてまたなんの脈絡もなく紀代美は言う。
 「呪ってみよう。おもしろいことになる」
 「呪う・・?」
  明江は絶句した。まがまがしい言葉と紀代美のムードが一致しすぎて寒気のした明江。いきなりなにを言いだすのやら。
 「来て」
 「えっえっ?」
 「お部屋。話そ」
  会話になっていない。言葉をブツ切りにして並べているだけ。後にも先にもはじめて話し、いきなり部屋へ誘われた。足がすくむほどの恐怖だったが、帰りを待ち構えて言い寄られ、ここで下手に断って敵が増えたらたまらない。同じ相手を敵視するなら紀代美は味方。断るべきでないと思った明江。
  しかしこのとき明江は仕事帰りでスカート姿。新妻らしくスカートでいること。だけどミニすぎてはいけない。そうしたことはオフィスにいるお目付役がいちいち言う。横倉浅里(よこくら・あさり)。オフィスで浅里、家に戻ればさらに面倒な勝呂陽子。女とはどうしてこうかと嫌気がさす明江だった。

  ところが誘われるままに玄関へ一歩入って、明江はハッとして紀代美の横顔を覗き見た。サンダルや靴がきっちり整理されて置かれていて玄関先がすっきりしている。ストーンタイルのフロアにもゴミひとつ散ってない。明るめのワインレッドの玄関マットもきっちり敷かれて曲がっていない。
  この人は几帳面な人。むしろ私の家の方が散らかっていると思ったとき、まんざら悪い人でもなさそうだと思ってしまう。それは明江の母親の口癖だった。玄関を見ればその家の内が知れる。思春期の頃、学校から戻ったときに靴を脱ぎ散らかして怒られたものだと明江は思った。
 「あがって」
 「はい、お言葉に甘えてお邪魔します、遅くにすみません」
  ローヒールのパンプスを脱ぎ、しゃがみ込んできっちり揃える。そんな明江の様子を紀代美は黙って見つめている。違う意味でも怖い。紀代美という女は細かなことに気づく人。迂闊なことはできないと思うのだった。

  あがってすぐ、少しの廊下。カウンター越しの対面キッチンのあるLDKは造りが同じ。部屋を覗いて明江はますます紀代美を見つめた。
  一見して殺風景。呪うなんて言葉とはほど遠い、すっきり整理された無機質な部屋。大理石調のシステムキッチンにも汚れはなく、ガスレンジに置かれたステンのケトルにも指紋ひとつついてはいない。リビングは十二畳ほどのスペースなのだが、フロアにダークグレーのカーペット、白の革張りソファ、それとセットの黒いローテーブル、そのほか白いリビングボード、黒いテレビ台に大きな液晶テレビと、そのどこを見ても乱れは一切感じられず、女性の部屋にありがちな可愛いものも一切ない。一見して殺風景と思える洗練されたインテリア。紀代美という女の素性を物語るようだった。
  明江は言った。
 「綺麗になさってますね。ウチなんてしっちゃかめっちゃかで恥ずかしいぐらいです」
  紀代美は声もなくちょっと笑って、深夜のゲストにソファをすすめた。
 「ジュース飲む?」
 「あ、はい、じゃあいただきます」
  またしても声もなく、にこりともせず、うなずくだけ。紀代美には言葉が足りない。これで普通に話してくれれば理想的な妻だと思う。

  紀代美がカウンターの向こうへまわって、その隙に明江は室内を見まわしたのだが、男の気配も一切ない。逃げたという旦那のこともそうだが、部屋に男を入れている形跡がないのである。紀代美は仕事をしていない。一日家に閉じこもり、いったい何をしてるのだろう。どうして暮らしていけるのか。持ち家だから家賃はなくても、よほどの資産家でもないかぎり働かないとやっていけないはずなのに。
  そのとき気配。ハッとして顔をあげると、いつの間にかテーブルにグラスが置かれてオレンジジュース。お菓子のカゴにカップケーキが積み上げられる。
  明江をロングソファに座らせておき、自分はローテーブルの下に敷かれた白いシャギーマットにじかに横座り。ミディ丈のワンピでもそうやって座ると白い腿まで露わとなる。スリムな紀代美。脚線も細くて肌艶がいい。こうして近くで見ると不健康な印象はしなかった。

  紀代美は言う。
 「わかってるわよ」
 「えっえっ?」
 「ここで私がどう思われて、あなたがどう感じているかもね。不気味、お化け、亭主に捨てられるはずだわよって」
  はじめての長文。会話になった言葉だった。どうやら人見知りが激しいようだ。
 「あなたは河原明江、明江と呼ぶから」
 「あ、ええ、どうぞ」
 「私は紀代美よ、紀代美と呼んでいいからね」
 「え・・あ、はい」
  声が暗いし面色も暗いのだけど、やさしくないわけじゃない。不思議な人。それが紀代美に対する印象だった。
 「見せたいものがある」
  と、そう言って、紀代美はフロアに座ったままの体をひねって、すぐ横に置かれたリビングボードの引き出しを開ける。そしてそのとき部屋着にしているミディ丈のワンピースが尻に張り付き、明江は眸を丸くした。
  ヒップラインにあるはずの下着のラインがまったくない。背中を見てもブラのくびれがまったくない。全裸でワンピ? そうとしか思えなかった。
  本能的な性への緊張。息を潜めていると紀代美は引き出しから何枚かの紙を取り出してテーブルに置くのだった。雑誌のページを破いたものだったりしたのだが。
 「これは・・」
 「あの女よ。ウチの郵便受けにときどきね」
  性器の修正されない裸の女の写真であり、しかもどれもがSM写真。明江は一瞬見て、しかし眸を反らしていた。とても正視できるものじゃない。

  紀代美が言う。
 「捨てられないでしょ、いろいろ」
 「ええ、私もやられました。下着を捨てたら物色されて自転車置き場に」
 「それ私も。捨てたパンティを郵便受けに入れられたり、こんな写真だったりね。私って独りで身を持てあましてるでしょ。飢えてるに決まってる。得体の知れない変態女って、そう言いたいに決まってる。ねちねちした眸で私の体を見まわしてるし、飢えてるのはおまえだろって言ってやりたい」
  明江はうなずいた。
  共通の敵、勝呂陽子は、一階上の401号、4LDKに住む主婦であり、三十八歳だったのだが、ちょっと老けて見えるタイプ。旦那はいても子供のない夫婦。社交的で明るい女なのだが、ソリが合わない相手に対して陰険そのもの。
  明江は言った。
 「越してきたときお世話になって、でもそのうちヘンな眸で見られるようになったものですから」
 「レズっぽくでしょ?」
 「そうなんですよ。ゴミを出せば物色されるし、ほかの奥様方にもいろいろ吹聴されてるしで嫌になって、それで私、その頃はまだ専業主婦だったから友だちの誘いにのってパートに出ることにしたんです」

  紀代美はうなずいて言う。
 「私もそうだった。主人がいた頃からねちねちした眸で見られたし、私って暗いから、悩みがあるなら打ち明けなさいって言ってくれたのはよかったけど、そのうち主人がいなくなって、部屋に入りたがってしょうがない。いっぺん入れたら迫られちゃって」
 「迫られた?」
 「熱を持つ据わった眸でジトッと見つめられ、私はもちろんはねつけた。そしたらどうよ、ゴミは漁るわ、こんな写真は入れられるわ。私も最初はゴミ袋だったのよ。袋が薄くて透けるから、わざわざ見せつけるようにSMの本なんかを外に向けて入れられる。まるで私が捨てたみたいに」
  ゴミ置き場には出入りしても他人が捨てた袋までは凝視しない。そんなことがあったなんてはじめて聞いた明江だった。

  話してみると、ごくあたりまえの感覚を持った女性。明江は味方ができたと思ったのだが、紀代美は言う。
 「レズでもいいのよ」
 「え?」
 「それを悪いこととは思わない。真心があるのなら嬉しいことだし」
 「まあ、それはそうかも」
  淡々と話す紀代美。やはりどこか、そこらの女性とは違う感じがする。
 「あの女は違う。あの女は怖い。どうしようもない淫乱なんだし相手かまわず誰でもいい。脈がありそうだと思うと言い寄ってくるからね」
 「脈がありそうって、じゃあ私もそんなふうに思われて?」
 「もちろんそうよ、明江はやさしいし可愛いから。私とはそこが違う。私の場合は暗くて変態的なところがある。レズだってSMだって私はいいのよ、お相手が心からそうしてくれるんだったら濡れちゃう体を持っている」
  こんどこそ息苦しくなってくる。ストレートと言えばいいのか、女同士の気安さもあって会話がナマになってくる。
 「あの女は陰湿、狡猾、傲慢、ありとあらゆる女の嫌なところを備えてる。一方的に想われたってダメなんだし、心には伝え方があるはずよ。あなたが好きを素振りの端々に見せてほしい。その先にベッドがあるなら私は歓迎。ところが違う。誘ってるんだから応えたらどうなのよみたいな傲慢さがたまらない。思うようにならないと嫌がらせは平気でするし」

  確かに。それはそうだと思いながらも、このとき明江は、まるで生気のないお化けのような存在だと思っていた紀代美の中に女の情念を感じ取り、人は付き合ってみないとわからないとつくづく思った。常識的で人一倍女らしい神経を持っていて、ただちょっとムードが暗い。
  明江は言った。
 「わかってくれる人って少ないですからね」
  試してみようとあえてそう言ったとき、紀代美の眸がキラキラ輝く。
  繊細すぎる。臆病すぎる。自分を隠していないと怖くてならない。そんなタイプの人ではないか。どうせわかってもらえないと諦めているような。旦那に逃げられてそうした負の感情が決定的なものとなってしまった。
  きっとそうだと明江は思う。
 「紀代美さんとはお友だちになれそうです」
 「ありがと。そう思ってくれるんだったら『さん』はいらない、呼び捨てて。私は三十」 と、自分の歳を言って眉を上げて尋ねる素振り。
 「二十八です」
 「うん。じゃあ歳も近いし他人行儀にしてほしくないんだよ」
 「はい、じゃあ紀代美って呼びますね」
 「そのほうが安心できる」
  思うよりずっといい人だったと、ほっとして、それだからか緊張の反動で明江は弛んだ。

 「紀代美っていま」
 「うん?」
 「ワンピの下」
  紀代美はちょっと微笑んで言う。
 「そうだよ裸。いつもそう。それが私の生き方だから」
 「生き方? どういうこと?」
 「私はあるものに守られてる。いまは明江がいるからあれですけど、お部屋の中ではいつも全裸。私を隠すと失礼ですから」
  明江は絶句して紀代美を見つめた。
 「言っても信じないと思うから。それで今日、明江の帰りを待ったのよ。明江がもし私を信じてくれるなら、あの女を懲らしめてやれるから。私だけでもできるけど、それでは効果は私に対してだけですからね。明江の噂もまわってる。もう許せない。だから明江次第なの。私を信じてくれるかしらって思ってね」
  意味が解せない。二人で呪うということなのか。

  紀代美は言った。
 「私は呪術を心得てるの。だけどそれは怖いこと。明江なら助けてくれると思ったから」
  マジ? こんどこそ貌を見る。真剣な面色だったし、やはりちょっと狂っているとは思うのだけど、言うことを聞いてみようとも思えてくる。紀代美には不思議な魅力がありそうだった。
 「よくわからないけど、どうすればいいの?」
 「こうすればいい」
  紀代美はそっと立って明江の目の前でワンピースを脱ぎ去った。白く細身の全裸が美しく、紀代美には陰毛がなかった。処理されていたのか、もともと無毛なのかはわからない。白いデルタに亀裂が覗き、くびれて張って、乳房はBサイズで乳首も小さい。
  明江はとっさに身を固くしたのだったが、だからビアンということでもなさそうだった。

  全裸となった紀代美は、またリビングボードの別の引き出しを開けて、何やら毛皮の切れ端のようなものを手にし、テーブルにそっと置く。褐色で毛足の長い獣の毛皮。毛に艶があって美しい。
 「これよ。これが私の守り神」
 「守り神?」
 「女王様とも言えるわね」
  ああダメだ、狂っている・・とは思うのだったが、独りだけ先に全裸となって見つめる眸が透き通って美しい。
 「私を信じて裸になって。このままお呼びすると女王様は明江を祟る。着衣は心を隠すもの。すべてを晒して平伏す者に女王様は寛容です。あの女を懲らしめてやりましょう、明江と私で」

 「わかりました。じゃあ先にシャワーさせて」
 「必要ない。それだって偽る行為よ、ポーズですもの。女王様はお怒りになられます」
  どうしていいかわからない。
  けれど帰宅を待ってまで呼んでくれた紀代美一人に恥をかかせるわけにはいかない。信じてみよう。そう思えた明江だった。
  今夜の明江は仕事帰りで黒のブラに黒のパンティ。紀代美より背が高く164センチ、ブラはCサイズ。ひとまわり大柄な明江。紀代美に見つめられていながらすべてを脱いで、長い髪に手ぐしを入れて撫でつけて、黒いローテーブルに置かれた不思議な毛皮に向かって裸の女二人で正座。レモンイエローのカーテンが閉ざされたリビングルーム。明かりを消して、カーテン越しに染み出す夜の薄明かり。
  支度がすむと紀代美は毛皮を両手に拝み取り、ふさふさした毛を一本爪先でつまみ上げて抜いてしまう。毛皮そのものはリビングボードの引き出しに戻してしまい、テーブルに茶色の毛が一本。テーブル下のシャギーマットに二人並んで正座をし、明かりが消えたことで、そこにあるのかないのかわからない一本の獣の毛に向き合った。

  紀代美が両手をついて体をたたみ、平伏して土下座をする。明江が真似る。そうしなければ怖いことが起こると、なぜか直感できたからだった。
 「空狐(くうこ)様、紀代美でございます、どうかお姿をお見せくださいませ。今宵はこのように明江もそばでお願いしております。私たちは心より隠すものなどございません。どうか私たちの願いをお聞き届けくださいますよう平伏してお願い申し上げます」
  この人、何を言ってるの? どういうこと? わからないのに怖くてならない。

  と、紀代美が言葉を言い終えたとたん、テーブルの上から青い光が射してくる。仄かな青い光の揺らぎが二人の女の裸身をくるむように照らしてくれる。
  ゾッと全身に寒気、いいや怖気。産毛が逆立ち、息が震え、平伏す裸身の底にある女の性花が本能的な恐怖を感じて疼きだす。
  そっと面を上げる紀代美。そっと面を上げる明江。
 「ああ、嘘よ、そんな・・」
 「空狐様ですよ。ごらんなさい、やさしい面色でごらんになっておいでです」

  まさか、そんなことが・・明江は紀代美が持つ神秘的な力を否定できなくなっていた。

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  一話 ランチタイム


『黙って聞いて適当に応えてちょうだい』・・と、携帯への着信でした。

  電話を取るなり一方的な早口で、目下の私の儀礼的な言葉を遮った。
  相手は社長。小さなオフィスには耳があり、そのときあの嫌な女もいたことだし、悟られたくない話というわけで・・。

 「あー、はいはい。ごめん、いま仕事中なんだ、手短にね」
  そう言って周りの人たちにちょっと笑うと、案の定、あの嫌な女が嫌味な視線を向けている。
  それが横倉浅里(よこくら・あさり)、三十四歳。このオフィスのナンバーツー。陰湿、意地悪、自分中心でないと気がすまない女ですけど、どこにでもいるタイプとも言える人。個性的な美人と言えたかもしれないけれど。

  気にせず電話。
 『今日はランチ一人でしょ?』
 「うんうん、それでいいんじゃない?」
  私はわざとピントをずらして喋っていた。
 『道玄坂の左に楽器屋さんがあって角を入ったところにカフェがあるから、ちょっといらっしゃいな』
 「あらそ? なんだよソレ。はいはい、わかったわよ、今度また教えてあげるから。じゃあね」
  聞こえよがしというわけではありません。もちろん小声で話していても、なにしろオフィスが狭すぎる。午前中早くに外出した社長が外から電話を入れてきた。ランチタイムの三十分ほど前でした。

  渋谷。
  駅から公園通りへ向かう道すがら、脇道へそれたところにある九階建ての古いビルにオフィスがあります。五年前に起業したネット通販ベンチャー、K2。
  そのケイツーという社名もいかにもベンチャーぽくてスマートなんでしょうが、それにしたって社長の姓名、神白佳衣子(かみしろ・けいこ)の頭文字を並べただけ。社長も含めて社員たった五名。私はパート。ときどきバイトの子が一人いる。ひっくるめたって七人ばかり。
  社長は、もともと郊外にある団地に住んでいて、つまりは団地妻だったそうですが、その頃に同じ団地の奥様たちが手作りするバッグそのほか小物さまざま、いわゆるハンドメイド商品をネットに載せたのがはじまりだったと聞いている。そのうちサイトで扱う商品を募集して日本中から品物が送られてくるようになり、ちょうどその頃の離婚とも重なって会社組織にしたのだとか。
  そんな感じで五年やって会社はこの規模。社長という人には経営の才がなく、会社を大きくしようなんて野心もない。小さいながらもいまの規模で安定させたのはナンバーツーの手腕。それが横倉浅里。実質のボスとも言える人だから取り扱い注意なわけですよ。

  小洒落たカフェ。
  ランチタイムで街中は混んでいても、ここは珈琲専門店。パン料理がちょっとあるぐらいでしたがお昼なんて何でもよかった。
  私が覗くと社長は先に来ていて奥のボックスに座っている。ブレンド珈琲一杯千五百円。静かで落ち着けるはずの店。
 「明ちゃんあなたイジメられてるでしょ。ごめんね、私がよけいなこと言ったばかりに」
  私は河原明江(かわはら・あきえ)、二十八歳。
 「いいえ、それって私だけじゃないみたいですし。いろいろ聞きますから」
 「そうなのよ、困ったものだわ、悪い人じゃないんですけどね。明ちゃん辞めちゃうんじゃないかって心配で。せっかくウエブのわかる子が来てくれたのに」
 「いえいえ辞めるなんてそんな。私はパートなんだし沙菜もいますから」
  社員の一人、乾沙菜(いぬい・さな)、私よりひとつ上の二十九歳。私とは学生時代からのサイクリング仲間で、沙菜の紹介でK2を知った。私はかつてIT企業でウエブサイトの社内デザイナーをやっていました。通販サイトを外注せずにいじれる私だったんです。
  社長は気弱な眸を向けた。
 「そう? だといいけど、ほんとごめん」
  社長はやさしい性格というのか、おとなしくて気が弱く、ごく普通の主婦が何かの間違いで会社をはじめてしまったような人。企業を動かすタイプじゃない。
  私は言った。
 「女ばかりってむずかしいこともありますし前のところでもいろいろありましたから、気にしないようにしています」
 「そうなの? やっぱりあった?」
 「ありましたね、もちろん。私ってイジメやすいタイプみたいで」
 「そんなこともないでしょうけど、それにしたってちょっと・・」
  それきり社長は曖昧に笑っている。

  K2でパートしだして五か月たちます。パートといっても一時間おそく出勤するというだけで連日ラストまでのフル勤務ですから実質的には社員のようなもの。待遇もそれなりのものはもらっていました。
  私が入って一週間ほどして歓迎会のようなことがあり、その席で私はお箸をごくあたりまえに使いこなした。お座敷で食べる、かなり値の張る和食のお店。そのとき社長がちょっと口を滑らせたのです。
  お箸を綺麗に使う~美味しそうに食べる~育ちのいい素敵な新妻さんだこと~と、その程度の褒め言葉だったのに、あの女は気に入らない。

  社長バツイチを筆頭にウチには結婚で幸せになった女がいない。そんな思いもあるのでしょうし、アイツは箸さえまともに使えない。
  だけどアイツの敵意はそうしたものとは質が違った。
  社長は言った。
 「ひどいようなら言ってねって言いたいところですけれど、いまのウチがあるのはあの子の力。私一人じゃずるずるになるだけなんだし」
  それだけですか? 白状なさいよ社長さん、とは思いましたが、まさかそこまでは言えません。
 「いろいろあった人なのよ、元は舞台女優でね、ちょっと言えないようなひどいこともあったみたいで」
 「ええ、それなら少し」
 「あら聞いてる? 沙菜ちゃんから?」
  社長のそういうところが憎めないのですが、三十八歳にもなって子供だと思います。いまこの場で話の出所を名指ししてどうするのよって思ってしまう。
 「旦那は舞台の演出家なんですけど、ほとんど家にいないのよ。公演で飛び回っているでしょう」
  それも違った。旦那という男は、そこら中に女だらけのチャラチャラ野郎で、つまりは仮面の夫婦。そのぐらいのことは知っていました。
 「そんなこともあって性格が曲がっちゃったって本人もわかってる。少し大目に見てやって、お願いだから」
 「はい、ですから気にしないようにしてますので。でもストッキングの色までいちいち言われると癇に障るところもありますし、まあ・・」
  話すうちにムカついてくる。言わなければよかったとは思いましたが、社長らしくない彼女の物腰についつい私も弛んでしまった。

 「ウチを会社にしたことを後悔した時期があってね。私に経営なんて無理だもん。ちょうどその頃、浅里と出会って、一緒にやろうかってことになった」
 「そうらしいですね」
 「当時の私は離婚して精神的にもどん詰まり、浅里も似たようなものだった。お互い孤独にもがいていたの。それであるとき・・」
  と、彼女は上目使いに私を見つめて眉を上げて微笑みます。
 「気づいてるとは思うけど、私たちってそうだから、よけい言いにくくて、仕事のことでも任せっきりになっちゃうし」
  もういいわよ社長さん。アイツのことは横目に見ておき、あなたに免じて許してあげるとこのとき思った。
  社長と浅里はべたべたのビアンです。誰もが知っていて誰もが話題にしないこと。アイツは社長がほかの女を褒めると嫉妬する。それだけのことなんです。

  さらにビアンと言うならもう一組。奥山梨香(おくやま・りんか)、三十三歳。彼女は、かつては劇団にいたダンサーらしく、離婚するまではジャズダンスのインストラクターをやっていた。梨香もバツイチ。そしてその教え子に、まだ学生の坂田裕美(さかた・ゆみ)がいて、裕美はバイトでK2を覗いている。裕美はいま二十歳。芸大生でミュージカルダンサー志望。芸術畑だからか性にはオープン。バイトでヌードモデルを平気でやる子。梨香が性的ペットを呼び寄せたということです。

  さらにさらに、もう一人。女の愛憎どろどろのややこしいオフィスに、梅野はるかがやってきた。こちらは二十四歳、未婚で彼はいないと言いますが、性的に砕けた感じで、浅里が気にする素振りをしている。
  業績が伸びてくるとオフィスに女ばかりが増えていく。社長も浅里も梨香もビアンですから気になるわけです。
  どうでもいいや、かかわり合いになりたくない。嫌なアイツのことも社長が気にしてくれているとわかるとちょっとは気楽でいられそう。

  その日は金曜日。明日明後日と休み。定刻よりも少し早く社を出た私は、今日風邪で休んだ沙菜の部屋へと向かっていました。沙菜が休みだったからランチで私が一人になると社長は電話をくれたのです。
  私は新婚二年。主人は二つ歳上で、前の会社で社内恋愛。結婚して私が退いたということで。大企業を相手にするIT関連ベンチャーの企画開発セクションに所属して、技術のわかる営業として飛び回っている人ですから。
  昨日からまた出張でしばらくは戻って来ない。私たちの住まいは高円寺にあるマンションでしたが、主人がいないと独りきり。オフィスにいるより頭を抱えることがあったもので帰りたくない。沙菜は吉祥寺に住んでいて帰りに寄るにはちょうどよかった。
  十月中旬。今年は秋晴れが続かない。私は結婚でやめていましたが沙菜はバツイチ独身で子供なし。未婚に戻った彼女はサイクリング復活。急な雨で風邪をひいてしまったということで。

 「あらそう? 社長が気にしてくれてるんだ?」
  部屋を覗いてみると沙菜はもうすっかり元気。声が明るい。若い頃からスポーツで鍛えた体は強いもの。ちょっと熱っぽくて寝てはいても、さっと起きてお茶の支度をしてくれます。
 「だけどおもしろい会社だなって思うわよ。いわくつきの女ばかりでビアンの巣」
 「ほんとよね、あたしも含めて男には懲り懲りなんだし」
 「あら沙菜も?」
 「は? 違う違う、あたしはオトコよ、いまのクラブにいいのがいるの」
  サイクリングクラブのことです。
 「あそ? カッコいいんだ?」
 「むふふ」
 「あ、ばーかコノぉ、想像してんじゃないわよ。進んでる?」
 「こんど二人で走ろうって。いい人なんだわこれが」
 「キスとかは?」
 「まだ。そのうちそうなる」
 「はいはい。心配して来てバカくさくなってきた」
  オフィスにいて、まともなのは沙菜一人。学生の頃から仲良しでしたし、沙菜には幸せを見つけてほしいと思っていました。

  沙菜は言います。
 「加えて、はるかよね」
 「言える」
  梅野はるか。入社して一月ちょっと。こいつがまたルーズな感じで、浅里が手ぐすね引いて狙っている。
  沙菜は言った。
 「梨香と食事に行ったみたいよ」
 「そうなんだ? 浅里が狙ってるのに新たな火種か」
 「ところがそうでもないみたい。これがさあ、ふふふ」
  沙菜は呆れたというような面色で眉を上げてほくそ笑む。
 「どういうこと?」
 「ドMなんだって。行為そのものじゃなく、ほら、浅里ってちょっと怖いでしょ」
 「高圧的で」
 「そうそう。睨まれると怖いんだけど、お姉様って感じになって、まんざらでもないみたい。梨香はビアンだけどS女じゃないわ」
  そのとき私は、社長たる神白佳衣子はどうなのだろうと考えてしまいます。浅里はいかにもSっぽく、佳衣子はなすがままといったタイプ。
 「まさか社長もMってことはないでしょうね?」
 「あり得るわよそういうことも。だから浅里に頭が上がらないってこともある」
  私は眉を上げて沙菜を見た。
 「凄いところに誘ってくれたわよ、ふんっ」
  沙菜は他人事のように笑ってくれる。沙菜に誘われたからK2に入った私です。

  私は主人とのノーマルな日々に不満はなかった。平均的な女を生きて、結ばれて、子供がほしいと考えている。
  なのに私の周囲では、あっちもこっちも出戻り組で、ビアンべたべた、加えてMっぽい子が来ればどうなっていくのやら。
  さながら女子校の様相です。赤裸々が常。危険性の持ち主ばかりに囲まれてしまっている。危険なセックス。ゆえに危険『性』ということで。
  そして沙菜が話の向きを変えてきた。
 「こっちはともかく、そっちはどうなの? 相変わらず?」
  そのとき私は、首を横にちょっと振って、深いため息をついたと思う。

  私と主人が新居に選んだマンションのこと。高円寺にある四階建て全十七戸のコンパクトな物件で、戸建ての並ぶ低層住宅街とは路地を隔てた立地。築十年とそれほど古くはなかったし、チャコール煉瓦で造られた可愛いマンションだったのです。私はその305号。いまから一年半ほど前ですが、私の姉夫婦が暮らした家を譲ってもらった。姉の旦那はアメリカ人。向こうへ移住してしまったからです。
  都心型の設計で、一階にエントランスとビジタールームが造られて、その奥に住戸が二戸。そしてその階上にそれぞれ五戸ずつで全十七戸なんですが、その小さな空間にオフィスにいるより深刻な問題があったのです。
 「最悪だわ。旦那がいないと帰りたくない感じ」
 「あらま。いまでもゴミとか漁られる?」
 「どうなんだか。だけど捨てられなくて困るのよ」

  引っ越したとき、一階上の奥様によくしてもらった。勝呂(すぐろ)さん。最初のうちは遊びに行ったり来たりで交流はあったのですが、そうするうちにネトっとした眸の色が不気味に思えて距離を置きたくなったんです。明らかな性的誘惑。明らかなレズ視線。その頃の私は専業主婦で家にいて、それもあって沙菜に相談したところK2へ来ないかってことになる。
  よくしてあげたのに逃げたと思われ、それは憎しみに変わっていく。向こうは子供じゃありません。四十歳ぐらいでしょうか。何食わぬ顔で接していながら、ねちねち虐める。
  最初はゴミでした。一階裏にゴミ置き場がありますが、ゴミ袋が物色されて、捨てた私の下着が引っ張り出されてコンクリートフロアに晒されていた。主人との愛のために私を飾った赤いパンティ、ブラもあったし。
  まあいやらしい新妻だこと。夜な夜なあられもなく悶えてるみたいよ。なんて噂が回っていると別の人からそれとなく聞かされた。

  問題ありな、もう一人、福地(ふくち)さん。こちらはただただ不気味な女。同じ階の302号の住人ですが、彼女はいま三十歳であるらしく旦那に逃げられて取り残された女だとか。
  とにかく暗い。ひょろっとスリムで存在感がない感じ。たまに見かけてもにこりともせず、こちらが挨拶したって暗い眸でじっと見据えられ、黙ったままちょっと頭を下げて幽霊みたいに去って行く。いつも決まってミドル丈のワンピースを着込んでいて、ぼーっと陰が滲むように立っている。ワンレンの黒髪は肩ほどまでの長さですけど、もう少し長くしたらまさしく映画で見たお化けのよう。昼間でも廊下はそれほど明るくない。ばったりかち合うと、ヒッと喉に悲鳴がこもるほどのムードなのです。
  ただ、この福地さんという人は、私に嫌がらせをする勝呂さんとは犬猿の仲らしい。そういう意味では、敵の敵は味方と言えなくもないのですが。

  小さなマンションほど人間関係は微妙なもの。面倒にはかかわらないのが都会の生き方ですからね、なんとなく私だけが孤立してしまったような気にもなり、と言ってそう簡単に出るわけにもいかない。賃貸にしておけばよかったと思っても、若干三十歳の主人にすれば、その歳で持ち家ですから会社にいたって鼻も高いはずですし。
  沙菜の部屋でさんざん時間をのばしにのばし、しょうがないから帰ることにしたのですが、戻ってみるとあのお化けにでっくわす。
  四階建てでもエレベーターはちゃんとあり、降りたところは三階フロア。エレベーターの向こうに301号、エレベーターを挟んで部屋が住戸が四つ並ぶ造りですが、まるで私の帰りを待っていたように303号のドアへのアルコーブから、滲むように現れたワインレッドのワンピース。そのとき時刻は十一時で、もはや夜中。
  ゾッとして寒気がはしった私です。

  つっけんどんに彼女は言います。
 「あの女、またいじってた」
 「えっえっ?」
  挨拶もなくいきなり何だよ、とは思ったのですが。
 「ゴミよ、おたくの」
 「ああ、勝呂さんですよね」
 「許せない、陰湿な女だわ」
  あなただって充分湿ってますけどね、とは思いましたが、いままで声をかけてくれたことなんてありません。彼女もきっと何かされた。それで怒っているのだろうと思ったのです。
  そしたら彼女、私をじっと見据えて言う。
 「呪ってみよう。おもしろいことになる」
 「呪う・・?」

  おいおい何だよこのマンション。ホラーじゃんと思ったとたん、こんどこそ寒気がした私です。

getsumen520

人として死す(終話)


  そのとき早苗はダフネと二人で食品プラントを視察していた。
  地下にひろがるその場所は、ファームというより、まさしく食の生産工場。食用ワーム、食用ウジ、食用ゴキブリ、カエルやネズミまで繁殖力旺盛な動物性蛋白源を育て、水耕栽培の野菜、茸の類までが整然と並ぶ最先端の育成施設。
  そしてそれらの餌や肥料に、処理された者たちの肉体が再利用されている。  今後ますますこうしたプラントは拡張されていくだろう。五百万人の命を支える食のため、そうしなければ維持できない。人一人が必要とする酸素や水も数百人数千人ともなれば膨大な量となる。ムーンシップの旅は地獄への旅立ち。そのほんの一部がいまこうして形となった。

  早苗は事実を公表し、そんな早苗を守ったのはダフネであった。イゾルデもそうだ。生殖実験で産まれた女児が十五歳になったとき、イゾルデにとっても残酷な実行のときが来る。片やグループにバージンのまま凍結精子を植えて妊娠させ、片やグループには、月で生まれた男児の精子を植えていく。凍結精子は原種の人類から採取したもの。月で生まれ育った男児の精子は第二世代のものであり、遺伝子の変異を監視していかなければならないからだ。
  早苗とイゾルデ、二人の女医を、ダフネは何としても守ろうとする。地球の意思であることよりも、人として、二人の苦悩はよくわかる。

 「隔世の感だわ」
  事故に備えて区画ごとに気密されるプラントを見渡して早苗が言うと、五十代となって建設現場をはずされ、軽労働に転用された女が笑う。
 「これでも三十万人規模なんですよ。まだまだこれから」
  月へと送られた最初の頃からしばらくは、食料といえば地球からの補充であって、レトルト食品、缶詰、乾燥食品、そして栄養剤しかなかったものだ。月面地下にこれほどの牧場と農場ができるなどとは想像すらしていない。
 「それから先生、一言いいですか?」
 「もちろんいいわよ、どうぞ」
 「みんなわかってますからね、ご自分を責めないで」
 「ありがとう。どうしても地球のモラルから離れられないのよ。私は死神、そう思ってしまうんです」
  そばにいてダフネが言う。
 「そうじゃない。そのために送られた私の責務を背負ってくださる。早苗さんを尊敬するわ、なんて強い人なのかって」
  表面上は平静でいられても心はもがき苦しんでいる。早苗やイゾルデの苦悩をわからない者はいない。消されていく同志に手を合わせながら、月面の皆は痛みを共有して生きていた。

  しかし早苗もイゾルデも独りのときには泣いてしまう。泣き腫らした眸はごまかせない。それだけに皆は情を寄せる。人体の再利用に造反する者などいなかったし、自分もやがてはそうなると覚悟ができて、むしろさばさば生きていける。
  地球のそれとは違うムーンシップに生きる人類の文明が、そうしてつくられていくのだろう。

  核廃棄船の帰還まで、残り四年と余月。廃棄船はすでに動力部の故障でUターン。太陽の引力に引き戻されて月への進路をたどっていた。そしてそれは地球上の観測施設でももちろん探知されていて、地球や月に近づくようなら迎撃せよと命じられていたのである。
  反旗を翻すのはそのときだ。地球の意思に逆らえば軍が送られ、デトレフ部隊は戦わなければならなくなる。送り込まれたスパイたちも動き出す。月面上で内乱となるのは明白かと思われた。
 「とりわけ残り一年をきってからの人員補充に気をつけなければならないだろう。輸送船を偽った軍船であることが考えられるからね」
  デトレフのそんな言葉にうなずきながら海老沢は言った。
 「そのとき民衆がどちらにつくかだ。それで決めてもいい気がする」
  月面車ムーンカーゴにデトレフと海老沢の二人きり。
  デトレフは言う。
 「民衆ね。月でその言葉を使おうとは思わなかった。月のことは月に任せろでどこまで押し通せるか。民衆と言うならそれも正しい選択さ。皆が存続を望むなら我々が消えるだけ。じきに六十五だぜ。もはや余生よ」
  六十二歳となった海老沢はちょっと苦笑してうなずいた。判断の基準は地球にはない。月面の皆の想い。最後の最後で二人には迷いがあった。実行すれば人類は宇宙の塵となって消えていく。


 「マリンバもすっかりお婆ちゃんね」
 「そうですね、タイパンのクイーンのままなら私は化け物になっていた。マリンバとなれた幸せな人生でした」
 「何を言ってるの、マリンバはまだまだよ」
 「ほんとにそう思います。じきに六十七なんですよ。この歳になって体を求められる幸せなんてあり得ない。バートも様もそうですし、ボスだって抱いてくださる。
とんだマゾ婆さんです」
  スキンヘッド。陰毛さえも生涯拒んだマリンバの人生。
  そのとき留美も五十歳となっていて、病の床に伏せっていた。
  留美は懐かしむように言う。
 「ふふふ、そうかも知れない。私もいい人生だったわよ。LOWER社会に堕とされて、レイプまたレイプの日々。だけどそんな中から新しい私が生まれ、よくよく考えてみるとそれは牝にとっての至上の幸福。仲間たちに囲まれて、可哀想なマリンバを楽しんで。それまでの私のままならつまらない人生だったと思うのよ。文明は人の前にレールを敷くわ。私は私のレールに生きてきた」
 「縁起でもないですボス、生きてもらわなければ困ります」
 「どうかな。そろそろいいわって思えちゃう。あなたが殺した亮のところへ行きたいなってね。月は月でひどいことになってるみたい」
 「そうなんですか?」
 「よくはわからないけど地球を相手に戦争みたいよ。これ以上の無理難題は受け付けない。月のことは月に任せろ。月の民衆は反旗を翻した」

  そしてそれから半年経った冬のある日。
  地球のジョエルからの無線に、デトレフは声も発せず聞いている。
  留美が逝った。五十一歳。子宮がん。葬ってしまいたいLOWERたちに定期検診などというものはなく、不調を訴えたときには手遅れだった。
  デトレフは言った。
 「こちらは多少のトラブルはあったものの、民衆は我らについた。地球の横暴が許せない。酷使するだけ酷使して期限が過ぎれば処理される。囚人の女たちには子を産ませ、さらに産ませ、さらに産ませ、その子らにも生殖実験。論理的正論などクソくらえ。ふざけるな。人は尊厳をもって死んでいくべき。皆の想いは共通していた」
  ジョエルは言う。
 「いよいよ決行?」
 「そういうことだ。月面上のクラックは径およそ四十キロ、深さ二百メートルまでボーリングし、あとは核を仕掛けるだけ。まずは宇宙ステーションを攻撃する。そのタイミングでおまえたち同志が決起する。混乱した地球は月にかまっていられない。その間に核を仕掛け、時限装置のスイッチをオンとするだけ」
 「了解しました。やってやろうじゃありませんか」
 「宇宙ステーションの破壊が合図だ」
 「幸運を。これまでありがとうございました。ご一緒できて光栄です」
 「こちらこそ。さようならジョエル」

  超大型輸送船よりも巨大な核兵器廃棄船が、そのグレーの船体をぐいぐい月面へと近づけていた。人類最大の汚点である核兵器。それも戦略核クラスの水爆と原子爆弾を満載している。
  月の意思を図りかねた地球からの大型軍船が向かっている。
  デトレフは号令した。
 「レーザー砲を準備せよ、最初のターゲットは軍船、続いて宇宙ステーション。さらに続いて地球上の軍本部を攻撃する」
 「了解しました」
  このときデトレフは齢七十になろうとした。老体に鞭打った最期の反抗。それは部下たちも同様で、六十代、若くても五十代となっている。
  大型軍船には二千名の兵が乗り、もちろん高エネルギーレーザー砲を搭載していたのだが、戦艦搭載型であるためにレーザー砲の有効射程は三十万キロ。対して地上配備型の月面砲のそれは五十万キロ。パワーが違う。
 「一号砲、放て!」
  オレンジ色というより七色に眩く輝く光束が天空に浮く地球めがけて放射された。ターゲットは軍船。二千名の悲鳴が闇の空間に吸われて消え、続いて宇宙ステーション。地球の静止軌道上に浮く宇宙ステーションは巨大であり、そこには三万人を超える者たちが駐留している。
  デトレフは感情のない鬼となる。
 「二号砲だ、放て!」
  光となった殺人者が天空へと射出された。宇宙ステーションはあまりに巨大で弾薬庫も兼ねているため、青い地球のすぐそばで赤く輝く光の球となって現れる。
  続いて攻撃。かつてのアメリカ大陸、水没をまぬがれるテキサスの丘陵地帯に設けられた国連正規軍本部は、すなわち国連機能の集束体。
 「一号二号、同時に放て!」

  核廃棄船は、その悪魔的な船体にオレンジ色の逆噴射をかけ、静かに月面裏へと降りて行く。地球を攻撃したデトレフ部隊は即座に軍船で向かい、核爆弾を回収しては起爆装置をセット。月面地上のクラックに沿って準備されたボーリングホールへと仕掛けていく。
  最期の手段として軍船に水爆三発を置いたまま、あるだけの核をすべて用いる。径四十キロ、深さ二百メートル以上をブロックとして吹き飛ばす。それだけでも時間のかかる爆破準備。完了するまで数か月はかかってしまう。デトレフは最期の力を振り絞り、爆薬セットを見届けて倒れていった。
  ホスピタルモジュールのベッドの上で愛した早苗に看取られて眸を閉じる。
  このときダフネそのほか内乱で敵対した者たちは、かつて埋められた輸送船の居住モジュールに監禁されていたのだった。その数、およそ千名。
  早苗は眠るデトレフにやさしく言った。
 「さようならデトレフ、先に行ってて、私も後を追うからね。愛してる。あなたの子供が欲しかった」

  ムーンカフェ。
  いまではジョゼットカフェの面影はなく、二人はムーンアイへと逃れるように手を取り合って、テーブル越しに見つめ合っていたのだった。
  海老沢六十六歳、ジョゼット六十六歳。知り合っておよそ三十年の人生は夢のようだと話していた。この段階でムーンシップの旅立ちまで、さらに三十年を残している。
  海老沢は言った。
 「ムーンシップは完成しない。リーダーとしては心残りではあるがね」
 「これでいいのよ。やるべきことはすべてやったわ。あのエイリアンも人類を認めてくれるでしょう。どこかで道を誤った生命種に幕を引く。どうなるかは神のみぞ知るだわよ」
  そのとき早苗が肩を落としてやってくる。早苗に涙はなかった。
 「デトレフが逝ったわ。最期まで手を握り、眠るように死んでいった」
 「そうか。彼こそ偉大な男だったよ」
  海老沢が肩を抱くと、そのとき早苗は涙を溜めた。
 「行くの?」
 「うむ。そろそろ出ようかと話してたところ。早苗もおいで」
 「ううん、私はいい。デトレフといる。イゾルデも可哀想だし、みんなといる」

  核爆発が起きても月には空気がないから衝撃波は伝わらない。月面都市そのものを破壊する訳ではないから、まだしばらく生きてはいける。総人口およそ三十万人。それが人類最期の大地となる。
  海老沢と早苗、そしてジョゼットと早苗。それぞれが抱き合ってキスをして、揃って泣いて、別れのとき。海老沢とジョゼットはムーンカーゴに二人で乗り込み、ムーンアイを後にした。中性子星に遭遇する確率99%に変化はなかった。
  そのとき月面都市は半月の昼の側。ムーンカーゴに二人で乗り込み、果てのないドライブへと旅立った。月面には道路がかなり整備され、ムーンカーゴのパワーダウンの一瞬まで二人は愛の時間を楽しむことになる。
  核爆発は、いまから十時間後に迫っていて、二人はそれを見届けたい。岩盤ごと吹き飛ばされるさまを見届けられる月の丘の上に車を停めた。

 「月で孤独だった俺を救ってくれたのは君だった。出会えたことに感謝するよ」
 「私だって、それはそう。セックスフリーなんて思ってもみなかったから戸惑ったけど、HIGHLYの鎧を捨てたとき私は淫婦だったと自覚した。デトレフにも抱かれたし、クリフを泣かせて楽しんだ。女に生まれたことに感謝する。愛してるわ」 ジョゼットはそっと男の肩に寄り添って、胸に頬をあずけたまま顔を上げてキスを交わす。
  心に届く声がしたのはそんなとき。ジョゼットにしか聞こえないエイリアンの言葉であった。

 『地球人は滅びない。我らのもとで今度こそ穏やかに生きていく』

  ジョゼットは、その声が聞こえたことを海老沢に告げようとはしなかった。
 「どうしてるかなぁ早苗」
  かすかにささやき、ふたたび男の胸に抱かれていく。

 「これで楽になれるわ」
 「そうとも言えるけど、何のための妊娠だったのか何のための人生だったのか、私は彼女たちに顔向けできない」
 「それを言うなら私だって。多くの者たちに何のための死を与えたのか。私たちはいずれにせよ悪魔です」
  早苗の部屋で二人は裸身をからめていた。残り数時間、残り数分。月では音は地中を伝わり地鳴りとなって襲ってくる。激震が襲うことも予想できた。
  そのとき二人は性の悦びの中にいた。人生最後の快楽の中にいて、無我夢中で死んでいきたいと考えていた。

  地球上ではジョエル以下わずかな反乱軍が正規軍に包囲され、最期の戦いを挑んでいた。ところがだ。絶体絶命であったにもかかわらず、敵兵が退いていく。月の異変を感知したということか。ジョエルは空を見上げたが、あいにく今日は夜の月。夕刻では月はなかった。
 「終わったのか、どうなのか」
  問いかけても答えはない。

  破滅への核爆発は思惑通りに岩盤を吹き飛ばし、巨大なブロックとして地球滅亡の使者を宇宙空間へと放っていた。宇宙空間へ出た岩盤は地球の引力に捉えられ、大小合わせた隕石群となって降り注ぐ。
  ムーンカーゴごと振り回されるような地震が起き、そのフロントウインドウに浮き上がる岩盤を目にしたとき、海老沢はジョゼットをしっかり抱いて眸を閉じた。
  
  激震は月面都市に恐ろしい地鳴りを伝え、早苗とイゾルデは全裸で抱き合ったままベッドから転がり落ちていた。
 「やったわ、ついにおしまいよ」
 「そうならいいけど。結末は神のみぞ知るだわ」
 「余生よね、ほんとに余生。月面都市の機能が失われるまでしっかり生きていたいもの」
 「地球はパニックですよね?」
 「当然の報いです。潔く終焉を受け入れることができていれば幸せな七十年となったはずなのに。私たちに残されたわずかな時間、私たちは最高に幸せよ」
  ベッドから転げ落ち、そのままフロアでもつれ合って、貪り合った。


  月面の凹凸をものともしないストロークの長いサスペンションを持つ
 ムーンカーゴが横倒しになるのではないかと思えるほどの激震。
  隣りのジョゼットを抱き締めながら、そのときの私は一瞬意識を失った
 ように感じていたのかも知れなかった。

  ほんのひととき断ち切られた意識が戻りかけたとき、ムーンカーゴの
 フロントウインドウに想像を超えた巨大な岩盤が浮遊していて、
  私は地球の最期を確信しながら、どういうわけか、突如として香る
 ジョゼットの女の匂いに、くらくらする性欲を覚えていたのだ。

  人生の最期に発する女の匂い。私はジョゼットを見つめ、涙に揺れる
 ジョゼットの二つの瞳が私を見つめる。
  この人に出会えた人生がいま終わる。そう思うと不思議な達成感に
 支配され、ジョゼットとともに逝ける至上の幸福に、ペニスは狂った
 ように勃起をはじめた。死が二人を分かつと言うが、私たちは分かつ
 ことなく死んでいく。愛しています女神様。女神の発する人生最後の
 牝の匂いに私は正常ではいられない。

  同時に私は父の面影をも追いかけた。地球外知的生命を探し続け、
  狂人と言われようが、どうだろうが、命をかけた父親が誇らしく思え、
  エイリアンは確かにいたよと墓前で言ってやりたい想いがこみ上げる。
  父は正しかった。さすが父だと唸るような気分になる。

  感情は失せていた。意識が白く、それなのにジョゼットの匂いと父の
 面影だけがリアルなものとして迫ってきている。
  月面でのカーセックス。まあそんなところだろうが、人生の最期を
 体をつなげて迎えていく、それはきっと私と女神の結婚式だったの
 だろう。総身震えて射精をし、総身震えてジョゼットは受け取って、
  それから二人で、黒い空に浮遊して去って行くいくつもの巨大な
 岩盤を見送った。
  月を揺るがす核爆発は、あるいは月の軌道を変えてしまい、月その
 ものが地球に落下するかも知れない。そうなれば月と地球は最期に
 寄り添い消えていける。

  しかし地球の最期をこの目で見たいとは思わなかった。青い星が
 死んでいくのは耐えられない。宇宙ステーションという中継点が壊さ
 れて、地球と月は長く寄り添った蜜月を脱して分断された。
  月面都市の余命も、おそらく数か月。地球の滅亡はさらに早くやって
 きて、人類は宇宙の塵となって消えていく。

  けれどそれでも私はこのとき、人類は心から悔い改め、一縷の望みに
 かけて欲しいという想いがなかったわけではない。中性子星をスルー
 できる確率は1%残されている。

  地球に言ってやりたくなった。月の怒りを受け取るがいい!

  私はジョゼットという女神と微笑みを交わしつつ、親友の形見となった
 軍用銃をムーンカーゴのフロントウインドウに向けておき、いよいよ
 最期のキスの途中で引き金を引いていた。

  六十六年の幸せな人生だった。


 TIMES UP 完

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